-██月7日 PM12:35 都内某所
博士は激怒した。
スマートフォンが力の限り握りしめられ、その拳が木製のテーブルにたたきつけられた。
優雅にランチを楽しんでいたレストランの客の視線が一斉に注がれる。
ヒビ割れたゴリラガラスの液晶に表示された新規メール、そこには「コードイエロー:緊急プロトコルBX██-263██4」の文字。
財団が全職員に配布した分厚いスリーリング・バインダーでその頁を参照すればこう書いてあるはずだ。
「財団敷設に軽度の損傷と職員への物理的損害の可能性がある事態です。全職員は速やかに、たとえそれが休日でデートランチの真っ最中であっても事態の収束に努める事。」
-██月7日 PM1:45 サイト8181
クロエの香水の匂いをさせ、カジュアルドレスを着込んだ女がサイト-8181に現れた。
艶のある亜麻色の髪をフローラルにデジタルパーマさせた長身の女は、仏頂面でハイヒールを鳴らして敷設に侵入しようとした。そこに中年の警備員が歩み寄る。
「こんにちわ前原博士。サイト-8173でコードイエローの件はご存じないのですか?一応規則なのでIDを…」
女は財団の定める規約の通りにプロトコルを実行した不幸な警備員を殴打した。
時は戻る。
-██月7日 AM11:17 サイト-8173
D65347-JPはこの日、新しい名を与えられて初めての作業に一人で従事していた。苔むした水槽をたわしで洗うというとてもやり甲斐のある作業だ。
一体何日洗って居ないのだろうか、酷くすえた匂いが暴力的に鼻腔に突き刺さる。あてがわれた飼育室は無数の水槽が棚に備えられていた。
彼に指示を与えた新任の研究助手は明らかにコミニケーション能力に障害を持った男で、めちゃくちゃな抑揚でD65347-JPに抽象的な指示を与えた。
「なるべくそこらの水槽に触ったりとかしないようにして、その汚れた水槽を綺麗に洗って、何かあったらすぐに呼ぶように。ザリガニに気をつけて。」
なんとか聞き取れた内容を要約するとそんな所だった。
酷い匂いに悪態を付きながら、ヘドロで真っ黒の水槽に手を突っ込み、指に走る激痛に悲鳴を上げた。
その指に、ゴム手袋を貫通して赤いハサミが突き刺さっていた。男の薬指に食らいついたザリガニは信じられない力でそれを千切り取った。
男の行動はひどく短絡的だった。
激昂したD65347-JPはそのザリガニの背を掴もうと酷い匂いに悪態を付きながら、ヘドロで真っ黒の水槽に手を突っ込み、指に走る激痛に悲鳴を上げた。
その指に、ゴム手袋を貫通して赤いハサミが突き刺さっていた。男の人差し指に食らいついたザリガニは信じられない力でそれを千切り取った。
2本の指を失った男はその足元で恐ろしい勢いで切り取った指に食らいつくザリガニの姿に恐慌に陥った。
辺りを這いまわり、何か武器になるものを探そうとして金属ラックにぶつかった。そのラック上には幾つもの水槽が置かれていた。
丁度男の顔の高さにあった水槽が横倒しになり、苔まみれのその中から数匹の真っ赤なザリガニが飛び跳ねた。
飢えたその怪物は躊躇する事なく男の顔にハサミを突き立て、その眼球を抉り取った。
-██月7日 AM11:45 サイト-8173
収容違反発生。
体重82kgのD-クラス職員は制服を残して食いつくされ、それと同質量のSCP-073-JPが発生した。
飼育エリアは幾つもの破壊された水槽が散乱し、赤く小さな怪物がその床を埋め尽くし、本能のままに新たな餌食を求めて動き出した。
-██月7日 PM1:52 サイト-8181
サイト8181にて収容違反発生。
サイトに配置されて二年目になる若い警備員は困惑していた。コードイエローの状況下、目の前に「あの」女が現れ、自分の胸ぐらを掴んでいる事態にだ。
「いいから、さっさとそのキーをよこしなさいっ 権限はあるわ」
「い、いやしかし博士… い、今は緊急事態で、そのっ」
「緊急事態だからよ それとも何?私の命令が聞けないの!?」
泣きだしそうな顔の男の返答を待つこと無く、前原博士はカードキーを奪い取り、収容室を開け放った。
そしてその場でおもむろに服を脱ぎ捨て、あまりの事に口を半開きにしたままの男にくしゃくしゃの服を押し付けたのだった。
-██月7日 PM2:07 サイト-8181
再びサイト8181にて収容違反発生。
拳銃を片手に持った競泳水着姿の女がロッカーを開ける姿が監視カメラに写しだされていた。
女はサイトの武器庫へ向かった。
-██月7日 PM3:22 サイト-8173
サイト全体は水をうったような静けさだった。
全ての職員は退避し、隔壁が閉ざされた。混乱の中で故障したスプリンクラーが大量の水をまき散らしたためSCP-073-JPの推定移動範囲は広がった。
わかっているだけで10名以上の職員が食われ、さらに食堂にも被害が及んでいる可能性が高かった。
今や恐怖の人喰いザリガニ達は天文学的数字に膨らんでいる事だろう。サイト管理主任は青ざめた顔で頭を抱え、警備主任は緊急収集された収容部隊と議論を行っていた。
「だから、マイクロウェーブ発生装置をすぐに設置して…」「それにどれだけ日にちがかかると思ってる」「火炎放射器は」「別の収容違反の危険が」
議論は遅々として進まなかった。SCP-073-JPそのものの危険性は高くは無くこれ以上漏れ出す心配もない。だがとにかく数が膨大だ。
彼らは責任者として可能な限り施設の被害を抑えた駆除方法を検討し、具体的方策を申告しなくてはならなかった。
「主任っ!これを見てください!SCP-073-JPが・・・・」
警備員の一人が震える指でモニターを指し示す。その場にいた全員が一斉にそのモニターへ釘付けとなった。
厚い隔壁で隔離された保安室に並んだモニターに異様な光景が映し出されていた。レッドカーペットのごとくうごめくSCP-073-JPが一斉に同じ方向へ移動し始めたのだ。
まるで何かから逃げるように。
「脅威レベルを引き上げる!対象は群知能的行動をとっている可能性がある!収容部隊を4班に分けて火炎放射器装備の上即応体制!5分以内だ!」
警備主任がマイクを握り締め、怒鳴り声を上げた。
「最悪の事態を想定しろ!状況次第では施設ごと爆破を・・・」「しゅ、主任っ!こ、これを!」
警備員の一人が震える指でモニターを指し示す。その場にいた全員が一斉にそのモニターへ釘付けとなった。
厚い隔壁で隔離された保安室に並んだモニターに異様な光景が映し出されていた。レッドカーペットのごとくうごめくSCP-073-JPの群れの中に、競泳用水着を着た女が一人立っていたのだった。
女は片手で重さ40kgを超える財団特製の火炎放射器を担ぎ、もう片手には拳銃を握っている。水着の腹の部分には奇妙な漢字の書かれた紙が貼られていた。
女は、ああ神よ・・・。 その口には滅多に吸われる事の無いタバコが咥えられている。それはとてつもない嵐の前兆なのだ。
「最悪だ・・・・。」
これから引き起こされるであろう事件を想像し、警備主任は青ざめた。
「一体何が起こるんですか?」
泣きそうな顔をした若い警備員が尋ねる。
「「BBQだ。」」
監視カメラの向こうに映る女と警備主任は同時に呟いた。
-██月7日 PM4:32 サイト-8173
状況は収束に向かいつつあった。SCP-073-JPの大群を、今は無人の収容部屋内に閉じ込めた前原博士は火災検知器を拳銃で破壊、スプリンクラーを止めた上で手動で防火扉を閉めた。
そして財団特製のK-27火炎放射器内の16リットルの特殊燃料を部屋内にぶちまけると咥えタバコを放り投げた。
爆発的な勢いで燃え盛る炎の中、水着姿の女は逃げまわるザリガニをハイヒールで潰しながら炎熱地獄の部屋を後にした。
-██月7日 PM4:45 サイト-8173
完全武装の収容部隊員一名が負傷。前原博士に静止を命じたため。
隊員はすぐに医務室に搬送。
-██月7日 PM6:45 サイト-███ 職長聴取室
「一体なんのつもりだ!?君がしでかしてくれた無数の違反行為が、どれだけ人類にとって危険な事だったか解っているのかね!?SCP-081-JP並びにSCP-052-JPを無断で持ちだして!」
サイトの管理チーム及び警備チーム、論理委員、その他大勢の高ランクの権限を持った者達が一人の女を囲んで居た。まともな神経の持ち主なら萎縮してしまう所だったろう。
「ええ、全て理解してますわ。その上で、ああしたのよ。よかったじゃない、さっさと片付いたし、ザリガニって高級食材だし。」
スーツに着替えた女は悪びれも無く言い放つ。
「……君への処分はおって通達する。何故あんな無謀な真似をした!サイトごと爆破する事になったかもしれないんだぞ!ヒーローのつもりか!?」
「冗談じゃないわ、私は休暇の真っ最中だったのよ。それをアホみたいなミスで台なしにされたのよ?その上残業なんてやってられないわ!さっさと終わらせたかっただけよ。」
「呆れた奴だ。もう顔も見たくない、さっさと出て行け!」
「この代休許可証に判子を貰えたら出て行ってあげるわよ。」
数秒間、怒りに拳を震わせた管理主任は、傍らの論理委員が首を左右に振る姿を見、そしてがっくりと椅子にもたれかかり力なく判を押した。
-██月8日 AM0:35 都内某所
博士は激怒した。
スマートフォンが力の限り握りしめられ、その拳が木製のテーブルにたたきつけられた。
優雅にカクテルを楽しんでいたBARの客の視線が一斉に注がれる。
崩壊しかけたゴリラガラスの液晶に表示された新規メール、そこには「ごめん、やっぱり別れよう。」の文字があった。