「さんざめく港街」Part1
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昔。彼の村に水神が現れ、加護の引き換えに信仰と誓約を求めた。

曰く、村に課した掟を守れ。
水神と神社を守れ。
神と掟、許可なき者に晒すことを禁ず。

十二の日をかけて村人と水神は話し合い、十三の日に、水神は神社の方へと姿を消したという。

「██村調査報告書 "██村の伝承について"」より

 
 

八月某日


一日目
 長いトンネルを抜けると、そこは明らかに"非日常"の世界だった。
 
 ガタンガタンと、緩やかな規則をなぞりながら電車が揺れる。
 十年より遠い昔に見た海の色が、脳裏と瞼に鮮やかに広がった。
 光る水面、空気と水を隔てる水平線。普段の生活ではおおよそ見られない自然の景色に、気分が上がらない内地住まいはそうそういない。
 そのまま切り取って残したくなるような一面の蒼と、周囲を彩る緑に、俺は思わず感嘆のため息を漏らす。
 
 「綺麗な海だな」思わず零れ落ちた俺の声を拾い上げ、すぐ前に座る桂木かつらぎがこちらを見た。
 
「感動に水を差すようで申し訳ありませんが、ここからしばらくずっと水平線です。十五分も見れば飽きが来ますよ。」
「海に来るのは久々だから楽しくてな。とても綺麗だ。人とコンクリートしか見えない、都会の汚された海じゃこうはいかない。」
「そう喜んでいただけると、お誘いした価値があるというものです。」
「これから行くの、お前の実家なんだろう?滞在期間は四日…だったか。楽しみだ。」
「漁師なので、会えるかどうかはわかりませんが…。町に行ってからの準備は整えてあります。向こうに着いたら、ゆっくりと休憩なり散策なりしてください。」
「すまないな。」
 

 財団なんて場所に勤めている弊害は多くあるが、その一つは「まともに休日が取れる方が稀」ということだろうか。───俺たちフィールドエージェントのような、前線組は特に。

 正直、今回突然「海に行こう」と誘われた時だって、どうせ休暇届が通らないと思っていた。
 それほどに突然の誘いだったし、ぶら下がった休日を綺麗に諦められるくらいには、財団はブラックだ。
 仕事が多い。休んでいる暇も、休ませている暇もない。
 
 どんな手練手管を使ったのか───余暇の届け出は、案外あっさりと通ってしまった訳だが。
 

 ただ、俺は部下の仕事を素直に認められないほど性根の曲がった上司じゃない。
 素直に礼を言えば、桂木が謙遜したように首を横に振った。
 
飯沼いいぬまが大方の仕事をやってくれたので、私の負担など微々たるものです。…感謝をしようにも、今は寝てしまっていますが。」
「綺麗な海が側にあるのに、見ないなんて勿体ない奴だ。…お前に寄りかかってて邪魔だろ、起こしてやれ。」
「大して重くはないので大丈夫です。四宮しのみやさんのご心配には及びません。」
「過ぎた受容は毒にしかならんぞ。というか起こせ。見てるこっちが肩を痛めそうだ。」
「前の電車でもろくに休めていなかったようですから、もう少し寝させてやった方が…。」
「もしかしてこいつ、遠足の前日にはしゃいで眠れなくなるタイプか?」
 

 茶化して言ってはみたものの、きっと「まともに休めていない」のは本当なのだろう。
 この道程に関し、俺は一切の関与をしていない。いつの間にか電車の予約も宿の手配も整っていて、俺はただ促されるまま、気づけば朝の快速に乗っていた。
 可愛い部下たちの誘いとあらば、上司として行かぬ手はない。───サプライズの小旅行にしては、少々突然が過ぎる気もするが。
 

「楽しみだな、お前の故郷。」
「もう何年も帰ってやれていないのですが…。」
「だからこそ、だ。生きて元気なお前の顔見れば、親御さんも喜ぶだろ。」
 
 ぐだぐだと話す二人と一人を乗せて、電車は進む。
 緩やかに穏やかに、非日常の世界へと向かっていく。
  

 … … …

 
 駅から十五分ほど進んだところで、町の看板と常夜燈に出迎えられた。
 石が積まれた、重厚な堤防が長く続き、その脇にはやや時代錯誤とも取れる建物が連なる。「海に作られた」よりか「海に添えられた」と言った方が正しいような街並みだ。
 潮が乗った風がまとわりついてくるような感覚を覚えながら、俺は桂木の後を追い、海沿いの道を進む。
 

 海、空、木、町、人。
 地と人と物が混じり合い、一体となって調和し、さかいが融解する。

 浮き足立つよりか、足元がぐらつく。
 

「俺の記憶が正しければ、あと五分ほどで着くはずです。」
「そうか。」

 中途半端な時間だからか、海に船はあまり浮いていない。
 個人がのんびりと釣りなどするには、きっと絶好のスポットだろう。あいにく俺は釣りの道具を持っていないし、知識があるだけで釣りなんてしたこともないが。
 
 久々に見た海の色は、透き通る水色というより、呑まれるような青だった。静かに揺蕩う生命の源は、回帰の安心より先に、原始の恐怖を思い起こさせる。
 
 せっかくだから、写真でも撮ろうか。スマホを取り出し、カメラアプリを起動する。
 海辺はじっとりと暑い。スマホは耐水性ではあるし、少しぐらい水に触れて涼んでもいいだろう。───指先を水面に近づけた途端、肩を掴まれて後ろに引っ張られた。

「四宮さん!」
「気配を殺して近づくな!───あっ」

 ぼちゃん、と。
 思ったよりも重たい音が立ち、水にやわらかく波紋が浮かんだ。

「…飯沼?」
「あ、すみません。」
「すみませんじゃないだろ。どうするんだ俺のスマホ。」
「こんな時ですから、電子機器に縛られず自由に自然を楽しむと言うのは。」
「自然から帰ったらどうするんだ。」
「…買いに行くときは、一言声かけてくだされば付き合います。」

 手を滑り、綺麗な螺旋を描いて海に落下したスマホは、どう足掻いても俺の元に戻ってきそうにはなかった。
 「スマホをおじゃんにしたことは故意ではないですし、素直に謝ります。ただ、それ以上に伝えたいことがあっただけで…。」飯沼が俺から目を逸らす。

「現代人の必需品とも言える?道具を?しかも他人の?潰しておいてそれ以上に重要なことってなんだ。」
「いえ、ここら辺の水は見た目より深いので、落ちたら大変だと。」
「お前には、俺が写真撮ってる最中で海に落ちるような間抜けに見えてるのか。」
「いえいえ。…というか運動能力云々の前に、海の水に触れたら落ちるので。」
「そんなわけあるか。」
「話は追々聞けますから。…この海、泳ぎに慣れた人でも、足を滑らせれば二度と浮いては来ません。四宮さん、泳げます?」
「人並み…いや、わからん。あまり慣れてない。」
「なら、一度落ちたら───いえ、一度水に触れたら、二度と町の日は拝めないと思ってください。」
「そんなにか。」
「そんなにです。」

 ごまかすように視線をうろつかせていた飯沼が、ようやく俺と目を合わせた。
 普段は浮ついた言動が多いが、こんな時に茶化した嘘を言うような奴ではない。真剣な視線と痛む肩にのしかかられ、俺は「わかった。」となんとか頷いた。
 このまま見続けていたら、無理やりにも引きずられ離されかねない勢いだ。
 少し名残惜しさを感じつつ、俺は陸へと足を向ける。
 
「お分かりいただけたようでなによりです。」

 では、進みましょうか。先程とは一転、軽やかに笑った飯沼が道を歩いていく。
 黒々と広がる波間が、風もないのにたぷん、と揺れた。
  

 … … …

 
 押された記憶のないチャイムの音が、頭のどこかに響いた。
 
「久しぶり、兄さん!」

 家の奥から現れた青年が、こちらを見るやいなや、ぱあっと顔を輝かせる。
 ひどく楽しげな青年とは対照的に、桂木は少しだけ曇りがかった顔をした。

「…伝えておいた、仕事の先輩と友人だ。」
「こんにちは、初めまして。お兄さんの友人です。」
「まあまあ、立ち話も何ですから、どうぞ中に入ってください。ご覧の通り小さな町で、大層なもてなしもできませんが。」
「いえ、お構いなく。じゃ、上がらせてもらいましょうか。」
「そうだな。」

 
 … … …
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「───なるほど、この町の歴史に興味を持って…。雑誌記者の方なのですね。」

 円座わろうだに腰を下ろし、宗乃そうのと名乗った青年が緩やかに笑う。
 

 外観から大体想像がついていたが、中身も大方絵に描いたような"昔ながらの家"といった趣だった。
 開け放された縁側からは海が覗き、吊るされた風鈴がチリンと明るい音を立てる。誇らしげに飾られた魚拓を眺めていたら、桂木がそっと魚の種類を耳打ちした。
 海のすぐ側というわけではないが、土地が低い。津波などあればすぐに避難すべき場所だろう。───常々脱出経路を考えてしまうのは、職業病の一環だ。
 出された麦茶をありがたく受け取りつつ、側に置かれたうちわを扇ぐ。
 

「ここには研究や取材のため毎年、たくさんの方々がいらっしゃいます。特にこの時期は。」
「この時期?…夏に何か、特別な行事でも?」
「ええ。毎年八月に、水神様に感謝と豊漁の祈りを捧げる祭りを行うのです。民俗学的にも興味深いと、前に来た学者さんが言っていました。私たち町人としては、当たり前に行う行事なのですが。」
 
 土着信仰は、研究的にも興味深い分野だ。民俗学は専門外だが、ここまで乗りかかった船に入らない手はない。
 「一つ質問が。」内心でほくそ笑んでいた俺の横で、ずっと黙って聞いていた飯沼が手を上げた。
 
「はい。なんでしょうか。」
「記者として、この祭りは大変興味深くはあります。しかし、これは町の方々の神聖な儀式でしょう?」
 
 余所者が一緒にいてもいいのですか、と。
 「あ」という顔で宗乃さんが一瞬固まり、拒絶するような困惑するような顔で目線を彷徨わせる。
 うっすらと凍りついた視線に違和感を感じて目を細めた時、玄関の方から音がした。
 
 「───ああ、きっと母ですね。」言及を振り払うように、宗乃さんが音の方へ目を向ける。
 
「来訪は伝えてあります、ご安心を。大丈夫兄さん。母さんも父さんも、決して怒ってなんていなかったから。」
「…」
「マイも喜ぶよ。兄さんのことを知らないとはいえ、話はずっと聞いていたのだから。」

 襖が横に滑る。
 顔を出したのは、気の良さそうな中年女性と、五歳くらいの女の子だった。

「宗真、帰ってきたなら一言連絡くれればいいのに。」
「…お久しぶりです。」
「えらく他人行儀ねえ。敬語なんて使わなくていいのよ。───あら。」

 パタパタと動きつつ口も動かしていた女性が、ようやくこちらを向いた。
 「アナタたちが、宗真の言っていた職場の人?」口調こそ明るいが、その目はこちらを値踏みするようにじっとりと絡みついてくる。

「改めまして、飯沼です。それと」
「四宮です。」
「雑誌の記者をしているんだって。」
「あらそう。」

 明らかに興味がない、といった表情の母親に、飯沼が完璧な造形かたちの笑顔を浮かべた。

「この町のことを記事にして、ここの素晴らしい歴史と文化をたくさんの人に知って欲しいと思っています。」
「そう。頑張ってくださいね。」
「住まいは宿を借りますし、町の方々にご迷惑はかけません。プライバシーも守ります。ご安心ください。」

 出来合いの笑顔を一切崩さぬまま、飯沼が脚本をなぞるように口を回す。
 「母さん、お客様に失礼だよ。」嫌そうな顔をする母親を、宗乃さんがたしなめる。
 
 違う。
 そこじゃない。
 
 俺は少しだけ眼鏡をずらすと、二人の奥、襖の向こう側に目を凝らした。
 

「…マイ?」
 

 びくりと、襖の奥で人影が揺れる。
 「ああそうだ」という顔をして、母親がパンパンと手を叩いた。
 
「真依、お兄ちゃんとお客様にご挨拶しなさい。」
 
 母親に急かされて、少女が襖の影からおずおずと顔を出した。
 「こんにちは。」少しばかり舌ったらずな声で、ぺこりと頭を下げる。
 顔を上げると、二つに結んだ黒髪がさらりと揺れた。

「こちらのお嬢さんは?」
「妹の真依マイです。三兄妹なんですよ、うち。」
 

 いもうと。
 

 過去の記憶をひっくり返せど、桂木から一切そのような話を聞いたことがない。
 どういう事だ、という思いを込めて桂木を睨むと、困惑したような、納得したような顔で、宗乃さんとを見比べている。

「宗乃、これは」
「兄さんが出て行ってすぐ、真依がいるってわかって。少し病弱なんだけど、可愛い妹だよ。」

 マイは来年、小学校に入学するんです。
 そう微笑む宗乃さんは、どこからどう見たって「いい兄」の典型だ。

「おいおい桂木、お前、妹がいたなんて一言も言ってなかっただろう?」
「いたよう…ですね。家族とは長らくまともに連絡が取れていませんでしたから、知らないことがあっても当然です。」
「それにしたって、家族の重要事項を見落としているのはおかしくないか?真面目なお前のことだ。会いに行くとまではやらずとも、せめて祝いの品一つ言葉一つ、贈ってやったりしたんじゃないか。」
「記憶にありません。財団に来てすぐは慌ただしかったので、見落としていてもおかしくはないかと。」
「本当か…?」

 言われてみれば、桂木に似ていなくもない…のだろうか。
 宗乃さんは見た目として親族だとわかるが、マイとかいうあの少女は、上手く血の繋がりが見えない。
 目に見えた共通点といえば、足らぬ口の代わりに顕著に感情を示す、あの紫紺の目の色ぐらいだ。

「じゃあ、母さんちょっと用事があるから。後はよろしくね宗乃。」
「わかったよ。行ってらっしゃい。」

 襖が横に滑る。
 少し困ったように微笑んだ宗乃さんの横では、飯沼が手持ち無沙汰になっていた少女と一緒に遊んでいた。
 
「こんにちはマイちゃん。」
「お兄さん、おなまえは?」
「飯沼。マイちゃんの一番大きいお兄さんのお友達だよ。」
「いーぬま?」
「そう。俺は飯沼結城。呼びにくかったらゆうきお兄さんでいいよ。」
「ゆーきおにいさん!」
「よしよし。」

 よくできましたという顔で、飯沼が少女の頭を撫でる。
 その光景を微笑ましげに眺めていた宗乃さんが、「そういえば」と俺に話しかけてきた。

「四宮さん、と言われましたか。ここの神社にはもう行かれましたか?」
「神社?…町についてからこの家にまっすぐ来たので。まだ見ていません。」
「あそこの神主は、この町の古い伝承に詳しいのです。ここから少しかかりますが、一度足を運んでみてはいかがですか。」
「ありがとうございます。」
「残念ながら、私もこれから所用があるのです。───兄さん、神社の場所覚えてる?」
「覚えてないな。」
「じゃあ地図でも書くよ。細かいところは、町の人に聞けばわかるから。」
 
 「もう行っちゃうの?」少女から声がかかる。
 名残惜しげに俯いた少女を見る桂木の目が、明らかな当惑の色を滲ませていた事を、俺は見逃さなかった。

 
 … … …
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 まず神社。
 それから、宿へのチェックイン。
 
「───なんだろう?何やってるんだ馬鹿が。」
「四宮さん四宮さん、見てください!ワカメでかい!」
「急いで行こうと言ったのはお前だから、さっさと荷物まとめて出てきたんだぞ。何遊んでんだ馬鹿野郎。」
「桂木ー、乾物好きな職員の話って聞いたことあるか?」
「いや、ないな…」
「な──に遊んでる!!!乗るな桂木!呑気に土産物選ぶな飯沼!」
「四宮さんって干物お好きでしたっけ。」
「魚の煎餅なら食う!」
 
 数分前、時間が足りないと妙に焦った様子だったのはどこのどいつだろうか。───呑気に土産なんぞ選んでいる飯沼こいつだ。

 閉塞的な雰囲気すらあるこの町で、まさか土産物屋があると思わなかった。───客に優しくないが。
 おそらく『もしかしたら来るかもしれない観光客と、町の人用』に作られた店なのだろう。やる気なさげな中年女性の気怠い視線を感じつつ、三人で狭い店内を占拠している。
 
 「おい飯沼、"探したいものがある"ってまさかこれか?」桂木家を出た後に呟いていた言葉を思い返しながら言うと、「まさか」と飯沼がひらひら手を振った。

「ただ、せっかく休暇取れましたし、お土産あった方が嬉しいじゃないですか。」
「休日とはいえ羽目を外しすぎだ。…おい桂木、こいつの暴走止めてやれ。」
「あっ見てください四宮さん!」

 形だけでも「部下を嗜める上司」の体を取った俺の涙ぐましい努力は、飯沼のはしゃいだ声で遮られた。
 
 やめろ。俺はさっさと神社に行きたい。
 貴重な余暇を存分に使って、じっくりこの町の研究をしたい。
 
 「絶妙に抜けてません?これ!」飯沼が指差したのは、キーホルダーがたくさん入ったカゴだった。
 「……………魚?」マジックで描かれたような雑な丸い目、陳腐な造形、おおよそ自然界には見られなさそうな発色。
 飯沼は「絶妙に」と呼称したが、俺から見れば普通に"ない"デザインだ。
 笑いを隠さない飯沼が、他のキーホルダーのカゴも眺める。

「誰が買うんでしょうかこんなの。」
「普通に考えていないだろ。」
「ちょっとないですよね。あ、さりげなく色違いとかあるんだ。赤と青と黄色…信号機?」
「はっ。こんなダサいもの記念の土産に買う奴がいたら、ぜひ顔を拝んでみたいものだな。」

「え」

 明らかに困惑したような、驚いたような、どこか悲しそうな声を耳が拾う。
 は?と思って声の方を見ると、赤青黄色、三つ分の魚キーホルダーを買い物カゴに入れた桂木が、如何とも名状しがたい顔でこちらを見ていた。
 
… … …
アイテム「おさかなキーホルダー」
田舎特有のズレた土産物。その陳腐さも、慣れれば癖になる。

 魚のキーホルダーを鞄に入れて、神社への道を進んでいる。
 はずだ。少なくとも、俺はそう思っている。
 
指定された場所へ向かってください。
「…おい。ちゃんと地図を見ろ桂木。正しい道ならば、こっち側に海が見えるはずだろう。間違ってるぞお前。」

 身長差のせいで桂木の方がどうしても足が早まるし、持った地図は微妙に見えにくい。
 ただ、そこを出来た部下の機転でカバーされながら、俺は桂木が書いてもらったという地図を目で追っていた。

「でも、これが正しいルートなのですから、仕方ないでしょう。」
「はあ?神社に行くんだろう。───それでもなんだ、神社より先にやるべきことがあるのか?」
「…」
「おい飯沼、引き返すぞ!こっちは違う!」

 もくしてしまった桂木を無視し、半歩後ろを歩く飯沼を呼ぶ。
 てっきり俺の意見を肯定してくるかと思ったが、返ってきたのは桂木の肩を持つ言葉だった。

「───でも、元とはいえ現地民が言うんですから、何か理由があるのでは?」
「…それは、そうかもしれんが。」
「とりあえずは従いましょう。本当に、やるべきことがあるんでしょうから。」
「でも」

「…これは。」

 唐突に止まった桂木の歩みが、継ぎかけた言葉を途切れさせる。
 「あー…」俺の少し後ろで、微かに飯沼が呟く音がした。
 

<まちのひとたちのおやくそく>
看板を調べますか?
 
「看板?」
「汚れた原色の塗装…よく見かけると言えばそれまでですが、正直白黒より見苦しいですよね。」
「ふん…桂木、これは知ってるか?」
「私が子供の頃からありました。ここまで汚れてはいませんでしたが。」
「なるほどな…。ええと、」
 
 劣化がひどい看板に目を凝らしつつ、文字列を読み取っていく。
 

<水神みずかみさまを大切たいせつにしましょう>
<大人おとなのいうことをきちんとききましょう>
<よるになったら、そとてはいけません>
<あめに、みずのそばにちかづいてはいけません>
<うみにいくときは、大人おとなといっしょにいきましょう>
<じんじゃと、じんじゃのひとたちを大切たいせつにしましょう>
<おともだちとなかよくしましょう>
<じんじゃのおくのもりに、はいってはいけません>
<おさかなは、べるぶんだけとりましょう>
<[判別不能]>
<みずのそばで、すずのおとをならしてはいけません>
<このおやくそくは、かならずまもりましょう>

 
 
「…ここ。明らかに、何かで削られてますね。」

 不自然な空白を持った部分を指でなぞっていた飯沼が、ポツリと呟いた。
 
「削られた…?人為的にか?」
「さすがに、ここの部分だけ綺麗に削り取られるのは不自然じゃないですか?」

 少しばかり焦燥を滲ませて言った飯沼に、俺も眼鏡のガラスをずらす。
 一瞬視界が揺らいだが、瞬きの後には、先程より鮮明になった傷跡が目に映っていた。

「…ナイフか何か。刃物の可能性が高いな。」
「誰が付けたんでしょう。」
「普通に考えたら、町の誰かが付けたんだろ?」

 俺がぼやくと、桂木がそれはない、と強めの語気で否定した。

「この看板は、町に昔から伝わる掟を書いたものです。町の人々は掟を大切にしていますので、看板を傷つけるなんてこともしないでしょう。」
「じゃあ聞くが、町人以外に誰がいる?普通に考えて、掟を都合が悪いと思った誰かの犯行だろう。」

 桂木が黙り込む。その横で、飯沼がまあまあ、と愛想笑いを浮かべた。

「とりあえず、今度こそ神社に行きませんか。神主なら、消された掟について何か知っているかも。」
「そうだな。…桂木、お前覚えてないのか。」
「教わったのはもう何年も前の話です。覚えていません。」
「チッ。仕方ない、今度はちゃんと神社に行くぞ。」

 「了解しました」と、二人の了承の声が重なる。
 

 「こんな事、今までなかったのに。」
 看板を睨んだ俺の横で、飯沼が微かに呟いた。
 

 … … …
 

 昔、この街───当時は村───は、水神様に守られていました。
 
 村の人々は水神様を信じ、敬い、祀る事によって、水神様の恩恵を得ていました。
 水神様は信仰を得て自分の力を保ち、その恵みとして村人に加護を授けていました。

 ただ、この水神様というのはとても気難しい方でした。
 人間たちが畏敬を忘れると、容赦無く村を水に沈めたり、魚が全く罠にかからないようにしたのです。
 村人はその度水神様に赦しを乞い、水神様は村人の必死の訴えを聞き入れました。

 長い時と共に、水神様と村人は話し合いました。
 水神様は、村人たちに、末長く自分を永らえさせるための信仰を求めました。
 村人は水神様に末長く鎮まり、加護を与えてくれるよう望みました。
 そして村人たちは、決して犯してはならぬ掟を、自分たちに課しました。

 村人たちはその掟を村全体の掟とし、代々伝え続けました。
 その掟がある限り、水神様は村を害さず、村人は水神様を祀り、残し続けます。

  
 こうして、掟が生まれ数百の時が経った今でも、水神様の信仰は廃れず、街は守られ続けているのです。

「██村史記(第四版)」より

 
 … … …

 
 結論から言えば、神社でも、掟についての大した情報は得られなかった。
 

 気持ちだけの賽銭。
 神社の奥の禁足地。

 俺は基本的に無神論者───厳密に言えば、信仰を学問分野としてしか見られない───人間だが、そんな不敬な俺にも感じられるほど、この神社は厳かかつ神聖な雰囲気があった。
 
 妙に新しい社務所。
 「掟は口伝で伝えられているから、正確なところは誰にもわからない」神主の言葉。
 
 歓迎してくれた神主が嘘を言っているようには見えなかったが、真実を言っているようにも見えなかった。───大方、余所者の俺たちには伝えられないことがあるのだろう。
 
 ただ、「町の祭り」について情報を得たのは大きかった。

 概要は宗乃さんが言っていた通りだったが、追加情報として「水神と巫女」の役があるらしい。
 水神は文字通り"降臨される"らしいが、巫女は町の中にいる七歳までの少女を選んで、水神が祭りの間地にいるための媒体とするのだ。どうやらこれは、始めて水神がこの土地に現れた時の状況を再現しているということらしい。
 

 「七歳までは神の子」ふと、そんな言葉が頭をよぎる。
 同時に、まだ未就学児だという、あの少女の顔が脳裏に浮かんだ。
 

 … … …
 

 背中に何かを感じて、思わず後ろを振り返った。
 
「四宮さん?どうかなされましたか。」
「いや、なんでもない。」

 
 神社を出ると、もう既に辺りは薄暗くなっていた。
 「海沿いに歩けば宿まで近道できる」という桂木の言で、すぐ側に水が迫った、薄暗い道を歩いている。
 
 暗くて前がよく見えない上、ついさっきから雨が降り始めた。最悪だ。
 
 「やば、雨強くなってきた。まずい。」濡れた服にイラつく俺の横で、飯沼が呟く。

「折り畳み傘じゃ間に合わんか…───、つっ」
「四宮さん?」
「転びかけた。クソ、街に入ってから、なんだか感覚が鈍くなってやがる。」
「宿にはあと少しかかります。とりあえず、風邪を引かないよう上着は羽織っておいてください。」

 コンクリートの堤防に、ざぱりと波が打ち付ける。
 

 ふと顔を見上げた俺は、堤防の一際高くなったところに、いてはならぬであろう何かがあるのを見つけた。
 

 嫌な予感がする。
 それを、俺が見てはいけないような。
 
 ただ、ここで正体を突き止めないのは、己のプライドと職業が許さない。
 
「───人間、か?」
「四宮さん?」
「いや、あそこに人影が。」

 視界は悪いが、俺が指差した先には、確かに人一人分らしきものが立っている。

「夜で、しかも雨の日の海ですよ?…掟もありますし、わざわざ来るような人がいるわけないでしょう。」
「だが確かにいるんだ。」
 

 ゆらり、と人影が揺れる。
 

「───子供」

 人影の正体を認め、俺が小さく呟き
 
 
   "どぽん"
 
 
 
 いやに軽い水音がした。 
 

 … … …
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 どうやって帰ったのか、ろくろく覚えていない。
 ただ、気づけば俺たちは、部屋の中に、荷物と部屋の鍵と共に座っていた。

「なんなんだ、あれ」

 誰が言ったともわからぬ言葉が虚空に吐かれ、宙に溶ける。

「自殺、でしょうか?」
「そんなことをするような年には見えなかった。」
「落ちるってよりは、吸い込まれるような感じでしたね。」
「そうだったな。」

「久々に全力で走った。」
「結構疲れました。」
「明日、風邪ひかないといいな。」
「そうですね。」

 現実から乖離した、ふわふわとした言葉が、浮かんでは途切れて消えていく。

「警察か?」
「町の人に任せましょう。それより、」
「それより?」
「私たちにできることをやらないと。」
「できることってなんだ飯沼。周辺を調べたって、あの子供は戻ってこないぞ。」
「いえ」

 こちらを向いた飯沼と視線が噛み合う。
 おかしい。こいつは、こんなにも凪いだ目で、こんな表情で笑う奴だっただろうか。

 
「戻ってきます。」
 

 この街そういう場所なんです
 

 飯沼の言葉をかき消すように、たくさんの人間の足音と悲鳴が、瞬間的に凍りついた空間を切り裂いた。
 

 … … …
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 「お客様は知らなくていいことです」とやんわり締め出されたが、食い下がって誰彼に質問をするうち、なんとなく町人の混乱の理由が見えてきた。
 
 曰く、町の娘が行方不明になったらしい。
 
「まだ齢六つなのに」「あの家は信心深くて」「なんでこんなことに」声と混乱でさんざめく宿を抜け、足は緩やかに、あの堤防へと向かう。
 
「この場所だな。さっきあの子供がいたの。」
 
 昔の、石で作られた部分はもうなくなってしまったのだろうか。コンクリートでできた堤防は、最初見た石製に比べると、やや無機質すぎる気がした。
 実際に立ってみると、結構な高さと段差だ。子供の足でたどり着けるとは到底思えぬほどに。
 
「ここから落ちたのか。」
「落ちた、というよりは、飛んだと言った方が。」
「吸い込まれたというのが正しいのでは?」
 
 まとわりつくような潮風と湿気が、ぺったりと頬をなぜる。
 足下を何かが蠢くような、知らない何かで自分の周りがじんわりと浸食されていくような。
 なぜか悪寒を覚えて、思わず後ろを振り返る。───もちろん、そこには誰もいない。

 慣れない場所に来たので、少しばかり気を張っていたが、何はともあれ休日だ。必要以上に力を入れる必要もない。
 たまには肩の力を抜こう、と、黒々とした海を見ながら息を吐く。
 
 準備を整えてくれた部下二人の労いでもしようか。そう思ってまず横の桂木を見ると、俺が未だ見たことのないような表情で固まっていた。
 
「───四宮さん、飯沼。」
「なんだ。」
「あの。」
 
 珍しく歯切れの悪い物言いに、俺は一歩桂木の方へ足を踏み出す。

「海の下に何か、珍しいものでも見つけたか。」
「珍しい───と言っていいのでしょうか。」
「濁すな。はっきり言え。」
 
 桂木が瞬きをして、当惑した表情で下を見る。
 俺も同じように指の先を目で追って、その困惑が何なのかを理解した。
 
「先ほど言われていた、行方不明の娘とは」
 

 これですか
 

 水を吸い、ぶよぶよと膨れた体。
 ぺったりと張り付いた、黒々とした髪。
 真っ赤に染まった目は、ふやけていても確かにこちらを見ているとわかった。
 ず、と這いずるように堤防を登るたびに、コンクリートで削がれた皮膚が、進行の跡を作る。
 

「逃げ、」
 

 誰が言ったかなんて、確認できなかった。する意味もなかった。
 瞬間、エージェント業で培った全ての身体能力を総動員し、全速力で堤防の下の道へと走る。
 踵を返す寸前、ちらりと見えた水死体の額に、真っ赤な印が刻まれていたように見えたのは、きっと気のせいだ。
 
 
 だからきっと、海の黒の中に混じってこちらを見つめる紅い光も、気のせいなのだと思いたい。
 
 
 
 
 
Part2へ続く

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