クレジット
タイトル: 複素経済のあれこれ
著者: hitsujikaip
公開年: 2021
公開年: 2020
テーマ: dog_punch
Mishary
協力: Nekokuro
HAGU RUMA
複素経済のあれこれ

miemb0303
2072.03.09 00:00
以下の図を見てほしい。

社会に属する人々の財産がこのように分配されていたら、これは格差が大きいと言えるだろうか。
「もちろん!そこにはひどい格差が存在する!」といった声が聞こえてくるようだ。なるほど。
では以下の図の場合はどうだろうか。

このような財産の配分は望ましいものか、そうでないかは即時に判断できないだろう。どの向きの価値に対してどんな考えを持ち、その大きさについてはどう考えるかは、私たち一人一人、つまり各経済主体の考え方に依存するのだ。
私たちは、「各経済主体が何を望むか」をもとに、それをできる限り満たすことを目標とした経済を導入する必要があった。では、それをどのように扱うかを見ていこう。
導入
世の中に新たな技術が紹介されれば既存の価値観に影響を与え、社会のあり方を変化させてきたという事実は歴史から学ぶことができる。超常技術はその最たる例であって、私たちは常に超常技術による社会の変動を意識しながら生活している。
社会と経済の結びつきの深さと、技術がそれに与える影響の大きさは、イギリスで起こった第一次産業革命とそれに連なる歴史的イベントを辿って行けば、かなりのレベルで実感できるだろう。
現在、市場は複素化されているものの、その背後にある仕組みをあまり意識しなくても生活を行える。そのため、感覚的に複素経済で生きている人も多いだろう。そんな複素経済の仕組みに馴染みのない人はこれを見ておくと良いかもしれない。
この文書では、複素数や複素経済になじみのない人に向けて、複素数が経済のなかでどのような役割を果たしているかを解説します。
──複素経済への招待
選好関係と推移性
超常技術による社会や経済の変質に伴い、数直線上の数字で価値を測る実経済の不都合な点が明らかになっていった。その例の一つを説明するために、選好関係というものを紹介しよう。
経済主体が、選択肢全ての集合の中から二つの選択肢を取ってきたときの関係を、選好関係という。
読者諸君、昼ごはんの時見るスポーツとして、野球とサッカーが提示されたとしよう1。君たちはどちらを選ぶ?
どちらを選ぶこともあるAさんについて考えてみよう。この時、《野球≦サッカー》かつ《野球≧サッカー》という選好関係が成り立っていると考える。また、これを《野球=サッカー》と表し、この関係を無差別と呼ぶこともある。
では、ふつう野球を選ぶBさんはどう表されるのだろうか。《野球≦サッカー》は成り立たないが、《野球≧サッカー》は成り立つ。これを《野球>2サッカー》と表す。
ふつうサッカーを選ぶCさんはその逆で、《野球<サッカー》と表される。
このような関係が選好関係だ。
実経済における選好関係
実経済では、選好関係にとある関係が成り立っていると仮定しており、その仮定によって経済の実態と乖離することとなった。では、実経済は、選好関係にどのような性質を仮定していたのだろうか。複数列挙するから、どれが実経済にトドメを刺したか、犯人探しをしてみて欲しい。
1個目は、どんなAでもA≦Aとなるというものだ3。「私と結婚するか、私と結婚するの、どっちがいい?」と聞かれるような状況では、《私と結婚=私と結婚》が成り立つため、《私と結婚≦私と結婚》になるということを意味する仮定だ。
2個目は、任意の選択肢A、Bについて《A≦B》または《A≧B》が成り立つため、全人類が三つに分類できる4というものである。「全人類は、俺以上の剣闘士か、俺以下の剣闘士のどちらかには当てはまる」という主張が正しいということだ。
3個目は、任意の選択肢A、B、Cについて《A≦B》かつ《B≦C》が成り立つ時、《A≦C》が成り立つ5というものだ。これは、「今週末に行く目的地は、温泉旅行よりはテーマパークで、テーマパークよりはバーベキューが良い」と考える人にとって、「温泉旅行より必ずバーベキューの方が良い」ということだ。
1個目は成り立ってもらわないと選択肢の同一性が簡単に扱えなくなってしまう。同じ選択肢であれば同じように感じるという仮定は今のところ満たされている。
2個目は、1個目に比べて議論の余地があるとはいえ、現在の世界経済の動向を見るに、こいつは一応大きな問題を起こさない「シロ」と言える6[1]。
残った3個目が犯人だ。実経済では、この仮定が成り立つと考えられていた。
ここから、実経済では効用7が選好関係の順序を保ったまま、「満足」を正に、「不満」を負として、実数で表すことができると考えられていた。実数で表される効用によって実数の範囲で価値が決まるという考えが強い羈絆となったこともある。
もちろん今はこれではうまくいかない。実験的に、つまり現実問題として成り立たないことがわかったのだ。多くの種族の選好関係を調べた研究や、実際の事件8がそれを物語っている。
複素経済の導入と価値の意味合い
複素経済における価値
選好関係も、効用も、価値も、その構造を保ったまま実数に対応することはできない。これをなんとかして測れるレベルに持ってきて、構造を変えずに複素数に対応させたものが、いわゆる複素経済だ。
余談だが、帝都大学の倉敷三五七教授は、どのような構造が保存されれば妥当であるかの条件を定式化し、複素数による価値表現の誤差の範囲が有村有界性を満たすことを示した[2]ことにより、複素経済の有用性がさらに確認された。
かつてマルクスは労働価値説を唱え、商品の本来の価値は労働者がした労働の量によって変わると考えた。そのため、「労働者が生産した価値」の一部しか賃金として払われないことを「搾取」として批判した。
結局、実際どれだけコストをかけても、欲しいと思われなければ、誰にも買われなかった9。この事実に対して、それ以降の資本主義では、効用10、つまり消費者の選択が価値を決めるとした効用価値説を唱え[3]、労働価値説を「現実に沿わない単なる誤謬」とした。
しかしながら、両者はともに極端な論理を採用している。もちろん労働によって商品の価値は変動する11。しかし効用の影響12は非常に大きい。また、どちらの理論も消費者などの経済主体は必ず他者の選択に影響されないとした単純な仮定の下に多くの議論を行なっていた。これらが超常技術の発展や文字通りの「価値観」の多様化などによって複雑化した経済に対応できなかったのは言うまでもない。
では、複素経済はどうか?答えは「効用価値と労働価値のいいとこ取り」である。結局、市場の幅が広まって確認できたのは、労働には何も意味がないわけではなかった、ということだ。いまは値段の絶対値は労働価値と考えられている。
とはいえ、同一の労働が生み出す商品があったとしても、モノが違えばそこには差異がある。これを複素数の偏角13で表すことになった。いわゆる価値の意味合いである。そこから、価値観というフィルターをかけて効用を弾き出すのだ。
価値観の例
効用を決定するのは価値観だ。つまり、価値観は金額と効用を対応させる写像といえる。様々な写像を考えることができるが、直感的な物を紹介しよう。共変価値観だ14。
同じものなのに人によって欲しいか欲しくないかが変わるのは、そのものの価値に「どうでもいいと思っている成分」と「重視したい成分」があるからだろう。この二つの成分の比は、金額の意味合いで決まる。

太い点線は細い点線/黒い矢印と直交している。黒い矢印は、「重視したい成分」の物差しの役割を果たす。{点線同士の交わっているところの位置15}×{黒い矢印の長さ16}は、赤い矢印の価値を持つものが、黒い矢印の向きのものを理想と思う人にとって、どれくらい「お眼鏡にかなうか」を表している。
重視したい成分は一つではないだろう。別の重視したい要素を入れることができる17。例えば、「受けがいいものvs自分が本当に必要なもの」で欲しいかどうかのせめぎ合いが起こるのは容易に想像がつく。他にもこの種の葛藤は起こりうるだろう。

黒い矢印が二つある場合、上の図のように、価値に対する評価は、総合的に二つの黒いベクトルとの演算、内積に還元されるのだ。赤いところがそれに当たる。どちらもよければそれでいいのだが、そうはいかない時もあるだろう。値段の複素数が2つの実数の組で表されたように、これらは二つの実数の組になる18。
下の図のように、価値観の向きとは逆に分解されている場合は、青色で示したように、負の値となる。

典型的な価値観の例を複数挙げよう。赤い矢印は有名配信者、「歌舞もみじ19」の提供するクローズドコミュニティの料金だ。
複素経済のあり方
複素羨望最適
さて、このようなの世の中において、経済は何を理想形とし、どのような目標を下に運営すれば良いのだろうか。現在、政府によって様々な政策23が押し進められている。
例えば、複素経済においては同じ価値のものを等しく分配するのは、公平でも平等でもない。各人の価値観にとって望ましくないからだ。この点において、古典的な社会主義や共産主義における「分配」は、市場で扱われるものに関しては役目を終え、複素経済における平等と新たな分配が定義を変えて現れた。
とはいえ、複素経済においては、効用は実数でないため、何が最善であるかはすぐに議論できない。やはり、選好関係のような比較に基づいて、羨望というものを選好関係から考えることによって、経済の最善を求める必要がある。
各経済主体が、ある条件を満たす羨望24を抱くように価値を分配する。この状態を、複素羨望最適と呼ぶ。
複素経済において、自らが羨望する効用の範囲に到達するための価値は、必ずしもパイの切り分けではない。言い換えれば、価値を分配できる限り、角度のずれた価値を分配すれば、限られたものの取り合いではなくなる25。

上の図が労働とは何であるかを端的に表している。自然等の市場にないものに手を加えて、価値を見出す行為は、原点からの様々な価値の湧き出しと捉えることができる。既存のものに手を加える場合も、価値の端点を基準の点としたら同じことが言える。
労働者はこれを利用して自らの望む賃金を受け取るのだ。あまり受け取られることのない価値も、時間と共に偏角が変わる26ためバランスの崩壊は緩和される。

上の図のように、取引を経れば望む青色の範囲へと変質していくため、かつて搾取と考えられていた給与と生み出したものの価値の差異は、各経済主体27によってコントロールされ、望むものとなるのだ。
ここに、経済の複素羨望最適においても巨大な企業が存在できる理由がある。価値の分配能力は、生産能力によって増強される28ため、大企業を否定する理由は無い。
ここにおいて、生産手段を労働を伴って「価値を作る手段」とすれば、各経済主体が給与として受け取る価値は企業によって変換される29ものであるから、必ずしも共有は必要ない。作り出すものの価値によっては打ち消しあってしまうため、むしろ適切な私有化が求められる。
この状態に持ってゆくため、政府は、各経済主体の羨望関係を把握し、各自の望む価値を分配する政策を行なっている。
最後に
ヒュパティアの壺という最近学校で行われている新しいスポーツを紹介しよう。
このスポーツでは、種族や身体能力で区別されない15人のメンバーが、指定された別々のスタートから、フィールド内のある一点に集まるまでの
- 芸術性
- 速さ
を競う。メンバーの移動速度には幅があるため、どこに集まれば早く集まれるか、考えてみると面白い。芸術性については私はよくわからないが、より複雑になるに違いない。
ここで言いたいことは、単純な50m走とヒュパティアの壺の関係が、実経済と複素経済の関係の良いアナロジーとなっているということだ。
さて、読者諸君は、どのような戦略を取るのだろうか。

miemb0303
女子校生を続けて30年安心安全miemb0303です。「新しい義体の選び方」コミックサーモアで頒布中。
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