記憶の肖像
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彼女は、何事も簡潔で解りやすいのを好んだ。だから彼女の書いた報告書は読みやすかった。私服もシンプルな無地のものを好んで着ていた。それが彼女の端正な顔立ちによく似合っていて、俺はそれが好きだった。

俺が黒鉛で手の横を真っ黒に汚していると、それを見て少し顰め面をするのも好きだった。でも、完成した俺の絵をきらきらとした眼差しで見てくれるのはもっと好きだった。彼女は特に水彩画が好きだった。俺は水彩画は面倒でたまにしか描かなかったが、彼女の為にと思って描いたら、とびきりに褒めて気に入ってくれたものがあった。だから俺はそれを額縁に入れて飾った。彼女も時たまそれを見ては何度も褒めてくれた。

職場恋愛・結婚というのは、財団内ではありがちな事だった。特殊な環境であることから生存本能が高まるんじゃないかとか、基本決まった人間関係だからじゃないかとか色々考えられるけれど、結局のところ原因はよくわからない。ただわかるのは、俺と彼女は恋愛関係にあったということだけだ。

彼女と俺の初対面はそれこそ特殊なものだったかもしれない。俺はとある実験で派手に失敗して財団傘下の医療施設にしばらく入院していた。それと同時期に起こったらしい小規模の収容違反で怪我をした彼女も入院し、隣のベッドになったことで出会ったのだ。俺が入院中に暇を持て余して描いていた絵を見て、興味を示した彼女が話しかけてきたのが最初の会話だったのを覚えている。そこで意気投合して、同じサイトでの勤務だったことから退院後もよく会うようになったのだ。

ある時、偶然同じSCPオブジェクトを担当することになった時は驚いた。俺はその時には彼女に想いを寄せていたから、心の内で密かにガッツポーズをしたものだ。勿論きちんと仕事はこなしていたが、仕事という名目で互いの部屋に入り浸ったこともある。この頃にはお互いに好意があることが解っていて、それでいて何となく一緒に居るのが心地よかった。

付き合い始めてからも特に急接近した訳ではない。少し恋人らしい仕草が増えただけだ。休日に一緒に出掛けたり、手を重ねてみたり。初恋というわけでもないのに、何かアプローチをする度に俺はいつも少し緊張していた。それを何年か続け、結婚も視野に入れ始めた頃。その出来事は、俺の頭を思い切り殴りつけるような衝撃を伴って知らされた。

彼女が亡くなった。あまりにも突然のことだった。実験で派手に失敗した訳じゃない。収容違反が起こった訳でもない。ただ、彼女はあるとき階段を踏み外して、頭部を強く打って亡くなったのだ。

彼女の死因は至って正常のものだったこともあり、遺体は家族の元へ送られて火葬されたらしい。らしいというのも、彼女の葬式は家族葬だったから、俺は参列できなかったのだ。

俺はただ、その日は休暇にしてスケッチブックに彼女の肖像を描いていた。


彼女の、ストレートなのに濡れると少しうねる髪。

そこに見え隠れする耳。

此方を見つめる綺麗な瞳。

よく気にしていた少し低い鼻。

いつも丁寧にリップクリームを塗っていた柔らかい唇。

力を加えたら折れてしまいそうな細い首筋。

この季節に好んでよく着ていた無地のTシャツ。


大好きな彼女のその姿を忘れまいと必死に描いた。彼女の身体が焼かれようとも、彼女の灰が空へ舞おうとも、彼女の骨が崩されて小さな骨壷に収められようとも。俺は彼女の生を忘れまいとした。記憶を此処へ残そうと足掻いた。

必死に描きあげたそれは、俺の記憶に残る彼女そのものであった。俺はその絵にフィキサチーフスプレーを吹き付けて乾かし、スケッチブックから丁寧に破り取り、彼女がいちばん褒めてくれた俺の水彩画が収まっている額縁の裏へ入れた。

それから毎週、その曜日は必ず休暇にしている。彼女の肖像を描く日と取り決めて、その日からずっと続けている。最初と違うのは、描いた絵はひとつも保存していないということだった。もし誰かにでも見られたら気味悪がられるのは当然予想されることだ。こんなのは狂気的だと自分でもよく解っているつもりだ。だから描いた絵は毎回シュレッダーにかけて捨てている。彼女を丁寧に描いた後にシュレッダーに入れてしまうというのは、なんとも形容し難い心の苦しさがあった。それでも俺は、その習慣を続けた。彼女の記憶を呼び起こして、スケッチブックにそれを殴りつけた。


彼女のフローラル系の香水の匂いが好きだった。

彼女の鈴を転がすような笑い声が好きだった。

彼女の肌のさらさらとした手触りが好きだった。

彼女の春の季節ごとのくしゃみと涙が好きだった。

彼女の描いた下手くそな愛らしい絵が好きだった。


絵に描き表せないそれを思い出しては鉛筆を握り直した。彼女に伝えきれなかった愛を囁くように、何度も何度もスケッチブックへ彼女の存在を描きつけた。一週間に1枚、彼女の肖像を完成させる度に、今これを彼女に見せられないことを悲しんだ。生前に一枚でも描いておけばよかった。彼女も俺も写真が苦手だったから、彼女の写った写真はろくに残っていない。生前に一度でも彼女を描いてやればよかったのに。ああ、だけど彼女は絵のモデルになるのを嫌がっただろうな。

一週間に1枚ずつ使っていたA4サイズ50枚のスケッチブックが5つ消耗され、6つめも今日で最後の1枚になる。当たり前の話だが、俺の絵は描き始めの頃よりも明らかに上手くなっていた。彼女を描く前や描いたあと、気分転換にそれ以外のモチーフを描くことがあるが、明らかにその絵のディテールが上がっている。彼女が俺の力になってくれているようで、俺はそれが嬉しかった。

完成した肖像を見た。今日のは特に良い出来だと、そう思える仕上がりだった。そこで俺はふと、いちばん最初に描いた彼女の肖像を思い出した。きっと昔描いたものと比べたら、今の方がよっぽど上手く描けているはずなのだ。スケッチブック6つ分の成長を目に見て感じたい。そう思った。

彼女の褒めてくれた水彩画。確かその裏にあの絵をしまったのだったか。あぁ、あれから実に5年半は過ぎた。俺の絵はどれだけ成長しただろう。彼女の肖像はどれだけ彼女に近づいただろう。

額縁を手に取り、ゆっくりと後ろを開く。そこにその肖像はあった。しかし、なんとも言えない違和感があった。最初の肖像を手に取り、今さっき仕上げた肖像の隣へ置く。

確かに俺の絵はとても上達していた。最初の絵とは見違えるほどだ。ああ、本当に、見違えるほどに。だってこれは、明らかに違う絵なのだ。同じ人物をモチーフにしたとは到底思えない違いようだった。


彼女の、ストレートなのに濡れると少しうねる髪。

そこに見え隠れする耳。

此方を見つめる綺麗な瞳。

よく気にしていた少し低い鼻。

いつも丁寧にリップクリームを塗っていた柔らかい唇。

力を加えたら折れてしまいそうな細い首筋。

あの季節に好んでよく着ていた無地のTシャツ。


最初の肖像にあったその要素がまるで抜け落ちてしまったかのように、今の肖像には彼女の面影がなかった。

髪も、耳も、瞳も、鼻も、唇も、首筋も、シャツも。

俺はそれ以来、彼女の絵を描いていない。鉛筆を握ったとしても、きっともう彼女を描くことはできないのだろう。

ただ、俺は時々、彼女の好きだった水彩画を描いている。

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