Q9ALT #6 "Quest 2 Save Myself"
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乾杯 

[2019/12/2 20:48 某居酒屋]

「「「乾杯!」」」

鍔迫り合う23のジョッキ、派手に波立たせた泡が彼らの手に掛かる。座敷席を二つ繋げた半個室の一角で、僕は烏龍茶の入ったグラスを手に怪訝な顔を浮かべていた。それを見た柿鶴が絡んでくる。

「どうした鳥飼、険しい顔して」
「そりゃ険しくもなりますよ。献杯じゃないんですか、こういうのって」

今日、長井という一人の隊員が死んだ。財団では星の数ある死因の中から、彼に割り当てられたのは至ってありふれた失血死だった。僕の能力ではどうにもならない、銃撃戦の末の殉職。作戦こそ成功したが、それを素直に喜べる心境ではなかった。

「まだまだ青いな、そこんところは」
「よく聞いときな鳥飼くん、いまからこの青さの欠片もない柿ちゃんが古めかし~く有難いお言葉をくれるから!」

雲雀田のいつも通りのダル絡みを、柿鶴は裏拳で鼻っ柱を挫いて黙らせた。雲雀田の鈍い悲鳴があがる。

「いいか、鳥飼。俺達はな、こんな仕事に就いている以上、一生誰かしらの死に目に遭い続ける。それを毎度毎度悲しんでいちゃあ仕事にならねぇ。しかし人間、冷酷になれと言ってなれる程簡単にはできてない。別れを受け止め前を向くというのは相応に覚悟が要るもんだ。だからな、俺達は去っていった奴らとの別れを受け入れられた事を祝うんだ。解るか?これはあいつに別れを告げることができた俺達の覚悟に乾杯してるんだよ」
「別れを受け入れろ、ですか」
「そうだ。俺とお前だって、どっちがどっちを見送るかなぞ判ったもんじゃない。いつそれが来たって受け入れて前に進む。その誓いでもある訳だ。わかったか?わかったならほら、グラスを掲げろ」

言いたいことは解る、だがそれを差しおいてもおいそれと受け入れがたい話ではあった。しかし今ここでノーと言っても柿鶴は引き下がらないだろうと考え、僕は渋々グラスを差し出した。

「か、乾杯……」
「よぉし、乾杯!」

柿鶴の音頭が僕のグラスに叩きつけられた。

手記

「何書いてるの?」
「うわっ!?……あ、エステルか……今日の検査は終わった?」
「うん、ぜ~んぶ正常だったよ。それでそれで?何書いてるの?」

職務の合間を縫ってカフェテリアでソレを書き綴っていた時、後ろから不意にぬっと覗き込んできたのはエステルだった。他人様の手帳を堂々と覗き見るようなことをするのはこいつぐらいなものだ、他の面々がやたら甘やかすせいで微妙に咎めにくい。発光していると見紛うほどに白い髪の彼女は、僕が何かを注意したとてその髪色がごとくきれいさっぱり忘れてしまう。そのくせ橘のいう事はやたら忠実に聞くから釈然としない。

「見ての通り……って、まだ日本語の読みは出来ないんだったか。日記だよ」
「日記!私も前につけてたよ、直ぐにやめちゃったけど……」

想像に難くない。おおかた親に言われるままに始めて速攻で飽きたのだろう。かくいう僕もある先輩に勧められて渋々書き始め、多忙にかまけて一度は直ぐにその存在を忘れた。Q9ALTに来る際の荷造りが無ければ思い出すこともなかっただろう。

「目的もなく書いても面倒なだけだろうね」
「ワタルは目的があるの?」

ひとつ頷いて答える。目的、というよりは。書き始めたときは罪滅ぼしの記録になるはずの物だった。今思えば思い上がりも甚だしいが、当時の僕はそれ程に烏滸がましく救われようとしていた。直ぐにそれを改めるに至れたのは幸運だった。それからの目的は、そう深いものでもなく。

「凄く単純な話だよ。ここに来てからあんまりにも忙しいから、書き留めておかないとあっという間に忘れちゃいそうで」
「ふーん。ヒトって忘れっぽいんだね」
「違いない。無責任な生き物さ」

最新のページに栞代わりの写真を挟み込み、手記を閉じる。

そう、人間は本当に都合よく、忘れたい事を忘れ得てしまう。日にち薬は特効薬であってはならないのに。

2021年 10月3日(月)
作戦行動中のインシデントで24人の隊員を失った。伊勢山管理官曰く、降格処分になるらしい。僕がそれを不十分な処分だと抗議したところ、改めて処分を検討するとの返答を貰った。

2021年 10月5日(水)
10月3日のインシデントの処遇が決まった。僕は隔離サイトで新たな仕事を割り振られるらしい。明後日にも再配属となるようだ。早急に荷物を纏め、お世話になった8165の皆さんに挨拶してきた。

2021年 10月7日(木)
隔離サイトに設けられたゲートをくぐると平行世界に連れて来られた。無人になった平行世界に設けられたサイト-Q9ALT、その役割は危機に陥った平行世界への救援であり、僕の役目はそのQ9ALTで指揮官を務める事だった。
僕は指揮官として失敗した自分が再び指揮官を務めるのは筋が通っていないと抗議したが聞き入れられず、早速明日決行する作戦から指揮を執る事になった。

2021年 10月8日(金)
作戦は僕のミスで作戦チームの皆を窮地に立たせてしまった。彼らが優秀だったお陰で何とか切り抜けられたものの、二度とあんな情けない様は見せないようにしなければ。僕は罪滅ぼしに夢中になる余り、指揮官としての役割を見失っていた。僕は救う為にここに居る、救われる為じゃない。改めて文字に起こして心に刻もうと思う。

尋問

[2021/12/27 サイト-Q9ALT, 対転移能力者収容室]

深碧の壁材がぬらりと薄気味悪く蛍光を放つ5m四方の収容室の中央、錆一つない拘束具で四肢の自由を奪われた長髪の男──もとい、長髪だった男は、己を間近で睨みつける監視カメラのレンズに軽薄な笑みを浮かべるばかりだ。下着ひとつ着せられないその有様は非人道的に見えたが……

「結論から言えば、黒山さんの言う通りでした。検査の結果、あの男の体は作り物のアンドロイド──と呼ぶには余りにも科学に準じていませんが、便宜上はそう呼べる存在だと判りました。あの体に宿っている精神は恐らく、黒山さんがCC-3001で遭遇した人物の異常性によって付与されたのでしょう。その具体的なメカニズムは……現時点では如何とも言い難いですね」
「まあ、そうですよね……単身乗り込んできたわけですから、無策だったと期待する方が無理な話でした」

数日にわたり件の捕虜の検査を行っていた職員から説明を聞いた僕は、おおかた予想通りの結論にため息を漏らした。あの捕虜は結局のところ替えが効く使い捨てに過ぎないらしい。とはいえ情報は少しでも多く絞り取らなければならない、やるだけやってみなければ。

「それから、あの男の体内からは世界間転移装置が埋め込まれているのが確認できました。詳細な解析は装置を摘出してみない事には判りませんが、以前に金本さんの手術を行った際に確認できた装置とは類似する点も多かったです」
「となると、渡航は向こうの世界においても偶然の産物ではなく、技術として確立していると見てまず間違いないでしょうね」
「はい、くれぐれもお気をつけて。検査をした限りではいきなり爆発したりだとか、毒を撒いたりだとかはしないものと断定されていますが……異常存在は、いつだって我々の予想を上回ってきます」
「ええ、ありがとうございます。では……ハッチを開けて下さい」

熱で貼り付いたビニルを剥がすような音を立てながらハッチが開き、仄かな塩素系の薬品臭が漏れ出す。僕はおずおずと収容室へ踏み入った。

「久しぶりだね、鳥飼君。いや、直接会うのは初めてかな?おっと、そんなに露骨に嫌そうな顔を見せなくたっていいだろう。ちょっとテンプレートな悪役のセリフをやってみたかっただけじゃないか、正義のヒーロー君?」
「尋問を始めます」

丸刈りの男は大層つまらなさそうに口を尖らせる。今更あんな揺さぶりに動じてなるものか。

「私からすれば、尋問官の一人も居ない事が些か疑問だけどね。君の仕事じゃないだろうに、鳥飼指揮官君」
「僕がこれを買って出たという、それだけの話です。貴方が心配する義理はない」
「それは失礼。どうぞ、質問をなさってくれ」
「貴方はAA-2501から来た刺客で、一連の事件は全てAA-2501に拠るものだ、そうですね?」
「そうだ」
「……」
「聞こえなかったかい?そうだと言ったんだ。君がせっかちだから、それに答えてあげたんだが……」

僕が男の言葉を無視して尋問を始めようとすると、男はすんなりと答えて見せる。生憎と嘘発見器に該当する機器はQ9ALTに無い。あったとてアテにはならないだろうが。

「それは、2501と僕達の衝突を起こしうる回答だと理解していますか?」
「当然。君だって理論じゃなくて感覚で理解してるだろう?君達と私達はどうあれ正面からぶつかり合う事になるのさ」

"適当な事を言うな"と食いつきそうになるのをぐっと堪え、代わりにボールペンを二回ノックする。挑発に乗っては思う壺だ。己を宥めながらメモを取る素振りをして次の言葉を選んでいると、男は立ち続けに語り掛けてきた。

「何なら君は心のどこかで理解しているはずだ。私が己が命を惜しむ存在ではない以上、この尋問は茶番にしかなり得ないと」
「それは──」
「それは違うよ、残念だけど」

僕が反論の言葉に詰まったところへ、新たな声が割り込んできた。

「……空鳥さん」
「お疲れ、亙君。やっぱり君に尋問は向いてないかもね」

何処からともなく現れた空鳥が僕の肩に手を置いていた。眼鏡を直し、宥めるような視線で僕を見下ろす。彼女の事だ、初めからそこに居たのだろう。

「空鳥さんがそう言うならまあ、間違いないんでしょうね……」
「そう落ち込まなくていいよ、得手不得手ってやつさ。後は私に任せて」
「おや、今度は貴女ですか。空鳥棗、出自不明の偽装能力者……貴女の事はずっと興味があったんです、貴女が何者で、なぜここに居るのか……」

男がペラペラと語り掛けるのを無視して、空鳥はわざわざ僕の背に片手を添えながら収容室の外まで僕を見送った。ハッチを閉め直して、再び歩み寄ることなくハッチに向かって立っている。おもむろに髪留めを解き、後ろで束ねていた長い髪を下す。

「さてと。先にひとつ質問しておこうかな、尋問じゃない」
「伺いましょう?」

空鳥は男に背を向けたまま語り掛ける。空鳥が何か企んでいることに気付いているであろうその男が怖気づく様子はない。

「君たちの下調べでは、私はどんな風に見えていたのかな?」
「ふむ。戦術立案担当、初期メンバーではなく、2101での活動経歴もない。だが経歴の記録されない職掌なんて幾らでも存在する。財団内なら諜報員や内保、外からリクルートされたなら秘密警察や掃除屋ってところだろう」

相変わらず空鳥は壁と向きあったまま、ただ一本指を立てた。

「成程、成程。ひとつ、教えてあげよう」
「貴女の正体でも教えてくれるのですか?」

空鳥は小さく鼻で笑う。それからくるりと振り返って男の方を向くと、男は拘束具をガチャッと一つ音を立てさせた。驚き、動揺、そんな色が見て取れる。おおかた、僕の眼には映ってない何かを見ているのだろう。

「知り得ぬものと相対したなら、最大限の畏怖を持って接するべきだよ。間違っても、勝手なバイアスでタカを括っちゃあならない……それこそ、高くつくよ」

「あの、空鳥さん?」
「うん?」
「一体全体、何をしたらこうなるんですか……?」

1時間ほど経っただろうか。収容室に改めて足を踏み入れた僕の前には、拘束された手足に真っ赤な抵抗痕を滲ませながら痙攣している胃液臭い男がいた。血走った眼は瞬きを忘れ、下唇の端が噛みちぎられている。しかし外部から損傷を与えられた形跡はなく、また──あてにはならないが──僕の眼にも空鳥がこの男を傷つけている姿は見て取れなかった。

「この男には恐らく、身体的な痛覚には耐えうる自信ないしはカラクリがあったんだろうね。だから、ただ命を脅かしたって意味はない。それは亙君にも解るよね?」
「ええ、それくらいは」

もう用はないと言わんばかりに収容室を出ていく空鳥、それについて行きながら彼女の解説の続きを聞く。

「だけど彼は亙君や私を再三挑発していた。それはつまり自由な思考回路が備わっているという事で……精神攻撃への耐性が十全足り得ないという事なんだ。おまけにあの対転移能力者収容室は幽霊一匹とて通さない代物だから、非物理学的存在になって逃げ出すなんてのも許さないって寸法さ。わかる?」
「それは……えっと。精神攻撃だけであの心臓に毛が生えたような人間を叩きのめせる破壊力を出せる前提ですよね?」

こくり、悠然とひとつ頷いて見せる。出来て当然と言わんばかりに見えるのは、彼女の日常の振る舞いを知っているせいだろうか。

「……一体、どんな手を使ったんですか?」
「君が知る必要はないよ。少なくとも、君が急に裏切ったりしない限りはね」

急に彼女の表情から笑みが消える。すぐにそれが僕をからかっているだけだと気付くが、そのほんの一瞬だけでも僕は血の気が引いた顔を晒してしまったようで、空鳥は満足そうに微笑む。

「勘弁してください……じゃあ、一個だけ聞かせて下さいよ」
「何かな?」
「結局、空鳥さんってここに来る前は何をしていたんですか……?」

おずおずと問い掛けた僕に対し、空鳥はひとつ鼻で笑った。

「なに、ただの諜報員だよ」
「……」

"本当に?"そう問い掛けそうになって、やめた。僕に尋問は向いてない。

再訪

技術番号: ART-2542-JP
 
個体数: 12
 
保管場所: サイト-Q9ALT
 
使用手引: ART-2542-JPの接続先は、原則的に正常性評価が2項目共にB以上の平行世界のみに限定されます。C以下の項目がある平行世界への接続はサイト-8165、サイト-Q9ALT間の協議を経る必要があります。
 
説明: ART-2542-JPは有効高さ3.9mの門戸型世界間輸送装置です。世界間距離113dBまでを安定かつ双方向的に接続できるものの、生物が生命を維持したまま渡航を行うことは不可能であるため、用途は物資の輸送に限られます。消費電力が世界間距離に依存する点は他の世界間装置と相違ないものの、長距離の輸送においても熱力学兵器等の特殊危険物を安全に輸送できるという長所があります。
 
特筆事項として、接続から安定までに約120時間を要するため、接続および切断には長期的な計画を必要とします。

[2021/12/28 CC-3001, 旧サイト-8165周辺]

世界を超えて流れ着く瓦礫が星を覆った世界。そのほんの1ヘクタール余りが再び文明を芽吹き、未来ある黒煙をたなびかせている。瓦礫が取り払われたその一帯には仮設の工業設備が犇めき、長らく労働という概念から遠ざけられていた人々が目的ある一日を生きるべく溢れんばかりの活気を見せていた。

「構想はずっとあったんです。この瓦礫の山をそのまま資源に出来る技術があれば、この世界はもう一度歩き出せるって」
「それも、翔さんがそう言っていたんですか?」
「はい、何度も語っていました。実際、僕らが子供の頃にそういうプロジェクトは世界のあちこちで起こっていたんですけど……時代が余りにも早すぎました。亙さん達の持つ技術を見るに、この異変がもう半世紀遅く起きていれば、結果はきっと変わっていたでしょう」

僕にそう語る小柄な青年の名は春田、僕がAA-2101のサイト-8165に居た頃に同じ苗字の後輩が居た。顔立ちも短く整えられた髪型もそっくりだが彼はあくまでもこの世界の人間であり、別人だ。この世界における鳥飼、鳥飼 翔が生前に信を置いていた副リーダーであり、彼亡き今このエリアの人々を彼に代わって取りまとめるリーダーでもある。

「申し訳ないです。よりによって初仕事が兵器の製造だなんて……」
「いやいや!気にしないで下さい、皆さんならきっと、正しい使い方をしてくれると信じてますから」
「……ありがとうございます。その信用に応えなきゃいけませんね」

僕が今月の21日に伊勢山管理官に提言した"リスクを減らすアプローチ"、その一端が別世界への兵器外注だった。

正面衝突するとなればありとあらゆる物量が戦局の中枢を担う事になる。少数精鋭の僕達にとって物量勝負は不得手とするところなのだ。相手が有象無象の集団なら兎も角、具体的な技術水準が不明な財団を敵に回すとなると……いつものパワープレイで解決することは期待できない。だから技術を外に持ち出して製造を委託し、兵器の製造ラインを増強することで物量差を可能な限りカバーしようという魂胆だ。その一環として、僕を含め前線を張らない職員のための特殊スーツなんかも製造を委託した。これは以前から設計図だけは存在していたのだが、他ならない翔の死が後衛の装備拡充を後押しして形となったものだった。

「それに、あの技術を我々に託してくださったのも信用あってのことでしょうし。お互い様ですよ」

技術の持ち出しには当然のことながらリスクが伴う。トーチひとつ取ってみても、比較的低いコストでコンクリート壁ぐらいなら容易に貫ける威力のそれが、正しくない使い方をする者たちの手に渡ってしまえば大きな脅威足り得るだろう。だから伊勢山管理官がこの提言を即座に受理して協議を通し、翌日にも認可を勝ち取ってきた事には本当に驚かされた。

「僕が信用するのは当然のことです」
「それは、翔さんへの信用ではないですか?」
「……否定は出来ません。彼の命に助けられたこの身ですから」

すっかり頭が今後直面する事にシフトしていた僕は、春田のその不意に切り込んだ一言に即座に応える事が出来なかった。

翔は僕を庇って死んだ。警戒していれば回避できる死だったとは言い難いが、それでも"僕は悪くない"とは到底開き直れなかった。そう考えると春田も僕のことを内心快くは思っていないかもしれない。それは単なる憶測に過ぎなかったが、その真偽は本人には問いただせずいた。……今こそその機会だろうか?

「まあ、構いませんよ。信用の軽重を量るなら、翔さんへのそれは決して軽くないでしょう」
「ありがとうございます……ひとつ、聞いてもいいですか?」
「良いですよ、言ってみてください」

ああ、話を切り出してしまった。もう引くに引けない。

「春田さんは、僕のことを信用してくださっていますか?Q9ALTぼくたちではなく、僕を」

信用という言葉は、誠意に欠けたかもしれない。もっとはっきりと、"僕を恨んでいますか"と訊くべきだった。しかしついて出た言葉はもう戻らない、春田はほんのひと時逡巡する様子を見せ、答えた。

「言わんとすることは解りますよ。でも、そうですね。亙さんが思っているような感情を、僕は抱いていません」

"どうして?"と訊くべきか否か、迷っていたら春田に話させてしまった。

「翔さんは、どうあれ長くなかったでしょう。寿命が迫っていた、という話ではなく。とかくに使命感で生きている人でしたから……重荷を背負った体では、どこかで限界は訪れていた筈です。単にそれが、あの日だったというだけで。ただ疲弊して力尽きるよりは、ずっと翔さんにとって納得できる死に方だったんじゃないかなと。僕の勝手な意見ですが、そう思います」

そう語る春田の言葉は慰めには聞こえない。僕もよくやる語り口だから見ていてわかる、彼は一度決着をつけたつもりの思考を言語化して、改めて自分で咀嚼しているのだろう。良く噛んだそれを飲み込んで、ひとつの結論を僕に投げ掛けた。

「……ありがとうございます」
「だから、ひとつだけお願いするなら。亙さんはくれぐれも、翔さんみたいにはならないで下さい。……擦り減っていく人間を傍から見るのは、とても苦しいのです」

老耄

[2021/12/24 21:41 AA-2101, 某繁華街]

年の瀬の週半ば、この辺りでは珍しい冬の雨に晒されてまで酒を嗜みに出歩く奇人はそう居らず。例に漏れず閑散としたそのバーも年老いた客が一人、かれこれ30分あまりストレートグラスを傾けるばかりだった。弱い暖気に満たされたその静寂に、肩を濡らした男が刺すような外気と共に割り込んだ。

「君には常識がないのか、それとも悪意があるのか。まあ、どちらでもいいがね」
「マスター、大上はいつ頃この店に?」

店主が"9時10分頃です"と答えると、待っていた客は不愉快そうに鼻を鳴らした。カウンター席に老いた背中が二つ並ぶ。"これと同じのを"と指差してから本題に入る。

「それで今更何を話すことがある、伊勢山。わざわざ呼びつけたんだ、何らか算段があるんだろう」
「別に説得をしに来たわけじゃないさ。ひとつ質問をしに来たまでだとも」

大上は伊勢山の答えを聞いてぐいと不作法に飲み干した。それが手短に済ませろという意志表示なのは理解しているだろうに、伊勢山は気にせずハイライトに火を点ける。露骨にげんなりと顔を歪めた大上はショートピースを取り出した。

「ゴールデンバットはやめたのか」
「知らんのか、2年前に終売したぞ」

どうあれ長話に付き合わされることを悟り、伊勢山が差し出した電子ライターを無視してホイールを回す。

「すまない、惰性で吸ってるとどうにも疎くなるんだ。そろそろ辞めてもいいとは思うが、息子が吸い始めてね。ハイメンを吸っているのを見るに私の影響だろう、その手前辞めづらいのだよ」
「……君が拾ったガキはもうそんな歳か」
「ボケるのも大概にしてくれ、来年で30になるぞ」
「俺が他所のガキにそう興味がある訳ないだろうに、親馬鹿も大概にしろ」

伊勢山の閑話に付き合ってやる大上のその姿はサイト-8170の7年前の惨劇の引鉄を引いた張本人とはとても思えぬ程に理性的な振る舞いだった。それがペルソナなのか、或いは至って取り繕わぬ姿なのか、それはそう短くない付き合いの伊勢山でさえ掴みかねていた。

「私の子供として覚えていなくとも、耳に届くぐらいには成果を残しているんだがね」
「……財団に入らせたのか?」
「私だって反対したさ。自分の意志だよ。ただまあ、大事なのはそこじゃあない」

わざわざ手帳に挟んだ息子の写真を見せびらかしてから、それを無視した大上に眉をひそめつつ話を続ける。

「聞いた話じゃあ、君は特異な職員の事を嫌っているらしいが。その調子じゃ、そうでない者達への関心もまるで無いんじゃないか?」
「これが人並みだよ。むしろ私は、君がそこまで職員一人一人に一喜一憂出来る事のほうが異常だと思うがね」
「いつだって時代を担うのは若人だ。それを見守り支えたいと思う事は当然だろう」
「下らん。青い奴ほど自分一人で何も出来ないくせに一丁前に志ばかり掲げるのだ。それを助長してどうする」

大上は声色ひとつ変える事無く己が思想を曝け出した。それを聞き届けた伊勢山は、店主が差し出したローズバンクの30年を軽く口に含み、長く深い溜息を吐く。それは失望の吐露というより、諦めに近かった。伊勢山は7年前、8170の事件が起きたその時でさえ、大上の事を一人の管理者として勝手に同情し、心を痛めていた。ほんの半月前まで、志同じくして入職した30余年来の友が友でなかったことに気付かなかったのだ。

"いつから私のことを嫌っていた?"

質問は一つだと前置いていなければ、喉元まで出掛かったその問いは堪らず溢れ出していただろう。それを喉仏を鳴らして押し込めて、諦めた。今更、そんな問い掛けは何も意味を為さないのだ。

「……まるで生まれた時から二本脚で立っていたような物言いだな。だがまあ、だからこそ。そんな程度の認識しかない君にだけは邪魔させるわけにはいかんのだよ、大上」

にわかに語気を強めた伊勢山に対し、大上は相槌ひとつ打つことはない。

「若人連中があんなに奮闘しているんだ。老い耄れは老い耄れ同士、腹割って話そうじゃないか」
「やっと質問とやらか。何を知りたい」

一本目を潰したきり二本目を点けない大上は、灰皿に注いでいた視線を初めて伊勢山の方に持って行ってやる。そこでようやく、大上は伊勢山が極めて鋭利な視線を注ぎ続けていた事に気付いた。初めて見た表情だったが、大上は彼自身不思議なほど、それに何の感情も湧いては来なかった。

「大上、君はどこまでなら静観できる?」
「……どういう意味だ」
「明言しておこう、今から私は君の前で君の計画を荒らし回る。だが君は何も、君一人の計画で動いている訳ではあるまい。君が望んでいる結果と、君以外が望んでいる結果、その複合体が君の加担する計画だろう。ならば君自身にとって損失に繋がらない範囲なら、私の暗躍を見過ごした方が楽な選択だとは思わないか?」

余りに大胆な宣言。しかし暗躍はとうに始まっており、これが宣戦布告ではなく事後報告に過ぎない事は大上にも解っていた。理解したうえで、呆れざるを得ないといった風に溜息を吐き捨てる。

「はぁ……君がまだ俺を出し抜けると思っている事が、俺は可笑しくて仕方ないよ。いいか?俺はな、元より俺のサイトから人でなしが居なくなればそれでいいのだ。それをとうに達成した今になって、手出しなど何もせんよ」
「ふむ。それが嘘じゃないのなら、むしろ悪いニュースだろうね」

大上は伊勢山の苦い反応に対し愉快そうに含み笑いを浮かべ、席を立つ。

「君の想像通りだよ、伊勢山。計画はとうに俺抜きで動いている。君は俺を介して作戦を妨げることは出来ず、俺自身の邪魔をすることも出来ない。こんな席はもとより無駄骨だったのさ、最後通告気取りのところ申し訳ないがね。まあ、頑張りたまえよ」

一頻りの嘲笑を浴びせたのち、大上はチェスターコートを羽織り伊勢山を置いて去っていく。伊勢山はそれを呼び止める事はできず、ただグラスに反射している閉まりゆく扉を眺めていた。扉の外は未だ雨が静かに降り頻っている。

「君が言う通り、今更なんだろう。私が君の本質に7年前に気付けなかったのが全ての落ち度だ。あの事件を止められなかった時点で私の敗北であり、取り戻せる物がある訳でもない。……だがね、だからこそ、これ以上は失えんのだよ」

覚悟、あるいは自戒、それを聞き届ける者はなく。二本目のハイライトが孤独な老骨を紫煙で暈した。

計画

[2021/12/29 9:49 サイト-Q9ALT, 第一会議室]

今日の会議室はいつもの作戦チームの13人に加え、技術部門から4人と後方支援部から職員4人、それから警備部門の責任者2人の大所帯でいつもより随分と狭苦しく感じられた。

ここ数日、Q9ALTの職員達は未曽有の事態に絶えず奔走してくれていた。そのせいか空気は緊張感でひりついており、閑談の一つも聞こえてこない。ホワイトボードの傍らに立った空鳥が音頭を取って会議が始まった。

「さて、それじゃあ前回の会議以降に得られた情報について順に報告していこうか。先ずは渉外から聞こうかな」
「僕からですね、分かりました」

今回の件の対外交渉は僕の取り持ちだ。交渉に動き出してからまだ1週間余りだが確かな進展はあった。

「提供して頂いた製造ラインは全て稼働を開始し、当初の目標通り31日までに全オーダーが納品されそうです」
「ひとつ良いですか?各種兵器や装備の項目はわかりますが、"その他"で括られた項目に割かれている人員と時間がやけに多い理由を聞きたいのですが」

僕の報告に対し、配布資料に視線を落としていた後方支援部の職員がすかさず質問を投げ掛けた。彼の質問は尤もだ。一切明記されていない作業工程に少なくないリソースが割り当てられており、それに僕があえて触れる事もしなかったのだから。しかし──

「それに関しては皆さんには──」
「非公開情報だ、知るべき人間は知っている」

警備部門長が割り込んで答えた。彼の言う通り敢えて伏せられた情報であり、この場で話すことは出来ない。

「具体的には誰が知っているんですか?」
「まずは8165の伊勢山管理官、作戦チームからは鳥飼と空鳥、後方支援部あんたらからは青木、技術部門テックからはそこの4人が把握している」
「貴方は知らないのですか?」
「俺は俺が知るべきでないという事を知っている。それで充分だ」

部門長の回答は極めて財団らしい──より厳密にいえば警備員レベル0を取り纏める人間らしい──言葉だったが、質問主レベル2はその回答が納得いくものでは無かったのか引き下がらず追及を続ける。

「ここに集められた我々23人はこのサイトを代表して集められているものだと思っていましたから、それでも共有されない情報があるというのは些か不本意です」
「任用と信用はイコールじゃない。この場に集められたのは任せるべき仕事があるからからだ。信頼はそこに無い」

彼の不平不満を両断したのは他でもない、後方支援部彼の身内の青木だった。彼の言葉には些か棘こそあったが、概ね僕の言わんとする所だった。

「ええと……言葉を選ばなければそうなりますね」
「既にスパイが一人発見されているんだ。半月前のことなんだから忘れたとは言わせないぞ」

実のところ、今も僕は誰に頼まれた訳でもなく能力を絶やさず行使して会議室の面々の"持ち物検査"をしている。"誰も疑いたくない"なんて綺麗ごとを言ってられる段階ではない。青木の力強い言葉に質問主は、すっかり委縮してしまった。この部屋全体の張りつめた空気と視線を身に浴びたのもあるだろう。

「……そこまで大事に隠すなら、それ相応に戦局を傾けうる物なのだと信じています」
「さて、渉外からはこんなところかな?じゃあ次は私から、尋問の結果を報告させてもらうよ」

すっかり張り詰めた空気に空鳥の進行が挟まる。いつもはただただ緊張感に欠けるだけのその語調もこの場においては多少なりとも中和剤のていを成しているといえる。

「まず判ったのは、拘束しているあれには記憶処理がされていたという事。恐らくオリジナルとなる人間が存在し──いい加減固有名称が無いのも厄介だね、じゃあ適当に"存在ザイン"と呼ぼう。オリジナルのザインから複製した人格を移植されたのがあの個体だ。複製してから除くべき情報を取り除いたんだろうね、あの個体から得られた情報は資料に列挙させてもらった通りで、それ以外のことは本当に覚えていなかったよ」

資料に載っている情報を纏めると以下の通りだ。

  • この一連の騒動はAA-2501のサイト-8170が組織的に行っている
  • あの個体の侵入目的は僕に例の黒いゲルを飲み込ませることだった
  • 捕まることが前提の捨て駒で、尋問を受けたなら最大限挑発し時間を浪費させるよう命じられていた
  • あの個体が得た記憶情報はオリジナルに共有されるが、あの収容室内ではそれが機能していない
  • 我々の戦意を削ぐ目的で、金本には記憶処理を施してあった

つまり判った事と言えばこれまで仮定されてきたことの裏付けばかりで、目新しい情報には繋がらなかったという事だ。

「技術部門の見立てでは、あの個体に埋め込まれた渡航装置を取り外すと装置の機能もあの個体の生命維持も途絶える可能性が高いらしいんだ。だからあの装置の構造を理解する事を優先するべきかあの個体を生かしておく事を優先するべきか、意見を聞きたいかな」
「どうせ生かしておいても役には立たないでしょうし、部屋から出してミー殺でも浴びせたらどうです?オリジナルのザインも巻き込んで始末できるかもしれませんよ」

空鳥が意見を募ると、真っ先に案を提示したのは黒山だった。それに対し技術部門の一人が反応する。

「あれが狙い通りにオリジナルを巻き込めたら確かに大きな収穫ですが、もし仮にそれに失敗してしまうとこちらの手の内をひとつみすみす晒して終わる可能性があります。ご留意頂けているか判りませんが、2501の保有する技術はこちらと全く異なるものである可能性が高いのです。ミーム殺害エージェントだって彼らが知らない可能性は大いにあります、ならば使うにしてもより確実に切り札になりえる場面で切るべき手段でしょう」
「ふむ……それは確かにそうですね。そも殺せたかどうか判別がつかないのも作戦としては不十分でした」
「しかし発想の方向性に関しては同意します、あの個体を生かしておくメリットはあまり認められません。ですからあれを殺すのはいいとして、いて装置を取り出す前に何かしら使いようがあると良いんですが……」

あの男を生かす必要はないと考えているのは僕も同じだ。これまでの恨み云々を置いておいても、あの精神状態で放置する方がよほど非人道的だと言える。

「一先ず、隔離する方向でどうでしょうか。あの収容室はサイトの中心地から近すぎます。何が起こるとも判りませんよ。敵の情報がない以上、どんな飛び道具があるとも判りませんし」
「隔離したくともあの収容室はおいそれと動かせる代物じゃないですが……じゃあまあ、昏睡させて簡易処置に切り替えておきましょう。技術部門棟に指示を送っておきます」

話の流れであの男は一応生かされる方針になったようだ。まあ今はそう重要な議論事項でもないだろう。

「彼らの情報が足りないという話でいえば、金本へのアプローチはどうなったんです?」
「それは俺から話そう」

話題が金本に切り替わると、今度は青木が報告を始めた。

「鳥飼が管理している端末を経由して金本にコンタクトを取ったのが16日、2101から精神汚染関連の検査装置一式が届いたのが18日で、21日に検査結果が出た。検査部門曰く、金本からは記憶処理を受けた痕跡が認められたが、処理されたであろう記憶の復元は難しいだろうとのことだ」
「連中が黒だって確証だけが積み上げられていくな。具体的なモンは何も見えてこないぞ」

苦言を呈したのは熊澤、皆が感じていたであろうことを改めて言語化し、現実と直面させた。

「でも、たった今見かけだけでも小康状態を保てているという事実から判る事だってありますけどね」
「ほう、例えば?」

熊澤の苦言にフォローを入れたのは黒山、問い返されては悪い笑顔で肩を竦めた。

「連中は、転移装置を介して核爆弾をぶっ込めるような技術はないって事です。僕らにもありませんけどね」

黒山の発言に場の空気が凍り付く。ここに居る誰もが一度は考えたかもしれない、"最悪の結末"。核爆弾じゃなくともより効率的に世界を滅ぼす手段だってあるだろうし、或いは単純な生物兵器でも初期対応で後れを取れば甚大な被害を被るだろう。そういった大量殺戮兵器はどれも決まってデリケートであり、転移装置で輸送するには輸送の安定化に長い時間を要する。奇襲はまず不可能だ。

しかしそうとわかっていても、明確な敵を得たからにはいつでも来得る何かを恐れずにはいられないのだ。

「無いと断言はできないが、あったとて手の打ちようがないのも事実だ。ならないものとした方がいいだろう」
「"楽観的ですね"と詰るのは簡単ですけどまあ、僕も同意見ですよ」

熊澤の言う通り、仮にある日突然サイトが火の海に包まれるようなことが起こったならば僕達に出来る事はそう無い。だからこそ潰せる可能性だけでも徹底的に潰さなければならないだろう。

「まあまあ。判ってない事が多いのは確かだけど、判った事にも目を向けようじゃないか。回収された黒いゲルの解析結果を預かっているから、私から説明させて貰うよ」

空鳥が例のゲルの話題を持ちだした。そのせいで僕は反射的に身震いしてしまう。あの一件以降、それが話題に出るたびに喉奥にへばりつくような不快感を錯覚するようになってしまった。記憶としては曖昧なものの体は嫌悪感を憶えているのだろう。この一件が終わればまだマシになると信じたい。

「まずは組成だけど、あのゲルはコア一個につき一人の人間から出来ていた事が判明したよ。これは亙君の仮説が正しかった形になるね。更に暫定的な、亙君の主観的な情報を付け加えるなら、あのコアは無力化される直前までもとの人間の人格ないし意識を生かした状態だったらしいね」
「製造方法は判りそうなのか?」
「いいや、現状では何とも。異常技術で製造されたものか、何らかのアノマリーでブラックボックス的に変換されたのか、或いは何かのインシデントで生成された再現性のないものの線もあるね」

また判らないことが増えた、不明点を洗いだす会議と化してしまっているのが実に先行き不安だ。そうするのが正しい反応ではないと解っていても唸り声をあげてしまう。

「さて、出せる情報はこんなものかな。これらを踏まえたうえで今回の作戦……"AA-2501突入及びサイト-8170制圧作戦"の概要を説明していこう」

半ば強引に切り上げられた情報共有と入れ替わりに、今回の会議の本題に突入した。事前に僕と空鳥の間では議論が重ねられている。此処はそれを周知させ、再確認する場になっている。

「まずは突入メンバー、作戦チームからは私以外の12人全員が、技術部門からは渡航装置担当の五木、柊、梶田、松尾の4人が、後方支援部からは兵站担当の服部が参加する。私がQ9ALTに残ってバックアップを行い、亙君には現地で全体の指揮を行ってもらうよ」
「現地にお前の能力があった方がずっと楽になると思うんだが」

真っ当な疑問を示したのは熊澤だった。確かにバックアップが出来る人材は他にもいるだろうに、わざわざ空鳥が残る理由というのは見えてこない。

「これまでの動向を鑑みるに、こっちの手の内は粗方割れてると見た方がいい。そんな中で私の能力に頼り切るのは余りにも危ういと思うな」
「頼り切りにならないようにするのと同行しないのは話が別だと思うが……まあ、いい。お前のことだ、どうせ何か考えてんだろ」

それに関しては僕も同意見だ……が、それが良からぬことではないという確証が持てないのは、僕が疑り深すぎるだけだろうか。他の面々はそれ以上の追及を起こす様子もなく会議は続いていく。

「それじゃ、次は作戦目標だね。大目標は当然AA-2501のサイト-8170の制圧だけど、細分化して優先順位を定めてあるから、確認していこう」

空鳥は事前に作戦チーム内で打ち合わせた作戦目標を列挙していく。優先度順に並べるとこんな具合だ。

  • サイト-8170(AA-2501)の保有する世界間渡航技術の全容把握及び無力化
  • ゲル型実体の製造方法把握及び無力化
  • 人型敵対存在"ザイン"の無力化
  • AA-2501における別サイトのスタンス把握
  • AA-2501のその他異常技術の収集

他にも細かな目標は幾つか存在するが、作戦チームとしては上から3つの項目あたりを押さえておけばいいだろう。

「そして、次は懸念点について。まず第一に先のCC-3001にて遭遇した建造物の構造改変能力、あれがあの塔固有のものなのか、あるいは何らかの異常技術ないしは能力者によって再現性が取れているものなのか判然としないことだね。前者なら杞憂に終わるだけだけど、後者の場合は大人数で挑むほどに翻弄されることになる」
「でもあの能力の弱点は僕が割り出したじゃないですか」

黒山の反論に対し、空鳥は想定内といったふうに悠然と首肯して話を続ける。

「そうだね。だから今回は施設の破壊も作戦に組み込んだんだ。だけど、それに伴って今度は第二の懸念点が浮上したよ。何かわかる?」
「あー……そうか、セキュリティ施設を壊すわけだから、万が一収容棟に損傷を与えると……」

空鳥は改めて頷く。考えたくはないが、考えざるを得ない。大規模な収容違反を起こそうものなら、サイトの外にまで被害が拡大する可能性が大いにある。

「AA-2501のサイト-8170がAA-2101と同様に山奥にポツンと建っているなら、即座のヴェール破綻にはつながらないだろうけど。それでも、被害の抑え込みには莫大なリソースを要することになるだろうね」
「なら、どう折り合いをつけるんだ?」
「それは──」

突入

[2021/12/30 3:10 AA-2501, サイト-8147, 電話応対チーム]

深夜未明、節電の張り紙も読めない常夜灯にぼんやりと照らされたオフィス。ひとり船を漕いでいた夜勤の男を、週に一度とない着信音が叩き起こした。寝ぼけまなこを擦りながら受話器を手に取った男は、それが奇妙にも非通知着信であることに気付く様子もなかった。

「誰だよこんな時間に……はい、もしもし……?」
『どうも、お夜勤ご苦労様です。お疲れのところ申し訳ありませんがご報告させていただきます』
「ご報告……?」

聞いた事のない声色、どこのサイトから掛けてきたのかとナンバー・ディスプレイを確認してようやく、男は事の違和感に気付いた。

『我々はたった今、サイト-8170を爆破させていただきました。つきましては事後対応に駆け付けて頂きたく……』
「は?……はあぁっ!?」

[2021/12/30 3:00 AA-2501, サイト-8170近傍]

「こちらコマンダー、AA-2501への上陸は無事成功しました。渡航装置は三機とも異常みられません」
『了解、それじゃ作戦通り砲撃目標を指定、即座に攻撃に移行してね。グッドラック』

一号機から降り立った僕を一面の新雪が受け止める。足跡一つなかったそれは十余名の靴でみるみるうちに踏み固められていった。整備機械がめきめきと木々を押し倒し、発つ鳥の影が降り頻る雪に紛れて消えた跡に無灯の森に数アールの陣幕を敷いてみせた。その中央に陣取った鉄の塊は、技師たちの手によって瞬く間に円筒形とそれを支える台座とに形を取り戻していく。僕はそれを満足に見届ける余裕もなく、一心に"目"を凝らしていた。

「……サイト-8170の構造分析が完了しました、収容室は西棟のみに存在するようです。よって射撃地点は……東棟最上階を提案します」
「異議なし。それで行こう。技術班、これで大丈夫か?」
「異論ありません。射線も問題ないでしょう。そして対構造物用破壊兵器マックスの組み立てもたった今完了しました」

その全容を現した黒い砲塔はどっしりと南方を見据え、発射の号令を眈々と待ち侘びている。腕を組みながらそれをしげしげと眺めて居た熊澤がううむとひとつ唸りをあげる。

「しかし良く考えたな、真っ先にサイトに損壊を与えようなんて。だが確かに効果的だ。サイトが破壊されたという事実と収容違反が発生するリスクを先んじて他のサイトに突き付け、厭が応にも対応せざるを得ない状況を作り上げるんだからな」
「しかしこうまでするなら、いっそのこと全壊させてしまえばよかったのでは?」

黒山は暢気にツーブロを整えながら片手間に横槍を入れた。それに僕は首を横に振る、単なる破壊活動はこの一件を解決するには至らないのだ。

「それでは彼らの持つ異常技術のルーツも、彼らの末梢が至る範囲も判らないままに闇に葬ることになってしまいます。それではリスクを根絶できたとは言えません。僕達は、彼らの脅威を完全に、どの世界からも除かねばなりません……これは、その宣戦布告なんですから」

マックスは重い首をもたげ、真っ直ぐ、真っ直ぐと夜闇の森を見据えた。僕はそれに急かされるようにチームの皆を順に見遣って……ひとつ頷いた。

「作戦開始!」

轟音が冬空を劈き、砲弾が風雪を貫いた。

分断

「こちらALT-1、間もなくサイト-8170正門に到達する。向こうさんの状況は?」
『混乱する様子は見られません。こちらを迎撃するべく着々と準備しているといった具合ですね。これが向こうにとって想定内の事態だったとしても異様に冷静です』

サイトで鳴り響く警報音が遠巻きに届いてくる距離まで進軍した作戦チーム一行は、改めて如何様に侵入すべきか指揮官に情況を問う。帰ってきたのは鳥飼の深く訝しんだ声だった。

「人間味が無い、って言いたいのなら……確かめてみればいいんじゃねぇか?」
『……まさか』
「別に今更そう驚く事でもないだろう。それで、どうだった?」
『熊澤さんの言う通り……全員、確認できた限りの全員が、あの黒色に支配されているように見えます』
「んなこったろうと思った。しかしまあ、なら都合がいい。"連中は助かる見込みがないからやむを得ず倒した"、それで押し通せる……そうだろ?鳥飼」
『……』

通信機器の向こうの鳥飼はすっかり閉口してしまった。今更認識に齟齬があったのかと熊澤は足を止め、げんなりとしたため息を漏らす。それからどう説教……もとい説得するか逡巡させた。勢い任せでなしに言いくるめるなら黒山の方が理があるだろうとそちらへ目配せするも、黒山は肩を竦めて首を横に振るばかりだ。仕方なく熊澤は引き続き通信機器の向こうへ語り掛ける。

「良いか鳥飼、余計な犠牲者を出さないなんてこと言っていられる段階では無いんだ。俺達は全員財団に入った時からいつかの死を発注してあるようなもんなんだ。それは連中もまあ同じだろう。奴らが加害者にしろ被害者にしろ、もはや命を奪う事を躊躇う理由にはならねえんだ。解るか?鳥飼」
『……』
「おい、納得いかねぇにしたってもうちょい態度ってもんがあるんじゃないか?うんとかスンとか言えよ」
『……』
「……鳥飼?」

違和感、もっと早く気付くべきだった違和感。あれだけ派手に宣戦布告したというのに、なぜ奴らはのうのうと待ち構えるばかりで反撃に出ないのか。なぜこうも順調に進軍できているのか。

『……聞こえますか、兵站担当の服部です!』
「服部!?鳥飼はどうした!」
『鳥飼さんが……鳥飼さんが連れ去られて……無線機もここに置き去りにしてしまっていて……』
「クソが!舐めたマネしやがって……服部、よく聞け!今から俺と黒山、橘、それからエステルだけ残して他は拠点の防衛に戻らせる!最優先事項は鳥飼の救出に変更、手分けして最速で連れ戻してやる!空鳥にもそう伝えておけ!」
『そ、それが、空鳥さんも急に居なくなったとQ9ALTから連絡があって……』
「んなっ……あの野郎、何考えてやがる……!?」

風を切る音だけが聴覚を支配している。雪を運ぶ風と、翼のはためきがもたらす風だ。僕の監視の目を掻い潜ったその怪鳥は鋭利な爪を特殊スーツ越しに僕の肩に突き立て、雪化粧の森を見下ろしながら飛んでいく。向かう先は8170のようだ。ちょっとやそっと藻掻いただけでは振りほどけそうもないし、万が一振りほどけたなら待つのはフリーフォールだ。

『やあ、数日ぶり。大人しく連れ去られてくれて感謝してるよ』
「……」

怪鳥の胸元に取り付けられた通信機器から、尋問室で聞いた覚えのあるあの男の声が聞こえてきた。どうやら相も変わらず僕こそが標的だったようだ。それ自体は覚悟していた事だが……指揮の全てを投げっぱなしにして連れ去られてしまったのは余りに痛恨だ。

『おや、吹雪に紛れて聞き取れないかい?まあいい。そのままじっとしていてくれれば温かい部屋に通してあげよう。それが君の為というものさ』

視界の真下に建造物が見える。怪鳥はこれまでの機敏な飛び様と打って変わって慎重に高度を下げていく。

『ま、抵抗するはずもないか。君一人じゃあ、何も出来ないだろう?』

奴の言う通りだ、僕は誰かに指示を出す事しか出来ない。それこそが僕の役割なのだからと言い張るのは容易いが、僕一人の人間の脆弱さに目を瞑るのは利口ではない。

……でも。

「いいや……抵抗しなかったのは、手間を省くためさ」

僕は右腕を目いっぱいに振り上げる。そうして怪鳥の胸倉の通信機器を掴み……スーツの袖口から飛び出した刃が怪鳥の心臓を穿った。怪鳥は悶え苦しみ僕を振り落とし、僕は屋上にどさりと投げ出される。特殊スーツ程度じゃ抑えきれない鈍い衝撃が内臓を揺らした。だが骨は折れちゃいない。

『君は馬鹿なのかい?もうあと数分待っていれば迎えに行ってあげたというのに。まさか着地さえできれば逃げ出せるとでも思っているのかい?』

握ったままになっていた通信機器から男の呆れた声が聞こえる。

「まさか。何のためにこんなスーツを特注したと思ってるんだ。保身のため?そんな訳がないだろう」

軽く雪を払って立ち上がり、階下へ続く扉へと歩んでいく。風雪が背中を押しているような錯覚すらあった。

独りになってでも戦う意志は、お前があの悪夢の中で僕に与えたんだ」

白蟲

[AA-2501, サイト-8170, 東棟1F]

赤い警報灯が照らし出す無骨な廊下に刻まれた粗雑なミシン目、それに縫い付けられたように職員たちの死屍累々が転がっていた。死体を掻き分けるように踏み締められた赤い足跡を辿ったならばその惨状を齎した本人に辿り着くだろう。

「鳥飼!どこだ鳥飼!」

断続的な銃撃音と共に熊澤がサイトの廊下を奔走する。能力はまだ行使せず、一端の兵士然とした乱射戦で機動部隊時代の地力を発揮していた。彼の向かう先は管理官室、手掛かりがあるならばそこだろうという読みか、或いはにっくきご尊顔に出会える可能性にどこか期待しているのか、兎も角その足取りに焦りはなく、また問答無用で職員達を掃討する手に迷いもなかった。

「返事は帰ってこないか。今飛び出してこられても困るのはそうなんだが。おい服部……服部?……あぁ、他も繋がらねぇな。妨害を食らったか」

鳥飼の足取りは掴めぬままエレベーターホールまで辿り着いた熊澤は無線を起動するも、聞こえてくるのはノイズばかりであった。ジャミングの類いであれば暫く待てば服部が突破して繋ぎなおす事だろうが、それを待っている猶予はない。

「まあ仕方なしだな、それで……エレベーターを使うのは流石に間抜けだよな、とすれば……」

エレベーターから視線を脇へ逸らすとそこにあるのは非常階段、熊澤の知る8170とそっくりなその防火扉へと歩み寄り、苦々しい顔でそれを開いた。

「いい思い出は無いんだが……他に選択肢もないか」

静まり返った階段の踊り場を、なるべく時間を掛けないように駆け上がる。この非常事態だというのに人ひとりとて出くわさないという異様さも相まってデジャヴは増幅していく。そのセメント造の階段を駆け上がる度に、階下からの扉の開く音を幻聴するかのようだった。

[東棟非常階段 5-6F]

「……おっと、なるほどな」

熊澤はAA-2101と同じ間取りなら管理官室のあるであろう最上階を目指し歩みを進める。それを阻むように積み上がった瓦礫を見て、静寂の違和感が熊澤の中で氷解した。進路を阻まれていては使う人間が居ないのも頷ける。そもそも最上階を狙って撃ったのだ。目指している管理官室が無事である保証すらないというのに、熊澤はそこでようやくその事に気付いた。

「そういや前回も管理官室に向かって外れだったんだよな。我ながら発想に成長が無いな……今更言っても仕方ないが、俺が思っているより俺は冷静になれてねぇのかもな」

その実感を敢えて口にすることで己への戒めとした熊澤は階をひとつ引き返し、鉄扉に静かに手を掛け静かに回す。ほんの少し扉を開いて背中で押さえ、MP7を構える。一呼吸あけ、背中で扉を押し開けながら正面に向き直り、敵を視認するより先にトリガーを引いた。

結論、そのやり方は最も賢明な突入方法だっただろう。──その敵に弾丸が通るのなら、の話だが。

「お前は……!」

敵は目前に居た。白い甲殻、白い鎌。表情の機能を有さないその貌と相まみえるのはこれが初めてではなかった。

熊澤は考えるより先に後ろに飛び退いた。熊澤が居た空間に白い残像が走り、鉄扉に鋭利な一文字が刻まれる。熊澤は待ち伏せされていた事実を突きつけられると共に、己がリベンジマッチのチャレンジャーであることを悟った。そのまま階段を6段飛ばしの2歩で踊り場まで駆け下りると、その後を追って敵は扉を抜けて熊澤を見下ろした。

「やっぱ金本はお前を倒しちゃいなかったのか。よぉ虫けら、まるっと4年ぶりだな」

虫けらと呼ばれたそれに言葉が通じているかは定かではないが、熊澤は己の余裕を誇示するように軽薄な語調で語り掛けた。しかし心中は至って穏やかではない、それはかの敵がすこぶる強敵である故ではなく。

「なあ。人に命じられて人を殺した時、その罪は何処にあると思う?」

この世界に戦争と呼ばれるものが興るたびに論じられる命題、それを今持ち出した理由はひとつ。

「後藤、井上、本田、張、前田、楊……誰の事だかわからんだろうな、全員お前が殺したんだぞ」

敵は知った事かと言うかのようにそっぽを向いてご丁寧に防火扉を閉じる。無防備に、警戒に値しないと煽るように。熊澤もまたその振る舞いを意に介さずMP7をそこらに放り、グローブを嵌めた。

「お前が大上か、あるいはこのサイトの誰かの差し金だってのは解る。それにお前みたいな虫けらが職員を殺すこと自体もそう珍しい事じゃないし、場合によっちゃそこに悪意すらない事だってあるのもよく知っている……で、だ」

円筒形の機械をかたきに向ける。当然、それは懐中電灯ではなく。Q9ALTに来てから随分と馴染みあるものになった秘密兵器インスタント・トーチだ。敵もそれを知ってか、或いは突然顕になった殺意に気圧されてか階上へ退かんと身を翻す。しかしその先は瓦礫で埋まっている。逃げ場は無い。最後の一つは敵自身の慢心で閉ざされ……それを開ける動作に割ける時間的猶予はない。

「俺はな、深く考えずに全員ぶちのめせばいいと思ってんだよ。てめぇも、大上も、此処までに殺してきた奴らも、これから殺す奴らも、等しく仇だ」

白い虫けらを射線に収め直すのに2歩、或いは1秒。それから熱光線が仇を貫くのに0.1秒。正味1.1秒の復讐劇であった。

「……呆気ないな。力さえありゃ起こらなかった事の後始末を力で済ませた、それだけの話か」

黒焦げになったグローブを外した熊澤はその幕切れに消化不良を抱えながら、頭を吹き飛ばされた虫けらの死骸を検める。焼き切れた首の断面からは黒い半液体が流れ出ていた。2,3回胸元を踏んづけてやると、中から砕けた赤い核も転がり出てきた。

「こいつも操られてたのか。人じゃなくてもいいのか、こいつも人だったのか……まあ、どちらでもいいか。済んじまったことだからな」

この場が収まった事が良くない事かのように呟く熊澤の左胸で、無線機の着信音が鳴り響いた。

『──っよぉし、繋がったぁ!聞こえますか?服部です!』
「お、復旧したか。こちら熊澤、現在特殊な敵個体との戦闘を終えたところだ。状況は?」
『引き返したメンバーとの合流は完了しました、現時点で欠員及び負傷者は居ません。依然として空鳥さんは行方不明、他の突入メンバーへの連絡はこの後順次確保できる見込みです。鳥飼さんの足取りは掴めそうですか?』
「いいや、全くだ。だが鳥飼は俺達の居場所を把握できているはずだ。こっちが何も掴めていないからとまるっきり絶望的な訳じゃあないさ。それと服部、お前の能力でこのサイトの連中が使っている無線通信を乗っ取る事は可能か?鳥飼と連絡を取るとしたらそれが恐らく確率が高い」
『え……あー、出来なくはい、と思いますけど……時間は必要です。それに鳥飼さんが連絡を受け取れるとも限りませんし……』
「時間は掛けてくれて構わない。俺達突入組が暴れりゃ多少は稼げるさ。俺は管理官室を目指しているが、もう暫くかかりそうだ。他の奴らと連絡が取れたなら、目的地がばらけるように上手く振り分けてくれ」
『りょ、了解しました……でも、本当に合流しなくていいんですか?やっぱり、鳥飼さんを見つける為とはいえ戦力を分散するリスクが大きすぎます!それで本当に鳥飼さんを発見できるとも限らないんです、一度戦力を集中させて堅実に制圧するべきでは……』

無線機越しでも伝わる不安そうな声に対し、熊澤は静かに首を横に振った。

「いいか、服部。俺だって分の悪い賭けなこた解ってるんだ。でも確かに鳥飼を助け出せる可能性がそこに存在している。ならそれを捨てるべきではねぇんだ。全ての可能性を離さない覚悟を、いい加減俺達もあいつから学ばにゃならねぇんだよ……まあそれに、今更合流なんて出来っこねぇしな!わかったらさっさと他の奴にも連絡をくれてやりな!」

熊澤はそう一方的に言い放って無線通信を切った。

そう、可能性、或いは期待。鳥飼を救い出せることへのそれに加えて、もう一つ。熊澤の中には、あの白い虫けらの死骸を検めた時から"とある期待"が徐々に芽生えつつあった。

その期待を確信に変えるべく、熊澤は防火扉を開く。

「……ああ」

非常階段を抜けて、廊下へ躍り出る。それを待ち構えていたように、廊下に面した扉が次々と開き……先程倒したはずの白い虫けらがわらわらと廊下になだれ込んできた。

「やっぱり量産型だったか。ああ、本当に良かった。安心したよ……いやぁ、本当に……よかったよかった」

熊澤が示した感情は場違いな安堵だった。虫けらはゆったりとした足取りで進路を阻み、埋め尽くしていく……

「お前らのどれが俺の仇か判らねぇからよ……なら、全員ぶちのめさにゃ復讐は成し遂げられねぇよなぁ?」

改めてグローブを嵌めなおした熊澤、その顔は先程までの煮え切らない表情から一変してめきめきと口角が上がっていく。

「悪いな、鳥飼。もうちょいと辛抱してくれ……ちょいとツケを清算して来るからよ。なに、すぐ終わらすさ」

熊澤には己に設けたルールがある。"決して怒らない"……極めてシンプルな、ただそれだけのルール。感情に身を任せれば7年前の過ちを繰り返してしまう。だから日頃どんなに許し難いことがあっても──例えば、旧友に隠し事をされていたと知った時も、あるいは仲間が情けないさまを見せていた時も──感情的になることなく、怒りをひたすらに押し殺して悠然と振舞ってきた。そうしてどうしても堪えられなくなった、ルールの鎖では抑えきれなくなったその時こそが情動の"使い時"だと確信していた。再会した金本に拳を振るった時がまさにそれであり──

──そして、今もまたその瞬間であった。

廊下は焦げ臭い空気に満たされている。壁や天井には幾つかの大穴が空き、埋め込まれた金属板を顕にしていた。その只中に立っているのはただ一人……ではなく。

「あのなぁ、いくら量産型だっつっても程度加減ってもんがあるだろ……」

グローブは保護の役割を半ば喪失し、ビニルが溶け出し掌を焼きつけていた。疲弊はない、所詮は道具頼りだ。ただし、頼るべく道具は残り──

「次がラスト、だが……お前らもそれなりに利口になったな、ええ?」

最初はトーチを横にひと振りするだけでよかった。しかし利口にも部屋に退避する事を憶えた敵勢は、トーチ1本を消費させるのに1人をけしかければ良い事を学習してしまった。それ以降幾ばくかの人柱を捧げるだけで、熊澤の戦力を十分に消耗させてのけたのだ。

結論、彼らを根絶やしにするには手持ちの兵器が余りに不足していたといえよう。背負った荷物は重量でいえば五割減した有様だ。熊澤に驕りがあったかと問えば否だろう。彼の情動は偏に、盲目かつ不退転であった。

「全部使い切るのは利口じゃないが、ほかに試せるもんがあるかといえば……」

他にも並な兵器は一通り熊澤の手元にあるが、それが通用するのなら7年前にも苦労はしていなかっただろう。ダメもとで投げた手榴弾はそれを間近に被った個体の全身にヒビを走らせるに留まった。それもじきに元通りになっていく、先に廊下のほうが音を上げそうだ。

「いっぺん引くか?いやしかしこいつらが他の面々と鉢合わせた時にどうなる?同じようにこっちの装備を消耗していくばかりだろう。なら……やっぱり引けんわな」

熊澤には一つだけ策があった。起死回生の一手というよりは苦肉の策であったが、今この場ではそれしかないと熊澤は確信していた。手始めに廊下を一目散に引き返し、非常階段へ逃げ込んで防火扉を閉める。

かの刃の切れ味とその速度は目を見張るものがある。しかしファイン・セラミックスの包丁が生の南瓜で刃毀れするように、肉を切り裂く事に特化したその刃は鉄扉を切り裂く事は出来ないだろうと、熊澤はそう予想立てた。事実、7年前に熊澤が生還したのも骨だけは断たれず済んだからこそだったし、現に今も鉄扉の向こうからはガンガンと刃を叩きつける音が響くばかりだった。

そうして切り裂くのが無理だと理解した敵勢は鉄扉をこじ開けんと愚直に鉄扉を押し始めた。一人では力負けすると判断すれば敵勢は扉に群がり物量で押し込まんとする。それに対し熊澤は満を持して能力を行使し、扉を開かせまいと大きな背を使って扉を押さえる。

「よーし、そのまま群がっていってくれよ……」

案の定身動きは取り難いが、心構えがある分幾ばくか立ち回りようがある。扉を押し込んでくる力が増すほど、その背中にこの作戦への自信が湧いてくる。それを確信に変えるべく厚ぼったい手の小指で器用に無線を再起動した。

「服部、聞こえるか?」
『熊澤さん!何かお手伝いできますか?』
「ああ、一つ聞きたい。マックスをもう一度ぶっ放すとしたら今からどの程度時間を要する?」
『もう一度、ですか。技術班に確認してきます…………6分だそうです』
「わかった、じゃあそいつを俺が指定した位置にぶち込んでほしい」

6分。熊澤はそれを自身の活動可能時間としても、扉の手ごたえとしても十分に耐えられる見込みのある時間だと判断した。

「目標は最上階のひとつ下、つまり5階の……そうだな、前回の着弾点より窓ふたつ分西側に撃ち込め」
『そこに破壊したい目標物があるんですか?』
「ああ、端的に言えば俺がそこで戦っている。正確には着弾点にいる殲滅目標と扉一枚挟んで籠城してるってところだな」
『えーっと、つまり、被弾覚悟で撃てと……?』
「話が早くて助かる。余計な心配はしてくれるなよ、俺の体がどれだけ丈夫かは俺が一番よく知ってるんだからな」

バキッ、蝶番が力尽きた音が小さく響いて金具がかんかららと階下へ転がっていった。思えば防火扉は7年前も似たように破壊されていたが、今回はまだ役目を終えてはいない。もとより丈夫な板である以上の価値は求められておらず、さながらライオットシールドと同義であった。

「ともかく撃てるようになったら即撃て、俺への確認も──」

ギィッ。その金属が摩擦する音は、無線機に乗って服部の耳にも届いた。それが熊澤の言葉をにわかに詰まらせたのだ。その音の正体は──

「──悪い、服部。やっぱなしだ」

──一つ下の階、その防火扉をきわめて平凡な動きで開き、非常階段へ足へ踏み入れたのは、たった今押さえつけている扉の向こうにいる連中と何ら変わりない白い虫けらだった。

簡単な話だ。熊澤は今相対しているこの量産型が階下にも配備されている可能性に、ほんの少しでも意識を向けるべきだったのだ。そうしていたならこの場に留まることの危うさにも気付けただろうし、まさに7年前のプレイバックのように階下から襲い掛かられることもなかったのだ。

本当に彼に慢心は無かった。ただ、7年前同様に、視野が狭まっていただけであり──それだけで、十分に致命的であったという、それだけのことだった。

しかし彼を責められる人間はいない。責められるべきでもないだろう。服部も、ほかの面々だろうと、表向き冷静に振舞っていた彼に、"Don't look back in anger怒りに呑み込まれるな"と助言しえた人間はどこにもいなかったのだ。

彼は咎められるべきじゃない。単に相手が想定の外にいたという、それだけだ。今更それを詰問しても何も実りはしないのだ。

……ただ、ひとつだけ。"いつまで7年前に囚われているんだ"と、彼自身に気付かせるには遅くないのだろう。

「近寄るんじゃあ……ないっ!」

熊澤は背中と右腕で鉄扉を押さえつけたまま、左腕で階下から迫ってきた敵に裏拳を繰り出す。それは苦し紛れに他ならず、連中が軽量であることを覚えているからこそ距離を稼がんと試みたものだった。

「……あ?」

──だから、その一撃が虫けらの顔面に放射状のヒビを深々と刻み込んだことに彼自身、即座に理解を示すことができなかった。

『熊澤さん?何があったんですか?』
「……」

熊澤は服部の呼びかけでぽかんと開いた口をはっと閉め直す。果敢にも再度突っ込んできたその敵の、今度は首を掴んで壁に叩きつけてやった。

「……成程な。ははっ……服部、とにかく砲撃はキャンセルだ」

左手に込めた力を緩める。叩きつけられた壁のコンクリートのかぶりがぱらぱら剥がれ落ち、車に轢かれた蛇のようにぺしゃんこになった虫けらの首から下がどさりと、首から上はからんころんと階段を転がり落ちた。

『何が何だかわからないんですけど……』
「心配はいらないさ、まあ見てろ……」

背中を扉から離し、踊り場に飛び退く。

まもなく支えを失った扉から虫けらがなだれ込んできた。

右足を肩幅分後ろへ、しっかりと腰を落とし、右拳を基本に忠実にギリギリと脇へ引き絞る。

敵の鎌が彼をとらえるより先に大きく左足を踏み出し、形ばかりの左手の牽制で定めた目標に真っ直ぐと右拳を突き出した。

「……ああ、服部は見えないんだったな。悪い悪い。まあなんだ、とにかく気にするな。ここはもう大丈夫だ」

虫けらだったものが球体関節人形のようにばらばらとパーツごとに砕け散り、黒い体液をぶちまける。廊下の向こうに残っていた個体が無感情な貌でも見て取れる動揺で立ち竦んでいるところに、熊澤は悠然と歩み寄っていく。

無線機を切り、戦いに巻き込まないよう他の装備と一緒に廊下の片隅へ投げやる。

「つまるところ、俺はもう7年前そこには居ないんだよ。全く不甲斐ない話だが、今ようやく気付いたさ。したらばお前らは7年前の亡霊に過ぎないわけだ。俺にとって何の価値がある?」

ずんずんと歩み寄る熊澤に、意を決したように残りの虫けらが飛び掛かっていく。

「来いよ亡霊、もはや恨みもクソもねぇが……きっちり俺がそこに居ないことを証明してやる」

己の成長を認めた拳を改めて握り込む。それはもう蛮勇ではなく、情動でもない。

同異

[AA-2501, サイト-8170, 中央棟2F]

「うーん、ここもワタルの匂いはしないね」
「この棟には居ないのか、あるいはそもそもこのサイトに連れてこられてない可能性もあるけど……その線は後方支援部がなんとかつぶしてくれることを祈るしかないかな」

白衣の人々が床に転がるラボラトリを、橘とエステルの二人が麻酔銃を構えて駆け抜ける。東棟が事務棟、西棟が収容棟であるのに対し、中央棟は研究棟となっているようだ。

「解らないことが多すぎるよ……ワタルの居場所もそうだし、ナツメが居なくなったのだって……」
「確かに、空鳥はいつも説明不足な事はあっても、明確に私たちを邪魔するようなことは決してしなかった。でも今回は、空鳥は明確に居るべきタイミングで居なくなった。これまでの"茶目っ気"とは一線を画してる」
「うーん、そもそもナツメは何者なの?最初からQ9ALTにいたんじゃないんでしょ?」

空鳥棗という女の素性を知り得ない事にエステルは疑問を呈する。まっとうな質問だが、橘は煮え切らない態度をとった。

「空鳥はほかの世界から逃げ出してきたんだ。その世界で財団の職員をしていた、ってことぐらいしか私は知らないけど……指揮能力や戦闘技能は確かだから、伊勢山管理官がキャリア不問で私たち作戦チームに彼女を加入させたらしいね」
「らしい、って……」
「誰も彼女の事を深くは知らないんだ。それでも私たちの為に力を使ってくれるから肩を並べていた訳だけど……ハナからスパイだったなんてのは、あまり考えたくないね」
「私知ってるよ。こういう時は日本語でエンギデモナイって返せばいいんだよね」

廊下の突き当りに達した二人の前には上階へと続くエレベーター。カードキーが無ければ乗り込めない仕様のそれをまるきり無視して二人はひとつアイコンタクトを取り、窓ガラスを開けた。エステルがそこから飛び出して一つ上の階の窓を体で突き破りながら侵入する。それに間髪入れず橘もまた上階へと乗り込んでいった。

[中央棟3F]

「ん、無人……?」
「いや、匂いはするよ」

窓から侵入した先も2階とそう変わらないレイアウトの廊下。しかしそこに職員はおらず、警報音すらなかった。二人は先ほど同様に銃を構えたままひと部屋づつ検めていくも、人影は変わらず見受けられない。

「誰だろう、どこかで嗅いだことがある気がするんだけど……」
「あまりそれに集中し過ぎないでね、あくまでも目の前の警戒を最優先に──」

廊下の半ばまで来た頃その時。思い出したようにサイレンが鳴り響き、一斉に窓という窓のシャッターが下ろされていく。エステルが反射的にそれのひとつを止めようと走り出すのを首根っこを掴んで止めた。

「焦らない。あの程度なら壊せるでしょう?」
「そうだけどっ、私たち誘いこまれたんだよ?ここにいるのはまずいんじゃ……」

橘は静かに首を横に振る。エステルは渋々といったふうに抵抗をやめた。

「薬や毒が仕込まれてるなら君の嗅覚で気付ける。ならここにそれはない。人の匂いがするんでしょう?なら恐らく、待ち構えているのはあくまでも人間。それもここまで誰もいないってことは少数か、或いは単騎……エリートと言い換えた方が気が引き締まる?」

エステルは橘に窘められてようやく落ち着いたようで、橘の横に並び立つ形で銃を構えなおした。

「麻酔銃は持ち替えていいよ。出し惜しみをする場面ではないからね」
「匂いが近づいてきてる……来るよ!」

その言葉とほぼ同時、二人の数m前方の扉が廊下を狭めるように大きく開く。人影がそこから半身を晒して銃口を二人へ向ける否や、双方向的な銃撃音が廊下で断続的に反響する。二人の躰にはたちまちハチの巣が描かれていくが、それが膝をつく理由にはなり得ない。数秒置き、奇しくもほぼ同時に銃撃音が鳴りやんだ。二人は廊下にどっぷりと血の跡を残しながら最寄りの部屋に転がり込む。

「生きてる?エステル」
Κανένα πρόβλημαノープロブレム!向こうは?」
「視界が真っ先にダメになったから見えなかった。でも銃撃が止まなかったってことは生きてるだろうね」

橘はエステルの傷が塞がる時間を稼ぐべく手榴弾を取り出し投げ込まんと右腕だけ廊下に出した。そこを目敏く一発の弾丸が駆け抜け、彼女の右手首を砕く。どうやら敵は冷静に出待ちへと切り替えたらしい。とはいえ橘も大概規格外だ、手首の力が無くなっても肩の力だけで振りぬき、右手ごと投げ放って見せた。

「ん、これは……」

爆発音を背後に、手首にうずまって残った弾丸をちらと検める。鉛弾にしてはやけに光沢が白い。それによく似たものが橘の記憶にあった。

「聖歌隊の弾丸にそっくりだ、どうも対策されてるらしいね」
「セイカタイ?」
「魔除け特化ってこと」

それがエステルに対し何らかの効果を期待したものであることは想像に難くない。実際に効くかは未知数だが、警戒するに越したことはないのは明白だ。

「エステル、ちょっと私に任せてくれる?」
「わかった、気を付けてね」

懸念を示した橘の意図をくみ取り快く任せたエステル。そこに彼女のある種の成長を見た橘は、心なしか軽くなった足取りで再び廊下へ躍り出た。爆発で立ち込めた煙も収まらない視界不良の中、橘の接近を乱暴に拒むように銃撃音が連続する。

「容赦ないね、でもこの程度なら──」

屋内かつ未明の今、橘は自身の能力を完全な状態へもっていくことは出来ないが、弾幕を浴びながら敵の顔を拝み帰ってくる程度の余裕はある見込みだった。

「──余裕がある、と?」

ただしその見込みは、敵が元居た場所で大人しくこちらを待ってくれていたら、の話だった。扉の陰に人はおらず、代わりに一台の機関銃が機械的に前方へ掃射し続け……弾薬が切れてもそれを補充する人間は居なかった。その役目を担うべき人間は、煙に紛れて橘の背後に立ちはだかって橘の首筋に丁度銃口を押し当てたところだった。

自律型兵器タレットか、道理で……」
「そう、私なら一発で済ませる。やたらめったらに撃つのはスマートじゃあない」

ダン、と鈍い銃声が響く。うなじを抉られた橘が勢いそのままに前のめりに倒れ込みそうになったのを声の主が掴み止め、間もなく塞がらんとしていた傷口に左手をぐちゃりと突っ込んだ。橘の全身がひとつガクンと痙攣するのもお構いなしに手首、それから前腕の半ばまでを彼女の中へ押し込んでいく。橘の再生能力には目を見張るものがあるが、それでも損傷個所に回避不可能な異物が挿入されていては元通りに快癒することは叶わない。彼女自身も自覚していた弱点だったが、それを回避できる明確な解決策もないという現実が鋭利に牙を剥いた。

「うぁっ、がぁ……」
「見えんだろう、動けんだろう。考える事も能わないだろう。勉強になったな?そこのお嬢さん」

首を絞められたガチョウのような嗚咽を漏らす橘の顔を内側から持ち上げ、廊下に出てきたエステルに向けて見せつける。その頃合いには煙は落ち着きを見せ、両者の顔合わせを許していた。深く皺の刻み込まれたその欧州人を、エステルはよく知っていた。

「……思い出したよ、Douglasダグラス。でも別人なんだね」
「ああ。残念ながら、私はお嬢さんに負けてやったダグラスではない」

その一言で、この男が二人について極めて詳しく調べ上げてある事実が明確なものとなった。エステルがもはや使いようがあるとは思えない機関銃を捨ててトーチに握り替えると、彼は何のためらいもなく橘を盾にして応えた。

「それで貫いて私を殺せるか、試してみるといい。彼女もまた同じように試されることになるだろう」
「……」
「ふむ、撃てないか。私なら撃っていたんだがな」

攻撃をためらうエステルに対し、男は人ひとり運んでいるとは到底思えない足運びで迅速に距離を詰める。接近戦を嫌ったエステルはそれに合わせて大きく飛びのき、退きざまに廊下に転がっていた橘の右手を拾い上げようとする。しかしそれを阻むように放たれた弾丸が手を巧妙に弾き飛ばした。

「手ひとつばかりじゃお嬢さんの真価を発揮するには至らんだろうが、封じるに越したことはない」
「ぐぅ……銃の扱いも上手いんだね」
「私は軍人だ、完璧に扱えて当然だろう。お嬢さんは包丁を使えないシェフを見たことがあるのか?」

エステルは手を拾うことを諦め、時間を稼ぎ突破口を模索するべく急場しのぎにART-1762-DE青壁を展開する。視界は阻まれるがほんの少しの時間的猶予は確保できるはずだ。

「向こうのダグラスは使わなかったんだもん」
「あれは死にたがっていただろう、万が一にも銃で死に遂せてしまっては困るから渡していなかったのだ」
「まるで貴方がそう指示したみたいな言い方だね?」

青壁を廊下いっぱいに展開するのに要した3秒をものの1秒で無碍にした男は、割った破片を握りしめてそれをエステルに投擲せんとした。しかし既にエステルはその場におらず、その目論見は不発に終わった。代わりに扉がひとつ開いている。行き場を失ったその破片を握り潰し、代わりに手榴弾を取り出した。

「ああそうさ。自己紹介がまだだったな。私はダグラス・マーシャル。サイト-8170の警備顧問をしている。AE-1921のダグラスを利用することを決めたのも、或いは君たちの指令官をCC-3001で襲撃するよう指示を出したのも私だ」

マーシャルは熱弁に耽っているふうを装いながら静かに手榴弾のピンを引き抜き、扉の空いた部屋にの前へ歩み寄る。そうして手榴弾を部屋に放り込んだコンマ数秒後の爆発音────それと同時にマーシャルの頭が捥ぎ取られた。

急襲、それは部屋の中からではなく。青壁を目隠しにして天井に張り付く形で潜んでいたエステルによる背後からの強撃だった。爆発音に紛れる事で初動を暈し、確実に仕留めた頭が再び生えてくるより前にマーシャルの左腕ごと橘を奪還した。

「ブラフか……!考えたな、お嬢さん」
「これで仕切り直し、だよ」

自己再生を再開した橘を庇い立つエステルの背には濡羽色の翼。それは彼女が何らかの手段で能力を点火した証左であり、その"何らかの手段"というのが彼女が片手に握り潰している空の輸血バッグであることは言うまでもなかった。

「しかし理解できないな。よくもまあヨソの世界の自分を鉄砲玉にする気になるね」
「所詮は他人だ。目的の遂行と天秤に掛ける価値はない」

橘は喉が再生するや否や軽口を叩く。正面衝突より前に情報は出来るだけ絞り出したい、そんな思惑だろう。

「目的ねぇ。私たちは君たちの目的をまず知らないんだけど?」
「我々の目的は我々の生存と安寧だ。そのために他を排除することを厭わないという、それだけのことだ」
「なーんの中身もない答えだね……嘘ってほど嘘でもないけど真面目に答える気もないと見える」

橘の思惑に反しマーシャルは空虚な回答ではぐらかすばかりだった。時間稼ぎの足しにもなりはしない。

「むしろ、理解できないのは私の方だ。君たちは恐らく、我々の事を悪と定義しているのだろう。侵攻した者が悪であり反撃に出たものが正義だと、そう考えているのだろう。本当にそんな単純な尺度で善悪を定義できると思っているのか?もしそうならば、この世界のすべての戦争は裁判所で片が付く事だろうよ。しかしそうはならない、なってはならんのだ。我々にも、君たちにも正義はない。自分たちが生き残るためにより多くの他者を殺す、その行為の本質は我々と何も変わりないだろう。違うか?」

返す刀でマーシャルから橘へと問いかけを返す。それで本当に揺さぶれると思っていたのか、或いは会話の中で隙を見出そうとしていたのかは定かではないが、橘の答えは至って迷いなく簡潔なものだった。

「確かに、私たちは問題解決の手段として持てる力を行使する。でもね、私たちの指揮官は君とは違って力だけに囚われない理性を持っているんだ。妨げになる全てを蹂躙すればいいと思っている君たちとは絶対に違うんだよ」

エステルも理解できるようにならないとね、と付け加えながら彼女の頭を撫でる。それをマーシャルは大層つまらなさそうに聞き届けた。

「くだらない、如何にも軍役を知らない人間の発想だ。お前たちは、そうやって自分たちの気に入らないやり方に抑圧だの蹂躙だの、或いは侵略などといった言葉でレッテルを張り、批判する。結局は自分の正しさを信じたいだけなのさ、私も君もな。じゃあ最後に正しさを決めるのは何だと思う?」
「……」

橘は黙って自身の左腕をエステルの前に差し出す。まもなくそれが彼女のアギトに噛み千切られた。

「そう、戦争だ。それでいい」

エステルの金色の瞳が深紅に染まり、肌が罅割れていく。それを見届けたマーシャルは、濃紺の軍服に似合わぬ白銀の装飾を施したリボルバーを右手に構えてエステルに向ける。先ほど橘の右手首を破壊したものと同じだろう。

「そしてもはや雌雄は決した」
「ナメないでよ。前みたいに暴走なんかしてやらな────い?あ、あれ?」

マーシャルは橘を手放しフリーになっていた左手で、いつの間にやら握っていたリモコンを操作する。それが何であるか判然とするより前に、エステルがその場によろめき膝をついた。

「エステル!?」
「熱い、肌が、焼けて……」
「熱……まさか、この照明」
「安心しろ、人間が害を被るような紫外線量ではないからな。君はきっちりと私が仕留めてやる」

血で濁った瞳はその赤色を失い元の金色へ褪せていき、翼は力なく萎れていく。それは真価を発揮したエステルが陽光を浴びた時の反応そのものだった。橘がその身に照り付ける妙な暖かさでその原因を察したところにマーシャルが種明かしを垂れる。

「照明による自然光の再現は、非異常科学の世界においてもとうに完成形に到達した研究だ。そう莫大なコストが掛かるものでもなく、行使したところで生存する職員に著しい健康被害をもたらすものでもない。襲撃に備えるうえで改装して然るべきだろう」
「この廊下の照明全て……いや、そうじゃないんでしょうね」

エステルは元の少女へと枯れ落ち、真価の反動で立ち上がることも儘ならず掌で顔をおさえ蹲る。そこへ放たれた聖歌隊の銀弾を橘が庇い、下腹部で受け止めた。尾骶骨まで達する鋭利な痛みは、少女の窮地という外的要因で何倍にも増幅して全身を走るかのようだった。

「このサイト全域の照明全て、だ。解るか?お嬢さんはどこで戦おうと、その力を使った時点で敗北が決定付けられていたのだよ。そうして残ったのはお嬢さんお荷物を抱えた頼りない君一人だ」
「好き勝手言ってくれるね、仕留める前に勝ち誇るのがプロのやり方なの?」
「挑発のつもりか?強がるな。お前の言葉などこれほども響かんさ、わざわざ他所から拾ってきたお荷物に振り回されているお前の言葉などな。情に絆され手を差し伸べ、その手を腕ごと泥沼へ引きずり込まれる。君にはそれを引き上げる力など無かったのだよ」

淡々とした口調で辛辣に酷評するマーシャルに対し、橘は激昂も悲観もなく。ただ一つ、氷解したように小さく二三頷いた。それからふっと小さく嗤い、エステルが手放したトーチを拾い上げる。

「随分と仔細に語るね、まるで自分の事のように。経験豊富な軍人さん?」
「……お喋りが過ぎたな」

先ほどまでの饒舌が一転、一息に肉薄したマーシャルはその掌底を橘の喉に叩き込まんとする。橘はそれを甘んじて受け止め、十分近づいたマーシャルの腹にトーチを押し当てた。橘がそうすることを予測できただろうに突っ込んできたということは、つまり彼にとってそれは致命傷足り得ないのだろう。

「前情報通りの火力だ、だが足りない」

トーチはマーシャルの腹部に腕一本余裕をもって入れられるような風穴を空け、橘はその穴に己の右手を突き入れた。マーシャルは勢いそのままに橘の首を握り潰し、橘の頭がカクンと後ろに倒れて視界は天を仰ぐ。

「意趣返しのつもりか?悪いがその程度、何の妨げにも──」

違和感、いや、異物感。それが全身を駆け巡るのを感じたマーシャルは、咄嗟に橘の体を突き飛ばさんとする。しかし彼が右手を突き出すと、彼女の躰はそれを避けるように解けていく

「一つ、教えてあげる。私とエステルは何も救う救われるの関係じゃあないんだ。私がエステルを助け、エステルが私を助ける。不足を補いあえる関係とでも言おうかな。少なくとも──君が言うような、"手を差し伸べてやる"ことで得られるような傲慢な関係性じゃないんだよ」
「傲慢?違う!私には……」

マーシャルの躰の内側から、めきめきと枝や蔦と思しきもののシルエットが浮かび上がり、全身から少しづつ突き出してくる。エステルを仕留めるべく照射した紫外線が、却って橘の能力の真価を引き出してしまったのだ。陰と陽の関係とでも言おうか、超常的な再生能力という共通項を持つ二人は、運命じみた相互補完能力を以てしてマーシャルの策略を破って見せたのだ。

「……こうする他に無かったのだ!否定させは──」

最期に漏れ出た本心を、無情な枝葉が磨り潰して飲み込んでいく。血肉が菜種油のようににじみ出てきては霧散していき、枝葉が解けて再び橘の躰を形成した後には襤褸切れになった濃紺の軍服だけが彼の存在証明となっていた。

「全く、後味の悪い。ええと、リモコンは……あった」

彼の最期の言葉は"お前ならどうしたと言うのだ"と問いかけているかのようだった。しかし彼がどんな人生を歩み、どんな戦争を経験し、どんな感情でこの計画に加担し、彼女らの前に立ち塞がったのか。それを彼のそう多くない言葉から完全に推し量ることは出来ず、故にその問の答えを橘が持っている事もないだろう。

「エステル、立てる?」
「うん。何とか……」
「ならよかった。水は……ああ、さっきの部屋に荷物を置いたままだったね」

ただ、かの世界では独り取り残され、この世界では過ちに呑み込まれたダグラスといういち老人のことを、橘はほんの少しばかり気の毒に感じた。それを紛らわすように、無造作にエステルの頭を撫でる。

「水は……あるね、漏れてなくてよかった。おっと、無線が……」

橘は、妨害を受けて途絶えていた無線から着信があったことに気付く。それの電源を入れるや否や服部の声が聞こえてきた。

『橘さん!聞こえますか?』
「聞こえてるよ。こちら橘、中央棟3階で幹部とみられる男と交戦を終えたところです。対象は死亡、鳥飼君の痕跡は確認できていません」
『よかった、ご無事で何よりです……えっと、実はAA-2101から緊急の連絡が入ってきて……』

無線機の向こうの服部は二人の無事を素直に喜べない事情があるようだ、橘は静かに報告を聞き届ける。

『AA-2101のサイト-8165で爆発事件が起こったそうなんです。そしてその爆発があったのが、伊勢山さんの管理官室で……』
「伊勢山管理官が!?どうして今──」

そこまで言葉にして、一人の男が脳裏に浮かぶ。七年前の惨劇を齎した張本人にして、これまで異様に大人しかったあの男の顔が。

「──大上の、差し金?」
『その可能性は高いかと。もしくは空鳥さんが失踪した今、私たちの統率をとりうる人間をダメ押しで排除しにかかったのか。判断するには情報が足りません』
「……わかった。続報があったら教えて」
『はい……どうか、お気をつけて』

いずれにせよ。こんなところで立ち止まるべきでも、ましてや老人を悼んでいる場合でもない事を橘はよく理解していた。遺された白銀のリボルバーを拾い上げ、代わりに白い橘花を供える。彼の名前が刻まれたそれを仕舞い込み、道半ばの廊下を再び二人で歩み出した。

報告

事の発端は、一つの報告だった。

[2011/6/21 AA-2101 サイト-8170]

「それで、あの"正体不明の装置および死体"は、本当に何の前兆もなく中庭に現れたと?」
「はい。確かに本サイトは都市型のサイトに比べればセキュリティの面で一歩劣るとはいえ、あんなデカブツが突っ込んできたならそれをみすみす見逃すとは、到底……」

管理官室の窓から外を見遣ると、件の機械が報告通りに中庭の真ん中で黒煙を上げている。人工衛星にも家庭用シェルターにも見えるそれは、確かに"不明な機械"と呼びたくなる代物だ。呼んでもないのに転がり込んできたその厄介事にピリピリとした頭痛を覚える。

「今の言い草にあまり好感は持てないが、まあいい。とにかく調査を急げ。別サイトへの報告は全容を把握してからにしろ。それまでは隠し通すんだ」
「それが……その、今日は来期の雇用計画の件で8165から伊勢山管理官がお見えになる日で……」
「やあ、大上。ミルクレープとバナナクリームパイ、どっちがいいかね?それと外の妙ちくりんな機械はどうしたんだ?」

クリーム色の紙袋を片手に、ご機嫌な老人が管理官室へ顔を出した。頭痛の種がズキズキと根を伸ばしたのを感じる。

「つまり、何らかの乗り物であるとしか判ってないと。転移装置の類いだとしたら死体の方を検めたら足取りが掴めそうなものだが」

我が物顔でうちの職員から堂々と話を聞き出しているこの男は伊勢山。俺の同期であり、サイト-8165の管理官でもある。奴は入職当初から大っぴらに組織の革新を掲げていた奇人で、その志の発端は彼の父親にあるらしい。前に聞いた──というより、頼んでもないのに聞かせてきた──話によれば、彼の父親も財団職員であり、才気溢れる人物であったにも拘らず、旧蒐集院から合流した職員であるというだけの理由で然るべきポストに就けなかったらしい。それに強い憤りと使命感を感じ、自らが財団で父が届かなかった地位へたどり着いて組織に革新を起こしたいのだそうだ。

……そして、俺はそんな伊勢山の事が大嫌いだ。最初は嫌いというよりは"くだらない、取るに足らない男"という認識だった。奴が革新を掲げているうちは、彼が財団に受け入れられるとはつゆほども思っていなかったからだ。革新なんてものは組織の不調和を齎すだけだ。醸成された秩序にこそ価値がある。それを財団という組織も理解しているものだとばかり思っていたが、あろうことか奴は俺より半年先に、しかも中部地方の中枢を担うサイトの管理者となっていた。かたや俺はこんな山奥の僻地で研究馬鹿と異常性職員の世話をさせられているという事実も相まって、奴の事が小面憎くて仕方ないのだ。そして、奴はそんな憎悪に好んで薪をくべるかのように奴の思い描くままの革新を遂行してみせた。

だが、当のこの男は俺がこんなにも嫌悪していることに全く気付く様子はない。俺が本心を押し殺すことに特別長けてしまっていたのかもしれないが、それにしたって親友のような扱いを受けるのは極めて不愉快だった。

「まあ、何か判ったら報せてやるさ」
「いっそ8165うちの連中をこちらへ派遣してやろうじゃないか」
「いや、その必要は──」
「なに、遠慮するな。うちのサイトは収容棟が少ないぶん暇してる研究職が多くてね。彼らのいい錆取りになるだろう」
「……」

……奴の思想を差し置いても、こういうやたらめったらに押しが強い所も大嫌いだ。

[2012/9/12 AA-2101 サイト-8170]

「つまり、君は別世界に拠点を設けて、別世界を救済する部門を設立すると?」
「そうだ。あの技術を最も善く使うならばこうだろう」

去年の六月を境に、財団の技術は大きな転換点を迎えた。財団は世界と世界を繋ぐ技術を手に入れたのだ。無論、極秘情報であることは確かだが、我々日本支部はそれを発明──いや、発見と呼ぶべきだろう──発見した第一人者として、それをどう扱うのか極めて高い注目を浴びていた。

私はこの技術に関心こそ抱けど魅力は感じていなかった。だから"技術運用案"の作成に名乗り出なかったし、伊勢山のこんな案を世に出す事を許してしまったのだ。

「維持コストもリスクも馬鹿にならない上にメリットがないじゃないか」
「でもこれは善き事だ」
「善は善でも独善じゃないか」
「財団に勤めておいてそれを言うかい?ちょいと硬派が過ぎるぜ君」

どうにも悪い冗談ではないらしい。しかし、ここで"こんな草案通るものか"と唾棄したならばどうなるかはこれまで何度も見てきた。奴には、己の思惑を貫き通す魔力があるのだ。

「君の想像力が豊かすぎるんだろう。地に足がついていない事に気付けなくなる位な」
「やけに当たりが強いな。そんなに気に召さなかったかい?」
「まるで現実的じゃないという話をしているんだ」
「そこを詰めるのが私の仕事だ。心配してくれるなよ」

しかし凡庸な言葉で窘めようと伊勢山はまるっきり無敵の有様で、はなから俺の意見など求めちゃいない。それにうんざりして、俺はきまって引き下がってしまうのだ。

「……まあ、君にとってこれが佳くない案だというのは理解したさ。だが、出来れば私はこの草案に君の名前が欲しい。君の管理能力はよく知っているからね。きっとこの案をより良くしてくれるだろう。気が変わったら連絡してくれ。私も君の気を変えられるよう努力するさ。それじゃあ、邪魔したね」

伊勢山はさも当然のように、一歩引き下がるふりをしてにじり寄ってくる。もはや奴の目には私の事は、歩く印鑑にしか見えていないのだろう。そのくせ人一倍寂しそうなふりをするから憎たらしい事この上ない。

[2012/9/18 AA-2101 大上邸宅]

「お困りのようですね」

その来訪者は、伊勢山が例の案を俺に持ってきた数日後の夜に現れた。軽薄な笑みを浮かべるその長髪の男は、自宅のベランダで頭痛薬スコッチを呷っていた私の傍らに何の前触れもなく湧いて出たのだ。

「……俺は警告をするほど耄碌してないぞ」
「おっと。弾を無駄遣いさせてしまいました。壁に傷まで……貴方を警戒させてしまったのならば申し訳ない。私は貴方とご相談がしたいだけなのです」
「誰だね、君は」
「私は、貴方と悩みを同じくする者です」

「つまり、俺もお前も伊勢山の計画を止めたいと。しかし解らんな。それならさっさと止めればいいだろう」

一通り長髪の男の説明を聞き届けた俺は、ひとつの疑問に行き着いた。しかし男は丁寧に首を横に振った。

「"やってみなければわからない"という言葉は、悪魔の言葉なのです。未遂に終わった計画を、人は必ず遂行しようと企みてしまいます。それが良いものである可能性があるなら、鉱脈を求めアテもなく鶴嘴を振るうように、何度でも……それは無益な、愚かな行いです。我々にとっても手間でしょう。ですから、計画を遂行させた上で決定的な大失敗に終わらせればいい。そこに金塊はないと知らしめるのです」

男の語る計画は、伊勢山のそれより幾分か魅力的だった。リスクはあるが、確実な見返りと、その先の望ましい未来の恢復が見込めた。

「もちろん、この計画の終着点に到達したのなら伊勢山さんを始末する事だって計画に入れても構いません」
「……始末、か」

"始末"。伊勢山を再三恨んできたが、それを選択肢に昇華したことは無かった。俺は奴の事を殺すほどの事ではないと感じていたのだろうか?或いは、それを現実的じゃないからときっぱり諦められる分別が俺にあったとでもいうのだろうか。

「これは双方にとって大きなチャンスです。貴方だって、こんな山奥で余生を費やすのは不本意なんでしょう?私はこの世界を捕捉してからの半年間、貴方を観察してきました。私は感銘を受けたんです。貴方は素晴らしい思想の持ち主だ。それを曝け出さない謙虚さも兼ね備えている。こんな場所に掃けられているべき人間ではない。財団を──世界を守るべき人間だ」
「……俺の事を、そう評価したのはお前が初めてだよ」

俺の中で、天秤の両皿に次々と思考が積み上げられていく。そして、最後に傾いたのは──

[2021/12/30 AA-2101, サイト-8170管理官室]

『ご報告します』
「話せ」
『サイト-8165管理官室の爆破に成功しました。伊勢山管理官の在室は確認が取れています』
「そうか……よくやった」

私用の通話端末を切断し、本革のハイバックから身を起して立ち上がる。

「のうのうと殺されてくれたと言う事は、伊勢山は"計画はとうに俺抜きで動いている"という言葉をまんまと信じたという事になる。俺はブラフも使えない間抜けだと、そう思われていたのだろう。あまり、気分のいい話ではないな。だが、いいずれにせよ……」

窓辺に歩み寄り、懐から取り出したスキットルを空にした。

「もう、これは必要ないな」

邂逅

技術番号: ART-3901-JP
 
個体数: 4
 
保管場所: サイト-Q9ALT
 
使用手引: ART-3091-JPは現在実用試験段階にあります。使用者は使用後の損傷検査および聞き取り調査に協力する事が義務付けられています。
 
説明: ART-3091-JPは非異常性の特殊装備です。外見上は一般的な男性用スリーピース・スーツを模倣しています。非戦闘要員の生存水準強化を目的として研究開発されており、主に3つに分類される機能を有しています。
 
第一の機能は着用者の耐久力向上です。特殊繊維による防刃・防弾をはじめとし、外骨格による衝撃吸収など幅広い負傷要因に対する保護が組み込まれています。現時点での問題点としてそれらの機能向上と引き換えに質量の増加が著しく、非戦闘要員の体力に見合った質量に調整する必要性が提起されています。
 
第二の機能は緊急時に利用可能な装備です。袖口に内蔵されたジャンプナイフや胸部に内蔵されたエアバッグ、靴底に内蔵されたスノースパイクなどの使用および収納を手元の各種プルスイッチで制御することができます。想定される作戦環境に応じて各装備の着脱を容易に行えるよう改良研究が進行中です。
 
第三の機能は兵器の合理的収納です。外観から兵器の所有を察知されづらい衣服デザインに特化することで左太腿部に専用改造されたソードオフ・ショットガンを、背中に消防斧を収納することに成功しています。

[AA-2501, サイト-8170, 西棟5F]

「それっ!このっ!……はぁっ、はぁ……どうせなら筋力強化なんかも受け持ってくれたらよかったのに」
『扉を壊して回らずとも、大人しく待っていればいいものを。それともストレスが溜まっていたりするのかい?』
「勝手に言ってろ!」

何度も甲高い金属音を響かせたのち、ようやくその扉はめきっと悲鳴を上げて傾いた。僕は最後の一押しに消防斧の背中で扉を完全に押し倒す。これだけ派手に暴れているにもかかわらず、僕に迫る追っ手の姿はえない。その理由は階下にあった。

技術番号: ART-3916-JP
 
個体数: 1
 
保管場所: サイト-Q9ALT
 
使用手引: ART-3916-JPの使用は戦闘技能証明第29項を満たしている使用者にのみ許可されています。
 
説明: ART-3916-JPは近距離戦闘用兵器です。日本刀に類似した構造をもち、使用者の要望により耐久性能の高さに特化した設計が追求されています。財団のすべての破壊試験において最高評価を示しており、現時点で作戦中に破損が生じた事例は確認されていません。

ただし耐久性能に特化させた結果、切断兵器としての要求性能を満たしておらず、一般的な刀剣類と比較して切断能力に著しい欠陥があるため、主に鈍器としての運用が想定されています。

[西棟2F]

ぽん、と首が飛び撥ねる。二つ、三つ、四つ、餌を投げ入れられた鯉のように次々と浮かんでは沈み、床に転がっていく。その惨劇を巻き起こしているのはART-3916-JPナマクラを片手に悠々と闊歩する黒山だった。

「収容棟に配備されてる割に物々しい連中ですね、収容室の真ん前で機関銃をぶっ放します?普通。そんなにここを通って欲しくないんですかね」

黒山に向けられる銃口はどれも、火を噴くころにはその標的を射線に捉えておらず。黒山の尋常ならざる敏捷性の前に蹂躙されていくばかりだ。

「どこに隠れてるんです?ロン毛野郎。さっさと出てきてくれませんかね、鳥飼君ばかりVIP待遇なんてズルいですよ」

応える声はない。それもそのはず、Q9ALTでザインと呼ばれたあの男の姿は鳥飼の視界にも映ってはいなかった。ただひたすらに黒山は総力戦を強いられるばかりだ。

「代り映えしないなぁ。あの日のパワードスーツは一点モノだったのかい?まあいいや、気が済むまで付き合いますよっと」

一頻り文句を垂れ終わった黒山は一層加速し、凡夫の首を躊躇ない軌跡で刎ね飛ばしていく。鳥飼の言葉で己の全てを曝け出す勇気を手にした黒山にとって、敵と呼べるものはもはやそこに無かった。

とまあ、僕があの怪鳥の手を逃れ奔走しているという事実を把握していてなお対応に当たらざるを得ない黒山の暴れぶりのお陰で、僕の方は最小限の衝突のみで道を急ぐことができていた。ただし、僕の目的は黒山との合流ではない。

薄暗い廊下を一人走り抜け、額に滲む大粒の汗をそのままに突き当りのドアへ斧を勢い任せで振り下ろす。しかし扉には引っ掻いたような傷が小さくついたばかりで、斧を握りしめていた僕の両手に並みならぬ痺れをもたらした。

「痛っ……これは斧じゃ無理か」
『やれやれ、その口ぶりからして辿り着いてしまったようだね?これは本当に親切心から言うんだが、その扉は開けようとしない方がいい。君の命が保証できなくなってしまう』
「お前に大人しく従ってやるのも死んだと同然だ、解ったら無駄口叩くなよ」
『随分と口が悪くなったねヒーロー、正義が板についてきたじゃないか。罪はもういいのかい?』
「……」

反射的に無線を切る。"目的地"──レベル5収容区画トップシークレットへと続く扉は、力業で開いてしまう事態だけは確実に回避するための重厚な構造をしていた。が……

「"kh7Adi;28@4dFF"……パスワードが何桁あっても、メモ用紙に書いていたら何の意味もないだろうに」

警備室のデスクの引き出しからカードキーと共に出てきたその走り書きは、明らかにそうして保管されるべきものではなかった。もはやここに居る理由もない僕は、来た道を戻って開かなかった扉に向かう。

巨大金庫を彷彿とさせるその重厚な扉を、急ごしらえのパスで呆気なく解錠する。両手でノブを掴んで何とか扉を開き、冷たい空気が流れ込んでくるその扉の向こうへと体を滑り込ませた。無人の廊下は白く無機質に照らし出されている。そのエリアの名前は"レベル5収容区画"だが、その実情はただ一つのオブジェクトが収容されているばかりの空室だらけの区画だった。"巻き込み事故"を防ぐべく対ミーム処置を何重にも掛けてきた今日の視界でそう判断したのだから、間違いはまずないだろう。そして、その唯一機能している収容室が、今僕の目の前にある。

「──この部屋だ」

一般的な収容室ならばナンバーと簡易プロトコルが表示されているであろう部屋前の液晶モニタには赤文字で[NO INFORMATION]と表示されているばかりだ。もはや気後れしている猶予はない、次の追っ手がここへたどり着く前にとハッチを解錠し、中に踏み入る。

扉の向こうは標準の収容室よりずっと広い空間、手前半分と向こう半分が透明な壁で隔絶されている。その隔壁の向こうには……

「これは……今も稼働してるのか?」

全高3mほどの漆黒の彫像、或いは生物の成れの果て。全身が焼け爛れ、膝を折って項垂れる妊婦……僕にはそう見える。それの腹部はこちらを招き入れるかのように大きく引き裂かれ、その腹の中のベンタブラックが何物をも飲み込まんとしているかのようだ。側頭部には余りにも古典的な山羊の角、顔があるべき場所にはぽっかりと穴が開き、そこから何かが流れ落ちてくるのを想定したように両手で受け皿が作られている。

その奇怪さは確かに注目すべき代物だが、しかし僕にここが目的地たるべき場所だと確信させたのはその巨像ではない。

「多分、この辺りに……あった、これだ」

一旦隔壁の向こうから注目を左右に向けると、左の壁に埋め込まれた制御盤を見つけた。そのモニターに従って命令を指示すると、右の壁がゆっくりと上昇し、その向こうに秘匿されていた"収容物"が顕わとなる。報告書風に言うなら、SCP-XXXX-JP-Aとでも言おうか。

「数は……数えるだけ無駄か」

収容室もうひとつぶんの広さがあるその空間に、棚が等間隔に並んでいる。その棚に円柱形の透明な保蔵容器がずらりと収められており、その中には……すっかり見慣れてしまった黒い粘液の中に赤い核が浮かんでいた。それぞれバーコード一枚で管理された人格たちは今も僕を覗き込んでいるのだろうか。

「ここにあるのが142基、別室で保管されている調教済みの個体が63基。君たちが殺した数もお教えした方がいいかな?」
「!?」

収容室の入口の方から聞こえてきたあの男の声。姿はさっきまで無かったはず……いや、今も視界には映っていない。だが肉眼では確かにそこに立っている白いスーツ姿が見える。

「聞いたよ、君たちは私の事をザインと呼んでいるらしいね。随分手厳しい皮肉じゃないか」
「……」
「まあ待て。その弾は私に通らないし、あの塔で私を撃った弾も効かない……やれやれ、少しは信用してもらいたいものだね」

ザインの言葉を無視して放った弾は彼の肉体を貫いたが、傷は瞬く間に塞がっていく。橘やエステルのような再生能力に特化した躰のようだ、ショットガンを試してもいいがゲルの容器を破壊するのは避けたい。

「私はまだ、君に魅力を感じているんだよ。出来る事なら君の意思で仲間になって欲しいし、ここが君を生かせる最後のチャンスでもある」
「いい加減しつこいな、誰が好き好んで無差別な殺戮に加担するんだ」
「無差別?とんでもない」

ゆっくりと後退りしていく僕を、ザインは止めることなく入口に立ち塞がるばかりだ。

「私たちにはれっきとした目的がある。その本質は我々の生存と安寧にあるんだ、それは君たちも同じだろう?」

"目的"の内容を語ることなく、抽象的な論説で煙に巻こうとしている。その手には乗ってやるものか。

「僕たちは助けを必要とする人たちの為に戦っている。今も、お前たちがこれ以上別世界の人たちを脅かすことがあってはならないから戦ってるんだ」
「実に崇高な理想だ、だが君は本当にその崇高な戦いに相応しい人間かな?」
「確かに僕には罪がある、二度と償うことはできないだろう。でも、それが正しくあってはならない理由にはならない」
「よくもまあそんなにすらすらと語れるものだね。まるで常に自分に言い聞かせているかのようだ」
「……尋問室であんな有様だった男とは思えない口ぶりだな」
「図星かい?悪いね、あの分霊とは記憶が同期できていないんだ。しかし驚いた、正義のヒーロー様は脅迫で人を黙らせようとするものなのか」
「単に僕は、お前がそんなに強くない奴だって知ってるだけさ」
「なるほど、つまり私はナメられていると……ははぁ」

僕が隠し部屋の突き当りまで引き下がった、その時。ザインは不意に身を屈めたかと思えば瞬く間に僕の前へ迫っていた。

「速っ──あぐっ、この……」
「いやはや、確かに私はまだこうした手段で君たちと交渉したことはなかったね。あの機械の体は、交渉の一環とは言い難かっただろうし」

ザインに首を掴まれ、そのまま壁に叩きつけられる。背中に収めていた斧がゴリッと体にめり込んだ鈍痛が呼吸困難と同時に襲い掛かった。

「君は強い。私は強い人間が好きだ、だから君のことが好きだ。だが君の強さは、肉体にはない。どうせなら君の人間としての全てを肯定してやりたいが……君にその気がないのなら、最後の手段に出なければならない」

ザインは僕の首を持ったまま運んでいき、隠し部屋を出て、隔壁を開ける。そうして僕を妊婦の巨像の目の前──正確には、腹の穴がすぐ背中に迫るように持って行って手を止めた。

「これが最後だ。君の意思で、私たちの仲間になってくれ。そうでなければ、今ここで君という人間は終わる。人格が抽出され、私たちにとって都合のいいように調教され、寄生体として誰かの肉体に植え付けられるだろう」

どうやら、この男は最初からこの"最終手段"を突きつけるつもりで僕を泳がせていたらしい。だが掌の上だったことを嘆いている場合でもなければ、憤るべき場面でもない。

「……もしお前が、僕がこの命を惜しむと思っているのならとんだ見当違いだ。僕には罪がある。償うことは出来ないが、報いを受けることはできる。それが今だったというだけだ」
「君を失って、君の仲間たちはどうなる?」
「どのみち、お前に従っても二度と会えないんだろう。なら死んだ方がマシだし、Q9ALTは僕が居なくたって問題はない。指揮だって、空鳥さんがやればいい」
「ああ、彼女。どうやら失踪したらしい」
「……」
「私だって驚いているんだ、私が仕向けたわけじゃあないんだからな。しかしこの局面で居なくなれるとは、また随分な人間を信頼してしまったね?」
「空鳥さん……」
「そしてもう一人。君たちの本丸とも言うべき伊勢山管理官は死んだよ。こっちは私たちが……というよりは、向こうの世界の大上管理官が計画したことだけどね」
「……大上は、なぜ伊勢山さんを?」
「"彼にとって伊勢山という男は不都合な政策ばかりを推し進める邪魔者だったから"、と言ったところかな。もっとも、彼が私に語った言葉を着飾らないで要約するなら"伊勢山のことが大層気に食わないから"になるだろうが。さらに簡潔に言うなら彼は伊勢山が大嫌いという事だ」
「そう、ですか」
「調べた限りじゃ今の君たちは彼の存在ありきで存続しているようだし、この先彼らは生き残ったとて苦労するだろうね。そんな泥船は捨てたほうがマシじゃあないかい?」
「……」

ザインを睨みつけたまま、首をただ横に振る。

「うーん、強情だ。そんな君に、特大のバッドニュースをお送りしよう」
「これより酷いニュース?はは、作戦チームの全滅ぐらいしか浮かばないな」
「君たちは、捕らえて尋問した私の分霊をどうした?」
「サイトから隔離した」
「そう、隔離しただけ。殺してもいなければ、彼の体を解剖してその中に仕組んだサプライズにも気付かなかったんだろう?」
「……」
「そして、君も不思議に思ったはずだ。"いくら何でも、このサイトには人手が少なすぎる……どうしてここまで本拠点が手薄なのだろう"と……その疑問を、そっくりそのままお返しさせてもらおう。どうして君たちは、Q9ALTが襲撃されないつもりで全ての戦闘員をこちらへ送り込んだんだ?」
「……!」
「今更驚いたってもう遅いさ。このサイトの機動部隊は私の分霊に仕込んだ即席ゲートを経由してQ9ALTへと侵攻している。じきに私のもとへ制圧完了の連絡が来るだろうね。君たちが今この世界に寄越した以外の戦力を持っていないのはとうに調査済み、我々の平平凡凡な機動部隊でも十二分に蹂躙できるだろうよ」
「……」
「黙ってばかりいないで何とか言いたまえよ、そうじゃなきゃ私が愉しくない」
「…………お前らの」
「小さい声ですね、もっとはっきり言ったらどうですか」

痛みが麻痺してきた喉から、震えてやまない声を絞り出す。

「お前らの、目的はなんだ」
「それはつまり、生存と安寧という回答では満足いただけていないと。いいでしょう。君のその態度を見ていたら話してあげる気になりました」

ザインは僕の首から手を放す。もはやそうするまでもないと見做されたようだ。

「鳥飼君。君は、"核の抑止力"と呼ばれるものを信じていますか?」
「……」

少し悩んで、消極的に首を横に振った。

「だろう?私もそう思うさ。誰もがルールを破り得る状況が健全なわけがない。だがもはや技術が広まってしまったものを元に戻すことはできない。全員が仲良く手放すなんてことは出来ないんだよ。そしてこれは、他の技術にも言える……そう、世界と世界を繋ぎ、渡航する技術にもね」
「……」
「もうお分かりだね?私たちの目的は世界間渡航技術の完全な抹消だよ。それを成し遂げるために我々だけがその技術の全てを手に入れ、封印する。すべての世界からこの技術を消して回らなければならない、広く知られていない今のうちに、ね。技術はウイルスだ、瞬く間に拡散され、二度と無かったことにはできなくなる。だから、我々の活動の脅威足り得る君たちの事は決して許容できなかったし、君たちに正義があるなんて到底認めるわけにはいかなかったんだ」
「それが、この世界の財団の意志か?」
「いいや、他ならぬ私の意志だよ。だがこの事件で君たちという凶悪な侵略者を打ち倒せば、私の意志はきっと理解されることだろう。世界を股に掛ける技術などあってはならないのだと、それらすべてをどんな犠牲を払ってでも打ち毀すべきだと、必ずこの世界は認めてくれる!」
「…………なるほど、すべて、理解した」

"理解した"、その言葉を随分と好意的に捉えたようで、ぱあっとザインの顔が明るくなった。悦に入ったように口調が歪み、首を掴んでいるとは到底思えない慈悲に満ち満ちた面持ちを向ける。

「ああ、よかった。ご理解いただけたなら何よりです。私は信じていました、君の正義はこうして活かされるべきだと!こほん……それでは改めまして、私の名前はアントン・ヴォルフ。ここ、AA-2501のサイト-8170管理官です。一人の平和を愛する者として、改めて君に問いましょう。私と共に、この世界の安寧を齎してはくれないか?」

ザイン、もといヴォルフは、思い出したように首から手を放し、膝をついた僕に恭しく俺に右手を差し出した。もはや選択肢はないと言わんばかりに。

だから、僕は応えるように立ち上がって、手を伸ばし……

……思いっきり、頬を引っぱたいてやった。

「……はい?」
「ぷっ……ふふ、あはは、はっはっはっはっ……!ああ、おっかしい、ほんとに、本っ当に馬鹿だよアンタ!」

ああ、ずっと苦しかった。震えて仕方が無かった、笑いを堪えるのに。ヴォルフは何が起こったかわからないといった様子でポカンと差し出した手を眺めている。だから僕は存分に腹を抱えて笑ってやった。

と、ちょうどそこへ無線機に着信が入った。これは恐らく……

『しゃらぁっ、繋がった!ジャック成功です!全部の無線を完全に乗っ取りましたよ!あとは鳥飼君がこれに応答できれば……』
「僕なら無事ですよ。お疲れ様です、服部さん」
『鳥飼さん!ああ、よかったです……ケガはありませんか?』
「ちょっと体を打ったぐらいです、平気平気。今は西棟五階の最西端の収容室に居ます」
『了解です、その情報で座標を特定してみますね!』
「熊澤さん達は?」
『皆さんご無事です!中央棟と東棟の制圧は完了しています!黒山さんも……もうちょっと時間はかかりそうですけど、本人曰く余裕はありそうです!』
「ならオーケーです。まあ視えてましたけどね?」
「何をのうのうと喋っているんだ?お前ら……どういうことだ、蟲はどうした?マーシャルは?」

困惑して何も行動を起こせないヴォルフをまるっきり無視して僕は通話を続けていく。

『伝えたいことは色々あるんですけど……とりあえず、Q9ALTと連絡が繋げられるんでそっちに繋ぎますね』
「ああ、それは丁度いいです。よろしくお願いします」
「Q9ALTと繋ぐ?向こうはそんな暢気なことを言ってられる状況じゃあないはずだろう」
『鳥飼さんですね!こちら臨時部隊BB-3111"牙狩り"、北東区画の襲撃を鎮圧完了しました!』
「ありがとうございます、引き続き警戒をお願いします!」
「……は?」
『同じく臨時部隊BA-2976"カブのジャック"、エリア-JP東部の襲撃の鎮圧を達成!』
「誰だ、お前らは」
『臨時部隊AC-4092"アグンの矛"、ゲート出現地点の敗残兵を処理した』
『臨時部隊AA-5306"ザ・ヤード"、南東区画の迷彩部隊を捕獲。南方に逃走した残党を追う』

次々とチャンネルが切り替わり、端的な報告が繰り返されていく。未だ理解が及んでいない様子のヴォルフに説明してやるとしよう。

「敢えて、人の言葉を借りるなら。お前たちのやり方は天道に反した、それが敗因だろうね」
「きちんと説明しろ!」

胸倉を掴み僕をぎりりと手繰り寄せるヴォルフ。その目は血走り、彼にとって良からぬことが起きている事実を漸く認識し始めていた。

「僕は、消耗戦に備えてこれまで関わってきた他の世界の皆さんに兵器の製造もお願いした。そう、兵器の製造、だ。兵器の製造はあくまでもカムフラージュ、本命は……世界間渡航装置の製造だよ」
「……まさか、お前」

漸く全てを察した様子のヴォルフ、手は脱力しており、容易に解いてしまえた。

「ああ、もう広めちゃいました、渡航技術。彼らに渡航装置を作ってもらい、どうせ来るであろう襲撃からQ9ALTを守ってもらうためにね」
「ふざけるな、どうして、どうしてそんなことができる?」
「天道、ないしは人道だよ。助けたお礼に助けてもらったというシンプルな話だ。お前には理解できないだろうけどな」
「そんなことを言ってるんじゃあない!お前は核爆弾よりずっと恐ろしいものを数多の世界にばら撒いたんだ!どうしてそんな平気な顔ができる?」
「彼らもまた、正しい道に従ってくれると信じているからだよ。それに、もしあの技術で悪さをする奴らが現れたら……それこそ、Q9ALT僕たちがそれを止めて見せる。それが使命だからね。……ああでも、僕たちって表現は正確じゃないか……どうせ、僕は生きて帰しちゃくれないだろうし」
「当然だ!お前、お前程度の人間が、犯していい罪じゃあないんだよこれは!お前、お前のせいで……」

必死の形相で僕を弾劾するヴォルフ、その気になれば今すぐにでも僕の首を握り潰してやれるだろうに、怒りにわなわなと震えるばかりで一向に実行に移す気配がない。

「なら裁くといい。ただ……そうだ、忘れてた。もう一つだけ勝ち誇っておかなきゃ」
『そうだね、ぜひとも私のこともアピールしてほしいな』

すっかり放置していた無線機から、よく聞き覚えのある声がしてきた。

「空鳥さん!やっぱり貴方は耳敏いですね」
「あの、女……今まで、一体どこに」
『私は今、2101の8170管理官室に居るんだ。ね?大上さん』
『離せ!何の権限があって、こんな事を──』
『何ってそりゃあ、容疑者を取り押さえるよう指示を貰ったからだよ』
『指示だと?いったい誰に……』
『私だよ、大上。正式な手順を踏んで証拠を揃え、君を重要参考人として強制召喚する許可を得たんだ』
『……伊勢山!?なぜ君が……』
『保険を掛けたまでだ。君がQ9ALTの作戦行動に乗じて私を排除しにかかるのを見越し、空鳥君に偽装を行ってもらったんだよ』

つまり空鳥はリスク隔離原則を破って秘密裏にAA-2101に向かっていたということになる。道理で微妙に違和感のある理由でQ9ALTに残ると言い出したわけだ。正直、会議の段階では何らかの良からぬ企みを疑っていたが……伊勢山管理官が襲撃されたという話を聞いて彼女を信じてもいい確信が持てた。

「よかった、概ね僕の読み通りでしたよ」
『ホント?嬉しくなっちゃうな。もう秘密の作戦会議すら必要ないね』
「ええ、必要はなくなるでしょうね……とまあ、こんな具合に。ああそうだ、しっかり宣言しときますね」

言葉を失ったヴォルフを前に、悠然とタイを締め直し、襟を正す。一頻り充血したヴォルフの眼の下には深々と隈ができて10歳は老けたように見える。

「僕たちの勝ちです、完全勝利だ」

Quest

数秒、無線機から混ざるわずかなノイズだけが空間を掌握した。ヴォルフはうつむきがちに唇を震えさせ、触れたら爆ぜてしまいそうな有様だ。僕の背後の巨像から漂う微かな血肉の匂いを漸く感じ取れた程に緩慢な数秒が過ぎたのち、ヴォルフは震える手で拳銃を取りだした。

「お前が犯した罪は、もはやお前の命で取り返せるものではない。だが──」

僕はそのまま撃ち殺されるものだとばかり思っていたが、ヴォルフはふらふらと2,3歩遠ざかってから拳銃をこちらへ向けた。

「──お前を、最大限の苦痛を以て殺さなければ私の気が済まないのだよ」

銃声。それに続く脇腹の鋭利な痛み。防弾繊維では抑えきれないそれがめり込んで、僕に生殺しな苦痛を与える。悲鳴を絞り出すことすら苦しかったが、それでも叫ばずにはいられず、喉の奥から掠れた悲鳴が漏れ出た。ああ、銃弾の痛みとはこういうものなんだな。橘や熊澤が撃たれるところを何度も見てきたが、彼らは毎回この苦痛に耐えているのだろうか。ますます頭が上がらない。

「そう、か……まあ、それもいいのかもしれない」
「下を向くな、顔を見せろ、苦痛を見せろ」

脇腹を押さえ背を丸め、乾いた笑い声が漏れ出る。そんな僕の顔を上げさせるように、今度は右肩に弾丸が撃ち込まれた。脇腹ほどの痛みはないが、それでも十分に耐えがたいものだった。"これでいい"と自分に言い聞かせ、必死の思いで口角を上げる。

「僕の罪は、償えない。だから一生人を救って生きていくべきだと、そう決めた。でも、死ぬ他ないというなら……受け入れるのがきっと誠実な在り方だ。意地汚く足掻いたら、申し訳が立たない……そう思わないか?」
「そんな話が聞きたいんじゃあない。懺悔しろ、この世界に、この私に!」

左の太腿。今度は仕込まれたプレートが弾丸を弾いてしまった。ヴォルフの手許は怒りに震え、狙いが定まらなくなりつつある。この様子では、そのうち頭に当たってもおかしくはないだろう。胸を張れ、声を出せ、勝ち誇れ。今はそうするべきだ。

「お前らという大きな脅威を取り除いて、僕も死ぬ。自己犠牲なんて崇高なものでは決してないけれど、いい塩梅じゃあないですか?」
「どうしてそんなに笑っていられる?なぜ苦しまない?苦しめよ!なあ!」

右足。貫通することはなかった、だが足の甲の骨が砕けたのを痛烈に感じる。落とした卵から流れ出るような、後から広がる鈍い痛みだ。

全ての言葉は強がりだった。当然だ、死ぬのは怖い。だがそれ以上に、罪も犠牲も忘れて藻掻く姿だけは見せたくなかった。

「苦しんでいたら、贖罪みたいだろ。僕は救われちゃダメなんだよ、絶対に」

言葉は麻薬だ。言い聞かせるうち、僕は僕の死を受け入れつつあった。

死んでも罪は償えないし、去っていった人達は帰ってこない。でも、僕から会いに行けるなら、そう悪いものでも──

『──ごめんね、それは違うよ。亙君』

すっかり黙りこくっていた無線機の向こうから、唐突に空鳥の声が割り込んできた。

『ああよかった、今度は言えた。待たせてごめんね、ようやく準備ができたみたい。今まで耐えてくれて何よりだよ……今、繋ぎ変えてもらうね』
「なんの話を、して……」

ヴォルフは割り込んできた空鳥の声を待つ気はないようで、今度は無言で左腕を貫いた。そこで初めて、僕の体から血が流れだす。

『聞こえますか、亙さん!CC-3001の春田です!』
「春田さん!?」
『いま、服部さんの方から鳥飼さんの座標を送ってもらいました!救援部隊を送り込みます!』
「救援?ダメです、ここは危険だ!何が収容されてるかわかったもんじゃないんです!」
『危ないですから、その場から動かないでくださいよ!』
「話を聞いてください!春田さん!」
『……絶対に、死なせませんから』

僕の説得もむなしく、無線は切られてしまった。そして間もなく、部屋の温度が急激に上昇するのを感じる。

「援軍か、いいだろう。纏めて始末してやる。お前は最後だ、十分に無力感を──」

ヴォルフの声は途絶えた。姿も消える。いや、正確には摺り潰されたというべきか。天井を突き破って落ちてきたその鉄の塊は、僕のよく知る渡航装置に他ならなかった。天井を貫く際に大きく損傷しているが、それでも外見からそれがCC-3001で製造していたものと同型であることはわかった。下敷きになったヴォルフの青紫色の血が床と機械の間から滲み出ている。余りにも豪快な着地に、ほんの少し呆然としてしまった。そしてハッとしたように身構えるも、ヴォルフがそこから這い出て襲い掛かってくるようなことは無かった。今潰されたアレがヴォルフの本体だとは断言しかねるが、ひとまず無力化したものとみなしていいだろう。

「どうして……どうして助けに来たんですか!そいつを殺したからって脅威がなくなるわけじゃあないんですよ!」

まだ装置から出てくる前の救援部隊に対し、僕は彼らが降りてくるのが待てずに声を荒らげる。幾つかの接合部から煙をたなびかせているその装置のハッチが高圧空気を吹き出しながら開く。

「それは、お前が俺たちの指揮官だからだ」
「おっ、ちょっとは背ぇ伸びたんじゃないです?鳥飼クン」
「え……」

聞いたことがある声、久しく聞いていなかった声、何度も夢に出てきた声。二度と、聞くことが無いと思っていた声。

「なんで……ど、どうして……」

力なく首を横に振るしか出来ない。後退りしようとするのは巨像に阻まれた。ハッチが完全に開き、中から彼らが降りてきた。

「機動部隊て-11"ヒペリカム"隊長、柿鶴。及び──」
「──機動部隊て-12"オオデマリ"隊長の 雲雀田、救援に馳せ参じましたっと!久しぶりだね、鳥飼クン!」

嘘だ、ここに居るはずがない。彼らは死んだんだ、あの日、あの森で。それを、ようやく僕の中で受け止めたばかりじゃないか。

「あの日、俺たちは作戦行動中の森で失踪した。だがそれは単に消えて無くなったという訳ではなくてな」
「3001でしたっけ?オレたちはあの世界に流れ着いたんだよ。それから現地の人間と合流して何とか今日まで生きてきたってワケ」
「あの春田という男が管理する区画に巡り合ったのはつい先日のことだ。話を交わすうち、どうやら彼と俺たちとで共通の人間を知っていることに気付いた。鳥飼、お前のことだ」
「それで、君がまさに今頑張ってると聞いたから駆けつけてみれば……"どうして助けに来た"だなんてとんだご挨拶だったね?鳥飼クン」

力なく首を横に振るのが止められない。脳が二人の存在を否定したがっている。違う、僕はもう、救われるべきなんかじゃ──

『鳥飼亙。』

無線機から声がする。伊勢山の声だ。

『君は世界を飛び回り、く人を助けた。AA-5306、BA-2976、AC-4092、BB-3111、CC-3001……だがそれは、別の世界の人々に限った話ではない。エリア-JPの人々のことも守り抜いたし、過去とケジメを成し遂げた熊澤や、己の本心と向き合うに至った黒山……君は、多くの人間を分け隔てなく救ってきた。……そろそろ、君自身を救い出すときなんじゃあないかい?』
「でも、僕は……」

僕が言葉を返そうとすると、今度は空鳥がそれを遮った。

『私は前に、君のことを救われたがりだって言ったけど。でもそれは、あの場で救われるべきじゃないって話がしたかっただけなんだよ。もう、君は十分に報われるべき人間さ。あとは、自分自身を赦せる勇気を持つだけなんだよ』
「でも!柿鶴さん達が生きていたのは全くの偶然だ!本当に死んでいたかもしれないんですよ!それなのに、どうして救われていいだなんて言えるんですか」
『あのねぇ、その本人が目の前にいるのに罪もへったくれも──』
『まあ待て、空鳥君。やれやれ、どうやら君は罪に囚われて随分と論理的じゃあ無くなっているようだね。ならば私も論理なんてすっ飛ばして話そうじゃないか…………いいか?君は、天道に従ったんだ。わかるかい?君が善く生きたから、好い結果を手に入れることができたんだよ。どうだ、ここはひとつ、そういうことで納得してはくれないか?』

無線機の向こうの言葉は、まるっきり真面目な口調で届けられた。詭弁をふるったつもりなど微塵とないのだろう。

「ひどい論説ですね…………あの、柿鶴さん」
「おう、なんだ?」

僕と無線機のやり取りを静かに見守っていた柿鶴は、やたらと明朗な返事を返した。

「ほかの皆さんは、どうなったんですか……?」
「一人だって欠かしちゃいないとも。皆、向こうの世界でお前の帰りを待ってる」
「……そう、ですか」

奥歯がカチカチと小さく震えている。悴んだ指先で、胸元から手記を取り出し、ぺらぺらと頁を捲っていく。

「僕は、正直、まだ、救われるべきか、よくわかりません…………でも」

そうして、栞代わりに挟んでいた一枚の写真を取り出した。そこには25人の人間が映っており……そのうちの一人、真ん中で雲雀田に絡まれているのが僕だった。

「僕は……許されるなら、もう一度。彼らに、会いたいです…………柿鶴さん」
「おう」
「雲雀田さん」
「はいはい?」
「……お願いします。もう一度だけ、僕と……一緒に、戦ってくれませんか」

足に力が入らない、言葉もちゃんと形を成したかわからない。彼らの顔が滲んでよく見えない。手元が狂って手記にくしゃりと折れ跡をつけてしまった。そんな僕を見た柿鶴が、フンと鼻で笑うのが聞こえた。

「当然だろう、いつまで待たせるつもりだ」
「まあまあ、一度だけなんてサミシイこと言うなよ。ささ、指示をどうぞ?コマンダー」

それぞれが僕の腕を掴み、持ち上げて僕を立ち上がらせる。

うまく頭を上げられず、下を向いたままぼたぼたと革靴に染みを作っていく。

「ありがとう、ございます……」
「そういうのは後だ、そんな眼じゃ俺たちを導けないだろ、早く拭ったらどうだ」
「相変わらず柿ちゃんはせっかちだなぁ、そう急がなくたって…………あいや、焦らないとまずそうだね」

収容室に、けたたましいアラームが鳴り響く。ヴォルフが何かをしでかしたのか、或いは装置の着地が拙かったか。とにもかくにも早急に立ち去る必要があるらしい。

促されるまま目元を拭うと、僕の革靴と、それから二人のアーミーブーツが視界に入る。

ボロボロの靴だけど、どうやら皆お揃いらしい。

だから心配いらない、そろそろ顔を上げる時だ。

「こちらQ9ALT、コマンダー。只今より、サイト-8170脱出作戦を開始します!」

──もう一度、歩き出す為に。

[西棟 3F]

赤いランプ、鳴りやまぬ警報音。どんどん先へ行く二人の背中になんとか食らいついて走り抜けていく。収容室の廊下であることに変わりはないが、それらの扉はすべて開け放たれている。そうなって尚扉の中で大人しくしてくれるオブジェクトばかりな筈もなく、そこらじゅうを未知の存在が闊歩していた。これまでは何とか僕の能力で接敵を極力避け、戦闘を最小限に留め得てきた。だがこれより下の階へ向かうのは、針の穴に糸を通すより難しいと見える。

「止まって、この先に脱走オブジェクトが複数確認できます!引き返してC-3廊下から進みましょう」
「ったく、ふたつ階を降りただけだってのに百鬼夜行がすぎるぞ」
「それより足は大丈夫なの?痛めてるみたいだけど……よければ背負おうか?」

やはり雲雀田は目敏い。僕が隠しているつもりでもすっかり見抜いていたようだ。だが……

「いえ、問題ありません……僕の足で、歩かせてください」
「そっか、なら頑張りな!」
「頑張るのは構わんが、こうして同じ階をぐるぐる回っていても一向にたどり着けはしないぞ」

柿鶴がそう苦言を呈した直後にもC-3廊下に5本足の異形がぬらりと現れ、行く手を阻んでしまった。この繰り返しで、あと少しのところで階下に降りられない。危険を冒してでも正面突破せざるを得ないのだろうか?

「ダメです、この道にも脱走個体が……いやそれだけじゃない!何かが、超スピードでこちらへ突っ込んで……」

ガキンッ、力強い金属音が廊下を反響する。その直後──たった今向かうのを諦めたC-3廊下から、異形とは別の何かが滑り込んできた。ズササッと灰埃を立てながら止まったその姿は……

「黒山さん!」
「お待たせしました、間に合ったみたいですね!」

彼が通り過ぎた廊下には体を腰から上下真っ二つに分断された異形が崩れ落ちているのが視えた。どうやらこうやってここまで登ってきたらしい。

「さてさてお三方、下に降りるつもりかい?悪いけどおすすめできないかな。西棟1階はシャッターが下りてて完全封鎖、ぶった切るには骨が折れる。なにより脱走しようと階を降りたアノマリーたちがうじゃうじゃだ」
「でも、それじゃあどうすれば……」

そこまで話し合ったタイミングで黒山の無線に着信が入る。熊澤からだった。

『よしお前ら、合流したな?』
「熊澤さん!はい、合流できてます!」
『ならよし。鳥飼、その廊下に窓はあるか?』
「えっと、ありませんね……」
『じゃあ外壁に接するポイントはあるか?』
「それなら丁度ここの壁の向こうは建物の外ですけど……」
『そうかそうか……そして、そこは3階だ』
「……」

僕が言葉を失っていると、黒山は勝手に壁と向かい合い……一刀を以て壁に風穴を作り出した。外から吹雪が流れ込んでくる。

『頼めるか?』
「む、無茶言わないでくださいよ……」
『なあに、心配するな。外は豪雪、積雪は1m超え。どんな下手な飛び方をしたってクッションになってくれる。お前なら出来ると信じてるぜ』
「そう言われたら、仕方ない……ですね」

他の3人はとっくに覚悟が決まっているのか、僕を置いてゴーグルや防寒具を着込んで準備している。

そうこうする内に概ね人型に見えなくもないオブジェクトが廊下の反対の端からやって来て、僕らを見つけるや否やダバダバと走ってきた。もはや悩んでいる時間も、選択肢もない。

下を覗き込み、後悔する。

それを紛らわすように、数歩引き下がる。

ふいに怪鳥の手から逃れた時のことを思い出し、ほんの少しの勇気が湧いてくる。

引き下がった分を助走に費やし……4人は同時に冬空へと飛び出した。

顛末

[2022/1/2 19:48 某居酒屋]

「「「「乾杯!」」」」

鍔迫り合う40……いや、50だったかな、とにかく沢山のジョッキ。派手に波立たせた泡が彼らの手に掛かる。座敷席を四つ繋げた半個室の真ん中で、僕は勢いよく麦酒を呷った。

「あっ、お前!酒はまだ駄目だって医者に言われてただろ!」
「いいじゃないですか、今日ぐらい!それに、足のケガでどうして酒を取り上げられなきゃならないんですか!」

僕の頭を押さえて酒を取り上げようとする熊澤に僕はなけなしの抵抗をする。それから直ぐに手術跡が疼いてしまい、小さなうめき声と共にジョッキを明け渡さざるを得なくなった。

「全く、そもそも亙君はそんなに強くないんだし……晴れて退院したことだし、明日は溜まりに溜まった諸々の報告に奔走して貰うんだから宿酔なんて言語道断だよ」
「報告……正直、僕が知ってる事よりお上の間で融通されてる情報の方が多そうなんですけど」

僕たちが西棟の3階から飛び降りたのとほぼ同時刻、僕たちの"犯行事後報告"を受けて駆け付けていた別サイトの機動部隊がようやく到着し、西棟へと突入していった。それと同時に襲撃犯たる僕たちは彼らに身柄を拘束される羽目になったが──そこは伊勢山の手腕で正確に経緯を理解してもらい、即日解放および追放の運びとなった。再収容作業も何とか無事完了したらしい……一部、不明な原因で無力化されていた幾つかの個体を除いて。

熊澤を襲った白い刺客を量産する技術や、僕が目にした黒いゲルを作り出す巨像とそれに何らかの形で手を加える技術、それから渡航装置に関わる技術は全てAA-2501の財団に回収されてしまった。

それから行方知れずとなっていたヴォルフだが、AA-2501の財団内部保安部門のエリート諸兄の尽力があって、無事に"本人"が拘束された。今後どのような処遇になるかは向こうの世界次第であり、もはや今の僕たちが干渉できるような話でもないが……私情を挟むなら、是非とも"然るべき処遇"が用意されてほしいものだ。

「でも、文字通り君には多くのものが視えてた訳だから。そんな言い分は通用しないだろうね」
「それは……そうなんですけどね」
「なんだなんだ、オレたち以外とも上手くやれてたんじゃないのぉ。酒も飲めるようになっちゃって……」
「保護者ですか貴方は……」

雲雀田は僕に気を遣って注文してあった烏龍茶を自分で一気に飲み干しながら、誰目線だかわからない感想をしみじみと呟いた。柿鶴は柿鶴で志鷹をはじめとするオッサン連中と随分打ち解けているようだ、カタブツの癖してこういうところは妙に器用だ。

オオデマリとヒペリカムの2部隊はとりあえずQ9ALTに残留している。今後の処遇は追々決定することになるそうだ。今回の件でQ9ALTの施設防衛強化が議題に上がっているのをみるに、もしかしたらこれからもここに留まり続ける事になるかもしれない。

「どうした?鳥飼。俺の顔に何かついているか?」
「ああいや、ちょっと、思い出してて」
「思い出す?それまた何を」

さぞかし愉快そうにジョッキを傾ける柿鶴をまじまじと眺めていたら、本人に気付かれてしまった。

「とある飲み会の事です、長井さんが亡くなった時の」
「ああ……長井の」
「あの時、柿鶴さんは故人に献杯するんじゃなくて、別れを覚悟し受け入れられた自分に乾杯しろと、そう言ってました」
「あー……言ってたかもな」

この人、さては酔っ払って適当を言ったな?と思わなくもないが、ややこしくなるので話を続けることにした。

「別れを覚悟する事も確かに大切かもしれないですけど、でも、今ならこうも思います。別れを必ず起こりうるものだと悟るのが、きっと間違いなんです。"避け得ぬ別れなんて存在しない"と、全ての可能性を手繰り寄せて、別れなんてものを決して寄せ付けない覚悟こそ、きっと、持つべき覚悟なんです」
「……」
「えっと、柿鶴さん?何か言ってくれないと、こっぱずかしいんですが……」
「ああ、いや、悪い。随分言うようになったなって思ってな」
「すいません、忘れてください……」

たかだか一口しか飲んでいないのに赤面してしまった僕は、ごまかす様にフレンチフライを貪った。

「いやいや、忘れないさ……忘れないから、その覚悟を持ったまま戦い続けろ。生きてる間は見張っといてやる」
「お?なになに柿ちゃん、また有難~い講釈垂れ……ぐへぇっ」
「……はい、きっと失望させません」
「うむ、いい返事だ。それじゃあお前の覚悟に乾杯!」
「乾杯っ!」

そこらで伸びている雲雀田のジョッキを拝借して、今一度力強くジョッキを叩き鳴らした。

[2022/1/4 10:00 AA-2101, サイト-8165管理官室]

三ヶ日でさえろくに正月気分を味わえないこの組織において、1月4日というのは一切のイベント性を持たない平平凡凡な一日に過ぎなかった。時勢柄換気を強いられ極寒と言う他ない他の部屋や廊下とは違い、空清に守られたこの部屋は古めかしい暖炉のご尽力で眠くなるほど暖かく、雲一つない快晴を春の陽気と見紛ってしまいそうだ。

「まずは、ご苦労様だったね」
「ありがとうございます、でも管理官の助けもあってこそです」

伊勢山の開口一番は労いの言葉だった。それを当たり障りのない謙遜で返す。

「相変わらずだな、君は。しかし同時によく成長したともいえるよ」
「どっちなんですか……」
「どちらも、さ。筋を通すべきところを強く持っているし、弱さを克服しつつもあるということだ」
「はあ……」

いつも通り伊勢山の言葉はまどろっこしく、それが重要な話ではないという事しか伝わってこない。

「まあいい、さっそく本題に入ろう。君は今、自分がデータベース上でどういった扱いを受けているか知っているかい?」
「あー……ええと。"簡易更新"の"退職済み"、でしたよね」
「そうだ。まあつまり、正式にQ9ALTに配属されたことにはなっていないんだ」
「えっと、それは、僕が配属の条件を何か満たしていない、とか……?」

人事ファイルを開いて不思議に思ったことは何度かあったが、どうやら更新が漏れているとかではなく意図的にああいった標記になっていたようだ。

「いや、まあ、いろいろあったというだけだ、気にしないでくれ。今一番大切なのは、君がとったことになっていた"インシデントの責任"が、精鋭24人の生還によりインシデントごと帳消しになったという事だ」
「えーっと、つまり……?」
「君はね、もうQ9ALTに居る必要はないのだよ。今まで通り、サイト-8165の指揮官として働けばいい。君にはその資格……いや、使命と言っておこうかな、使命があるんだ」

なるほど。端的に言えば"戻ってこい"という事か。確かに、このままQ9ALTに正規配属されれば僕は二度とこの世界に──本当は今も居てはいけないのだが──戻っては来れないのだろう。伊勢山にも大いに世話になっている手前、"はい喜んで"がベストアンサーなんだろう。しかし──

「申し訳ありません、伊勢山管理官。そのお話、お断りさせては頂けませんか」

伊勢山は、何らかの書類にサインする気満々で居たペンをポロリと取りこぼす。

「こほん、聞き間違い……ではないのだろうね。あー、理由を、聞いてもいいかな」
「理由は幾つかあります。まずひとつ、今回、僕は僕の意向で様々な世界に世界間渡航装置の技術を流出させました。これで何かしらの問題が発生したならば、その問題解決は僕が自ら責任をもって主導したいんです。つぎにふたつめ、Q9ALTは指揮官を必要としています。空鳥さんも指揮は出来るようですが……実のところ、空鳥さんの指揮は作戦チームの皆から不評なんですよね。そして、最後に。これが一番大きな理由ですが、僕は、Q9ALTでの仕事を誇りに思っているんです。他の世界に赴いて、可能な限り多くの命を救う。そんな目的の為に、自分の意志で戦えることは、とても素晴らしいことだと思うんです。こと財団においては、贅沢すぎると言ってもいいぐらいだ。ですから僕は、二度とここに戻ってこれなくなってでも、Q9ALTで指揮官として働きたいんです……お願いします。今こそ、僕をQ9ALTの指揮官として認めてもらえませんか?」

思いの連れを一言たりとも残さず吐き出し、深々と頭を下げる。そんな僕に対し、伊勢山はううむと渋い顔でうなり声を漏らした。

「ひとつ、確認させてほしい。それは間違っても、"罪滅ぼし"なんていう下らない目的ではないんだね?」
「はい。"僕の為の時間"はもう十分頂戴しましたから。思う存分、人の為に手腕を揮う準備は出来ています」
「……そうか。君はきっと折れんのだろうな」

大層つまらなさそうな顔を大げさに見せたのち、手元の書類をくしゃくしゃに丸めて暖炉に投げ入れた。

「いいだろう、君の望む通りに手配してやる。やれやれ……どうにも私は新人を育てるのが下手だね。どいつもこいつも、さっさと私を置いていってしまう」

伊勢山は僕の前で堂々と苦言を呈して見せる。ありがとうございます、と端的に感謝を告げながら頭を上げると、伊勢山は別の書類で飛行機を折っていた。手慰みにしては大胆なそれを僕に向かってふわりと投げつける。

「それじゃあこれは、そんな君への餞別だ」
「えーっと、これは……」

しっかりと折れ筋がついてしまっているそれを開く。書類のタイトルは、"リスク隔離原則全面改正に向けた先行的規制緩和"──

「……はい?」
「いやあ、なに。君たちが渡航装置をばら撒いてくれたから、今までとは違う対策を取らなければならないと思ってね。今年の1月1日をもって、Q9ALTの所在するAE-2102とAA-2101この世界は双方向的に渡航可能となった」
「……えええっ!?じゃ、じゃあ、僕はもちろん、他の皆さんも……」
「はっはっは、嫌になったらいつでも戻ってきたまえよ!いつだってサイト-8165は君の帰郷を待っているさ」

愕然とする僕を見て、伊勢山は大層愉快そうに笑う。どうにも僕は、この老人には敵わないようだ。


動揺した顔を見られるのが嫌で窓の外に顔を向けると、梅の枝にとまった鷽と目が合う。奴はこちらの気も知らずにこてんと首を傾げ、ふくらみかけの蕾を揺らして飛び去ってしまった。

じき、春が来るだろう。


──── Q9ALT 第一章『2501事変』完




「やあ、久しぶり。実にいい天気だね」
「まだ少し、ぬかるんでいますけど」
「なに、この程度直ぐに乾くさ」

どこまでも広がる草原、そこにポツンと存在する一組の白いテラステーブル。向かい合って座る二人の間に、カモミールの香りが漂っている。雀の一羽すら居ない殺風景も、今は雑念が洗われる気がして不思議と居心地がよかった。

「しかし、貴方にも随分世話になってしまいました」
「お役に立てたなら何よりだ、ミスリードがあったのは申し訳ないと思うけれどね」

結局あの日は飲めずじまいだった芳香を、今度こそ存分に堪能する。茶菓子のひとつでもあればベストだったが、あの日のようにおいそれと望んだものを取り出すことは出来なかった。

「ミスリードと言えば……金本さんは、今回の事の顛末を知っているんでしょうか」
「相貝さんあたりが教えているんじゃあないかな?」
「確かに、そんな気もします……彼抜きで解決してしまってよかったんですかね」

男は相変わらず、僕の記憶だけで行えるような推測しか言葉にしない。この男との対話も随分慣れてしまったが、結局この男の正体はまるで判明していないのだ。しかし彼自身も理解していないことを僕が知るはずもないし、どうにもこの男には自分が何者かを知ろうとする意欲が見られないように感じる。

「なに、君がこうして立ち直ったように、彼が真の意味で自分と向き直るチャンスなんてこの先いくらでもあるさ。もしかしたらその機会に、また君が立ち会うことになるかもしれないね?」
「その時は、きっと力になって見せますよ」
「それは頼もしい。さて……そんな頼もしくなった君に、ひとつ頼みがある。君の夢に現れ続けた存在意義とでも言い換えてみようか」

そういえば、この男は夢に出るようになった当初、"話がしたいだけなんだ"と"今はその時じゃない"ばかりを繰り返していたんだった。自分のことで手いっぱいで忘れていたが、この男は何らかの目的をもって僕の夢を間借りしているのだろう。僕はティーカップをソーサーに戻し、話を聞き届ける。

「君は色んな人間を救ってきた。これからも色んな人間を救うんだろう。そんな君に……空鳥棗を、どうか救って欲しい」


──── to be continued…

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