蛇と焚書のカルテット: 第六頁 - 闇夜と雷光
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故ヤシオリ班長宅の調査。簡略化されて尚多すぎる書類手続きの数々。残された娘の保護と事情聴収。
反ミームだか認識災害だかに振り回されっぱなしだった呪符の解析。物量にモノをいわせた敵拠点のポータル捜索……の統括指揮。
寝る暇を削って敢行した大黒埠頭での残党炙り出し作戦。任務引継ぎ後の“グングニル”一斉殉職。元“オオタカ”班長の死去。気合で手配したオレンジ・スーツ1機のロスト。カバーストーリーを駆使してシャバの警官と民間の監視カメラを総動員した捜査網構築。今さっき計9時間目となった緊急残業。

ここ2日間の間に色んなことがありすぎた。働きすぎた。これから更に働かなければならないらしい。
正常作動中のマークⅣ 潜入擬装衣グレイ・スーツを環境色に染め上げ、9822評価班“四ツ角”所属エージェント、ロード3こと“ビート”は、ロード4こと先輩のミクラと共に、野毛坂のアスファルトを駆け下りる。10月の夜風が背中を押していた。
数秒も経たぬ間に、横浜市中央図書館の正面玄関入り口に到着する。こじ開けられた自動ドアの向こう側で直進光が揺れていた。

「実働班、突入ポイントに到達。館内にて“レンジ”を目視で確認。こっちの視覚映像は共有されてるんスか?」
『ロード2了解。視覚情報の共有に関してだけど、なんかレンジだけ綺麗に映んなくなってる。録画データも不可視化能力に上書きされてたわ』
「うっわマジか……口頭で一挙一動報告しないといけないやつで?」
『しないといけないやつだね。頑張れ』

ため息混じりに評価兵装の最終動作チェックを始める。異常存在を破壊する力は持ち合わせていないが、フルセットを製造費そのままで売り捌けば都内の高層マンションを5つ買い切れる代物だ。装着者が余程のアホでもない限りは、値段通りの性能を遺憾なく発揮してくれる。

評価班エージェントにそんなアホは存在し得ない。ましてや“四ツ角”のメンバーは、異常存在の発見、観察、評価任務にかけては全員がプロ中のプロである。

「ロード4、館内の観測機器類に再度アクセスしてみたんですが、全機とも正常に稼働中っぽいですねぇ。“薔薇の名前”は何と?」
『さっき緊急のメール来てたけど、《図書館の情報は聞き漏らすな。戦うな。殺すな。生かしておけ》だとさ』
「マジで言ってんスか?」
『この状況下で冗談吐けるほど場数踏んじゃいないよ。ヤシオリの人たちがどんな反応するのやら』
「む~ん……仮に私たちが攻撃を受けた際はどうすれば……?」
『お二方の現場責任は全部取るつもり。その時々の判断はそっちに任せるけど、ソイツと喧嘩してもまず勝ち目はないと思って。こっちが撤退命令出したら全力で逃げるように』

冗談じゃない。下っ端根性にも限界というものがある。直属の上層部署にこんなキナ臭い命令を言い渡されて苦い顔をせずにいられるものか。最近はどうにも“薔薇の名前”の蛇の手に対する甘さが引っかかる。

ミクラはともかく、現場歴1年と数ヶ月のビートは困惑を隠せずにいた。いや、きっとミクラも心の内では動揺しているのだろう。いつもの優しそうな糸目顔が少しも崩れていないから何とも言えないが。

世界オカルト連合における評価班は、財団のフィールドエージェントを複数人編成したようなコマンドユニットである。財団エージェントがそうであるように、時には強襲偵察も請負うし、評価対象が殺る気全開なら現場判断での退却戦だってやってのける。そもそもレスポンスレベル2以下の脅威相手なら、評価班単体でガチのケンカを仕掛ける交戦権も付与されているのだ。

その交戦権を、完全ではないにしろ封じられた。明確な理由説明も下されていないのに。キナ臭いことこの上ない。

『まぁ、“ギアを演じよ”でしょ。いつも通り歯車気取って仕事するしかないよ。既に何人か亡くなってるし、ぼくらが仕事しなきゃもっと死ぬわけだし』
「ですねぇ。……評価対象が連絡階段へ侵入して上層階に向かいました。ロード4いつでもいけますよ~」
「ロード3同じく突入可能ッス」
『あいよ。じゃ、評価開始。生還第一で行動してね』

ポンチョ型“カメレオン・クロス”の下で消音マスクのズレを直し、官給品のブーツに掻き消された音を更に押し殺して突入する。ミクラが後方と右側面を警戒しながらこれに続く。陸上自衛隊の演習を装った越冬訓練で散々練習した動きだ。隙はない。小さな螺旋階段をつま先歩きで駆け上がる。

極力奴の視界に入らないよう心掛けながら追跡する。評価対象のデカすぎる背嚢が、1本の銀色の触手をウネウネと生やして揺れているのが確認できた。百歩蛇の手を脱退する直前にかっぱらってきたアーティファクトか何かだろう。露出しっぱなしの片目が闇に慣れてきた。降りるはずのない発砲許可を待ち焦がれながら登り続ける。

評価対象が3階へ侵入した。ミクラは室内全体を先行調査するために、一度ビートの背後から離れる。一瞬で風景と見分けがつかなくなった。眼帯型のバイザーのおかげで辛うじて視認できるが、バイザー内の情報にばかり気を取られているとレンジの動きに気付けなくなる。今は奴の監視に専念すべきだ。

「タッパ172センチ。軍隊的な訓練を中途半端に受けた痕跡アリ。3〜4日間のホームレス生活の形跡も確認できて……右利きで重心は左寄り。で…服は……全身黒。目撃証言に出てきた灰色のパーカーじゃないッスね」
『らじゃ。今どのへん歩いてんの?』
「郷土資料コーナー近辺で立ち止まって本を漁り始めました。背嚢から生えてる銀色の触手がずっとぐねぐねしててキモいッス。“ラムダ”らしき少女は現在も確認できず。マジ何やってんだアイツ……」
『できるんなら正面か側面から観察してみて。無理そうならいいけど』
「正面から張り込むッスよもちろん」
「ロード4、室内のクリアリング完了しました。異常無しです。3階出入り口付近から室内全体を監視しますね~』

レンジの真正面から本棚4つ先の通路に観測ポイントを確保する。想像よりずっと楽にこの段階まで来れた。安心は微塵もできないが、気休め程度の自信は生まれつつある。
飲んだばかりのカフェイン剤の風味が喉元で渦巻く。眼球の奥がズキズキと痛い。水分量は問題なし。緊張と高揚感がジワジワと高まる。

仕事の時間だ。やるだけやったら何もせずに爆睡と洒落込んでやる。

:

……特にこれといった状況の変化もなく、任務開始から実に20分近くの時間が経過していた。できればもっと近づいて、本の詳細や不明瞭な会話の内容を探りたいところではあるが、グレイ・スーツは暗闇の中で一直線に投射されるタイプの光に弱い。簡単に言うと、スーツに当たった光が不自然な角度でくっきりと歪曲するのである。迂闊に接近して位置バレを食らうわけにはいかなかった。音声通信での軽い打ち合わせや、侵入目的の仮説構築なんかはそれなりに進んだわけだが、ラムダとかいうガキの影が見えてくるわけでもなく、何かしらの緊急事態が発生するわけでもなく、本当に静寂だけが続いていた。正直暇でしかない。

「14冊目を黙読中……今一瞬“ヅェネラル”って聞こえたような気がしないでもないッスね」
『それ報告されても困るんだが』
「それ以外の何を報告しろってんですか」
『それ以外の何かに決まってんでしょうよ』
「クソ評価対象は依然クソ資料をクソ開いたまま動きを見せてくださいませんわよ~」
「もしかして疲れてますか~?」
「先輩がちょいタフすぎるだけッスよ~。あ、いまレンジが窓の外のカラスにビビって──」

ヘッドセット内で静かな警報音が鳴り響く。カラスにビビったレンジを笑えない程度に肩をすくませる。あまりにも突然のことだった。

「ロード4、EVE検知。カラスとそこの細いやつです。レンジの足元の」
「ロード3同じく検知。ヤバくないんスか班長殿」
『照合結果出た。評価対象6号“アレン・ミナカタ”。ヤバいね。取り逃がし組の美男子くんじゃん』

焦れば死にかねない。余裕ぶったハッタリを自分自身に利かせなければ、恐怖に竦んだ肉体が動くことはない。ビートの膝の震えが瞬く間に消える。
落ち着け。どうってことはない。これ以上の修羅場なら2回経験して2回とも生還している。ミクラさんはその数倍経験しているのだ。恐れる必要はない。

「どうしますか〜?」
『待機。今慌てても良い事は』
「いやちょい待ち……準人型実体が顕現中!なんスかアレ!?」
「よくできたドリアードですねぇ。あそこまで人型に寄せるのは先代でも至難の業ですよぉ」
『こっちは何故かディスプレイ越しに見えてるな。不可視性が付与されてないからか』
「うわ!」
『んーどした?』
「レンジがドリアードと交戦開始!速え!ドリアードがボッコボコにボコされてます!一方的に!」
『やば』
「百歩蛇残党はヤシオリと逃亡者を喰らい合わせて、どちらか片方を消すつもりでいると踏んでたんですがねぇ。はてさてこれは……」

もう滅茶苦茶だ。レンジと触手の攻撃は素人目に見ても神がかっているわ、硬派な打撃が続いたかと思えばいきなりロケットパンチ的な技が繰り出されるわ、ドリアードはドリアードで散々ぶっ壊されてた癖にロケットパンチだけはしっかりガードするわ、状況が口頭で実況できる範疇を超えてきている。ちらほらと別の未登録EVEも検知できたが、もうそれどころじゃない。巻き込まれないように本棚数ブロック分後退しながらも、下っ端根性全開で監視を続行する。心なしか室内に風が出てきたような気がする。

「……あらら…本が…」

挙句の果てにはこれである。多分さっきの未登録EVEの主が絡んでいるのだろう。一度距離を取った両者を包み込むように、唐突に小型の竜巻が発生しやがった。軽めの本とドリアードの撒き散らした葉や木片が次々と巻き上がり、高速で回転を続ける即席の障壁と化す。既に竜巻内部の目視観測が殆ど不可能になっている。とっさの判断でミクラさんが録音機を投げ込んだが、案の定雑音を数秒間記録した後にぶっ壊れてしまった。竜巻の中に飛び込もうかとも考えたが、まあ恐らくロクな結果にはならないだろう。“薔薇の名前”には「戦うな」と釘を刺されているしなおさらだ。風音がうるさすぎて、もはやさっきまでのぶつぶつとした会話音すら聞こえない。

『……未登録EVEもドリアードのEVEもロストしたわ。洒落臭え。とりあえずロード3はその位置で評価続行。ロード4は即応に備えてそのまま待機。ヤバくなったら撤退ね』
「了解です。カラスはどうしますか~?」
『一応“閃”の特異排撃資産が追跡してる。そんな簡単に美男子くんの所在が割れるとは思えんけどね』

想像していたのとは違うベクトルでアクシデントが続く。早く帰りたい。マジで早く帰らせてくれ。
俺たちの目の前で、いったい何が起きているというのだ。

「竜巻が少々うるさいのには目をつむってくれ。ゴーストを欺くならこれが一番手っ取り早かったんだ」
『いや、それはこの際どうでもいいとしておいて…その……理解が追い付かないよ』
「事実だ。今は飲み込んでもらうしかない」

アレンの使役する小型の人型精霊“シルフィード”が小型の竜巻を生み、外界と内部の相互認識を阻害する結界を発生させたその渦中。アレン・ミカタを象ったドリアードは、2人に対して信じられないような内容を語り続けた。

死亡した筈の“双刃”がヅェネラルの首を撥ね、その“双刃”率いる白装束部隊が百歩蛇の手メンバーや“青大将”二次構成員を虐殺し、足立区のアジトを奪取した。現在生き残っている百歩蛇の手メンバーはシエスタ・シャンバラを始めとする僅か4名のみであり、現在の最優先目標は安全地帯への逃亡や組織再建でもなく、あろうことかこの虐殺事件の発端となったレンジとラムダ、及び“双刃”の率いる排撃班全員の殺害であるらしい。

「そしてもう一つ。シエスタは君たちがこの場所に来ることを焚書者たちに密告した。大方予想はしていたけど、ブラウニー偵察妖精によればこのフロアにも2人のグレイ・スーツゴーストが潜伏しているらしい。ホワイト・スーツ白装束は見当たらないけど、図書館の外にも十数名の焚書者が待機していた。君たちと彼らをぶつけて、どちらか片方を始末するのが狙いだ」
『……あの人らしいやり方だね。ほんと…似たなぁ…アイツに』

嘘偽りや誇張は存在しない。仮にこんな嘘を吐いたところでアレンには何のメリットも無い。百歩蛇が壊滅していなければ、とっくに最大出力の一斉攻撃を受けているはずだ。
ラムダの中で、かつての戦友たちの顔がフラッシュバックする。未だに一斉攻撃が来ないこの状況こそが、百歩蛇壊滅の確固たる証拠だった。

ドリアードは、背嚢からズルリと零れ落ちた銀色の液体金属生命体へと歩み寄る。レンジが咄嗟に行く手を塞いだ。

「攻撃の意思が無いのであればそこから一歩も動くな」
「……解った。やはり君たち2人が揃っているのなら、しばらくは心配する必要もなさそうだね。元気そうで──」
「要件を済ませてさっさと消えろ」
『待ってレンジ、この人は……』
「小さいのとよく一緒にいた奴なのは知っている。今はただの警戒対象でしかない。コイツは百歩蛇の手だ」

殺気立つ隻眼に気圧され、ドリアードは少しばかり萎縮しながら続けた。

「……いくつか質問がある。何故逃げたんだい?」
「ラムダがこれ以上の殺しを封じると誓った。俺はラムダと生きるために行動を共にした。それだけだ」
「なるほど。以前ヅェネラルに組織の脱退を希望したのは……ラムダ、本当なのかい?」
「……何回かね。すぐに断られたけど」

いつの間にか偽装ミームフィールドを展開していたラムダが、先程とは打って変わって、人間らしい顔つきで目を背ける。ドリアードは肩を落とし、化け物らしさの残った顔を俯かせた。

「レナーデの仇は、本当に討ったんだね?」
「お前らを襲撃した双刃は恐らく別人だ。証拠写真を偽造するような能力は持っていない」
「そうだろうね。うん。そうだろうとも」
「まだ聞き足りないか?」
「……シエスタは、君たちが拠点の位置を焚書者に密告したと踏んでいる。本当のことなのかい?」
「するわけないじゃん!!」

ラムダの突然の怒号に、ドリアードが固まる。

「私が憎んでるのはヅェネラルだけ!苦手な人なら確かに沢山いたよ!でも雛山ヒナやアレン、シエスタを巻き込んでまで報復しようなんて思わないよ!!」
「わ、解った!それなら良かった…いや良くはないんだけどね」
「まだ何かあるの?」
「少なくとも私の中の疑いは晴れたよ。でも……」
「でも?」
「何故、ヅェネラルをそれ程に恨むんだい?」
「……」
「ラムダ?」
「……双刃、の」

暴風の中。重苦しい沈黙を打ち破り、ラムダが切り出す。

「双刃の、アイツの娘は、私の潜入先の高校の親友だった。ヅェネラルはそれを知った上で、私には何も知らせずに双刃の暗殺任務を任せた。多分自分の力とか、百歩蛇の在るべき姿とかを誇示したかったんだろうね」
「……なんという…ことを……」

レンジはドリアードの一挙一動を静かに眺める。そこに感情の起伏や、かつてアレン・ミナカタと肩を並べて戦った瞬間の回想は存在しない。そもそも名前や顔すらロクに覚えていない奴がいきなり奇襲を仕掛けてきたのだ。疑念と敵意以外に向ける感情などあるわけがない。

「…百歩蛇に加入する前、レンジと出会ってさ」

レンジの首がようやく動く。ドリアードを注視しつつ、ラムダの合成音声に耳を傾けていた。

「有村組に雇われてたレンジが独りだけ生き残って、落札されて間もなかった私に偽装装置をくれて、そこからしばらく2人で広島や神戸を旅して、ヅェネラルに拾われて」
「真っ黒だったな。あの時のレンジは。ラムダは不自然すぎるくらい綺麗だった」
「生きたかったんだよ」

ラムダのそれは、紛れもない本音だった。今まで吐き散らしてきた建前や言い訳が掻き消えてしまうほどの本音。未だかつて捻じ曲げたことなどない、たった一つの行動原理。

「個体としての自己保存機能が叫んでいただけだよ。『壊れるな』って。人間クラスの感情回路が覚醒していたわけじゃない。それでもレンジの隣で生きたかったし、レンジも私と生きる道を選んでくれた。1人じゃ何もできないけど、2人だったら生き残れるから」
「……」
「生きるために2人で46人殺した。あの頃は、生きるために選ぶ手段なんか何でもよかった」

その46人の中には、当然ながら無関係の民間人も含まれている。殲滅対象の判断能力を鈍らせるために適当な非武装の人間を片っ端から人質に取り、ヅェネラルの指示があれば適当に選んだ者を敵の目の前で殴り殺した。パラヒューマン専門の排撃班を2つ壊滅させたときの話だ。

「ヅェネラルの指示通りに殺せば2人で生きていけた。蛇の手本来の存在意義なんて考えたこともなかったし、道徳や倫理なんかの概念を理解することすら敵わなかった。あの頃の私の自我は、生物より自律兵器に近かったから」
「ラムダ……」
「……レナーデを」

竜巻に窓ガラスが震える。偽装ミーム展開装置に自動補正された表情が月明かりに照らされる。

「私がレナーデを救えていたら、他人の死なんか怖がらずに済んだのに」

その場でへたり込み、声にならない機械的なノイズを断続的に流し続ける。
普通の人間だったら、こんな時は涙を流して大声で泣くのだろうか。
きっと泣くはずだ。現に大勢泣かせてきた。どうやって傷つければどうやって泣き喚くのかなんて簡単に予測できる。
唯一以前と違うのは、ラムダ自身がその理由や他人の心理状態を、普通の人間と同程度に理解できるようになってしまったこと。

ただの自律兵器でしかなかったラムダにレナーデが与えたのは、共に過ごした日々の記憶と、人間と同等の感情システム、レナーデをベースに再現された人並みの倫理観である。それらの構築における最後にして最大のトリガーは、レナーデ自身の死であった。当時あの場にいなかったとはいえど、ラムダは未だに、自分がレナーデ・クローデルを救えなかったことを、一度も人間らしく接することができなかったことを悔やみ続けている。

「怖いんだよ。これ以上誰かが死ぬのも。誰かを殺すのも。自分が死ぬのも。人格データが上書きされる前の記憶がずっとフラッシュバックしてくるのも。ずっと追われ続けるのも──」
「ラムダ、一回落ち着け」

レンジが半ば強引に宥めた。

「聞いての通りだ。もうラムダは他人を殺さない。俺は何があろうと今まで通りラムダに付いていく。お前らとは金輪際関わらない」

ドリアードはしばらく沈黙し、腕を組みながら何かを考え込む。

「……なるほど。殺しは封じる。その言葉に嘘偽りは無いようだね」

静かに呟く。
ドリアードは軽く深呼吸し、再びラムダと向き合った。

「私も決心がついた。君たちの逃走を幇助しよう」
「……は!?」

ドリアードの口内から若い芽が覗く。

「幇助って……本気で言ってるの!?シエスタにバレたら死んじゃうよそれ!!」
「構わない。レナーデ・クローデルを想っているのは、何かしらを遺されたのは、ラムダ、君だけじゃない。私だって彼女のことを愛しているし、彼女に愛されてしまったんだよ」
「……」
「私も彼女の遺志を尊重したい。彼女は最初から誰の死も望んでいなかった」

口内の芽がやがて大きなつぼみへと変化し、徐々に肥大化する。

「奪う側であれ、奪われる側であれ、人の死に取り返しは効かない。過去は覆せないし、未来はいつだって過去に囚われてしまうものだ。……それでも君たちは、この終わりのない復讐の輪廻に抗うために、生き残るために立ち上がってくれた」

ラムダに歩み寄る。百歩蛇には似合わない、優しい足取りだった。

「シエスタ・シャンバラの勅諭に背き、君たちの隠密支援に徹する。1日でも早く図書館へ逃げ込めるように、できる限りのサポートをしよう」

開花した正体不明の花が、レンジ用の衣服と食料、武器、金品類の入った袋、そして2人が所有していた数点のアーティファクトを吐き出す。“双刃”の討伐直前にやむを得ず置いていったものだった。2人分の荷物にしてもやはり少なすぎるが、この手の稼業は私物の多さが死因に繋がりかねない場合もある。

「予備のドリアードやミームフィールド展開装置も含めて、回収できる分だけ回収しておいた。それと、これの取り扱いについてはラムダに任せる」

ラムダの目の前に置き渡されたのは、ヒトデのような形状の乾燥した球根だった。合計4つ。以前ヅェネラルの蔵書で見つけた異次元世界の固有植物、マンドラゴラの実物である。

「!……このデコイ、ヒナのために作ってたんじゃ──」
「使い方は後日教える。今は図書館からの脱出を最優先してくれ。それと……」
「……それと?」
「“道”に関しても、心当たりがある」

ラムダが目を見開く。ドリアードの指先に亀裂が走る。
活動限界を迎えたドリアードが、完全に崩壊した。塵一つ残さずに燃え尽きる。

ずっと空中で舞っていたシルフィードも、いつの間にか消えていた。遠隔召喚儀式の中継用デバイスが消えたからだろう。竜巻の勢いが徐々に衰えてきている。所在の解らない2人のゴーストに再び捕捉されるのも時間の問題だ。
ラムダは振り返り、アーティファクトの小山の中から取り出した予備のミームフィールド形成装置を握りしめる。

「今すぐこの荷物全部詰めよう。まずは脱出だ」
「了解。ゴーストはどうする?」
「……不本意ながら追跡不可能になるまで畳む。この状況下じゃ普通の白装束より厄介だからね」

すぐに収納が完了した。まだ容量に余裕があるくらいだ。空いたスペースに偽装ミームを解除したラムダが滑り込む。

「対ゴースト戦用意。結界が焼け次第ペイントを開始する。捕捉した敵から各個撃破しよう」
「どこまでやればいいんだ?」
「後遺症が残らない程度に歩けなくしてもらえれば大丈夫。殺すのはナシね」
「了解」

ポケットの中からスプレー缶を取り出し、竜巻の完全消失を待つ。

「レンジ」
「何だ?」
「ごめん。こんなことに巻き込んじゃって」
「気にするな」

復讐の連鎖を断ち切ることは難しい。どちらか片方が、或いは両方が完全に死滅しない限り、人の怨嗟はどこまでも受け継がれていくものだ。

だからこそ、ラムダは逃げることを選んだ。卑怯で卑劣で最悪な決断だが、少なくとも自分が誰かを殺さなければ連鎖は止まる。生きていれば、生きる限り、新しい可能性を見つけることができる。レナーデ・クローデルがラムダに遺してくれた、純然たる優しさのように。

「気にしなくていい。そういう約束だ」

風が消える。本の雨が周囲に降り注ぎ、やがて元通りの静寂が訪れた。

生き残るための戦いが始まる。

評価任務記録9822-2019/10/11-1

概要: 事案6311F14より引継ぎ。百歩蛇の手残党からの密告を受けて行われた評価対象1号“レンジ”、2号“ラムダ”の調査。
参加人員: 9822評価班“四ツ角”

  • ロード2: ドク(指揮担当)
  • ロード3: ビート(実働)
  • ロード4: ミクラ(実働)

備考: レンジの固有能力によりヘッドセットから回収された全ての映像資料が不可視性に汚染されたため、以下の資料におけるレンジとラムダの挙動が生還した2名の実働班員による口頭供述を元に加筆修正されていることに留意。当該能力が反ミームであるか認識災害であるかに関しては現在“薔薇の名前”第三室にて審議中であるため、当報告書ではこれを“不可視性”と表記する。


[前半省略]

23:29:39: 竜巻の障壁が突如消失し、実働班によるレンジの目視観測が再開される。ドリアードと未登録EVEの放射源は消失している。レンジはロード3に背中を向けた状態で直立しており、左手に一般的な自動車用の塗料スプレー缶を保持していることが確認できる。

23:29:41: 背嚢の触腕が斧状に変形し、レンジが差し出したスプレー缶を叩き割る。不可視性に汚染された非異常な銀色の塗料が吹き上がり、一時的にレンジとその周囲の視認が困難なものとなる。

23:29:49: 触腕が破裂したスプレー缶を投擲する。先の動作を計4回繰り返し、内1つがロード3の足元に落下する。グレイ・スーツに付着した塗料が擬態能力を著しく阻害する。

23:29:52: レンジがロード3を目視で捕捉。ネイルハンマーを振り上げて急速接近する。

23:29:55: ロード3、レンジと交戦開始。拳銃での牽制が間に合わず、右の鎖骨を叩き割られた後に触腕による頸部と腹部への殴打を受ける。

23:30:01: ロード3は一時的に戦闘不能となり、近くの本棚に凭れ掛かりながら呻き声を上げて座り込む。ほぼ同時にロード4による拳銃での奇襲が行われるが、全弾を触腕に防御される。

23:30:15: 触腕が扇状に変形させた先端部を横薙ぎに振り回して、滞留していた塗料をロード4に吹き付ける。ロード3同様にロード4のグレイ・スーツの擬態能力が無効化され、レンジに位置を特定される。

23:30:22: レンジはロード4に対し、左手で軽い煽りのジェスチャーを行う。

23:30:24: ロード4はグレイ・スーツを脱ぎ捨て、私物のダイバーナイフを逆手に構えながらレンジへの接近を試みる。

23:30:30: 触腕が背嚢からずり落ち、人型に変形してロード4に駆け寄る。ロード4は実体の飛び蹴りを辛うじて回避するが、直後にレンジと実体による2方向からの連続攻撃を受け、複数個所を骨折し戦闘不能となる。実体は連撃の途中で、人種不明の10代後半女性のような容姿へと変貌している。レンジの近接攻撃には、空手を始めとした計5種の既存格闘技の技術が見受けられるが、いずれも威力に見合わない粗雑さが目立つ。

23:30:46: 触腕実態がレンジと共に図書館東側の窓へと移動する。攻撃中の断片的な会話や限定的なミーム災害を受け、ロード2とロード4は触腕実体が“ラムダ”そのものであると断定。

23:30:52: ラムダがミームフィールドを解除しながらレンジの背中に纏わりつき、再び触腕状態に変形する。

23:30:56: ロード3が戦闘に復帰。その場で立ち上がり、個人的嗜好によって常時装備していた対人用のテーザーガンをレンジに対して発砲する。射出されたダーツは2本ともラムダに防がれる。

23:31:03: ラムダの肉体が突然硬直する。レンジもラムダを介して電撃を受けた影響で体勢を崩しており、軽く動揺しているように見える。ロード3はロード4に拳銃での発砲を要請する。

23:31:16: ロード4は吐血しながらも拳銃を拾い、匍匐姿勢のままラムダに対し9発発砲する。ラムダは着弾個所を中心に軽くひび割れるが、レンジによってテーザーガンのダーツを引き抜かれたためか、瞬時に回復する。

23:31:35: レンジはロード3のみをハードカバー本の投擲攻撃で再度無力化し、ラムダを背負ったまま目の前の窓ガラスを破砕する。

[実働班員全員の意識が失われたため記録中断。作戦終了後の人員回収と応急手当は6350排撃班“ハウンドドッグ”が代行した]


部隊の損害について: 詳細は別途資料を参照。ロード3、ロード4共に即日の行動復帰が予定されている。
特記事項: 評価対象2号“ラムダ”は高電圧の電流を直接与えることで、体組織の極端な硬質化と脆弱化、制御能力の喪失を誘発させることが可能であるとの仮説が立てられた。



:


「クソ!こんなところで弱点が判明するなんて!」
「二度と食らわなければいいだけだ。次はどうする?」
「坂の麓まで移動して逃走手段を確保する!脅威は実力を以て排除!ただし殺すのはナシ!」

想像以上に電撃が効いたが、どうにか無事に戦闘を切り抜けられた。潜伏していたゴーストをすべて無力化できたのは大きい。何せ足立区のポータルを嗅ぎ付けてくるような奴らなのだ。彼らを取り逃がせば逃走後も非常に大きな脅威となりかねない。

さて、坂の麓まで降りてから逃走手段を探す方法だが、正面玄関から堂々と逃げるのは流石に不味い。この辺一帯は一般住宅が密集しているため、大規模な記憶処理を苦手とする焚書者たちなら一斉包囲後の銃撃で仕留めてくるような真似ができないはずだ。過去に斃してきた者たちも、流れ弾による建築物の損壊や、近隣住民に気付かれやすい攻撃を渋る傾向があった。仮に畳みかけてくるとするなら近接戦闘一本槍になるだろう。

銃撃が消極的になることはありがたいことが、問題はその数だ。アレンによれば焚書者の数は十数人とのことだが、奴らが無策に集まったわけでもないことは確かである。やみくもに突っ込んだら何をされるか解ったものじゃない。

ならどう逃げるべきか。答えは既に算出されている。

「いくよ」
「了解」

ラムダの触腕が上空へと細長く延び、アンカー型に変形した先端部が図書館5階の窓枠に引っかかる。同時に窓枠を蹴り、レンジは身を投げ出す。もう少し高度を上げれば、日ノ出町の夜景をうっすらと一望できた。ラムダの触腕が一気に収縮し、レンジの肉体が更に高々と舞う。慣性に身を任せて屋上へと着地し、西側へと軽く走り、Uターン後に一気に加速して飛び立つ。

ラムダの全身が大きくうねり、平たく延び、鳥の翼のような形状に変形した。簡単な滑空しかできないが、離陸の時点で十分な速度は稼げている。レンジの上半身をハーネス型に分岐させた触腕で固定しているため、それなりに安定した滑空は可能だ。坂の表面を下降する気流に乗れば、あっという間にごみごみとした市街地まで飛んでいけるだろう。捜査線を混乱させる上でも、逃走手段を手に入れる上でも、十分な時間が稼げる筈だ。

銀に汚れた漆黒のウィンドブレーカーをはためかせ、海鳥のように、2人の逃亡者が空を飛ぶ。

対空射撃がいつ来てもおかしくない状況ではあるが、幸いなことに今は深夜帯だ。月は出ているが空はかなり曇りっぽい。地上から上空を監視するにしても、街灯の光が邪魔すぎて上手く捉えることは困難なはずだ。もちろん暗視装置はレンジが無力化してくれる。一撃で仕留められることはまず無いだろう。

相手がただの武装組織だった場合に限るが。

眼下にマズルフラッシュ。敵の狙撃にレンジがいち早く気づく。野毛坂中央の公園から狙撃された。

左の耳たぶを切り裂き、20ミリライフル弾がラムダに直撃する。首筋に激しい痛みが伝播した。
電気だ。この弾丸は帯電している。ラムダの特有の柔軟性が削がれているのが、肌越しに解る。

「11時方向の茂みからだ。次はどうする?」
「ごめん。耐落…下……防………御──」

左の翼がもげて崩壊する。重力に引きずり込まれる。不規則にぐるぐると回転しながら、中央玄関口へと続く浅い下り階段に墜落した。ラムダが下敷きになってくれたおかげでなんとか背骨は無事なままだが、今の衝撃で右の翼も砕け散った。どうやらラムダ本人の意識も飛んでいるらしく、呼びかけには一切応じてくれない。

「……次は、どうする」

思考が滞る。常日頃から決定権をラムダに委ね続けてきたツケが回ってきた。何も思い浮かばない。何も決定できない。考えれば考えるほど手が動かなくなる。


「──よお。銀色不審者」

背後に敵意を察知する。振り返れば、階段を登り切った少し奥に小柄な人影があった。ギター……否、チェロのケースを水平に構えた、年齢不詳のモッズコートの男。その向こう側に商業用大型トラックの群れ。一斉にヘッドライトが灯る。
逆光で顔はよく見えないが、チェロケースの中身がチェロでないことはなんとなく理解できる。


先程とはまったく別タイプのマズルフラッシュが、ケースの先端部を黄色く彩る。間の抜けたガス音を引き連れて、1発のグレネード弾が飛び込んでくる。片膝を着いた状態から大きく前転して回避し、ネイルハンマーを振るって立ち上がる。後方から金属パーツの展開音が響く。


「やっぱつえーのな。あの人殺したんだし当然か」

静止していたトラックが唸りを上げて発進し、出入り口付近のくぼ地を1列縦隊で囲い込むように再停車する。逃げ道を封じられたらしい。全高3メートル以上の車体を乗り越えなければ脱出できないリングが完成している。

偽装済みのグレネードランチャーを引っ提げ、ブラック・スーツを翻し、男はようやくその表情を露わにした。
形容するなら狂犬の2文字が似合う、好戦的な目つき。そういえば百歩蛇にもこんな奴がいた気がする。


「……誰だ、お前」
「“ヤシオリ”のマガタ。テメェの首を刈りに来た」

続けてもう1人の新手が乱入する。コンテナの上から飛び降りたのは、やたらのっそりとした体形の巨躯。水道局の現場作業員が使っているような水色のツナギをピッチリ着こんでいるせいで、余計に筋肉の厚さが目立つ。片手に持っているのは大型のライオットシールド。持ち主がデカすぎていまいちスケールが掴めないが、最低でも1畳分の大きさはある。覗き穴以外のディティールが殆ど見当たらない。深々と被った作業帽の鍔で目元は隠れている。

さっきラムダを狙撃したのはこいつだ。レンジは直感で悟る。狙撃手らしい臆病さと太々しさを殺気で上書きしている奴は、こういった無表情を無意識のうちに作りがちだし、隠しがちだ。

かなり不味い状況に立たされている。2人程度ならしばらく1人で捌き切れるかもしれないが、ラムダがいつ戦闘に復帰するかは不明であり、たとえこの2人を倒しても恐らく新手は次々と湧いてくるのであろう。トラックの檻の中に閉じ込めて少数精鋭を断続的に送り込み、じわじわと体力を削るのが狙いだ。檻の構造的に周辺建造物からの狙撃支援が入るとは考えにくいのはありがたいが。

なんにせよ、戦わなければ生き残れない。生存を脅かす敵は確実に排除しなければならない。決定はできなくても、目の前の脅威を排除することならできる。できることをするしかない。

「“薔薇の名前”の意向は知らねーけど、オレらがテメェをブチのめすことに変わりはねえから。そこんとこよろしくな。あとラムダ・シナフス?は破壊する」
「……」
「挨拶終了」

再びグレネード弾が発射される。レンジの顔面手前で炸裂し、少量の催涙ガスをばら撒く。
防御手段はない。動きが一瞬止まった。

「キョウ!」
「援護を」

キョウと呼ばれた男の全身が、風を切って動き出す。ライオットシールドと呼ぶにはあまりにも巨大すぎる長方形の漆黒が、さながら急発進直後の軽自動車のような勢いでレンジに衝突した。体重120キログラム、身長211センチメートルの巨躯が、縦幅だけでも180センチメートル近い大楯を構えて4歩前進しただけだが、回避の余裕を封じて人間を撥ね飛ばすだけなら十分すぎる動作だった。案の定レンジの体は中を舞っている。

しかし着地を試みる判断力は未だ健在だ。評価班戦と地上6階からの墜落、ラムダの肉体崩壊を経てなお、レンジの目線は微塵もブレていない。

マガタ特注の特殊弾頭はそれ以上に冷静で冷徹だった。
発射された2発のゴム弾が着地直前のレンジの胸を正確に捉え、続けざまに等身大の風船へと変形する。膨張の衝撃に耐えきれず、レンジは下手なボーリング玉のように地面へと激突し、鼻血を撒き散らしながら転がり続けた。ラムダはまだ復帰できないらしい。ゆったりと落下した巨大風船を軽々引き裂きながら、再びキョウのシールドが迫る。レンジに激突する数メートル手前で、不意にそれは持ち上がった。

「……」

轟音。アスファルトを噛み砕く風が野毛坂を駆け下りる。数瞬前までレンジが転がっていた地面は、キョウの叩きつけたシールドの縁で木っ端微塵に破砕されていた。軽やかなリズムでも刻むように、小さなギロチンと化した重合金の塊が、転がって回避するだけで精一杯のレンジの後を踏み抜いていく。処刑人の足取りは遅く、表情はこの期に及んでもやはり乏しい。大きく反時計回りに弧を描き、小型犬のような足取りでマガタが躍りかかる。

「逃さねえよ!」

ランチャーの砲撃がレンジの行く手を阻んだ。単身突撃でもナギに負けず劣らずの戦闘能力を誇るマガタだが、彼の真の強さはキョウを盾役とした制圧射撃で初めて発揮される。傘の骨のように展開した弾頭は、高速で回転しながらレンジの背中に、硬直中のラムダへと着弾していた。もはや一度の呼吸すら許さない連携攻撃だった。自壊した特殊弾頭はキョウのシールドを掠めて吹き飛び、停車中のトラックの外装に浅く突き刺さる。いつの間にかレンジもトラックの檻の隅に追い詰められていた。これ以上転がって攻撃を回避することは不可能だ。

「──させるか!!」

仰向けに倒れていたレンジの背中が持ち上がり、一本の銀の触腕が右脇をくぐり抜けて飛び出す。大楯のド真ん中に直撃。キョウの巨体が小さく後退する。全質量の60%近くを失ってはいるが、ラムダはようやく通常時の機動力を取り戻していた。触腕は続けざまに路面を叩き、レンジが起き上がるための補助脚へと変形する。

血痰を吐き捨てながら、レンジはゆらりと立ち上がった。幾多の修羅場を生き延びたが故のタフネスである。相棒のために不殺と生存を誓った殺人鬼は、殺人鬼に恥じぬ出で立ちでファイティングポーズを取り戻していた。

「……何秒くらい動けなかった?」
「1分くらいだな」
「ハードだね。次に電撃と強い衝撃をダブルで食らったら冗談抜きで死ぬかも。損失した分の肉片を呼び戻せなくなってるっぽい」
「死なせない。指示をくれ」
「盾使いを無力化する。援護射撃は無視していいけど、拳銃ならいつでも使われかねないから注意して」
「了解」

ネイルハンマーを軽く振るい、堂々と迎撃体制を整えた巨人へと歩き始める。1発の傘骨弾が左前方から迫るが、ラムダに備わった機能の一つである“自動防弾”は、近距離から超音速で飛来するライフル弾でも全自動で叩き落とすことが可能である。ガス推進機の傘骨弾は、案の定ラムダの触腕に跳ね返されていた。レンジの足取りが加速する。

一方のマガタとキョウも、冷静さを欠くこと無く左右に展開する。

「動きを止めろ。轢き潰す」
「解った。気ぃつけろよ」

土俵によって左右されるとはいえど、タッグとしての練度と実力はほぼ同格と言って差し支えない。レンジとラムダが大抵の4人編成ホワイト・スーツ部隊を瞬殺できるように、キョウとマガタの制圧行動は、小規模な超常テログループを突入から2分以内に鏖殺できる。

タッグVSタッグの戦い。個の力と連携の力で勝った者たちだけが生き残る戦いだ。当然ながら両者とも負けるつもりがない。

先に動いたのはマガタだった。弾種を切り替えて1発のみ発砲する。ラムダの“自動防弾”が瞬く間に弾頭を掴み取り、全自動で握り潰す。
直後、閃光が迸る。救難信号弾の光が、野毛坂の路面と中央図書館を夕焼けに塗り替えた。即席の目潰しとしてはまあ上等なものだろう。

いくら敵が強かろうと、その視力を奪ってしまえば土俵はこちらのものだ。あらかじめシールドで視界を保護していたキョウが、防弾プラスチック製の覗き窓から再び様子を伺う。右脚を大きく引く。シールドの裏に収納されたバトルアックスを抜き取る。


理解より先に呼吸が止まる。

ラムダ共々、レンジの姿が消えていた。当然ながらVERITASで位置を割り出すことはできない。
まだ想定内だ。心拍数を一切変えずに迎撃の準備を整える。マガタの声を待つ。

ヘッドセット内で警報音。EVE。登録済みのタイプ・ブルーか軌跡術回路が付近に存在している。ルルのものでないことは確かだ。

「──足元にEVE検知ッ!アレンだ!」

マガタが吠えるよりコンマ数秒早く、キョウの足元に花付きの細い枝が出現する。月桂樹だった。中学生の頃に図鑑で見た通りの小さな花が、一本の枝の先で可愛らしく犇めき合っている。ただそれだけだ。警報音は響かない。VERITASはこの枝を非異常と判断している。


脳が揺れる。

ほろ苦くも甘い香りが立ち込める中、たった一度の過ちを悔やんだ。左顎を捕えた触腕のフックに平衡感覚を奪われ、膝から崩れ落ちる。
あの枝は非異常じゃない。そもそもVERITASがこの枝を認識できていなかった。即席のブラフだ。レンジはこのシールドのすぐ向こう側にいる。消失なんかしていない。除き窓からではギリギリ補足できず、なおかつマガタの視界からも完全に隠れきれる死角からこの枝を投げ込み、その後EVE透明化能力を限定的に解除したのだ。VERITASの早期警戒機能を完全に逆手に取られたらしい。突くには十分すぎる隙を曝してしまったのが命取りだった。

再びEVE検知。未登録のタイプ・イエロー。今度はシールドのすぐ向こう側。目の前数十センチ先。ただの挑発なのか攻撃なのか判別できない。何であれ圧し潰すに越したことはない。
判断力に肉体を追いつかせる。膂力の限り全身を捻り、恐らくレンジなのであろう何かをシールド全体で吹き飛ばす。手応えあり。
だが軽い。成人男性の重さではない。


「──右だ!」

右からだった。友軍誤射を警戒するあまり、マガタの援護射撃は止まっている。すれ違いざまに放たれたレンジの連撃が、ブラック・スーツの防刃繊維を突き抜けて右の脇腹に深々と刺さる。肋骨が数本折れた。呼吸器系に骨が突き刺さったわけではないが、もうこれから体勢を立て直すことは不可能に近いだろう。

レンジの向かう先にはマガタがいる。単身での迎撃を簡単許してくれる程甘い敵ではない。いくら足掻こうがキョウは重症だ。復帰はできない。今まさに頭上を通過しているラムダを止めることすら敵わない。

認めよう。詰みだ。タッグとしてのこいつらは確かに強い。こちらの負けを認めるしかない。

ただし、これはあくまでタッグ戦に限った話だ。


「──“しゃく”!」

レンジの背中にラムダが張り付く寸前で、両者の間に手榴弾クラスの爆風が発生する。レンジは勢い余って進行方向に吹き飛び、ラムダもまた為す術もなく空中を舞っていた。呪詛由来の半無条件空間爆破術だ。両者がほぼ同時に路上で静止しようとしていた矢先に、レンジの一瞬の油断を狙って参戦したスカジャン姿のルルと、血眼で吠えっぱなすマガタが駆け出した。タイミングを合わせてレンジを左右から挟み、阿吽の呼吸で顔面を蹴りつける。絵に描いたようなサッカーボールキック。立ち上がろうと藻掻くレンジの手をルルが踏みつけ、マガタの踵落としが浮き上がった頭部をもう一度路面へと叩き伏せる。事務的な暴力と原始的な暴力が絶え間なく折り重なり、徐々にレンジの体力を削っていた。鮮血が路上を走る。

「やめろおおおおおおお!!!!!」

人型に変形したラムダが駆ける。ミームフィールドは展開されていない。考えなしの突進に思えるが、不死性に近い異常な耐久能力を封じなければ完璧には討伐できない脅威だ。再生不可能になるまで粉々にしなければ何度でも復活してくる。
唯一の弱点は、電撃。“四ツ角”が命を賭して炙り出した糸口だ。ここで使わない選択肢はない。ルルが呪符を引き抜き、マガタがチェロケースを構えなおす。

「1発当ててもろて」
「応!!」

特殊弾頭が飛び立つ。ルルの呪符が紫に燃え上がる。

「“こう”」

生来からルルの体に刻まれている術式ではない。しかしその威力や精度はこの際何ら問題にならない。電撃で動きを止めて、止まった隙に強い衝撃を与えればいいだけだ。
呪術を介して帯電した特殊弾頭が空を切る。ラムダを撃墜する際にキョウの銃弾で試した甲斐があった。かに思えた。
弾頭は、既に“自動防弾”を解除していたラムダのすぐ横を突き抜けていった。

「レンジを……返せ!!!」

見事に外れた。ラムダが加速する。

敵数2。このまま押し切ればレンジを回収できる。

「当てて言うたやん!!!」
「これから当たンだよ!!!!」

当たるわけがない。背後には目もくれず、両腕をハンマー型に変形させる。あと数メートルで、届く。

「──着弾、今ァッ!」

背後に衝撃を検知。致死性。
不明な原因により身体操作機能が一時的にダウンした。再起動まで2秒。視界内に解読不能な言語の羅列が立ち並ぶが、不思議とニュアンスは汲み取れる。

何故か電撃を受けた。かなりの衝撃が伴った感電だ。背中が大きくひび割れているのが解る。

「……な…ん…」
「ボケが!班長の仇だ!!」

あの場でゴーストたちを殺しておけば、こんなことにはならなかった。事実である。故にラムダは苦悩していた。不殺が復讐の連鎖を止めることに繋がろうとも、不殺だけでは自分自身を守ることができない。たとえ敵を行動不能にするだけに留まろうとも、完全排除しないだけでここまで大きな危険を背負うことになってしまうのだ。

Uターンの後ラムダの背中に直撃したマガタの必殺兵器、視線誘導型短距離偵察特攻ドローン“タラリア”は、ルルの付与した電撃を確実に放射している。


優れた頭を失おうとも、ヤシオリの手足は変わることなく怪異を撃ち抜き、敵を踏み躙る。
正常性と人類社会に仇為す脅威を粛正する、無慈悲の処刑人であり続ける。

一閃。
夜の帳を切り裂き、火花を散らし、2本の黒刃が咆哮する。かつて生命を宿していた銀色の金属片が波しぶきのように舞い、やがて安物のガラス細工のように、野毛坂の路面へと撒き散らされた。

「…ラムダ?」

レンジを踏み続けていたマガタがゆっくりと退き、途中参加してきた呪術師の男もまた、踵を返してその場を離れる。
黒刃の主は刃を軽く振るい、事務的に呟いた。

「“ヤシオリ”より各班。ラムダ・シナフスの粛正に成功。レンジの確保フェーズに移行する」

その口調や眼の光に、両者は説明不可能な懐かしさを錯覚する。
同類だ。血の海でしか生きることを許されない者の匂いがする。
同族だ。安寧を知らない、或いは既に忘れた者の波長が見える。

2人がかりでへし折られた指をアスファルトに押し付け、呆然と黒刃の主を見上げる。ビジネススーツを羽織っていた。

ドリアードが話していた“別人”とは、恐らくコイツのことだ。無機的というか機械的というか、出会って間もない頃のラムダに似ているような気もする。人らしい“人っぽさ”はあまりにも薄すぎる。


「……お前か。レンジってのは」

ラムダの復活する気配がない。いつまで経っても応答がない。

10月の夜風が、横浜市上空を吹き荒れる。

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