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プレスリリース
██年9月25日、SYOHATAグループは、大垣クレイアンド・セラミックスを買収しました。


「ああ、やられた」

書斎のごとき広々とした社長室で、彼は忌々しげに呟いた。

「参ったなぁ、欲しい会社だったんだけどな……」

彼は今まさに不機嫌そのもの、といった風情で端末の画面を見つめていた。
プレスリリースの文字をためつすがめつ、モニターの電源を切った。

磨かれた液晶モニターには、彼の容貌が写り込んでいた。

少年のような若々しい、という言葉がしっくりくる顔だった。
否、彼はまさに少年のまま、社長の椅子に座っているのである。

更に言い換えれば彼は爾来、少年としてこの世に発生した存在なのである。

名をヘルメスという。

ギリシャ神話の、かの有名な少年神。
知識の神にして、盗賊の守護神。
その彼が社長を務めるこの会社は、Ttt社と言う。

「どうかしましたか?社長」

社長室のただならぬ気配を察してか、一人のビジネスマンが入室してくる。

彼はスーツに身を固め、しかしその貌は、鳥の形をしていた。
更に細かく言うのであれば、朱鷺と呼ばれる種であった。

前衛芸術の如き奇妙ないでたちだが、彼もまた元来こういった存在なのだ。

「どうもこうもないよ。トート、ちょっとこれ見て」

トート、と呼ばれた鳥顔の紳士は、少年社長の隣に回った。
そう、彼もまた、人間ではなく歴とした神族の一員である。

古代エジプトの知識の神として、彼もまた名高い。
社長と比べれば、その前歴は概ねおとなしいものである。

ヘルメスがモニターの電源を指先で入れると、トートはおや、という声を上げた。

「この会社は、先日我々が目をつけていた会社でしたね」
「そうだよ、非異常の新式セラミック技術のホルダーさ」

人類は太古より粘土を捏ね、それを焼いて様々なものを作り上げてきた。
それは陶器や、焼き物などの呼び名で、人類の文化に様々な恩恵を与えている。

セラミック技術とは、その技術を更に高度にしたものと思えばいい。
粘土を粉状の原料に変え、それを混ぜて様々な用途の物品に形成する。

「確か、私たちの生きていた頃の土塊を見事に再現した会社ですね」
「そうだよ、あの会社は僕らの生きていた時代の食器が作れるんだ」

大垣クレイアンド・セラミックスは、ナノ擬似化焼結という新機軸の技術を有していた。
端的に言えば、古い時代の土器の分子構造を再現できる技術である。

「ボンクラ供に先んじて、絶対買収するつもりだったのにさぁ……」

ヘルメスは両足を机の上に裸足の両足を投げ出し、じたばたと両足を動かした。

「やめなさい社長。子供だからって、していいことと悪いことがあります」
「なんだよ、これくらいいじゃないか。何か問題でもあるのかい?トート」
「机上に足を投げ出すのはみっともないです、社員にけじめがつきません」

ちぇっ、と言いながらヘルメスは不承不承、両足を床へと戻した。
裸足である事を注意されないのは、双方の習慣によるものである。

端的に言えば、トートは早々に諦めたからだ。

「あの手触りや重さはなかなか再現できなくってさぁ……実物を手にした時は驚いた」
「実物って……またやったんですか。長い付き合いですからいちいち驚きませんがね」

「うん、やったよ。僕は盗賊神でもあるから」

そう言うと、ヘルメスは書棚の一角を指差した。

そこには、一つの壺があった。
これは、ギリシアのアンフォラと呼ばれる壺だ。

イスラムのモスクを思わせる尖塔の如き先端の突起が特徴的な壺である。
果実のような優美な曲線に、小豆色の地肌、そこにアテナの絵が描かれている。
そして、突起の両端には運びやすくするための取っ手が付いている。
このとってもまた、特徴的な先端部分をあしらい、一つのおかしみを与えていた。

美術、ことに陶器を偏愛するものならば、一目見て声を上げるほどの逸品である。

「どうしても欲しくなっちゃってさ」

ヘルメスは、悪びれずに言った。

「早い話盗んだ、と言う事ですよね」
「だって、売ってなかったんだもの」
「当たり前です、これは学術品です」

大垣クレイアンド・セラミックスがTtt社の目に留まったのは半月前のこと。

エジプトや古代ギリシアの学術研究の最中、それを再現する研究がスタートした。
その学術研究に技術提供を行ったのが、大垣クレイアンド・セラミックスである。

かの会社は突如として関連研究機関に連絡を取り、そして堂々とその業務を勝ち取った。
最高学府の研究であるならともかく、これを始めたのは名古屋の研究機関である。
利益を産みにくい分野に於いて、それに対して技術提供を行う企業は限られている。
だが、大垣はその技術を惜しみなく研究機関へ与え、そしてあの壺を易々と作り上げた。

否、ギリシアの壺どころか、メソポタミア、エジプトの陶器までをも再現せしめたのである。
これはネットニュースでも一時期話題となったが、それはさざ波の如く数日で消えて行った。

そして、ヘルメスの興味を引くに至ったのである。

「ほら、君の時代の品物もあるよ」

「Qebehsenuef……これはなんとも可愛らしいですね」

Qebehsenuef(ケブセヌエフ)とは、ホルスの四人の息子の一人である。
この四柱の神は、人間の各臓器を守護する立場であるともされていた。

そしてこの壺は、死者を埋葬するのに使われていた。
用途は、心臓を除く重要な臓器を収納する事である。

この壺は、エジプト特有の砂を含んだ粘土を焼いたもので、カノープスと呼ばれる壺である。

紙のような純白の地肌は、土に石灰質の砂岩を含有している為である。

壺の蓋にあしらわれた隼の頭部が、ケブセヌエフの意匠である。
トートの言う通り、どこか可愛らしくもある。
これもまた、古代エジプト美術品愛好者を唸らせる逸品であった。

「いいものでしょ?君だって、絶対欲しくなると思うんだけど」
「こういう物を盗まないで下さい、向こうも困ったでしょうに」

鳥の顔をした神は、ヘルメスの顔をじっと見つめた。

「その顔、ちょうどその壺の顔にそっくりだと思うなあ」
「彼は私の同族なのですから、それは当然のことですよ」

呆れた口調でトートは言い放った。
だが彼の何物も見逃さぬ目は、モニターを見つめ続けていた。

「しかし、妙ですね。我々に先んじて買収を行える会社はそうはいません」
「そうだよ!僕らの力を合わせれば、会社の情報なんてすぐに手に入る筈」

思えば、大垣クレイアンド・セラミックスには奇妙な点があった。

まず、会社自体の株式は非公開であったことである。

こういった技術を有する会社は早々に株式公開をしている事が多い。
しかしながら、大垣は株式を公開する事はなかった。

「あの技術を実現化するには結構なお金がいる筈なんだけどね」
「正直、うちの会社がパトロンになっても良かったくらいです」

トートは大垣を買収するにあたり、まずはそのバックグラウンドを調査した。
トートは知恵の神である、その為人の世の行いは概ね彼の既知の事項となる。

その結果、以下の事柄が即座に判明した。

・大垣クレイアンド・セラミックスは日本は岐阜県に存在する企業である。
・出資者は「有志の人物」によって行われその情報は非公開となっている。
・出資者の公募は1年前に行われ、そのWEB情報は削除済みとなっている。

ヘルメスはその削除された情報を、その目で見た。
ヘルメスは経済の神でもあり、計略と詐欺の神だ。

文書化された物であれば、彼はなんでも読む事ができる。

結果、大垣と出資者のメールは簡素な連絡のみという事が判明した。
大垣のサーバー内に出資取引に関する文書は、一切存在しなかつた。

「と言うかさ、そんなことってある?商業っていうのは信用の産物なんだよ」
「それを詐欺と窃盗行為の神のあなたが言うのは、大いなる矛盾でしょうね」

これはヘルメスとトートにとっては、大変奇妙な事であった。
商業取引によって信用証書が存在しないことなどあり得ない。

「あれば、すーぐに貰ってきたのに」
「それは貰ってくるとは言いません」
「でもさ、やっぱりおかしくない?」

ヘルメスは不審そうな顔をしつつモニターを眺めた。
その表情は、自分の知らない虫を小枝で突く子供のそれである。

「なにやら、同族の匂いがしますね」

トートはモニターを睨みつつ、ぽつりと呟いた。

「僕らに隠し事するメリットって何」
「手癖の悪い経営者がいるからです」

ヘルメスはむすっとした顔で、両足をデスクに投げ出した。

「だからやめなさいって」
「足癖も悪いんですゥー」

ヘルメスは口を尖らせ、デスクに深々と背中を預けた。
そして頭の後ろで両手を組みつつ、ぽつり、と呟いた。

「出資者、調べてみるしかないか」
「買収元もです、調べればわかる」


かくして、調査は開始された。

Ttt社の社長と副社長は各々タブレットとスマートフォンを手に、猛烈に情報を検索し始めた。
通常、企業買収に関する情報の全てがWEBに転がっている筈はない。

だが、これはあくまでもただ人の世界の話である。
彼ら二人にとって、情報機器は単なる依代に過ぎない。

事実、彼らの手元を見てみれば、ランダムな文字列を打ち込んでいるようにしか見えないであろう。
だが、そこから得られる情報の量と正確さは、常人がただスマートフォンを握る事の数百倍である。

そして、判明した事実は以下の通りになる。

・出資者は複数の代理人をバイパスして送金を行なっている
・出資者の名前は不明な理由によって見る事が出来なかった
・出資者はヘルメスとトートの親類ではない可能性が高い

次に、買収元の企業についてわかった情報は以下の通り。

・買収元のSYOHATAグループは愛知県に在籍する総合企業である
・複数の企業をカニバリ(合併)し、急速な成長を遂げている
・2年前に上層部の幹部が総入れ替えとなった
・なお幹部は全員が不審火で家族を含め死亡している
・MC&Dとの取引記録あり
・取引物品は悪魔工学を利用した電子回路
・日本生類総研が社員の一人に回路埋め込み手術を行なった
・社員の名前は溝口一平である

この間、たったの30分ほどであった。
これはこの二人にとって、手こずった類と言っていい。

「たったこれだけ?」
「ええ、そうですね」

ちょっとした仕事を終えて、二人はコーヒをすすっていた。

「つまり今回の主犯は神族じゃなくて悪魔って事?」

強めのブラックコーヒーに、砂糖を山のように入れながらヘルメスは言う。

「窃盗の主犯が偉そうに……しかし、そういう事です」

この二人にとって、悪魔を相手取る事は危険ではない。
それだけ、この二人の神格は群を抜いて強い物なのだ。

「でもさぁ、なんで悪魔がこんな事するんだろう」
「恐らく、私たちの視線に気づいたのでしょうね」

そう言いつつ、トートは嘴をカップに差しこみながらコーヒーをすする。

「見られていたことに気づいて、情報を隠したって事か」
「そうです。それからもう一つ、重大な理由があります」
「重大な理由?最近じゃぼくらの世界は神様だらけだよ」

1998年の事件以来、この惑星は神が路上を闊歩する世界となった。
だがそれは、悪魔と呼ばれた存在も、また同様であった。

「その二つの壺が主な理由でしょう、重・大な理由です」
「いちいち文節区切って言わなくてもいいじゃないかよ」

口を尖らせるヘルメスを無視して、トートは腕を組んだ。

「困りました、悪魔の名前を知るのは一苦労でしょうね」
「うんうん、特に意固地になった悪魔は厄介だと思うよ」
「誰のせいだと……あ、この際専務に意見を聞きましょう」

そう言うと、トートは社長の机に置いてある小さなボタンを押した。

バタン、と言う乱暴な音とともに、一人の紳士が入室した。

外見年齢は40ほど、銀色の髪を景気良く刈り上げた髪型の眼鏡の男である。
その風貌には理知と覇気が溢れ、そしてその両目には怒りが燃えていた。

「ジョブスを500倍やさぐれさせたらこうなる」とはヘルメスの言。
そして彼がこうなる理由を作っているのも、当然ながらヘルメスである。

「ヘルメス……貴様、また面倒事か?」
「落ち着いてください。錬金術師どの」

トートはヘルメスと紳士の間に割って入った。

「副社長、どいてください。今日こそこいつを殴らせてください」
「嘆かわしい、知恵と名声と光輝に溢れたあなたが、暴力などと」
「よっ!〝3倍偉大な〟トリストメギトス!3倍偉大で3倍働く!」

「やかましい!黙れこのガキ!」

彼の名はトリストメギストス。
正式名はヘルメス・トリストメギストス。

トリストメギストスは、トートとヘルメスの神格を合わせた存在である。
二人が生を受けた神世の時代には、存在しなかった神格存在でもある。

錬金術の祖と呼ばれ、トートとヘルメスへの信仰が習合された結果誕生した。

そのため、神格の強さはヘルメスとトートを凌ぐと言われている。
そのように信仰されている、少なくとも信者はそう信じているのだ。

Ttt社に於いては技術関連を担当するCTOであり、また専務職も兼任している。

破天荒なヘルメスが社長を務めるTtt社が存続できているのも彼の尽力が大きい。
3倍の強さと言う理由で、ヘルメスが起こした面倒事も、概ね彼が始末している。

故に、彼がヘルメスに対して抱く屈託が怒りに変わるのに時間はかからなかった。

「〝偉大な、偉大にして偉大なる〟トリストメギストス!ちょっと相談があるんだけど」
「はっ倒すぞ小僧。そして副社長、おはようございます。本日はどういったご用向きで」
「相変わらず扱いが違うよね。ぼく、社長だし君にとっては存在に於ける祖なんだけど」

トリストメギストスは顔をしかめ、大きな舌打ちを鳴らした。

「まあ座って、社長が盗んできたものの解析結果を聞かせていただきたいのです」

トートは部屋の隅から運んでくると、トリストメギストスは息を吐きつつ座った。

「もちろんお安い御用です。いつもいつも、副社長には世話になっていますから」
「もったいぶってないで言え。ほらほら、光輝と理知と栄光の我らが大錬金術師」
「その小さいのは無視してください。ああ、忘れていました、コーヒーをどうぞ」

トリストメギストスは笑顔でカップを受け取り、悠々とコーヒーを一口啜り、口を開いた。

「端的に言えばこの模造品の製造には、魔術やらなんやらは用いられていません」
「非異常だって事は僕が確認済みだよ、でもこいつの製作には悪魔が関わってる」
「慌てる盗人は貰いが少ないぞクソガキ。いいから、私の話を黙して聴くがいい」

トリストメギストスはそう言うと、指先で中空を撫でた。
すると、様々な立体映像が虚空に出現した。

アンフォラとカノープス壺の三面図や分子構造である。

「壺を解析した結果、使用されている素材は誰でも手に入るものだと判明した」

言いつつ、トリストメギストスは美味そうにコーヒーをもう一口啜る。

「しかし問題はその加工技術だ、これは現行の人類にとって20年早い」
「ちょっとしたブレイクスルーって事?その割にやる事は大人しいね」

どこからか取り出したチョコ菓子を齧りつつ、とヘルメスは応える。

ちっ、と舌打ちしつつトリストメギストスはさらに中空で指を回転させた。

「分子構造はほぼ完璧に模倣されている。作成方法は、次のようになる」

中空の立体図が変化した。

「分子構造に放射線を加えて劣化させ、分子構造のモデルを作っている」
「なるほど、そのモデルを元に素材を劣化させ、あの質感を再現したと」
「構造を読み取る精細なスキャナも、あの会社は持っているでしょうね」

トリストメギストスは複数の図像を手のひらの上に集めた。
二次元図像は一つの形となり、三次元、壺の形へと変化する。

「これらの素材を適切な温度で焼結させ、あの壺は作成された。以上だ」

そして、トリストメギストスはヘルメスを指差した。

「これが何を意味するかわかるか?このクソガキめが」
「はいはい偉そうに、要は完璧な偽物製造技術でしょ」

ヘルメスが回答を述べる。

「そうです社長。しかしこれは、軍事転用も可能では」

トートがそれを補足する。

実際のところ、セラミックは戦車の複合装甲にも用いられている。

「ええ、鹵獲した戦車の装甲を分子構造から再現することも可能です」

トリストメギストスはわが意を得たり、と言うように頷いた。

「問題は分子構造のみならず、それを焼結させる適切な温度を判断する方法です。
かの悪魔はそれを知っており、その技術を大垣に惜しみなく与えたのでしょうね」

ふむ、とトートが声を漏らして頷く。

「まさに、悪魔に相応しい所業です」

トリストメギストスはそのように結びをつけ、煙草に火をつけた。
クロームシルバーのジッポーには、Ttt社の名前が刻印されている。

「なるほどね、すごい技術かも。人間らしくてみみっちいけど」

椅子に座って足をばたつかせながら、ヘルメスは楽しそうに言った。

「知恵は常に悪魔と共にある、とはよく言う話です。しかしなぜ?」

トートの目が、怪訝そうに細められた。

「かの悪魔が、技術を超常軍事企業に転売しないのが不思議です」
「そこが、この悪魔のフェアなところです、私は彼に好感すら抱く」
「錬金術師は悪魔とお友達みたいな物だもんね、神様を敬わないし」

ふん、とトリストメギストスは鼻を鳴らしつつ、タバコを社長机に押し付けた。

「でさぁ、その悪魔の本当の名前、君は当然知っているんだよね?教えて?」

トリストメギストスはヘルメスを嫌そうな顔で見遣ると、もう一本煙草を吸う。

「誠に申し訳ないが、貴様には教えん。副社長、貴方にもです」

笑みを浮かべつつ、煙の向こうで錬金術の祖は楽しそうに微笑んだ。

「え、ちょっとちょっと!それはないよ!職務怠慢じゃない?」
「やかましい、向こうは誘いをかけている事がわからんのか?」
「誘い?つまり、向こうはこちらが気づく事を分かっていたと」

トリストメギストスはにっこりと笑い、垂直に指先を立てた。

「正解です」

指先に浮遊・回転する電球が出現し、ついでに電子音が鳴る。

「それ、かっこいいと思ってやってるわけ?センスを疑うなあ」
「つまり、我々二人に、その悪魔を探し出して会いに行けと?」

再び電子音が鳴り、電球が勢いよく、1680万色に点滅した。

「なんでぼくらがそんな事しなくちゃ行けないのさ?」
「知恵の神だろ、すぐにわかる。あと壺を返しに行け」
「それはそうですが、他にも理由があるのでしょう?」

トートの鋭い目が、トリストメギスを見つめた。

「業務提携です、大垣の出資者もそれを望んでいる筈」

べえっとヘルメスが舌を出した、行きたくない様子だ。

「君が行けばいいだろ、盗んだものは返しに行くけど」
「私が行っても、社長を出せと言われるだけだろうよ」
「まあそうですね。社長。旅行だと思えばどうですか」

社長椅子の背にしがみつきながら、うーんとヘルメスは唸った。

「まあいいか。でも飛行機宿泊代諸々、経費で落としてよね」
「自分で飛んで行け!と、言いたいところだが……よかろう」


かくして、二人は名古屋の地に降り立った。

名古屋駅周辺は混沌とした有様だった。

財団のヴェールが剥がれて久しいが、この地は多くの人種がごった返している。

猫の耳や尻尾を持つアニマリー化した人類、6足歩行で金属の爪を立てながら歩行するメカニト、
空中を歩行しコンタクトレンズショップのビラを配る魔術師崩れ、そして声を張り上げる夏鳥の徒。

首府たる東京が崩壊してから、各地方自治体の状況もまた混沌としつつあった。
大きな変化としては、名古屋自体が財団と連合の緩衝地帯たる特別区となった点。
故に、ここは数多の種が闊歩する、自由かつ解放的な空気が横溢していた。

名古屋駅自体が奇跡論で再構築され、何十層にもわたる天守閣のような巨大構造物へと変貌した。
そしてその周囲に、蟻塚のごとく聳え立つ雑居ビル群がある。

「噂には聞いてたけどすごいとこだね、名古屋って」
「しかし、この中から悪魔を探すのは少々面倒です」

うーん、と唸りつつヘルメスは周囲を見渡した。

「とりあえず、喫茶店にでも入らない?」


雑居ビルの一つに入ると、そこは瀟洒な店構えの店舗だった。
暖かな色合いの照明と、黒ずんだ木造りのテーブルが並ぶ。

そして、テーブルにはガラスの砂糖壺とメニューが置かれている。
アイスコーヒーを注文すると、程なくコーヒーが運ばれてきた。

黒を基調とした給仕服を着た初老のマスターが、テーブルにグラスとミルクポットを置いた。
磨き上げられた真鍮のポットが光を浴びて、黄金色の輝きを放つ。
マスターはちょうど照明が当たる位置にミルクポットを置いたのだ。

所作が一瞬の魔術のように行われ、マスターは小さく例をして歩き去る。

へえ、ヘルメスは驚いた声をあげた。

「見た?まるで日本のチャドーだね、光の当たる位置を計算して飲み物を置いたよ」
「マスターの心遣いも感じられました。喫茶は名古屋の名物と言うほどはあります」

二人は感心しつつ、グラスを呷った。

「うん、美味しい。ところでこれからどうしようか?」
「まずは、SYOHATAの周辺を洗う方が良いでしょう」
「面倒だなぁ、でもとりあえずあては見つかったかな」

ヘルメスはそう言うと、向かいのカウンターに腰掛けた一人の男を見た。
男はヘルメスの視線に気づいたのが、びくり、と体を震わせた。

スーツに古めかしいパナマ帽、そして赤い肌、帽子を貫く二本の角。

「驚きましたね、悪魔は私たちのところじゃ見かけない」
「悪魔はこの国に珈琲を持ち込んだって言われてるから」
「それは煙草の間違いですよ、しかし幸先がいいですね」

二人はおもむろに立ち上がると、カウンターへ席を移した。

悪魔を挟む形で。

「やあ、商売はどうだい?」
「すみません、少々お話を」
「え、なんですかいきなり」

悪魔は突然の神格存在の出現に驚き、身を縮こまらせた。

「落ち着いて、少しあなたに尋ねたい事がありまして」
「うんうん、ちょっと質問。そうだ、君の名前は……」
「やめてください、私はもう魂を食ったりしてません」

悪魔は困惑しつつ、席を立とうとする。

「まあまあ、君の同業者の話を聞きたいだけだって」

なし崩し的に、インタビューが始まった。


え、なんですか?SYOHATAって会社?ええまあ、知ってますよ。
ここに来たのも、その会社が原因ですからね。

なんでって?ここに来れば、労せず人間の魂が手に入るって言われまして。
え?誰に?そりゃ、私の同業者ですよ。私みたいなのは昔からこの国にいましてね。
私ですか?そりゃあ、この国に宣教師が来た時ですかねえ。何百年も前かな。

ともかく同業者が挙って名古屋に来まして。
話によると、肥え太った悪人の、金持ちの魂が労せず手に入るから来いと。
ええ、最初は半信半疑でしたがね、しかし話はその通りだった。

あちこちで火事が起きてて、その度に情報が入るんですよ。
起きた火事は数十件にも渡りましてね、ええ。

その火事の被害者が、全員SYOHATAの重役というわけです。

で、火事の度に狩り集めるわけです、その魂をね。
まあなんと言うか、びっくりしましたよ。
家族一同全員揃って焼け死んでて、私らはそれを集めるだけ。
何かの詐欺かとも思ったんですが、そうでもないみたいで。

子供もいたかって?いましたよ?でもその魂までは貰いません。
言ってしまえばそれは純粋無垢に過ぎるから。
食うにしたって、私が消滅しかねませんし。

だからそれはほっといた。

だってそうすれば羽の生えたあの面倒な鬱陶しい連中が……
いや違いますよ、あなたじゃないですって、違いますから。

まあ、熾天使だかなんだかが、坊やや嬢ちゃんの魂を連れて行きます。
行き先はどこなんだか知りませんがね、いいとこなんですかね。

連れて行かれないのもいましたね。
その場合は私たちが親切に連れて行きます。

まあ、連れて行かれないのには理由がありますからね。
殺しに轢き逃げ強姦とかやってた子もいたので、地獄送りに。
いやいや、タクシーみたいなもんでしょ。

それにそういう子は、大人になって死ねばいずれ行くんだから。

ともかく私はもっぱらその親・兄弟の魂を駆り集めました。
ええ、そりゃもうド汚い、ドス黒く染まった魂をね。
こういうものは、通貨にもなるし食い物にもなる。

ええまあ、私も随分儲けました。

え?誰が言い出したのかって?黒幕がいるだろって?
それが……実は皆目分からないんです、はい。

あれくらいの事をするならよっぽど名高い親方、大悪魔の類と思いました。
でもね、そういう方に連絡を取っても、だぁれも知らんと言うんですね。

だからまあ、SYOHATAには儲けさせてもらったと、はい。

首謀者の手がかりはあるか、ですって?うーんそうだなあ。

私が来る前に、名古屋の大きな建物で催しがあって、全部燃えたそうです。
その建物の場所ならメモに書いときますから、そろそろ行っていいですか。

え?まだ聞きたいことがある?え?まだ人間の魂が欲しいのかって?
いや実は、もう魂は食い飽きたんですよ。
一生分は食ったと思いますからね。

それよりもそう、考え事をするようになりまして。
ちょっと気になることがあってね?
私しか気にしない事だと思うんですけど。

だからちょっと考え事をしていただけでして、ええ。
あ、もう行っていいですか。じゃあこれで。

コンチクショウ!地獄に落ちやがれ!


「じゃーね!ありがと!元気でね!ハデスによろしく!」

ヘルメスは喜色満面の笑みを浮かべて悪魔に手を振った。

「ふむ。なんだか、彼には悪い事をしてしまいましたね」

トートが少し済まなそうに言う。

「相手は悪魔なんだから悪い事をしてもいいんじゃない?」
「はぁ、貴方に罪悪感という物を期待した私が愚かでした」
「知恵の神らしくないよトート、もっとクレバーに行こう」

コーヒーのお代わりを受け取ったトートは、嘴に流し込みながら息をついた。

「一つ分かったのは、かの大悪魔氏は気前のいい御仁だと言う事です」
「そうだね、となると……大垣への出資者もその大悪魔さんって事かな」
「恐らくは。しかしこれほどの悪をなすとは、どう言う方なのでしょう」
「さあ?でも、SYOHATAの経営陣交代の背後に居たのも彼だと思うね」

怖いなあ、とヘルメスは笑いながら言った。

「何がでしょうか?」
「明日は我が身、さ」
「自覚がおありで?」

アイスコーヒーの残りをストローでズルズル啜りつつ、ヘルメスはメモを手にした。

「とりあえず次のあては見つかったし、次行こうよ、次」


オフィス街の一角に、そのビルはあった。
ガラスは全てステンレスの板で塞がれていた。
そして、出入り口も同様だ。

ここはかつて、データセンターとして用いられていたビルである。
今は無残にも焼け、誰一人立ち入ることのない廃墟と化している。

「ここまで厳重に塞がれてるとは思わなかった」
「またこのビルは買い手がつかないようですね」

二人は不審そうに言うと、ビルの全容を眺めた。
あちこちに黒い焼け焦げがあり、それが清掃される様子はない。

見るに、想像以上の大火災が発生したと思われた。
ビルに買い手がつかないのもそれが原因だろう。

「それで、どうします?」
「当然、入るしかないね」

事も無げにヘルメスは言うと、ビルへと接近した。

こう言ったビルは、侵入者を阻むためにセンサ類や監視カメラが設置されている。
それらを設置したのは行政機関だろうが、そこに財団や連合の関与もあるだろう。
無人の廃墟は怪異の住処となりうるし、新しいオブジェクトの発生源ともなるからだ。

そしてヘルメスの想像通り、否、予想以上の数のカメラとセンサ類があった。
そのカメラの一つが回転し、ヘルメスへとフォーカスを合わせた。

「じゃ、これから入るから諸々静かにしてよね」

ヘルメスがそう呟くと、カメラの電源を示すライトが点滅した。
次いで、センサ類が一瞬異音を発し、静かになった。

機械警備装置が誤動作を起こしたのだ。
センサとカメラは、もう二人を捉えることはできない。
そして、異常を管制センターに報告する事もない。

ヘルメスの映像は、何の矛盾もなく完全に消去済みである。
この事案が発覚するのは早くとも半年ほど後になるだろう。

「じゃ、そこの扉くん、開いてね」

厳重にロックされた鋼鉄のドアが、静かに開いた。
命じるだけで守衛を欺き、扉の鍵を開錠せしめる。

これこそが盗賊の神、ヘルメスの本領発揮である。

「いつ見ても呆れた技ですね、あの壺もそんなふうに?」
「うん、これから盗むからちょっと来てって呼びかけた」
「貴方と言う神は……まあいいでしょう、では行きますか」


「これさ、ちょっとおかしくない?」

ヘルメスは廊下の様子を見て呆れたように言った。

「ええ、焼けたとは言え派手すぎる」

盗賊の神ヘルメスは、闇夜をものともしない。
知識の神であるトートの眼も、また同様だ。

その目を持って、二人は周囲を具に観察した。
あちこちが、ものの見事に焼け焦げていた。

リノリウムの廊下は熱で無残に捲れあがり、鉄筋入りの窓ガラスは割れていた。
天井から垂れ下がる奇妙なオブジェは、蛍光灯だったものの成れの果てだろう。

「見てよ、あの蛍光灯っぽいやつ、熱で溶けてる」
「火元は何でしょうね、流石にこれは不自然です」

二人はこの火事を不審に思っていた。

ビルが全焼したとて、火元になるものは限られる。

ガスが漏れたか、あるいはサーバーのケーブルがショートしたか。
様々な原因が考えられるが、このビルの有様は常軌を逸していた。

「火力が強すぎない?まるでこのビルが、大釜になったみたい」
「少々、硫黄の匂いもしますね。火薬でも使ったのでしょうか」

廊下を歩きつつ、二人は思案に暮れた。

「それだけじゃ、大悪魔の正体に繋がる手がかりにはならないね」
「それは確かに、硫黄の香りは悪魔の香水のようなものですから」
「まあ、火元を見ればわかるでしょ。人間のいた気配がするから」

言いつつ、二人は焼け焦げた扉の前にたどり着いた。

「防火扉みたいだね、これ……じゃ、ご苦労様」

ヘルメスが扉を撫でると、扉は音もなく開く。

二人が扉をくぐると、そこは広大な空間だった。

高い天井に、捩くれた黒い根のごときものが壁と床を這い回っていた。
あちこちに大型のラックが設置されていたが、中身は全てカラだった。

「サーバールームですか、今では見る影もないですが」
「ここで火が出たって事?やっぱりおかしいよ、これ」

サーバーのケーブルが過熱した結果、火災となる事例がある。
しかし、それならば、火災はこの部屋一室で済むはずなのだ。

だが実際のところ、火災はビル全域に及ぶ惨事となった。

「何が燃えたかは判然としませんが……答えが見つかりそうです」

トートは言いつつ、暗闇の奥へと歩みを進めた。

「ねえ、なんか凄く変な匂いしない?」
「ええ、その匂いを辿っています……」

トートが、どこか嫌そうに応えた。

大部屋の最奥に、それがあった。
それは何かの壇のように見えた。

焼けたケーブルの残滓が、取り除かれずに残っている。
ケーブルは壇を中心に、部屋の八方へと広がっていた。

「匂いが最も強いのはここです、死と生の匂いの両方の」
「生の匂い?もしかして君の言うのって、これのこと?」

ヘルメスは目ざとくそれを見つけ、嬉しそうにトートへ差し出した。
その様子はまるで、珍しい虫を見つけた小学生のようだった。

ヘルメスが手にしたそれは、床にへばりついた黒いゴム状の物質だった。

「それは捨ててください、少なくとも私たちは、答えに辿り着きました」
「うわあ、ばっちい!あははははははは!人間ってほんとバカみたい!」

ヘルメスは爆笑しつつ、それを地面に投げ捨てた。
そして、トートはそれが何なのか、理解していた。

差し出されたのは、熱で変形した、コンドームの残滓である。

「人間がここで大量に集まって!一斉に交尾して焼け死んだって?」
「ええ、その通り。そして、かのものがここに顕現したのでしょう」
「ぎゃはははは!何を呼ぼうとしたんだろうね?サバトか何かかな」

大量の人間が性行為を行う事は、悪魔召喚のプロセスとしては一般的だ。
だが、サーバールームで彼らが何をしていたのかは未だ不明瞭であった。

「その類である事は確かです、そしてこのラックの並びから答えは出せます」
「うんうん。僕も何となくわかってきたけど、君の嘴から答えを聞きたいな」
「それはセクハラというものですよ、遊び半分に女子社員にやらないように」

トートは辺りを見回しつつ、確信を深めた。

そして彼は、嘴を開く。

「まずこの手法は西洋魔術ではなく、〝彼の法〟のものです」
「ああ、日本に存在した淫祠邪教とか呼ばれた宗門の事だね」

〝彼の法〟とは、真言立川流から分派した仏教系の宗派である。

「彼らは髑髏を本尊に見立て、集団で交尾を行なったそうです」
「でもそんなことをして、ホントにご利益があったのかなぁ?」

トートは目を細めつつ、小さく首を振った。

「彼らは、実践的オカルティズムの一派であったという説もあります」
「みんなで交尾すれば仲良くなれるし、子供もできて繁栄するって?」
「まぁ実際、始まりとしてはそんなところだったのかもしれませんね」

儀式を通じてその意義を学び、奇跡を起こせずとも理を会得する。
それこそが、実践的オカルティズムの果たしうる益の一つである。

「あははは!でもこの人たちはさ、本気で悪魔を呼ぶ気だったんだ!」
「ええ、このラックの並びは、恐らくは曼荼羅のようなものでしょう」
「じゃぁさ、MC&DがSYOHATAに売った物もここにあったんだね!」

悪魔工学を基盤とした電子回路の入ったサーバを、彼らはここに並べていたのだ。
それを聞いたヘルメスは腹を抱え、爆笑しつつ床を転げ回った。

「ひ、ひひ、苦しい。傑作だよホント、来た甲斐があった!本当に!」
「あまり大きな声を出さないでください、誰か来るかもしれませんよ」

ヘルメスはぜいぜい、と息をつきながら地面に尻餅をつき、片膝を立てた。

「それでさ、結局この人たちは誰を呼ぼうとしたの?」
「召喚が試みられたのは、他化自在天・梵名はマーラ」

マーラとは、仏教における最も悪辣で欲望に満ちた悪魔の名である。
彼は釈迦を幾度も誘惑して失敗し、ついに釈迦の弟子となったのだ。

正式な仏弟子としては認められなかったが、捧げた神呪は真言として伝わっている。

「ウケる、こんなのであの魔王が来るわけないじゃん!」
「ええ、しかし……その呼び声に応えた者はいたようです」
「別のやつが来たって事か、でも失敗しちゃったのかな」

トートはサーバールームを見渡しつつ、大きなあくびをした。

「いいえ、恐らくはただ一人のみが救われたのです」

トートはそう言うと、壇の中央を指差した。

「あそこからは、唯一人間の交尾の臭いがしません」
「そういえば、あのあたりは硫黄の匂いが強いよね」

ヘルメスは立ち上がると、壇の上にぴょこんと飛び乗った。

「じゃあ何?ここに誰かが捧げられてたって事かな?」
「恐らく、そして悪魔は生贄のみを救ったのでしょう」

ふんふんと鼻を鳴らしつつ、ヘルメスは壇の上を歩き回る。

「ここ、血の匂いが微かにするね。でもさぁ、この人かわいそうかも」
「ええ、確かに。他の雄と雌が交わる中、彼だけが苦痛に耐えていた」
「何されてたんだろうね、たぶん、死ぬほど辛い事とは思うけど……」

トートは部屋の片隅を指で撫で、黒い灰の残滓を口に入れた。

「微小なカンナビノイドの匂い……そして、〝彼の法〟の儀式を考えると……」
「生きながら頭を切開されたんでしょ、麻の葉を燃やして麻酔がわりにして」
「そうですね、髑髏本尊の儀式から考えれば、髑髏が一つ必要になる筈です」

うげっ、とヘルメスは言いつつ鼻を動かし続ける。

「でも、それだけじゃないよね?最後に一つピースが足りないかな」
「彼の頭には悪魔工学のチップが埋めこまれた筈、つまり彼は……」
「いま、彼の頭の中にそいつがいるって事じゃない?その悪魔がさ」

ふと、ヘルメスが唇に指を当て、シッと歯の間から息を漏らした。

「待った、誰か来るみたい」

ヘルメスの耳に、ひたひたと言う足音が伝わった。
その音は小さい。恐らく、忍びの技に長けた者たちだろう。

「あんな大声で笑うからです」
「悪かったよ、じゃ行こうか」

二人は暗闇の中で音もなく消えた。

そして、足音もまた途絶えた。


二人は予約したホテルに遅い時間にチェックインした。

ヘルメスはベッドに横たわりながら、足をばたつかせている。
トートは、椅子に腰掛けつつ、TVを眺めている。

「また動物番組?」
「いいものですよ」

トートは振り向きもせず、ヘルメスに応えた。

「呼び出された悪魔は何だったと思う?」
「気前が良く、火の扱いに長けています」
「それじゃあ結局、誰だかわからないよ」

誰なんだろうね、と言いつつヘルメスはリモコンでチャンネルを変えた。

「いいところだったんですがね」
「猫は癒されるけど、今は情報」

勢いよくチャンネルをザッピングするヘルメス。

「まず、情報を整理しよう。生贄に捧げられた社員の頭の中にそいつはいる」
「それで間違い無いでしょう、そして、未だ私たちはその名前がわからない」

ザッピングするチャンネルを、トートは油断なく見つめ続ける。

「ですが、人間の名前ならわかります。生贄の名前だけはね」
「それが、溝口一平さんって事か……この人今どこにいるの?」
「未だに行方不明です、彼が残した魂の匂いは嗅げましたが」

わーお、すっごい嗅覚!とつぶやきつつヘルメスはチャンネルのザッピングを止めない。

「そろそろいいですか?さっきの番組を」
「あ!ちょい待ちトート、これを見て!」

ヘルメスはザッピングを止めた。

画面に映されたのはニュース番組だった。
これは名古屋のローカル局の番組である。

トップニュースは、SYOHATAの業績黒字を告げるものだった。

「新進気鋭の若社長、勝幡典明氏。今や飛ぶ鳥を落とす勢いのSYOHATAは……」

TV画面にはSYOHATAの社長の顔が写っている。
彼には、奢る気配を伺わせない奇妙な余裕があった。

二人はTV画面を見つめつつ、鼻を鳴らしている。
TV画面越しに、彼らは魂の匂いを嗅いだ。

「ねえ、この人おかしいよ。匂いがそっくりじゃない?」
「そうですね、この人の中身、魂は溝口一平さんですね」

「じゃあ、悪魔は今溝口さんの体に入ったまま行方不明?」
「そうなりますね、しかしどこにいるんでしょうね、彼は」

ヘルメスはそこでベッドから勢いよく起き上がった。
そして、意地の悪い笑みを浮かべつつ、口を開いた。

「Quem?」

ヘルメスが呟いたその時、ベッドサイドの電話が、けたたましく鳴った。


二人は箱を抱えて車から降りると、辺りを見渡した。
ここは愛媛県の山中である。

「こんなところに別荘だなんて、随分繁盛しているんだなあ」

そこには、広大な敷地に造成された日本家屋が広がっていた。

ヘルメスの背後に、トートが静かに舞い降りた。

「トート、どんなだった?悪魔の居館の全貌は」
「飛んで辺りを伺いましたが、相当なものです」

トート曰く、東西に人工の川を作り、邸宅の周囲を3メートルほどの塀で囲っている。
塀の中心に巨大な、仏堂を模した如き日本家屋が建てられている。

「豪勢だね、でも向こうからお呼びがかかるなんて運がいいな」

ヘルメスはにっこりと笑った。
それを見たトートは、げんなりとした顔をした。

「本人に会ったらまずきちんと謝りましょうね」
「わかってるってば。じゃあトート、行こうか」

二人は要塞のごとき門をくぐる、実際のところ要塞のような鉄扉があった。
それはトートが命じるまでもなく、すでに開かれていた。

家屋から一人の男が歩いてくると、二人に頭を下げた。

「こんにちは、ようこそおいでくださいました」

その男は、昨日ニュースで見たSYOHATAの若社長、勝幡典明その人だった。

「ではこちらへ」

二人は若社長の導くまま、家屋へ続く長い石畳を歩いて行った。
ほどなくして玄関に到着すると、勝幡典明は頭を下げた。

「では後の話は、彼と」

そう言うと勝幡典明は、そのまま門へと歩き去って行った。


家屋の中は書院風の作りになっていた。
無人の廊下を進む、あちこちが新しい。

「さて、そろそろご本人とご対面、だね」
「ええ、硫黄の匂いがこちらからします」

二人は奥の間へと歩みを進めた。

新しい畳の匂いが、ヘルメスの鼻を心地よく撫でた。
そこは20畳ほどの大広間で、奥に小さな囲炉裏が設けられている。

囲炉裏の上には炭が置かれ、茶釜から泡のたつ音と湯気が上がっている。
その傍らに、一人の男が佇んでいた。

二人は畳を踏みながら、少しづつ男に近づいてゆく。

そこに居たのは、行方不明中の溝口一平氏であった。

「よくぞおいでくださいました、座ってください」

溝口氏がそう言うと、二人はゆっくりと座った。

「足は崩していただいて結構、そうでなければ一座建立は成りませんからな」

言いつつ、男は傍らにある黒光りする容器から、二つの茶碗に緑色の粉末を入れた。
そして、柄杓で茶釜から湯を掬うと、端正な所作で二つの椀に湯を注ぐ。

内容物を傍らにあった茶筅でかき混ぜ、二人の前に一つづつ、丁寧に湾を置いた。

二人は黙って椀を手に取ると、それを静かに啜った。
ヘルメスが驚いた顔で、椀から口を離した。

「美味しい、苦いだけだかと思ったのに」
「そうでしょう、甘みのある茶葉を選びましたからね」

にこり、と溝口氏は笑った。

「お出しいただいた椀も見事なものです、これは〝荒木高麗〟ですか?」

トートは手にした椀を見る。

茶碗の底の周囲に、見事なひび割れがあった。
これはカイラギと言い、高麗茶碗の特徴である。

「そうです、レプリカですがね」
「しかし、精細なものですね。実に結構なお点前です。ところで……」

トートはヘルメスの頭を掴んで、無理やり畳に伏せさせた。

「この度はウチの社長が、なんとも申し訳ない。どうかお許しを」

そして、トートも畳に頭をこすりつけた。

それを見た溝口氏は笑みを崩さずに言った。

「ああ、それなら構いません。それはあなたがたに差し上げましょう」

「え?」

トートは勢いよく畳から頭を上げた。

「ところで、あなた方はもっと大事なことをすべきなのでは?」

にいっと、溝口氏は口角を吊り上げて笑う。
その笑みは、先ほどとは一転した、恐ろしげな気配の笑みである。

「ああ、それね。どうしようかなあ……」

ヘルメスはあらぬ方向を見つつ言った。

「まず、君がどこから来たのかはわかっている。
で、問題は君がなぜあんなことをしたかだよね?」

笑みを浮かべたまま、溝口氏は微動だにしない。

「それは君の性癖が、生前と変わらないからだ。
求めるものに惜しみなく与え、逆らうものは討ち亡ぼす。
君は昔からそうして来たし、これからもそうなんだろ?」

「それは少し違うが、まあ正解としてやろうか」

溝口氏の背後から、奇妙な熱風が吹き荒れ始めた。

「じゃあ、体を入れ替えたのはどうしてです?」
「溝口は俺によう尽くしたが、顔相が悪く不憫でな。
望みの体を褒美に与えたのよ。会社を乗っ取る事は
既に決まっておったし、いずれはそうするつもりだったがね」

溝口氏はことも無げに言った。

「まったく、俺のところからブツを盗んでおいてその傲岸さ!
呆れたものよ、だがただのガキではないようだな、褒めてやる」

「正直、僕も迷ったんだ。君が誰なのかはわかって居た。
でもあんなに見事に身を隠すんだもの、探すのが面倒で」

ふん、と溝口氏は憎々しげに鼻を鳴らした。

「まったく白々しい、俺が貴様らを見張って居たことに気づいておきながら、
その上であのような戯言をほざくとは、Quem(誰)?だと?猿芝居にすぎる」

自ら用意した茶碗に湯を注ぎつつ、彼はヘルメスを睨みつけた。

「ポルトガル語、好きだろ?これなら乗ってくると思ったんだ」

ヘルメスは一切気にせず、ニヤニヤと笑い返した。

「まだ疑問があります、なぜあなたはあれほどの死人を出しておいて、
それでいて世の中の人々を食らい、害そうとしないのでしょうか?」

「決まっている、もう飽きたからだ!もはやその俺は過去のもの!
だが!俺を呼んで心から欲した者を害そうとした彼奴らは許せぬ!
故に、打ち滅ぼしたのよ。一族郎党、一人残さず綺麗に滅ぼしたわ」

茶筅を鮮やかに振るいつつ、彼は勢いよく茶を啜った。

「さて、そろそろ宴もたけなわだ。答えを聞かせてもらおうか」

彼がそう呟くと、風鳴りの音とともに、畳に矢が突き立った。
先端に脂が塗られた、火矢である。

火は瞬く間に燃え広がり、広間を嘗め尽くした。

そして、黒装束の一団が広間に押し入った。

「忍者?本当にいたんだ……」
「天魔!我ら無尽月導衆、再び貴様を滅してくれようぞ!」

忍者の頭目が刀を抜き、高々と叫んだ。

ヘルメスは言いつつ、逃げる用意をした。
トートもまた、同じ様子だった。

溝口氏を中心に、火は燃え盛り、地獄の業火となって竜巻を起こした。

「さあ!言え!俺の名を!然もなくばうぬらごと焼き尽くしてくれよう!」
「言うとも!君はもう一つの第六天!第六天魔王!織田上総助三郎信長!」

信長は笑った、爆発するような呵々大笑である。

「良し!ここから生きて帰れたら、貴様らと商売をしてやる!
ではさらばだ!小僧!それに鳥頭!せいぜい励むが良いわ!」

豪雷のごとき笑い響き渡り、業火が広がった。
そして、日本家屋は一瞬にして灰燼に帰した。

二人は火傷一つなく逃げ延びたが、ヘルメスは前髪を数本焦がした。
それを見たトリストメギストスが大笑いしたのは、後日の話である。


プレスリリース
██年10月1日 SYOHATAグループはトリストメギストス・トランスポート・テレポーテーションズと
業務提携を締結しました。両社供に協力し、さらなる発展を目指してゆく所存です。


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