ある日の会食
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その日も、雨霧霧香は滞りなく仕事を終えた。

今回は少し長くかかったな、と雨霧は思う。最初に渡された資料には、対象の異常な再生能力と痛覚への耐性について記載がなかった。そのせいで土壇場で"施術"を変更し、色々と慣れない手法を試すことになってしまった。上手くいっただろうか? 最善は尽くせていると思う。しかし結局、"正解"を引けたかどうかはすべてが終わってみないと分からない。

血と肉片に塗れた用具を清拭紙で拭い、洗浄機に丁寧にしまう。巨大なピッカーや極細ドリルの刃先、片刃のスライサーが薬液の中で洗浄を待っている。今日も散々酷使したので、そろそろ交換が必要かもしれない。用具が全て揃っていることを指差し確認。よし──大丈夫だ。床に散乱する半ばから折れた強化合金製の注射針を慣れた手付きで回収していく清掃員に会釈して、雨霧は部屋を出た。

セーフゾーンと尋問房の間は3重に仕切られている。対象の肉体改造の程度によっては、尋問房は未知の致死性ウイルス兵器やミーマチック災害で満たされることになるからだ。天井裏のスクラントン現実錨は万能には程遠い。幸いなことに、今回の対象にそれほど大きな問題はなかった──非異常の狂犬病は直接噛まれさえしなければ感染しないからだ。それでも唾液や血液の付いた用具は感染性廃棄物なので、扱いには慎重さが求められる。

誰もいないセーフゾーンで、全身カバータイプの手術着を丁寧に脱いでいく。いつもはゴム製のエプロンと手袋、長靴にヘアカバー程度でいいのだが、今回は病気と異常性のお陰で随分と暴れさせてしまった。おどろおどろしいバイオハザード警告のステッカーが貼られたダストシュートに血塗れの手術着を丸めて放り込み、備え付けの消毒液のボトルを取って二の腕から先を丹念に消毒する。

個人用ロッカーを引き開けた。綺麗に畳んで仕舞ってあるスーツの上着を羽織り、愛用の白手袋を嵌める。仕事中は外していた腕時計を見れば、既に13時を過ぎていた。しまった、急がなければ。約束の時間にもう15分も遅れている。人を相手にする仕事だけに途中で切り上げるわけにもいかなかったが、それは待ち合わせ相手も同じことだ。

カードキーを兼ねたネームタグを首から下げて、沈黙がわだかまった部屋を出る。人気のない廊下を早足で歩きながら携帯端末を開き、遅刻への謝罪と、もし午後に用事があれば自分を待つ必要はない旨を急いで打ち込んだ。メールの送信完了画面を待たず、廊下の端にある薄暗い階段を半ば駆けるようにして下る。

サイト地下2階、あまりにも中途半端な階層に存在する死体安置所が、雨霧の目的地だ。


「あれ、いらっしゃったんですか、雨霧さん」

冠城先軌は、急ぎ足で入室してきた雨霧を見て控えめに微笑んだ。黒ずんだ白衣姿で佇む彼の傍らには、金属製の巨大な解剖台が鎮座している。剥き出しの金属面はなだらかに内側に向けて湾曲し、中央部の排水口からかすかに響く水音が、つい先程までそれが使用されていたことを主張していた。

「もうお昼時ですよ。昼食後でもよかったんじゃないですか。貴女なら気分を害したりすることもないでしょうし」
「書類はできるだけ早めに仕上げることにしているんです。特に、うちの上司が見ている前では」
「ああ、なるほど」

雨霧の上司は"勤勉さと歯並び以外に良いところが一つも見つからない"と評されるような男で、書類の不備を見つけたら最後、ひたすらに重箱の隅をつつき続けるだろう。冠城はあの男が苦手だった。冷静で完璧主義な雨霧と彼の相性は悪くないようだが。

「検死官、検死報告書はいつごろ完成しますか」
「今回の遺体はちょっと複雑で、今日中に終わらないかもしれません。遺体そのものはもう来ていますから、確認書にサインをすることはできますが。すぐにご確認されますか」
「お願いします。人を待たせているので急いでほしいのですけど」
「また無茶を仰る…………」

苦笑しつつも、こちらですと案内する。隣の部屋は広々としていて、検死助手たちが忙しそうに立ち働いていた。6台ある解剖台は全て埋まっていて、白い防水シートの覆いの上からでも、何か人型のものが載っているのがわかる。冠城が最も手前の台座のシートをめくると、凄惨な光景が露わになった。

「ご存知とは思いますが、所定の手順に則った確認事項です。指定発番PoI-861-U00372、姓名共に不明。推定40代男性、推定日本国籍、推定タイプ・イエロー。非異常の尋問中に過度の肉体変容を発生し抵抗、拘束を脱したため致死性武器による制圧、結果として終了。間違いありませんか?」
「ありません。初期資料には記載されていませんでしたが、仰るとおり変身者でした」
「でしょうね。体毛の鑑定結果から、おそらく狼の獣変調ビースタライズでしょう」
「痛覚遮断が可能な何かしらの処置を受けていた可能性があります。聴取結果と併せて報告したいので、検死結果の詳細を私のデスクに回してください」
「わかりました。痛覚に耐性があったと、道理で遺体に傷が多いわけだ」

雨霧の言葉に頷きつついくつか質問し、その全てに雨霧が淀みなく応える。チェックシートが埋まったのを確認して、冠城は手振りで助手の1人を呼びつけた。助手から渡されたクリップボードに挟まれていた書類にサインし、いくつかの項目を書き込んで雨霧に手渡す。

財団において検死報告はそう簡単なものではなく、死体から生ずる異常性の有無や肉体改造の影響を確かめるために長時間の検査が必要になる。ことによると遺体に蘇生防止処置を施したり、霊体消散設備への収容すら必要だ。そのため、こうして正式な報告書の前に死亡確認書を発行することが多い。確認書を必要とする職員と検死官が共に遺体を確認し、遺体の身元情報や死亡状況を確認する。

「ありがとうございます。いつも助かっています」
「いえいえ、仕事ですから。待ち合わせがあるのですよね? 急がれたほうがいいですよ」

そうですね、と無表情で頷く雨霧が腕時計を確認しながら退出する。部屋を出る瞬間、その顔に僅かな焦りの色が浮かぶのを、冠城は珍しいものを見るように眺めていた。


「…………なんなんですか、あれ」

苦虫を噛み潰したような顔で、検死助手の1人が呟いた。彼は着任して半年の新人だ。その視線は、雨霧が出ていった後のドアを忌々しげに睨みつけている。

「遺体を取りに行ったとき、凄いことになってましたよ。部屋の中、そこら中血塗れで。天井にまでべったり血がついてました、本当にあの女が拷問官なんですか」
「尋問官だよ。拷問官なんて職業区分は財団には存在しない」
「でも連中は部内でそうやって呼び合うじゃないですか。だいいち何が尋問ですか、爪を引き剥がしたり水に沈めたり、無茶苦茶ですよ。おまけに対象者を終了だなんて」

いつになく尖った語調の部下を、冠城は困ったように見る。彼は助手の糾弾の声に含まれる恐怖と憎悪の感情を鋭敏に読み取っていた。

当たり前のことではあるだろう。財団、人類を異常存在から守護するこの組織において、秘密とはいえ半ば容認されている拷問という行為を納得ずくで受け止められるものはそう多くない。

「あまりそういうことを言うものじゃない。別に終了を前提にしてるわけじゃないんだ。彼らの仕事は拘束した人間から必要な情報を引き出すことであって、その手段のひとつに肉体への攻撃があるってだけさ」
「そりゃあ終了自体は正当防衛ってことかもしれませんが、だからってこの遺体の損傷は酷いですよ。回復能力があるイエローに対してこの傷、どんな器具を使ったんですか。まともじゃあない」
「さあ、どうだろうね」

周囲の先輩たちから向けられる生温かい視線に気づいていない様子の新人に、冠城はどうしたものかと考える。拷問は確かに残虐な行為だし、倫理的にも正しくない。だが、倫理的に正しい行為など、そもそもこの組織には多くないのだ。検死官としてのキャリアと前職での経験上、冠城はそれをよく知っている。この部屋で今後も訳有りの死体たちと過ごすなら、真っ直ぐすぎる価値観は仇となるかもしれない。

「そうだね、君はクリアランスレベル1だろう? 今度、限定的なレベル2昇格の申請をしてみよう。色々と分かることもあるはずさ」
「? はあ、ありがとうございます……」

困惑する新人の肩を叩いて優しく微笑む。解剖台の上に載せられた物言わぬ狼人間の骸が生前、白髪の尋問官に何を語ったのか冠城は知らないし、知るべきことではない。ただ、その必要があったからこそ無惨な姿を晒しているのだと経験で理解している。財団は無駄を嫌う組織であり、尋問官たちは依然として存在しているのだから。とにかく、新人の昇格申請とセラピーの予約は同時に行っておくべきだろう。クリアランスレベルの上昇は必ずしも良いものではない。昇進した新人が自らクリアランスの差し戻しと記憶処理を申請するのはよくあることだ。

数日後に優秀な新人の辞職願を受け取ることがないよう祈りながら、冠城は仕事にかかる。彼はいつだって忙しかった。財団という組織において、モルグから死体が消えることはないのだから。


雨霧霧香は基本的に、サイトの食堂で食事をすることがない。その職務上、彼女のことを知る職員から敬遠されることは多いものの、基本的に他人の目を気にするような殊勝な性格の人間ではないと自認している。自分のことを嫌う人間がいるなら、そいつが離れていけばいい。

雨霧が食堂を使わない理由はひどく単純だ。潔癖症──それも極端な。自室の外では白手袋をしなければ何にも触れられないくらいの。当然、多くの人が集まって食事をする場を好む理由がない。

だから、彼女が昼時に食堂にいることはとても珍しく、長い白髪と相まって人目を引く。最も人の出入りする時間は過ぎたとはいえ、食券購入の列に並んでいるさなかに不躾な視線を幾度も感じ、少しばかり不愉快な気分になった。時折振り返って視線を合わせてやると、皆一様に怯えたような素振りを見せるのもまた腹立たしい。年季の入った券売機を尖った目付きで睨みつけ、最近とみに美味しくなったと噂の唐揚げ定食を注文する。

トレーの受け取りはスムーズに済んだ。待ち人を探すでもなく、食堂の端の席に座る。空調の効きづらい窓際ということもあって、ピーク時でもなければここに座るものはない。だからこそ良いのだが、と思いつつ背筋を伸ばしたとき。

「お仕事お疲れさまでした、雨霧さん」

ことりと目の前に置かれた湯呑は食堂セルフサービスの耐熱プラコップとは異なる本格的なもの。それを持つ手は上品な細身の茶色の手袋に覆われている。失礼します、と断って対面の席に腰を下ろしたのは、長身に灰茶色の癖毛の白人男性だ。

ジョシュア・アイランズ。雨霧の待ち合わせ相手が、人の好い笑みを浮かべていた。


「すみません、結局30分も遅れてしまって」
「構いませんよ、その程度。私も仕事の電話で離席していました」
「それならいいのですけど。忙しいのでしたら無理をせずとも」
「いいんです。久々にお会いできたのですから、仕事は程々にした方がよいと思いまして」

私だって偶には遊びたい、と肩を竦めるアイランズは、日本人と比べても遜色ない箸捌きで鯖味噌定食を口にしている。この多忙を極める外交官は渉外部門の仕事で方々のサイトを飛び回っており、立ち寄った先に着任している知り合いと会食するのが趣味のひとつらしい。雨霧はこの男と食事をするようになった理由を覚えていなかった。確か数年前、サイト-8100で業務のために偶々顔を合わせたのがきっかけだったような気がする。最初に会ったとき、なんの話をしたんだっけ。よく覚えていない。

ともかく、雨霧とアイランズは、月に一度程度こうして食事をしながら世間話をする。お互い忙しい身だから大抵はサイトの食堂で、休暇の予定が合えば外出して。数年間かけて、いつからかそれは日常の一部に組み込まれていた。頻度が縮まるでも空くでもなく、ほぼ等間隔の顔合わせだ。

「雨霧さんは唐揚げ定食ですか。こちらのサイトでは唐揚げに話しかけはしないのですね」
「食品に話しかける奇特な人物は財団にもそう多くないと思います」
「それが違うんですよ、サイト-8181をご存知ですか? あそこや近隣のサイトでは食堂で唐揚げを食べるとき、ある声掛けをする不文律がありまして」
「どんな奇習ですか一体」
「いえ、それがある種重大なインシデントの予防策になるんですよ。私はそれを知らなかったのである方に大変な失礼を……」

他愛もない、しかし奇妙で愉快な話が続く。外交官だけあってアイランズは話がうまい。なんだか妙な事件に巻き込まれた話題が多いのが哀愁を誘うが、財団に雇用されてからほとんどを赴任地のサイト内で過ごしている雨霧からすれば、新鮮で興味深い話題ばかりだ。普段から変化のない生活をしているせいか、あまり話せることも多くないので専ら聞き役に回ってそこそこに楽しんでいるのだが、

「私ばかり話しているのも何ですし、雨霧さんの近況も教えてくれませんか。些細なことでも構いませんよ」

そう邪気のない微笑で言われると、何か話さないといけない気になってしまう。とはいえ人と会話しながら食事すること自体がほとんどない身の上で、話題といえば自身の近況や扱った事案の当たり障りのない概観、それからサイト内の珍事くらいだ。

「そういえばこの前、別件で聴取した人が奇妙なことを言っていました。寿司を回す……競技? の店に行ったとか」
「寿司を……回す? 回転寿司でなく」
「そうです。寿司を、物理的に、個々に。なにかのスポーツなんだそうです」
「それはまた……どこぞの奇祭なのでしょうか」
「さあ、何とも。豚の頭がどうのこうのとうわ言ばかりで、精神鑑定にかけられてました」
「幻覚でなければ異常存在を疑うところですが、なんとも妙な話ですね」

伝聞、噂話、体験談。話すのに不慣れでも、案外と舌は回るものだ。サイト-8100に最近着任した愉快なエージェント達の話、いけ好かない雨霧の上司とその家族の奇妙な会話内容、サイト-8192料理長秘伝の限定スイーツを仕入れてくれる仕入れ代行人の噂、代替わり間近だという理事の後任選挙、等々。

「それで、独創的な味のタピオカミルクティーの屋台が出ているというのでつい行ってみたら、規制線が張られてましてね。横転したトラックの脇で顔見知りのエージェントが現場警備をしていました。どうもその屋台が作戦対象だったらしく」
「とうとう要注意団体まで出店を出すようになりましたか。流行も来るところまで来てますね」
「実際美味しいそうですし、話の種にもなりますから、一度くらい飲んでみたいんです。いずれ飲み比べもしようかと。その時は雨霧さんもどうですか」
「私、あまりサイトの外に出たくないんですが、アイランズさんの奢りならまあ……」

食事をし終え、お茶を飲みながらの世間話。季節のデザートの甘い舌触りが口内に残っている。久々に人とまともに話したからか、あるいは厄介な仕事を片付けて気が緩んでいたからか、あるいは単にこの会話を楽しんでいたからか? 浮かれていたのだと思う。妙な質問をする気になった。いや、口をついて出てしまった。

「アイランズさんは、どうして財団で外交官になったのですか」

聞いてみてから、出過ぎた質問だったと思う。財団職員にとって、なぜここにいるのかという単純な質問は往々にしてタブーに触れる。雨霧にしたってそうだ──別に話すことが嫌なわけではないのだが。収容違反の現場に一般人として出くわして、広域精神汚染による阿鼻叫喚の中で平気な顔をしていたから目をつけられた、なんて事を言っても聞いた方に気を使わせるだけだから言わないようにしている。この手の話題は相手によってはデリカシーがないと糾弾されてもおかしくない。謝罪しようとしたところで、アイランズは腕組みをして首を傾げた。

「質問されるのは構いませんが、なぜ、と言われると少し困ります。しかし、あれですね。私は信じていますので」
「信じている?」
「ええ。陳腐な言葉ですが、人と人は分かりあえる、というやつです」

気恥ずかしそうに口にする内容は、テーブルの上で宙に浮いたようだ。財団職員としてはとても奇妙なものに思える。わかりあえる、と思わずオウム返しの独り言が漏れた。こちらの困惑を察したのか、アイランズは小さく頬を掻く。説明の仕方を考えているのか、視線は小刻みに揺れている。

「正確に言えば、人と人は譲歩しあえる、でしょうか。相互の価値観や利害のぶつかり合いの中で、最善を目指しながら次善策を突き詰める。その結果、争いの全てでなくとも多くが解決されるなら、労力に見合う結果でしょう。それを美しいと思いまして、外交職を志望したのです」
「随分はっきりと言うんですね、次善策って…………」
「そりゃあそうですよ、仕事の外でまで社交辞令は面倒ですからね。今はオフなんです」

にこりと笑って湯呑からお茶を啜る姿はなかなか様になっている。いつだったか、日本式の所作は全て外交用の訓練の結果です、と言っていたけれど、雨霧より余程日本文化に詳しいかもしれない。全身を訓練の成果で包んだ、言葉で戦う戦士のようだ。オフだと言いながら"勝負"の形式が染み付いているのかとぼんやり考える。

「多くの要注意団体や人物、あるいは政府や自治体の役職者。誰もが自身と組織のための仮面ペルソナを持ち、それを使い分けます。誰もが素っ気ない顔をしていて、こちらの話など聞く気もないように見える。しかし交渉の場にいるわけです。だから対話し、戦います。それが良い結果を生むと信じていますので」
「どうしてそう信じられるんです? 相手は何を考えているのかわからない、言葉も通じない、敵意を無条件に振りまくかもしれない相手なのに」
「相手も人間だから──というのは当てはまらない場合が多いですね。最終的には信条の問題なのでしょう。戦いの後、最後には理性と共感が残っていると思いたいんです」

悩みながら話しているのだろうか、後から解説を継いでいくような話し方をしている。多分、自身の思考に対して真摯なのだろう。それは良いことだと思いながら、いつの間にか温くなっていたお茶の、最後に残った濃い部分を啜る。湯呑から顔を上げたところで、アイランズの碧い視線が真っ向からこちらを見据えていることに気付いた。

「私の思いはこんなところです。デリカシーのないことを聞くようで申し訳なく思いますし、答えたくないのであればもちろんそれを尊重します。しかし、私も以前から気になっていたのです」

続く言葉は分かりきっているので、顔色を変えることはなかった。この男はこういうところを遠慮しない。

「雨霧さんはなぜ財団で、今の職位にいらっしゃるのですか?」

雨霧は湯呑を置く。なんだか以前にも同じような質問をされた気がするけれど、よく覚えていない。いつだったっけ? 自分にはこんなことを話す間柄の相手はいないのに。そもそも自分の本当の仕事を知っている人間はそれほど多くない。アイランズにはいつの間にか知られていたけれど。

なぜ財団にいるのか? なぜ尋問官──部内では拷問官なんて呼ばれているけれど──になったのか? 経緯を客観的に話すこともできる。しかし、多分アイランズが求めているのはそういうことじゃない。彼は仕事に対するスタンスを話し、雨霧も同じことを聞かれているのだ。なぜなんだろう? 繰り返されるルーチンワークの中では特に気にすることもなかったけれど。

回答する言葉は、特に気負うこともなく、するりと卓上に流れ出た。

「私は、信じていますから。人と人とが本当の意味で分かり合うことなんて、不可能なんだと」


アレクサンドリーナ・アレクセーエヴナ・シュシュニコワは、最近異動によって新しい上司になったアイランズという男のことが嫌いではない。色恋沙汰に付き物の意味を成さない否定ではなく、文字通り。明るく優秀で率直、気遣いのできる人物だ。ひとつ問題があるとするならば、彼はシュシュニコワの監視対象者だ。

外交官、それも要注意団体との交渉のプロともなれば後ろ暗い点のひとつやふたつ──そういった思惑が上層部にあるのかは定かではない。ともかく彼の下で秘書官として働くようになって2ヶ月、シュシュニコワは倫理委員会のエージェントとして彼の一挙手一投足を監視してきた。内部監査は難しい仕事だが、アイランズは別段秘密主義でもなく、社交的な人物なので調査自体は楽だった。彼の広すぎる交友関係をリスト化するのには辟易したけれど。結局、彼には特段倫理・保安上の問題はなさそうで、シュシュニコワは業務への熱意を失いかけていた。

今日、アイランズが出先のサイトで半休を申請するというので、少しばかりは埃が出るかと思ったものの、これも空振りだった。盗聴器はさして問題ある会話を拾うこともなく、ただ単に職務への熱意に溢れた男女の世間話を垂れ流していた。シュシュニコワは自身を彼のもとに送り込んだ内部保安部門と倫理委員会の決定を疑いながらも、勤勉に調査報告書を仕上げ、彼の半休が終わる時間に待ち合わせ場所に指定されたサイトのロビーを訪れた。

ちょうどアイランズは友人だという相手と別れの挨拶を済ませたところだった。長い白髪が特徴的な尋問官と儀礼的な言葉を交わし、彼女のどこか棘のある視線を気にしつつシュシュニコワは上司を車へ案内した。

「今日、何か良いことありましたか、アイランズさん」
「…………? なぜですか」

サイト-8100へ帰る車上、仕事の打ち合わせを済ませた後。なんとはなしに尋ねてみると、手袋を外しながら上司は困惑して眉をひそめた。盗聴のことを悟られないよう、シュシュニコワは素っ気なく答えた。練習中の日本語では、少しばかり奇妙な言い回しになったが。

「いつもより口元、счастливый……緩んでいます。わたしは構いませんが、встретиться впервые……ええと、初対面なら、少し変に思えますね」
「こ、これはお恥ずかしい……」
「ご友人と会食すると言ってました。それほどприятный、楽しかった、ですか」

私にはそうは思えませんでした、という言葉は決して口にしない。盗聴していた限りでは、会食の中盤以降は口喧嘩とまでは行かずとも談笑とはいえない雰囲気だった。あれは議論とか討論とか、そういった性質が近いように思える。相互のスタンスに則った思想のぶつけ合いだ。楽しめる要素があっただろうか? 内心の疑問に対し、アイランズは苦笑しつつ答えた。

「楽しいですよ。あそこまで遠慮なく持論をぶつけ合える相手というのはそういませんからね」
「はあ。雨霧さん、はっきり話す人、なんですね」
「それもありますし、私と真っ向から反対する感性の方です。他人を信用できない、人と人は分かり合えない、と真正面から言える人は中々少ないでしょう。それも外交官に向かってです」

私からすればそれこそ信頼に値するのですが、と笑う。

「意見が食い違うことは悪いことではありません。雨霧さんは冷徹で、合理的で、誠実です。彼女と話している時間は大変楽しいものなのですよ。職務への認識はともかく、スイーツの趣味は合いますしね。甘いものが好きな同僚には中々巡り会えずにいるものですから」

そう言って微笑む上司は本当に楽しそうだったので、シュシュニコワの彼への評価は心なしか上昇した。同時に、少しばかりの悪戯心が湧いた。なんとなく別れ際の雨霧の視線が気になっていたのもある。あれは驚きと猜疑の視線だった。その瞬間はただ奇妙に思っただけだったが、アイランズの人物評と内部保安部門の調査資料を併せたならば、見方が少し変わってくる。そうだ、少し突ついてみようか。

タイミングよく、車はサイト-8100の偽装されたエントランスに滑り込む。夕暮れ時ということもあり、エントランスには人も多い。車から降りたところで、わざとらしい大声で話しかけてやる。早口の英語にしたのはせめてもの情けだ。流石にこのお人好しの上司に恥をかかせるのはよろしくない。

へええ、驚きました。仕事以外で女性と2人で会うところなんて見たことないから、私は彼女のこと、てっきり貴方の恋人だと思っていたのですけど。どうやら勘違いだったようね
「え、シュシュニコワさん? 何を」
私、彼女のことは気になっていたんです。美人さんだし、好みのタイプだもの。Запах туманаだなんて、名前も詩的だし。もし宜しければ、連絡先を教えてくださいません? デートに誘ってもいいかしら
「い、いえですから違います、私と雨霧さんはそういう関係ではなく、あと彼女は確かに魅力的な女性ですが、迷惑になりますから私的な誘いは──

驚くべきことに、上司はシュシュニコワの想定を遥かに超えた動揺を見せた。周囲を気にしてか、慌てるあまり両手をばたつかせながら日本語と英語を混ぜて必死に否定する様子は実に奇妙だ。何事かと周囲の職員が振り向く。クツクツと笑いながら肩を震わせるシュシュニコワの様子にからかわれたと気付いたのか、頬を紅潮させるのも中々にいじらしい。ごめんなさいね、と周囲に手振りで謝って先に進んでいくと、アイランズは仏頂面で後を追ってくる。

「…………公衆の面前でそのネタはちょっと卑怯じゃあないですか」
すみません、でも軽い冗談ですよ。そもそも外交官がこの手の話題に弱いのは問題ではありませんか? 私は本国でのエージェント時代、散々耐性をつけましたけど
「私だって普段は気を付けていますとも、今のは油断です! 貴方がそういう絡み方をしてくる人だとわかっていれば上手く流していました!」
「あー……今後は、будьте терпеливы……自重します」
「嘘ですよね!?」

憤慨しているアイランズを半笑いで宥めつつ、所持品検査カウンターの長い三ツ編みを垂らした検査員にパスを提示する。本職の監査では成果なしとはいえ、使えるネタを発見できたのは喜ばしいことだ。このネタは大事に取っておこう。いざというときの交渉材料になるし、最近同僚になったもう一人のロシア人に何かのカタに売りつけるという線もある。他人の弱みを活用する方法は無限大だ。

「で、本当のところはどう思っていますか? любовник、彼女のこと」
「いえ、ですから違いますと……」

渉外政策局オフィスは地下4階で、エレベーターの待ち時間は長い。頑なに、しかし弱々しく否定するアイランズをおちょくりながら、去り際の雨霧の視線を思い出して、シュシュニコワは心中で呟く。

案外、脈はあるんじゃありませんか。


八家十次は自身の評判に概ね満足していた。それは基本的に罵倒と呼んでいい代物だったけれど、他人からの風評というものは当てにならないし、彼のような職種においてしばしばそれの価値は反転するものだ。尋問官という職務上、同僚からの嫌悪は勤勉さの象徴ですらあると思っている。事実、八家はとても忠実で有能な職員だった。半休をとってサイト内で遊び呆けていた部下の代わりに、彼女の失態の尻拭いをしてやる程度には。

「つまりだ、君は1人の変身者を終了し、それに関する十数ページの書類を提出したわけだ。サイト駐留機動部隊と死体安置所がその書類のコピーを受け取り、彼を捕らえてきたエージェントたちにも渡った」
「それがどうかしましたか。私の勤務時間はもう終わりましたけど」
「これは単なる愚痴だよ。君の作成した書類通りならこんなことにはなっていない。何故冷蔵庫の中の死体が立ち上がって逃げ出すようなことがある? 検死官が偶然にも対変身者戦闘の経験を有していなかったら、今頃君と私は懲戒審査の対象になっている」
「それは検死をした向こうの落ち度でしょう…………」

わざとらしくしかめ面を作ってやれば、部下もまたあからさまに眉をひそめる。雨霧霧香は平素から無表情で、ご多分に漏れず八家を嫌っている部下ではあるが、午前中の浮かれた態度とは打って変わって異様に不機嫌そうにしている。さて何かあったな、と思いつつも、八家はわざわざ気遣いの言葉をかけたりしない。感情のコントロールくらいは自分でやってもらわねば困る。

「とにかく、検死官は対象を改めて終了し、蘇生防止処置を施している。場合によってはオブジェクト指定が為されるだろう。君は対象に行なった施術内容を確認し、改めて報告書を提出するように。期限は…………明日中にしておこう」
「ちょっと、本気で言ってるんですか。聴取内容にいくつセキュリティ制限がかかってると思ってるんです、一時解除審査の申請だけでも面倒なのに」
「あれは単に根気がいるというだけだろう。今日は随分と会食を楽しんだようじゃないか? 養った英気を活用したまえ」
「な、」

秘密を言い当てられて絶句する部下の姿を見るのは中々に楽しいものだ。尋問官として長年培ってきたスキルは遺憾なく実生活に活かされている。情報は常に相手の先手を取り、最大限の衝撃を与えるために想定外の方向から活用されねばならない。これでも同僚のことを思いやって、手心を加えているのだから。思わずこぼれる笑みを噛み殺す。

「気付かないとでも思っていたのかね? 常々思うのだが、君は業務外での隙が多すぎる。自分の好みのフレーバーを把握されたくないのに休憩室のティーバッグの順番を戻すのをいつも忘れるだろう。木苺とはね、お笑い草だ」
「何を分かったような口を──」
「ジョシュア・アイランズの連れについて気にしているのなら、あれはつい最近付けられた内部保安部門の犬だ。さして君が目くじらを立てるような関係ではない、本人がそう言っていたからな。それにしても、奴がこのサイトに立ち寄る公式な名目が私以外にあると思っていたのか?」

適切な追撃は無言の防御を強いるものだし、当てずっぽうでも上手くすれば致命傷になってくれる。何を言うこともできずに口を開け閉めする部下の間抜けな表情を存分に堪能した後、八家は手元の書類を捲った。外交官が持ち込んだ渉外部門からの大袈裟な資料や申請書類の数々に、本当の意味で馬鹿馬鹿しいものが紛れていたからだ。今の雨霧にはちょうど良い代物だろう。面倒事を増やしてくれた礼に、少しばかり押し付けても文句はあるまい。

「折角呼びつけたんだ、これを持っていきたまえ。佐藤の奴が本気でこれをやろうとしているなら、うちの部署で対象者は君だけだ。アイランズも巻き込まれたようだから丁度いいだろう。参加しろ、これは業務命令だ」

人事情報局月下氷人委員会、職員合同交流企画のお知らせ──八家から見れば噴飯ものでしかない、無駄に豪華な3枚組みの書類を雨霧に投げ渡す。反射的に彼女がそれを手に取ったのを確認し、椅子を回して背を向けた。言うべきことは言った、勤務時間外の部下にもう用はない。残業手当など出してやるくらいなら他所に仕事を押し付けるのが彼の信条である。

「早く出ていきたまえ、他人の色恋沙汰に興味などない」

返事は叩きつけるようなドアの開閉音だった。激しい靴音が去っていくのを、にやにやと独り笑いしながら聞く。

他人の色恋に興味がないのは紛うことなき事実だ。職場でそんな空気を撒き散らされるのは害悪でしかない。しかし雨霧ときたら出勤してからこちら、尋問房に入るとき以外は常に時計を気にしていて、しかもそれを自分で気づいていないときた。何ヶ月同じことを繰り返すつもりなのだろう? 同僚と上司を馬鹿にするにも程がある。

「全く面倒な…………」

自分や妻もかつてこうだったのだろうか? いやそんな筈はない、と思考しつつ、追加された顛末書を処理しにかかった。


楽しい時間だった。掛け値なしにそう言える。誰かと会話することがこんなにも純粋に楽しめる時間はそうないことだ。何せ普段の会話の多くは人間性に欠けた上司とごく少数の同僚たちであり、そうでないときは命乞いや罵声やヒステリックな侮辱、泣き声、嬌声、ヒトではない何かの唸りを聞き続けている。それら全てから離れ、何でもない会話を重ねてきた。それに、あの言葉。

「私は、信じていますから。人と人とが本当の意味で分かり合うことなんて、不可能なんだと」

「それもまた一つの在り方です。聞かせてください、雨霧さんの奉ずる信条について」

そう微笑む彼の表情は、確かに魅力的だった、と思う。こういうことには慣れていないし、自分からその感覚を認めるのはなんだか癪だけれど、否定できない事実だ。

そう、あのとき自分は、自分を構成する様々な要素について率直に話した。そしてアイランズの信条をことごとく否定した。自分はそうは思えない、と。理想論であり、現実的にも感覚的にも認めがたい話だ。多くの悲鳴を踏みしめて立つ、誰かを苦しめることで使命を全うし、そしてそれを当然と受け止める人間が、貴方の前にいるのだと。

それをアイランズは嬉しそうに聞いていた。頷きながら聞いて、そして言った。理解します。同意はできませんが、それは一つの理念です。あなたを組み上げている哲学です。それを聞けることを、聞かせていただけることを嬉しく思います。

彼が否定しないのは分かっていた。当然だ、彼は分かりあえると言い、自分は無理だと言う。それはある種の既定路線だ。なにが楽しいのかと自分でも思ってしまう。そんなことのために熱くなって、数時間もの間、食堂の片隅で真剣な顔をして、ああでもないこうでもないと。

そうやってお互いを確認して、それはあまりにも色気のない会話だったけれど、確かに幸福だったのだ。


その幸せにケチが付き始めたのは、彼を迎えに来た女──背の高く引き締まった肢体の秘書官を目にしたときで、肌も髪も背の高さもよく似た2人が会話する情景を見ていて感じた奇妙な不快感はなんとも形容しがたいもので──そしてようやくその感覚が薄れてきたというときになって、人類史上最低最悪の感性を有する上司が全てを叩き壊した。

今、雨霧は自分でも抑えきれない激情を抱えている。スーツと白手袋と拷問官の二つ名によって半ば外側から固められたように静謐に保たれてきた心の平穏は、いま鮮やかに吹き飛ばされてしまった。制御できない感情のうねりに突き動かされて、職員寮の敷地を早足で歩く。頬はちっとも熱くないのに、心臓は早鐘を打っている。

頭の中で幾つかのイメージがループしている。アイランズの笑顔──書類鞄を受け取る女秘書の横目──向かい合った2人分の食器──八家の哄笑──差し出された手袋の指先──それを控えめに握る自分の指。次の瞬間、触れ合った箇所は素肌に変わり、そして、

「ああもう!」

理解不能な妄想を叫びとともに脳内から叩き出す。何もかも訳が分からない。どうしてこんなことになっているんだろう? 混乱という言葉では表現しきれない、嵐のような感覚が頭の中で荒れ狂っていた。これがミーマチック汚染でも認識災害でも後催眠暗示でも薬剤刺激でも条件反応でもなく、単なる内在的な心理変化だというのか。自分の、心の? こんなことがあり得るのか。一生縁がないと思っていた、自身にそれが訪れることなどあり得ないと信じ切っていたのに、それを自覚した、否、させられた瞬間に何かがおかしくなってしまっていた。

職員寮の玄関を猛烈な勢いで通過する。ぎょっとする入寮者たちが波が引くように道を開ける。心配そうな顔の警備員が近付いてきたが、目を合わせた瞬間に震えながら後ずさった。何でもいい、後で後悔するにしたって、今は勢いだ。もう何もかも構うものか。

雨霧は怒っていた。恐らく人生で最も怒っていた。どんな罵倒でも足りないあの憎たらしい上司と、その罠にまんまと嵌められて袋小路に迷い込んだ自分に。右手に引っ掴んだ書類から意識を外せない。どうすればいい。どうしよう。どうしたらいいの?

頼れる人物は、たった1人しか思いつかなかった。


千日灯子にとって、その日は何でもない日常で終わるはずだった。

単身者向け職員寮「ゆうなぎ」を預かる寮監である彼女にとって、寮監室のガラス窓から見える1階ラウンジは聖域だ。窓からはラウンジ全体が見通せる。業務を終えた職員たちが三々五々やってきては思い思いに談笑し、あるいはホワイトボードの脇で議論したり、軽食コーナーの自動販売機の周囲に屯して品定めをしたりする。早上がりの内勤職員たちは既に入浴を済ませてラフな姿だ。食堂へ続く廊下からは食欲をそそる匂いが漂ってきて、訓練帰りの虚ろな目をした機動部隊員一同が吸い込まれるように歩き去る。

痛みと忘却、場合によっては死と隣り合わせの財団という組織において、無条件に安心できる空間は何物にも代えがたい意味がある。千日は日常の門番だ。それを誇りとする彼女は、数百人の入寮者すべての顔と名前とおおよそのプロフィールを記憶し、仲の良い職員に限れば会話内容や口調、細かな癖、足音すらも把握している。

だから最初は機動部隊を呼ぼうかとすら思ったのだ。乱暴で怒りに満ちたその足音は、千日の記憶にないものだった。監視カメラの映像から、足音の主が千日のよく知る──そして非常に気に入っている職員だと知ったときには却って本気で心配になった。いつも冷静で無表情、それでいて隙の多く愛らしい、千日とぎこちないながらも友情を築いた雨霧霧香という女性とは、あまりにもかけ離れた様相だったからだ。

何か辛いことがあったのだろうか。雨霧は抱え込みがちなタイプだ。声をかけてやりたいけれど、今は落ち着くのを待ったほうが良いだろう。彼女のことだから人目を避けて深夜にラウンジまで降りてくるだろう、少しばかり夜更しして、話を聞いてあげようか──

そんな算段を済ませた瞬間、がらりとガラス窓が引き開けられた。

「千日さん、今いいですかッ」

眉を立てて眉間に皺を寄せ、怒りと羞恥に満ちた凶相の雨霧が立っている。

「急ですみません、恐ろしく嫌なことがあったので、後で一緒にパフェ食べましょう。私が払いますから──それと」

ばしり、と受付台の上にカラフルな書類が叩きつけられた。
表題の奇妙な文字列が千日の思考の表層を過ぎ去る。月下氷人委員会──月下氷人の意味は、仲人。

仲人?

「お見合いのやり方──私に教えてくれませんか」

確かに耳朶を打ったその台詞を理解することができず、千日は僅かに首を傾げる。思わずまじまじと見た雨霧の白い頬は紅潮し、瞳は僅かに潤み、表情は憤然としながらもその視線は不安げに彷徨っていた。怒りに震えているようにも、羞恥に迷っているようにも思える。否、加速度的に均衡は後者に傾いていき、今や彼女は涙目で俯いている。

おみあい、と千日は呟く。はい、と雨霧が小さく頷く。

次の瞬間、驚愕の悲鳴がラウンジ全体に木霊した。

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