今朝の朝食もこれまでの例に漏れず製作者の精神性を緻密に再現しており、カットされたトーストの切り口の直角はそのまま博物館に「この世で最も直角な切り口を持つトースト」として展示されるべきだと思わずにはいられない精巧さであった。
それを聞いたマリオはいつも通り軽く肩をすくめて答える。この療養地、あるいはサナトリウムと呼ぶべき隔離所の使用人である寡黙なアフリカ系イタリア人のマリオという男は一定の水準に至らぬ冗談には言語によるコメントをしないというストイックさがあり、僕は彼から何らかのコメントを引き出す試みを絶やさないのだけれど、彼は一向に、20のうち19程の試行には、かの如く肩をすくめて見せた。あるいは単に寡黙な男なのかも知れなかった。恐らくそうなのだろう。
「今日のご予定は」
僕が食後のコーヒーから口を話すのを見届けて、マリオは聞いてくる。
「ひとしきり娯楽らしきものはこなしてしまった気がするからね。とりあえず午前は本でも読むよ」
感染性ミームに侵されながらもそれを忘却し、ストレス無く過ごす事を求められる人員の療養所、当人は昏睡させつつ、当人の精神だけは享楽的に過ごさせる為に管理された夢界。俗にオネイロス・アイランドと呼ばれる財団特製の形而上のリゾート。そこで過ごし始めて、果たしてどれほど経っただろうか。
「あと10日ほどクアランティン期間が残っています。またダーツかビリヤードの準備を致しましょうか」
僕の質問に答えつつ、マリオは僕との再勝負をさり気なく提案してくる。
「どっちも日中にやる競技じゃないな。夕食後に受けて立つよ」
肩をすくめる代わりに片眉を上げつつ新しいコーヒーをカップに注ぎ、空いた食器を手際良く片付ける。
「練習しました。次は負けません」
やや腫れぼったい目蓋でマリオは器用にウインクをして、奥へと戻ってゆく。
ふう、と吐いた呼気がやや高い天井に届く前に大気に溶ける。天井板の白いペンキの剥がれたテクスチュアはまさしく現実そのもので、意識する前から聴こえていたと確信できる外の波の音に至るまで、紛れもなく現実のものに感じる。ここが夢界とはいつだって思えなかったが、それこそが、この世界が財団の技術の粋である証左のようであった。
カフェインの効能が働くには時間差があるらしく、少し読み進めるつもりで開いた村上春樹の短編集はあまり頭に入って来なかった。
窓の外を見やる。2階から見る景色にも、10階から見る景色にも見える、いつもと変わらない、ここが地上階ではない事だけ断言できる曖昧な景色だった。
真新しい文庫本を開いて顔に乗せて、水瀬はソファに寝転んだ。夢界でも眠くなり、しっかりと眠れるという事を水瀬は知っていた。
夢を見た。既に夢界に居ることをその最中で思い出していたが、それでも夢は続行した。満員の映画館でトイレに立つことが出来ないのと同じように、何ら拘束力のない夢中で見る夢に、水瀬は抗う事が出来なかったのだ。意識が浮上し、夢から覚める。美海が笑っている。美海が泣いている。マリオの声で目が覚める。
「昼食の準備が出来ました」
頭上から降りてくる声。教会は自らの歌声が頭上から降ってくるように設計しているらしいが、使用人という存在が寝覚めにかけてくる声にもあるいは同じような効果があるのかもしれない。丁重な言葉遣いながら従うしかない、そういう心地にさせられる。
ありがとう、と言いつつテーブルに着く。卓上にはハンバーグ・ランチが用意されていた。夢界において調理の観念があるかは分からなかったが、少なくともマリオが用意した食事でハンバーグが用意されていたのは初めてであったと思う。
マリオは僕が座るときに椅子を引いてくれたきり、わずかに細めた目でじっと外の景色を見ている。何階にあるか分からない部屋から見る、いまいち焦点の合わない海。
ハンバーグ・ステーキは表層はかりっと焦げていて、しかし挽肉の弾力と挽肉の粒子のテクスチュアはしっかりと印象を残していた。胡椒と、それに加えて名前を知らないスパイスの香りがするハンバーグステーキは、おろし玉ねぎを焦がして作ったであろうソースと良く合っていた。
「午後は海岸を歩こう」
僕の言葉にマリオはこちらへと視線を戻す。
「分かりました。サーフ・ボードやバレーボールが準備できますが」
思わず吹き出しそうになるのを堪える。こんな、生まれたころから研究者か計理士になることが運命づけられたかのようなひょろりと細長い人種が砂浜でビーチバレーに興じサーフボードに乗ると思っているのか。
「何なら、私がサーフィンしても構いません」
はは、という笑い声が思わず漏れる。
「それはぜひ見てみたいけれど、ゆっくり散歩がしたい。無論、サーフボードで海側を追従してくれても構わないよ」
「分かりました。準備だけしておきましょう」
マリオが冗談に冗談を返してくる。合格点のジョークであったらしい。満足しつつミルクがたっぷりと入った紅茶を飲み下す。外の景色には、わずかに雲が陰りつつあった。
雲で陽射しが失われた海岸線を歩く。砂鉄交じりの黒っぽい砂浜はサンダル越しにも心地良く、さふさふと先進的な現代音楽で使われる新型の打楽器のような音を立てた。
「あとわずかで、水瀬様は夢から覚めることが出来ます。」
マリオはこちらをじいと見つつ言った。
「口惜しいな。居心地のいい場所だったのだけれど。無論その為の場所なのだから、当然なんだろうね」
「目覚めた後も、基底現実であなたを待つ人が居る」
「僕を待つ人は居ないよ」
「奥様が居るのでしょう」
資料にはそう書いておりました。マリオは一切訛りの無いフラットな日本語で困惑する。
「お別れしたんだ。このクアランティン期間の、直前にね」
マリオは溜息を巧妙に、うん、という相槌とうめき声の中間点に落とし込んだ。
「村上春樹の小説は、読んだことがあるかい、マリオ」
黒人の使用人はいいえ、と返事をする。
「僕は彼の短編が好きでね。長編作品は読んだことすらないものがあるくらいだが、短編はすべて読んだよ。繰り返し、読んだ」
マリオは返事をしない。曇り空の海岸線は白黒画像のようで、波の音すら無声映画に変じてしまっているようだった。
「村上春樹の短編には、中年男性がプールで泳ぐ短編と、中年女性がプールで泳ぐ短編がある。村上春樹にとって水泳は瞑想か、あるいは修行の類と同じなんだね。前者――中年男性は物語の最後で人生の不変さに絶望して泣き始め、後者の短編の中年女性は残りの人生の道筋をしっかり見出すんだ」
ぽつり、と水滴がこめかみに落ちてくるのを感じた。雨が降るらしい。
「僕と妻とは財団で知り合った。女性に自分から声をかけた事なんて、それまで無かったよ。銀縁の少し野暮ったい眼鏡も、少し短すぎるショートヘアと、それ以上に切りすぎている前髪に至るまで、凄く魅力的な女性だったんだ。結婚生活は、15年と3か月半続いた」
いつの間にかマリオは僕の眼前に立ち、こちらをじいと見つめている。
「彼女は財団を降りると言った。何があったかは聞けなかった。記憶処理をして一般社会に戻るのだ、と僕に告げた。僕は、どう答えればいいか分からなかった。翌朝起きたら、改めて話をしようと思っていた。そのつもりだったんだ」
マリオがこちらに手を差し伸べ、その指先は虚空に留まる。よく手入れされた爪が奇麗に揃っているのが見えた。
「雨が降っています」
マリオが説明するように言う。
「ああ、帰ろう。少し寒い」
僕は答えて、踵を返して歩き出す。砂浜は雨を吸ってすっかり固くなっていて、足の裏を氷のように叩いた。
シャワーを浴びて、マリオが用意してくれた夕食を食べた。
ジャガイモのポタージュは小ざっぱりとしていて、水菜と刻まれた生ハムのサラダも口に楽しい献立だった。メインのムニエルはバターがしっかりと染みていて、こってりとしたヒラメの肉が酸味のあるパンに良く合った。
食器を片付けたマリオがブラントンのシングルバレルをロックで作り、テーブルに置き、差し出してくる。いつの間にか古いジャズに針が落とされている。名前も知らない、少し黴臭くて、なんだかかつて聴いたことがある気がする、不思議な楽曲だった。
「少し付き合ってくれよ」
口にすると、マリオは棚からショットグラスを取り出し、少しだけバーボンを注いで、唇を濡らすように蒸留酒を舐めた。
「ここは精神汚染に対するクアランティンの為に用意された夢界ではありません」
分かっていたよ、と僕は答える。その答えすら予想済みであったと言わんばかりにマリオは肩をすくめる。
「ありがとう。一緒に過ごせて楽しかった」
「仕事ですから」
マリオはショットグラスを鼻に寄せ、バーボンの香りをかいでいるようだった。僕もグラスを寄せ、香りを嗅ぐ。ケンタッキーの醸造所、光の届かぬ樽底で水和し、香りと円やかさを体得する蒸留酒に思いを馳せる。
「目が覚めた後、君に会うことはできるかい」
マリオは首を横に振る。
「あなたと一か月ほど過ごして、私はすっかりバーボン・ウイスキーが好きになってしまいました。この仕事が終わったら、休暇を取ってケンタッキーの醸造所を見に行きます」
マリオは残りのウイスキーをさらりと飲み干し、立ち上がる。
「僕もだ。必ず醸造所を見に行くよ。ブラントン、メーカーズマーク、バッファロートレース」
マリオが廊下に出て、扉を閉める。
今からでも後を追って、ビリヤードのリベンジ・マッチをやりに行こうと提案したくなる気持ちを抑え、すっかり水っぽくなってしまったブラントンを飲み干し、ベッドに這入る。
目蓋の裏にベッド・ライトの余光を感じながら、きっと目覚めたら基底現実に還っているのだろうと確信する。わずかに開けられた窓の外から浪の音が聞こえていることに気付く。晴れ渡ってこそいないが、少なくとも雲は消えているらしい星空を見やる。雨で凝り固まった砂浜も、今は少しだけ柔らになっているだろうと思いながら、水瀬はベッドライトを消し、暗闇を受け入れた。