[2019/4/1 10:00 サイト-8165, 作戦準備室]
「本日より皆さんの指揮を担当させていただくことになりました、鳥飼亙です」
大きなホワイトボードを背に、初々しい青年は敬礼を作り背筋を正す。彼の前に4行6列で並ぶ精鋭たちはその青臭い指揮官にまばらな拍手を贈った。
「俺は機動部隊て-11"ヒペリカム"隊長、柿鶴かきづるだ。随分と若いな。幾つだ?」
「今年で21になります」
「ははぁ、フレッシュマンだ。それで2小隊を抱えるんだから、さぞかし実力派なんだろう」
「あはは……プレッシャー感じますね」
柿鶴は含みを感じる物言いで鳥飼を迎えた。背丈こそそう目立つものはないが、それでも四十後半を思わせる深い皺と光沢のない眼力は十二分な威圧感を帯びている。しかし鳥飼は軽く肩をすくませるも、それ程物怖じした様子は見せない。
その隣に並び立つ、ツイストオールバックの男は年上と思しき柿鶴の背を躊躇いなく二回叩いて見せた。
「相変わらず柿ちゃんは嫌味ちゃんだな~、そんなだからお伊勢さんに飲みに誘ってもらえんのだよ。やあ坊ちゃん。オレは機動部隊て-12"オオデマリ"隊長の雲雀田ひばりた、そこの37のオッサンと違ってオレは29の若手実力派ってやつなんよ。だから坊ちゃんとも仲良くできるとおもうんだよね、宜しくな?」
「ひばりたさん、ですね。よろしくお願いします」
柿鶴の掛けてきた圧よりも雲雀田の坊ちゃん呼ばわりの方が鳥飼の琴線に触れたようで、彼は少しだけ眉間にしわを寄せた。それもすぐに取り繕ったが、雲雀田はそれを目敏く見咎める。
「およ、坊ちゃん呼びは嫌だったかね?」
「あー……すいません、少しだけ。これでも一応、4年は勤めてますし」
「4年!へぇ~。なら歴は2年しか違わんし、こりゃ坊ちゃん呼びはダメだわな。そも21の時にゃ俺はまだ研修受けてたんだから、大したもんだよ」
雲雀田は見識こそ改めたようだが態度は変わらない。鳥飼の雲雀田への第一印象は"軽薄"で固まったようだった。
「ありがとうございます。皆さんと最初にご一緒するのは二日後の作戦が最初になると思います」
「ならこの後はそのままミーティングに移るって事で良いのか?」
「そうなりますね、よろしくお願いします」
対する柿鶴への印象は至って良好で、圧力の強さへの悪印象は感じていない様だった。雲雀田はそれをややつまらなさそうに眺めていたが、直ぐに元通りの砕けた笑みに戻った。
︙
「今回の作戦目標は異常反社会組織"清伯会"幹部"葛西 光"の無力化および彼が支配下に置いている異常物品密造ラインの制圧です。ハンドアウトはもう回っていますかね?」
「ああ大丈夫だ。始めてくれ」
照明を絞った会議室には、昼前の淡白な陽光が差し込んでいる。柿鶴はそれに照らされたハンドアウトに視線を落としながら返事だけ返した。雲雀田は新聞でも読むみたいにそれをペラペラと斜め読みしている。鳥飼は形だけ小さく頷いてから話し始める。
「場所は中川工業地域、南北に延びる運河沿いに点在する工場および事務所を一斉に摘発します」
「それを2小隊で?分配はどんな感じよ」
「2か所ある事務所にそれぞれ柿鶴さんと雲雀田さんを含む3人で、6か所ある工場にそれぞれ3人で突入してもらいます」
「葛西が確保じゃなくて無力化なんはどういう理由?」
「彼には脱走歴があります。無論何の能力も持たない人間がそれを成し遂げる訳がありませんが、そのタネを探ってやる必要はないという上の判断です」
「当日のターゲットの居場所は目星ついとんの?」
「いいえ。当日僕が視ます」
雲雀田は一問一答の要領で作戦を突き詰めていく。ハンドアウトを読めばわかる事ばかりだったが、彼が繰り返しそう問い掛ける事で場の理解度を高めていた。鳥飼は雲雀田のそれが意図的な事に気付いていながらも、まだ軽率な印象をぬぐい切れず単調でぶっきらぼうな返しをしてしまう。早い話が苦手意識が芽生えつつあった。
「ふぅむ。やっぱこれ、オレら2小隊でやる事じゃないよね?」
「それは……上からの指示です」
「上って誰よ」
「矢場議長です」
上からの指示、それは間違ってはいなかったが適切な表現とは言い難かった。より正確には──
「"出来ない様なら指揮官任命は撤回する"、だろう」
「……!」
割り込んできたのは柿鶴だった、ハンドアウトに視線を落としたまま小さくため息を漏らす。
「噂になっていた、あの矢場カタブツが伊勢山イチ推しの新人を潰そうと躍起になってると」
「知ってたんですか。ええまあ、あまりいい目では見られてないみたいです」
鳥飼はさして気にしていなさげな様子でそう答える。事実、彼は矢場やあるいは柿鶴の自分への圧力を苦に感じてはいなかった。
「あの朴念仁に目をつけられてそれだけ飄々としてられるんなら君と仲良くなれそうだな、オレ」
「あはは……まあ、期待には応えますよ」
露骨に距離を詰めにかかる雲雀田にこれまた露骨な苦笑いで返す鳥飼、その微妙な空気感はミーティングでは終ぞ解消されることは無かった。
︙
「鳥飼、ちょっといいか」
「どうしたんですか?柿鶴さん」
ミーティングを終えて人が散っていく会議室で、最後まで残っていた柿鶴が鳥飼を呼び止めた。
「雲雀田の事だ。お前、あいつの事苦手だろ」
「え……まあ、えっと。包み隠さず言えば」
鳥飼は柿鶴の取り繕わない質実剛健な物言いにどこか懐かしさを覚えつつ、真意を測りかねるその質問に困惑を示しながら素直に返答した。
「そうか、無理もない。俺もあの状態の雲雀田は嫌いだ」
「なんだか回りくどい言い方ですね」
「まあなんだ、下手くそなんだよあいつは。余り邪険にしないでやってくれ」
柿鶴はそれだけ言い残して会議室を去っていってしまった。鳥飼はそれに遅れて力尽きた独楽のようにカクンと首を傾げた。
◇
[2019/4/3 10:56 サイト-8165, 作戦室]
『こちらベータ-1、作戦ポイントA-4に到着しました。ターゲットは依然この事務所に滞在していますか?』
作戦室には後方支援部の数名のほかに、矢場が送り込んだ先輩指揮官が指揮補佐として待機していた。まるで矢場が"いつでも交代していいんだぞ"と言っているかのようだが、しかし鳥飼の関心はもはやそこにはなく。
「はい、そう、ですが……えっと、誰です?」
『やだなぁ鳥飼くん、オレだよ』
「雲雀田さん……!?」
『こちらは合図があればいつでも動き出せます、オーバー』
二日前の砕けた印象からは想像もつかない堅物ぶりと、そこから再びころりと転じた軽薄さに鳥飼が動揺を隠せずいると、雲雀田は用件だけ伝えてプツリと通信を切ってしまった。その直後、入れ替わりで今度はアルファ-1、柿鶴からの着信が入る。
『雲雀田とは話したか?』
「は、はい。たった今」
『その声の調子だとすっかり肝を抜かれたんだろう。あいつの素はあっちなんだ。早い話がコミュニケーションが下手くそなんだよ、あいつは。人とフレンドリーに接そうとすると一昨日みたいになる』
柿鶴は鳥飼の反応を聞いて愉快そうに小さく笑い、それから雲雀田の人間性を語った。元よりこのタイミングで話すつもりだったようにも見て取れる。
「そ、そんな事が起こるんですか?」
『まあ、何らか心の病かも知らんが。そんなことが言いたい訳じゃなくてだな』
柿鶴の声はすっと温度が下がる。鳥飼もそれにつられるように背筋が伸びた。
『あいつは、あれでもお前の事を気に掛けてるんだ。不器用どころの話じゃないがな……そして気に掛けてるのはあいつだけじゃない。矢場はまあ悪意だろうが、それを抜きにしたってお前は色んな人間の支えでここに居る。それを忘れるな』
「……はい、心に刻んでおきます」
鳥飼は柿鶴の、これまた不器用な"気に掛け方"を受け止め、半ば納得したような、しかし唐突な説教じみた話にどこか話半分で聞いてしまうような若さを見せ、曖昧な語調で返事をした。
『それで、ここの事務所にはどの規模の人員が居る?』
「武装人員は8人、非武装或いは軽武装が12人ですね」
『その程度ならまあ……問題は無いな』
「了解です、それでは突入準備に入ってください」
鳥飼は全チャンネルをオンラインに切り替え、一斉に指示を送る。
「2019年4月3日、11時40分。葛西光無力化作戦を開始します。アルファからシータまでの全小隊は突入を開始してください」
『『了解』』
鳥飼の号令で全隊員は一斉に事務所、或いは工場へ突入する。彼の手腕の見せ所だ。
「ベータ-1、作戦目標は二階の北向きの部屋にいますが武装人員が二階廊下と一階応接室に集中しています、注意してください。イプシロンの制圧目標には武装人員が居ません、武力行使は最小限にとどめて物品保護に努めて下さい。イータ-1は──」
鳥飼は持ち前の異常性で視界を転々とさせ、複数の小隊を同時に操っていく。それを成立させるのは彼の異常性だけではない鳥飼の天性の処理能力があってこそであり、彼にこの仕事を遂行させる自信にも繋がっていた。
『こちらデルタ-1、制圧対象らの妨害工作で数名の逃走を許しました。追跡を優先しますか?』
「いえ、逃走車両はこちらで把握できています。既に制圧を完了しているイプシロンに追跡を指示するので、製造ラインの停止と施設の封鎖を優先してください。デルタ-1、聞こえますか?」
滞りなく制圧は執り行われていく。明らかな人員不足を感じさせないその指揮能力がある故に、彼は矢場や或いはそれ以外の自分を快く受け入れようとしない面々への嫌悪感を抱いていなかった。"実力で示せばいい"、いつだってそう胸に掲げてきた。"保護対象から職員になった時だってそうだし、研修生から一足飛びに指揮補佐官になった時だってそうだ。いつだって実力さえ示してやれば人は納得してくれるのだ。"彼のそんな思想はどこか危うくも、けれど確かに彼を此処まで押し上げていた。
『こちらベータ-1、聞こえますか?』
「はい、聞こえています」
『イレギュラーです、ターゲットが無力化直後に消失しました』
◇
『つまり、いま名二環を130キロでぶっ飛ばしてる逃走車両に葛西が乗っていると?』
「はい、僕の眼で視る限りでは。しかしベータ-1は確かに作戦目標を無力化したんですよね?」
『ええ、間違いなくターゲットでした。しかし死体はその場に残らず瞬く間に消失したんです』
『それが葛西のもつ異常性か?死んだときに蘇生して転移するとなるといつまでもイタチごっこじゃないか』
「いや……そうじゃないと思います」
逃走車両をずっと目で追っていた鳥飼は確信めいたものを抱き首を横に振った。
『何か気付いてるんですね、聞かせて下さい』
「作戦目標が逃走車両に現れる前、現れた座席には既に他の構成員が居たんです。それと入れ替わるように作戦目標が現れ、元居た構成員は失踪しました」
『つまり…………どうやらお前の見立て通りのようだ』
柿鶴は拘束済みの構成員の服を引き剥がし、その躰を検める。そうして間もなく背中に彫られた刺青の中に典型的な儀式印が紛れている事に気付いた。
「はい、おそらく彼の部下は彼の残機とも呼べるものなのでしょう」
『だとしたらいずれにせよイタチごっこに変わりはないんじゃないのか?奴の部下を根絶やしにするのは口で言うほど簡単じゃない』
「いえ、そうじゃないんです。もし何の制約もなく構成員を身代わりに出来るのなら、わざわざ我々から逃走している構成員と成り代わる必要なんてないんですよ。もっと遠くに部下を置いておいて、それと成り代わればいい」
推論をそこまで説明して、鳥飼はサイトへと通信を繋げた。
「こちらコマンダー、至急後述の調査と対応を要請します。まず今から送信する方角に存在する最寄りの清伯会の事務所を特定してください、それから──」
︙
作戦地点から随分離れた、郊外の峠道。急カーブのガードレールは根元から抉られ、その向こうで煙が細くたなびいている。それに導かれるようにコンクリート張りの法面を見下ろすと、シケモクのように頭から潰れたクラウンが一台。漸く消火が済んだ車両の後部座席には、ローストチキンとなった葛西が力なく伸びている。その表情は驚愕と苦痛に満ち、"こんなはずじゃなかった"と物語っているかのようだ。先行しついさっきその車両を爆破したイプシロンの後を追ってそれを検めに来た鳥飼、柿鶴、雲雀田の三人はアルファ-3からの報告を一頻り聞いてから事の顛末を推し量り語る。
「つまり、お前は身代わりには距離の制約があると踏んだわけだな」
「はい。ですから作戦目標ではなく彼と"遠隔で合流"するつもりだったであろう身代わりの方を密かに排除したわけです」
「で、身代わりが居るもんだと思い込んで余裕綽々だったこのマヌケはあえなくお陀仏と……君、なかなかえぐいこと考えンだね?オレびっくりしちゃったよ」
「やけに自信満々だから不安だったんだがな。どうやらお前は本当に根っからの実力派らしい」
鳥飼の采配を雲雀田と柿鶴は素直な言葉で賞賛する。それを鳥飼は"ほら見た事か"と内心したり顔でそれを受け止める。"これからも同じように驚かせ続けてやればいい。"そんな言葉を己に投げかける。
"僕ならこれからも上手くやっていける。"そんな確信を己に投げかける。
◇
[2021/10/3 7:31]
某都市からそう離れてはいない山間部の、白檜曽と唐檜が等間隔に並ぶ人工林。満足に均されていない林道を24人の精鋭たちが二手に分かれて行軍する。時折その秩序を乱す若木が混じっているのを見るに、近年になって手入れが滞っているようだ。仲秋の朝霧が彼らの姿を暈している、それでも彼らを見失うことなどありえない筈だった。
……それなのに。
『こちらアルファ-1、C-2地点を東へ進行中に突如背後の地形が消失、これにより5名の隊員をロストした。退路が断たれたようだ、このまま進行していいか?』
立ち竦む7人の精鋭たちは、今しがたぽっかりと写真を四角く切り抜くようにして消えてなくなった大地から覗かせる深淵を、ただ寡黙な眼差しで眺めていた。
余りに突然だった。その任務を特別に高難度なものだとすら認識はしていなかった。この場所で度々消失事件が発生していたことは事前の情報で知っていたが、その消失には予兆が伴って計器が反応するはずだった。少なくとも、事前の無人機調査ではそう結論付けられていたし、一定の安全確保が出来ると踏んだからこそ2部隊を全投入して本格的な調査に踏み切ることになっていた。それが何の間違いか、なんの前触れもなく5人の隊員を失ったのだ。
「ダメです、隊員を欠損した状態での行動は事態の悪化を招きかねません。その場で待機してください、すぐにB-3地点のベータに別ルートから向かわせます。合流が完了したら報告してください。聞こえましたか、ベータ-1?」
『こちらベータ-1、合流指令了解しました。ルートの指示をお願いします』
しかし焦りはない、否、焦るなと何度も言い聞かせる。これまでだってずっと言い聞かせて上手く行ってきたんだ。上手く行く、上手く行くんだ。
『こちらアルファ-1、ベータとの合流に成功した。ベータの経路から撤退を開始します』
「合流確認しました。しかし予断を許さない状況です、最大限の警戒を払って撤退してください」
『了解、撤収に掛かる時間の想定は?』
「50分ほど要するかと思います、途中にルート変更を強いられる可能性もあるため、更に迂回する必要が生じるか、も……いや、待ってください!」
撤退ルートを再確認するさ中、彼らの居る場所から離れた地点でとある"違和感"に気付いた。
『どうした?』
「……密度。一か所だけ、樹木の並びが不自然に密なんです。その箇所が僕の眼には皆さんの背後の四角く切り取られた地形と同じ大きさに見えます……居た!居ました!消失した5人です!通信は……繋がらないです。だけど……」
『罠の可能性もある、だな』
「はい。むしろ、多くのケースにおいてその可能性の方が高いです。しかし……」
『君は助けたい、と。どうする?柿ちゃん』
雲雀田は敢えて茶化した物言いで柿鶴に意見を求める。柿鶴はほんの一呼吸開け、ひとつ頷いた。
『俺が行く。雲雀田はこいつらを連れて撤退してくれ』
『いいの?オレはホントに撤退しちゃうよ?オレも行く!なんて言わんよ?』
『だから頼んでるんだ』
『オウ、こりゃ失敬……と、そんな訳で柿ちゃんの命運は君に委ねられた。頼めるね?』
「……はい!必ず、皆さんを連れて帰ります!」
︙
「「「乾杯!」」」
鍔迫り合う25のジョッキ、派手に波立たせた泡が彼らの手に掛かる。座敷席を二つ繋げた半個室は、調査任務を満足に達成できなかったとは思えない活気で満ちていた。
「やるねぇ君ぃ!ほんとお伊勢さんの見る目はすげぇわ。感動しちゃったよ~」
バンバンと背中に紅葉を作りながら激励する雲雀田、どうやらコミュニケーションだけじゃなくて力加減も不得手らしい。
「あはは……諦めなければ案外どうとでもなる物なんですね」
「おぉ?余裕か?いっちょまえによぉ!」
余裕なんてない。諦めなければ道が開ける、そんな前向き気取った言葉も自分に言い聞かせているに過ぎなかった。でもそれでいい、確信を持て。そうすればいつだって上手く行く。
「それくらいにしとけ。でもまあ、お前はホントに良くやったよ。ありがとな……これからも頼んだぞ」
「あ、ありがとうございます……」
柿鶴は柄にもなく素直な言葉で感謝を口にする。それを聞いているほうが小っ恥ずかしくなっていしまい、少し間があってからトイレと称して席を立った。
「ん……しまった、トイレはこっちじゃないな……」
「それならそこの角を左だよ」
道を誤りカウンター席の方に来てしまった。きょろきょろと見渡しトイレを探していると、そこへ一人で飲んでいた男が声を掛けてきた。
「ああ、ありがとうございま……」
ふわり、紅茶の香りが漂う。居酒屋におよそあるまじきカモミールの香り。それが妙に鮮烈に鼻腔を擽る。いや、それ以外が不鮮明になっている。モノクロームの中にトラッキングして色彩を残すような、そんな感覚。その男と、自分。そして、それ以外。みるみるうちにそれらが切り離されていく。
「君は、感謝するべきだろうね。こう見えてそれなりに苦労したんだ」
「貴方は……」
「やあ、久しぶり。目覚めの一杯は如何かな?」
◆
[2021/12/21 9:48]
「つまり、大上管理官への追及は証拠不十分で棄却されたんですね」
サイト-Q9ALT、特殊通話室。白色灯が過剰に眩しい防音室で僕と空鳥は伊勢山管理官からの報告を受け取り、片や肩を落とし、片や小さく鼻でため息を漏らした。
『そういう事だ。もとより望み薄だったけれどね、曲がりなりにも管理官になれる男だ、そう簡単に尻尾は見せないだろう。熊澤に己が思想を暴露しただけでも大ボロだったと見える』
「そうですか……ありがとうございます」
黒山一行が帰還してから約1週間、伊勢山はAA-2101で大上を揺さぶるべく奔走してくれたようだが、それは実らなかったらしい。通話装置越しの僕は落胆の色を極力出さないように感謝を述べた。隣で伊勢山の報告を聞いていた空鳥もリアクションは肩を竦めるに留める。
『AA-2501件の連中の情報を直接探る事も難しそうだ、リスク隔離原則が立ちはだかる』
「私達で動く他ない、みたいだね」
「偵察部隊を組むのはどうですか、空鳥さんと僕が居れば大抵の監視網は潜り抜けられる筈です」
「亙君にしては強気だね、だけど賛同できないかな。私達の能力を加味してもリスクが大きすぎる」
『残念だが私も許可出来ない。君達は既に危ない橋を渡りすぎているんだ、これ以上危険を冒すべきじゃない』
事態はいつ動いてもおかしくない状態だ、余り悠長なことはやっていられない。しかし彼らの言い分も理解は出来る。僕は一先ず引き下がり、改めて代案を提示することにした。むしろ、こっちが本命と言っても過言ではない。
「それなら、よりリスクを減らす方向のアプローチを取りましょう。僕に案があります──」
︙
『──なるほど、理解は出来た。確かに君達にとってのリスクは減じるだろうね、しかし……』
「伊勢山さんの協力は必要不可欠になります。別方面のリスクは確かに存在しますから、僕達の独断で出来る事ではありません。伊勢山さんに許可を取ってもらう必要があります」
『ふむ……君は、私がその案を良しとすると考えているんだね?』
伊勢山の声は至って消極的だ、だが彼のこの声色は僕を試しに掛かっている声であることを僕は知っている。だから、引き下がる必要はない。
「最初に天道を語ったのは伊勢山さんです、そうですよね?」
『……やれやれ、随分狡くなったね、君』
「良かったね亙君、褒められてるよ」
「あまり、嬉しくない誉め言葉ですね……」
『良いだろう、掛け合ってみよう。ただし、許可が下りたなら交渉は君自身がやるんだ、鳥飼君』
もとよりそのつもりだったが、敢えて言うほどの事ではないように感じるその指示に電話越しで首を傾げた。それは伊勢山に見えてないだろうが、僕の反応に間があったのをみて凡そ僕の疑問を察したであろう彼は一言だけ付け加えた。
『君こそが適任なんだ。人は最も情熱ある者に引き寄せられるものだからね』
◇
「思い出せたのは、そんなところです」
「ふむ……まだ君の意識は完全に君の物になった訳ではないらしいね」
居酒屋の店内は時が止まったかのようにシンと静まり返ってしまった。カウンター席の他の客はいつの間にかその場から消えて居なくなっている、或いは最初からそこには誰も居なかったしれない。僕達の声だけが不完全に反響し、僕に奇妙な不快感を覚えさせる。
「あの、これは何が起こってて……」
「残念だけど、全てを説明することは出来ない。いつも通り、君の知っている事しか知らないからね」
男の手からはいつの間にかティーカップが消えている。代わりに空のジョッキが握られていて、それを僕に差し出した。ついでに僕の胸ポケットにティーバッグを滑り込ませ、"後で飲むと良いよ"と付け加える。
「じゃあ、質問を変えます。僕は何をすればいいですか?」
「もう少し、君の意識を確かなものにしなければいけない。君は今、自分の過去を見てきた筈だ。それに思い巡らせてみようか」
おずおずと両手で受け取ったジョッキを覗き込む。底に反射した僕の顔は魚眼に歪んでいる。
「そうですね……ひとつ、気付いた事はあります」
「話してくれ。ひとつひとつ言語化していこう」
男の方に視線を直さず、ジョッキへ零すように言葉を探す。
「僕は、Q9ALTに来てから……というより、あの日失敗してから。僕はそれまで、自分の力に驕っていたんだとばかり思ってました。だけど、どちらかと言えば」
ジョッキに結露が滲む。ひたりと雫が掌に滞留していくのを感じる。
「僕は、力に縋っていたのかもしれません。僕の人生は、上手く行きすぎてた。だから、いつか躓き転ぶのがずっと怖かった。それで言い聞かせてたんです、ずっと。力を使えば全部上手く行く、って。自己暗示……いや、自己洗脳とでも言いましょうか。確信が欲しかったんです」
「過去を振り返ってみて、それを自覚できたと」
或いは、今辿った過去はそれが敢えて強調されていたのかもしれない。なぜ僕がこんな過去を追想していたのかは定かじゃないが、何らかの作為は感じざるを得ないし、この男は恐らくそれに気付かせたかったのだろう。かちゃんとジョッキの中で氷の傾く音が聞こえた。
「さて、他には何か?」
「この、居酒屋。勿論、こんな結末は嘘ですが。でも、来たことはあるんです。何かの作戦の後に。だけど……その時の僕は、酒に興味がなくて……そう、こんな具合に」
ジョッキに並々の烏龍の水面に、僕の顔がくっきりと映っている。ああ、随分空気の読めない後輩だったらしい。
若さ滲む過去の己の振舞いに羞恥が湧き、目を細める。
「なんというか、今更ですが。ちゃんと付き合って飲んでおけば良かったですね」
これは夢なんだと、改めて実感したその時、ふいに手元に生温さを感じる。再び目を見開くと、そこには真っ黒で不透明な水面がひとつ波紋を立てていた。
「……そうだ。あの時も、たしか……」
どろり。カウンターの下から無光沢の黒色が這い出す。
◆
[2021/12/22 2:13]
深夜、自室にて。無骨な遮光カーテンで完全に光源を遮断した寝室に耳を劈くサイレンが鳴り響く。伊勢山の異様に迅速な"許可取り"の達成により休む暇も与えられることなく交渉に奔走した僕は、帰宅するや否や泥のように眠りこけていたのを、そのけたたましい音量で叩き起こされた。
「ぅ、何だ……?」
熊手で砂利を擦った様な、ガラついた声で音の発生源たるスマートフォンを手探りで掴みとる。8165に居た頃からの習慣で、深夜帯だけ着信音を警報音にしてあるのだ。そうするようになった初めの頃は鳴り響くたびに飛び起きたものだが、今となってはただの着信と何ら変わりなくなってしまった。
『こちら青木だ。起きてくれ鳥飼、侵入者の情報が入った』
「えっ、あ、どこです……?」
寝呆けた返事を返してしまった。慌ててアイマスクを外し、照明のリモコンを探す。それを見つけるより先にサイドテーブルに置いてあった缶珈琲が手に触れた。
『正確な位置の特定はそっちの仕事だ、だがサイトからかなり近い可能性が恐ろしく高い』
「了解です、直ぐに割り出します。集合は第一会議室で良いですか?」
『第三にしよう、その方がそっちの宿舎から近いだろう』
了解です、と端的に返答して通話を切る。身嗜みを整えている時間はなさそうだ、部屋に明かりをともすことを諦め、一先ずは気付けに先程手繰り寄せた缶を呷ることにした。とうに常温だが、無いよりずっとマシだろう。
「……ぁ、ぇ?けほ、なんだ、これ……」
しかしそこにあったのは缶珈琲の安っぽい渋味ではなく、喉に貼り付くような不快感だった。苦味はあるが珈琲のそれではなく、より薬品的な苦みと動物的な悪臭を含有していた。
たまらず缶をサイドテーブルに叩きつけた時、その飲み口から珈琲ではないそれが水飴のように僕の口まで伸びているのが暗い部屋の中でも見て取れた。
◇
「ここまでは、思い出せました。そして多分、ここから先の記憶は思い出せないんじゃなくて、存在しないんでしょう」
「良かった、記憶を君の元に取り返せたようだ。そして奴らもそれを察して、いよいよ手段を選ばなくなったらしい」
天井と壁の継ぎ目やフローリングの隙間、キッチンのシンク、換気口……それらから黒く粘性のある液体が音もなく流れ出してきている。それらは僕達を僅かに避けるようにして居酒屋を黒一色に沈めんとしていた。
「それって状況が悪化してるんじゃ……」
「悪い事ばかりじゃない。君がこの世界を夢だと認識してくれたお陰で、今しがた外の様子がこちらで把握できたよ」
居酒屋に喧騒は無く、奥の座敷席に居た筈の24人の姿もとうに見えなかった。男は僕の肩に手を回し引き寄せると、"離れないように"と端的に僕を警める。
「外、っていうと、現実の……というよりは、肉体の僕って事ですか」
「そうだ。結論、君の体をこの黒いのが乗っ取っている訳だが……何もしていない。いや、何も起こってない風に振舞っているというべきかな。本当は君に現実と地続きの夢を見せて君の自我を残したままに操りたかったのだろう。だが君はこうして目覚めてしまった、ともすれば君という人格を活かすことを諦め、完全に制圧して支配しなければならない。凡そそんなところだろう」
彼の説明が正しいのなら、この黒いゲル状の液体は僕達を避けているのではなく、この男が液体を何らかの力で押しやっているのだろう。どうやっているのかまでは知り得ないが……
「そして君が今考えるべきはこの状況をどう乗り切るか、だ」
「……少し、考えさせてください」
まずこの液体が何なのか、恐らく金本を支配していたあれと同じものだとみていいだろう。ならば赤い核がどこかにあるはずだ。しかしあるとしてもそれは肉体に存在するのであって、この夢の中にも存在するという確証は得られない。ならば先に液体をどうにかする事だけ──
「あー、ひとつアドバイスだ。どんな時も理詰めで考えられるのは君のいい所だが、今ばかりはもう少し柔軟になってみてもいいかもしれない」
「柔軟に、ですか」
「そうさ。ただでさえこんな何でもありの空間なんだ、現実的な思考に囚われる理由なんてどこにある?」
じゃあなんだ、何でも倒せる剣でも出せばいいというのか。しかし幾ら念じてみてもそんなものは出て来やしない。手汗が滲むばかりだ。
「君に必要なのは無敵の刀でもなければ不可避の銃でもない。そんなものは、君の中の現実じゃないだろう。現実的である必要はないが、現実であるべきなんだ。君という引き出しから秘密兵器を繰り出すにはね」
「…………なるほど。なんだか自分が恥ずかしいですよ、直ぐに思い浮かぶべきでした」
二呼吸ぶんあけてようやく彼の言わんとする所を理解した僕は、刹那に昔柿鶴に言われた言葉を思い出していた。ああ、冷や酒となんとやら。
「どうやら僕は、随分と沢山の人の支えでここに立ってしまっているみたいです。返してない恩も、返せなかった恩も、沢山あります」
「ならそれを返せるだけ返すまで、くたばってはいられないね?」
「俺にはどう返してくれるんだ?」
床に蔓延る黒色を、僕の背後から躍り出た豪胆な鉄拳が吹き飛ばした。再び迫らんとする液体を蔦が押しのけ、道を作る。
すると黒色は鳥獣から逃れる虫のように、侵入してきた隙間から逃げ出していく。来客を迎え入れた居酒屋は、元の色彩を取り戻していた。
「ほら、君が視ないと始まらないよ?亙君」
ふたつ肩を叩かれる。ひとつこくりと頷き、静かに目を凝らす。
「……あった」
この部屋以外の空間が存在しない視界、そのずっと向こうに赤く仄暗い光を放つ何かを見つけた。
「赤い、何か……人?とにかく、それが核と見てきっと間違いないはずです」
「根拠は?」
「ありませんよ。ここは現実じゃない、ならば全てを現実的に見通す必要もない、ですよね?」
「ですよねって、私に言われても」
「あれ?さっきまでそこに……」
例の男がいつの間にか居なくなっている。皆とは一緒に居られないのだろうか。
「とりあえず、そこに向かうって事で良い?」
「はい!」
「よし、それじゃあ行こう」
︙
居酒屋の硝子の引き戸は軽快にがらりと開く。そこから僕達が次の空間へ揃って移動を完了すると、金属製の半自動扉が背後で滑らかに音も立てず閉まった。打放しコンクリートの壁に空けられた天井際の小さな採光窓、点々と空きが目立つロッカー、壁際に並べて立て掛けられた折り畳み椅子、それから無駄に大きなホワイトボード……それらが僕を迎え入れた。
「おや、ここは……?」
「8165の作戦準備室、ですね」
「なるほど、あくまでも君の記憶から抽出したパッチワークな訳だ」
居酒屋を出て直ぐに僕達が入ってきたのは、8165の作戦準備室のひとつだった。壁際に整頓された装備品はどれも年季が入っていて、その傷や仕舞い方の癖に持ち主の歴史を垣間見れる。その淡白な空間は何度も足を運んだ部屋であり、柿鶴たちと初めて顔合わせした場所でもある。
「ええ……とても、懐かしいです」
何も書かれていないホワイトボードを眺めれば、それを背に自己紹介をしていた当時の自分の姿を幻視しそうになり、思わず目をこすった。
「しかしさっきまで露骨に襲ってきた黒いアレはどこ行っちまったんだ?」
「視た限りではこの空間の外、何もない虚無に蔓延るばかりですね。先程のように侵入してくる気配はないです。ちなみにさっきいた居酒屋も既にその虚無に取り込まれてます」
「確認だけど、さっきまでこの部屋は無かったんだよね?」
「はい、僕達があの部屋を去ろうと決めた時に湧いて出たんです」
「君の意志がもろに現れているようだね、ある程度君の制御下にあると見ることも出来るけど、それだけ君の一挙手一投足に懸かっているという危うさもある。くれぐれも気を付けてね」
言われるまでもなく、自覚していることだ。いや、いつぞやのあの男の言葉を借りるなら、"僕の知りえる事しか知らない"のだから当然か。こんなことを考えていては彼らの現実性が下がってしまいそうで、やめた。
「それで、この部屋に用はないのか?」
「ありませんね、先を急ぎましょう」
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作戦準備室の出撃口の赤いシャッターを開く。スイッチ一つでカタカタと音を立てながらゆっくりと、緞帳のように躊躇いがちにシャッターが上がる。その向こうに整然と立ち並ぶ、鉛色の産業機械。それらの形状から僕がその用途を推し量ることは出来ない。或いはその機械が未知であるという情報を持つためだけに存在しているようにも思えた。古典的鋸屋根から斜めに注ぐ陽光が機械を柔らかく照らし出している。
工場なのだろう、どことなく見覚えがある。
黒色は依然襲い掛かるそぶりも見せず、鳴りを潜めたままだ。
「これまた静かだな、それから……無臭だ」
「さっきの部屋も臭いは気にならなかったですけど」
「いや、俺はお前達よりずっと鼻が利く。前に話したろ?それでも何も臭わない。だから──おっと、こんな風に、死体が転がってる事にもたった今気付いた。こんなに血が流れているのに、だ」
先んじて歩み出し警戒に当たっていた熊澤がそれをひょいと拾い上げ、僕達に見えるように放り投げる。死体は如何にも工場の人間といったツナギ姿だが、その手には指先に引っ掛かるような形で拳銃が握られていた。首根っこからは刺青も垣間見えている。傷を見るに死因もまた銃弾だろう。なるほど確かに、この距離でも血の臭いや腐敗臭がしない。
「ああ、思い出しました。ここは初仕事の現場のひとつですね、おそらく」
「おそらくって……初仕事の事ぐらいハッキリ憶えてそうなものだけど」
僕の曖昧な答えに橘が苦言を呈した。言うとおりだ、確かにその前後、例えば作戦目標を乗せたまま炎上した車だとかは、その焦げ臭さまで記憶している、しかし……
「あの日は8か所の作戦地点を同時に視ながら指揮してたので、正直ひとつひとつの工場や事務所がどんな構造だったかまでははっきりと覚えてないんですよね。無臭なのは僕が現場に一度も足を運ばずじまいだったからでしょう、まず臭いを知らないんです」
「8か所!?なんでそんな無茶苦茶な作戦が……」
今思えば確かに異常な話だが、当時は本当に"上の人間によほど嫌われているんだな"程度にしかとらえていなかった。隊員の安全を鑑みれば否が応でも引き受けるべき作戦ではなかっただろうと今更反省してしまう。
「……先に進みましょうか。ここにはあまり、長居したくないです」
細かな後悔は、数え出したらキリがない。無視するべきでなかった言葉、気付くべきだった事……このディティールの甘い工場に居るとそれがパンケーキの気泡のようにふつふつと絶え間なく、静かに浮き上がってくるようだった。
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工場の通用口から外へ出ると、そこにはヒノキ科の針葉樹が淡々と等間隔に聳えていた。反射的に引き返したくなるのをぐっと堪えて皆が揃うのを待つと、扉どころか建物ごと霧に紛れてなくなってしまった。整然と並ぶ木々を漠然と眺めていると、距離感が段々狂っていく感覚がする。纏わりつく細かな水滴が悪寒を湧き立たせた。
枝葉を爪先で踏みにじっても、矢張り草と土の匂いは立たない。僕は、この森の薫りを知らない。
「……」
やはり、ここに連れて来られるのか。木々のざわめきに交ざるこのホワイトノイズを僕は憶えている。
僕の沈黙につられるようにして皆が口を噤み、ひたすら草木を踏み締める音だけが繰り返された。
一刻も早く次へ向かってしまいたい。そんな僕の願いを嘲笑うかのように森は、ずっと向こうの目的地まで地続きに広がっていた。この森から目を逸らさせてやる気は更々ないらしい。
「鳥飼君、此処は?」
「……ただの、森です。抜ければ目的地ですから、進みましょう……何も起こりませんよ、何も」
「ずいぶんと自信なさげな言い方だね、まるで独り言だ」
返事はしない、どうせ僕の言葉だ。淡々と、緩やかな傾斜の山道を進んでいく。
「これはどこを歩いてるんだ?」
「……エリアC-2を、東に」
「エリア……? おい、あいつらは誰だ?」
どれ程歩いたか、随分と目的地まで近づいたところで前方に複数の人影を視認する。濃霧が彼らの姿を暈し、顔は判別できない……だが、それが誰であるか僕には解っていた。
これ以上近付くべきか、躊躇って立ち止まる。すると彼らは一斉にこちらに向き直り……自動小銃を構えた。
「……敵、なんですね」
僕にこの夢を見せている何者かの策略であることは明白、こんな過去を練り歩かされていた時点で予想もついていた。だが……実際に相対し、これから打ち倒さなければならないとなった今は、その現実が余りに息苦しくのしかかってくる。
「皆さん、彼らを──」
口から出掛かった言葉が詰まる。指示を躊躇った、のではなく……
「皆さん……?」
Q9ALTの皆は棒立ちで彼らを見詰めるばかりで、僕に何ら反応を見せなかった。
銃声、狙われたのは熊澤。
「熊ざ、わ──」
着弾、したのだろうか。それを判別するより前に、熊澤はその場から消え去っていた。
続けざまに二発目、橘が消える。
「待て、待てよ」
三発、四発。五発目……
「やめろっ……」
最後に残った空鳥の前に庇い立とうとするも、間に合わず。僕の手はただ、水滴を握り込むばかりだった。
不意に霧が薄くなる。見えずに済んでいた彼らの顔が、眼まなこが僕を冷たく見据える。空を掴んだはずの僕の手に、通信機が握らされていた。
『そいつらは救おうとするんだな』
「その顔を見せないでくれ……」
『オレらんことは見殺しにしたってのに?』
「黙ってくれ……」
投げ捨てようとした通信機は、右手に貼り付いて離れない。目を背けたくとも、見えざる手が僕の顔を固定しているかのようだ。ガチガチと歯がひとりでに鳴るのを抑え込むどころか、ほんのひとたびの瞬きすら能わない。
「その顔で……話しかけないでくれよ……」
『無責任だな、俺たちの指揮官はお前だろ?』
『いいや、坊ちゃんはもうQ9ALTの指揮官のつもりなのさ』
「──っ、」
"黙れ"──僕の絶叫が静謐な森を劈いた。
◇
悲鳴が僕の束縛を解き、代わりに終わりなき逃亡を課した。道なき道を進むに適さない革靴に、泥がグズグズに染み込んで靴下を鈍色に染める。何度も泥濘を踏み抜いては、無味の泥水が口に入り込む。立て続けに鳴り響く銃声に度々身を縮こませるも、銃弾は僕を仕留めず牧羊犬のように僕をひたすら追い立てている。
「やめろっ、来るな……!」
あの男が居なくなった時に気付くべきだった。"現実でなければならない"、その言葉の意味そのままじゃないか。
Q9ALTの皆を呼び出したときあの男が消えたのは、僕がそれを、あの男と皆が共にある事を現実として認識できなかったからなんだろう。だからより僕の現実として強固な皆が残り、あの男は姿を晦まさざるを得なかった……じゃあ、今は?なぜ過去の彼らが残って、Q9ALTの皆が消えた?
「……そうか、この、舞台」
息も絶え絶えに山道を駆け下りる。時折緩い地面に足を取られては四つ足のように、されど弾を被ることはなく生き伸びていた。
此処に至るまでに執拗に過去を押し出してきていたのは、僕の中に澱のように沈んでいた過去を掻き出すためだったんだろう。Q9ALTの皆を呼んで一度は上向きに傾いた心が知らず知らずのうちに、船底に孔穴を空けたようにゆっくりと沈められていたのだ。
「来てよ……来てくださいよっ!」
誰の顔を思い浮かべても、一人とて駆け付けてはくれない。
『まだ助けてもらえる気でいるのか』
『ジブンに助けられる価値があると思ってんだろうね』
僕を罵る声は幾ら逃げても真後ろに貼り付くようにして離れない。これは僕を追う彼らの声である以上に、僕の中から滲み出た言葉なのだろう。耳を背けることも、否定を口にすることも出来ない。
『自己弁護の言葉すら出てこないとは』
『取り返しがつかないコトしたって解ってんのにまだ逃げられんだね、タチ悪いなぁ』
斜面を滑り降りようとして、足がもつれて転がり落ちる。体を何度も檜の幹に打ち付けながらようやく坂の下まで降りてきても、彼らの声はずっと纏わりついてくる。全身が焼けるように痛むのに、躰は僕にくたばることを許さず立ち上がってしまう。"この程度で彼らの苦しみが償えるものか"と言うように。
過去に括りつけられておきながら、それから必死に逃れようとしている。それが我ながら哀れで。己を憐れむような身勝手を働く僕を咎めるように森は無尽蔵に広がっていく。逃げ場はなく、ただひたすら目的地が遠ざかるばかりだ。
『そろそろ諦めたらどうだ』
『そろそろ認めたらいいんじゃないかい?』
革靴の脱げた左足はあらぬ方向に捻じれて爪先が真っ赤に滲んでいる。それでも地面を踏み締めて、そのたび小石や木端が突き刺さる。それを繰り返すほど足の感覚が失われていき、そのうち自分の足が動いている確信すらなくなって、決して逃げきれないことを心のどこかで悟ってしまう。ともすれば足取りは覚束なくなり──
「──ああっ!くそっ……」
木の根に足首を絡め取られてつんのめり、そのまま顔から転倒する。すぐにでも起き上がるべきなのに、やるせなさに握り拳が震えるばかりだ。
こんなこと、彼らが言うはずない。そう思いたいのに。
『おや、起き上がるのはやめたのか』
『ま、諦めるのも逃げだけどね。どの道君は逃げてばっかさ、坊ちゃん』
「もう……喋らないでくれ……」
こうやって責められて然るべきだと認めてしまっている。だから彼らはこうして存在し続けている。
眼前に迫った無臭の泥濘が僕に"他人事だったんだろう"と詰ってくる。"いつだってお前は傍から見ているだけだ"と……
"後で飲むと良いよ。"
「……あ……」
ぽつり、地面に落ちている。胸ポケットから転がり出てきたそれが、ひっそりとカモミールの香りを漂わせていた。
"そして君が今考えるべきはこの状況をどう乗り切るか、だ。"
……そうだ。今するべきは後悔、ではなく。
決別しなければならない。過去は、過去に過ぎなくあるべきだ。
通信端末を握り直し、起動する。
ひとつ呼吸をして、宣言した。
「……作戦本部よりサイト-8165へ報告します、本作戦は失敗。本作戦は失敗し……機動部隊て-11、て-12、両部隊の全隊員をロストしました」
僕の背後で木々が地形ごと音もなく消失し──追手は二度と現れなかった。
◇
霧が晴れた。ぽっかり空いた大穴も、いつの間にか元通りだ。元より何も起きていなかったと見紛うような静寂を取り戻し、昼を迎えた陽光は無頓着に僕を照らしている。尉鶲が一羽、腹の橙を見せて空の低い所を飛んでいった。その飛影を追うように視線を前に遣れば、整列した木々に紛れた人工的構造物がひとつ。
僕が黙々と再び目的地へ向かう間、感じたのは時折木々の隙間を縫う風が肌を撫でる感触ばかりで。散々傷付いたはずの躰も痛みは無く、心なしか身軽になったような気さえする。
「ここは……」
辿り着いたそこには、ポツンと建つコンテナハウス。白く塗られていたであろう塗装は剥げ落ち、錆び付いてすっかり廃墟の様相を示している。扉の前に立ち、一呼吸落ち着かせてから立て付けの悪い扉をギィと押し開くと事務所と思しき場所に出た。
セキュリティ施設だろうか、僕の記憶にはない空間だ。整然と並べられた机の一つを漁ると、その中から色褪せた幅広封筒が出てきた。その書類には"Site-8170"と記されている。
「僕ではない誰か、の記憶……?」
オフィスの奥へ踏み入っていく。それを妨げるものはなく、そうして窓辺に転がるそれを見た。
──頭頂部から爪先まで真っ赤に染められた人間だった。赤子のように丸まって眠っているそれが、最初から僕の視界に見えていた"目的地"だった。
いつの間にか僕の手には拳銃、職員なら一人一丁与えられるそれが握られていた。この赤色を撃ち抜き壊すのは、恐らく呆気ないほどに容易いのだろう。
「……もしかして」
それを見下ろしていてひとつ、嫌な推測が僕の中で形成されていた。
◇
[2021/12/23 20:05 サイト-Q9ALT, 第一宿舎]
「君の言う通りだったよ、亙君。君が吐き出した個体も、金本から採取した個体も、人間の体組織と同じ成分で構成されていた。それぞれ、別の人間のね」
僕が肉体の制御を取り返したのは侵入事件の翌朝の事だった。目を覚ました直後の事はあまり覚えてないのだが、突然苦しみだして黒色のゲルと割れた赤い核を吐き出したのちぱたりと気を失ったらしい。
それから1時間ほどして再び飛び起きた僕は、あの黒いゲルの組成を調べるよう起き抜けに依頼したのだ。
「おそらく、あの核ひとつひとつが……」
「人間を素材にしている、のだろうね」
「そして、橘さんたちの話と照らし合わせると、あのゲルに侵された敵の数は未知数です……つまり」
「……どうやら、私達はAA-2501彼らを早急に止めなければならないらしいね」
空鳥の言葉に迷う訳もなく首肯する。正義観だとか倫理観だとか、そんな事以前に。彼らの目的が何処にあるのかに関わらず、奴らの暗躍を止めなければならない。
……そして、手掛かりも手に入れた。
「早急に尋問を始めましょう、今すぐにでも」
窓の外、翌檜に降り立つ数羽の黒鵐。春はまだ遠いらしい。
︙
サイト-Q9ALT、対転移能力者収容室。そこで雁字搦めにされた長髪の男──今回の襲撃犯のその男が、独り監視カメラににやけ面を向けていた。