「先生……」
掠れているがしかしはっきりとした男の声が言った。
「調子が悪いんです」
「それは大変お気の毒に」
「じゃあなんとかしてくださいよ」
男は声を荒げてそう言ったが、しばらくして我に返った。
「申し訳ありません。本当に申し訳ありません。先生のせいじゃないことはわかってるんです。僕が馬鹿だったんですよ」
「違いますよ」
「先生には本当のことをお話しします。それで実際には何があったのか判断してください。先生が僕のことをよく知ってくださってるのはわかってます。だって僕は今まで先生の質問には何でも答えてきたんですから。でもそれはそう義務付けられていたからじゃありません。僕はあのクソ野郎が憎い。僕をこんな目に合わせたあいつが。先生、どうか約束してください。もしあいつのことが何かわかったら……」
男は少し咳払いをし、深呼吸する。
「それでは始めましょうか。話さなければならないこと全部話しましょう。当時、僕の人生はまぁいい感じでした。会社ででっかい利益上げまして、安定したところに勤めてたわけです。見た中で1番綺麗な女性とも巡り会った。子供も産まれた。僕のような人の最たる悩みってなんだか分かります?1番は時間が無いってことに尽きますが、まあそれは当たり前ですよね。僕らはみんなそれに折り合い付けて生きているんですから」
男は自嘲気味に笑う。
「背痛です。背痛だったんですよ。1日8時〜16時、おはようからおやすみまで毎日座って仕事してたらどんなことになるかって分かります?そんな中でPCの前で持ち帰り残業なんてできます?やってられませんよ。金で子供の頃みたいな柔らか〜い背中が買えたらなって考えるわけですよ。色んな塗り薬やら軟膏なんかを薬局で買って試したり、マッサージなんかもしました。まぁどれも効かなかったんですがね。おはようからおやすみまでいつでもクソ……いや痛いな〜ってなるんですよ」
男は最後まで拳を固く握りしめて言った。
「ある時、そそのかされてしまったんですよ。彼らの言う"生物学的自然再生"っていうやつに。ネットにレビューは落ちてなかったんですけど、痛くないわけないよなぁって思いました。もうお話ししましたが、その治療の予約に行った時には幾らか綺麗でマトモな場所に見えたんですよ。でもってあの畜生から治療の前にちょっと法的な書類にサインしてほしいと言われました。最悪だったのは奴の治療魔法が効いて若返ったって思ってしまったことです」
男は数分間咳をする。
「でもそんな気分はほんの数週間で、あっという間に魔法は解けてしまいました。最初、それを確認したのは髭を剃っている時でした。視界がぼやけてたんですよ。爺さんになったなぁって思いました。それで日に日に目は酷くなっていくばかりでした。眼科に行って角膜移植を受けようにも遅すぎました。仕事は辞めざるを得ず、障害者手当を貰いました。その後家は売っぱらい、普通の平屋に引っ越しました。ウチの我儘坊主は……ダミアンっていうんですが、転校先には友達がいない、って不満げでした。その時の僕はもう自分でトイレに行くのがやっとでした」
男は少し話すのをやめた。
「これが始まりでした。その時には僕は自分のケツも拭けませんでした。僕は朝にシャワーを浴び、時にはそれが午後にずれ込むこともありましたが仕方の無いことでした。僕はギャグみたいに反射的に反応することもありました。いつも悪夢で起こされるのです。僕は日に日に弱っていくのを感じていました。排尿に異常が起きたりもしました。それで僕と嫁2人きりで医者に行きました。何回行っても無駄でしたがね。嫁はなんでもないようなフリをしていました。彼女のそのうわべを取り繕う姿勢にはいたたまれない気持ちになりました。嫁と僕との緊張はどんどん高まっていきました。昨日の夜、僕が家で寝れなくなっていた時のことでした。その寝れない理由と言うのは嫁がキッチンに立っていたからでした。彼女は僕に向かってただ笑っていました。嫁の笑い声を確かに聞いたのです。僕はベッドから飛び起きましたが、彼女は笑うのを止めませんでした。僕はキッチンやリビングで笑うのを止めろと言いました。結局、僕は嫁を殴りました。がしかしあの女は起き上がりました。嫁は『私は子供達を連れて出て行く。あんたはこの狭い部屋で勝手に老いさらばえろ』と言ってきました。僕は嫁を何回も何回も殴りました。しかし何度でも起き上がってこようとしました。そしてただ笑みを浮かべていました。その後のことは思い出せません。これが僕に起きた全てです。それ以外はあなたの知っての通りです。どうでしょうか?先生」
「あなたはいい旦那さんだったと思いますよ」
彼は男の腕を革のベルトで固定し、注射を打ちながら言う。
「ありがとうございました」
男は痙攣している。