これは復讐の物語であった。
視界の果てまで、ビル並の高さがある本棚が立ち並んでいる。
しかし、それらは尽ことごとく空っぽだった。本は一冊も収まっていない。巨大で空虚な本棚の谷間を、ラムダは相棒のレンジを探してふらふらと彷徨さまよっている。どこからともなく差し込む、黄昏たそがれのような弱々しい光が、その孤独な姿を照らしている。
盾役の自分を差し置いて、無茶ばかりするレンジ。
放浪者のシンボルもろくに読めなくて、しょっちゅう自分に通訳させるレンジ。
あんたはどうしたいのと尋ねても、お前が決めてくれとしか言わないレンジ。れっきとした人間だというのに、その振りをしているだけの自分以上に分からずにいるかのように──人としての生き方が。
「レンジ──どこにいるの」
子供っぽい口調とは裏腹にしっかり者と称されるラムダだが、今にも泣き出しそうなその声は、本当にただの子供のようだった。いつも"頼りない相棒"を引っ張ってきたラムダは、最早どこにもいない。少し前に目撃した光景に、彼女は思い知らされていた。自らの選択が招いた結果を。
かつての仲間たちの、血まみれの死体。
「アレン、ヒナ、パヴェル──シエスタ」
一人一人呼びかける。虚空に墓碑銘を刻むように。
(ごめん──私のせいで)
きっと彼らは、自分を裏切り者と憎みながら死んでいったのだろう。事実、その通りだ。自分のわがままが百歩蛇ひゃっぽだの手とGOCの排撃班、二組の復讐者を出会わせ、血で血を洗う復讐劇を演じさせた。
それなのに、自分だけがこうしてのうのうと生きている。
「レンジ、返事して!」
排撃班に発見される危険も忘れて、ラムダは相棒の名を叫ぶ。いっそ、排撃班の連中でもいいから、生きて姿を見せて欲しかった。しかし──。
「!」
本棚を回り込んだラムダは、息を飲んだ。排撃班の隊員たちの死体と、本棚にもたれている相棒の姿を見て。
慌てて駆け寄る。排撃班の隊員たちは、全員が額を粉砕されていた。レンジが一人でやったのか。見たところ、彼は大きな怪我はしていないようだが。
「レンジ、あんたはまた無茶して──」
ラムダの言葉が凍り付く。ぐらり、レンジの身体が傾き、倒れる。そこで初めて見えた。何らかの爆発物にやられたのだろう、レンジの身体が半分になっているのが。そんな姿になってもなお、レンジの手は獲物のネイルハンマーを握り締めていた。
「────」
頭の中が真っ白になるという感覚を、ラムダは身を以もって知った。
よろよろとレンジの死体にかがみ込む。その懐から一冊の古文書が覗いているが、ラムダはそこまで気が回らない──この本なき図書館で、それはあまりに不自然な光景だと言うのに。
(私が、私がこいつを付き合わせたから──)
ラムダは今こそ思い知った。相棒に頼っていたのは、自分の方だと。
本当にレンジのためを思うなら、一人で逃げるべきだったのだ。こいつなら、百歩蛇の手に残るにせよ、どこかへ移るにせよ、きっと上手くやっていけただろう。正義だの信条だの、そんな大義名分にすがらない、適当で強いこいつなら。
ラムダの拳が震える──許せなかった。レンジを殺した世界も、相棒を守れなかった自分も。
何もかも、消えてしまえと思った。
その目から、漆黒の液体金属が流れ落ちる。否、涙などではない。人間ではない彼女に、そんなものは流せない。強烈な自己否定が身体の結合を緩め、崩壊を招いたのだ。それは、あたかも受け止めるかのように、開かれた古文書のページに零こぼれ落ち──。
「消えろ、消えちゃえ、みんな、みんな、みんなみんなみんなみんなみんなみんな──!」
ラムダの慟哭どうこくに呼応するように、世界が歪んでいく。
公園の木々は生首を生やした植物にとって変わられ、散歩中の犬は鎖に繋がれた奴隷に変貌し、東京スカイツリーはねじれたピラミッドのような建物へと姿を変える。
誰もそれを異常だとは思わない。あらゆる文字が見たこともない象形文字に置換されても、元からそれを使っていたと皆が信じて疑わない。コロシアムでは人々が奴隷試合に熱中し、母親たちは嬉々として我が子を生贄に捧げ、通りでは偉大なる女王の3000歳の誕生日を祝うパレードが行進している。
最早、ラムダやレンジが生きていたことなど、誰も覚えていない。その喜びも、悲しみも。
それはある意味、究極の救いではないだろうか──。
こうして、彼らの復讐は終わった。