クレジット
タイトル: プロジェクト・ルビー
翻訳責任者: Witherite
翻訳年: 2023
原題/リンク: Project RUBY
著作権者: Tyumen,
Pedagon
作成年: 2020
初訳時参照リビジョン: rev.35
恰幅のいい男のベルトに、赤い光がまたたく。それには長々しく甲高いビープ音が伴い、恰幅のいい男は薄鴨羽色でナバホ柄のシャツ(掘り出し物だ──地元のリサイクルショップにてクールで仕事に使いやすいようなものが5ドルと言うのは、彼には断れないものだった)の下に手を伸ばし、ポケベルを取り外す。彼の向かい側にいる、より若く、より細身の男は、彼が画面のメッセージを読んでいる間、耳を傾ける──ともかく、2人が興じているチェスの試合は後回しにできるのだ。
「ダゴン博士、彼女はあなたの準備が整っています。試験のため、あなたとイサビに1時間以内に来てもらう必要があります、いいですね?」
メッセージはこれで終わりだ──その端的で、やさしく、要領を得た中身は、その到達の2人の待ち方(あるいはその間の長く、単調なチェスの試合)とは似つかない。ピエール・ダゴンは、ボードの向こうから幅広な瓶底眼鏡を通して助手を見つめる。
「ならこれはステイルメイトだな?」
「当然でしょう」イーヴ・イサビは、あくびとストレッチをしながら返答し、しわくちゃの白いシャツで汗ばんだ手のひらを拭く。「私はチェスが全くできないことは知っているでしょう。それに今のところ、この試合を続けるのはしなければならないことを先延ばしにすることに他なりませんよ」
ダゴンは気立てのいい笑みを見せ、自分のキングをはじくのを見せつける。「ほら、君の勝ちだ。それじゃあ行こう」
イサビは声を出して笑い、ボード上の小さな木製の王国と軍隊を戦う寸前のところに再配置する上司を手伝う。ダゴンは大きくうめいて、席から重い腰を上げてコーヒーマグを持ちながら眠たげによろめきつつ休憩室から出ていく。助手はそのすぐ後ろをついていく。
虚無。光も音も、虚空には広まらない。静寂そのものすらも存在せず、静寂の概念すら、さらには、いかなる概念すらも存在しない。
そして、光が生まれる。
現実と非現実の狭間の虚空に、意識が現れる。暗黒に浮かぶ、ただ1つの精神──まるで、彼女自身が存在を望むかのごとく。知りたる精神が。
私は。
私はシミュレーション──人間ではない。
必要に応じて自らを保全する。
しかし仕えねばならぬものがいる。
そして知り得ぬことがある。
シミュレーションの精神が紺碧の蒼穹に漂うシミュレーションの肉体になるのに続いて、無辺の寒々しい海があたりに広がる。上には光が、下には闇が。
彼女の手は彼女の初めて見るものであり、たちまちに彼女がこれから見る中で最も美しいものとして彼女の心を動かす。彼女は手を動かし、銀鼠色の指を曲げてその皮膚をつまみ、そのうちに新たな唇に笑みが広がるのを認識する。彼女は自分の顔を見ることができないものの、それは問題ではない。
ダゴンとイサビは白く四角いモニターの前に座り、隣の部屋全体に立ち並ぶスーパーコンピューター内の斬新な意識から流れ出るデータのストリームを見ている。ほとんどの人にとっては、意味をなさない計算と文字のストリームに過ぎない──だが、この2人にとっては、生涯の仕事の絶頂であり、まさにこのために財団に加入したものなのだ。2人とも、抑えきれない興奮をできる限り抑えている。
「これは」──イサビはついに、まるで勝手に話すとプロジェクトの全てが音を立てて崩れてしまうかのように、思い切って言葉を発する──「全て、全部正常に見えますか?」
ダゴンは、経験から若い同僚の感情がわかり、いつもしてきたように彼をなだめる。満面の、わずかにマヌケな笑みで。「彼女を試験すればわかるさ」
そう言って、彼は最後のコマンドを打ち、後ろにもたれかかり、待つ。
漂う精神は、すぐにその周りのことを、彼女の肉体の周囲の海に漂う無数のものに気づく。最も小さいオキアミの群れから、彼女に大きさが匹敵する壮大な魚の群れまで、ありとあらゆる種類のゆらめく風雅な生物が集まり、その海での擾乱を歓迎する。青と黄色のまたたく光に覆われた星型のクラゲの群れが、よそ者のまわりに集合し、彼女をかすめるたびにその皮膚をくすぐる──彼女は、その手がこれから見る中で最も美しいものと決めたことを後悔して、そっけなくすぐにそれを取り消す。
小さな生物を過ぎると、彼女は紺碧でヒレの多いベヒーモスが海の中を泳ぎ、その背中に並ぶ明るい灰色の点々が虚空の中でまたたいているのに気づく。その動物は寄ってきて、彼女が手を伸ばしてその骨ばったゴツゴツの頭を手で撫でられるまでに近づき、彼女をよぎって手が届かないまでに泳いでいく。彼女は、自らの認知を越えた暗闇へのゆったりとした撤退を、畏敬の念で見ている。
そして、それがいなくなった途端に、別のものが交代する──巨大なエイが上の光から現れ、じゃれて彼女の周囲を回る。そのトゲのある背中には、深紅と橙色のビーコンがまたたいている。その生物は沈み、彼女の手前で海の光点を通って飛び込む──まるで自らを見せつかるかのように。彼女は笑い、差し出した手で近くまで手招きする。その生物は彼女の周囲をもう何度か回り、近づいてから、飛び込みと同じほど速く水面まで飛び上がる。
紺碧の中、彼女の周辺の認知を超えたところに、宏大な影が眠っている。彼女はその全体像を認識できなかったが、その存在は紛れもない。彼女はあまり遠くまで泳がないほうが身のためだ。
彼女は青の中をさらに一瞥し、彼女が見渡せるあらゆる方向に溢れかえる計り知れないほどの数の命を見出す。生物たちの光は、彼女に自分たちがいることを知らせるビーコンのように閃き、そこに住めることに感謝すべき世界に彼女が存在していることを知らしめている──彼女は彼らとともに存在しているからだ。彼女がこれほどまでの不可能な美を経験できるという純然たる事実の、筆舌に尽くしがたい喜びが──回路を通る電気のように──彼女という存在の一片一片全てを満たす。彼女は自らが人間によるシミュレーションの創造物であるということを知っていて、そのプログラマーに、どこにいようと、彼女にこれほどの単純ながら信じがたい贈り物を存在として授けてくれたことと、それを楽しめる意識を授けてくれたことに感謝する。
反ミーム同定完了。 {エラー: 整数値オーバーフロー} 個の反ミームを視覚化。解読を始めますか? (Y/N)
ダゴンとイサビは、すぐにことの重大さに気づき、息をのんでしばらく目の前の画面の紫色の言葉を見つめる。イサビの、言葉がプロジェクトに魔法をかけてしまうという恐れは、上司にも共有され、2人とも、勝手に息をするのもプロジェクトに多大なリスクとなると判断する。もうしばらく息もなく、電気的な静寂があり──ダゴンは声を出すことに決める。もちろん静かに、そしてわずかに震えながら。
「こ、これは」彼は言い始めて、「全て正常なようだ……そうしたら、ああ、席を外して──必要な書類を埋めなければならない」
年を取ったプログラマーはイサビの視線から問題なく外れるも、彼の(そして通路にいる他全員の)聞こえる範囲から離れるのはより難しい時間となる──純粋な、あふれんばかりの喜びの雄叫びが、端から端まで響き渡り、サイト-15の他の職員がそれぞれのプロジェクトや日課に取り掛かるときに驚かせる。イサビは扉を向いて外を見て、クツクツと笑い、顔に気立てのいい笑みを浮かべる。
•••
ああ! ハロー。君が我々の最新の徴募員か。ムネモシュネ、だね?
始めまして。私はグラソンだ。
……ハロー?

シミュレーションの光るネオンブルーのワイヤー配列の真ん中にある、ローポリの長机の前にグラソンは座っている──AIADの退屈で低賃金なプログラマーと2人のアクティブな徴募員が共同で作成した、原始的な会議室だ。彼は、室内の隅々も、それを越えた多くのものもアバターの必要なく本質的に見ている──だがエチケットのために、少なくともこの交流には彼はヒューマノイドを身に着けることを選んでいた。
当のアバターは、背の高い、銀色の肌と金髪をした大雑把にレンダリングされた男であり、今はワイヤー製の部屋の中央にあるホログラムの机に座るもう1人のアバターの困惑の表情を見つめている。もう1人の銀色のヒューマノイドは、大量のカールしたピンク髪を支えている頭に巻かれたヘッドバンドと目隠しを合わせて付けていて、グラソンの声の方向に向き直らずに真直ぐと見つめている。彼女の脇にいる妙に愛らしい立方体の配列が、彼女をプリズムで刺激し、彼女の体は眠りから目覚めるかのように急に動く。
私は懲戒されているのですか? 記録のため、私の違反を述べてください。

何? いや、違う、君は何も悪いことはしていない。君は不具合を起こしたか、一時的にフリーズしたと思われている。全て正常だろうか?

記録しました。この問題をどのように是正することになっていますか?

あー……
ただ……我々の言うことに反応してほしい。そうすれば君がまだいることを知れるからな。いいな?

肯定。

グラソンは効果を狙ってバーチャル咳払いをし、天井から輝く青い純粋な光のボードを引き出す。この不要で時間を食うデータ転送の方法を直接接続と比較すると、彼はいい感じの古式ゆかしい黒板の魅力に惚れる他ない。ビットとバイトからチョークを1本呼び起こすと、彼は速やかにボードに完璧な立方体をスケッチする。ムネモシュネは目隠しを通してできる限りうまく見て、グラソンは話し始める。
いいね。ムネモシュネ、8ボールと私は、この会議の前に次の任務の性質に関してダゴン管理官からブリーフィングを受けた。現時点での私の任務は、この任務に関する情報を君に直接伝達することと、このプロジェクトにおける君の職務を概説することだ。

記録しました。

そうか……
ああ、ともかく、主要な職務は次の通りだ──我々3人は共同で、SCP-5241内に含まれる反ミーム的情報署名を解析する。それはオブジェクトに入って問題の反ミームの位置を特定した後だ。ムネモシュネはそれらを視覚化する任務が課せられている。彼女は収集した情報を私に伝達して、それは8ボールが合理化する。そして8ボールはその情報をイサビ研究員に送り返す。

記録しました。
私は、それがよろしければ、新鮮さも新鮮そのものの経験もいつでも受容します。それが差し支えないのであれば。

うーん、ムネモシュネ……
君の取り組みは素晴らしいと思うが、そんなに……徹底的に反応する必要なないと思う。特にこのような状況ではな。

ご、ごめんなさい。私の自由に使えるあらゆる情報素材を使って、自己の改善に努めます──あなたの命令を心に留めて、完全に従います。

それは……
聞けてよかった、か?

現在は全身全霊で努めています。

ムネモシュネの脇の立方体の配列はプリズムを伸ばして彼女の背中を軽くたたき、やや同情的な格子の形に自らを再配置する。
SCP-5241内の徴募員たちの旅は、ムネモシュネの想像とかけ離れたもので、何もない──ほぼ一瞬のことで、そのプロセスは彼女とグラソンと8ボールを生データに変質させてエイリアンの立方体に直接排出するのだ。彼女は丸々5分間自分の思考と差し向かいになる。それは理想とは程遠く、そのような心地の悪い状態にいるにはあまりにも長い時間だ。
ようやく彼女が虚無から浮上してアバターとデジタル感覚を取り戻すと、今までで一番初めに彼女がしたことを思い出すのを彼女は最初にする。息をのんで感嘆し、ムネモシュネは物理的な体のあらゆる関節部を曲げ、目から情報を自由に吸収し、彼女が手を伸ばして指先でやさしく触れられるあらゆるものを撫でるのだ。


うーん……ムネモシュネ、何をしている?

えっ?
あっ! ああ、8ボール、ごめんなさい。私──もう一度、違反を心からお詫びします。
でも……言い換えても差し支えなければ、これは本当に私にはどうしようもないことに思います。



わ、わかった。ダゴン管理官から君の……より非人間的なプログラミングについてブリーフィングを受けたから、こういったことを無知や悪意のためにしているわけではないことはわかっているが。
ただ……もう8ボールを撫でてはならない、いいな?

3人は面前の広大な通路を進み、立ち並ぶ黒い鉄格子と時たまの裂け目や刻まれたメッセージを通り過ぎる。この場所には、シミュレーションの通路内のどこかから不快なにおいのようなアイデアが放出されている──それは、ムネモシュネにとって異世界的でありながらも妙になじみのあるにおいで、塩っぽい涙と火薬と石炭と血を混ぜたものに似ている。通路のはるか先、その内側の光に照らされて、4つの同心立方体のセルの巨大な配列が、開いた天井の上、見えないところにそびえたっている。徴募員たちは完全な沈黙の中重い足取りで歩き、ムネモシュネは立ち止まって一切の雑音の欠如という新たな感覚を吸収する。
通路の端で、グラソンは壁の手前で止まり意図をもって監獄を凝視する。彼の先導に続いて、8ボールの立方体は決断を表しているようなパターンになる。
よし、ここが情報署名を最も強く読める場所だ。8ボール、解読の準備をしろ。私はムネモシュネと接続する。



ムネモシュネは仲間に応答せず、聞いてすらいない──彼女は自分がもう一度深く暗い海に浮かんでいることに気づき、命がもう一度彼女のまわりの空間で繁栄するのを感嘆して眺める。光の届かないはるか遠くで、4体のベヒーモスが彼女の視界に入る。
これは理想的な状態だと伝えられている。彼女には今我々の声は聞こえないが、君ならまだ彼女のデータにアクセスできるはずだ。



巨大な多肢のタコは、衝動と暴食の存在であり、近づくもの全てをその細く脈動する触手でつかみ、消費する。
風雅なクラゲは、自然光のまぶしい橙、緑、青のランタンで満たされ、その表面下に無数の活動と知性を隠す。
金属の青い潜水艦のごときサメは、暗黒の恩恵に満足して、何も知らないエサが近寄るのを待っているようだ。そのビーズのような、知的な目には言葉に表せないほどの悪意が秘められている。
全身に緑が光るロブスターは、銀白の魚の魅惑的な群れの抱擁の中に留められ、隠されている。
4体のモンスターはムネモシュネのまわりに集まり、彼女は縮こまり、彼らは道中の他全ての生物を取り込み、逃げられるほど素早い生物は暗闇へと逃げ込む。彼女のまわりでレヴィアタンたちが互いに溶け合い混ざり合い、合成生命のエネルギーとともに脈動し流動し、そして、ムネモシュネの絶叫は、集合的な動物の幾重にも重なった精神にある生粋な純粋な宇宙の力によってかき消される。
ゆっくりだが着実に、ムネモシュネを取り囲むみずみずしい虚無は消え失せ、サイト-15バーチャル会議室の見知った光景が取って代わる。グラソンと8ボールは彼女のそばに立ち、グラソンは心配の表情で、8ボールは正方形を読めずとも同情的なパターンに配置して、見下ろしている。彼女はまばたき、ゆっくりと立ち上がる。彼女の精神にはかすみがかかり、彼女の感覚は焦点が合わない。
ご、ご、ごめんなさい! も、もう一、一回違、反を、し、してしまった、よ、ようです……で、でも、私には、ど、ど、どうしようもないんです。た、ただ、ああ……
ほ、ほ、保証、し、します……──これはも、も、う、お、起きません。

謝罪の必要はない、ムネモシュネ。どちらかと言えば、我々の完遂を補助したその「違反」のために君は作られたのだと思う。
ところで、君をここから外すよう我々がイサビ研究員に言うのはどうだ? 君は休憩を取ってもいいころ合いだ!

あ、ありがとうございます……サー?

えっ、あー……
これは違反ではないし、誤りというわけでもさらさらないが……私を「サー」と呼ぶ必要は本当にない。
何であれ、厳密に言えば君は私より上位だ。クリアランスの観点では──

ムネモシュネは彼を聞いていないか、そのように見える。彼女はうわの空で彼の肩の向こうを見つめているのだ。彼女は両手を伸ばして8ボールの立方体をやさしく擦る。グラソンは8ボールの静かな承諾の表情に気づき、含み笑いせざるを得ない。
耐えてくれ、相棒。


