Q9ALT #1 "Quest 2B Saved"
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[2021/10/3]

『こちらアルファ-1、C-2地点を東へ進行中に突如背後の地形が消失、これにより5名の隊員をロストした。退路が断たれたようだ、このまま進行していいか?』

通信機から聞こえてくるのは異様なまでに冷静な報告、プロフェッショナル故の無機質かつ単調に窮地を伝える声が指揮官の心臓に突き刺さる。

「ダメです、隊員を欠損した状態での行動は事態の悪化を招きかねません。その場で待機してください、すぐにB-3地点のベータに別ルートから向かわせます。合流が完了したら報告してください、聞こえましたか、ベータ-1?」
『こちらベータ-1、合流指令了解しました。ルートの指示をお願いします』

そうするべき根拠はなかった、ただマニュアル的判断だと待機するべきだというだけのことだった。少なくともこちらから彼らの姿は視えているのだから、必要とあらばすぐに指示を送ればいい……と、その時の僕はそう思っていた。彼らの冷静さに惑わされていたのかもしれない。

『こちらアルファ-1、ベータとの合流に成功した。ベータの経路から撤退を開始し──』

だから、合流した彼らが悲鳴一つ上げずノイズに呑まれ虚空に消えていった時はそれを理解するのに数分の時間を要した。通信機器に向かって立ち竦んでいた僕の肩を指揮補佐官が叩いた時、その永遠にも感じる硬直はようやく解けた。解けたとて、やるべき事は殆ど残されていなかったが。

「……作戦本部よりサイト-8165へ報告します、本作戦は失敗。本作戦は失敗し……機動部隊て-11、て-12、両部隊の全隊員をロストしました」

「鳥飼君。君の指示はあの場に居合わせた者として決して間違ったものではなかった、個人の意見として、私はそう考えている」

サイト-8165管理官室。西日の刺すその部屋で鳥飼と伊勢山管理官は一対一で向かい合う。

「だがね、これは主観的な評価に過ぎない。客観的に見れば、やはり君の指揮で2小隊24名が失踪したというのは紛れもない事実であり……相応の処分が君を待っているのも事実だ。少なくとも、今の役職で居続ける事は難しいだろうな。監査会には元より君のような歳の人間が指揮官の責務を負っている事そのものに苦言を呈していた者も少なからず居たからな、良くて指揮補佐官に逆戻りって所だろう」

僕は"そうですか"と端的に返す、何も反論はなかった。僕はどんな顔をしているのだろうか、管理官は僕の反応を見てひどく眉をひそめた。

「君は……そうだね、君は今回のことをどう考えているんだ?」

管理官は僕にどう答えて欲しいのだろうか。少し考えたが何もわからず、ただ自分が本当に思っている通りに答えた。

「すべて僕の責任です。確かに欠員発生時に待機指令を出すのはマニュアル通りでした、その点では管理官の言う通り"決して間違ったものではなかった"指示なのかもしれません。しかし、地形異常が発生した際に発生源から遠ざけるよう指示するのは当然だとする監査会の見解に反論の余地はなく……何より、24人の精鋭を失った事の報いは受けて当然ですから」

自分でも少し驚くほどすらすらと言葉が出てきた。管理官の顔が余計に渋くなる。

「報い、か……君は、未練はないのかい?」
「未練を持つ権利がありませんよ」
「あるんだね」
「……ないわけでは、ありません」

矢継ぎ早の応酬の末、僕が呆気なく折れた。未練、というよりは。これから下される"処分"が、24人の命に釣り合うとは到底思えない事への憂いの方が正確だった。その事を極力遠慮がちに、当たり障りなく言葉を選んで話す。

「なるほど、つまり君は償いの場を求めている。そうだね?」

[2021/10/7]

"世界間渡航は奇跡論的技術であり、再現性はない。"オリエンテーションで流布されるその通説を鵜呑みにしている職員はまず居ないが、他でもない財団がその技術を持ち合わせている事実を知るものは一握りだ。意図してそれが隠されている理由は幾つかあるが……

「最も代表的な理由は、世界間渡航が普及すればそれに応じて平行世界から"よからぬもの"を持ち込んでしまう確率が上がるから、だ。触らぬ神に祟りなしって所だな」

運転席に座った名前も知らない無精髭の男がルームミラー越しに後部座席の僕に話しかける。こちらが相槌も打たず黙りこくっていると気にした様子もなく話を続ける。

「財団の役割はこの世界の正常性を護ることだ、そのためにヨソの世界のことは見て見ぬふりをする。これは本部で公式に決定されて久しい……そして、お前のこれからの仕事はまさにそれと相反する事だ」

僕が連れてこられたのは隔離サイト-81Q9、初めて聞くサイトだ。いや、隔離サイトの存在なんて得てしてそういうものだが。彼がセキュリティ関連の手続きを進めている待ち時間で、僕は伊勢山管理官とのやり取りを思い返していた。

[2021/10/5]

「別の世界で、さらに別の世界を救う仕事、ですか」
「そうだ。私たちの別世界に対する表向きのスタンスは"不干渉"だが、全く以て見捨てるというのは人道に反する……いや、敢えて天道に反すると言っておこうかな」
「情けは人の為ならずと言いたいんですか?」
「端的に言えばそうなるだろう。しかし他の世界を救うためにこの世界が共倒れになってしまっては元も子もない。だから別世界に拠点を構え、そこを起点に他の世界を救う。それがサイト-Q9ALTの、君にこれから出向いてもらいたい拠点の役割だ」
「……その世界が共倒れになるのは天道に反してないんですか」
「何もしないよりずっとましさ……そう思わないかい?」

「繰り返すが、お前が向こうに赴いたら十中八九は片道切符だ、帰って来ることはまず許されないだろう。今からでも元の処分を受けることはできる、本当にいいんだな?」

四重のセキュリティをパスした先で僕は背丈の倍以上ある鉄扉の前に立たされる。その質感と、見た目以上にその扉が持つ意味に重圧を感ぜざるを得なかった。それでも引き返すつもりも資格もない、僕は相変わらず重い口を一文字にしたままひとつ頷く。

「そうか、まぁ今更やっぱなしとは言いずらいだろうが……良いだろう。じゃあな、お前が救われることを祈ってるよ」

技術番号: ART-1103-JP
 
個体数: 1
 
保管場所: 隔離サイト-81Q9
 
使用手引: ART-1103-JPの使用はサイト-8147,8165,8170のいずれかの管理官の承認が必要です。使用者は1回の使用につき1名に限定されます。
 
説明: ART-1103-JPは有効高さ4.2mの門戸型世界間渡航装置です。渡航先を選択することはできず、識別番号AA-2101(以下、本世界)とAE-2102(以下、亜世界)のみを双方向的に接続します。渡航の際の身体影響評価はA(影響なし)を示していますが、亜世界から本世界への渡航はリスク隔離原則に基づき原則認められていません。
 
AE-2102は本世界と世界間距離のきわめて短い平行世界です。物理法則、地形、生態系において本世界と完全に一致しますが、ヒトおよびヒト指向性アノマリーのみが存在せず、人工物は推定で本世界における2015年時点の状態で放置されています。この原因は判明していませんが、そのアクセスの容易さから現在の亜世界はサイト-Q9ALTと特例避難区域204~218が設置されています。
 
サイト-Q9ALTは別世界における財団との連携および人類の保護を主目的とするサイトです。サイト構成員は特殊処分規則に則り異動を命じられた職員で構成されており、世界間渡航を可能とする他の技術装置および作戦行動を補助する各設備を有しています。

「とりあえず説明はこんな所かな、質問は?」
「正直、まだ色々ありますが……その都度説明してもらえればいいです」

扉を抜けた先で僕を出迎えた長身の女性がそのまま応接室に僕を連れてきて、ここでの仕事の概要を説明する。8165の管理官に話を聞いた時はこんな隔離サイトの存在など半信半疑だったが、こうして実際に──実感は湧かないが──世界間渡航をしてみて、説明を受けてその事実がようやく飲めてきた。

「違いないね、じゃあとりあえず君が配属する部署のほかの職員と顔合わせと行こうか」
「……はい」

顔合わせ。そもそもここの職員がどれ程の数居るのか知らないが、全員が全員僕のような訳アリ品だと思うといささか妙な気を遣わざるを得ない。端的に言い表すと"不安"の2文字に収まるそれが顔に出ていたのか、彼女は何かを思案するようにチラと視線を逸らしてから当たり障りのないフォローを投げる。

「ま、心配することはないよ。君がどうしてここに来たのかは知らないし、向こうでどんな風に言われてきたのかも知らないけど、ここはサナトリウムじゃないからね。数ある職場の一つに過ぎないと思ってよ。それじゃあようこそ、Q9ALTは君を歓迎するよ」

「初めまして。鳥飼わたるです……サイト-8165から来ました」

会議室に集まったのは先ほどの女性の他に11人の職員、半数ほどが外見からして既に特殊だ。それぞれの視線が黙々と僕を見定めているのが伝わってくる。しかしどうだろう、向けられた僕は何を話すべきか何も浮かんでこない。ふと思い出したのは財団の1次採用試験、シチュエーションは似ても似つかないが、おおよそあの時のようなどもり方をしてしまっている。ここに来ることになった経緯を話したらいいのか、いやしかしそう易々と告白しがたい気持ちもあるが……

「それで、お前は何ができるんだ?」

ぶっきらぼうに口を開いたのは2mはありそうな背丈の男、座っていてもその巨躯が威圧感を放っている。"何ができる"、彼はおそらく文面通りのことを聞いたのだろうが、僕はそれに暗に込められた意味がないか探ってしまう。

「何が、というのはどういう意味でですか?」
「ここに連れてこられる奴は飛び切り優秀だった元エリートか"使いよう"があるアノマリー持ちかの二択だ、お前はどっちなんだ?」
「そういう事ですか……僕は後者です」

実際のところ、肩書だけで言えば僕を前者に分類することもできただろう。しかし今の僕にそれを名乗る自信は無かったし、なにより後者であるという事に偽りはなかった。僕は説明を続ける。

「僕は鳥瞰能力を持っています……広域を疎密なく観測できるので、それを活かして指揮官を務めていました」

鳥瞰とは上空から斜めに地上を見下ろした視線のことだ、実際はその力を過信したせいであんな指揮をしてしまったのだが。そんな余計な一言は付け加えず、客観的事実だけを用いて説明した。それを聞いた大男は腕を組んだまま納得したように小さく頷いて見せた。

「指揮官か、なるほどなるほど。道理で俺たちの部署に来たんだな」
「……と、いうと?」
「何が"というと?"だ、作戦チームに配属されたんだから、お前は指揮をしに来たんだろ」
「……はい!?」

ここでも僕に、まだ指揮をさせるつもりなのか……!?

「なるほど、つまり君は。指揮官として失敗してここに来たのだからほかの役割を与えられるものだと思っていた、と」

僕の素っ頓狂な反応のせいで微妙な幕切れとなった"転校生紹介"ののち、会議室には僕と最初の女性が残った。彼女、名前は空鳥あとり 棗と言うらしい彼女は僕の拙い説明を最後まで聞き届けてから的確に話を纏めて見せた。

「はい……確かに僕は罪を償うためにここに来ました。でも、だからってまた指揮を執るなんて、そんな……」
「うーん……そうだね、さっき私はここはサナトリウムじゃないって、そう言ったけど……ハローワークでもないんだから。はっきり言ってずぶの素人を置いておく場所じゃないのさ、君がここに来ることが"許された"のは君の指揮の手腕込みなんだよ。わかる?少なくとも、8165の管理官から受け取った書類にはそう書いてあったよ」

彼女の至って穏やかな視線の中に目を逸らせない鋭さが潜んでいて、うまく言葉が出てこない。
僕が想像していたここでの仕事はもっと罪を償うに相応しいような、例えるならー彼らほどの扱いは受けないにしろーDクラスのように体を張る仕事か、或いは土木工事のような何らかのいち作業員として割り当てられる労働だとばかり思っていた。それがどうだ、彼らは……と言うよりここへ僕を送り込んだあの管理官は僕に指揮官としての役割を続投させようとしている。
正気じゃない、彼らだって僕のここに至る経緯を知ればきっと僕が指揮を執ることを拒むだろう。そんな主張をやや昂揚気味に伝えて空鳥に反論した。彼女は駄々をこねる子供を見守る母親のように薄ら笑みを浮かべながら僕の訴えを聞き、二呼吸ぶん空けてから口を開いた。

「つまり、皆が君に指揮を任せてもいいと思っているなら指揮をしてくれるんだよね?」

どこか含蓄のある物言いをする空鳥につい眉を顰めてしまう。とはいえ否定はできないのでおずおずと首を縦に振った。

「……はい」
「だそうだよ、皆。どう思う?」

空鳥はそう言って無人になったデスクへ視線を向ける、僕もそれにつられて虚空を見遣った。するとどうだろう、誰も居なかった筈の会議室が先程の彼らで埋まっていた。何が起こったかわからずただ目を丸くし、そして再び空鳥の方を向くと僕の反応がよほど面白かったのか頬を膨らませて笑いを堪えている。

「ぷっ。ふふっ、ああおっかしい。さっき熊澤、あのデカいのが言ってただろう?ここに居るのは元エリートかアノマリー持ちだって」
「つまり、貴方も」
「そう、元エリートさ」
「……」
「冗談さ、半分はね」
「……引っ掛けたんですか、僕のこと」
「うん、こうでもしないと君はその腹の内を抱えっぱなしにするつもりだったでしょ?」

空鳥は心底愉快そうに笑う。残りの11人もそれを咎める様子はないし何なら一緒になってクスクスと笑う人までいる。なんだか彼女の、と言うよりここにいる全員分の自己紹介を食らった気分だ。

「それでどう?皆。亙君の話を聞いて、指揮官を任せたくなくなった?」
「そうだなぁ、どっちかと言えば」

熊澤、或いはデカいのと呼ばれた男は我先にと口を開く。

「俺はお前のそのできない理由を探すのに必死な態度の方が気に食わねぇな。罪滅ぼしに来たんだろ?なのに何を躊躇ってるんだ?」
「だからそれは、また僕が指揮を……」
「罪人が罰を選ぶのか?違うだろ」

とんだ暴論だ、これっぽっちも筋が通っていない。だがそう反論するのを躊躇ってしまうような凄みが彼の言葉にはあり、何より僕には反論する権利がないんだという自覚が湧いてきた。空鳥は閉口してしまった僕に助け舟を出すでもなければ追撃を加えるでもなくただ見届けるばかりだ。

「決まりだな。はっ、お前は今日から俺たちの指揮官だ、ともすれば先ずはその勘を取り戻す必要がある」

勝手に話を進める熊澤。そしてそれに同調するように空鳥が再び口を開いて彼らの方へ1,2歩歩み寄る。

「そうだね、じゃあ早速次の作戦から私に有った指揮権を亙君に引き渡そう。とりあえず初回は私が指揮に付き添って、それ以降は亙君一人に任せて私も戦線復帰だ」

間違いなく僕の事なのに、僕が置いてけぼりにされたまま話が進んでいく。そのまま僕は彼らと共に座らされ、ミーティングに参加させられてしまった。

技術番号: ART-2041-JP
 
個体数: 3
 
保管場所: サイト-Q9ALT
 
使用手引: ART-2041-JPは常に担当職員が監視にあたり、いつでも入電対応ができる状態を維持して下さい。
 
説明: ART-2041-JPは世界間通信装置です。3つの個体において使用目的は同一ですが形式が異なり、電話、デスクトップパソコン、ホログラムボックスの形式をとっています。一部の平行世界にはいずれかの個体と同種の装置が超常技術あるいはアノマリーとして存在しており、それらと通信を行う目的で使用されます。
 
ART-2041-JPの機能は2つに大別されます。1つ目は双方向通信機能であり、これを用いてサイト-Q9ALTは平行世界から援助要請を傍受しています。原則、それ以外の用途による通信は認められていません。2つ目は世界間測量機能であり、別世界から入電を受信した際に自動的にインターフェースに表示されます。表示される値は以下のようにAA-2101~AE-2102間の世界間距離を基底値L₀とした相対値Uで表されます。 

U = 10log10(L/L₀) [dB]

ART-2041-JPにより通信可能な世界間距離の最大値は判明していませんが、現時点で観測されている最長距離は214dBです。

「まずは簡単に振り返ろうか。今回援助要請が入ったのは識別番号AA-3701、空から降って湧いてきたエメラルドグリーンの侵略者に東アジアが沈んだらしい。このままじゃその世界の日本もじきに沈むだろうね。制圧した施設を破壊せずにちゃんと占拠するくらいの知性はあるみたいだから厄介だよ」
「距離は……51dBか、ならマルイチが使えるな」

殆ど置いてけぼりだったミーティングののち、場所をカフェテリアに移して空鳥と僕、それから青木と名乗った後方支援部の人間も交えて個別に説明の機会を設けてくれた。マルイチというのはここにある渡航装置のひとつの通称らしい、遠方までは渡航できない代わりに渡航の際のリスクが極めて低い、とかだったはずだ。

「でも実のところ、対SKクラスのセオリーは存在するんだ。AA-2101だとトップシークレットだけどね」
「それはThaumiel指定されたSCiPなんだが、大抵の世界ではその真の異常性が判明していなくてAnomalous扱いだ。だから俺たちはSKクラスが見込まれる事態で助けを求められたときはまずそのSCiPがその世界で認知されているかを確認するんだ」

資料を斜め読みし始めたばかりの青木もすんなりと話についてきている、何度もそれを取り扱っているのだろうか。

「今回救援が入ったAA-3701でもお目当てのSCiPはAnomalous倉庫送りにされていたみたいだね。そして生憎その倉庫は既に敵の手に落ちているし、残存している機動部隊員はまだ残っている拠点と避難所を守るので手一杯になっている。そこで私たちの出番さ」

よその世界の話とはいえこうして平然と世界の危機を語る二人に僕は眩暈がする思いをした。

「私たちは倉庫に乗り込んで敵の目を盗みソレを盗み出す。そしてソレをまだ動いているサイトに送り届ける。わかりやすいでしょう?」
「……僕がミーティングを聞いた限りでは、敵の目を盗むなんて穏便な表現じゃなかったんですが」
「そこは君の腕の見せ所だよ、亙君?」
「……」

空鳥はさらっと言ってのける、これが何のバックヤードもない会話ならそう可笑しなやり取りではないのだが。相も変わらず出所不明の期待を寄せる彼女に僕は何度目かの閉口で返した。

「まあまあ、君がここでどんなに文句を言いたげな顔をしたって作戦決行は取りやめられないんだから。諦めて自分の役割を見つめ直すといいよ」
「役割……ですか」

果たして僕の役割は、本当にこうして再び指揮を執ることなんだろうか?こんな事で罪は償えるのだろうか?僕にはわからない。わかるのは、彼女は僕に有無を言わせる気がないという事だけだ。柔らかな表情と物言いの後ろ手に手綱が握られている気がした。

技術番号: ART-2151-JP
 
個体数: 1
 
保管場所: サイト-Q9ALT
 
使用手引: ART-2151-JPは手続きALT-6に基づき渡航許可が下りた場合にのみ使用できます。使用の際は装置内の質量、体積が渡航距離ごとの基準値を超えないよう細心の注意を払ってください。
 
説明: ART-2151-JPは有効高さ3.2m,内部底面積4.8m²の筐体型世界間渡航装置です。実地運用が認められた渡航装置の中では一号機に当たることから、サイト-Q9ALTの職員の間では"一号"や"マルイチ"などの通称で呼ばれています。ART-2151-JPは外部依存型内部インターフェースを持ち、出発点と渡航先の世界の大まかに任意な座標を指定して双方向的に接続します。渡航の際の身体影響評価はB(適正な使用下では影響なし)ですが、接続可能な渡航先は比較的近距離の世界のみに限られており、実験により安全に渡航可能な世界間距離の最大値は76dBであることがわかっています。また、渡航距離が許容限界に近いほど一度に渡航可能な物体の質量・体積が減少します、具体的な上限値は別途資料を参照してください。
 
また、ART-2151-JPの使用に際して以下の注意点が挙げられます。

[2021/10/8]

「僕たちが最後ですか」
「そ、一度に乗れる量には限りがあるからね。後はまぁ……後ろがつかえると良くないからね」
「……?」

作戦決行時間。他の作戦メンバーが先にマルイチに乗り込み、遅れて僕と空鳥が乗り込む。なにやら意味深な言い回しをする空鳥に首を傾げていたらQ9ALTに残る職員に扉を閉められてしまった。装置がかかりの悪いバイクのような唸りを上げる。

「ところで亙君、朝ご飯は抜いてきたよね?」
「……ええ、言われた通りに抜いてきましたけど、そういえば何故なんです──」

不意にガクンと強烈な重力がその身に掛かり、僕は鳩尾を内的に揺らされた悪寒を感じながら瞬く間に意識を手放した。

今にも落ちてきそうな、紅消鼠色の雨雲の下に立ち尽くしていた。湿気た空気と叩き付けるような雨音に腐敗した土の臭いが交ざっている。

ここはどこなんだろうか、さっき、僕は確か……

水面に脛まで沈んでいる、右足を擡げようとしてようやくそれがコールタールのように脚を引き留めることに気づく。

どうしてこんな場所に来てしまったのだろう、資料にはこんな事書いてなかった筈だ。

纏わりつくそれを振り払ってまで重い一歩を運ぶ気も起らず、もう座り込んでしまおうかと悩んでいたら、遠くの方に人工物らしきものを見つけた。

テーブルだ、椅子もある、2つだ。それから誰か、誰かがいる。

何者かが1卓2席のテーブルに着いている。それが誰かを見定めようと眉をひそめた直後、何色とも判らない腕が音もなく足元から伸びてきて、僕を水面へ引きずり込む。

「……ああもう、何が何だか」

嫌に落ち着いた倦怠感に身を任せ、意識は不連続になった。

「……お。目、覚めた?しかし運がいいね、へたに意識があると余計に苦しんだだろうから」

目が覚める、真っ先に空鳥や熊澤の姿が見えた。椅子に座らされた状態だったようで絶妙に目覚めが悪い。いや、目覚めが悪い理由はもっと違う何かがあった気がしなくもないが……思い出せない。空鳥が"慣れないうちはこんなもんだよ"と笑う。

「ええと。着いたんですか?」
「うん、君がもう大丈夫ならすぐにでも作戦を始めようか」

注意: この人事ファイルはアーカイブ用に簡易更新されたものです。

名前: 鳥飼 亙 Torikai wataru

クリアランス: レベル2

所属: サイト-8165 退職済み

役職: 指揮官/Cクラス

専門: 作戦行動指揮

身体: 身長162cm/体重51kg/1998年生/男

人物: 鳥飼指揮官はサイト-8165に在籍する指揮官です。2006年から2014年まで異常性保有者として財団の保護下にあったのち、2015年度のA分類特殊雇用試験に合格して入職しました。2018年まで指揮補佐官を経験したのち、現在の指揮官の役職に就きました。

鳥飼指揮官は任意の座標・範囲の平面を鳥瞰的に視認する副視野を保有しています。この能力は屋内および樹木などの遮蔽物がある場合にも、任意の高さで断面図的に視認することができますが、広域を視認すればするほど局所的な視認能力は低下するため、指揮を執る上で機動部隊員を満足に把握できる視野の広さは上限があります。また同様に、人間の視力で認識不可能なほどミクロな範囲の視認も不可能です。

鳥飼指揮官は[! クリアランスレベルが不足しています]に発生した作戦行動中のインシデントの責任を負う名目で自主的に退職しました。

「止まってください、その先の大通りは見張りの目を掻い潜れません」
『チッ、またか……それで、どうすればいい?』
「少し時間を下さい、迂回ルートを模索します……」
『おう、時間かけてでも万全のルートを見つけてくれよ』

転移先の現地サイトから目的地へ、僕は能力を行使して作戦部隊を誘導する。区画整理が比較的進んでいる印象を受けるその市街地は、隠密行動を執る上で余り有利な地形とは言えなかった。

『しっかし酷いな、敵があちこちにわんさかいるってのもそうだが、市街地がこんだけ綺麗な状態で残ってるって事は、このエリアは抗戦するまでもなく放棄されたって事だろ?何も財団だけが戦力を持ってるって訳でもないだろうに揃いも揃って逃げだすとは、一体どんだけ脅威なんだか……』
「そうですね、確かに事前に提供された資料では情報不足が否め、な……」
『……鳥飼?』

視界を作成部隊の周囲へ巡らせて、僕は数多のそれを見た。住宅の一つ一つ、棚という棚をひっくり返して荷を掻き集めたであろう跡の残る家屋を、全ての扉がこじ開けられたアパートを、逃げ遅れた人々の死体を、そしてたった今、ガレージの片隅で蹲ったままボロ絹のように切り裂かれた少年の姿を。

「……酷いです、本当に」
『あー……そうだな、決着を急ごう。それで、道は見つかったか?』
「……現在の道を80m北上した所に監視の届いていない地下歩道を見つけました、急行してください」

『敵の数は?』
「北通用口を見張っている個体は皆さんからも視認できている2体のみのようです、それを突破したら現時点で敵個体の存在しないスポットに入れます」
『了解、手持ちの装備で事足りればいいが……』

件のAnomalous倉庫の付近へ到着した熊澤らに、僕の"視界"から見たままを伝える。報告によればあの爬虫類じみた皮膚と顔立ちの"いかにも"な緑色のインベーダーは物理攻撃に対し皮膚を硬質化して防御するという。その耐久力はこの世界の諸組織の持てる最大火力を浴びせればまあ倒せる程度だが、大群を前にはそうもいかず為す術がないようだ。しかしその条件自体は熊澤たちにとってもさして変わらない。"各個撃破は可能、殲滅はできないものと思え。"と、熊澤はミーティングで僕にそう伝えてきた。

『それじゃあ接敵を開始する。橘、頼めるな?』

橘と呼ばれた細身の隊員が黙ってこくりと頷く。両手に重厚なグローブをはめ込み、懐中電灯のような大きさと形状の装置を両手に握り締めた。僕の記憶が正しければミーティングで使い捨ての戦術装備だと説明を受けたものだ。

橘は彼らが身を潜めていた建物の陰から他の建物の陰へ回り込む。そうして相手の視認外を維持したままおよそ5mといった所まで接近に成功した。Anomalous倉庫が一般の建物に紛れて建っている形式のもので助かった形だ。装備を持ったままの手で器用に壁をよじ登り、2階相当の高さから見張り2体を見下ろす構図に。そして壁から手足を離しふわりと自由落下し……ドスン!と着地と同時に2体の頭部にその円柱形の底面を押し当てる。連中が何が起こったかわからず身じろぎした直後、装備から青白い光線が地面に向かって放たれて2体の頭部を貫通した。物凄い熱量だ、僕の視界からは橘と2体が居る地点に局所的に陽炎がかかっている。装置は黒々と炭化し、グローブは灰色の煙を細くたなびかせていた。橘が涼しい顔してグローブを外し、2体の死骸を死角に運んで適当な箱に隠す。硬い敵には更に鋭利な一撃を、実にシンプルなソリューションだが、これまで僕が担当してきた作戦にこういう次世代的な技術は導入されていなかった。単にあの世界にはまだ存在しない技術なのだろう、さまざまな世界から技術を吸収できるのもQ9ALTの強みなのかとほんの少しだけ彼らへの理解が深まった気がした。

「……これが皆さんの戦い方なんですね」
『おうよ。さあ突入開始だ』

「どう?亙君。順調?」
「ええ……まぁ。彼らは個体差が大きいようで、全員が全員、前情報通りの強敵という訳ではないですね。見張りの個体をすんなり処理できたお陰で後続を呼び寄せる事無く進めています」
「へぇ……そっか、君の能力なら追手が居ない事までわかるんだね。君と視界を共有できないのが残念だよ、どんな風に見えてるのか気になるなぁ」

AA-3701に乗り込んではや2時間。作戦行動は至って順調に敵の目を盗んでいた。空鳥は僕の座る椅子の背凭れに体重を掛けながら手持ち無沙汰に監視カメラの映像を確認している。敵の手に落ちたとはいえ財団の施設、別のサイトからでも施設内の監視カメラは確認できるのだ、その辺りはぬかりない。

「油断は出来ません。今回は少人数作戦なんですから、一度瓦解すればあっという間です。それに突入の際に使用したアレ……インスタント・トーチって名前でしたっけ、アレをもう使い切ってしまったんですから」
「んー、慎重派だねぇ。もうちょっとうちの隊員を信じてくれてもいいんだよ?」
「……出会って1日半の人達をどう信じろっていうんですか。彼らの事、人事ファイルに書いてある内容でしか知らないって言うのに」
「充分じゃない?」
「充分なわけが無いです、例えば熊澤さんが能力を使ったらどのくらい強くなれるのかとかも知らない訳ですし……」

こうして苦言こそ呈しているが実際のところいざ指揮を執ってみるとどうだろう、思っていたよりは様になってしまう自分に苦笑せざるを得ない。
彼女の軽口を半ば聞き流しながら、僕はここに来る直前のことを思い出していた。

「突入は5人で行う。得られた情報で判断する限りでは敵対存在と真っ向からやりあうのは現実的じゃないからな、接敵要員は俺と橘の2人に絞って残り3人は工作員で構成し、極力隠密行動を取る」

熊澤が最終ミーティングを行う。突入部隊の5人と指揮官の僕と空鳥、計7人がAA-3701に乗り込むことになった訳だが、作戦開始目前になっても僕の腹は決まらないままでいた。やるべきことはシンプルだ、彼らを安全なルートへ導き、戦闘を極力減らす。今まで何度もやってきたそれが、ずっと無理難題に見えてくる。流されるままに指揮を執って本当に作戦を成功させられるのか、そんな僕の不安は彼らの士気を妨げうるものゆえ間違っても口に出せない。出せないまま、腹の底に煮凝っていく。

「今更改めて言う事じゃないが、今回の作戦はお前のナビゲートありきのプランだ。くれぐれもトチってくれるなよ?」
「……わかりました」

簡単に言ってくれるな、とは言えない。絞り出したような応答を返す。自信のなさを出来る限り前面に滲み出したつもりだったが、彼らは僕の姿そのものが見えていないみたいに最終ミーティングを続けていく。

「──以上だ、向こうの世界からは早くしろと催促が来まくってる。サクッと行こうじゃないか」

思えば最終ミーティングの場ですら彼らは……なんというか、随分とカジュアルだった。こんな場所に送り込まれる人間なのだから、まともな価値観を期待するのはお門違いなのかもしれない……と、そこまで考えて自分のことを無意識に棚上げしている事に気付いて喉奥が苦くイガついた。

「僕の能力は万能じゃないんです。一度に監視出来るのは一つの階層だけなんですから、他の階から迫る個体が居ないか空鳥さんに見てもらわないと彼らの安全を保障できませんよ……」

当然、僕も一定周期で視界を上下の階層に移してはいるが。それでも不安材料は減らすに越したことはない、何より今の僕じゃ見落としの一つや二つあったって何もおかしくはないだろう。

「それになんだか妙なんです、こうも上手く敵の監視の目を掻い潜れるなんて不自然じゃないですか」
「それは君の手腕の賜物じゃないの?」
「そうなら、いいんですけど……これじゃまるで、向こうが部隊を避けているような……」

ジジッ、と無線が入った音がする。

『こちらALT-1。確認したいんだが、いまこっちに接近してる敵は居ないんだよな?』

熊澤だ。

「はい、このまま進行すれば目的地まで接敵せずに到着できそうです」
『そうか……鳥飼、お前の視界はステルスの類いは破れねぇのか?』

……。

「……投影型迷彩カメレオン以外は見抜けません。……今それを訊くというのは、つまり……」
『ああ、ガッツリとマークされてたみたいだぜ。前も後ろも敵敵敵だ。こりゃ近づかれなきゃ気付けねぇな、上手い事溶け込んでやがる』

熊澤の報告に二人きりの作戦室が凍り付く。反射的に防犯カメラの映像も確認するが、やはり敵の姿は視えていなかった。そしてその確認行為が暗に空鳥に責任追及しようとしているのに等しいことに気付き、今優先するべきではない感情に苛まれる。

「……敵の装備は」
『武装はしてない、だがいい事じゃあないぜ。現にこうしてステゴロで人類を脅かしてるんだからな、奴らには武器なんて必要ないんだろうよ』

額に嫌な汗が滲み、ギリギリと犬歯が軋む。彼らの姿があの日の光景に重なる。刹那的なフラッシュバックに声がうまく出てこない僕を、空鳥はただ見つめるだけだ、助けちゃくれない。"どうする"が幾重にも頭を反芻する、うまく言葉が紡げず息が吐けない。

「……安全の確保を優先してください」
『お前、この期に及んでこの場に安全があると思ってんのか?まあいい、とりあえず撃ってから考えるぞ』

一本道で熊澤と橘がそれぞれ先頭と殿を務め、同時に掃射を開始する。それに反応するように敵の迷彩が解け、夥しい量の敵影が詰め寄っている現実を僕に叩き付けた。なるほど逃げ場が無い、まんまと誘い込まれてしまったようだ。そしてその敵影は射撃に怯む様子も見せずにじわじわと5人にじり寄っていく……

『やっぱ弾は通らねぇな!やろうと思えば俺なら相手できなくもないが、どの道数が多すぎる!』

敵はその緑の肉体をマットな黒色に変色させ、弾丸をものともせずに5人を取り囲んでいく。何か、何か指示を出さなきゃいけない、指示を……

「ほらほら、君の指示待ちだよ?」
「わかってますっ!今考えてるんですから黙っててくださいよ!どうしてそんな……っ。」

窮地だというのに相変わらずな空鳥に対し僕は反射的に怒鳴り返していた。焦燥か或いは苛立ちか、堰を切った感情が怒りであることが自分でも信じられなかった。そしてひと波の怒りが引くと今度は再び心の臓を掻き毟るような恐怖がぶり返してくる。

「……そうやって怒ることが、君の今の役割かい?」
「……すいません」
「謝ってる暇もないよ」
「……わかってます」

みるみる内に追いつめられる彼らの映像を背景にあまりにも無益な応酬が繰り広げられる。さっきまでそこにあった指揮官としての自我が心のどこを探しても見つからない。

「このままじゃみんな死ぬよ、熊澤たちも、この世界の人も」
「……はい」
「君さ、何しに来たの?」
「……僕は、僕がした罪を償うために……」

僕が答えを言い切るより先に空鳥はゆっくりと首を横に振る。

「それは違うよ、亙君。人の命を救いに来てるんだ、君は」
「そうかも、しれないですけど……」

まただ。空鳥の柔らかな物言いの底に有無を言わせない圧を感じる。嫌だ、飲まれてなるものか。

「けど、何?」
「……こんなの、やっぱりおかしいです!僕がどうしてここに来たのか空鳥さんだって知ってるんでしょう!?なのにどうして、また僕をこんな場所に、こんな事に……っ」

怒りなのか悲鳴なのか、自分でも判別のつかない感情を勢い任せに吐露していた僕のそれを、空鳥はただ僕をじっと見据えて受け止める。その視線で僕はメドゥーサに見詰められたように息が詰まり、言葉が喉の下で滞る。

「悪いけど、君が何をやらかしてここに来たかなんてこの世界の人間にとってこれっぽっちも重要じゃないんだ」
「……僕にとっては、大事なんです」
「それは甘えだよ、亙君。君のそれは自分の罪に向き合ってるんじゃない、都合のいいできない理由にしてるだけだ」

彼女の言葉は段々と直接的になり、徹底的に僕の逃げ場を奪わんとする。
……逃げ場?僕は逃げようとしてるのか?

「じゃあどうすればいいんですか、どうすれば、この罪を……」
「前提が違うのさ。指揮官なら指揮官の仕事をしなよ、人を救いなよ……いいかい?罪を償って君が救われるのは今じゃない、その後なんだ。わかる?」
「……!」

救われる。その言葉に僕は不意に冷や水を掛けられたような感覚がした。そうか、僕は……

「僕は……救われたがっていた……?」
「そうさ、君は最初っから救われるの待ちの自己中だよ。罪滅ぼしがどうとか都合のいい事言って逃げて逃げて逃げ続けて、そうやって出来ない理由を一生探し続けるつもりなの?」

空鳥はいつになく真剣な眼差しで僕を見詰め、鋭利に切り込むように問い掛ける。その一刺しで僕の中で積みあがっていた何かがガラガラと音を立てて崩れたのを感じた。
"君が救われるのはその後だ"、そう言われて初めて僕は、罪滅ぼしが目的じゃなくて救われるための手段になってしまっていた事に気付いた。ああそうだ、僕の役目は……

「……ごめんなさい、勘違いしてました、僕──」
「ふふ、謝ってる暇はないって言ったでしょ?」

空鳥は指先で僕の目元を拭ってから、再び通信機に向かせる。

「それでどうするの、鳥飼指揮官?君の心持ちが変わったって事態は変わらないわけだけど」

空鳥は元通りの掴めない薄ら笑みを浮かべたが、僕はそれを一瞥することもなく視界に集中し、打開策を考える。戦場は何もない一本道、前にも後ろにも敵。無類の鉄壁と化した奴らを如何にして乗り越えろと言うのか。
何か、何か道は……

……道。そうだ、道……!

「……熊澤さん、聞こえますか?」
『ずっと聞いてるぞ!さっさと言え!』
「壁……壁を壊せる装備はありますか?熊澤さんから見て左手側の壁、そこを壊せたらひとまず退路は作れます!」

道がないなら作ればいい。在り来たりな言葉だが、今この場においてはこれしかない。

『……残念だが、そんな装備は無いな』
「……そう、ですか……」

無慈悲な宣告に拳に込めかけた力が抜ける。ほかの方法を考えるしか──

『でもな、そんな腕ならあるぜ』
「……はい?」

熊澤はおもむろに銃を捨て、工作員に投げ渡す。何をしてるのかわからず空鳥の方を向くと"画面を見ろ"
と言わんばかりの人差し指で返されてしまった。するとどうだろう、熊澤のただでさえ人並外れた肉体がめきめきとその嵩を増し、おおよそ人間のそれではない巨躯へと変貌した。その様に僕だけでなく画面の向こうの緑色連中も動揺を隠せずいると、壁に向かって大きく振りかぶり……

雄叫びと思しき音割れしたノイズ音と共に壁に一撃、発泡スチロールみたいに呆気なく壁を壊して見せた。

『どうだ鳥飼!これで満足か!』
「……」
「ほらほら、ポカンとしてないで。指揮指揮」
「あ、は、はい、大丈夫です。そしたらその部屋を出て左手に──」
『いいや、そうじゃねぇだろ!俺たちは尻尾撒いて逃げるために来たんじゃねぇ、お目当ての場所まで案内しな!お前にはそれが出来るだろ!』

熊澤はその巨大な腕を監視カメラに突き出しビシッと人差し指を向ける。ああ、これなら何の心配もいらないな。

「……はい!」
『いい返事だ。さぁ急げ、奴らは待ってくれねぇぞ!』

すんなり大穴を抜けた5人と対照的に、緑色連中は一挙に詰め寄ったせいで穴に引っ掛かっている。行くなら今しかない。
……今度こそ、役割を果たさなくては。

「その壁を破ったら、右手側が目的地です!敵個体数は3、回避は出来ません!」
『了解!三匹くらいどってこたねぇ!』

けたたましい警報器が耳に辛い赤色灯の中、熊澤は疲労のひの字も見せないで右の拳を最後の壁に叩き付ける。敵は彼らの居場所こそわかれど目的地はわからない、ゆえに先回りして戦力を集中させることなどできず……ちょうどたった今ぐずぐずに熟れたゴーヤみたいになった彼らのように各個撃破される末路を辿る。

『Anomalous保管室B-21……ここだな!着いたぜ!』
「はい、そこで間違いありません……その扉は壊さなくても開きますが」
『ごちゃごちゃ言ってる場合か!俺らが目当てのモン探してる間に脱出ルート探しとくんだな、帰るまでが遠足だぞ!』
「任せてください、絶対に案内して見せますから……!」

工作員の3人が保管室内を手分けして探し、熊澤と橘が入り口を守る。ちらと空鳥を見遣ると親指だけ立てて返した。考えうる限りでは最も無駄のない陣形だが、ただ一つだけ心配事があった。

「……熊澤さん、一つ質問してもいいですか?」
『なんだ、言ってみろ』
「その……本当に疲れてないんですよね?」
『おうよ、これが疲れてるように見えるか?』

ドン、と胸を叩いて見せる。確かにその姿から疲弊は感じ取れないが……なんだか、その姿かたちがほんの一回り小さく見えて。

「……空鳥さん」
「ええ~?それ私に聞く?」
「ふざけないで教えてください、作戦室に居るんですから、作戦にとって有利になるよう努力するのは義務です」
「さっきまであんなだった君がよく言うよ……そうだね、まぁ……ウルトラマンよりはいくらか燃費がいい位かな」

空鳥のその答えはつまり遠回しに彼のあの力がそれほど長時間持続するものではない事を指していた。

『あっ、空鳥お前!』
「チクられて困るような戦法を取るのが悪いよ。それで、どうする?亙君。今の話を聞いたうえで、どう彼らをナビゲートするつもりだい?」
「……少し考えさせてください」

少し考えると言っている内にも追手は彼らのいる保管室に迫っていた、もう猶予はない。無茶な方法なら一つあるが……
……彼らになら、頼める気がする。

「熊澤さん」
『なんだ?』
「そこは4階です」
『おう、そうだな?』
「そしてその保管室は窓際です」
『……なるほど?』
「お願いできますか」
『無茶言うぜ、5人だぞ?』
「……出来ると信じてます」
『はっ、そう言われちゃあ仕方ねぇ。なぁ?』

目当てのSCiPを発見した工作員が戻ってきた。それと時を同じくして緑色連中がすぐそこまで迫ってくる。

『3人なら……まぁ抱えられるな。橘、お前は自分で飛べ。行くぞ!』

ドゴッ、保管室の風通しが良くなる。

熊澤が両脇と背中に工作員を抱える。

敵の大群が保管庫になだれ込む。

熊澤が無駄に助走をつけて……飛び降りた。

「ああ、君の言う通りだ。彼の罪は彼をそこへ向かわせるに聊か不十分だろう」
『そうとわかってて、敢えて彼を此処に?』
「そうだ。君はもう、彼の人事ファイルには目を通したかい?」
『ええ、資料を頂いた日の内には』
「それで、それを読んで君は彼にどういった印象を持ったかな?」
『そうですね……天才肌のニュービーって感じですかね』
「その通り、彼は才能ないしは実力でトントン拍子に今の役職を得た。彼はろくな失敗を知らないまま来るとこまで来てしまったのさ」
『だから……まぁ、言い方は悪いですが"24人ばかし"のしかも予測のしようがない損失で、ああも心を痛めていた訳ですか』
「そういう事だよ、しかもそこに外圧が掛かり"降格させられるほどの失態である"という印象付けまでされてしまった。彼一人であそこから真の意味で立ち直るのはまず難しいだろう。つまり、だ。これは彼の再生プログラムだと、そう思ってくれればいい」
『……伊勢山管理官、貴方は彼を、いずれそちらへ呼び戻すおつもりですか?』
「そうだ、彼は一回り大きくなって8165に戻ってくる」
『リスク隔離原則はもちろんご存じですよね?』
「当然だとも、手は打ってある」
『……成程、どうりで"簡易更新"の"退職済み"な訳ですか。回りくどいというかなんというか……』
「根回しがいいと言ってくれよ」
『どうして彼にそこまで肩入れするんですか?』
「肩入れというのは少し違うな、私が私のサイトの部下を大切に思う事の何が可笑しい?」
『敢えて此処に送り込む理由もないと思いますが』
「彼は君たちを必要としているよ。それに、君たちも彼を必要としている」
『確かに私たちは指揮官を必要としていましたが……』
「そういう意味合いだけじゃあないさ……まあいい、私から話せることは以上だ。君から連絡を寄越すなんて、余程彼に思うところがあるようだが……まぁ、君たちならうまくやっていけると信じてるよ、空鳥くん」
彼は押しつけがましくそう言って受話器を置き、一方的に質疑応答を終えた。ふぅと一息つき、おもむろに虚空に語り掛ける。
「……一人じゃ救われないのさ、彼も、君もね」

雨後に特有の肌寒い曇天が空を覆っている。泥で汚れた白いテーブルに僕は誰かと向かい合って座っていた。
まただ、僕はまた見知らぬ所にいる。

少し間があって、僕は目前の男に何者なのか問い掛けた。

「思ったより早くに話せたね、もっと時間がかかると思っていたよ」

手の平を胸元の高さで皿にして、雨を確かめるようなジェスチャーをする。そこでようやく僕は自分の肩が雨泥に濡れているのに気付いた。

彼は僕の質問など聞こえていないかのように喋り続ける。答える気がないのだろうか。

「でもまだ曇りだ、晴れちゃいない。どうせ茶を飲み交わすなら晴れ空が恋しいとは思わないかい?」

……答える気がないというより、話をする気がないようだ。

時間の無駄だ、さっさと帰りたい。そんな意思表示を見せるように僕は席を立った。椅子を引こうとして椅子の足が泥濘に嵌っている事に気付く。

「まだ君が話をするにもう少しばかり足らないだけさ」

要領を得ない彼の話に僕はげんなりしてしまった。

なんだか構っているのが馬鹿らしくなってきて、引こうと力を込めていた椅子の背凭れから手を離す。急に支えを失った椅子は後ろ脚を支点にバタンと倒れる。直後、大げさに跳ね返った泥土が僕の背丈を呑み込んだ。

「またおいで、待ってるよ」

「……もう来ませんよ」

彼の厭な笑みを隠すように泥が僕に圧し掛かり、そのまま意識を地底に沈めた。

[2021/10/9]

「いやぁ、快勝快勝。お疲れ様、よく頑張ったね」
「……ありがとうございます」

Q9ALT、カフェテリア。鳥飼と空鳥の二名がささやかな祝勝会を執り行っていた。本来この場に最も相応しいであろう熊澤は、生憎と筋肉痛で寝込んでいる。橘や他の工作員3名は熊澤を労わってか謹んで辞退した。

「何さ、いまいちパッとしない顔だね?」
「……そりゃ、まあ」
「そりゃまあ何かな?」

空鳥は黄ラベルのコーヒー風味飲料を冗談みたいに勢いよく呷ったのち、鳥飼にその煮え切らない返事の訳を訊く。鳥飼は黒い安コーヒーを握りしめながら問に答えた。

「……僕たちが3701に乗り込んでから、目標物を確保してセッティングが完了し危機を脱するまでの27時間、僕達には人的被害がありませんでしたが、現地サイトの人達も同様にとはいきませんでした」
「当然さ、私たちが到着する前にも大量の屍が積みあがっていたんだから、私たちが居たところでそれは変えられないよ。むしろ、お目当てのブツを届けたらさっさと撤収しても良かったのに、それでもわざわざ残って指揮を手伝っただけでも立派だと思うよ、亙君」

鳥飼は静かに首を横に振る。その眼には彼自身の考えが宿っていた、出発前の彼の姿とは似ても似つかない。

「僕は人を救いに行ったんですから。救える命をみすみす見逃したくはないし、救えない命を認めたくもないんです、だから……被害を抑えられなかったことを、見て見ぬふりはしません」
「へぇ、君がそんなことを言うなんて凄い変わりようだね。それも罪を償うためかい?」

空鳥は少しだけ驚いたような顔を彼に見せたのち、いつも通り揶揄いに扮して探りを入れる。

「いいえ……もう分かったんです、僕は罪を滅ぼして救われるためにここに居るんじゃなくて、指揮官として人を救うためにここに居るんだって。正直、心の整理はまだついてませんけど……それでも自分との向き合い方は分かってきました。もうあんな姿は見せませんよ、安心してください。ちゃんと頼れる指揮官になりますから!」

いつになくやる気を見せる鳥飼。それに空鳥が何か言葉を返す間もない直後に、彼の端末に着信が入り祝勝会はお開きとなった。小走りでカフェテリアを去る鳥飼の背を見届ける空鳥の瞳は、どこか憂うような色を見せている。彼の姿が曲がり角の向こうに消えてから、空鳥はボソリと独り言ちた。

「ごめんね、それは少し違うよ……とは、今の君にはちょっとばかし言いづらいや。まぁ……そうだね、いつか君も、救われるといいね?」

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