「金本が別世界に逃げた!?」
12月11日、僕は隣の病床の熊澤の叫び声で目を覚ました。そして彼が叫んだ理由はその一言に集約されていた。
「それだけじゃない。今朝がた後方支援部の1人が宿舎で殺されていたのが見つかった。部屋の中央のテーブルにはこれ見よがしに未登録の通信端末が1つ、技術部門はそれが世界間通信装置である可能性が高いと判断した。それを受けて被害者の経歴を精査した結果、被害者は過去にどのサイトにも属していなかったことが分かった。早い話がそいつはモグリだったんだ。人事ファイルやその他諸々を改竄して他の職員に紛れてたらしい」
「そ、それって、つまりよ……」
動揺を隠せない熊澤に、情報を持ってきた後方支援部の青木は僕の方も一瞥してから話を続ける。
「金本は記憶を失っちゃいない。おそらく操られていた時の金本は殺されたそいつから情報を得ていたんだろう」
「でもそいつを殺したって事は俺たちに味方してるって事だ、正気には戻ってるハズだろ?何で俺たちの元から逃げたんだよ」
「知られたくない何かを知っている、んでしょうね」
現時点で得られている情報をもとに僕はそう結論付ける。青木もそれに賛同するように首肯した。通信機器を敢えて現場に残したのは金本がその人と関与がある事を示唆する為だろう。そしてその人をわざわざ殺した理由を考えると……口封じ以外考えられなかった。
「……何かってなんだよ」
「それは判りません、ですが……」
「ああ。俺達はそれを探る必要がある」
どうやら僕達の次の仕事が決まったらしい。
◇
「ダメだよ、亙君は連れていけない」
「どうしてですか?探索に掛けては僕より適任は居ない筈です」
青木に続いて入ってきた空鳥あとりは僕の提案をバッサリと却下した。たまらず僕は食い下がる。
「AE-1921、金本が2014年に送り飛ばされたその世界は文明が喪失しているということ以上の情報はほぼゼロで、実地調査も行われてない。どんな脅威が存在するかわからない場所に戦力足り得ない、しかも傷が完治していない君を連れていくわけにはいかないよ」
「それに調査中に救援依頼が舞い込んでくる可能性だってあるからな、その時指揮ができる人間が居なきゃ困る。そりゃ空鳥も指揮は出来なくないが……」
「含みのある言い方だね?まるで私が君たちの優秀さに甘えて指揮の大半を丸投げにしてるとでも言いたそうな言い方だ」
「それはもう自白なのでは……」
「とにかく!君の言う通りAE-1921の調査そのものは敢行するけど、赴くのは少数精鋭。とりわけ生存能力に長けたメンバーで取り掛かるよ。君には君の仕事がある」
強引に話を纏められてしまった、こうなってしまった彼女の前の僕に発言権はない。生存能力に長けたメンバー、その表現に該当する人物は僕が知る限り一人だが……
「って事は橘と……お、もしかしてアイツを使うのか?」
「そ。誰かに迷惑かける可能性も少ないし、初仕事の場にはちょうどいいと思うんだ」
「……?」
◇
「という事で、今回は君と私の2人で調査に赴く事になった。それで君、名前は?」
「……エステル」
「エステルね、宜しく。私は橘咲、橘でも咲でもどっちで呼んでもいい……って、なんか緊張してる?」
エステルと名乗ったダンピール半人半鬼の少女は空鳥が此処に連れてきた当時に比べやけに大人しい印象を受ける態度だ。精密検査棟で何かあったのだろうか、或いは……
「君、空鳥に何か吹き込まれたの?」
「え、ううん……何でもない」
明らかに何でもある時の答え方だ。空鳥は一体何をしてくれたのだろうか……
︙
第二類ヒト異常存在精密検査報告書
Q9ALT記録部門作成
対象者: エステル・クリストフィ Estel Christophii
リスク評価: ● 青
出身世界: BB-3111
対人姿勢: 友好的
概要: エステル・クリストフィ(以下、被験者)は複数世界で民間伝承、および創作物として広く知られる第一類ヒト異常存在"ヴァンパイア"の父親とヒトの母親の間に誕生した第二類ヒト異常存在である"ダンピール"と多くの既存データが一致する存在です。その異常性としてヒト指向性アノマリーの探知能力、中程度の自己再生能力、および手指などの身体構造の変化能力を有し、ヒトと比較して有意に高い身体能力スコアを示しています。特筆すべき点として、一般にヴァンパイアと呼称される異常存在とは異なり被験者は日照下においても活動が可能ですが、前述の高度な身体能力を完全に発揮することは出来ません。
戦闘適性試験の結果、被験者は戦闘経験を有さないにも拘らず近接格闘技術および行動選択能力において高いスコアを示しました。これは被験者が遺伝的に獲得した性質であると考察されています。また、生命を奪う行為に対する精神的抵抗が小さい点については強く注意するべきです。例として、試験で用いた疑似生物の殺害を単純に指示した場合には抵抗感を示しましたが、その疑似生物が多くの人間の生命を脅かした存在であるという情報を与えた際にはその疑似生物を躊躇なく殺害しました。
検査結果の詳細な数値は別紙を参照してください。
[2021/11/17 21:00]
「さてと、そろそろ真面目なお話をしようか」
「!」
空鳥はエステルを精密検査棟に連れてくると、他の職員があれこれと準備をしている横でエステルに語り掛ける。その言語はそれまで空鳥やほかの職員がエステルの前で使っていたフォーマルなイギリス英語ではなく、エステルが良く知る馴染み深いキプロス訛りのギリシャ語だった。その言語を解するのがこの場では空鳥とエステルの二人だけであることをエステルは刹那に理解した。
「私が君をあの世界から連れてきた理由はシンプルさ、君があのままあの場所に留まっていたら遅かれ早かれあの世界の機関に──それが財団かGOCかその他かわからないけど──見つかっていただろうし、そうなれば君も君をあの家で匿っていたお母さんも無事じゃ済まない。ほんのそれだけの事なんだ」
「……それじゃあさっき、言ってたのは……」
さっき、というのは酒の席で鳥飼に追及された空鳥が"裏切ったら殺せばいい"とばっさり断言したことを指していた。エステルの中であの一言から空鳥のイメージが"気まぐれに人を弄べる恐ろしい女"という鳥飼が聞いたら迷わず肯定しそうな評価になっていた。
「うん、ただの方便さ。彼は頑固だからね、ああでも言わないと納得しないんだよ。いたずらに怖がらせてごめんね?」
「ううん、大丈夫……」
「でも、私は今からもう一回君を怖がらせなくちゃいけない」
「えっ」
ホッとしたのも束の間、空鳥は無慈悲にも本題を切り出した。
「私は、君を助けるために此処に連れてきたよ。でもね、半ば人間じゃない君を此処へ留めおくにはそれなりな理由が必要なんだ」
「……えっと、つまり?」
「このサイト、Q9ALTは君を利用価値ありきで迎え入れたんだよ。君がその身に備わった能力を以て私たちの力になってくれる事が、このサイトで人として扱われる為の最低条件なのさ」
それなりに肩身の狭い生活を送ってきたエステルは、そんな窮屈な暮らしからてっきり解放されるものだとばかり思って空鳥についてきたが、その見立てが余りにも甘かったことをようやく理解した。そして、理解したからには訊かざるを得ない問を口に出した。
「……じゃあもし私が貴方達の力になれなかったら?」
「このサイトの人達は、君を処分対象とみなすだろうね」
◇
技術番号: ART-2255-JP
個体数: 3
保管場所: サイト-Q9ALT
使用手引: ART-2255-JPは手続きALT-8に基づき渡航許可が下りた場合にのみ使用できます。使用の際は搭乗者および搭載物の質量、体積が基準値を超えないよう細心の注意を払ってください。また、使用の際には乗用車の運転技術がある職員を最低1名搭乗させる必要があります。
説明: ART-2255-JPは乗用車型世界間渡航装置です。その外見的特徴からサイト-Q9ALTの職員の間では"ジープ"などの通称で呼ばれています。ART-2255-JPは完全に独立した世界間航行機能と水上走行機能および悪路走行機能を有しており、出発点と渡航先の世界の大まかに任意な座標を指定して双方向的に接続します。渡航の際の身体影響評価はB(適正な使用下では影響なし)ですが、接続可能な渡航先は比較的近距離の世界のみに限られており、実験により安全に渡航可能な世界間距離の最大値は52dBであることがわかっています。また、渡航距離に関わらず人、物の積載可能量が限られているため大人数での作戦行動に用いることはできません。
「それで、どうしてそんな酷い嘘ついたんですか」
「どうしてだと思う?」
橘とエステルがAE-1921へ出発したのち、空鳥から彼女が検査棟でエステルと行ったやり取りを聞かされた僕は露骨にげんなりして見せつつその真意を問う。そして問い返された。
「まさか、ケツに火をつけるためなんて安直な事は言いませんよね」
「もちろん。単にあの子をやる気にさせたいならもっとポジティブな方法をとるよ」
「となると……不安な思いをさせる事そのものに意味があるんですか?」
空鳥はひとつ頷く、考える方向性は間違ってないらしい。言語化しながら整理する事にした。
「彼女、エステルは……本質的には孤独です。母語も違う、生まれた世界も違う人しか居ない中で、真に心を許せる相手が居ない状況にあります。今後もQ9ALTの一員としてやっていく上でそれは必ず解消しなければいけません、だから……あれだ、吊り橋効果ですかね、要するに。彼女を追い詰めることで彼女から橘さんに心を開かせようとしてる……そんな感じじゃないですか?」
「……驚いたよ、亙君。すっかり名探偵じゃん」
空鳥は心底驚いたといった感じを隠さない。これが純粋な推理なら褒められてもいいかもしれないが……
「荒業で心を開かせようとするのは空鳥さんの常套手段じゃないですか、僕もまた貴方にそうされたように」
「あら、迷惑だった?」
空鳥は肩をすくめながら目を細め首を傾げる。僕はゆっくりと首を横に振った。
「……まさか、感謝してますよ」
「ふふ、君のそういう素直なとこ、嫌いじゃないよ」
◇
濃紺色のカオスを抜け出したジープが辿り着いた先は見渡す限りの荒野だった。ギラギラと照り付ける太陽が陽炎を靡かせ、地平線を曖昧にしている。助手席のエステルはただでさえ渡航酔いしていたのに加えて刺さるような陽光を浴びたせいですっかり伸びてしまった、初っ端からこれでは先行きが不安すぎる。
「さて、この荒野から手掛かりを見つけなきゃいけない訳、だけど……」
生憎、手掛かりと呼べるようなものが何も見当たらない。かといって手当たり次第に探せるものでもないため、まずはジープのトランクを開く。積めるだけ積んだ機材の中からお目当てのブツを探す。
「何を探してるの?」
「タカ」
「……鷹?」
間もなく見つけたそれをエステルに見せる。全8機のドローンだ、財団の最新鋭技術の結晶ともいえるそれは世に出回る技術統制済みの"新型"とは一線を画す機動力、耐久性、持続力、防音性能 etc……を持っている。もっとも、ここ2ヵ月ほどは彼のお陰で倉庫で埃を被っていた訳だが。
少なくとも、サイト-8170から受け取った情報をもとに当時金本をこの世界に送り込んだ際の座標へ飛んできたのだ。何もないはずがない。ともすればそう遠くないどこかに手掛かりがある筈、そう信じてドローンを文字通りの四方八方に散開させた。それから一緒に立ち上げた二台のラップトップのうち一台をようやく助手席から降りてきたエステルに手渡した。
「はい、これ。南に向けた4機の映像がそれに映ってるから、手掛かり……そうだね、とにかく人工物とかを見つけたら私に教えて」
「うん……えっと、の、残りの四つもやらせて。私、できるよ」
私の方のラップトップを指さす。協力的な姿勢は悪い事じゃないが……
「ううん、気持ちだけで大丈夫。二人で手分けした方が正確だし、他に出来る事もないから」
「そ、そっか……わかった」
語気は弱いが落ち込んでる様子はない、いまいち意図が掴めないが取り敢えず彼女の分析は後にして映像に意識を向ける。さてそこに映るのは果てなき荒野ばかり、高低差も大きく全くの未開の地を思わせるが……
「橘、家……家があるよ」
「家?……見せて、ふむ……」
エステル側のドローンの映像を確認すると、彼女の言う通りここから見て北東方向、荒野のど真ん中に三軒ほどの木造家屋が建っているのが見えた。映像で見る限りは日本家屋のそれではない、近付いて詳しく確認したいところだが、その建物が敵対存在の拠点である可能性を鑑みると不用意にこちらを察知されるのは避けたい。ここは一旦、接近し過ぎる前にドローンをすべて引き上げる事にした。
「ありがとう、ここに向かってみる他無さそうだね」
「……役に立てた?」
「ん?ああまあ、そうだね」
唐突な質問に意図せず微妙な返しをしてしまう。何だろう、単に役に立とうとしているのとはまた違う雰囲気を感じる。こちらの顔色を窺っているような。
ドローンの回収を終え、スリープ状態だったジープを起動させる。その無言の数分間を使ってエステルが何を吹き込まれたのかと、どうすれば彼女がそれを話してくれるかを考えるも生憎と尋問は専門外ゆえうまく言葉が見つからない。とりあえずトランクからよく冷えた水を取り出して手渡しておいた。
「何だか知らないけど、下手に気を張りすぎて息切れしないでよ。ほらこれ飲んで」
「う、うん……」
私に渡されたその水をエステルが飲もうとボトルを傾ける。しかしそれが少女の口に届くより前にペットボトルがバキッと音を立てて拉げた。少女が握りつぶしてしまったのだ。
「ちょっと、エステル……?」
「来た!橘、敵がいる!」
エステルはきょろきょろと辺りを見渡し、その敵とやらを探す。ついさっきまでドローンで探索していたというのに、そんなにすぐ敵が接近出来るものだろうか。私のそんな疑問はあっという間に返答が為された。
「……犬!いや、犬ではない?」
「なるほど、野生動物……草葉に隠れてたら見えない訳だ」
エステルが指さした先には犬と呼ぶには些か勇猛すぎる獣が一頭、荒野の茅色の草根を静かに掻き分けて忍び寄っていた。こちらに認知されたのに気付いたのか、獣は潜伏をやめ獲物を逃がすまいと猪突猛進に肉薄してきた。無論、逃げるつもりなど毛頭ないが。獣が距離を詰めるまでの幾ばくかの猶予を用いてジープから適当な銃器を取り出そうとした……が、それより早く。エステルが獣に向かって駆け出してしまった。
「ちょっ、エステル?!」
「任せて!」
私の制止を聞く様子もなく突っ込んでいったエステルに獣が牙を剥き飛び掛かる。それを迎撃するように少女の右手の指が鋭利に変形した。
「そー……れっ!」
ザクッ、エステルは手刀で獣の頭部を掬い上げる様に振り上げ、その下顎から脳天へ手指を貫通させる。それだけでも致命傷だろうが、少女は追い討ちを掛ける様に右手を反時計回りにグルンと回して獣の頭部を捩じ切った。
「ふぅー……あれ?」
その場に倒れ込む獣の首なし死骸。しかしその断面から血は流れ出てこなかった。よくよく見れば、その肉体もどことなく乾燥しているように見える。
「まあ、いいや……どう?役に立てた?」
「え、あ、そうだね。びっくりしたけど……助かったよ」
"役に立つ"。再びその単語がエステルの口から漏れた。さっきほど微妙な反応は見せずに済んだが……それはそれとして、その言葉の真意は追々探る必要がありそうだ。
「それで、その死体だけど……どう見ても普通の動物ではないね。元から死体だったみたいに見える」
エステルの事はさておき死体を検めると、それに温かみを感じない。血はやはり流れておらず、内臓も幾つか壊死している。端的に言えばゾンビと呼ぶのが相応しい有様だ。メカニズムは解らないし、解る必要もない。
「こいつが原生生物にしろ刺客にしろ……さっさと移動した方がよさそう。数で迫られたら面倒だ」
◇
ジープに乗り込み、方角を再確認してから走り出す。エステルはボトルを両手で握り締めながら助手席でそわそわと辺りを見渡している、気を張りすぎるなという先ほどの言葉は獣を相手取った時に彼女の頭をするりと抜け落ちてしまったようだ。とりあえず無言の時間を極力作らぬよう場当たり的に話しかけてみることにした。
「しかしこうも情報がないとこから手探りなんて途方もないよね、まあ車があるだけマシかな」
「……うん、日差しも強いし……」
お、話に乗ってくれた。ここで相槌一つで会話を終わらされてしまったらどうしようかと内心不安だったがどうにか一安心だ、このチャンスを生かして会話で彼女を解していかねば。
「やっぱり太陽は苦手?」
「うん、ちょっとだけ……でも、わたし敵じゃないよ」
「……? そりゃそうでしょ」
この子は私達に信用されてないと思ってるのだろうか。確かに彼女との関わりはまだ浅いが、わざわざ長い時間をかけて彼女を調べた検査棟の職員が出した結論を疑うつもりはない、彼女は間違いなく私達の味方だ。しかしそれをうまく伝えるにはどうすればいいだろうか……
「えーっと、エステル?私ね──」
「……橘、また敵が来る……!」
「あーもう、間が悪いっ……!」
少女の索敵能力のセンサに引っ掛かったであろう敵影は見えない。先程の獣であれば追い付けるはずもないため、別の何者かが迫ってきているのだろう。
「近づいてる気配がある!でも私にも見えない……」
「ありがとエステル、敵がいるってわかるだけでもずっとマシ」
「……!」
シフトレバーをDからEに切り替える、勿論、普通の乗用車にはATにしろMTにしろEなどというシフトパターンはない。それが何のイニシャルかと言えばEmergencyのEだが、エマージェンシーってむしろ緊急停止とかに使う単語なんじゃないのかとは常々思っている。
「しっかり捕まってて、エステル。揺れるよ」
「役に……立てた!」
横を確認してやる猶予もないままにジープが乾燥しきった土埃を巻き上げながら急加速していく。ハンドル制御は半分ほどしか効かなくなったがもとより目的地は真っ直ぐ先だ、問題はない。エンジンと風の音で何を呟いてるのかは聞き取れなかったが、何やら少女の顔が明るくなった気がする。
「わ、わ、何の音?!」
「撃たれてる、でもどこから……!?」
ジープの騒音に紛れて機関銃の連射音が高らかに鳴り響いている。余所見をしたらハンドルがあっという間にとられそうで左右をロクに見渡せやしないが、それにしたって敵の姿が見えなさすぎる。
「まだ被弾してない、けど……」
時間の問題だ、そして生憎とこのジープは銃弾を弾き飛ばせるような装甲は搭載されていない。だが、それと同時に気付いたこともある。
「銃声を聞く感じ6秒に1度リロードが挟まってる、銃声が重なることもないし、こっちに向いてる銃口は一つだ」
「6秒……わかった」
"わかった"?一体何をする気で──
「……今!」
「エステル!?」
銃声が止んだ瞬間、助手席のドアが開く。エステルの方を向いた頃には既に彼女の姿がそこに無かった。
エステルが何かをこちらへ伝えている声が聞こえてくるが、彼女とその声は砂煙に紛れて消えてしまった。
「ああもう、先走らないでよっ……!」
モードチェンジしてひとたび加速したジープは急停止することができない、あれこれ考えるより先にハンドルを切れるだけ切った。
◇
"やっと役に立てた、でもまだ足りない。ここで、私が敵を倒せたら……きっと認めてもらえる!"
少女はその一心で衝動的に助手席を飛び出した。脚を大きく開いて着地し、左手で強引に慣性を殺しブレーキを掛ける。あっという間に遠ざかってしまったジープが大回りに旋回して戻ってこようとしているのが見える。
「それで敵はどこに……」
既に土埃も収まり掛けているというのに敵の姿は視えない。しかしそんな彼女の疑問は次の瞬間には明らかとなった。
「痛ぁっ……そ、空からだ!」
鳴り響く銃声、直後地面に撒きあがる土埃が直線的に少女に迫り、最後に少女の左腕を蜂の巣にした。考えるより先にその銃撃から逃れる様に走り回り、敵の姿を確認しようと空を見上げる。
「眩しっ……でも、見つけた」
真昼の太陽の光に紛れる様にして一機のドローンが少女を見据えている。少女はつい眩みそうになるのをぐっと堪えてしゃがみ込む。
少女にはアレがどの程度機敏に動けるのかはわからなかった、しかしそれを撃ち落とせる自信はあった。まだ無事な右腕でテニスボール程の大きさの石ころを握り締める。
「Γαμήσου!くたばれ」
少女は凡そその齢に相応しくない言葉遣いで気合を入れ、全身に唸りをかけて右手に全身の力を集中させる。そうして放たれた投石は砲丸が如く真っ直ぐと飛翔し、少女が振りぬくモーションを終えた頃にはドローンの残骸と共に落ちてきた。日中でもそこらのアスリートとは比べ物にならない胆力だ。
「やった……!これで──」
認めてもらえる。そんな言葉が続いたであろう台詞が爆風に飲まれて消えた。
少女は自身の能力を正確に理解できていなかった。彼女が探知できるのは異常存在のみ、そして先程落としたドローンはまず間違いなくただの機械だ。ともすれば最低でも1体、他に異常存在が近づいてきているという事だというのに、少女はそれをまるで理解してなかった。
「あ゛ぁっ……」
"熱い"。身に被った情報で頭が一杯になって何が起こったのかに意識を向けることが出来ない。背中が焼け爛れ、その痛みに蹲り背後を見遣る事で漸くその砲火の主を視認した。
荒野に溶け込む灰茶色の迷彩を纏ったバイク型の陸上戦闘機が少女の元へ迫っていた、車体に取り付けられた4機の小型ロケットランチャーのうち1つが発射済みとなっている。バイクの速度はそれほどではない、加速したジープに引き離されていたのがようやく追いついてきた、という状況だろうか。仮にそうだとすれば少女がわざわざ車を降りなければ、ドローン以上の危機は見舞われずに済んだはずだったという事になる。
その事実を少女がどの程度理解できたかはわからない。しかし兎に角そのバイクから逃げなくてはならないという事は理解できたようで地面を転がるようにして走り出す。その様は敗走する手負いの獣そのものだった。
「どうしよう、どこかに、隠れ──」
ドローンは再装填の時間を要したがかのバイクが搭載するランチャーは4発撃ち切りの装填済み、つまり次弾への猶予がないという事で。岩陰に転がり込もうとする少女を2発目が襲い、少女と砕かれた岩が煙と共に宙を舞う。
地面に叩きつけられた少女が2回バウンドして地面に俯せに這いつくばる。右腕で我が身を起こそうとするも上手く力が入らず、せめて武器だけでもジープから持ち出しておくべきだったと、今更な後悔と共にべしゃりと崩れ落ちた。
「ごめんなさい……」
誰に向けるべきかもわからない謝罪の言葉をぽつりと漏らす。バイクは少女と距離を置いて停止し、少女の方へ照準を向けた……そこへ轟音が近づいてくる。
「こんの……手間かけさせないでっ!」
橘が敵へというより少女に向けた怒号を放ちながら、ジープで突っ込んできたのだ。
それを視認したバイクの敵が退避しようとするも、横から猛進してきたジープに撥ね飛ばされてジープと一緒に岩壁に叩きつけられた。
しかし爆発物を積んだバイクにダイレクトに衝突してただで済む筈もなく──
バイクは橘に避難する猶予すら与えずに爆発し、ジープの運転席は爆炎に飲まれて見えなくなった。
「た、橘……」
地を這うしかできない少女は、ただその光景を唖然と眺める他なかった。
◇
「どうして助けに行けないんですか!」
「落ち着いて考えればわかる事だと思うけど」
AE-1921に赴いた2人からの信号が途絶したとの報せがQ9ALTの作戦チームの耳に入るも、空鳥が出した指示は"待機"だった。鳥飼はたまらずといった風に抗議の声をあげる。
「ええ、わかってます。途絶える直前の通信からわかる通り敵の規模は未知数で、僕たちが駆けつけても二の舞になる可能性が高い事ぐらい……でもだからって、何もしないなんてあんまりじゃないですか!」
「何もしないなんて言ってない。真っ先に突っ込むのが間違いってだけだよ」
「敵の数が不明なんですから、いつまで待てば安全かなんて判らないでしょう!」
興奮気味に反論する鳥飼、態度こそ感情的だがその主張の内容は至って真っ当なものだった。空鳥はそんな鳥飼に珍しく眉を顰める。
「……亙君、少し落ち着いて」
「落ち着ける訳ないでしょう!むしろ空鳥さんはどうしてそんな──」
「考えてるから黙れって言ってるの!」
空鳥は露骨な苛立ちを顕にする。いつもの彼女を知る者なら、その有様から彼女がよほど余裕を失っているのだと察するのは容易い事だった。
「空鳥さん……」
「エステルちゃんを焚きつけたのは私。彼女が思いのほか好戦的だったのを見抜けなかったからこうなった、責任は私にある」
いつもなら飄々と次の一手を提示してくる彼女らしからぬ姿だった、それ程に事態が深刻であることが空気感に滲み出ている。
「……少し、時間を取りましょうか。部屋に戻って少し考えてきます」
僕のひと声を最後に会議室はふいに落ち着きを取り戻した。空鳥は小さくひとつ頷く。
「僕達には、落ち着いて物を考える時間が必要みたいです」
◇
「あっつい……もう勘弁してよ、服が……って、服どころの話じゃないか」
ぺしゃんこになった運転席から蔦と思しき物体が外へ伸び出てくる。それが手頃な岩に巻き付き、伸ばしたワイヤーを縮めるようにして全身があらぬ方向に折れ曲がった橘の体を引っ張り出した。蔦は橘の右腕があるべき場所から生えてきており、完全に火の元から遠ざかったのちに元通り腕の形を形成した。車体の破片で抉れた腿や焼けて服と癒着した皮膚を若緑色の組織が覆い、直後には肌色が取り戻される。骨も元より折れてなかったかのようにしゃんと繋がっている、彼女が無茶したがるのも頷ける脅威的な再生速度だ。
橘は自身の再生が終わるや否や大破したジープは二の次にしてエステルの元へ駆け寄る。検査報告書には彼女もまた再生能力を持っていると書かれていたが、それが具体的にどの程度のものかまでは預かり知らぬところだった。
「エステル、大丈夫? 私の声、聞こえる?」
「橘……?」
エステルは顔だけ上げてぽつりと返事をする。少女の弾痕や火傷は真っ赤にぐつぐつと煮え立ち、ゆっくりと本来あるべき形を取り戻し始めていた。エステルの声を聞き治りゆく傷を見た橘は、ふいに緊張から解放されて座り込みため息をついた。
「ああもう、よかった……エステルがジープから飛び降りたときはどうなる事かと思ったよ」
「うぅ、ごめんなさい……」
漸く体の自由が利き始めたエステルは、両腕に力を込めて今度こそ上体を起こした。ひどくバツが悪そうな表情を見せる。先走って独断専行した上にこんな惨事に陥らせてしまったのだ、当然の反応だろう。
「それで、もう話してくれてもいいんじゃない?どうしてあんなに焦ってたの?……って、なんか最近同じようなことを誰かさんに言ったばかりのような……」
「……えっと、その……」
エステルは逡巡する、彼女に本当のことを話していいものかと。少女からすれば橘らは少女を今まさに品定めしているというのが──空鳥が伝えた嘘っぱちの──真実だ、それを実は知っていたのに知らないフリをして、それで成果を出すのに必死だったのだという事を正直に橘に伝えたら彼女は怒り出すんじゃないかと、そう深く悩んだ……しかし、つい先ほど自分を助けてくれた人物こそが橘であるという事実が少女の背中を押した。
「あのね、私──」
︙
「──だから、橘も私が使える人間かどうか確かめてるのかなって……」
「なるほどね……とりあえず、帰ったら私から空鳥にちゃんと叱っておくよ」
「……えっと?」
私は額に手を当てため息をつく。空鳥が回りくどい手段で周囲を振り回すのはいつもの事だが、今回ばかりは看過できない。彼女はどうせ煙に撒くだろうが、それでもきちんと追及しなければ。
しかし今はそれよりも、目の前の少女の事が先だ。
「あのね、まず一つ君に教えておくべき事がある。それは、空鳥が気まぐれに人を弄べる恐ろしい女だって事。これからは彼女のいう事は話半分で聞くこと、いいね?」
︙
「つまり、私が捕まることはないの?」
「そう、空鳥が君を連れてきたのは君があのままあの世界に居たらあのままの生活は出来なくなっていたからなんだから。君が私たちと戦いたくないなら然るべき特例避難区域に居場所を作るまで、収容なんてしない」
フロントがぺしゃんこになったジープの後部座席から無事な物資を手当たり次第に引っ張り出しながら話を続ける。存外無事な物は多かったが、二人で持てる量には限りがある。
「じゃあどうしてあんな嘘を……」
「さあね、空鳥の考えてることなんていつでも得体が知れないけど……今ある事実は、私達が帰る手段を失ったって事」
消火器を引っ張り出して未だぱちぱちと燃えていた前方を鎮火させ、わずかな希望と共に心臓部を検めてみるも完全に壊れてしまっていた。ここにメカニックは居ないし資材もない、これを元通りにするのは現実的じゃない。
「そんな……」
「でも大丈夫、ジープが壊されるのは想定内だから。こんなに早く壊す羽目になるとは思わなかったけど……」
そう、今回は最悪のケースとして"出待ちで集中砲火を受ける"まで想定してあった。だからこその人選であり、渡航装置も替えが効くジープにしたのだ。私達からの連絡が途絶えたらQ9ALTからの救援も来る運びになっている。ただし、ただ待っている訳にはいかない。私達にはやらなければいけないことが出来たし、確かめなければならない事もある。
「……怒らないの?」
「怒らない。どっちかと言えば、再確認したいかな」
「再確認?」
「うん。君は戦う事が義務じゃないと分かった今でも、私達と一緒に戦うつもりはあるの?」
「……え」
「もっと分かり易く言おうか。君は普通に生きなくていいの?」
「普通に……」
エステルは少し考えるように俯き、橘はそれを急かすことなく黙って返事を待つ。
「……私、元から普通じゃないし。むしろ、プレッシャーがなくなって俄然やる気になったかな?……へへ、ママが言ってたんだ、"エステルは強い子だから、きっとこの人達について行けば活躍できる"って」
「……あー、その、自分の子供を戦場に送りだせるなんて、随分ぶっ飛んだお母さんだね」
「ふふん、ママは凄いんだよ。また今度話してあげるね」
エステルはにわかに明るい雰囲気を取り戻す。橘はそれを見て一安心するとともに、少女からどことなく空元気な雰囲気もまた感じ取っていた。
「えっと……それで、これからどうしよう?」
「やることは一つ。敵を全員探し出してぶち殺す」
◇
「橘、何を探してるの?」
「死体。報告書を読んだけど、エステルは人型の異常存在と人に特異な反応をする異常存在を察知できるんだよね?」
「えっと、そうなのかな?」
エステルのその反応を見て、橘はエステルが自身の能力を正確に把握できていない事をようやく知る。本人に確認が取れない以上報告書の情報だけを頼りに話を進めることにした。岩とジープのバンパーの間から原型を留めていない敵兵の死体を引っ張り出して地面に放りだす。
「その能力はこいつに反応してるって事でいい?」
「うわっ……あ、大丈夫、間違いないよ」
「おっと、ごめん、刺激が強かったかな」
エステルの探知能力が遠距離だと曖昧にしか検知できないのは先の一件で判っており、そして至近距離であればセンサーとして申し分ない事も今理解できた。そしてうっかり無残な死体を年端もいかない少女に見せてしまった事を反省し、死体とエステルの間に割って入るようにしてしゃがみ込む。
「その人に何をするの……?」
「確認しなきゃならない事がある、あっち向いてた方がいいよ。……うん、クロだ」
ウエストポーチからナイフを取り出し、死体の腹を縦に捌く。すると流血と共にそれと混ざらない真っ黒な液体がどろりと流れだしてきた。橘は後ろでエステルが小さく"うぇ"と嗚咽を漏らすのを聞かなかったことにして死体の体内をごそごそとまさぐり、元は球体だったと思しき赤色の破片を取り出した。
「何、これ……」
「私たちが存在を仮定してる敵の持つ汎用兵器とでもいえばいいかな。体を乗っ取り、新たな人格を発生させる寄生生物……っぽいけど、正直詳しい事は判ってない」
「寄生……この人も本当は悪い人じゃないのかな」
「そういうのはあんまり考えない方がいい、戦場は個人の善悪で測れるものじゃないから」
「う、うん」
橘は思わぬ敏さを見せるエステルを窘め、死体を切開部が見えないように俯せにしてから立ち上がった。赤黒く汚れた手を拭いながら少女に現状の説明を続ける。
「こいつの装備に通信機らしきものを見つけた。いつ援軍が来てもおかしくないから、ここには留まれない」
「え、でも、車に……」
「そう、荷物の多くは置いていくことになる。君、食事はどんななの?」
「どんな、って?」
橘はジープのトランクからリュックサックを2つ取り出し、その中身を取捨選択して詰め替えていく。その様子をエステルはどう手伝ったものかと眺めている。
「ほら、ダンピールなんでしょ?なら食べる物も違うのかなって」
「え、えっと……血も飲める、けど……好きじゃないかな」
「ふーん……わかった」
エステルの話を聞いて橘は迷わず食料を大幅に減らし、代わりに飲用水を詰めた。それから長細い直方体状のケースを取り出してエステルの足元に放り投げる。ドサッと重たげな音と共に土埃が舞う。
「君はそれを持ってて、私がリュックを背負う」
「え、リュック、私も持てばもっと多く持ってけるんじゃ……」
エステルは楽器でも入っていそうな大きさのそれをひょいと抱えながら首を傾げた、しかし橘はゆっくりと首を横に振る。
「君の身体能力を甘く見てるわけじゃないけど、それでも君には体力を温存してもらいたい。私は君ほど強い戦力にはなれないから」
「わかった……橘がそう言うなら」
「ん、ありがとね。それに、君に渡したそれはとっても大事なものだから」
「……大事なもの、投げてた……」
荷造りを終えた橘はリュックサックを背負い、エステルの方へ向き直った。
「じゃあ出発……いや、ちょっと待って。やりたいことが見つかった」
「……?」
︙
「信号が途絶えたスポットに到着、大破した車両の傍にテントが一張りある。中に人影も見える」
『了解、不用意に近付くな。射線が通るならそこから蜂の巣にしてやれ』
「わかった、掃射開始!」
迷彩服を纏った3人の男が手にした自動小銃の射程にテントが収まるまで接近し、一斉に1マガジン撃ち切る。テントは悲鳴ひとつあげずボロ布になっていき、銃声が止んだ後には静寂だけが残った。
反応が何もないのを確認して1人が穴だらけのテントに歩み寄っていく……
︙
ドカン。橘とエステルが歩く遥か後方から強烈な爆発音が聞こえてくる。立て続けに連鎖する爆発音を聞き、橘はほんの少し歩みを早めた。
「追手が来たみたい、それにまんまと罠に嵌ってくれた」
「あんなに沢山の地雷を積んだ車で、よく正面衝突しようと思ったね……」
「突っ込んだ時はそんな事考えてなかった」
(……橘、もしかして割とガサツ?)
エステルはただ沈黙し、それ以上の追及をやめて視線を後方の音源から真っ直ぐ前に戻した。
果てまで続く坂道と照り付ける太陽を前にして、少女は改めてまだ見えもしない目的地に徒歩で向かっているのだという事実を痛感する。それが単に今目の前にある道を進み続ける険しさだけでなく、これから自分が橘達と苦楽を共にするのに要する覚悟をも示しているように思えて、ついさっき後ろから聞こえたばかりの爆発の事など急にどうでもよく感じてきた。
「何、疲れたならちゃんと水は摂りなよ」
エステルの心のうちなどつゆ知らない橘はエステルが苦い顔を見せたのを疲労と受け取って労わるような声を掛けたが、"まだ大丈夫"と断られてしまった。
「……ねえ橘、私達ほんとに帰れるのかな」
ぽつり、つい不安が言葉になる。この世界に来て半日と経っていないが、ここに至るまでの激動は少女にそんな不安を抱かせるには十分だった。
「君が不安に思うのはわかるけど、私は大丈夫だなんて安易に言わない」
「そ、そっか……」
橘はおそらく少女が求めているであろう言葉を理解した上でそれを言ってやることはせず、はっきりと今ある現実を突きつけた。エステルのただでさえ小さな背が余計丸まっていく。
「エステル、ひとつ憶えておいて。戦場に明日も生きれる保証なんてないけど、生きる希望を捨てなきゃいけない訳じゃない。ただ、生きる権利を自分の手で勝ち取らなきゃいけないってだけ」
「……うーん?」
「難しかったかな……おっと」
エステルが唸りながら首を傾げた直後、遠方からエンジン音が近付いててくる。それが救援などではない事は2人とも理解していた。
橘は銃を抜き取った自身のリュックサックと引き換えにエステルの抱えるケースを受け取り、少女を岩陰に押し込める。
「隠れてて、エステル。日中は私だけで戦うから、そこで見てればいい。私が生き方を教えてあげる」
◇
技術番号: ART-1702-JP
個体数: 1
保管場所: サイト-328 サイト-8123 サイト-Q9ALT
使用手引: ART-1702-JPは現在研究段階です。 研究は実戦導入の見込み無しとして凍結されました。 研究は技術部門日本支部に引き継がれました。 研究は有意性が認められないとして予算が没収され再凍結されました。例外的に使用を認められた特殊戦闘員を除き使用は認められていません。
説明: ART-1702-JPは全長1.1mの携行型小型カノン砲です。開発当初は従来型より高威力なロケット弾発射器の製作を目的として研究が進められていましたが、GOCが開発し先行して実戦導入していた同種戦術装備との差別化を図るため、携行可能な榴弾発射機の開発に目的が変更されました。その結果、榴弾を携行装置から発射する事は可能になったものの、発射時の反動が人体では耐えられない大きさとなっており、また発射音、発熱共に携行装置として許容可能な範囲を大幅に超えているといった欠点を抱えています。
以上の理由でART-1702-JPが汎用戦術装備として製造されることは断念され、試作機はその使用見込みがあるとしてサイト-Q9ALTに移送されました。唯一、ART-1702-JPを評価できる点としては本体の過剰なまでの耐久性能があり──
「冗談じゃねぇ、俺たちを戦車か何かだと勘違いしてんのかあの女っ!?退避だたい……あがぁっ!」
橘は相棒を脇に抱え、己が躰を背中側から"解き"、地面に縫い付ける。そうして出来上がった若緑色の砲台が轟音をあげて軍用トラックを吹き飛ばし、そこから転がり出てきた兵士を蔦に握らせた自動小銃で撃ち抜く。その繰り返しで彼女を取り囲むつもりだった5台のトラックのうち4台は呆気なく鉄屑となり、残る1台が尻尾を巻いて逃げようとする。しかし橘はその1台にいつまで経っても砲火を与えない。
「橘、どうして撃たないの?もしかして……」
弾がなくなったのでは、そんな想像をするエステルと同様に、ダメもとで逃げたら追撃が来なくて疑問に思い同じ結論に至った敗走車両が再びUターンし、橘の元に戻ってくる。
「心配いらない」
枝葉を地面から引き抜き背中に収め、人の躰を再形成する。トラックは棒立ちの橘に急接近しながらここぞとばかりに弾幕を浴びせるが橘はその身に蓮はちすを描いても動じず、ただ右腕を解き相棒に巻き付けた。
トラックが橘を轢き殺さんと正面衝突する。
橘が右腕を鞭の様に唸らせ相棒を、そのボンネットに叩き付ける。
フロントバンパーが橘を捉え、彼女は勢いよく宙を舞う。その右手に相棒の姿はない。
トラックがコントロールを失い、エンジンが火を吹き……岩壁に衝突して爆発した。
炎上するトラックの姿に強烈なデジャヴを覚えたエステルだったが、それを眺めるより先にやるべき事を見つけた。少女は未だ宙を舞い間もなく落ちてくるところの橘の元へ駆け寄った。
「おっと……ナイスキャッチ」
「キャッチしなくても大丈夫なのかもしれないけど……べちゃっとなってるのは見たくないよ」
「そ、ありがと。それで、少しは参考になった?」
エステルの腕の中から降りた橘は炎上中のトラックに駆け寄り、火傷を顧みずそのボンネットに深々と突き刺さった相棒を引き抜いた。その砲身は傷の一つも増えておらず、砲身が湾曲するようなこともない。その実、彼女は相棒の鈍器としての性能を専ら好いていた。
「えっと……怪我を負っても突っ込めって事?」
「違う、そこはマネしなくていい」
注目するなマネするなと言うには大々的に骨斬肉断を遂行し過ぎている橘だが、エステルは年相応の呑み込みの良さで彼女の捨て身的戦術を一旦忘れ、彼女の戦いぶりを改めて振り返った。
「んー……橘、弾が尽きても戦ってたよね」
「まあ、目の付け所は正解でいいかな。ニュアンスはちょっと違うけど」
相棒をケースに戻し、リュックサックと交換する。歩き出しながら言葉を続けた。
「戦う術を失うことを"刀折れ矢尽きる"なんて呼ぶけどそれは違う。ライフルで敵を殴り倒せない兵士に生き残る術なんて最初から無いんだよ」
「……えっと、つまり?」
「何があっても最後まで戦い抜くこと、それが生き残るための唯一つの手段であり、戦場に立つ資格でもあるって事。最後の一台のトラックは、逃げる事しか頭になかったから私に誘い込まれてるのに気付けず突っ込んできた。敗走は恥じゃないけど、逃走も戦いであることを忘れちゃいけない。そして君はさっき私の役に立つために先走ったけど、役に立とうなんてのは死に急ぐだけの無用な行動理念。これから私達と一緒に戦いたいなら、戦場では戦い抜くことだけを考えて。いいね?」
橘のその助言は戦いというものを本能的に理解しているだけで経験が伴わないエステルには些かピンと来ない内容だったのか、いまいち理解してなさそうな唸り声をあげて首を傾げた。
「……解らないなら解らないなりに頭に入れておいてくれたらいいから。きっと思い出す時が来る」
◇
Q9ALTでの議論は踊りに踊り、間もなく日も暮れるというのに橘とエステルを救出する手立ては一向に掴めなかった。試験段階の無人操縦渡航装置を使うだとかジープを1台装甲車に改造するだとかいった技術的に現実的でない案や、物資だけ送り込んで何とか凌いでもらおうなどという希望的観測にも程がある消極的な案が飛び交うさなか、僕はその碌に進展を見せない会議に嫌気がさして会議室から独り避難していた。暖房の効いてない冷えた空気が僕を辛うじて癒す。
「……手段は選んでいられない、そういう事ですよね」
向かう先は研究棟、名前の通り技術部門が取り仕切るそのエリアへ踏み入り、たった今手元の端末で発行した"持ち出し許可証"を受付に見せる。数分の間があって職員が透明なパウチに入れて僕に差し出してきたのは、1つの通信端末だった。
そのまま研究棟を後にし、中庭で端末を起動する。電話帳には不自然に1件だけ、アドレスが残されていた。僕は周囲を見遣ってから、そのアドレスに通信を入れる。2度のコール音の後に通信がつながった、しかし声は何も聞こえてこない。それはこちらが何かを話すのを待っているかのようだった。話す内容なら、とうに決まってる。
「こちら、鳥飼です……助けて下さい、金本さん。貴方の力が必要だ」
プツリ、通信が途絶える。数分の間が空いて、僕の目の前に彼は居た。
僕が何か言うより前に、金本は僕をひょいと持ち上げる。そうして一先ず人目のつかない物陰に運ばれて、きっかり一分後に僕と金本は中庭から姿を消した。
◇
「説明は必要ですか、金本さん」
僕は金本とQ9ALTの敷地外へ転移していた、一先ず落ち着いて会話できる場所まで来た、と言った具合だろう。
「いや、いい……先に会議室を見てきた。事態が深刻なのは解った」
「なら話が早いです。僕と一緒にAE-1921、橘さん達が居る世界へ渡って、2人を助け出してほしいんです」
僕の要求は彼の予想通りだったのだろう、眉一つ動かさず"いいだろう"と告げ、それに"ただし"と付け加える。
「条件がある。俺の過去を探るのはこれっきりにしろ、それがお前に協力する条件だ」
「どうしてそこまで、沈黙に拘るんですか」
僕もおいそれとは引き下がれない。明らかに重要な情報を秘めているこの男はそれを一人で抱え込もうとしている、彼をそうさせる程不都合な真実ならば、猶更ブラックボックスに収める訳にはいかない。
「知らない方が幸せに生きられる。お前たちは恐らく、漠然とした敵の存在を認知しては居るんだろう。その敵からの襲撃が、これからもあるかもしれない。ならお前たちはその都度対処すればいいだろう、事態の根源を断つのは俺がやる」
「……」
目前のこの男の口ぶりを見て、僕に湧き上がってきた感情は意外にも強烈な嫌悪感だった、それも、同族嫌悪と呼ばれるもの。自分でどうにかしようと躍起になって周りが見えなくなる、偏った正義感。ヒーロー気取りめ、そんな言葉すら出てきそうになった。そして同族だからこそわかる、この男は言葉で何を言おうが靡かない。
「……わかりました、条件は飲みます」
「いいだろう。出発はトラベルが使えるようになる24時間後だ、それまでにまず、俺たちはQ9ALTの追手が確実に来ない所まで身を隠す。そうだお前、装備はどんなだ?」
「拳銃とナイフだけです」
「十分だ、行くぞ」
◇
名前: 橘 咲 Tachibana saki
クリアランス: レベル1
所属: サイト-8165 サイト-Q9ALT
役職: FA,機動戦闘員/Cクラス
専門: 潜入調査,暗殺,前衛接敵
身体: 身長168cm/体重59kg/1991年生/女
人物: エージェント・橘はサイト-Q9ALTに所属するフィールドエージェントです。2012年にサイト-8165のフィールドエージェントとして潜入調査を専門に活動したのち、[! クリアランスレベルが不足しています]により異動命令が下されサイト-Q9ALTに転属しました。
エージェント・橘は異常性保持者であり、体組織の高度な自己再生能力および限界環境下での生存能力を有します。エージェント・橘はその異常性を活用して"肉を切らせて骨を切る"戦法を好む傾向にありますが、これは他のエージェントや彼女自身の精神状態に対し悪影響であるため繰り返し訓告・戒告を受けています。しかしエージェント・橘はこれを頑なに受け入れない為、他の職員は作戦スポットにおける彼女の独断専行を固く制限して下さい。
エージェント・橘の異常性は特に日照下で高いパフォーマンスを発揮し、再生能力の加速の他、身体の一部をその2,3倍の体積を持つ植物の枝葉のように変化させて自在に操ることができるようになります。この能力は体内の水分を通常の生理反応と比較して5倍ほど早く発散させてしまうため、能力の長時間行使には外部からの継続的な水分供給を必要とします。植物態の身体を用いて土壌から吸水することも可能ですが、その効率は極めて悪く、植物態の維持に必要な水分を満足する事は出来ません。
︙
「……見えてきた」
「や、やっと着いた……」
午前中にこの世界へ到着し、ドローンを回収して出発したのが正午前、それから襲撃を受けて徒歩移動を始めた彼女らが目的地を視界に収めた頃にはすっかり日が傾き、陽光を失った荒野には乾いた冷風が吹き抜けていた。彼女らのいる場所はなだらかな丘になっており、視界斜め下方に件の建物を捉えていた。カラカラに乾き砥粉色に日焼けした木板を貼り合わせた簡素な家が3つ、井戸を囲むように建っている。
道中、まだ日の高いうちに追加で2度の交戦を経て橘の背負うリュックサックは随分と痩せこけてしまった。自動小銃・カノン砲共に弾薬は尽き、幾ばくかの食料は思いの外健啖家だった少女の胃袋に収められてしまった。曰く、空腹では再生能力に支障が出るとのことで橘は迷わず十分腹を満たせるまで食わせてやった。
「井戸がある、でもポンプがついてない釣瓶式。枯れてなきゃいいけど……そうだエステル、気配の反応はある?」
「うん、あるよ。たぶんあの家の中から……」
「十中八九は敵だろうね、警戒して行こう。それからもう一つ、あの黒いゲルが量産型だって判っただけでも既に収穫だから、もし相手が如何にも何か知ってそうな雰囲気を出してても、身の危険を感じたら迷わず殺して」
少女はこくりと頷き、息をそろえてゆっくりと前進する。一歩、また一歩と丘を下り、橘が先行して目的地との距離を詰め、エステルにその足跡を辿らせる。そうしてジリついた緊張感と共に辿り着いた家屋の壁に背を預ける。橘は簡単なハンドサインでエステルとコミュニケーションを図る。"反応はこの建物からであってる?"というニュアンスを込めて建物を指さし首を傾げると、エステルはこくりと一つ頷いた。
(よし、伝わったかな……ん?)
エステルは何を思ったか、壁の方を向き左手を添えギリギリと握り締めた右拳をぐっと引き……
「ちょっ、何をして──」
「Πάμε!せーのっ!」
ドカン。壁は彼女の拳によって的屋のカタヌキが如く瞬く間に砕け散って豪快に吹き飛ばされた。重力は橘にまともな反応をさせてやる隙も与えずガシャンと屋根を落として間もなく地面とランデヴーさせた。
「えっと、エステル……?」
「ふぅ……あれ、もしかして違った……?」
「……私がなんて言ったと思ってたの?」
「こ、この建物をやれって事かなって……」
(……この子、さては割とガサツなの?)
噛み合わない2人、その前の瓦礫が、モゾリと蠢いた。
◇
「随分と不作法な客だな」
「……!エステル、構えて──」
メキッ。エステルの背負う相棒に向けて伸ばした腕がプレス機で挟んだみたいに拉げる。瓦礫から這い出てきたであろう影が瞬く間に私の腕を捉えていた。
「エスて」
コリュッ。ああ、この音は知ってる、喉を折られた時の音だ。支えを失った頭は偶然にもその敵影の方へカクンと傾いた。欧州人の男だ、背丈は180はあるように見える。白髪と髭を蓄え深く皺を刻み込んだその相貌を見なければ老人にはとても見えないすらりと真っ直ぐな立ち姿は──身なりこそ砂色に薄汚れた簡素なポロシャツ一枚だが──間違いなく軍人のそれだった。
「Μείνε μακριά!近寄るな!」
私と老人の間へ割って入ろうとするエステルを見て私は俄かに後悔する、出すべき指示は"身の危険を感じたら迷わず殺して"ではなく"身の危険を感じたら迷わず逃げて"だった。老人は私の腕を掴んでいた左手でエステルが蹴り込んだ左足首を掴み、少女を無造作に投げ退ける。
「おっと、そっちの嬢さんは幾分か丈夫なようだ、脚を捥ぐつもりだったんだが」
「余所見してんじゃ──」
「心配いらない」
治癒した右拳で老人の喉を狙うも振り返りざまに右肩を砕かれ、そうして防ぐものがなくなった右脇腹に手刀がめり込んだ。筋繊維の切断される鋭利な激痛が肝臓に達する。
「君も不死らしいな、しかし不完全な。ならここで死ぬのが幸せだろう」
老人の凄みに怯んで近寄れないエステルを尻目に私の四肢が千切っては捨てられる。再生はとうに追い付かず、老人は袋菓子でも開くみたいに腹の皮を引き剥がして腸はらわたを握り潰した。横隔膜が引っ張られて叫び声すら奪われる。
「橘、傷が……なんで……」
「サキ・タチバナ、再生能力者。多量の水分と引き換えに再生能力その他を獲得する。再生速度、レッドライン共に驚異的だが、夜間は弱体化する。体内の水分量が低下するとそれに比例して再生速度も格段に落ちる……お嬢さんは彼女の事を何も知らないのか?」
頭がうまく働かないが、兎に角老人の言っていることは事実で、彼が徹底的に前情報を把握しているという事実はエステルにも伝わったようだ。ついでに、言葉尻からわかったこともある。絞り出した声で言語化し、エステルとの共有を試みることにした。
「さっき、……ケホッ、君"も"って言った……」
「ああ」
「死なない、んだ」
「死ねないのだ」
「じゃあ──」
「時間稼ぎをして何になる」
「どう……だろう、ね?」
私の脚が生えていた断面からは流血に紛れて細々とした根が伸び、地面に潜り込んでいた。しかし大地は至って乾いており、幾ばくかの猶予を稼ぐことも見込めなかった。
「水が欲しいか、ならくれてやる」
本を畳むかのように胴体が二つ折りにされる。そうして次の瞬間には私の体は井戸に叩きつけられ、井戸の内壁に血の跡を擦り付けながら深い闇に飲み込まれていった。
久々の感覚だった、この体になりQ9ALTに来てから久しく忘れていた感覚。得体の知れない、余りに強大な何かと対峙する戦慄、後悔、無力感。それらが重力を加速させたように感じた。どれほど長い事落ち続けたのだろうか、ぼちゃんと水柱を立てて沈んだ頃には月明かりすらも届いていなかった。
◇
「私の家をランドマークとし、君たちを誘導。道中で有象無象による襲撃を重ね、完全な消耗を確認し、最後に私が止めを刺す。実に合理的だと思って引き受けたが……まさか家を壊されるとはな。ま、執着はないがね……」
「引き受けた……お爺さん、あいつらの仲間なんじゃないの?」
「契約だ、奴らはお嬢さんたちを始末したい。私は奴らから得るものがある……それだけだ」
「得るもの……」
「それが何か、お嬢さんが知る必要はない」
エステルは目前の老人に力では敵わないと悟り、言葉での交渉を試みようと場当たり的に質問を投げる。しかし老人は彼女のその見え透いた思惑を許さず、今までそうしたように縮地法で距離を詰め、その首を狙って手刀を滑り込ませる。
「ひぃ……っはぁ、待ってよっ……」
老人の手刀は少女の首にわずかに触れたばかりだった、エステルは反射的に触れられた点と反対側に飛び退いてそれを躱し土埃を巻き上げる。老人に比べ動作は荒っぽいが、橘とは違い動きに全くついていけない訳ではなかった。しかしそれを喜べる余裕は無く、対話を諦め切れずに言葉を投げ続ける。
「何を待つ必要がある?」
「お爺さんは欲しいものがあるんでしょ、それが何か、私は知らないけど……私たちにだって、用意できるかもしれない」
「わざわざお嬢さんに用意してもらう必要はない、それに勘違いしないでくれ」
再び距離を縮める老人、少女がそれに反応して再び退避しようとするのを今度は許さなかった。少女が辛うじて捉えられるのは老人の動きの始点と終点だけ、その間を捉えることが出来ない為に後手後手になってしまう。そして少女の動体視力の限界を見定めていた老人はそれを利用し、終点の着地で少女の足を踏み抜いた。
「い゛っ……」
「私がお嬢さんたちを殺すのは契約だからと言うだけじゃない、人となりを知ったうえで殺したいと私が思っているからでもあるのだよ」
己が足を杭の様に用い少女の足を地面に縫い付けた老人は手刀を真っ直ぐと心臓目掛けて繰り出す。それを少女は小指の中手骨を当てる様にして叩き落とし、反対の手で老人の胸元を突き飛ばして強引に引きはがした。トカゲの尻尾のように爪先だけが老人の足元に残された。
「解らないよ、どうして……お爺さんも普通の人じゃないんでしょ?」
「だからこそだ、お嬢さん。私の様になるべきでないからここで殺してやると言っているのだ、親切心だと解ってはくれないか?」
少女は、つい饒舌になる老人を見て幼い故の察しのよさを発揮してしまう。言葉にしていいものか一瞬躊躇ったものの、解決の糸口になることを期待して口を開いた。
「……お爺さん、あいつらに殺してもらいたいの?」
老人は黙し、ボロボロのレギンスのポケットに手を突っ込む。そこから腕を引き抜く勢い儘に腕を振るい、少女に何かを投げつけた。エステルは半身を切ってそれを躱す。投擲物はそれが何であったか判然としないまま少女の背後の夜闇に消えていった。初めて、老人が少女に近付くことを躊躇ったのだ。
「君は知らないだろう、ただ時が過ぎるのを見届けるしかできない日々が、どれ程続いたかわからなくなる程続く恐怖を。その恐怖すら忘れただ無為に終わりを待つようになる喪失感を。君たちは既に文明の失われた世界で生きていると聞いた、ありもしない光明を幻視しているのだろう、全く嘆かわしい。じきに君にも孤独が襲うだろう」
「……わかんないよ」
老人のエゴイズムはそれを真っ向から非難するには余りにもその言の葉が乾き撚れて疲弊しており、先ほど橘を千切って捨てた男と同一人物であるとは到底思えなかった。親の死に目すら経ていない少女には、老人に掛けるべき言葉など思い付かなかった。"橘ならどう返すだろう"、そんな考えが脳を過り、ちらと井戸の方へ視線をそらす。その瞬間を老人は見逃さず、少女の懐へ潜り込んで左拳を少女の腹へ捻じ込んだ。泡を割るような悲鳴を漏らし、少女は真っ直ぐ後方へ突き飛ばされる。
「戦場で死体の面倒を見るなと教わらなかったのか?それに対話に持ち込んだのはお嬢さんだろう、君が油断してどうする。どうやら君は死線に立った事が無いようだな。才能じゃ戦場は生き残れない、ここを生きて帰ったとて、より苦しんで死ぬだろう。やはり君はここで死ぬべきだ」
「ゲホ、けほっ……お爺さん、嘘ばっかりだ」
「……なんだと?」
じわじわと治りゆく腹を抑えながら、強がるように口角をぎこちなく上げる。
「お爺さん、優しさで言ってるようなふりしてるけど……なげやりにしか聞こえないよ。ただ早く終わらせたいってことしか考えてない。そうでしょ」
「……わかっているなら、大人しく殺されてくれ」
老人に、人を慮る心など露ほども残っては居なかった。ただ終わりを迎える為にさっさと少女を始末したいと、考えているのはそれだけの事だった。もっとも、少女たちが己と同じ道を歩むだろうという予測そのものは本心であり、そうなるべきじゃないという認識も真だったが……それでも彼を動かす動機は専ら死ぬ為に他ならなかった。そしてそれを理解した少女は、先ほどまでの困惑ぶりから想像もつかない程に明瞭な表情を見せる。
「いいや?私、たった今解ったよ。私よりよっぽど、お爺さんの方が戦いに真摯じゃないってね」
「強がりはよせ。君は人を殺した事すらないんだろう」
「そうだね、ちょっと覚悟は要るかな。でも大丈夫」
少女は背中に背負ったまま荷物になってたカノン砲を井戸の方へ寄せる様に投げ捨てた。傷口を抑えていた手をペロリと舐める、少女にはやはりこれを美味しいとは思えなかった。
「橘は言ってた、何があっても最後まで戦い続けろって……勝つためならどんな手段でも使うよ」
「それは結構だが……忘れてはいないか、私はそう簡単に死ねやしないんだぞ?」
現状、老人は現在に至るまで傷そのものを負っておらず、不死身であるという情報は彼の独白に過ぎなかった。彼が如何程の再生能力を持ち合わせているのかすら判らないこの状況で少女が自身の生存を確信している根拠が老人には解らなかった。
「私ね、正直迷ってたんだ。よくわからないうちに街から吸血鬼が居なくなって、ママに背中を押されるままに家を出て、怖いお姉さんに不気味な施設に押し込められて、戦場に連れてこられて……最初は大冒険ぐらいにしか思ってなかったけど、実際はとってもシビアで……ほんとにこのままついて行って大丈夫なのかなって思ったけど……今はとっても戦いたい。いきさつがどうとか、これからがどうとか、抜きにして……橘をあんな風にしたお爺さんを、殺したくて仕方ないの。どんな手段を使ってもね」
「答えになってないが……まあいい、すぐ諦めさせてやる」
◇
「やあ、順調みたいだね」
ふと気付くと僕はいつもの男と薪を囲んでいた。揺らめく炎が僕を温める事はなく、男の顔を照らすこともない。
「いやはやしかし、2人だけの秘密の作戦かぁ。君たち、いつからそんなに仲が良くなったんだい?」
面白半分に揶揄ってるのか嫌味なのか判らないが、彼の次の言葉は概ね想像ができた。
「彼の力を借りて2人を助けるのはいい、それが最善だろう。でも彼が出した条件には大人しく従うべきだよ」
案の定、彼の言葉は想像を超えやしなかった。僕はため息だけついて返す。
「ラストチャンスだよ、いよいよ引き返せなくなる。この先に君が期待する結末はない事を、どうか忘れないでくれ」
未だ正体も明かさないこの男はいつも通り偉そうに助言して見せる。彼の言葉にはいつも根拠がない。
「ま、繰り返すようだが最後は君の自由さ……後悔はしないようにね」
不意に木枯らしが吹き荒び、薪の炎を巻き上げる。僕の躰は油でも引っ掛けたように瞬く間に燃え上がった。
︙
目が覚める、山小屋のボロ天井が僕を迎えた。朝になってくれていたなら良かったのだが、生憎と僕はこんな状況で熟睡できるほど図太くはなれないらしい。金本の姿はない、外で警戒に当たっているようだ。
「……2人きりの秘密の作戦、か」
Q9ALTから持ち出してきたナイフを取り出し、ため息をひとつ浴びせて直ぐにしまい込む。こういうやり方は、やはり好きになれない。思考を拒むように僕はもう一度目を閉じた。
◇
「どうした、逃げるだけじゃ私は殺せないぞ」
「まずは観察だって、ママ言ってたもん!」
エステルは極力一か所に留まらないよう意識を向けながら老人の攻撃を紙一重で躱していく。戦いに没入する事が出来る様になった少女の動体視力はほんのわずかに研ぎ澄まされ、その微かな成長が老人の動きを連続的に捉えるに至っていた。それでも無傷とはいかず、少しづつ蓄積するダメージに再生が追い付いていないその姿を見る分には時間の問題にも思えた。
「随分な親御さんをお持ちのようだ、それで何か勝機は見えそうかね?」
「判った事ならあるよ、お爺さんが私の事を単純なバカだと思ってるって事!」
少女が立ち位置を転々としていたのはただ逃げ惑っていた訳ではなく明確な理由があった、探し物をしていたのだ。それを見つけた少女は老人の上段突きに合わせてガクンと体勢を落とし、地面に落ちていたソレを掴みとってから大きく後ろに飛び退いた。
「……それを拾ってどうする、墓場まで持っていくのか?」
「言ったよね、私。勝つためならなんだってやるし、何でも利用して見せるって」
少女の手には橘の捥がれた腕が握られていた。細い腕だ、白くて温かい。断面についた土埃を優しく反対の手で払う。
「私、ヒトの血は飲んだことなかったんだよね。でも……」
"最初に飲むのが橘でよかった"、少女はそんな言葉を続けそうになり、その言葉の意味するところが自分でもよくわからなくて、でも何か良くない事な気がして、逃げる様に未だ温もりの感じる柔肌に牙を通した。
「隙だらけだ、お嬢さん」
両手と口の塞がっている少女をみすみす見逃してやる筈もなく、老人は再び少女の懐に潜り込む。それをエステルは左脚を走らせるようにして蹴り穿ち、迎撃して見せた。5mほど飛ばされた老人が目を丸くしながら起き上がる。
「小鳥もイタチも蛇も、それから私の血も美味しくなかったのにさ……面白いよね、橘がヒトだからかな?悪い気はしないや」
金色の瞳を細めながら照れくさそうに頭を掻き、その白い髪を赤黒く汚した少女の背には濡羽色の翼が咲いていた。
◇
「ああもう、ほんとに死ぬ気あるの!?」
「お嬢さんには殺せないというだけさ」
確かに橘の血の力を得たエステルの成長は目覚ましいものだった、これまでかすり傷ひとつ付けられなかったというのに、今の少女の両手はその鋭利に変形した爪で抉った血肉で赤く染まっている。しかしそれ以上に老人の再生能力は凄まじく、水で緩めた粘土のように痕を就けた傍から傷口が埋まっていく。
「しかしそうだな、これ以上時間を稼がれるのも鬱陶し──」
「触るな!」
老人は少女に堂々と背を向け、地面に転がっている残りの四肢を回収してしまおうと試みる。しかしそうして橘の右脚に伸ばされた老人の右腕は、彼に追い付き追い越したエステルの左脚に蹴り上げられた。エステルは勢いそのままに右手を伸ばして掠め取った橘の右脚を、己が顎を裂き爪先から口腔に押し込める。天を仰いで脚を真っ直ぐ下へ押し込め、少女の細い喉がぼこっと膨らむ。太腿までを飲み下し顎を閉じると、痩身に浮かび上がる異物はどろりと溶けて少女の一部となる。エステルの透き通るような白肌は罅割れ、瞳がオックスブラッドに濁る。
「いよいよ怪物らしくなって──きたじゃないか」
「首を撥ねてもダメなんだ、どうすれば死んでくれるの?」
これまで回避と迎撃で対応してきた少女がついに攻勢に転じた。老人の言葉を文字通りぶった切るように急接近した少女はもはや刃と呼ぶに相応しい爪で老人の喉を掻き切るも、切った傍から新しい首が生えてくる。そうして落ちた首は地に付くより先に腐り乾き塵になった。
「はぁ、好きなだけ試すと良い。より無力さを思い知るだけだろうがね」
「……絶対に殺すよ」
老人が何かしらの反撃を繰り出そうとしたのを、少女は彼の両腕を落としてそれが何の予備動作であったかも判らなくした。即座に再生を始める老人の腕が生えるより先に掌底で老人を真っ直ぐ後方へ突き飛ばす。体格相応の質量を持っている筈の老人の体は呆気なく宙に浮き、それにより生まれた猶予を使って残りの手足を拾い集める。少女が己の服を裂くと胸から臍にかけてが縦に真っ二つに割れ、第二の口となり黒ずんだ牙がずらりと姿を現した。そこに手足を押し込め、咀嚼する。少女は何かを口走ったが、壊れたブラウン管テレビのように掠れて何も聞き取れなかった。
「……君は選択を間違えた、お嬢さん。君は小賢しく戦うべきだった」
老人は着地と同時に臍から下を失う。老人には少女がいかなる手段を用いたかを視て捉えることなど出来なかったが、その声は至って冷静だった。
◇
「起きろ、鳥飼」
肩を揺らされる。生憎と再び眠りにつくことは出来ていなかった鳥飼は、"わかりました"と明瞭な返事を返し、閉じていただけの瞳を開ける。指先を凍みらせる隙間風に紛れ、僅かばかりの温かさが頬を撫でる。
「……朝、ですか」
「ああ、朝だ」
◇
「時間切れだ、お嬢さん。もう十分だろう?」
「……嫌だ」
少女の背を陽光が照らす。翼は焼け落ち、爪が零れ、少女はただの少女に還る。
少女の攻撃は間違いなく果敢で、老人を文字通り手も足も出なくなるまで追い込み続けた。しかし、それだけであった。少女が繰り出せたのは打撃、斬撃、あるいは握撃が関の山、それでは如何に矢継ぎ早に連撃を繋ごうと老人の理に反した再生能力に勝るはずもなく。ただ己の消耗を早めただけの少女がこうして人生で初めて朝日に絶望する事になる結末は、老人とって想像に容易いことであった。
「お嬢さんの力は確かなものだった、でも馬鹿の一つ覚えじゃどうにもならない事だってある。ほら見ろ、最後の傷も……おや」
胸元を斜めに切り裂いた傷が、じわりと塞がる。それは明らかにこれまで少女が目撃してきた、或いは老人が経てきた驚異的な再生能力とは打って変わるものだった。その原因がわからず老人は少しばかり驚いた。
「はぁっ、はぁ……私がただ、暴れてただけだと、思ってるなら……それは大間違い、だよ……」
「……成程、血を混ぜていたのか。日が昇るのを見越して。少しは考える頭があったみたいだな」
老人の見当は正しく、少女は理性を失い暴走したように見せて攻撃の折にその吸血鬼の血を老人の傷に忍び込ませていた。少女にとってそれは日が昇るまでに仕留められなかった場合の保険に過ぎなかったのだが、現実にはむしろそれしか成果を上げることが出来なかった。
「だが、それだけだ。私の力を削ぐことと君の力が損なわれることが表裏一体なら、こんな事は全くの無意味だろう」
「……もうちょっと、いい線行くと思ったんだけどな」
「さんざん君の我儘に付き合ったんだ、今度は私の我儘に付き合ってくれ……いや、分かり易く言おう、早く死んでくれ」
「うぎっ…………ゲホ、き、傷が……」
肩で息をしながら立ち竦むばかりの少女の腹に老人の蹴りが入り、エステルはされるがままに吹き飛ばされて地面を転がる。少女はその衝撃で折れて肺に刺さった肋骨が、全く癒える兆しを見せない事実を突きつけられた。日が昇り、衰弱していく少女の力ではもはや現状維持すら叶わないのだ。
「離、れ──」
「逃げたいか、ほら逃がしてやる」
老人は立ち上がり背を向けようとする少女に近付き、わざわざ改めて蹴り飛ばした。その攻撃は言わずもがな早く終わらせようとする先程の言動に矛盾する行動であり、老人が少女のこれまでの立ち回りに苛立ちを覚えていた証でもあった。
少女が転がっていった先は奇しくも橘が投げ捨てられた井戸だった、その壁面に背中を打ちつけてぐったりと項垂れる。
老人は縮地を用いず歩いて少女に近付いていく、今この瞬間に限って、彼を動かしているのはこの下らない茶番劇をダラダラと引き延ばした少女への憂さ晴らしに他ならなかった。
そうしてゆっくりと近づいてくる老人の姿が少女には厭に恐ろしく見えて、しかし目を閉じることも怖くてただ焦点を遠くにやって視界をぼやけさせた。
荒野に乾いた風が吹き抜ける。この地で何度も浴びた生気なき風──その風の中に、僅かに鼻腔を擽る香りがあった。俄かに目を覚まさせるような、シトラスの香り。
少女は己の頭上に何かが日蔭を作った事に気付き、顔を上げる。井戸の中から、一本の木が細く、しかし確かに枝葉を伸ばし、白い花を咲かせていた。
「……橘……?」
「何だ、まだ生きているのか?まあいい、先にお嬢さんだ」
老人は少しばかり驚いたが、歩みを早めることなどしない。たった今己を嬲り殺さんとする老人を見て、頭上に咲く甜橙の花を見て、少女は再び橘の言葉を思い出していた。"そうだ、こんなにも真摯に戦った私が、ああも不誠実な老人に敗れてここで死ぬはずがない。"そんな根拠のない確信が、少女の手をそれに伸ばさせた。
「……今更そんなものを手に取って何になる?弾も尽きた木偶の坊を」
「はは……これ、これはギフトだよ、ギフト。めいっぱい頑張った私への、贈り物……」
「君の狂言は聞き飽きた。ただ暴れただけのあれに価値があったと認めて贈り物を下さる神が居るとしたら、私はとうにこんな場所で苦しんではいないだろうね」
少女は黙してケースから取り出し大切に大切に両手で抱える、橘からの贈り物を。それを手にしているだけで、不思議と両の足に力が籠っていた。老人はそんな少女の5m手前まで迫っていた。
「向こうで合おう、お嬢さん」
「いいよ……遠い未来でね!」
鈍器として扱うかのように握っていたそれを、全速力を賭して構え直し、老人にその砲口を向ける。
少女は炸裂音と共に後方へ吹き飛ばされる。
直後、老人の躰は榴弾が直撃し、その爆発で木端微塵に消し飛ばされた。
"何故"、老人の最期の言葉はそれであったように聞こえた。それに続く言葉は"何故弾が残っているのか"や"何故弾が残っていると判ったのか"だろうか、或いは"何故お前は死を受け入れないのか"とでも問うたのかもしれない。何れにせよ、これで彼の望みは万遍叶った訳だ。
「……やったよ、橘」
井戸の上、甜橙の木の枝に受け止められた少女はぼそりと呟いた。瞬く間にしんと静まり返った荒野が、陽光を賜り熱を帯び始める。
少女は琴線が切れたように枝葉に身を預け、己の体が抱える問題に向き直った。つい先ほどの応酬が嘘のように体に力が入らない、鮮烈な痛みもぶり返してきた。
「あーあ、これ、治るのかな……ケホッ」
先程がむしゃらに放ったカノン砲のせいで余計に挫傷を増やしてしまった少女、その傷を癒すには余りにも熱量エネルギーが欠乏していた。それを自覚すると、途端に空腹を強く感じてくる。それを忘れようと傷口から視線を逸らすように顔を上げると、少女はそれを見つけた。
「これ、って……」
少女の視界の上の方に咲いていた白い花の一つが忽ちに枯れ、青い実を膨らませていたのだ。それが次第に橙に染まり……枝が重みでしなりと降りてくる。少女はそれを恐る恐る掴み、枝のまま引き寄せた。躊躇いがちに口を近づけ、皮に牙を突き立てる。
「……甘い」
ガーネットの果汁が、少女の頬をつうと垂れた。
◇
「えっと……これは、どう捉えるべきなんでしょうか?」
「俺に聞くな、お前の方が彼女の事は詳しいだろう」
僕が金本と共にAE-1921に乗り込み、橘達の居場所を突き止め辿り着く頃には金本と行動し始めてから2回目の朝を迎えていた。井戸の中から生えている果樹の枝葉に紛れるようにして体の大半が植物と化して解けたままの橘がおり、エステルを静かに抱擁していた。抱えられた少女は橘に身を任せたままその牙を橘の首筋に立てている。それを目撃した時点では二人とも目を閉じていた……が、パチリとエステルが目を覚ます。
「敵!?……いや、あなたは……橘が言ってた、指揮官の人!橘、起きて、ほんとに来たよ……」
ゆさゆさと橘の肩を揺らす少女、うーん、と橘が小さく唸る。橘がどうなっているのか状況がいまいち飲み込めず、金本と顔を見合わせる。
「やっぱ動けないんだね……ねえ指揮官の人、何か食べる物持ってない?橘、もう三日も何も食べてないの!」
︙
「──それで、橘の体は少しづつ治っていったんだけど、消耗が激しくてもう水だけじゃ人の体を作り直すのが難しいみたいで……それに、私に血を分けてくれてたから……」
「だからあんな中途半端な姿になっていた訳か」
「金本さん、言い方……まあ兎に角、生きていてくれて良かったです」
橘は僕がエステルに手渡し橘の口に押し込めた携帯食料を皮切りに目を覚まし、何かを言うより先にひたすらありったけの食料を貪っている。彼女が致命的な重傷から立ち直るのを見るのはこれが初めてではないが、今回はその中でも特殊なケースだった。そもそも彼女はどうしてこのような力を手に入れたのだろうか、いつか機会があれば聞くか探るかしてみようと思う。
「それで、あの武器に弾が残ってたのはどうしてなんです?」
「むぐ……普通に考えてもみてよ、雑魚相手に大事な弾を使い切る訳ないじゃん。いざって時の為に1発残しておいてたの、弾切れした風に装ってね。思ってたより敵が強くて使わせてもらえなかったけど……」
なんだかんだ橘自身としては敗北したのが悔しいのか、躰の修復を七割方終えた橘は腐れ気味にそう付け加えてから食料を口に押し込める。
「じゃあ、エステルはそれを知ってたんですか?」
「いいや?エステルに使わせるつもりはなかったし」
「じゃあどうして……」
「わかったの、なんとなくね」
エステル自身が代わりに応える。その回答は僕達を納得させるには些か不十分だった。
「……随分と曖昧な話だな」
「熊澤さんが金本さんの事を本物だと確信したのと似たようなものですかね?」
仮にそうだとしたら、彼女たちはこの1日2日で相当な信頼関係を築けたと考えられる。悔しいが、空鳥の思惑にピッタリ嵌ってしまった訳だ。
「しかし、敵もその爺さんが敗れたことを何らかの方法で知っているだろうな。ここに長居は出来ない」
「実際、もう既にちらほらと敵は来てた。エステルが全部対処してくれたけど。ただまあ、道中に比べてやる気がなかったというか……ダメ元で襲ってきてる感じがした」
「相手を諦めさせるくらいにはエステルの力は驚異的だった訳ですね。うーん……エステルの力については要再検査って感じがしますね」
「えーっ、私またあの施設に入れられちゃうの……?」
「泊まり込みではないだろうけど。でもあれだけの力が出せるなら、自分で自分の事はしっかりわかっておかなきゃ」
話を聞く限りただのダンピールには見えないし、1か月前に彼女の故郷で倒した純血のヴァンパイアたちの方が弱そうに聞こえる。エステルについても詳細を空鳥あたりに問い詰めておいた方が良さそうだ。
そんな事を考えているうちに橘はその肉体を完全に取り戻し、樹から降りてくる。本来──と言うよりは人事ファイル上の──橘の能力ではたった今彼女の体から切り離されたこの果樹もまた彼女の一部の筈だが……
「この樹、どうします?」
「私はどうでもいいけど……エステルはどうしたい?」
「んー……そうだね」
エステルは暫し悩んでいると、ふと視界の端に落ちている何かが陽光を反射しているのが目に留まる。それの元へ歩み寄り、拾い上げた。一本のナイフだ、すっかり錆びついているが、その刃に誰かの名前が彫られているのがわかる。少しの間首を傾げ、それがあの戦いの際に老人が自身に向けて投げたそれだと気付いた。それを手にしたまま皆の元へ戻る。
「エステル?」
「お爺さん、嫌な人だったし、言ってることもめちゃくちゃだったけど……でも、こんな世界に取りに越されてたのは素直に可哀そうだったし、最後、とっても寂しそうに見えたの。"向こうで会おう"って、ただの敵に投げかけられる言葉じゃないよ……だから、その。私達がそれに応えることはできないけど、せめて……私だけでも、弔ってあげたいよ」
自分の何百倍生きたかも判らない老人を前にして思うものがあったのだろうか、エステルは果樹に歩み寄り、それが生えている井戸に向かいしゃがみ込む。ガリガリとそのナイフで井戸の側面に何かを刻み込んでいく。そこには拙いアルファベットでこう書かれていた。
"dedicated to Douglas"ダグラスに捧ぐ
「副葬品にしては随分と嵩張るが……まあ、無いよりマシだろう。気が済んだなら出発するぞ」
「一先ずここを離れて、夜になったらQ9ALTに戻る、それでいいんですよね?」
「ああ、そこまでは面倒を見てやる。その後は、前に言った通りだ」
「はい……わかってます」
わかっている、僕には、まだ……やる事がある。"2人きりの秘密の作戦"……僕と空鳥の、2人きりの作戦を。
……やっぱりこういうやり方は、好きじゃない。
◇
会議室が過熱する中、トントントントン、と後ろから肩を四度叩かれた。
僕はこれが合図な事を知っている。
「そのままで聞いてくれたらいい。先ずは謝らせてよ」
目前で議論を交わしている最中の筈の空鳥の声が、後ろから聞こえてくる。空鳥は僕にだけ何かを伝える時、決まってこうするのだ。
「今回の件は私の計画ミスに他ならない、本当にごめん。君が好むような、より素直なやり方を私も学ばないといけないかもしれないね」
柄にもなく深刻そうな空鳥の表情はハッタリらしい。しかしそんな事実に僕は"空鳥はこの事態を重く受け止めているのか"と疑うよりも先に、未だ平静を保っている空鳥に安堵してしまっていた。
「そしてもう一つ謝らなければならない。私の招いたこんな状況だけど、亙君にはもう一度私のやり方に付き合ってもらいたいんだ」
だから、空鳥のそんな提案も拒む気にはなれなかった。彼女が僕を理解しようとしてくれているように、僕も彼女を理解していれば今回の結果はよりよくなっていたかもしれないのだから。僕も空鳥を理解するために、彼女の差し出した手段を選び取った。
「僕達には、落ち着いて物を考える時間が必要みたいです」
この手段を、僕は理解し、より良くしなければならない。
◇
技術番号: ART-486
個体数: 24
保管場所: 別途資料を参照
使用手引: ART-486は主に後述の該当アノマリーの初期収容に用いられます。また、個体数に限りがあるため、必要に応じて近隣サイト間で貸与する事が認められています。
説明: ART-486は生体アノマリー収容装備"ディスパイル"シリーズの第6号であり、転移能力の無力化を目的として使用されます。現在、実際に使用されている形式はさすまた、ナイフ、非殺傷弾の3種類があり、最も無効化強度が高いのはナイフの形式のものです。収容対象の生体組織にART-486を刺入する事で転移能力を無力化、或いは弱体化が見込めます。詳細な性能評価は別途資料を参照してください。
「……なぜ、刺さなかった?」
金本に連れられて橘やエステルと共にQ9ALTに帰ってきた直後、僕はその金本の背にナイフを突き立てていた。僕の能力で掴んでいた、金本の体内装甲の継ぎ目に。しかしそれを刺し込む事はしなかった、いや、出来なかった。僕がそうした事に気付いた金本は、振り払うより先に驚きと困惑を見せてそう問いかけた。
「それは、恐らく普通のナイフじゃあないんだろう。そして最初から刺す気だったんだろ、なぜ刺さない」
金本はゆっくりと振り返り、僕の手首を掴む。しかしその手首を握り潰すでもなければナイフを取り上げるでもなく、ただ僕に問いかける。橘とエステルはどう介入するべきか掴みかねて身構えたまま静観している、そのままそうしていて欲しい。
「……誠意です、僕なりの」
「誠意で何が出来る。お前が示すべきは誠意じゃなくて覚悟じゃないのか?」
「僕は、何としても真実を知って、どんな脅威が待っているのかを知りたいです。そうでなければ、皆を護れないから……でも、それと同じくらい、僕は金本さんに全てを背負い込んでもらいたくはないんです」
「……知った口を」
「僕は何も知りませんよ、でも熊澤さんは違う。熊澤さんは今でも、金本さんの事を信じてるんです……また一緒に戦えるって」
「違う!」
金本は単調に振舞おうと努めていたのが途端に崩れ、僕の右手首を軋ませた。ナイフが僕の右手をすり抜け、軟い地面に突き刺さる。
「……何が違うんですか」
「俺は……もう、熊澤の知る俺じゃない」
「そんな筈ないです。こうして僕達の為に独りで戦おうとしてるのに、その姿のどこがヒーローじゃないっていうんですか」
「やめろ!……違うんだ、俺はもう、ヒーローなんかじゃない……」
金本が僕の右手を振り払う。僕は握られていた所が刺すように痛むのを誤魔化すように手をすぐ引っ込め、じっと金本を見据える。金本は僕と目を合わせるのを拒むように横を向いた。
「金本さんが隠してる事と、ヒーローと呼ばれたくない理由。関係あるんですね」
「……わかった、わかったさ。良いだろう、お前はどうせ諦めない。なら……こんな駆け引きは無駄だろう。話してやる」
話すといったもののまだ覚悟が決まり切っては居ないのか、暫し目が泳ぎ、髪を掻き、それからイガイガしく唾をのんで、話を始めた。
「……俺がサイト-8170を白い怪物と共に飛び去ったあの日、俺が辿り着いたのはAE-1921、あの荒野じゃあなかった」
「どうしてなんですか」
「判らない、装置の不具合なのか、或いは何か別の要因が絡んだのか……兎に角、俺が飛ばされたのは全く別の世界だった」
「……その世界の識別子はわかりますか」
「AA-2501、真っ当に社会も財団も機能してるその世界のサイト-8170、そこに飛ばされてしまった」
「え、そ、それって、その敵も……」
「そうだ、俺と共に飛ばされたその怪物は俺の前から逃走を始めながらそのサイトの人間を殺して回り、俺がなんとか止めを刺した頃には……そのサイトは7割以上の人員を失っていた」
「……」
「彼らの生き残りは徹底的に調べた、AA-2101の事を。そうしてAA-2101の連中があろうことか世界を股にかけて人助けをする組織を作っている事を知った。わかるな?お前たちの事だ」
「……つまり、彼らは……」
「当然、腸が煮えくり返る思いだっただろうな。怪物との戦いで深手を負っていた俺は奴らに捕まり、改造を受け、例の黒いゲルを流し込まれた。詳しくは知らないが、あれはあの世界に存在するSCiP、いや、悪魔とも呼べるのが生み出すもので……あの世界のサイト-8170は、その悪魔と契約する事でその力を得たらしい。何を代償にしたかは知らないが、目的は一つだ……もう、わかるな?」
"この先に君が期待する結末はない事を、どうか忘れないでくれ。"
繰り返し投げ掛けられていたその警告が、今更脳裏を反響する。
「奴らの望みは、お前たちへの復讐を果たすこと。ただそれだけだ」