プリチャード学院大学: 人文学教養科目『アーカイブズ学A』特別講義「財団外における史資料保存の歴史(日永田 芳次)」
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(日野 アーカイブズ学A, 20██)

はじめに・自己紹介

こんにちは。僕は理外学研究所史資料博物館で働いています、パラアーキビスト1の日永田芳次(ひえだ よしつぐ)です。本日はアーカイブズ学A特別講義として、財団外における─特に今回は理外研における史資料の保存の歴史についてお話したいと思います。とはいえまずは、アイスブレイクとして、僕と所属する組織についての紹介をしてから本題に入りたいと思います。

改めまして僕の名前は、日永田芳次といいます。受講してくれている学生さんの中には、日本史学を履修しておられる方もいると聞いているのでご存じかもしれませんが、日永田の一族は古来より常人を凌駕する記憶力を持っており、蒐集院では文書化し難い、しかし継承しなくてはならない情報を口承してきたことで知られています。それらは単に機密性が高いということに留まらず、文字に起こすと認識、ミーム、情報災害のファクターとなるなど一癖も二癖もある情報を含んでいます。もっとも、近代を迎える頃には殆どの末裔からそのような記憶力は失われつつありました。僕自身も手元のラップトップに頼りまくっており、精々フォルダの階層構造と殆どのフォルダ名を記憶している程度にしか役立っていません。なので皆さんは僕のことを、ちょっと名前が珍しいアーキビストのおじさんで認識しておいていただければ結構です。

僕の所属している理外学研究所史資料博物館は、理外学研究所において設立以来保存に努めてきた貴重な史資料を保管する機能と、研究所・企業アーカイブズの機能の2つを持っています。館の設立は1965年ですが、理外研の設立の目的の中には、呪術社会2の貴重な資料の保管というものがありましたから、理外研におけるアーカイブズの歴史は大正年間にまで遡ります。本部の建物自体は新八大路市3にあり、延べ床面積は約2万平方メートル、大体野球場のグラウンド2つ分です。嘆かわしいことに4皇居の前にある我が国の公文書館の面積の2倍あります。これに加えて、分館や理外研の細々とした研究施設などに史資料が保存されているほか、戦中・戦後直後に行方不明になった隔離次元の保管庫が幾つか存在しており、後者の発見や開錠、探索を業務とする部署も存在します。

本館では研究者に向けての史資料公開も行っていますので、学生諸君も申請さえしていただければ、資料を閲覧することが可能です。新八大路は政府の施政権が及ぶネクサスなので、正式に財団職員の身分となると、今度は上級研究員以上にでもならないと上長の承認下りませんし、もっと偉くなると渉外部でもないと入れなくなるから今の内ですよ。

近代以前のアーカイブズ

日本における史資料の保管は、専ら特定の業務を継承する家系内で行われてきました。かつての蒐集寮の時代には中央が所有する保管庫が存在していたとされています。しかし律令制が崩壊し、家々が代々役職を継承するようになると、貴族たちは日記の形で儀式の作法に代表される職務の遂行手順等を記録するようになり、これらの資料は子孫のために代々受け継がれるようになっていきました。もっとも、呪術社会においては、既得権益云々以前に、一族の能力や知識が遺伝でしか継承できなかったり、「災い」を抑止するためにそれらを門外不出とすることは広く行われていたため、その傾向があらゆる場面において顕著になったというべきでしょう。

その影響は現代にまで残っており、落陽事件5を始めとする旧呪術社会の構成員の集団失踪事件により多くの貴重な資料が行方不明となっているほか、財団や連合が接収した史資料中の重要箇所の多くが解呪方法が不明などといった理由から閲覧できていないと聞き及んでいます。当館においても寄贈された史資料はまだしも、寄託史資料に関しては同様の理由で閲覧し難いという以上に、所有者の意向が取れないため研究材料として一般に公開できない、あるいはこれを研究材料とした研究が一般公開できないという問題を抱えています。

近世になって蒐集院はその内部機関としての図書寮を再編し、新たに本部管轄施設として「書院」を設置しました。これを以て超常界隈に関連する記録物の収集・管理・編纂などを行う蒐集院の内部機関が復興を果たします。とはいえ、書院はやはり記憶力に優れた日永田家の当主によって代々統制されてきた組織です。またその図書分類法も蒐集寮時代のものと『本朝書籍目録』6以降の図書分類法のキメラとなっており、実用性に欠ける部分は日永田の記憶能力によって強引にカバーされていました。また、書院の収集・管理機能に観点を置くとその機能は封印に偏っている点は見逃せないでしょう。

それでもこの時代の図書寮は大きな成果と言えるものを一つ出しています。その成果こそ、『蒐集物覚書帳目録』の編纂事業です。江戸時代中期に当時の七哲の一人により提唱されたことで編纂が開始された本史料群は、中世以来の、ものによっては創設以来の蒐集院の活動に関しての克明な記録です。目録番号を始め謎の多い同史料群ですが、その原本の殆どは現在財団が所有しており、研究においては財団の先生よりお聞きしたほうが有意義でしょう。シラバスを拝見する限り、後期の授業にて、日野先生が個人的に所有している写本を見せながら授業をするようですね。

米欧見分とアーカイブズ

時代は一気に下って、近代。呪術社会から少し外れますが、明治4(1871)年に出立した岩倉使節団は明治6(1873)年5月、イタリアのヴェネツィアにて「アルチーフ」なる施設を訪れました。随員の一人である久米邦武7による『米欧回覧実記』には「西洋ニ博物館アリ,瑣細ノ微物モ,亦択ンテ蔵ス,書庫ノ設ケアリ,廃紙断片モ亦収録ス,開文ノ至リト云ベシ」とあり、明治の偉人らは欧米の発展が知識を広く蓄えながらもそれを広く公開することを基礎にしていることを認識していたと言えます。これらの記述はアーカイブ、つまり公文書館に明治の指導者が触れ、その存在意義を認識していたと解釈することも可能です。

しかし実際にはヴェネツィアのアルチーフは一世紀以上前に解体された共和国8時代のものです。更には他国の公文書館を訪問した記録がなく、動物園、植物園、博物館、図書館、美術館を訪れては、禽獣園を始めとした訳語を当てた同史料においては「アルチーフ」は原語のママでした。「廃紙断片モ亦収録ス,開文ノ至リト云ベシ」という記述についても、「不要な文書も保存するのが文明国」という感想に過ぎず、アルチーフとは政府の公文書を半恒久的に保存し、市民に公開するための施設であるという認識を持っていなかったとも考えられます。近代日本人のこうした認識は、公文書は官吏の業務の支援のために保存されるものであるという考え方や、現代に至ってもアーキビストが制度的に成立していない事実、理外研を始めとした超常組織や政府機関が敗戦に際して多くの文書を抹消した歴史的事実の根底にあるのかもしれません。

呪術社会においても米欧見分は行われています。維新期の1867年にはパリ万博9に合わせて随行員として陰陽寮所属員を始め呪術社会関係者が渡欧した記録が残っており、それを受けて1869年には陰陽寮や蒐集院などの呪術社会関係者の若手職員47名からなる使節団が欧州及び米国に渡った記録が残されています。彼らは第六次オカルト大戦10前夜の欧州の情勢を視察しつつも、超常ルネサンス11への道筋の一つとなる異常博物学の熱狂の高まりを見ていました。69年の使節の代表であった蒐集院所属の御神本理は『米欧異類視察実記』に「海牙ニ異本草学ノ博物館アリ, 我国ノ異物, 其蒐集物ノ一也」と記録しており、当時の呪術社会は自国の「異物」が海外に流出していることに対して再度危機感を持っていたと考えられています。

「再度」と述べたのは、これら危機感は、シーボルト事件12などの異物流出事案など近世末期から醸成されてきたものであり、この頃になってようやく政府高官らが重要な異物の国内保持を国内の超常機関に対して書簡で伝達するなどを始めたという背景によるものです。特に、明治元(1868)年の神仏判然令を契機にした廃仏毀釈の進行13は、寺社仏閣に所蔵されていた古文化財の破棄・破壊や売却を引き起こし、貴重な異常工芸品や呪術関連書籍の消滅・散逸や海外への流出に至りました。これを受けて政府はようやく明治4(1672)年5月、太政官布告「古器旧物保存方」14を発するなど古文化財の保護へ前進を始めています。

1865年の薩摩藩遣英使節団として渡英し、アノマリーの収集管理を学んだ町田久成15も、同布告を受けて開始された、日本の文化財保護活動の始まりとも言える壬申検査に参加しています。その後この流れは宮内庁が1881年に発足させた臨時全国宝物取調局を経て、1900年に設立された東京帝室博物館16に至っています。

町田はその後初代館長に収まると、霊異部を設立し、様々な呪術等に関わる異常・非異常の史資料の収集・研究を開始し、関係者のみながら公開・展示も開始しました。アーカイブズ学の観点では町田はハンス・スローン記念財団が採用していた分類法を、史資料の整理に取り入れ、その影響を受けた図書分類法17として「五部分類(東京帝室博物館霊異部分類)」を開発しました。同分類は超常関係の文献を5つの「部」に分けた上で、その下に多数の「区」が置かれるような形であり、各文献は区に収められていました。この五部分類は後に政府に関連する多くの超常研究機関が採用することとなり、設立間もない理外研もこれを利用しています。

1888年に創設された異常事例調査局もハクタク計画を創設後まもなく開始させ、日本全国に分散していた小規模な超常団体からの収奪を始めとした強引な手法で、史資料を手中に収めようとしました。その成果は『大日本白澤圖大系』として成立し、その一部は局外に公開されて市井においても研究に役立てられました。しかし後に、調査局の活動が様々な異常存在を日本的解釈に当て嵌めることによって、超常事象の範囲における日本の優位性を主張する試みに変質していくと共に、ハクタク計画による中小団体の被害の全貌が明らかになると、同書もまた大きな非難や懐疑の目にさらされました。しかし今日においても同書は異常研究に生かされています。一方、九十九機関に関しては後援者の死去・失脚や総裁岩崎弥太郎の死が大きな打撃となり、大正時代を迎える前にその活動は大きく萎んでいきました。

理外研と米欧見分

理外研及び理外研のアーカイブズもまた、ここまで紹介してきたような米欧見分に端を発するものです。1913年から1914年に渡って、蒐集院の帝都本院と関わりのある開明派の若者らや市井の超常を知る科学者を中心とした視察団が、国際統一奇跡論研究センターやプロメテウス・ラボの施設を始めとした研究機関を歴訪しました。

一行はその一つとして、国際統一奇跡論研究センター傘下の博物館を訪れ、近代以前の超常研究関連史料が整備された環境の中で保存されている様子を見学しました。その中には僕の祖先に当たる日永田史も含まれており、その様子をこのように記憶しています。「私達一行は倫敦の国際統一奇跡論研究所の博物館を訪れた。設立間もない同博物館には、前身組織である『黄金の夜明け団』の時代に蒐集された史料や作成された文献が丁寧に保管されている。同研究所はJ.S.カーヴァーが推進している統一奇跡論成立への試みにおいて著名だが、神秘を追求する古い試みにも敬意を欠かさぬようである」。

また、この時代には未だ財団も閉鎖的ではなかったため、69年の使節が訪問したオランダ東インド会社特別調査委員会のコレクションの他に、超常現象の確保収容に関する王立財団や全米確保収容イニシアチブ時代から収集されてきた18、異常博物学19のコレクションや史資料群を閲覧する機会に恵まれたようです。異常博物学に関しては日本においては大允家20が本草学21に秀でており、同家の出身である大允鑑文は自らの日記にその興奮を書き記しています。

さて、実はこの見分は、当時の財団駐日代表部と当時の四方田家の当主が企画したものでした。

四方田家は明治以降軍需工場を母体として発展した財閥を所有しており、また親族の中に下級官ながら蒐集院関係者が存在し異常を知る機会がありました。そのため当主は、1882年の第六次大戦終結後の欧米で確立され、発展の兆しを見せていた超常科学・超常技術に深い関心を持っており、日本でも民間における振興を目指していました。財団駐日代表部としても日本に根を張る22ためには、西欧的価値観の流布とその協力者が必要でしたから、目的の合致した両者は開明的な若者たちを欧米の超常研究機関に派遣することを決意したのです。

四方田の他に派遣された人物の出身家系を列挙すると催馬楽23、日永田、大允等が代表的であり、もとよりこれらの家々は優秀な研儀職や奉斎職を輩出してきた家系でした。研究者として優秀であり、洋学への関心もあった彼らの多くはこの後理外研の組織化に関わってくるのですが、政治力にいささか欠ける面があります。本講義では詳細は省きますが、現在の理外研でも末裔が活躍している神枷24や翁鳥25、そして四方田が大きな役割を果たしたとされています。また後に、畿内への進出は薬師寺26が先導役となり、西国への進出には靈代27が関わったという記録が残っています。

理外研の成立

1867年にパリ万博に随行していた渋沢栄一翁28は、1913年に高峰譲吉29、櫻井錠二らが「国民科学研究所」構想を唱えたことを受け、同構想の実現に動き出しました。四方田を始めとする呪術社会の開明派と財団駐日代表部所属のコナー・A・ヒーズマンは、この動きを受けて渋沢に超常科学の基礎研究を行う研究所の設立を働きかけます。当初、彼らは研究所の設立について、蒐集院内院30大学寮31を帝都本院に移転した上でその附属とする予定でした。しかし、皇室の援助を得るなどして調査局等と衝突が発生し難い環境に置きたい、また内院と事を構えたくないという政治的目的以外にも、民間への超常科学の還元など理念上の目的、皇室や政府の補助金を得たいという財政上の目的などから、理化学研究所の設置に相乗りする形となったのです。

そのため、理外研最初期の本部施設は、東京都文京区駒込にあった旧理化学研究所の本部施設の「影」32に設置されることとなりました。もとより、当時は人材難かつ、ヴェールが曖昧な時代でしたから、理研と理外研双方に籍を持つ研究者も現代より多くいました。こうして1917年に理外学研究所が設置される運びとなり、第一次世界大戦の勃発を機に急遽帰国した視察団は、その設置に向けて慌ただしく走り回ることとなるのです。設立式には大正天皇の名代が臨席しています。

なお、この大学寮に関しては後に民間のフィールドエージェントである傭人33や、様々な理由で家の秘伝を継承できない氏族の弟妹に対して教育を施す必要性が生じたために、結局帝都本院に移管され、本部組織が鎌倉に設置されました。ちなみに、新八大路にある院立鎌倉大学34は、間接的ながらその流れを汲むものです。

理外研とアーカイブズ

理外研が蒐集院・財団・皇室・政府の絡む独自の立場に立たされたことは、理外研がアーカイブとして機能することに大きく貢献します。当時国内に存在したアーカイブとしては、蒐集院内院直轄の書院、東京帝室博物館霊異部、異常事例調査局が存在しました。しかし書院は蒐集院外の史資料を受け入れておらず、帝室博物館霊異部は原則として寄贈を求めていたほかに調査局の干渉が激しく、異常事例調査局に至っては、そもそも彼らのハクタク計画こそ、日本国内の超常組織が自らの史資料を安全に預けられるアーカイブを欲した動機でありました。このような情勢下、理外研は史資料の寄贈ないし寄託を受け、アーカイブを拡張することで、超常科学の基礎研究や日本呪術の理論・体系化研究に貢献しました。(吉水)大允家本草学資料群35、催馬楽家文書群36、四方田コレクション37、七種家文書群38などが大正時代に寄贈・寄託された代表的な史資料群です。

こうして書庫に収められた史資料群は、当時最新のアーカイブズ学の知見に則り、編成(資料群を出所原則に従って整理し、群が有する体系的秩序を構築すること)・記述(レファレンスや資料請求を容易にするためにメタデータを採取し目録を作成すること)され、研究に供されました。劣化が著しい資料に関しては様々な手段を用いて修復処理がなされ、修復処理に関しては国内の団体から広く受け入れました。尤も、作業は単に技能と根気のいるというだけに留まらず、一部の史料との接触には傷病の危険性もあるために困難を極め、費用も嵩む為、困窮している氏族に対しては寄贈・寄託を条件とした例も少なくなかったようです。

翻刻の上で、一部の重要かつ公開の許可が得られた資料に関しては出版もなされました。特に、日永田家の口承に関しては、能力の減退により近いうちに失伝することが予想されていたため、まるで古事記編纂のように口承が活字資料化されていきました。その一部は『日永田家口承資料集』として1920年から1925年にかけて全四巻刊行されています。この本は近年に出版局の方から改定を加えて再版しているのでご存じの方も多いかもしれません。研究成果の多くも公開され、超常科学の普及発展に貢献しました。

なお、理外研のアーカイブは拡大と共に本部施設に収まらなくなり、また寄託者の要望に応えるために各地の隔離次元を始めとする、特に防犯性の高い施設に資料群が収められることとなりました。これら施設は度々調査局の直接的な手段を含む干渉を受け、時には大きな妥協を迫られることもあり、1927年には七種家文書群の約3割について収蔵場所を調査局の敷地内に変更することを余儀なくされています。その後その3割の七種家文書群は戦後に進駐軍に接収され、戦時協力の対価としてプロメテウス・ラボに提供、現在はICSUT恐山キャンパスに収蔵されています。

戦中・戦後の混乱

日本各地の史資料群は、帳下であるか否かを問わず、戦災によって大きな被害を受けました。木造建築物が多い寺社仏閣や氏族の屋敷に収められていた資料群の多くは、空襲によって建物と最期を共にしたものが多く、また屋敷の焼失や戦後の開発によってアクセスポイントを消失した隔離次元内に設けられていた文庫の多くが、今も異空間を彷徨っているか、空間の消失によって消滅したと考えられています。軍関係の超常研究機関では敗戦が明らかになるか絶望的な戦況を前に、研究成果・資料や公文書が焼き払われており、戦前の超常科学研究の実態は現代の私たちからは把握することが難しくなっています。

理外学研究所や理外研産業団所属企業においても進駐を前に、運営資料を廃棄した記録が残っています。この記録は超常軍閥と理外研の関係性を示唆すると考えられていますが、現在のところ理外学研究所と超常軍閥との密接な関係を明示するような史料は発見されていません。史資料の面では、財団と連合に戦後に寄託・寄贈した、あるいは接収されたものもあります。催馬楽家文書群の内、その時点で編成・記述と整理が完了していたものの大半が催馬楽幸太郎の手で財団に寄贈されているほか、四方田コレクションは生物学に関連する資料が負号部隊に接収された後に、その分が財団に回収され、その他のコレクションについても横浜の理外研施設内で保管されていたものについては連合によって1945年の9月に接収されています。四方田コレクションに関して、財団と連合は共に理外研から寄贈・寄託を受けたと主張していますが、理外研は1960年代にJAGPATOの場で返還を求めていました。

呪術社会全体としても先述したように、氏族の集団失踪、「還俗」、断絶によって、多くの資料が行方不明となったり、発見されたとしても解読が進まないといった事例が散見されています。七種家文書群のように進駐軍・連合・財団の手によって国外に運び出されまもなく行方不明となる資料、戦時協力の対価として進駐軍や連合から国外の超常企業や学術機関に提供されるもパラテック・バブルの崩壊で組織が空中分解して資料が追跡できないものなども多く、日本の戦前・戦中の貴重な超常関係資料のもので、資料群として残されたうえで良好な状態で保存されているものは、そう多くありません。

一方、近年ではICSUTマサチューセッツキャンパスで、調査局関係の実験資料が大量に発掘されるといった事例もあり、もしかすると理外研の戦中資料に関しては、旧蒐集院の史資料を継承する財団の書庫の奥底から近い将来発見されるか、あるいはもう発見されているのかもしれません。

戦後のアーカイブ

1965年、理外学研究所は理外学研究所史資料博物館を設置し、アーカイブやアーカイブズ学研究の再編を開始しました。新八大路に設置された本部施設は延べ床面積を2万平方メートルを確保し、研究所施設で分散して保管された資料群を集約することを目指しました。1972年には当時の文章茜館長が、研究所アーカイブズとしての機能を拡充すると共に、企業アーカイブズを設置することを決定しました。この決定の背景には、戦後に理外学研究所や産業団所属企業が運営資料を廃棄したために、1945年以前、特に戦中の理外研に関する研究がなかなか進展しないことに対する反省と、理外研グループ内でも企業によって企業アーカイブズの能力が大きく分かれていたことへの危機感がありました。これを受けて豊・小倉地区に理外学研究所史資料博物館分館が設置されています。

2002年には新八大路に、日本超常史資料センターが、国立民族学博物館霊異研究部、文部科学省国立室戸研究所、院立鎌倉大学、ICSUT恐山キャンパス、理外学研究所史資料博物館などの共同で設置され、所蔵資料のデジタルアーカイブを推進すると共に、アーカイブズ学の共同研究プラットフォームとして機能しています。同センターは2005年に木易蔵書閣との連携を開始するなど海外の学術機関とも連携を進めており、現在は国内外の10以上の学術機関にデジタルアーカイブを提供しています。

一方で、パラアーキビスト育成には依然として大きな課題が残されています。授業でも触れたと思いますが、国外ではICSUTやディア大学などそれなりの数の教育機関がパラアーキビスト養成コースを確保している一方、国内では教育機関としてパラアーキビスト養成コースを確保しているのは、院立鎌倉大学やプリチャード学院大学、ICSUT恐山キャンパスなど少数にとどまります。一般社会においても日本はアーキビストに国家資格がなく、養成課程もやはり少ないため、市井のアーキビストを帳下社会に勧誘するのがハードルが高いことも人材不足に拍車をかけています。

特にアーキビストは記録史料に関してのジェネラリストという職性のために、歴史学、図書館学、博物館学、保存科学、情報学と幅広い分野に最低限の知識を有さねばならないほか、危険資料との接触に対応できる十分な奇跡論学的知識を有する人材も不可欠です。氏族社会の色濃いかつての日本であれば、家庭内で専門家が育成されてきましたが、現代帳下社会では教育システムの成熟が求められているのは言うまでもないでしょう。その流れから未だ取り残されているのがアーカイブズ学なのです。

質疑応答

パラアーキビストのキャリアパスと就職状況はどうなっていますか。

僕の場合は、父が今の職場で同じ仕事をしていたため、学生時代はその教授を受け、院大の養成コースを卒業した後は、やはり今の職場に入り父にOJTを受けるというガチガチの氏族社会ルートを踏んでいるので、あまり参考にならないと思いますが…。知っている限りでは財団外のアーキビストの就職状況は近年改善されつつあるも未だ渋いというのが現状です。

氏族由来の史料を抱えている団体の場合は、その類縁であることはかなり就職に有利に働きます。政府も理外研も出来る限り公平な採用を行いたいというのはやまやまですが、特定の史料に限っては作成した氏族がアーキビストとして活動することが望ましいことは言うまでもなく、ひと昔前は多くの氏族が家庭内教育を行っていたため、特殊技能についても担保されていました。財団も採用枠を設けておりますが、普通のアーキビストであればあなた方の様に自前で育てられるので、ここに滑り込むには相当の技能や近隣分野に詳しい事が求められてくるでしょう。氏族ルートが薄れていると言っても教授と採用先の間に強い結びつきがあることもあります。他には未だ数少ないですが、企業アーカイブズを持つ企業に就職する道もあります。

キャリアパスとしては…アーカイブを利用する研究者に対するリファレンス業務、資料の保存修復、所属機関によっては教育・啓蒙、そして研究と幅広い業務の間隙を縫っては新たに専門知識を得たり、それを研鑽したりすることがキャリアアップに繋がることはいうまでもありません。アーカイブズ学の基礎応用を固めながらも、近隣分野の知識も伸ばしていく、特に職場内でそれを担う人材がいない分野を伸ばせば、職場での地位向上も図れます。組織によっては外部機関における研修に補助金を出してくれるところもあるので、そういうところをチェックするのも大事です。

超常的理由からデジタルアーカイブの困難な資料も多いと思いますが、それへの対応も研究されていますか。

この分野においては財団が秀でているので…そうですね、理外研や日本超常史資料センターデジタルアーカイブがどの程度まで進んでいるかということをお話しします。

ミーム・認識災害による閲覧妨害への対処については、財団外においても研究が進んでおり、大昔の様にミーム対抗薬を飲んで脇にタイマー置きながらパソコンに張り付くといった様子は見られなくなっています。対抗薬を飲むとどうしても、自身の認知能力にも一時的な減退がかかるので、翻刻作業にやたら時間がかかったりしたそうです。今では、アップロード時にミームを除去する、プラットフォーム側で除去する、ユーザー側がハードやブラウザで防禦するなどして対処します。ただし、特殊な呪術など既存のミーム対抗薬が機能しないものに対しては、やはり儀式的な処置を踏むか特殊な薬剤を服用するしか無く、インシデント防止のためにそもそも一般向けには公開を控えることが殆どです。

こうした閲覧妨害のために認識災害を利用する資料がある一方で、閲覧の為にミームや認識災害を利用する資料…そうですね、例えばこの間見せてもらった曼荼羅の場合、それに曝露することで、眼前に悟りの境地を見せるといった加工が施されていました。こうした資料に関しては、デジタル上では効果を発揮しない、あるいは不完全に発揮されることでかえって危険といった例も散見されます。これらをデジタルアーカイブで完全に再現することに関しては、研究は未だ途上です。

国立公文書館による認証アーキビストのようなものは、パラアーキビストにありますか。

あります。日本超常史資料センターにて運用中で、毎年一回審査が行われています。既に活動しているアーキビストに対しては、本人や所属機関からの申請後センターにおける審査を経て「日本超常史資料センター認証パラアーキビスト」の資格が付与されています。教育課程では、20██年より院立鎌倉大学やICSUT恐山キャンパスなどの課程でも取得可能となっています。

なお、なお、財団職員の取得例は本講義を担当する日野先生が第一号ですが、財団職員のアーキビストが取る意味は殆どありません。学生の皆さんも取ろうと思えば取れると思いますが、この課程を無事に修めたら基本的に財団職員のアーキビストになりますからね。

終わりに

さて、ここまで財団外における─特に今回は理外研における史資料の保存の歴史についてお話してきました。かつて日本における史資料の保存管理は、その家々がそれぞれ行ってきました。しかし明治維新そして敗戦を経て呪術社会や氏族構造が解体・消失したことで、多くの史資料が失われ、残された史資料を後の世に引き継ぐ役割は学術機関に託されました。

しかし、その担い手であるパラアーキビストは十分な確保が進んでいません。ヴェールを維持するためにも、先人が残した史料の解読は急務と言えますが、インシデントを引き起こさずにそれを紐解くには十分な奇跡論学的知識を有するアーキビストが要請されています。調査研究のためには史資料の共有も不可欠です。しかしデジタル化自体もそうですが、超常資料の特性と超常組織の秘密主義がその障害となっていることはいうまでもありません。学生の皆さんにおいては、幅広い視野と知識を得て立派なアーキビストとなると共に、これら障害を漸進的にでも取り払っていただけると幸いです。

[理外学研究所史資料博物館と日本超常史資料センターデジタルアーカイブの利用案内。詳細は授業支援システムにアップロードされている資料を参照すること]

以上、理外学研究所史資料博物館、パラアーキビストの日永田芳次でした。ここでマイクを日野先生にお返ししますね。





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