蛇と焚書のカルテット: 第五頁 - 潜入と再会
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京浜急行電鉄 日ノ出町駅から徒歩5分。
野毛坂の急斜面を300メートルほど登ったその先に、“それ”は黒々とそびえ立っていた。

横浜市中央図書館。単館蔵書数においては全国二位の規模を誇る、巨大な市立図書館である。

真っ黒なウィンドブレーカーを羽織った青年は、左手首に装着した簡素なミサンガを取り外し、腰部のホルスターに一本のネイルハンマーを収納する。短く深く呼吸を整え、玄関ドアのガラスを埋め尽くす空虚な黒を見据えた。
右の眼孔には、銀色の義眼が収まっている。

「術式拡張完了。観測機器、館内の通報システムは俺が無効化する。あとはラムダ、お前次第だ」
『一時間以内に終わらせるつもりだよ。ちょっと窮屈なのは我慢する』

完全液化状態で背嚢の中に潜む相棒、ラムダが取り出した懐中電灯をノールックでキャッチする。同時に取り出したスキットルの飲み口を、自動ドアの最下部に開けられた鍵穴へ次々と押し付けた。直ちにすべての鍵が解除される。

「しばらくは背嚢から出れないぞ」
『大丈夫。行こう、レンジ』

自動扉を素手でこじ開ける。目的地は三階の郷土資料コーナー。
再度ネイルハンマーを引き抜き、レンジは暗黒の中へ一歩踏み出した。

「──ナギ」

「ナギ。聞こえてるか?」
「……ん、あぁ、すまん。何かあったか?」
「いや、大丈夫ならそれでいいんだが。さっきからまったく動いてなかったからな」

野毛坂の頂上付近、現地の中学校の駐車場。大手輸送業者のロゴマークがデカデカと塗装された大型トラック中で、6311排撃班“ヤシオリ”の面々は長い作戦待機を続けていた。新班長ナギはゆっくりと立ち上がり、無表情でこちらを心配している新副班長キョウの肩に、「大丈夫だ」と呟きながら手を添える。作戦配置から既に2時間半が経過しようとしていた。

汎用偽装装甲車両“アンモナイト” 市街戦カスタム。見た目こそ一般的な大型トラックではあるものの、その外装は一般的なライフル弾の貫通を防ぎ、さらには車両内部からの作戦指揮、オプション次第では本格的な電子戦も可能な代物である。長時間の作戦待機にも対応できるよう、トレーラーの一区画には仮眠室とシャワールーム、トイレまで完備されている。本来は各班の長に選抜された数名のバックアップスタッフが、運転や整備、その他諸々の作業を担当するのが主流だが、ヤシオリは極東支部内でも珍しく、数年前から実働部隊員のみでの運用を継続していた。

ナギのベッドのすぐ横に備え付けられたテーブルには、いつの間にか大量の栄養ゼリーとレーションの袋が積み重ねられていた。袋の山の向こう側では血眼のマガタと真顔のルルがペットボトル入りの水を全力で飲み込んでいる。

「……状況を説明してくれ」

シュール極まりない光景に目を覚まされたせいか、意識は軽いのに、身体は未だに少し重い。

「9822評価班“四ツ角”が横浜市中央図書館付近に潜伏中。ターゲットを確認したら俺たちの到着まで見張ってくれるらしい。作戦エリアから半径50メートル以内の地点4箇所と、例の中学校の屋上2箇所に“閃”所属エージェント合計12名がバックアップ待機。内2名は特異排撃資産だ。“ハウンドドッグ”は緊急時のバックアップ要員として──」
「いや、それはブリーフィングで聞いてる。…その……何だ。あいつら2人のことだ。大食い対決でもやってるのか?」

数秒の沈黙。いつの間にかキョトンとした表情でこちらを眺めていたマガタたちは、会話が途切れたと判断するなり、再び新しい栄養ゼリーを開封し始めた。

「腹が減っては何とやら、ってことらしい。少なくともルルはそうなんだろうが、マガタは完全にメンタルの安定化のためにやってるな」
「……競争しているようにしか見えない」
「そうか?」

何となくではあるが『ルルが煽ってマガタが噛みついた』という経緯が見えなくもない絵面だ。特にマガタはずっとルルのことを意識しているように思える。本当に顔に出やすい奴だなと内心苦笑いしながら、自らも山盛りになっている未開封のゼリーに手を着けた。幸い好きな味のパックはまだ残っている。

「食いすぎで支障を来さないようにな」
「あたぼうよ。現場でゲロ吐くほど鈍っちゃいないぜ」
「ボクが言うのも何ですけど、ちょいとがっつきすぎなんとちゃいます?」
「こうでもしねえと喪中の人間は動けねえんだよ」
「……」
「すまん。言葉を間違えた」
「いやいや、謝ることはないですって」

こちらが見ていない間に何かあったのだろうか。若干ぎこちないとは言えど、2人の仲はそれなりに深まってるようにも思えた。昼間に何かあったのだろうか。

「──ああ、戦闘用呪符の作成過程を見学させてもらってな。かなり面白かったよ」
「あと簡単な式神の操作とかも体験してもらったんですわ。ブルーじゃないのが惜しまれるくらい飲み込みが早くて。そのゼリーこっちに回してください」
「ふふん」
「……まぁ、使うべき人が使わん限りあんま役には立ちませんけどね、紙の鳥なんて。所詮は遊びの域ですわ」
「素材が紙な上に、操作可能範囲が術者から半径3尺……大体1メートル?圏内のみって時点で戦闘転用もクソも無いからなぁ」
「とはいっても、欧米の魔法使いなんかはああいう簡単な式神や低級の悪魔、幽体なんかをチャフや防御壁、小型の追尾弾頭として使ってますよ。物理干渉型の妖術戦における戦法の一つなんで、その手の敵と殴り合うときなんかは思い出してくださいな」
「おぉ、なんかかっけーな。アニメでよく見るやつじゃん」
「……言うても使役関係の術を極限まで磨き上げたようなタイプ・ブルーでもなけりゃそんな小洒落たマネ出来へんし、マガタも言ってしまえばただの人間。そんなステージには永遠にたどり着けんっちゅーわけや。敵が使うにしてもボクらにはスーツや火器があるし屁でもないというか、見る機会はあんま無いと思いますよ」

天井を見上げて「むー」と零すマガタを尻目に、ルルはゼリーの一袋を瞬時に飲み尽くした。少しだけ微笑みながら立ち上がる。

「はい、ボクの勝ち。約束通りカルビ丼奢ってもらいます」
「……あッ!」
「勝ちは勝ちですんで。勝負に乗ってくれたのもキッチリ憶えてますから。キョウさんも見てましたよね?」
「勝負の件は初耳だが、そういう話なら仕方ないな。ちゃんと奢れよ。班内での信用に関わるぞ」
「キョウお前! ……ナギ! 班員間でのこういう勝負ってあんまよろしくないと思うんだけどお前はどう思うよ!? 班長としての意見をお聞かせ──」

あたふたと救いの手を求めてくるマガタを尻目に自らもゼリーを飲み干し、若干ニヤケながらルルに向けて親指を立てる。敗者は絶望の末その場に倒れ込んだ。小躍りしているルルの横で、キョウは黙々とゴミを回収し始める。

車内には一時の平和が訪れていた。

班長だけがここにいない

まただ。またこれだ。脳裏を過った現実が、表情筋を静かに定位置へ押し戻す感覚。あの日以来、幾度となく自分を包み込んだ薄暗い喪失感。真っ白な欠落感。笑いを浮かべる度に訪れるそれは、多分この先もずっと俺の中に居座り続ける。

班長だけじゃない。親友も失った。オオタカの魂はどこまでも続く復讐の怨嗟に巻き込まれて、どこにも捧げられることなく潰えた。ヘリごと叩き落され、原型すら留めずに死んでいったオオタカの班員たち。マークⅢ超重交戦殻オレンジ・スーツ933号機“ホルス”のコックピットブロックに潰され圧死した親友。同行していた狙撃任務特化型排撃班“グングニル”の面々。報告書越しに見た彼らの顔写真が、走馬灯のようにフラッシュバックする。「自分が殺した」、「自分が止めなかったから」なんて戯言を吐くつもりは毛頭ない。彼らは自らの意思で戦い、人類と世界の正常性を守る兵士として戦死したのだから。それでも今は自分の顔を想像したくなかった。仲間にも背を向けていたかった。

『──“四ツ角”、ロード2より作戦参加中の全人員へ通達』

無線機越しに響く不明瞭な声。4人の視線は瞬間的にスピーカーへと収束した。

9822評価班“四ツ角”。日本国内の“放浪者の図書館”に関する調査を一手に請け負う専門機関、“薔薇の名前”隷下の偵察部隊である。百歩蛇殲滅作戦の一件では、敵の主要拠点であった足立区のポケットディメンションの捜索とその潜入方法の確立、大黒埠頭の一件では百歩蛇の手残党の監視任務などにも一役買っている。
メンバー数は少数精鋭を基本とする極東支部の部隊の中でも更に少ない。現在は、鹵獲した異常物品の兵器転用を研究する“ドクロード2”を筆頭とした3名のみで活動しているという。ロード1の枠は数年前から欠員らしい。

声は続く。

『先行偵察部隊が、成人男性と思わしき実体を目視でのみ確認。先ほど図書館正面玄関を通過し、館内に侵入したとの情報が入った。報告にあった“レンジ”であると思われる。“ラムダ”らしき人物は確認されていない。』
「“ヤシオリ”より“四ツ角”。目視での観測っていうのは何だ?VERITASは使っていないのか?」
『VERITASは使用したが、完全に無力化されたとのことだ。班の方針で片目用のハーフサイズバイザーを装備していたのが幸いしたらしい』
「……無力化だと?バイザー内ディスプレイに表示されないということが?」
『そうだ。原因は不明だが、館内に仕掛けておいた通報システム類も一切作動していない。通常カメラ、赤外線カメラや対人レーダーでも、対象の全身……衣服や背嚢の類まで含めて補足できないらしい。現状は目視での観測のみが有効であると思われる。“ヤシオリ”の指示を請う』

観測機器の無力化。何となく予想はしていたが、これでようやく合点がいった。敵の能力は、目視以外でのあらゆる観測を無力化する反ミームか認識阻害、あるいはそれ以上の代物だ。撲殺された班長やその自宅や回収された敵の体組織から、一切のEVE、いわゆるエーテルが検出されなかったのも納得できる。インターホン型VERITASにのみ記録されていたEVEはおそらく即席の偽造のもの。相棒格である“ラムダ・シナフス”──焼け残った資料によれば、旧プロメテウス研究所製のパラヒューマン用偽装ミーム展開装置を保有しているとのこと──が、何らかの認識改変作用を引き起こしていたと仮定できる。認識阻害能力と認識改変装置を上手く活用した襲撃だったというわけだ。

「──卑怯モンが……ッ!」

すぐ後ろでマガタが唸る。その更に後ろに立つキョウからも、無言だけでは隠しきれない殺意が湧き上がっていた。横目に見たルルの表情は最初に出会った時のそれに似ているが、余所者らしさはとっくに消えている。
マガタの言う通り、奴らはどうしようもなく卑怯で、卑劣だ。班長がこんな奴らに殺されたなどと信じたくない。それでも、敵の強さが本物であることは認めざるを得なかった。2年前の韓国遠征中、シャワールームに空間転移してきた4人の刺客らを生身で血祭りに上げたエージェントが、ゼロ距離での格闘戦においては如何なる小細工も通用しなかった歴戦の兵士が、突入開始からわずか1分足らずで、たった2人を相手に殺されたのは事実である。足立区のポケットディメンションで片付けてきた奴らとは格が違う。恐らくはヅェネラル……元百歩蛇の手首魁よりも腕が立つ。そうでなければあの人は死んでいない。その強敵をこれから斃さなければならない。

今度は自分以外の全員の視線が、こちらめがけて収束する。作戦の中心である自分へ。ほとんど私情を動機とした復讐のために、これだけの人々を巻き込んだ自分へと。

迷うな。止まるな。進み続けろ。あの人の背中を、あの人が振るう2本の刃を思い出せ。
少なくとも俺は、ただの復讐鬼じゃない。無線機越しに指示を仰ぐ彼らだって、目の前で瞬きもせずに待機している彼らだって、ただ無力に巻き込まれた哀れな他人じゃない。異常を狩り、殺し、破壊することを使命とする死神。GOCエージェントだ。

「“ヤシオリ”より“四ツ角”。そちらの実働班を館内への先行偵察に向かわせてくれ。“ラムダ”の介入には十分注意するように」

自分を疑いたくなるほどに澄みきった声で、決戦の狼煙を上げた。震えはない。

『了解。予定通り評価任務を開始する。実働班視点での映像は各員の個人端末にリアルタイムで送付する』
「カメラは無効化されると聞いたが?」
『足立区の拠点で制圧された工作員、“目”の血液を使う。体内に摂取すれば、摂取者に限り奴の死体を介して感覚情報を共有できる。今回は更に我が班の“アンモナイト”を介して、血を摂取していない人員用に画面共有を行う』
「……すまない。貴重な資産を」
『こういう日のための排撃資産だ。僕らみたいな裏方を労う必要はない』

通信が終了する。敵拠点の捜索作業から今日に至るまでの数日間、“四ツ角”の面々はロクな睡眠も摂らずに戦い続けてきたというが、無闇に彼らを想うことはできない。「労う必要がない」とは、彼らなりの「排撃任務に集中しろ」というメッセージだ。

「各員、マークⅦ標準実地礼装ブラック・スーツの最終点検をツーマンセルで行え」
「了解」
「了解。派手に殺ってやるぜ」
「ええからはよ相互点検しなさいな」

ルルとの相互点検を終えた後、黒いブレードのジョイント部分を、グリップ状に展開する。巨大なトンファーのようにこれを握りしめ、刀身に浮き上がった自分の顔を覗き込んだ。軽々と敵の総大将を討ち取った刃が、無表情に見つめ返す。乾いた刀身は非情と殺意に濡れていた。

二度と帰ってこないあの人は、この刃を振るい終えるまでは側にいてくれるような気がした。

──19時間前。
事の始まりは、今日の午前4時まで遡る。

「放浪者の図書館に繋がるポータル、横浜のどこかにある。確実にある」

神奈川県警による非行少年対策のパトロールが終了する頃、2人の逃亡者はコンビニ裏の小さな路地で作戦会議を開始していた。議題は「逃亡手段の確立」ただ一つ。

“放浪者の図書館”とは蛇の手における最大拠点、全ての書物を内包し、全ての宇宙に出入り口を持つ、巨大な図書館のような異空間である。足立区の拠点へ戻る選択肢を失った今、ラムダとレンジの2人が逃げ込める場所は規定現実のどこにも存在していなかった。

「確かな情報なのか?ポータルはそう簡単に見つかるものじゃないと聞いたが」

ピザまんとフカヒレまんを完食したレンジは、指についた油を舐めとりながら聞き返す。右目の包帯は茶色く濁っていた。

「ヅェネラルの研究資料から得た情報……って言ったら信じてくれるかな。アイツが闇雲にこの地域を探し回ってたとは思えない」
「お前の言う事なら全て信じる。詳細を」
「OK。ポータルが発生しやすい地域にほぼ共通している点って覚えてる?」
「覚えていない」
「バッサリ言い切りやがったよこの人。えーっと、“異世界”、特に“理想郷”に関する伝承や民話が根付いてるパターンが滅茶苦茶多いんだよね」
「よく知ってるな」
「仮にも元蛇の手工作員が何抜かしてんのよ……」

レンジは活字こそ理解できるものの、本そのものは全くと言っていいほど読まない。呪術師の家系に産まれてから両親と家を失うまでの12年間は、義務教育修了程度の知識や呪術関連の基礎技能、徒手格闘術を学んできたが、それ以降は勉学とは無縁の生活を送ってきたと言う。ラムダと共に百歩蛇の手に参加してからもヅェネラルの私有書庫に入り浸ることなく、ただ格闘戦の技術のみを磨き続けてきた。
ラムダはそんなレンジを、偶に「デカい弟」と呼ぶ。

「なるほど。ポータルに関連付けられるような横浜の伝承さえ解れば……」
「調査地域は更に絞り込める。さて、ここで問題が浮かんできます」
「ふむ」
「1、少なくとも私は横浜市の伝承なんか何一つとして知らない。2、これを調べる手段……スマホとかがない。3、余裕がない。警察と焚書者が総力を挙げて捜査網を狭めつつあるし、ブラック・スーツ……私服型兵装の奴がいつ現れてもおかしくない状況」
「ハードだな。そもそもこの辺の伝承が一つだけしかないとは限らんわけだろ?」
「そう。そこも厄介なんだよね。盗み読み中にちらっとだけ、何枚か赤い靴を履いた女の子と、あと女の子の銅像の写真が見えたんだけど、そのあとヅェネラルにつまみ出されちゃったからなぁ」
「鍵は“横浜の伝承”、“赤い靴”、“少女像”の3つだけか」
「ハードだね」
「ハードすぎるな」

通りの方に目を移し、先程購入した缶コーヒーをレンジに差し出す。
路地を抜けた先の通りでは、明らかにガラの悪そうな少年が4人。勝ち誇ったような顔を並べてほっつき歩いていた。火遊び帰りなんだろうか。早朝から近所迷惑な奇声を挙げて、歩きスマホで仲良く行脚している。
苦手なタイプの人間だ。目障りで耳障りだから早く退散してほしい、などと考えていたら、缶コーヒーを一瞬で飲み干したレンジも彼らを凝視していることに気づいた。右手には見慣れた鈍器がすっぽり収まっている。

「何する気?」
「そこで待ってろ」

静止する暇すら与えずに、レンジは通りの方へ突っ込んでいってしまった。
瞬間的に4人組の背後に忍び寄り、手始めに一番後を歩いていた少年の頸部へ、ネイルハンマーの柄頭をめり込ませる。音はなかった。意識を飛ばして体制を崩す少年を押しのけながら、その前を横並びに歩いていた2人を、同じような動作で右から左に処理する。残る1人が振り返る寸前で、4発目の殴打が炸裂していた。一番最初に攻撃を受けた少年がようやく倒れ伏す。気絶する前にレンジの存在に気づけた者は1人としていなかった。

一番先頭を歩いていた少年の胸ポケットからスマートフォンと財布を剥ぎ取り、白目を剥いて意識を飛ばしている顔面を、強引にインカメラに向ける。顔認証を経て起動したスマートフォンを片手に、呆気にとられていたラムダの元へ、颯爽と帰還した。

「あいつらは見えにくい場所に詰めておく。スマートフォンが欲しかったんだよな?」
「……次カツアゲするときは私に一声かけてね。あと財布は戻してきなさい」

調査開始。指紋まみれの他人のスマホをぎこちなく操作しながら、とりあえず「横浜 赤い靴」で検索する。通信制限でも食らってるのだろうか。妙に読み込みが遅い。じれったさをこらえながらひたすら待った。

ようやく表示された検索結果を、ざっとスクロールしてみる。
観光バス、ラブホテルの所在、土産物屋の所在。ドイツ式の整体マッサージ店。おおよそ伝承の類とは微塵も関係しない候補ばかりが羅列される中、不意にラムダの目を引く何かがよぎった。

「……あっ」

伝承というほどの伝承ではなかったが、これなら両キーワードの説明が付く。
鍵の名は『赤い靴』。詩人、野口雨情が作詞した、日本を代表する童謡の一つ。横浜市内には、この歌を記念した少女像が設置されている。

:

赤い靴。『赤い靴履いてた女の子 異人さんに連れられて行っちゃった』から始まる、日本を代表する民謡。歌詞の内容を簡単にまとめると、

「赤い靴を履いた女の子が外国人に連れていかれ、横浜の港から外国へと旅立ってしまった。異邦の人に会うたびに、赤い靴を見るたびに、あの子のことを考える」

といった内容となる。なるほど、明治時代に作られた歌であることを考えれば、当時の日本人から見た外国はまさに異世界、或いは理想郷に相当する概念であったのかもしれない。歌詞のモデルとなったエピソードも、「自分だけでは養うことのできない我が子を異邦人に託した母親の話」であったという。「ここよりはマシな場所へ。理想郷へ辿り着いてほしい」、その一心で子供を旅立たせた母親の話。

理想郷の伝承が根付く地を探すことは、放浪者の図書館へと通ずるポータル、“道”の発見をする上では一番堅実と言える。正常性のヴェールを破壊しかねない異常性保持者たちを匿う、弱者のための理想郷。それが放浪者の図書館である。以前のラムダはそう信じていた。

現実は違った。違いすぎた。
正確に言えば、ラムダは放浪者の図書館そのものへ踏み込んだことが無い。他のメンバーが経験してきたような派閥間での盥回しを経ず、レンジと共に直接百歩蛇の手に加入したからだ。足立区のポケットディメンション以外の異空間は、一度たりとも見たことが無い。それでも、放浪者の図書館が決して理想郷などではない事を、ラムダは日を追うごとに悟り始めていた。

今思えば、放浪者の図書館への道が閉ざされていることなど、何一つとして問題は無かったのだ。理想郷はどこにも存在しない。行く先々に別の地獄が待ち構えているだけだ。図書館に行こうが行くまいが、地獄はその形を変えて、死の瞬間まで付き纏ってくる。

歌詞のモデルとなったエピソードには続きがある。救い難い結末がある。養育のためしばらく国内に預けられていた娘は9歳半ばにして難病を患い、その後母親と相見えることなく病死した。子を預かっていた宣教師夫妻が、アメリカ本国への帰国を目前にしていた時のことだった。母親は子の結末を知らない。子は本来の理想郷を知ることなく散った。救えない、救いようの無い結末だ。

ここよりマシな何処かを探し求めて志半ばで死んでいった同胞を、ラムダは何人も見てきた。これから図書館を目指す上で、自分たちが同じ道を辿らない確証はない。アメリカへ渡ることなく息を引き取ったあの子のように、今は亡き同胞たちのように。

ラムダの右肩に左手を置き、レンジは無言で彼女を見つめていた。
大量殺人を経てその温度を失った、冷たい手。今のラムダには、それが何よりも暖かかった。絶望の淵に立つときは2人一緒だ。これまでも、これからも、この人は同じ地獄を共有してくれる。手を取り合ってくれる。偽りの理想郷に何が待ち構えていようとも、この人だけはそばにいてくれる。共に戦ってくれる。

「……市内に『赤い靴の少女像』がある。手がかりになるかもしれない」

スマートフォンに付着した指紋をハンカチで念入りに拭き取り、通りを挟んで反対側の路地に転がっていた少年たちの元へと返却する。まだ白目を剥いて気絶していた。以前のレンジなら何も考えずに撲殺していたであろうそのアホ面が、自分たちには手の届かない、平和を具象化しているように思えた。

「お前の行く場所に俺も行く。そういう約束だ」

レンジはポツリと呟いた。
赤黒く汚れた包帯が引き剥がされ、無機質に落下する。日の出は遠いが、東の空は既にぼんやりと明るい。2人は前進した。

『──10冊目、駄目っぽい。右に3ブロック移動して』
「了解」
『2段目の左から……5冊目。それとって』
「これだな」
『うん。……今ってさ、監視とかってされてるのかな』
マークⅣ潜入擬装衣ゴースト使いの焚書者なら既にこちらを補足しているかもしれない。警戒はしておく』

侵入開始から既に20分が経過していた。背嚢から銀色の触腕を覗かせたラムダは、レンジの開いた資料類をただひたすらに読み進める。

前もってピックアップしておいた14冊の資料を片っ端から漁る作業も、ヅェネラルの私有書庫で培った速読技術がなければ更に時間を食っていたであろう。レンジが持つ懐中電灯の光を頼りに要所を読み進め、成果が無ければ元の棚に戻す過程を、延々と繰り返す。今のところ、ここに来てからの成果はゼロに等しかった。

あれ以降、スマートフォンでの検索で入手したもの以上の成果は得られていない。警察官やGOCエージェントの目をかいくぐり、山下公園にある赤い靴の少女像へも足を運んだ。案の定何も解らずじまいである。まず民俗学的知識が圧倒的に足りていない。兎にも角にも知識が必要だ。正確な知識の補填は本が一番確実で、手っ取り早い。中央図書館への潜入を決定したのは、非番時間の大半をヅェネラルの私有書庫で過ごしてきたラムダであった。

そもそも大抵のポータルは、常時そのまま開きっぱなしであるパターンは少ない。ある一定の条件──例えば特定の時間、特定の天候、特定の魔術的儀式等の複数条件──が揃わなければ、少なくとも人間が出入り可能なポータルは開かないと相場が決まっている。無条件に開きっぱなしのポータルが絶対に存在しないというわけでもないのだが、この国にそんなものが残っていたのは戦前の話でしかない。太平洋戦争の終結後は、海の向こうからやってきた超常性維持機関どもにことごとく収容、もしくは破壊されてしまっている。ほとんど残っていないだろう。

第一、一口にポータルと言ってもその形状や形式は多様だ。ファミレスのトイレのドア。大規模な霧の最深部。マンホール。無人電車の終着駅。水溜まり。ブラウン管テレビの画面。空間に走った亀裂。こんなのは序の口に過ぎない。兎も角そう簡単に見つかったり、見つかったところで安易に使用できるものでもないのだ。

伝承を元にポータルを探る行為は、あくまで「現状一番マシなやり方」でしかない。別時空への逃亡という手段は、ヅェネラルですら辿り着けないほどに難解で、遠い道のりなのだ。

『──っていうのは解ってたんだけどねー……ちょっと文献調べれば解るとか思ってた私が馬鹿だったよ。ヅェネラルだったらとっくに試してただろうしね』
「お前は馬鹿じゃない」
『そう言ってもらえると助かるね。もうちょっとライト下げて』
「了解。それにしてもよくあの歌を知っていたな」
『……例の高校で習ったんだ。音楽の授業で』

2人はしばらく無言となった。

旧ヤシオリ班長、或いは焚書者2004号、双刃ダブルブレードの暗殺任務。その動機は至極単純だった。ラムダの姉であり母であり、出自不明の自立駆動型殺戮兵器でしかなかった自分に“感情”と“意志”を芽生えさせてくれた存在。シエスタのたった一人の親友。アレンの恋人。ヅェネラルの一人娘。その仇討ち。要するに報復である。
ラムダはあの日、今は亡きレナーデ・クローデル・リノプタルを想っていた。同時に殺戮への大きな嫌悪感を背負いながら、レンジと共に最後の暗殺任務へと赴いていた。敵は滅多に帰ることのない自宅で、実の娘と共に休日を過ごしている。インターホンに偽造されたVERITASをレンジの術式とラムダの偽装ミームフィールド展開装置で誤魔化し、油断してドアを開けた暗殺対象とゼロ距離での死闘を繰り広げ、これを斃した。とどめの一撃、ネイルハンマーの一閃をこめかみに叩き込んだのはレンジだった。

暗殺対象の娘の名は、“栞”。当時ラムダが潜入調査を担当していた、GOCフロント企業の私立高校。その潜入先で出会い、打ち解けあった親友である。

「栞、だったか。友達の名前」
『うん』

沈黙を打ち破るように、レンジは静かに問い始めた。

「監視対象か何かだったのか?」
『監視対象は元から指定されてなかったし、あの人が双刃の家族だったとは聞かされていなかった。偶然あの人と仲良くなって、偶然親が双刃だったってだけ』
「ヅェネラルは既に親子の関係性を知っていた、ということか?」
『多分』
「……」
『珍しいね。私以外の人に興味示してるの。これ本棚に戻しといて』
「つらかった、んだよな」

ラムダは固まった。

「俺は他人の感情をそこまで性格に理解できるわけじゃない。間違っていたらすまないと……」
『解らない』

今度は即答だった。レンジは次の資料を手に取り、目次のページを開く。

『解らないんだよ。今は、何も』

もう一度沈黙が訪れた。

ラムダの声は、正確に言うと“声”ではない。ミームフィールド展開装置に内蔵された超小型声帯を介して発生する人口音声である。
口下手なのもあってレンジには言葉にすることさえできなかったが、徐々に振れ幅を増し、やがて断ち切るように、不自然に途絶えるその波長は、何かを必死で求めているように感じられた。ハンマーで殺すかそうでないかの、明白な2択の世界で生きてきた自分とは、ラムダはまるで違う。彼女はレナーデとの対話を経て、自分以上に人間らしい感情を得てしまった。「殺したくない」と言い切れるほどの良心と、自分に対する不理解ゆえの恐怖心も。レンジには「自分よりも豊かな感情を持っている」ことしか解らない。彼女の感情は理解できないし、これからもそれは叶わないと悟っていた。

相棒の幸せを願うだけの自分が、軋みを上げて静まり返る。
俺は、このままでいいのか?
他人の感情すらろくに理解できないというのに、どうやって彼女と接していけばいいんだ?

窓の外で音を立てながら、1羽のカラスが飛び去った。同時に足元へ何かが転がる。咄嗟にライトで照らすと、1本の細い、手の平サイズの木の枝が落ちていた。2枚だけ葉がついている。付近に観葉植物は存在しない。

“それ”はぬるりと、早送り映像のような速さで成長を始めた。葉が生い茂り、幹の表面がグネグネと形を変え、10秒経つ頃には人の上半身に似た形へと変貌を遂げている。下腹部から下は無数のツタが伸びていた。身の丈は凡そ180cm。レンジより頭一つデカい。

「……敵だ」
『こっちの動向は筒抜けだったってわけか……シルバーバックフォーメーションSBF!リュックサックかなり重くなってるから注意して!』

ラムダの触腕が動きやすくなるように、背嚢のジッパーを一部大幅に解放。先端部を平たく広げた銀色の触腕が、視界の左端からゆるゆると現れた。右の半身を隠すように足を引き、この触腕を一つの盾のように構えながらハンマーを握る。   

百歩蛇参加当時。ラムダがまだ人間らしい感情を持っていなかった頃。2人の腕を見極めるべく素手での決闘に挑み、これに勝利したヅェネラルが考案した攻守一体の型。基本的には、生身のレンジが変装ミームを解いた状態のラムダを背負うことで完成する。

単体でGOCエージェントを殺せるほどの戦闘技能を持たず、なおかつあまり鋭利な形状にも変形できなかったラムダを、あえてレンジの防御手段として使用。銃撃や長物の類は触腕で防ぎ、それでも防ぎきれない攻撃はレンジ自身が回避するか、ハンマーで逸らす。近接戦闘の際は触腕で縛り付ける形で相手の動きを封じ、その隙にレンジが攻撃する。世界各地でホワイト・スーツ装備のエージェントを幾人も屠ってきた、必殺にして鉄壁のフォーメーションである。

『倒したらすぐに撤退!窓を突き破って飛び降りて!』
「いくら俺でも骨の1、2本は折れるぞ?」
『私が滑空翼と緩衝材になる!新手の敵は見つけ次第こちらから無力化する!』
「なら問題なさそうだな」

実体は既に完成した上半身を起こし、殺意をそのまま体現したような形状の、鋭い前腕を形成した。

「防御は任せる」
『合点!』

予備動作のない瞬間的な加速を以て、2人の攻撃は始まった。ツタを踏み潰しながら懐に飛び込む。2本に分岐したラムダの触腕が敵の両前腕を固め、レンジはガラ空きの腹部へと前蹴りを放つ。膝は中途半端に伸び切っていないが、これでいい。反動をつけながらプレス機さながらの膂力で足を伸ばす。タイミングを合わせて爆発するように膨張したラムダの触腕が、敵の両肘から先を引き千切っていた。

「ドリアード、非代償系有機依代型式神だ。樫の木に小細工を施して、遠隔地から操っている。本体は西洋魔術に精通しているな」
『倒せるの?』
「再生機能はあるんだろうが、どうせ使用制限つきだ。再生できなくなるまで叩けば倒せる」

実体はバランスを崩して前のめりにヨタついている。攻撃は効いているらしい。まだ頭蓋骨のようなフォルムの頭部目掛けて、レンジによる横薙ぎの一閃が炸裂した。振り抜かれたネイルハンマーが、風を切って闇に吠える。手首を返し、先程の太刀筋をなぞるようにもう一発。頬骨に当たる部位が大きく欠損している。直ちにラムダの触腕が頸部へと絡みつく。

「触腕を少し下げてくれ」
『了解!』

むりやり一礼させるように、首に絡んだ触腕が勢いよく引き下ろされる。ドリアードの後頭部がガクリと曝け出された。レンジは容赦なく殴打する。1発。2発。両腕に再生の兆候アリ。人間で言うところの肩甲骨にあたる部位を6回の殴打で完全に粉砕する。細かく刻まれたヒビから樹液が迸る。9発目はもう一度後頭部に。殴りすぎたせいか、頭の位置が若干下がり気味だ。顔面への執拗な膝蹴りで定位置に戻す。両手で柄の握り込みを正し、10発目。焚書者を何十人と屠ってきた市販品のハンマーで、殴り続ける。腐った床を何度も踏み抜くような音が、図書館の壁に溶けて、反響を残さずに消えていく。20発目の殴打が終わる頃には、敵の再生機能が限界を迎えていた。ラムダの触腕が頸部から引き剥がされる。

今度はうなじに該当する部位へとハンマーの釘抜きを叩き込み、フリーとなった自らの左腕にラムダの触腕をまとわりつかせた。
レンジの拳に、ハンマーのヘッドを模した形状の巨大なナックルが精製される。肩甲骨がぶつかり合うまで振りかぶった。

「やってくれ」
『着火!』

ラムダの体内で市販品の制汗スプレー缶を破砕。同時に体内に持ち込んだ100円ライターを着火し、溢れ出たガスを燃焼させる。瞬間的に生み出される爆発力を、レンジの左肘後方に精製した噴射口から一気に放出。加速させた拳で、敵の頸から上を粉砕する技。
我流“零尺砕頸砲ゼロレンジキャノン”。早い話が即席のロケットパンチである。分度器をなぞるような弧を描き、レンジのアッパーカットは言葉通りに火を吹いた。

轟音と共に炸裂した渾身の一撃は、植物実体の再生しきった片腕に、堅く防がれていた。アッパーカットでカチ上げたはずの頭が吹き飛んでいない。ナックルは細い根の集合体のような掌にめり込んだままである。
実体はゆっくりと、直立姿勢へ移行した。

『……2発目も通用しなさそうだね。生半可な敵が来るわけないか』
「ラムダ」
『何?』
「腕が引き抜けない」
『はい!?』

早くも絶体絶命の危機に陥ってしまった。このまま片腕でも持っていかれたら勝機はなくなる。たとえこの場から逃げ切ろうとも、いつか確実に捕縛され、殺されてしまう。というか片腕を持って行かれるだけで済むはずがない。2人のどちらかが潰れるまで、ずっとタコ殴りにされてしまうはずだ。

『クソッ!あんまりやりたくなかったけど──』

ナックルの先端部分がレンジ本体から切り離される。レンジは数歩飛び退き、再びSBFへと移行した。

「窓から飛び降りる猶予は与えてくれなさそうだ。厄介だな……」

『──て!』

掠れるような声が、僅かに響いたような気がする。

「……て?」
『え、何?』
「何か言ったか?」
『言ってないけど』

植物実体の方へ向き直る。下半身も含めて、いつの間にかほぼ完璧に人の体型を模していた実体は、数秒だけ喉を押さえてから、人間のように息を吸い込み、人間のように発声した。

『待ってくれ!交戦の意思はない!話を聞いてくれ!』
『……アレン!?』
「誰だ?」
『『え!?』』

見紛う筈もない。今や植物実体の顔面は、百歩蛇の手随一の古参メンバー、アレン・ミナカタのそれを象っていた。

燃焼した制汗スプレーの微妙な匂いとともに、両者の間に微妙な空気が滞留していた。

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