ひとの祈りよ喜びよ

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”われは知る、眞砂まさご の数もわたのひろ さも、
聾唖ろうあの意中も解せざるはなく、
語らざるものもれにはきこゆ、……”

—ヘロドトス『歴史』I(47),青木巌訳

かつて、デルフォイの神託において、輝かしき兄君アポローンは高らかにそう謳った。その言葉は予言の泉が枯れてなお語り継がれ、果ては東の遠き国の言葉に訳されるまでとなった。長い時代にわたって、神とは人々の問いに答えを返す存在であり続けた。それが定命の者たちに理解できるか、彼らがそれを役立てられるかどうかはさておき、自分たちはそういう存在だ。

アポローンに限った話ではない。この自分ヘルメースとて、広場を行きかう人々の声を借りる形で数多の問いかけに答えてきた。ヘルメースの像に向かって知りたいことを尋ね、耳を塞いで広場の中央まで行き、そこで耳から手を離して最初に聞こえてきた言葉が答えであるというお手軽極まりない辻占いである。アポローンの神託に比べて遥かに簡単である分、答えた問いの数ならば自分のほうが多いだろう。書物には残らない、失せ物の在り処といったたわいもない質問が大半ではあったが。

それでも、尋ねてきたものはそれぞれ答えを見出して満足していたものだ。ヘルメースはそれを長く見守っていた。

今となっては遠い昔の事だ。

長い時を経て、人は問いを投げかける相手として神以外のものを選ぶようになった。そして、何かに問いを投げかける者自体の大半が消えてしまった。ある日唐突に人々が幸福に包まれてしまったのだ。幸福な現状を甘受する者たちは、世界の在り方に疑問など持たない。まして、祈りなど生まれる筈もない。中身のない聖歌が響くばかりだ。

神に助けを、答えを求める声は途絶えて久しい。

答えを告げる神託の声も静寂の中に枯れ果てた。

幸福な世界の住民たちは、もはや神を必要としない。


がたん、と音を立ててトラックが揺れ、思考が現実に引き戻された。忘れかけていた現状を、否が応でも手足の鈍い痛みが思い出させてくる。結束バンドで動きを制限された上にガムテープで拘束されたこの身は、山を登っているトラックの中に乱雑に投げ込まれていた。

運送と交通を司る神の扱いとしては随分と皮肉なものだ、とヘルメースはその身をコンテナの底に横たえたまま、どこか他人事のように思っていた。自分が人間にさして傷つけられることはあるまいという感覚が、神たる者としての自負から来ているのか、それとも世界的な情動変化の影響が自分にも出ているからなのか、ヘルメースには自分でもあまり判別がつかない。特に自分の身の上を心配する気にもならず、ただ漠然と考えるばかりである。自分を攫ってトラックに積み込んだあの集団が繰り返し歌っていた、あの聖歌のようなものは何なのだろう、と。

くぃくんけ。くぃ・くんけ・う・さるうす・えっせ。

形骸化した祈祷文か何かだろうが、元々は何の文句だったのだろう。ヘルメースは横たわったまま、そればかりを思い出そうとしていた。何の意志も載らない言葉の意味を理解するのは、雄弁の神の力をもってしても難しいことだ。我らが翻訳の神トートにちょっと尋ねれば済むことを、彼が眠りについているからと自分が延々考えても仕方ない。

それでも記憶を辿って答えを探そうとするのは、冥界で眠っている副社長についてあまり考えたくないからなのかもしれない。彼が日没と共に目を覚ます前に、果たして自分はそこに帰れるだろうか。タラリア──ヘルメースの所有物である有翼のサンダル──を奪われたのは手痛い損失だ。あれがなくては彼のもとに戻るのにも苦労する。

世界が姿を変えて以降、副社長のトートは一週間の約半分を仮死状態で過ごすようになった。狂った世界と自らを切り離して力を温存するためだ。死と復活の概念に親しんだエジプトの神、そして"死者の書"の著者たる魔術の神だからこそ出来る荒業のおかげで、起きている時の彼はわが社の中で最も正気と力を保った神である。力を削がれて人間に近づき、気を抜けば自分も彼らのように幸福に堕ちかねない状態にあると自覚しているヘルメースとしては少しばかり羨ましくもあった。

いっそのこと、自分も仮死状態になれたらよかったのだ。同じように棺の中で眠れるのなら、こうして幸せの蔓延る地表を彷徨う事もなかったのに。そういった実りのない思考ばかりが、エンジン音の響き渡るコンテナに横たえられた頭の中をずっと巡っている。

「……て」

その曖昧模糊とした思考の中に、一つの呻き声が混じり込んだ。

車体まで響き渡るエンジン音にかき消されそうな、ほんとうに小さな音。不安と絶望に満ちた、”誰か助けて”という祈り。その今にも消え入りそうな悲鳴を過たず聞き届けた次の瞬間、ヘルメースは自らを縛っていたガムテープを全て粉微塵に引きちぎって立ち上がった。

そうだった。自分があの団体の中に、連れ去られる形を取ってまで踏み込んだのは、この声を迎えに行こうとしたからだ。中身のない聖歌に紛れるように、小さな祈りを聞き取ったからだ。

身の自由を取り戻した神は、確かな歩みで呻き声の主のもとに歩み寄り、手を差し伸べる。そこには先程までの自分と似たような拘束を受けた人間の娘が横たわっている。突如現れた青年神を見上げている眼は、幸福には濁っていない。まだこの世界を諦めても受け入れてもいないと示す眼差しがそこにある。

そうだった。自分が今も地表にいるのは、地上から祈りがまだ消え失せてはいないからだ。

幸福に取り残された人間たちが、わずかながらに残っている。

全てが幸福に包まれて終わった訳ではないのだ。


呻いていた人間の娘はその名を千葉チバ 舞愛マイアと言うらしい。大学生で、怪しげな団体に拐われてトラックに乗せられる羽目になったのだ、と彼女は語った。拘束を解いてやった直後は当然ながらこちらを警戒していたが、そこは弱体化しても雄弁の神、人の子一人の警戒を解くくらいは容易いものだ。自らの権能が衰えきっていない事を再確認しながら、ヘルメースは舞愛に問いかける。トラックの所有者たちについて何か知らないか、聞いておきたかった。

「それで、どういう感じでここには連れてこられたの?」
「幸せについて一緒に考えるセミナーに来ないかって大学構内で声をかけられてついていったらこうなりました」
「うわぁ……」

前言撤回。おそらく雄弁の神とかそういう権能は関係なく、元々警戒心の薄い人間であったらしい。この手の誘い文句で釣れる人間なんて、元々破滅願望があるか何も考えていないかのどちらかだと思っていた。

「この時代にその台詞でひっかかるやつが残っていようとはね」
「私だって以前ならそんなの相手にしませんでしたよ。でも、みんなが幸せになってしまったら、まだそんな事考えられる人がいるのかって気にもなるじゃないですか」
「わかるけど。でも、『幸せについて一緒に考えるセミナー』はどう考えてもカルト教団だろ」
「そうは言ってもマーキュリーさんだって一緒に拉致されてるんだから大差ないのでは?」

マーキュリーというのはヘルメースが人間の姿で人々に紛れる時に用いている偽名である。カルトに拉致されている最中の人間に向かって神を自称しても信用される訳がないので、ヘルメースは”友人と起業して数年目の社長、マーキュリー・チャップマン”を名乗っている。大枠で言えば嘘はついていない。

「僕の時は別の口実だったぞ」
「へえ。で、どういうごもっともな口実でここに連れてこられたんですか」
「……街中を歩いていたら声をかけられてね。一緒に祈りませんかと」
ウッソでしょ」
「まだ祈れるやつが地上にいるのかと思ったんだよ。本当だぞ」
「本当でしょうとも。にしても、よくそれで人の事が言えますね」

冷めた視線を浴びながらヘルメースは肩を竦める。彼女に言った事は紛れもない事実だが、もちろんそれが全てではない。まず一つ、彼らに声をかけられてまだ祈れる者がいるのかと思ったのは事実だが、それは彼らの言葉から思ったのではなく、その背後にあるものを感じ取ったからだ。全てを叶えてやる訳にはいかないが、それでもその声を聞いて受け止めるのが自分たちの存在理由である。それに、応えられるのであれば応えてやりたいとこれでも思っているのだ。だからヘルメースはここに乗り込んで、それに応えた。決して詐欺の神が騙されたという訳ではない。

そして、もう一つの理由が彼にはあった。彼らの行動は荒っぽいが、妙に組織立っていて手際がいい。何よりもこの変わり果てた社会に適応して行動を変化させている。幸福に沈む前の社会でこのような真似をすれば、即座にお縄になった事だろう。彼らがこのような拉致を行うようになったのは社会が変化した後だ。

幸福に堕ちた者たちは己の行動を変えようとはしない。現状に何の不満もないからだ。ならば上のどこかにはまだ意志を持って動き、形骸化した信仰のもとに動く集団を作りあげた人間がいる筈だ。それは、少しばかり自分にとって魅力的に映った。うまくやれば自分たちの役に立つかもしれないと思ったのだ。

もっとも、結局のところタラリアまで奪われて連れ去られる羽目になった訳だが。自分で思っていたよりも、自分は弱くなっていたらしい。

もちろん、こちらの理由は言える筈もない。胡散臭いカルトに引っ掛かった間抜けと思われるか、そのカルトの乗っ取りを目論んで失敗した奴だと思われるかならヘルメースは迷わず前者を選ぶ。そんな事を考えていると、こちらの様子をうかがう視線に気づいた。

「どうしたの?」
「ええと……水、要ります?飲みかけですけど」

半分ほど残ったペットボトルが差し出される。なかなか斬新な供物だ。そういえば縄を解いてやった時に一気飲みしていたな、とヘルメースは思い出した。ここは暑いから人間には水分が必要なんだった。神の身体は意図せずには汗も涙も流さないから忘れていた。

「いいよ。それは君のものだ」
「大丈夫なんですか?」

舞愛が心配そうにこちらを見るので、ヘルメースは「君が起きる前に飲んだから大丈夫だ」と付け加えた。ようやく彼女は「そうですか」とペットボトルを引っ込める。暗闇だからバレてはいないと思うが、考えてみればこの暑さで汗ひとつかいていないのも不自然だ。適度に自分の湿度を上げながらヘルメースは考えていた。誰も何も心配したり憂いたりすることのなくなった世界で、人の子に身を案じられようとは、と。そんな事を思っていると横から質問が投げかけられた。暇を持て余しているらしい。

「そういえば、マーキュリーさんはここに来る前は何をされていたんですか? このご時世だと真面目に仕事の話が出来る人もあんまりいなさそうですが。それとも、みんな機嫌が良くてスムーズだったりするんですか?」
「最近はただ現状を維持して、話が出来る人間を探して……この状況で参ってしまいかけてる従業員のフォローをやって、そんな事ばっかりだね」
「お見舞い帰りってところですか」
「そんなところだよ」

消滅の危機に瀕した旧い神に祝福を分け与える事を見舞いと称するなら、今日の自分はまさしく見舞い帰りと言えるだろう。まあ、今日会ってきたかの女神はそのような表現を気に入りはしないだろうが。

争いと不和の女神、エリス。戦争、殺人、憎悪、虚言、その他ありとあらゆる人に由来する災いを司る彼女は、この異変で最も大きな損害を被った神の一柱である。自分たちとは何かと衝突の多い神でもあったが、消えるに任せるわけにもいかない。だから彼女に祈りを捧げる者がいるように、そしてそれに応えて加護を与えてやれるように、とヘルメースは力を分け与えて来たのだ。それは彼女のためであり、さらには地上で何か幸福とは縁遠い事象が起きれば何かが変わるかもしれないという儚い賭けでもあった。トリックスターの先達への願掛けである。

「でも、身近にまだ人間がいるってのは羨ましいですね」
「人間?」
「あっ……すいません、自分でものを考えられる人って言いたかったんです。その、ずっとにこにこしてる人形みたいなのとは違うって意味で」

なるほど、彼女は幸福になった者とならなかった者なら後者の方が人間だと思っているらしい。斬新だが、ある種現状に適した表現かもしれないな、とヘルメースは考える。この定義だと自分も人間という事になってしまうのが玉に瑕だが。弱体化したとはいえ、まだ自分たちは人間のうちに数えられるほどではない。少なくともヘルメースは自己をそのように認識している。もちろんここで口にする事はないが。

「そういう事か。そうだね、特にうちの副社長なんかは僕よりも正気だ」
「一緒に起業したっていう友達の人ですか。確かにそんな感じですね」
「地味に僕に対して失礼じゃないかいそれは? 傷ついちゃうなあ」
「それは失礼しました。その……なんというか振り回されてそうなイメージが、話の端々からあったもので」
「いいよ、事実だしよく言われる。それにたいして傷ついてるわけでもないし」
「そんなこったろうと思いました。そういうとこですよ」
「君、わりと彼と気が合いそうだね。……というか、そうか。そう言うって事は、君の方はあまり”人間”が近くにいないのかい?」

どうにも旗色が悪いので、話題を変えるべく水を向ける。そうすると彼女はしばらく黙り込んでしまった。待っていると、一言「友達が」と呟く。

「友達が?」
「友達が……正気の友達がいたんですけど。でも、ある日、あの子も他の人たちと同じようにずっとにこにこ笑うようになって。その状態で、私たちはずっと正気でいよう、あの人形たちと同じ所には落ちずにいようねって言うようになったんですよ」

がたんと音を立てて、トラックが曲がり角にさしかかった。走行音と揺れの調子の変化が、よく舗装されていない山道にさしかかった事を示している。目的地に近づいてきているのだろう。車体の細かな揺れに肩を震わせながら、舞愛はとつとつと語り始める。

最初に幸福に落とされなかった者とて、ずっと”まともな感情”を保ち続けられるわけではない。何らかのきっかけで、人は幸福に落とされうるのだ。それを知らなかった彼女は友人と毎朝、顔を合わせるたびにお互いの精神状態を確認し、安心していた。でも、それは意味のない儀式になっていたのだ。現状に何の不満も抱けない者は、行動を変えようとはしない。だから彼女の友人は幸福に成り果てて尚、“確認”を行い、自分たちがまだ不幸を覚えられる身である喜びを分かち合うような言葉を吐き続けた。

「いつから中身がなくなってたのか、わからないんですよ。どのくらい、人形と変わらない存在と一緒になって喜んでたのか」

乾いた声で舞愛は語る。いつからその“確認”が形骸化していたのか。いつから自分が中身のない確認に安堵していたのか、わからないのだ、と。

ヘルメースは一切それを遮ることなく、その途切れ途切れの言葉に耳を傾けていた。聞きながら、置いて来た副社長のことを、今なお死体のごとく眠っているであろう親友のことを考えずにはいられなかった。変貌した世界の影響をより強く受けているのは自分の方だ。だから、トートはいつだって目を覚まして現世うつしよに戻った時は真っ先にヘルメースが元の情動を保っているかを確認する。

もしもそれが形ばかりのものとなったら。自分が不幸な顔の偶像となったら。

その時は、自分たちは。自分は、彼は。

「ねえ、マーキュリーさん」

思考を打ち切るように顔を上げ、ヘルメースは「何だい」と問い返す。

「ご友人はご自身より正気だと仰いましたね」
「ああ。彼は大丈夫だ。仮にどうにかなったとしても必ず元に戻る、何年かかっても」

静寂の中に言葉が朽ち果てた世界でも、書物は再び開かれさえすればその本質を蘇らせる。月は沈んでもまた昇る。いつか誰かが天高く月に向けて腕を伸ばしたなら、彼は正しくそれに応えるだろう。ヘルメースはそう思っている。

「そうですか。そうやって信じられる人がいるって、いいですね」
「……他人のことのほうがよくわかる事もあるもんだよ」

そうだ。自分はそれを信じる事が出来る。信じられないものがあるとすれば。

「他の人、ですか。ですよね。……私たちは、自分がまだ”人間”であると、どうやって信じられるんでしょうね」

舞愛は独り言のようにつぶやいた。それは目の前の存在への質問ではなく、自分自身へ、あるいは世界へ、あるいはどこかの神なるものへ投げかけられた疑問であった。

「それは──」

神が答えるよりも先に、一人と一柱を運送していたトラックが音をたてて止まり、会話は打ち切られた。扉が開かれ、久方ぶりの傾き始めた陽光が車内に射し込む。それに照らし出された娘の顔は、どこか自虐的な微笑を浮かべているように見えた。


自分たちを車に乗せた連中はへらへらとした笑顔で「くぃくんけ」と繰り返して歌いつつ、二人の腕を雑に掴んで道路へと引きずりおろした。案の定、拘束して車の中に載せた筈の二人が身体の自由を取り戻している事には何の疑問も驚きも示さない。

背後から「熱い」という小さな悲鳴。振り返れば、車から引きずり出されようとしている舞愛が裸足で飛び跳ねていた。この時期のアスファルトは、人間が裸足で歩くには熱すぎる。

「君たちさ、ここに来る時に預けた靴、返してくれないか? 火傷しかねないし、もうここまで来てしまったら逃げ出しようもないと思うんだけど」

あまり頭が回る連中ではなさそうだから、返してもらえるかもしれない。そう思って、近くにいた信徒らしき人間に声をかける。向こうはただ不思議そうにこちらを見るばかりだ。言葉が通じていない訳ではなさそうだが、どうしたものか。考え込むヘルメースの背後で、車にしがみついていた舞愛がにこやかに声を上げる。

「あの、私たち、お気に入りの靴があるともっとハッピーなんですが」
「ハッピーですか。それはいいですね」
「そうそう。返してくれたら僕たちめちゃくちゃハッピーなんだよ。ね? いいだろ?」

かつての“雄弁の神”を知る者が聞けば頭を抱えそうな台詞を畳みかけ、勢いだけで押し切ろうと試みる。信じたくない事に、信徒はそれで納得したらしい。「少しお待ちください」と言い残して彼らは運転席の方へと戻っていった。

「やるじゃないか」
「あいつら、基本的にああやって押し切る方が話がはやいですよ」

舞愛はコンテナの縁に腰かけて裸足をぷらぷらと冷ましながら答えた。ヘルメースはその隣に腰を下ろす。タラリアさえ取り戻してしまえば、ここから飛び去る事は容易い。それに、最初の目的である祈りの主はもう見つけ出した。そんな事を考えながら、周囲を見回して眼前の建造物に目を向ける。そして、入り口付近にひっそりと掲げられたロゴマークを見つけ出してしまった。

「……なんてこった。よりによってあいつらか」
「あのサンダル、お見舞いにはちょっと派手すぎじゃないですか? ……マーキュリーさん? ……どうしたんですか一体」

戻ってきた信徒の手にある金色の翼あるサンダルをまじまじと見ていた舞愛がこちらを見る。ヘルメースは見つけた紋章を示す。

「マイア。今後は僕の近くをあまり離れない方がいい。思ってたより一大事かもしれないぞ、これは」

丸に内向きの矢印が3つ。かつての異常の番人、秩序の守護者は知らないうちに狂信者たちの頭へと鞍替えしていたらしい。これが危機ピンチであるのか勝機チャンスであるのか、今のヘルメースには判断がつかなかった。わかるのは、ここで飛び去るという選択肢が消えたという事だけだ。

「返してくれてありがとう。さあ、君たちのリーダーに会いに行こうか」

取り戻したサンダルを履きつつ、ヘルメースは語りかける。何をするでもなく漠然と建造物の上の方を見上げていた信徒が、勢いよく満面の笑みをこちらに向けて来た。

「ええ、もちろん! 急いで私たちの“かみさま”に挨拶に行きましょう! いやあ、今度の人は協力的でうれしいなあ」
「……何だって? “かみさま”に会いに?」
「ええ、私たちのかみさま。どこにでも行ける、一瞬で飛べる、そして私たちをずっとその沢山の目で見ていてくださる。あなた方も捧げられたらすぐわかる」
「待って、捧げるって言いましたか、いま」

舞愛がぎょっとしたように問い返す。いつの間にか、のっぺりとしたいくつもの輝かしい笑顔がこちらをぐるりと取り囲んでいる。

「ええ。そうすれば、神は我々と共にあってくださいますからね」

そこから「神に謁見する前に人間の指導者と話をさせてくれ」と頼むのは案外骨が折れる交渉だった。急いで神の身許に放り込め、とよく叩き込まれていたらしい。結局のところ、「指導者と会う時間は5分」「そのあとはまっすぐ“かみさま”の所に大人しく向かう」という条件を課せられる事になった。「この地にいる神の名にかけて誓う」とまで言わされたのだからまったく恐れ入る。人間に対して己の名にかけて何かを誓うなんて何世紀ぶりだろう。

そこまでして勝ち得た拝謁の時間は、半分も使われなかった。通された先に座して待っていたトップ──臨時の管理官と自分で名乗っていた──は、一目で判るほど幸福に堕ちきっていた。最初は持ちこたえて世界への適応を成し遂げたのかもしれないが、今となっては何を話しかけてもけらけらと虚ろな笑い声をあげるだけである。だから、ヘルメースからの問いは一つだった。

「なるほど、ご機嫌なようで何より。それで──ここには君のように、いつも幸せとはいかない者は存在するのかな?」

何が可笑しかったのか、指導者の椅子に座した人間は狂ったように甲高い声をたてて笑った。ひとしきり天井を仰いで笑ってから、濁った眼でひたとこちらを見据えて答える。その声はどこまでも冷え切っていた。

「不幸な者はいなくなりました。みんな壊れるか出ていくかしましたよ。ああ、上の部屋には一人くらい残っていたかな、いやその前に神の所だった。まあ、どっちにしたってすぐ一緒になれます。あははは」
「そうか、ご丁寧にどうも。行こう、マイア」

笑い声を遮ってヘルメースは指導者に背を向ける。その背中に声が投げかけられた。

「もはやここにいるのは幸福な者だけだ。わかってください。私たちにはそれしかないのです。笑うしかない。幸せに笑おうではありませんか、共に」

嘆きがあった。諦念があった。そして何かに祈ることをやめた後の、現状への純粋な肯定があった。それを聞き届けて、ヘルメースは振り返ることなく扉を閉める。待っていた信徒に頷きかけ、彼等は廊下を歩きはじめた。

「ちょっと、マーキュリーさん。行こうって言ったって、このまま着いていったら、その、私たち……」

少し遅れて着いてきた彼女が潜めた声で話しかけてくる。ヘルメースは速度を落とさないまま、「順当に行けば生贄ってとこだろうね」と答えた。

「そうなったら終わりじゃないですか。まだあの部屋で粘ってたほうがマシだったんじゃ」
「まあ、多分大丈夫だよ」
「多分?」

ペースを落とし、こちらを不安そうに見上げている娘の目を見返す。実際のところ、分の悪い賭けではあった。推測が正しければ、待っているのは財団が手を焼いて人間を捧げる事を選ぶ程度には手強い怪物。そして、こちらは大幅に弱体化した挙げ句守るべき人間まで背後にいるという有様だ。 

それでも、ここには自分を呼んだ人間がいる。それに、分の悪い賭けを賭博の神は嫌わない。

「マイア」
「何です」
「僕を……いや、この際僕のことは信じなくていい。ただ、神を信じて、助けを求めて、祈ってくれないか。僕のためにも。怪物を殺すような、神なる存在に助けを求めるんだ」
「この場で神頼みしろって? 本気で言ってます?」
「ああ。苦手じゃないだろ、そういうの」
「馬鹿にしてます?」
「まさか。祈れるってのは大事なことだよ、身の程を弁えてるって事だからね。人間の特権と言ってもいい」
「……はぁ」

廊下を歩く足音だけが響く。突き当たりの扉が、その向こうで響く空虚な祈祷の歌が近づいてくる。くぃくんけ、という繰り返しを遮るように、彼女は尋ねる。

「マーキュリーさんは祈らないんですか」
「生憎僕にはその資格がなくってね」
「そうですか、そういう事にしておきましょう。で、何に対して祈れ、と? 怪物殺し?」

扉の前で足を止め、"マーキュリー社長"はにっこりと微笑んだ。

アルゴス殺しのヘルメースアルゲイフォンテス・ヘルメース。百目の巨人を殺したギリシャの神さ。"たくさんの目で見守ってくださるかみさま"と対峙するには、うってつけだろ?」

扉が開かれ、歌声が生贄を出迎える。彼は頭を上げて、"かみさま"の身許へと足音高らかに進んでゆく。

背後の「あの子がパズドラだったかでそんな名前のを育ててたな」という独り言には気づかなかった振りをしながら。


「くぃくんけ・くぃくんけ」
「くぃ・くんけ・う・さるうす・えっせ」
「くぃ・くんけ・う・さるうす・えっせ」

扉が開かれた瞬間、その歌声が彼らを出迎えた。白衣の者もオレンジのつなぎの者もそれ以外の者も、全員が同じ方向を向いて、頭を垂れて平伏している。身分の壁を越えた宗教だ。

宗教らしさの残滓といえばその程度だろうか。歌声はばらばらだし、かつての神殿のような荘厳さも、寺院のような静謐さもこの空間には見受けられない。彼らが平伏しているのは、打ちっぱなしの壁に取り付けられた無骨な収容ユニットの扉だ。カーゴ・カルトの方がよっぽどそれらしい信仰の場を築いていた。

背後に回った信徒たちが生贄の腕を掴み、扉の方へと引き立ててゆく。目の前で、ゆっくりと扉が開かれる。内側にはもう一つの扉が見えた。二重の封鎖だ。

扉が開いた直後、彼は身をよじって後ろに下がろうとした。途端、それを押さえつける腕に力が込められ、複数人がかりで抑え込まれる。少しばかり足掻いてみるも、揉み合いの末あえなく彼は収容室の中へと押し込まれた。半ば投げ込まれるようにして部屋の中に倒れ込むやいなや、勢いよく外側の扉が音を立てて閉ざされる。

「大丈夫ですか!?」

倒れ込んだ彼に舞愛が悲鳴のように問いかけた。身を起こして立ち上がるのと、扉が開き始めたのはほぼ同時だった。逃げる先はどこにもない。区切られた空間には自分たちだけ。そして、扉一枚隔てた先にはこちらを伺う"かみさま"の気配。人間の娘の前に身を滑り込ませて、待ち受ける存在を正面から見据える。

そこにいたのは、黄ばんだモップのような長い体毛に覆われた巨大な怪物だった。毛虫のような躰がずるずると床を這っている。手足もなければ顔に相当する部位も見当たらない。代わりに、全身に散らばるカラフルな丸い感覚器が、ひたとこちらを見据えている。「たくさんある目」はこれか。自分はこれを百目と見做して殺せるだろうか。中々に分の悪い賭けだ。

生贄と怪物が対峙する。目の前にずらりと並ぶ感覚器が怪しく光を発した次の瞬間、その巨体が視界から消失した。嫌な予感に、振り返るよりも前に背後にいた人間の腕を力任せに引く。その身体を引き寄せるのと、彼女の居た所に白い塊が現れるのはほぼ同時だった。空間を跳躍する怪物。この収容房では、神の背後にすら安全地帯はない。

身構えなおすよりも先に、次の転移が来た。真上だ。飛び退いて、怪物に蹴りを叩き込む。その重みに、足が痺れそうになる。それに対して向こうは微動する程度。信仰を失って衰えているとはいえ、かつての伝令神の脚力でこれか。

「マーキュリーさん!」
「その名じゃない、呼ぶのは」

それは人間としての名前だ。今の衰えた自分はその名では勝てない。転移してくる位置を先読みして対処するのがやっとだ。そして、それもいつまで続けられるかはわかったものではない。まったく弱く成り果てたものだ。

とはいえ、生贄が反撃を入れて来たのは初めてなのだろう。怪物は少しだけ退がり、こちらをじっと観察する。粘りつくような沈黙の中に、人の姿をした者たちの上がった息だけが短く繰り返されている。呟くような要請。

「マイア。頼むよ」

祈ってくれ、僕のために。僕達かみがみにはそれが許されていないんだ。

そう口走る寸前、幾多の眼が鈍く光った。来る、と反射的に身構える。しかし、怪物の躰は動かない。なぜ、と思った次の瞬間、巨体がまっすぐに跳ねた。フェイントだ。

動線の先、背後にはまだ動けない人間。回避は間に合わない。

鈍い衝撃に息が詰まる。

その速度と質量を全てその身で受け止める羽目になり、彼は怪物の下敷きになって倒れ込む。長い体毛の下に隠れていた鉤爪が肩に食い込み、生贄の皮膚を容易く引き裂いた。鋭い痛みに歯を食いしばり、動かせるほうの腕を振り回して自分にのしかかる体をどかそうとするが、まるで抜け出せる気がしない。ただ、相手の動きを牽制してこれ以上の負傷を食い止めるのが精一杯だ。

粘りつくような怪物の吐息。その向こうに、かすかな声が聞こえる。

「──助けて。私たちを、この人を、助けて」

閉ざされた収容房に、一陣の風。

「神様だがなんだか知らないけど、いるのなら、黙って見てないで助けてよ──“アルゲーホンテス・ヘルメース"!!」

風は勢いを増し、百目の怪物を神の躰から引き剥がす。その名を喚ばれた神は、悠然と立ち上がって"それ"を見下ろす。

「──まったく。祈りというよりはもはや逆ギレだな」

その上に呼び名の意味もおそらく意識していないのだろう、単純で不正確な音真似ときたものだ。だが、それで充分だった。その名で呼ばれさえすれば、ヘルメースは百目の怪物を何なく殺せる。それが権能というものだ。ヘルメースは怪物を蹴り転がし、扉で挟み込んで圧殺した。怪物はしばらく藻掻いたが、呆気なく動かなくなった。人に有害な体液は一切零れていない。ヘルメースは比較的、死すべき人の子の身を慮れるほうの神である。

息絶えた怪物を、ヘルメースは静かに見下ろす。数多のカラフルで丸い感覚器が、弱い照明の光を受けて鈍く光っている。

その有様を見て、何故だか冬至パーティーに飾り付けたオーナメントのことを思い出した。誰も、人類の感情が塗りつぶされるなんて考えてなかった頃の記憶。たった数年前なのに、随分と遠い昔のようだと思った。

「──あなたは、何者なんですか」

振り向けば、舞愛が床に座り込んだまま呆然とこちらを見上げている。

「オリンポス十二神が一柱、ヘルメース。君の呼んだ、長らく"黙って見てる"だけだった神だ。お呼びいただいてありがとう、おかげでこうしてここに立ってられる」

彼女はしばらくぽかんとしていたが、やがて「じゃあマーキュリーっていうのは」と呟く。

「偽名だよ。ごめんね」
「何でそんなことを。どうして何も言わずに横で困った振りなんかしてたんです」

当惑と怒りの入り混じった声。伸ばした手を振り払って立ち上がり、彼女は続ける。

「自力でどうにか出来た癖に。なんで黙ってたんですか」
「怒るのはもっともだと思う。ただ、自力でどうにか出来た訳じゃない。呼ばれない限り、祈られない限り、僕らは無力なんだ。人によって成り立ってる存在だからね」
「……」
「それにさ。今まさにカルト教団に拉致されてるって時にさ、神を自称する男が話しかけてきたら君はどう思った?」
「……」
「そういう事だ」

舞愛は黙ってこちらを睨んでいる。反論も納得もする気はなさそうだ。少し待っていると、冷たい声で彼女は再び問いかけた。

「社長って言うのも、一緒に企業した友達がいるってくだりも全部嘘ですか」
「いや、それは本当」
「なんでそこだけ本当なんですか」
「嘘と策略の神としてアドバイスすると、嘘をつくときは真実を織り交ぜるのがコツだよ」
「やかましいわ」
「ごめん」

呆れたような溜息。

「……で、お友達ってのはあなたの正体を知ってるんですか? それともそちらも騙してるんですか?」
「副社長も神だぞ。それに、同一視もされてる相手だから、知ってるどころか彼が僕の正体の一部とも言えるかも」
「は?」
「神にも色々事情があるんだよ」

彼女はしばらく何か言いたげにしていたが、どうも怒りがさめてしまったらしい。こちらを無言で眺め、そして急にこちらの肩に目を留めた。そういえば負傷していたのだった。改めて見てみればスーツが破れて酷い有様になっている。彼女はどこか気まずそうに視線を落として「その、肩」と呟いた。

「ああ、思ったよりズタズタだな、見苦しくてごめんね。後でその辺の白衣でもかっぱらおうかな」
「いや、そうではなく……大丈夫ですか?」
「大したことないよ。どうせ死なないし」
「……私がもう少し早くその名前を呼んでいたら、怪我せずに済んだんですか?」

ああ、と納得する。それが気になっていたのか。妙なことを気にする人間もいたものだ。

「なんだそんな事か。気にしなくていいよ。神だって間に合わないことが多々あるんだ、人間がちょっと遅れるくらいどうってことない」
「……本当に、神なんだなぁ」

少し考え、舞愛はしみじみと呟いた。どこでそう納得したのかはわからないが、そう呼んでくれる人間が一人でもいるのなら、今後のことはどうとでも出来ると思える。ヘルメースはにっこりと笑った。

「わかってくれたかな? それじゃあ、連中がそれを理解できるか見てみようじゃないか」

ヘルメースは2枚の扉を開け放ち、扉の向こうの連中が“かみさま”と呼んでいたものの亡骸を彼らの目の前に蹴り転がした。ばらばらな歌声が止まり、一瞬の静寂をおいてどよめきが巻き起こる。

「“かみさま”だ」
「お見えになった」
「くいくんけ」
「私たちと共にいる」
「くいくんけ・くいくんけ」

口々に彼らが上げる声に、動揺の色はない。神を喪った不安も失望もなく、ただ幸福に満たされているだけの声が部屋を満たしている。彼らにとって彼らの“かみさま”が生きているか死んでいるかはどうでもいいことらしい。まったく、生死を気にかけてくれるだけニーチェの方がはるかに信心深かったように思えてくる。

「やれやれ、何も変わらないか。別に期待はしていなかったさ。行こうか」

一つ溜息をついて、ヘルメースは部屋を出て歩き出す。周囲の信者たちは何も反応しない。捧げたはずの生贄が戻ってきたことも、彼らは気に留めていないらしい。こんなに盛り上がらない神殺しが有史のうちで一度でもあっただろうか。足早についてきていた舞愛が小声で「あの」と控えめに声をあげた。

「どうした?」
「あのひとたちは何も気にしてないけど。でも、これで、次の人間は生きて帰れるはずです」
「……そうだね」

人間に慰められるとは。だが、彼女の言う通り、今後は彼らの挙動も少しばかりは変わるだろう。正気の人間は何かに気づくはずだ。そう考えて、登り階段に足をかける。その理念を忘れ果てたとはいえ、財団施設は異常存在を閉じ込めるために作られている。適当なカードキーをどこかで調達する必要があったし、それに確かめておきたい事もあった。

「あれ? 出ていくんじゃなかったんですか?」
「上の階に正気のやつがどうとか言ってたろ。もう誰も捧げる必要はないって言いに行こうかとね」
「ああ、確かに。正気の人間とは会いたいですね、久々に会って話せたと思った相手は人間じゃなかったし。今度こそは楽しみです」
「言ってくれるじゃないか。かつてのヘラスの民ならもう少し光栄に思ってくれたんだけどなあ」

軽口を叩きながら階段を登る。廊下に出れば、"上の部屋"はすぐに見つかった。一つの部屋の前に、段ボールが積み上げられているのだ。財団職員が築いたバリケードとしてみればお粗末極まりない出来だが、幸せに侵され切った外界との接続を絶つにはこれで充分だったのだろう。精神的障壁というやつだ。

「失礼するよ、未だ幸せに沈まざる者。僕らはその同類だよ、入ってもいいかな」

かたく閉ざされた扉に向かって声をかける。応答も反応も何一つ帰ってこない。嫌な予感がして、ヘルメースは詰みあがった段ボールを横にどかした。ふと目に入った箱の中身は、古くなった物資だ。おかしい、この部屋からは確かに祈りのような気配を覚えたのだが。強くなる予感に急き立てられるように、ドアノブに手をかける。権能を行使するまでもなく扉は開いた。開いた瞬間、本当に薄い血と硝煙の残り香が立ち昇ったような気がした。

踏み込んだ部屋の中には誰もいなかった。ただ、開け放たれた窓から風が吹き込み、電源がついたままのデスクトップパソコンがちらちらと光っているだけだ。部屋を覗き込む舞愛を片腕で制して、ヘルメースは開いた窓の下を確認する。何らかの異変を示すようなものは何も見つからない。はるか眼下で木々の梢が風にざわめきの音をたてているだけだ。それを確認してから、扉の前で待っている彼女に声をかける。

「入っても大丈夫だ。……もっとも、ここには誰もいないようだけど」
「それって、」
「だろうね」

彼女がおずおずと部屋に入りって扉を閉めているのを横目で見ながら、放置されているパソコンを操作する。ちょっと触ってロックを解除すれば、改訂されたオブジェクトの特別収容プロトコルとそれに伴う膨大なログがすぐに出て来た。マウスホイールをくるくると軽快に回して、ざっと目を通す。大体の事は想像通りだった。

人類がその情動の在り方を決定的に捻じ曲げられてしまった日。この施設に勤めていた者の大半もまた幸福に呑まれていった。そして、幸福に堕ちたばかりの者が対峙するには、ここに収容されていた者たちははるかに理性的で賢かった。数多の収容違反と人員の不足は、あっという間に情動を保ったわずかな者たちを追い込み、何を守るために何を捨てるかという選択を迫った。

彼らはまず保護の理念を捨てた。人類のため、人に害を成し得るすべての異常存在を殺して回った。“幸せないまの在り方”を守ろうとした者たちを、守り切れぬ理念に殉じた者たちごと切り捨てた。きっと、幸福である事と共に、郷愁や矜持、そして倫理といったものも殺してしまったのだろう。そうして大きな代償を払って手を血に染めた彼らのもとには、そうしても殺しきれぬ危険な存在が残った。自分たちが捧げられようとしたあの怪物はその代表例だ。

あの怪物は、本来生きた人間を捧げずとも収容可能な存在だったらしい。空腹になればその空間転移能を用いて近くにあるものを殺して食うが、定期的に牛だの豚だのといった大き目の哺乳類を丸ごと与えておけば容易に飼い殺しておける存在だった。だが、変化した情勢はそれを許さなかった。それに対処できなくなるくらい、彼らの犠牲は大きかったとも言える。

運送の手間込みで考えると、隣人の消失を気にかけなくなった世界では、キログラム単価で最も安い生命はヒトである。骨も内臓もまとめて食う相手ならなおの事だ。自分の面倒は自分で見るし、丸め込めば自分から狭い空間に入って大人しくしてくれる。その手の技術がない者にとって、豚や牛を檻の中に押し込むのは非常に大変なのだ。

供給されなくなったDクラス職員を使い切ったのち、彼らは幸福に堕ちたヒトを“人類”の枠から恣意的に外した。幸福に沈んだヒトを選び、殺し、与え続けた。そして、生きたままの肉を捧げた方が殺める命の総数を減らせる事に気づいてしまった時、彼らは最後に残った矜持を捨てた。手頃な要注意団体を半壊させて乗っ取り、怪物を彼らの神と挿げ替えることで収容手順を確立した。人を攫う手法を教え込み、幸福のまま収容に協力してくれる集団を作りあげたのだ。

そこに至るまでには多くの葛藤と衝突があったのだろう。通信ログのすべてに、苦悩と衝突、そして離反が満ち溢れていた。そのログの中には、あの幸福に成り果てた臨時管理官の名もあった。

通信ログの最後は、この場所を去る事を決めた人間への別れの言葉で締めくくられている。生きた人間を捧げるにあたり、あの怪物を神とすることを決めた時期の事だ。それ以降、部屋の主は誰かと語り合う事をやめたらしい。その少し手前にある文章が、目に留まった。

“もしも神と呼べる存在が地上に存在するのなら”
”きっと彼らを喰らう代わりに私たちを罰してくれるだろうに”

「まったく。罰してくれるだろうと言われても、既に自分で全部やった後じゃないか」
「どうしたんですか? スクロールが速すぎて何も見えなかったんですけど……結局ここにいたのは何者だったんですか?」

開いた窓から視線を外せば、人間が一人こちらを見上げて問いを投げかけてきている。この人間を探すのにどれほど苦労したことか。ヘルメースは少しばかり疲れたように笑いかけて答えた。

「なんてことはないよ。ただ、牛を盗む才もないものが、それでも自力で何とか最善を尽くそうと足掻き続けた、それだけだ。全てを捨てても、なお神に頼る事もなく。何という傲慢ヒュブリス──本当に、死すべき弱い身で、何と強く在ろうとし続けた事だろう」

そうして、ヘルメースは扉に目を向けた。正確には、その向こうに立っている気配に。

「ああ、ここにいたのは紛れもなく人間だった。そうだろう?」


ヘルメースの声を受けて、ゆっくりと扉が開く。そこにはあの狂ったように笑っていた責任者が息を切らせて立っていた。笑顔の残滓を顔に張り付けて、涙をこぼしながら立ち尽くしている。狂気と正気が同程度に入り混じった眼。笑ってはいるが、どう見ても幸せそうには見えない。階段を駆け上がってきたのだろう、しばらく肩で息をして床を見つめていたが、正面からこちらを見据えて声を上げる。意外にも静かな声だった。

「アレを殺したようですね。あなた方は、何なのですか?」

舞愛がひどく静かな声で答えた。

「千葉舞愛。あなたに殺されそうになった不幸な者ですけど」
「それは大変失礼いたしました。まさかあんな勧誘で通常の情動を有した方がひっかかるとは思っておらず」
「は?」

舞愛を無視して管理官はヘルメースの方に「それで、あなたは」と尋ねる。どこかおそるおそるといった尋ね方。舞愛が人間であるのなら、“かみさま”を殺したのはこの男なのだともうわかっているのだろう。ヘルメースはつとめて優しく告げる。

「オリュンポス十二神が一柱、アルゴス殺しのヘルメース。君たちにはSCP-1988-JP-A-1とも呼ばれていたな。これまでよく頑張ったね、人間の子たち。もう君たちは誰も何にも捧げなくていい」

管理官はしばらく立ち尽くしてヘルメースを見つめ、やがて床にへたんと座り込んだ。座ろうとして座ったというよりは、足の力が急に全部抜けたように見える。俯いて、何も持たずに床に落ちた自らの手を見つめながら、「一つ聞いてもいいですか」と尋ねた。

「何だい」
「どうして今になって来たんですか?」
「……すまなかった」

視線を落としたまま、管理官は「ここから誰もいなくなったのは一昨日のことだ」と語った。収容対象を神と偽ってヒトを捧げる日々に、一人一人とまっとうな情動を保ったまま動き続けられる人間は減っていった。そうして、一昨日に全てが終わったのだと。

己の正気を、哀しみを表明していた最後の人間がこの部屋で死んでいるのを見つけた時か。
それとも「死ぬならあの檻に飛び込んでくれたら三日稼げたのに」と思ってしまった時か。
その同僚の亡骸を、自らが造った偽りの神の収容房に、自らの腕で投げ込んだ時だろうか。

どれが最後の一粒だったのかはわからない。あるいは、もっと前から崩壊していて、それに気づいたのが一昨日だったというだけの話かもしれない。今となってはどうでもいいことだ。ともかく、神が間に合わなかったのは確かなのだから。

「一昨日にこの建物から人間は消えました。そして、今日あなたがたが訪れて、ここにいた人間たちの戦いは全て無に帰した。おめでとう、本物の神様。偽りの神も黒幕も全ては見事に消えました。……ねえ、どうして今日だったんですか?」

長い時代にわたって、神は人間に問いを投げかけられてきた。ヘルメースもまた、それに答え続けた神の一柱だ。そのように在れと人に定められている。だから、こうも正面から問われたら答えるほかになかった。

「……君は、その時になって強く願ったんだな。同僚の死体を怪物の檻に投げ込む時に。死者を貪るだけではない、死者の魂を導く神プシューコポンポスの存在を。だから、僕が喚ばれたんだ。次の生贄を用意する車に僕が乗り込む事になった」

沈黙。ゆっくりと管理官は顔を上げる。そこに表情と呼べるものは何もない。全ての感情が抜け落ちた、硝子玉のような目が神の姿を映している。

「では、私が呼ぶのが遅かった、と?」
「それは何とも言えないな」

この部屋の主は神に罰されることを願っていた。それが叶ってしまった可能性すらあるのだ。神は最終的に全ての祈りを聞き届ける。それが自分たちの存在理由だ。だが、何を叶えるかも、何を叶えないかも、自分では決める事が出来ないのだ。

だから、雄弁の神は何も言えなかった。

「あの場で乗り込んできた生贄にああいう対応をしていなければ、少なくとも私たち二人が死にかける事態は避けられたんじゃないですか?」

場の温度が一気に冷えたような気がした。雄弁の神は人間を糾弾する言葉を持たないが、もう一人の殺されかけた人間はそれを持っている。臨時の管理官はゆっくりと首を舞愛の方に向けた。錆びついた機械のようなぎごちない動きだった。その視線の先で、舞愛は冷たく微笑すら浮かべて言葉を続ける。

「アレが死んだとたん、急にまるで人間みたいなことを言い出すからびっくりしましたよ。この部屋の人も驚くんじゃないですかね」
「何が言いたい?」
「笑いながら人間を殺しておいてよくもそんな事が言えるな、と申し上げました」
「では、考えることをやめて自分の身が不幸であると唱えながら何もせずに人々が餌になる所を眺めていればよかったとでも? 泣き人形か何かのように?」
「全部終わってから呼ばれて来た人に八つ当たりするよりは遥かにマシでは?」
「マイア。もうよさないか」
「ですが」

ヘルメースは進み出て彼らの間に入った。なおも何か言いたげにしている彼女に向かって「そういう恨み言を向けられるのも神の役割の一つみたいなものだ」と告げる。

「もう、お暇しよう。僕らがここにいてもどうにもならない」
「出て行かれるつもりですか、SCP-1988-JP-A-1」
「ああ。僕は収容対象かい? その理念は捨てたものかと思っていたけれど」
「実現するだけの力はとうになくなりましたが。それでも、ここにいてくださるならありがたいですね。信者なら用意できますよ」
「なるほど。だが、それには乗れないな。僕は神でもあるけど今は経営者でもあるからね。一人でああいう檻の中に祀られてる訳にはいかないんだよ」

信仰が欲しいのは事実だが、まともな人間の居ない空間に押し込められてSCPと呼ばれ続けたら何らかの変質をきたす危険性すらある。ここに居座る訳にはいかない。

「そうですか。残念です」

管理官は静かに答えた。扉の前に座り込んだまま、動く気配はない。引き留めはしないが、わざわざ道を開けてくれるつもりもなさそうだ。ここを通りたくば自分を押しのけて通れという事か。

この場にとどまる訳にはいかないが、神として、あるいは人格を持つ者として、こうも追い込まれた人間を足蹴にして帰るのは気が引けた。ヘルメースはちらりと背後を見る。背後では、開けっ放しの窓から夏の夕暮れの風が吹き込んでいる。

「マイア。手っ取り早く窓から出ようかって思うんだけど、君はどうする?」

舞愛は窓の外に視線を向け、ヘルメースに視線を向け、そして小さく頷いた。そして、こちらに手を伸ばす。それで決まりだった。

「それじゃあ、もう会う事もないだろうが。もしも今後気が向いたら、神に向かって祈るといい」

ヘルメースは彼女の手を取り、窓枠を蹴った。残された人間が何かを呟いたが、それは吹きすさぶ風に紛れて聞き取れはしなかった。


「信じられない。車の鍵なんかいつのまに盗ってたんですか?」
「檻に投げ込まれるときに数人がかりで抑え込まれてたろ。あの時」

あの建物から最短距離で降りてしまえば、誰も追ってはこなかった。だから、駐車場に停めてあった車を拝借するのもそう難しいことではなかった。何も不思議な事はないはずなのだが、事前に拝借しておいた鍵をヘルメースが取り出して以降、舞愛はずっと意味が分からないものを見る眼でこちらを見ている。それでいつ盗ったのかを丁寧に説明しているのだが、彼女は不審な眼を向けるのをやめてくれない。

「じゃあ、最初からそのつもりで? 暴れて取り押さえられる演技を?」
「ああ。人間を連れて山から降りようと思ったら車がある方が便利だろ。担いで飛んでもいいけど、あんまり人間ってそういうの得意じゃないだろ?」
「……ビルから飛び降りておいて言います?」
「自分で言い出しといて何だけどあんなに早く決断するとは思ってなかった」
「わりとどうでもよくなっちゃったって言うか……」
「案外思い切りがいいよな、きみ。でもそれはさておき車の方が便利だろ」

ヘルメースはハンドルを握りながら答える。曲がりくねったややこしい道ではあるが、交通の神の力をもってすれば話しながらでも30分程度で街へは戻れるだろう。助手席に座った舞愛は「あの時心配して損しました」と窓の外に視線を背けた。

「これでも泥棒の神にして格闘技パライストラを広めた運動競技の神だぜ。心配要らないよ」
「初耳なんですが」
「権能が多いからね。いちいち全部説明してると日が暮れかねない」
「そもそもあの時点では神って事も聞かされていませんでしたよ。……まあ、人間かどうかはわりと最初から疑わしかったですが」
「えっ本当? どこでバレた?」

焦った様子で尋ね返すと、舞愛は少し笑い、すぐにそれを引っ込めて答える。

「普通の人間はガムテープで縛られた状態から抜け出す時にああいう四散はさせません」
「見てたの?」
「ちぎれた破片が目の前に飛んできて何事かと思いました」
「なるほど。次はもっと苦戦することにしよう」

ガムテープで縛られた人間を見た事がなかったのは不勉強だったか。一人で納得していると、「そういえば、嘘と詐称の神でしたっけ」と声がかけられた。

「うん、詐欺師メカニオテスって美称もあるよ」
「ちょっと異名が多すぎじゃないですか?」
「仕方ないだろ。何かするたび人間が寄越してくるんだ」
「それ悪名高いって言うんですよ」
「なるほどなあ」

舞愛は少しばかり笑みを見せそうになったが、思い出したように真顔に戻った。そして、聞えよがしな溜息。呆れたようで、どこか楽し気な声。

「何と言うか、神を信じてくれって言ってたけど。神とか抜きに、シンプルにあなたが信用できない気がしてきました」
「酷いなあ。ところでその信用ならないヤツの手を取って一緒にビルから飛び降りた人間がいるらしいけど、どう思う?」
「仕方ないでしょう。他に手があればそうしてましたよ」
「どうかな」

ヘルメースは助手席に顔を向けた。その頭上を、近くの街への距離と分岐を告げる看板が通り過ぎてゆく。次の長いトンネルを抜ければ、街はすぐそこだ。それをちらりと確認してから、ヘルメースは続けた。街につく前に聞いておきたかった。

「君にはあそこに残るという選択肢もあった。間が悪すぎたとはいえ、あれでも元は人類の守護を掲げる集団だし、正常な情動とやらを有する人間を必要としていた。君だってそうだろう? 笑っていない人間と話がしたいと言っていたじゃないか」
「笑ってなければいいってもんじゃないんですよ」
「それもそうか」
「……その。笑っていなければ、こっち側だと、思っていたんです」

車はトンネルに差し掛かり、オレンジ色の光が伏せた横顔を仄暗く照らし出す。トンネル特有の騒音にほとんどかき消されそうな声で、彼女は続けた。

「でも、違った。あの子は何も考えなくなっていた」
「そうだね」
「……そして、笑い続けている人がいて、あちら側だと思った。何も考えられなくなった人形の一人だと思って対話を諦めた。でも、それも違った」

彼女は続ける。あの人は考えて、考え続けて、その上でそれを表に出すのをやめた。守りたいものを守るために、“あちら側”と同じ行動をする事を選んだ。人間としての思考を保ちながら、人間としての行動を捨てた。

「感情があれば人間なのか。思考があれば人間なのか。そのどちらも信じられなくなったなら、私は、どうやって自分が人間であると思えるんでしょう」
「……僕はギリシャの、不滅の神だから。人間とはって言われると、どうしたって死ぬ存在だって思ってしまうんだけれど」
「人間じゃないひとに聞くのもおかしな話でした」
「別におかしくはない。人はずっとそういう答えの出ない問いを神に、あるいは自分自身に投げかけ続けて来たんだから」
「……答えのない問い」
「ああ。その答えに意味はない。その問いに、それを投げかけ続ける事にこそ意味がある」

舞愛は何も答えず、トンネルの暗闇を見つめている。納得した、というようには見えない。当然だろう。与えられる答えにあまり意味はない。そして何よりも、人が神の在り方を定める事はあっても、その逆は存在しない。

だから、これはただのささやかな願いであり、独り言であったのだろう。

「自分に問いかけて、自分を人間だと思えるなら、きっとそうなんだと思う」

車はトンネルを抜けて街中へと滑り込んでいく。その先では、幸せな人々が日々を営んでいる。親子が、家族が、その他ありとあらゆる人々が陽光の下を歩いている。限定アイスが残り僅かとか、そんなくらいしか気に掛けることのない、慈しみ溢れる変わりのない日常。誰も神に救いを求めなくてもいい笑顔の街がそこにある。神の眼には、彼らもまた人間に見えている。自分が決して加わることのない人間たちの営みだ。

「不幸であることは感情を保証せず、笑顔である事は人間ではないことを示さない。だから、笑いたかったら笑っていいと思うよ、僕は」

舞愛はしばらく街の様子を眺め、「覚えておきます」と不器用に口角を上げた。久方ぶりに意識して笑ったという感じだ。ヘルメースは速度を落とし、車を停めた。舞愛は降りる素振りも見せずにただ座っている。それを見てからヘルメースは尋ねた。

「ところで。ここから行くあて……帰る先はある?」
「無い訳ではないですが……その、財布を荷物ごと取り上げられていて。言いにくいんですけど、その。車の鍵と一緒に財布とかも盗ってたりしていませんか?」
「本当に言いにくいこと言ったね君」

言葉尻こそ濁しているが、要求は一切濁っていない。はっきりとした盗品の横流しの要求である。それも神に対してだ。それはさておき、とヘルメースは思考した。“帰る先がないわけではない”か。

「いっそうちに来ないか」
「……ナンパの口上ですか?」
「いや、違う。僕は真剣に言ってる……二割くらいはそれもあるかもしれないけど」
「急に自分から台無しにしないでくださいよ」
「そうじゃなくてだな。我が社も正気のやつを集めて回っている最中なんだ。人手が足りていなくてね、神と人とが今は入り混じっている。何かに祈ることが、現状よりもマシな未来を夢見る事が出来る人間がいてくれると有難いんだよ。帰った先に笑っているのしかいないなら、君にとっても悪い話ではないと思うのだけれど、駄目かな」

舞愛はしばらく考え込む素振りを見せてから「わかりました。ご友人にも会ってみたいと思っていましたし」と答えた。よかった、とヘルメースは柄にもなく安堵する。ここで断られると“幸せについて一緒に考えませんか”以下という事になってしまう。それはさすがに色々な方向で沽券にかかわるというものだ。

「それで、何処にあるんですか? その会社というのは」
「人間とは少々空間の概念が違うから説明が難しいんだけど……ざっくり言うと地下の方面だね。降りたら適当に繋げられるよ」
「地下ですか」

舞愛は車窓の外に視線を向けた。その先には地下鉄への入り口を示す看板がある。

「……最初からそのつもりでここに停めました?」
「まあね」

彼女は「本当にそういう所ですよ」と笑って車から降りた。ヘルメースもそれに続いて車から降り、地下鉄へと向かおうとする。車から降りた時、ふと鉄の匂いが鼻をついた気がした。周囲を見回すが、当然ながら誰もそれへの反応は示していない。

地下鉄へ向かって、誰もいない階段を降りてゆく。その最中に、唐突にヘルメースは背後を振り返って見上げた。地中への入り口の所に、拳銃を片手に持って取り出した瞬間の男が一人、斜陽を背負って立ち尽くしている。

ヘルメースは背後の舞愛に「離れてろ、僕の目の届く範囲で」と男から目を離すことなく小声で告げた。これは少々手強い相手だと神の直感が告げている。それを覆い隠して、ヘルメースは軽い調子で拳銃の男に問いかけた。

「さっきから殺気があると思ったら。財団の者?」
「今は違う。だが旧友の頼みを無碍にはしない。まだ俺にやれる事があるならやるだけだ」

それで、この男の背後に何がいるのかヘルメースは悟った。不和の女神、エリスだ。何かあると思ったのは、かの女神の加護か。ご丁寧に「これは自分のものだから手を出すな」という牽制も兼ねられている。

自分は消えゆく女神に力の一部を分け与えた。彼女に祈りを捧げる者がいるように、そしてそれに加護を与えてやれるように、と。その上であの臨時の管理官に「神に向かって祈るといい」と言いもした。その結果がこれだ。意図してかどうかは知らないが、あの人間はかの女神に祈りを捧げたのだろう。殺人はエリスの権能の一つである。

先手を打って殺すという選択肢は消えた。ならば人間一人を守ってどう切り抜けるか。撃たせるわけにはいかない。神二柱の加護を受けた弾丸を防ぐのは無理だ。ヘルメースは口を開く。

「なるほど、元職のおかげで銃が使えるって訳か。銃器はいくつ持ってるんだい?」
「お前に教える義理はないな」

沈黙。階段の向こう、陽光の下で幸福な者たちが笑い合って歩いている。その陽気な声がこの暗い場所まで降りてくる。

「……え、あと一つしかないの? 急がなきゃ〜」

なるほど、一つらしい。街を行き交う者の声から答えを得るのはヘラスの民の専売特許ではない。答えを授ける側であるヘルメースにもまた当然使える技術である。

「こちらからも尋ねよう。お前は幸福な者か?」

男は再び神に問いかけた。ヘルメースは答え、問い返す。

「君と会うまではそれなりに。で、人殺しがどうして僕の気分を気にかける?」
「人間は殺さない主義だ。俺は死体しか葬らない」
「……君の言う死体というのは幸福な者のことか」
「ああ。頼まれたからな。自分が死体になったら殺せと。そして、他の人間たちが死体にならないためにも殺せと」

迷いのない答え。おそらくこいつは本気でそう信じている。それが正しいと信じて、自らの感情も迷いも全て捨ててしまった存在。誰かの願いのために、自らを役割のための装置となした者。そして、今となっては神の力を行使するための、人の形をした機構だ。

それは自分とよく似ている、とヘルメースは思った。

「幸福な者かと君は聞いたな」
「そうだ。人間か、死体か。俺にはお前がその両方であるようにも、ないようにも見える」
「答えよう、エリスの傀儡。お前と同じだ。幸福も、不幸も、舞台装置には必要ないだろう?」

男は何度かそれを聞いて何度か瞬きをした。そして、「そうか」と答え、片足を前に出して重心を落とす。

「──なら、お前は殺さないことにする」

男と神が動き始めたのはほぼ同時だった。そして当然のことながら、動き始めてからはヘルメースのほうがはるかに速かった。男が踏み込んで拳銃を構え終わるよりも先に、神は階段を駆け上がって銃をその手から奪い取る。そこに安堵はない。容易すぎる、と思った。拳銃を奪われた男は構わずに階段を駆け下りる。

その手の中で銀色が煌めいた。まだナイフを隠し持っていたらしい。

ヘルメースはすぐさまその後を追うべく振り返る。ナイフの射程なら対処できる。離れている舞愛のところに男が辿り着く前に、自分なら容易く制圧できる。ヘルメースはそのように思っていた。

振り返った先では、舞愛が一切その場から離れようとすることもなく立ち尽くし、凶刃を受けて階段を落ちて行った。刃に気づかなかった訳ではない。彼女は迫るナイフの光る軌跡を目で追っていた。それを眺めながら、避ける事もなく、幸せそうに微笑んでただ死を待っていたのだ。

その身体が階段に打ち付けられて転がってゆく。その身を受け止めながら、ヘルメースは知らず問いかけていた。自分が幸いになってもいいと言ったからなのだという事をはっきりと自覚したうえで、それでも人間のように問いを投げかけていた。

「──どうして。何故だ」

駆け寄ったヘルメースの声に、舞愛は目を開けてこちらを見上げる。その手足は奇妙な方向にねじ曲がっていて、助ける術がないのは一目でわかった。多くの権能を持っていていようとも、ヘルメースは医術の神ではないのだ。切られた喉から血液と空気が漏れる音がする。何か唇を動かしているが、その音は声になっていない。

「声に出さなくてもいい。僕には聞こえている」

──そうやって自分たちは声にならない声を聞いて来たんだ。

そう告げると、少しして、ごめんなさい、という想いが帰ってきた。続いて、途切れ途切れにもつれあった思考の塊が流れ込んでいる。言語化されない、懺悔に似た響きがそこには籠っていた。ずっと幸福に呼ばれ、堕ちることを拒み続けた者の孤独と苦悩がそこにあった。何度となくごめんなさいと声は繰り返していた。自分は幸福に堕ちかけている側なのに、ずっとそうではないふりをしていたのだ、と。何度となくその苦悩からの解放を願っていた、と。もう何も考えなくてよくなる朝を待ちながら、自分の不幸にしがみついて夜を過ごしていたのだ、と。

もう疲れてしまった。やめてしまっても人間なら、それでいいじゃないか。あの時そう思ってしまったのだ、と彼女は混濁した思考の中で教えてくれた。体温を失ってゆく手を握りながら、ヘルメースは黙ってそれを聞き届け続けた。声にならない声が、急にふと途切れる。絡まった思考が、一つのはっきりした声になる。

“ねえ、かみさま。一つ聞いてもいいですか”

静寂の中で首肯する。

“幸せになりたいと願うのは悪いことでしょうか?”

脳内のどこかで警鐘が鳴る。漠然と押し付けられた幸福感を肯定することは、ひいては自分たちへの信仰を、さらには自分自身をも否定することに繋がるのではないか。そう気づいても、そこで目の前の人間の願いに抗えるほどの強さはもう持っていなかった。そうしたいとも思えなくなっていたのだ。

雄弁の神は彼女の問いかけを肯定して見せた。それが何に繋がるかを予期したうえで。

「悪いものか。何人たりともそんな事は言わせない。僕は知っている。光の届かぬ星屑の数を、暗い空の高さを知っている。声なき者の祈りを、語られざる嘆きをずっと聴いてきた。君に感情があったことを、思考があったことを、その上で選択を積み重ねてきたことを、僕は全て識っている。誰にそれを責めさせるものか」

それを聴いて舞愛はふっと笑った。折れていない方の手がふらりと持ち上がって、神の貌にそっと触れる。その輪郭を、その存在を確かめるように。そして、血に濡れた腕から力が抜けて、触れていた頬に赤黒い軌跡を描いてぱたりと落ちた。

静寂。ヘルメースはその顔を黙って見下ろす。本当に幸せそうな、穏やかな顔をしていた。

それは地上の光の中を笑いながら歩いているあの幸福な民と何も変わらない表情だった。

ヘルメースはその様を見つめる。その時自らの中に浮かんだものを感情として名付けるのなら、羨望と憧憬だったのだろう。その幸せな有様を、自分で肯定した人間の姿を、羨ましいと感じてしまった。

それを振り切るように、ヘルメースは階段の下のほうを振り返った。エリスの代行者はこちらの様子を見ていたが、神の眼を見ると弾かれたように暗闇へと駆け出した。その背を見送り、ヘルメースは目を閉じて重い溜息をつく。行くがいい、と心の中で思った。自分も彼も、運命の機構に過ぎやしないのだ。

今までだって大勢の死せる魂を導いて来た。それが自分の役割なのだから、今回だってとっととそうしなければいけなかったのだ。それが、どうして今も自分は立ち尽くしているのだろう。信仰を喪って弱く、人間のようになったとはいえ、ここまで影響が出るものなのだろうか。

ヘルメースはやがて目を開け、顔を上げた。そこには既に階段の景色はない。目の前には暗い湿った洞窟の道が伸びていた。そして、背後には死者の霊魂の群れが蝙蝠のようにちち、と音を立てて飛び交っている。どれが誰なのかは、今となっては人の眼には何もわからないだろう。それらを導くようにしてヘルメースは歩きはじめた。

頭上には星も月も輝いていない。光と呼べるものを放っているのは、手の中に備わった金色に輝く伝令の杖だけだ。それを眼前に差し伸べて、ヘルメースは暗闇の中を歩いてゆく。

ここに音をたてるものは何もない。霊魂の啼き声と、神の重い足音だけが繰り返されている。

単調な足音の繰り返しに、信徒たちが歌っていた言葉を思い出す。形骸化した祈祷の声。

中身のない信仰。中身のない神。

地上にはもはや神に祈る者はないのだろうか。
応える力も、自分には残ってないのだろうか。

ヘルメースはやがて足を止める。視線の先には、彼岸の白い穂花が揺れる野辺がそこに広がっているだけである。霊魂たちは自らの憩う場所を目指してそれぞれに飛び去ってゆく。それを見送り、ヘルメースはまた歩き出した。

少なくとも、人の真似をして起業しようとしたのは自らの意志だ。人々に請われて社長になったのではない。だから、人々が何も神に願わなくなったとしても、それは残っている。


Ttt社オフィスの最も暗い部屋の片隅に、その棺は横たえられている。もう少しいい場所に置いたらどうかと言ったこともあったが、ここでいいと副社長が自ら棺桶を置いたのだ。

ヒエログリフの刻まれた棺が最後に見た時から微動だにしていないのを確認すると、ヘルメースはその傍らに腰を下ろした。結局のところ、最初に想定していたよりは早く帰ってこられてしまったな、と思う。この陽光の差し込まない空間には冥府を経由した方が速い。座り込んだヘルメースは、壁に背を預けると目を閉ざした。神にしては奇妙なことだが、とにかく疲れていたし、休みたかった。何も考えたくはなかった。

それからどれくらい経っただろうか。

棺桶の蓋が床にぶつかる音に、ヘルメースは瞼を持ち上げた。見れば、3日ぶりに見る鳥神は随分と焦った様子だ。

「ああ、おはよう」
「どうしたんですかその血は」

こちらの挨拶も無視して起き上がったトートは棺の縁をまたぎ越し、こちらに駆け寄った。そのまま座り込んだヘルメースの前に屈みこみ、傷を探そうとする。

「ああ、これか。僕の血じゃないよ」
「だとしても負傷はしているでしょう」

トートはヘルメースの肩を示す。破れたスーツに目を落として、そういえばあの怪物にやられていたのだったと思い出す。そうだったなと頷いて視線を正面に戻せば、トートはひどく気づかわしげな、あるいは何かを怖れているような目でじっとこちらを観察していた。このクロトキ頭の神がここまでわかりやすい表情を見せるのは久々だな、と思い、そして何を心配されているのかに思い当たった。今回はまだ自身の情動が世界に冒されていないかどうかの“確認”をされていない。もっとも、今のヘルメースにはそれがどれほど意味のある確認か自信が持てなかったのだが。

「大丈夫だよ、ちゃんと痛い。痛覚はある。色々あってちょっと忘れていただけ」
「……そうですか。手当をするので少し待っていてください」

大きく息を吐いて、叡智を司る鳥神は立ち上がった。ヘルメースと違い、副社長は医術の神でもある。あの場にいたのが彼だったらまた違ったのだろうか、などと考えても意味のない事をぼんやりと考えながらヘルメースはその背を見送った。

「何があったのか聞いても構いませんか」

包帯と手当の道具を手にして戻ったトートは準備をしながら静かに尋ねた。

「目のたくさんある怪物とやりあってね」
「アルゴス殺しがそれで手傷を?」
「色々あったんだよ」
「その色々の部分を伺っているのですが」
「うーん、それはちょっと待ってほしい」
「わかりました」

副社長はそれ以上何か詮索することもなく傷を診ている。ヘルメースは大人しく手当を受けていたが、ふと疑問を口にしていた。ずっと、頭の中で流れていたあの文言についてである。

「なあトート。地上で『くぃ・くんけ・う・さるうす・えっせ』と唱える人間たちがいたんだけど、何の台詞だっけ。何かの祈祷か何かだと思ったんだけどさ、唱えてる連中が意味も何も理解していないものだからさすがにこっちも意味が取れなくてね」

翻訳をも司る神は手を止める事もなく” Quicumque vult salvus esse”と即答した。「救われんと願うものはみな誰であれ」という意味のラテン語らしい。キリスト教の信条、アタナシオス信条の最初の一節だ。おそらく誰かがその冒頭だけを聞きおぼえて真似したのだろう、とトートは語った。

「Quicumqueというのは」
「誰でも、ですね」
「よく即答できるな、きみは」
「知恵と翻訳の神なので。答えられる事であれば、何であれ」

頭の中で回っていた意味の分からない歌がぴたりと止まる。頭の中が静まり返って、ただその意味だけが脳裏を巡っている。

誰でも。救われんと願うものはみな誰であれ。

地上で出会った人間たちのことが脳裏に浮かぶ。

ただ幸せそうに空虚な祈祷の一説を唱えていた者達。
神がいるなら罰してくれるだろうと願って死んだ者。
他に道はなかったのだと笑いながら全てを諦めた者。
人間のために死体を殺すのだと自らを装置とした者。
幸福の中で足掻いて、命からの解放を願っていた者。

誰が救いを求めていたというのだろう。誰がそんなものを必要としていたのだろう。

救われんと願うものはみな誰であれ。

誰でも、の中に。救いを求める者の中に神は含まれるのだろうか。

その先を考えてはいけない、と自分自身に言い聞かせようと試みる。求めるといっても誰に求めるというのだ。祈る先を持たない者こそが神ではないのか。顔を上げると、トートが手当を終えてまじまじとこちらを見ている。

「ああ、終わったんだね。手間をかけた、ありがとう」
「別に権能の一つなので大した事でもありませんが……本当にどうしたんですか、社長」

知恵の神は今度こそ困惑の声を上げている。

「神は……ギリシャの神は、涙を流さないのではないのですか」

それで、自分が涙を流しているらしいとようやく知った。零れたものが血に濡れていた頬を伝う。神の貌を、一筋の赤黒い筋が伸びて汚してゆく。そんな事にも気づかなくなるほど、自分は人間に近づいていたらしい。

「社長……ヘルメース。笑っているのか?」

もはや自分がどのような表情なのかもわからない。それでもいいじゃないか、と冷えた頭が考えていた。

神託の声は枯れ、問いだけが残されている。
祈祷の声は途絶え、静寂だけがそこにある。

「……ヘルメース?」

呼びかけに応える声はない。
どこまでも静かな部屋に、問いかける声だけが響いている。

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