「実験は中止だ」
けたたましい警報が鳴り響いたかと思うと、実験室の隅で黒目をギラギラ光らせていた守衛が口を開く。
どうせならあと5分も早く鳴ってくれれば、このクソがつくほど退屈な“オブジェクト”とやらを読み通す必要もなかったのに。
忌々しいそいつを机に置くと、白衣の先生が大慌てで回収していく。この後何をするつもりだったのかは分からずじまいだが、正直なところホッとしていた。実験室を出て行く白衣を見送っていると、守衛が「出るぞ」と苛立ちながら声を上げる。幸い舌打ちは警報の中に消えてくれたので、大人しくついていくことにした。
実験室の扉が開く。外で待機していた男と守衛が目配せをする。警報は相変わらずうるさいままだが、男たちの落ち着き方からすると大したことでもないらしい。
と、少しばかり安堵したのもつかの間。
「――実験室に戻れ!」
耳に取りつけていた無線機を押さえ、守衛が叫んだ。何かと問う間もなく室内に押し戻され、目の前の扉が閉まる。
防音のドアの向こうからは、何も聞こえてはこない。
例えばさっきの私の予想は大間違いで、この研究施設のどこかにいるらしい化け物(実際にそんなものは見たことがない。何かの実験で一緒になった“お仲間”から噂は聞いた)が逃げ出していたら。そんな最悪の予感が冷や汗になって背中をつたった。
出て行った博士や守衛たちは死んだのだろうか。すぐにこの部屋にも化け物が飛び込んできて、私も殺されるのか。外に出たいなんて贅沢は言わないが、最後の晩餐くらい恵んでくれたっていいだろう。
バクバクと脈打つ心臓を押さえ、扉の前に立ちすくむ。
思えば最悪の人生だった。どこで間違えて自分は犯罪者になって死刑を宣告され、あげく狂った研究施設で実験動物にされることになったのか。
……いや、もしかしたら生まれた時点で詰んでいたのかもしれない。
どれほどかも分からない時間が経ち――そして、ドアが不意に開く。
実験室に入ってきたのはウサギだった。
普通のウサギじゃない。極端にデフォルメされた水色と白のウサギが、二足歩行をしている。
それが大きく「MAP」と書かれた紙(なぜか逆さまだが)を広げ、口笛を吹きながら入ってきたんだから声も出せなくなる。
ウサギはぱっと顔を上げると、じっとこちらを見て首をかしげた。片眉を上げて地図を睨みつけながら、1歩、2歩と後ろに下がっていく。実験室のプレートと地図を何度も見比べると、ハッと何かに気がついたように手元の紙をひっくり返したのだった。
(……地図を読み間違えて入ってきた、って?)
そんなアニメーションのような動きだ。そしてウサギは“うんざり”という表情を作って4本しか指のない手で顔を覆った。手の平をぐいっと下ろすと、それに合わせて顔がゴムのように歪んで広がる。
想像していた化け物とのギャップに戸惑い、後ずさりつつソレを見つめる。向こうは向こうで、何かを考え込みながらこちらを見ていた。
(とにかく、隙を見て逃げ出さないと――)
額をつたった冷や汗が右目へ落ちた。反射的に瞬きをしてしまい、もう一度“ウサギ”を見た瞬間。
「……え?」
そこに先ほどまでの漫画のようなウサギはいない。
フリルたっぷりのスカートに、リボンがふんだんにあしらわれたエプロンドレス。靴の先から手袋まですべてがピンク色だ。ビビッドな金髪のツインテールと合わせて、目に痛すぎる。そして頭上のカチューシャには、ひょこひょことウサギの耳が揺れていた。
女の子。それも子供向けアニメ――言ってしまえば魔法少女もの――に出てきそうな少女だ。
女は真っすぐにこちらを見据え、コクリと頷く。
「分かったわ。私があなたを助けてあげるから!」
いや、何も言ってない。
返事すら聞かない強引さで、女は手を取って走り出した。飛び出した廊下には、完全に意識を失った守衛や武装した男たちが転がっている。そんな現実感のない光景を見て最初に浮き上がってきたのは、なぜか恐怖ではなく言いようもない好奇心だった。
ウサギカチューシャの女が奇妙なのは、見た目だけじゃなかった。
動きにくそうなヒールを履いているのに駆け足は機動部隊員よりも速く、固く閉ざされたシャッターも「これが私たちの絆の力!」と叫ぶだけで持ち上げてしまう。
「しっかり掴まっててね」
そう抱き上げられて、床を一蹴り。立ちふさがる男たちを軽々と飛び越えていく。
前だけを見つめて、女――いや、彼女は笑った。不敵に、明るく、強い意志で。
私は思い出した。
今は遥か霧中に消えそうな、子供の頃の記憶。忘れたかったあの日々。
それでも確かに、あのブラウン管の中では彼女が笑っていた。
「上まで行けば外に出られるよ!」
「う、うん!」
手を引かれながら走る。足がもつれそうになりながら、必死に階段を駆け上がっていく。
もしかしたら逃げ出せるかもしれないという淡い期待が、一歩ごとに確信へ変わっていった。
「止まれ」
階上で待ち構えていた機動部隊員たちに銃口を向けられても、胸に湧いた希望は失われない。足音が背後に迫り、追い詰められても。
だって彼女は、みんなの愛と夢を守るヒロインだから。
「キャアッ!」
合図とともに銃弾が発射され、か細い声を上げて少女が床に倒れた。けれど弾はひとつも当たっていない。洋服をかすめてところどころが破け、頬から一筋血が流れているぐらいだ。
それも当然。だって彼女たちが弾を喰らって大量に出血するところなんて、子供は見たくないから。もちろん隣に立っている私にだって、傷ひとつ付いていなかった。男たちは彼女の様子を見て、明らかに戸惑っている。
「こんなところで……私は、諦めない」
フラフラと立ち上がり(明らかにそんな大怪我なんてしていないはずだけれど)腕を押さえる少女。
「守るって……助けるって決めたんだから!」
――発光。
彼女の身体が桃色の光に包まれた。その眩しさに目を瞑ると、遠くから誰かの叫び声が聞こえる。
目を開けると、フロアに立っていたのは私と少女だけだった。ボロボロになりながら微笑む彼女を見て、自然と言葉が溢れてくる。
「……どうして、私を助けてくれるの」
「あなたが心の中にずっと私を置いてくれてたこと、知ってるから。思い出せなくても、忘れていても……小さい頃からずっと、私の居場所はあなたの中にあったでしょ?」
小さな身体に抱きしめられる。頭についたウサギの耳が頬をくすぐった。
今日までの私は、ウサギみたいな可愛い小動物も、ピンク色も、ふわふわのスカートも嫌いだと思っていた。それはきっと彼女のことを、そして助けてもらえなかった幼いころの自分を思い出してしまうからだったのだろう。
クソみたいな両親の元に生まれた。
満足に着替えもさせてもらえず、「死ぬと面倒だから」という理由で与えられていた残飯は不味かった。
そんな中で、唯一私の心に希望を灯してくれたのが、彼女だ。「見てる時は静かだから」と、気まぐれに買い与えられたVHSの中で、彼女はいつも前を見据えて笑っていた。
どんな辛い状況も歯を食いしばって乗り越える正義の味方が、いつか私を助けに来てくれると信じていたんだ。
「行こう。――ちゃん」
この施設に来て、番号以外で呼ばれたのは久しぶりな気がした。私は笑って、彼女に差し出された手を握り返す。
意識を失い倒れ伏した男たちの間を駆け抜け、視界の端の警察服を後目に外の世界に続く扉へと走る。もう誰にも止められない。私の、私だけのヒロインと一緒なんだから!
高揚する想いが、言葉となって溢れ出してくる。
「すごいよ……こんなの、最高のヒーローショーだ……!」
[爆発音]
追加の部隊が現場に到着した時、彼らが見たのは謎のエネルギー波を受けて意識を失った職員たちと、いわゆる「アフロヘア」となって立ち尽くしているウサギ耳の少女。そして親指と人差し指と小指を真っ直ぐに立てた握り拳という、奇妙な手の形を取って倒れているDクラス職員だった。
その場から警察服の少年が消滅するのを見たという証言もあったが、真偽は定かではない。
隊員に取り囲まれたSCP-1033-JPは、うっとりと呟くのだった。
「やっぱり爆発オチは様式美よね」