サイト-19、研究セクター-02内に収容されていた私は、収容セルの中でゆっくりと目を開けた。
鎮静化前、もう何をしていたのかも思い出せない。
が、ふとした違和感が、収容セル、もしくは思考の中を漂っているのを感じた。
この煩わしい拘束具でも、鼻につくラベンダーの精油の匂いでもない。
実験被検体の遺骸でも、いつも死んだような表情の武装警備員共でもない。
武装警備員?
首が動く範囲でセル内を見回したが、どこにもその姿は見当たらない。
彼らを治療した記憶は無い。
ただ記憶を失っているだけかもしれないが、器具、血痕、何より手の感覚。
それらが見つからない、感じられない以上、治療を行なったとは到底思えない。
聴き飽きた音と共に、収容セルの扉が開いた。
目線を戻すと、ボロボロになった職員 今にも倒れそうな人間が、ゆっくりと部屋に入ってきた。
彼と目があったその一瞬、彼は微かに笑った。
彼は何も話さないまま、拘束具に近寄る。
やはり何も話さないまま、丁寧に拘束具を外す。
一連の解除作業が終わり、私が床に足をつけたのを確認した時、彼はこんな戯言を言った。
「SCP-049、あんたの出番だ。」
彼は許可も取らず私の手術台で仰向けになると、こう話を続けた。
「SCP-049……いや、ドクター。やっぱりドクターの方が親しみやすいな。世界を救って貰うんだ、良好な関係を築いていきたいよな。」
余りに向こう見ずな態度。
私は苛立った。
ああ、もはや掛ける言葉も無い!
私の反応を見てからか、彼は起き上がってボロボロの職員カードを顔の前に掲げる。
「まだ名乗ってなかったな。SCP-049収容担当職員……と言っても、俺はデータとにらめっこするだけで直接は関わらないけどな。名前は……もう汚れて読めないな。ジョー、ジョー研究員とでも呼んでくれ。特に収容担当が、本名をアノマリーに明かすのは財団……あのクソ野郎共に推奨されてないからね。」
研究員に聴こえるよう、わざとらしく咳払いをする。
「では、ジョー研究員……改めて、今なんと? 」
「ドクター、あんたの出番だ。ドクターにしか世界は救えない。」
研究員を睨みつける。
「……ふむ、聞き間違いでは無かったようだな。最悪の気分だ! ……財団はどうした? 警備員はどうした? なぜ貴方がこの場所にいる? 」
「財団はイカれたよ。それも、随分派手にな。」
暫しの沈黙が収容セルを包む。
「一件のメッセージが全世界に届けられた。もちろん俺のパソコンにも。財団様の新たな使命は人類の根絶だとよ。……意思疎通もしないそうだ。クソッタレ! ……俺達は助からない。もうすぐここにも……財団は来るだろう。あぁ、もう俺は 」
彼は突然黙り込んだかと思うと、再び口を開いた。
「いや、今の話は良い。問題はここからだ。俺はこれが悪疫のせいだと考えた。もちろん、ドクターが散々主張してきたあの悪疫だ。ドクターが俺を被験体にして、少しでも悪疫を治す為に 」
「ジョー研究員、私をからかわないでくれ! 私がそんなにナンセンスな医者に見えるか? 君を解剖して、悪疫の抗体でも見つけるつもりか? たった1人の人間から? 私は……私はお医者さんごっこをしているんじゃないぞ! ……ああ! 君は悪疫の恐ろしさを何一つ 」
ジョー研究員は焦った様子で私を静止する。
「あぁ、いや……悪かった。人類全員を治すのは……今は良い。今はこの状況をどうにかする事の方が大切だ。あーあれだ。言葉の綾、ってやつだ。」
深い溜め息をつく。
「ふむ……ジョー研究員、言葉には気をつけてくれ。……君から悪疫は感じない。分かったのなら何処かに行ってくれ。……代わりに、出来るだけ人型の被験体を頼む。勿論まともな被験体を。」
「SCP-04……いや、ドクター。お願いだ。このままじゃ世界は終焉に向かうばっかりだ。ドクターをこの部屋から解放する。何も分からなくても良い。財団で……いや、外の世界で何が起こってるのか、調べてきてくれないか? 」
「……困っている人を助けるのが医者の使命だ。」
ジョー研究員は笑顔を見せた。
私は噓を付いた。
医者としての使命に嘘はない。
だが、外に出たかった訳では無い。
ただただ研究員から離れたかった。
私は正義のヒーローではない。
誰かと慣れ合うつもりもない。
「あっ、そうだ」
硬質な場を和ます様に、彼が声を出した。
「外に出るのなら気をつけろ。手をブレードに改造された兵士モドキがうじゃうじゃいるぞ? 」
「なるほど、丁度良いじゃないか。今ならそのブレードを纏った戦闘員共に、お望みどおり幾らでもメスを入れて貰えるぞ。」
ジョー研究員は苦笑いした。
私がドアを もはや今は機能していないセキュリティ・ロックを通過し、切れ切れの警告灯に照らされた廊下に足を踏み入れた時、彼は片手を挙げかけ、何か言いたげだった。
そんな愚かな研究員を無視し……今にもメスを突き立てたくなるような苛立ちを抑えながら……
私は……何年ぶりだろうか。
目の前には外の景色が……荒廃した景色が広がっている。
私は悪疫を治すため、ここにいる。
私は枯れた街路樹を、荒された繁華街を、半壊のビル群を進んだ。
それから、私は多くの“患者”を治療した。
医者として、悪疫を治すため。
悪疫を治す手がかりのため。
私の治療はこの上なく効果的だ。
まだ、まだ“患者”は沢山存在する。
私はメスを握り直した。
重い扉を開けると収容セルの明かりは付いており、SCP-049はしっかりとそこに拘束されていた。
そのペストマスクの奥では何を考えているのだろうか。目的を持って行動しているという点において私は彼を尊敬していた。だから彼と目を合わせた瞬間、私は少し笑顔になった。
殺風景な収容セルに拘束具を外す際の綺麗な金属音が反響する。
目の前にいるアノマリーを解放してこう言う。
「SCP-049、あんたの出番だ。」
彼の手術台で仰向けになると、これが幾人もの人が死んできた場所だと感じ、暫し恍惚に浸る。
「SCP-049……いや、ドクター。やっぱりドクターの方が親しみやすいな。世界を救って貰うんだし、良好な関係を築いていきたいよな。」
続ける。
「まだ名乗ってなかったな。SCP-049収容担当職員……と言っても、俺はデータとにらめっこするだけで直接は関わらないがな。名前は……もう汚れて読めないな。ジョー、ジョー研究員とでも呼んでくれ。特に収容担当が、本名をアノマリーに明かすのは財団……あのクソ野郎共に推奨されてないからね。」
"ドクター"からコホンという乾いた咳払いが聞こえる。
「では、ジョー研究員……改めて、今なんと?」
私は確かに今までこのSCP-049のデータベースを管轄しており、映像記録や収容違反記録、更には彼のナンセンスな実験記録までをも報告書にまとめていた。だが、目の前で声を聴くのは初めてだった。
「ドクター、あんたの出番だ。ドクターにしか世界は救えない。」
「ふむ。聞き間違いでは無かったようだな。最悪の気分だ! 財団はどうした? 警備員はどうした? なぜ貴方がこの場所にいる? 」
「財団はイカれたよ。それも、随分派手にな。」
大きく息を吸う。長い文章を読まなければならないからだ。
「一件のメッセージが全世界に届けられた。もちろん俺のパソコンにも。財団様の新たな使命は人類の根絶だとよ。……意思疎通もしないそうだ。クソッタレ! ……俺達は助からない。もうすぐここにも……財団は来るだろう。あぁ、もう俺は 」
余計な一言を置いてしまったこと、そして何度か思い出すという作業に時間を費やしてしまったことに反省しながら、次の言葉を思い浮かべる。
「いや、今の話は良い。問題はここからだ。俺はこれが悪疫のせいだと考えた。もちろん、ドクターが散々主張してきたあの悪疫だ。ドクターが俺を被験体にして、少しでも悪疫を治す為に 」
"ドクター"は間髪入れずに話を始める。
「ジョー研究員、私をからかわないでくれ! 私がそんなにナンセンスな医者に見えるか? 君を解剖して、悪疫の抗体でも見つけるつもりか? たった1人の人間から? 私は……私はお医者さんごっこをしているんじゃないぞ! ……ああ!君は悪疫の恐ろしさを何一つ 」
すぐさま訂正する。なぜならば、ご機嫌を損ねることは計画の頓挫に繋がってしまう。
「あぁ、いや……悪かった。人類全員を治すのは……今は良い。今はこの状況をどうにかする事の方が大切だ。あーあれだ。言葉の綾、ってやつだ。」
"ドクター"がこの反応をした場合の台本は読み込みが甘かった。
博士に注意される懸念もある。
「ふむ……ジョー研究員、言葉には気をつけてくれ。……君から悪疫は感じない。分かったのなら何処かに行ってくれ。……代わりに、出来るだけ人型の被験体を頼む。勿論まともな被験体を。」
「SCP-04……いや、ドクター。お願いだ。このままじゃ世界は終焉に向かうばっかりだ。ドクターをこの部屋から解放する。何も分からなくても良い。財団で……いや、外の世界で何が起こってるのか、調べてきてくれないか? 」
待ってました、と言わんばかりの台詞であった。
驚喜を隠しきれなかったためか、危うく彼のことを本名、すなわち番号で読んでしまうところであった。
「……困っている人を助けるのが医者の使命だ。」
この発言を聞けて、私は悦びに溢れた。
研究者としての仕事を全うできて非常に快い。
私の勤務先は世界全体の汚れ仕事をしている。
だからこそ、自らがダークヒーローになったような感触さえ覚えた。
この悦びを今すぐに同僚へと打ち明けたい。
「あっ、そうだ」
感傷についつい浸りすぎてしまった。まだ任務が終わった訳では無い。
「外に出るのなら気をつけろ。手をブレードに改造された兵士モドキがうじゃうじゃいるぞ? 」
ひとつまみの下らないジョークを挟む。
「なるほど、丁度良いじゃないか。今ならそのブレードを纏った戦闘員共に、お望みどおり幾らでもメスを入れて貰えるぞ。」
それは困るな。と思い私は苦笑した。
かつて頑丈に固められていた収容室の重い金属の扉を開けると、外の廊下の警告灯が点滅しており、薄暗い雰囲気であった。
薄汚れたサイトの廊下を歩いていると以前のことをよく思い出す。
サイト-19は人型アノマリーが収容されている大規模収容サイトである。ここで働いていると、いわゆる異形と触れ合うことが非常に多い。かくいう私も前はとあるアノマリーの研究をしていた。研究とは言ってもデータとにらめっこするだけの簡素なものであったが。
ただ、あの日からは違った。
一件のメッセージが届いた。ファイルは2つ存在していた。1つ目は「心を固めよ」という言葉を除けば、検閲ばかりであった。2つ目は何かしらの画像が大量に添付されていた。自然の雄大さを感じる画像から小さな花を撮影した儚いものまで。
私はそれを見た途端、自分の中の何かが解き放たれたような感触を覚えた。思考の渦に呑み込まれ、数分間、いや、数時間、夥しい量の情報が自らの頭に刷り込まれていく。最初は頭が割れるように痛み、何も見えない、まるで私が苦痛そのものであるかのようだった。しかし、慣れてきてしまったのであろうか、花一つ一つに見とれ、私達が収容していたものの希少価値に目醒め、そして何より、人間をどうしようもなく消したくなっていた。
私はまず第一に不幸にも解放を味わう事が叶わなかった職員を一人残らず殲滅することを提案し、その計画書が優秀であったことからサイト管理官から評価されることになる。
そして、その後も幾つかの任務をこなしていると、光栄なことにSCP-049を利用した難民キャンプ破壊計画の担当者となっていた。
目の前には外の景色が……荒廃した景色が広がっている。
私達がこの素晴らしい景色を作ったというその事実だけで快感を覚える。
彼はかつての街路樹を、かつての繁華街を、かつてのビル群を進んでいた。
管理官からの連絡によると、"ドクター"は順路通り進んでいるそうで、問題は発生していないようだ。
難民キャンプの人間達は数日のうちに正常化され、素晴らしい風景が広がっていたそうだ。
私はこれからも、財団の使命である人類の滅亡のため尽力しようと思う。
ヘリコプターから難民キャンプを捉えた映像、それに映るSCP-049は私の姿によく似ていた。