「それ」に気付いたのは、梅雨が明けた月終わりの頃だったと思う。いつものように玄関の鍵を回した時に、見慣れない植物が庭に生えているのが目に入った。
それは木の実が生る木だった。葉っぱの隙間から、至る所に赤や黒いのが見える。
葉の陰に小さいのが固まって、ぶつぶつぶつぶつ生っている。
小さいけれど異様な存在感があった。いつからここに?誰が植えた?前者はともかく後者の答えにはすぐに思い当たった。
また、親父だ。
2年ほど前に酒に飲まれて妹の由紀を殴って以来、親父は自室で息を潜めるようにして暮らしている。母さんにだけは未だに高圧的な態度を取れているようだが、僕や由紀に対しては口すら利いてこない。こちらも無視を決め込んでいる。
ただ、逆にそれが良くなかったのかもしれない。自分の人生を惨めに終わらせたくないのか何だか知らないが、家族から切り離された親父は、前衛陶芸だとか昆虫食だとか、おかしなことばかりに手を付けるようになった。この木も、その一つに違いない。
家に入り、親父の部屋の方を見ないようにしてリビングへ向かう。ドアを開けると、母さんがテーブルで内職をしている真っ最中だった。
「あ、翼……。おかえり。」
目をこちらに向けて力なく微笑む。近くのスーパーでのパートに、今やってる内職。加えて数件のアルバイトを頑張って掛け持ちしてくれているが、僕達家族を食わせるには収入はまるで足りていなかった。体の弱い母さんには肉体労働は過酷で、日々元気が失われているのが目に見えている。
「兄ちゃん、そこに突っ立たないでよ、邪魔なんだから。……って、母さん!具合悪いって言ってたじゃない!残りは私やるから!」
由紀は帰ってくるなりそう言って、内職が入った段ボールをひったくるようにして手に取った。大変なことは1人で抱え込もうとする母さんを、由紀は懸命に支えようとしている。遊びたい盛りの頃だろうに、学校が終われば真っすぐ帰宅し母さんの仕事の手伝いをする。自分には何でもかんでも歯向かってくる、生意気な妹でしかないのだが。
特にやる事も無く、スマホを弄りながら夕飯が出来るのを待っていると、頭が痛いのか、料理を中断した母さんが由紀と交代でリビングに入ってきた。様子を見計らって、さっき見たものについて触れてみる。
「あの、庭のやつなんだけど。」
「あぁ……。あの木ね。今朝もまた、伊藤さんから怒られちゃって。早く撤去しろ、勝手にあんなもの生やされたら困るって。あっ、ちゃんと謝っておいたから大丈夫。……今度お父さんにお話しなきゃね。」
隣に住む伊藤とかいうおばさんは、家のことについて僕や母に対してとやかく文句を言ってくる。その大半は、親父がやった事なのだが。……同時に、あの男を未だに「父さん」なんて呼んでいる母さんに対しても、少し苛立ちを覚えた。同じ家に住んでるだけで、ほぼ離縁しているようなものなのに。いつか「もう癖だから」と苦笑していた、母さんの顔を脳内から掻き消した。
あの木の様子を思い返す。「今朝もまた」伊藤さんに怒られたと母さんは言った。あの木は、そんなにも前からあったのだろうか。家だと最近はスマホを見るばかりで、庭になど目が行かなかったから気づかなかった。母が何年もかけて整えていた花々を押し除けてその陰に隠し見えなくするほどに、図々しくその葉を伸ばしていた木。本来花が享受する筈だった水分や日光を根こそぎ奪い取って、すくすく元気に育ったのだろう。花が僕達、木が親父。我が家のシンボルとして、いかにもお誂え向きじゃないか。
夕食を手早く済まし、自分の部屋に戻ってベッドに顔から倒れ込む。ゆっくりと微睡む中で、もう何度目か分からない妄想をした。「親父さえ居なければ。」「いっそ消えて仕舞えばいいのに。」「独りぼっちでうんと苦しんで欲しい。」
あの男、死んでくれないかなあ。
親父が廊下で死んでるのを母さんが見つけたのは、その翌日の事だった。
掲載見送り(1) - 記録██月█日
解剖所感: 呼吸器系統に固形物が詰まったことで発生した呼吸困難による窒息死。特筆すべき点として、腹部を切開した際、胃腸に木の実と思しき物体が大量に残存していることが確認された。この木の実は呼吸器系統に詰まっていた固形物と同類の物と見られる。
あの男が居なくなってさえくれれば、僕達家族を取り巻く問題は何もかも綺麗さっぱり解決するような気がしていた。でも死んだ後に残った淀みの後始末は、生前に関係のあった誰かが嫌でもしなければならない。その日の僕は休日を返上して、親父の遺品整理に勤しむことになった。
親父の部屋のドアを開けると、炭と酸を蒸したようなキツい臭いが鼻をツンと刺した。木酢液だ。本来は除草剤や虫除けとして使う物を、親父は何を思ったのか身体に塗り付けていた。健康法のつもりだったのかもしれないが、木酢液によって黄ばんだ肌と刺激臭は、家族と親父の間に出来た溝をさらに深める要因でしかなかった。
鼻呼吸をなるべく意識しないようにして、部屋の中の物を纏めていく。見るからに胡散臭い啓蒙書や、聞いたこともない名前の新聞のスクラップ。誇らしげに飾られてあったよく分からない表彰状に、……固く丸められたティッシュ。部屋中に散らばってあるそれらを、長い時間をかけて分別しゴミ袋に入れる。ひしゃげたビール缶や灰皿に堆く積もった吸い殻を拾う時には、また舌打ちが出てしまった。生まれてこの方、お酒や煙草になんて触れたことすらない。アルコールも、ニコチンも、人を屑にする為の毒でしかないからだ。親父と同じくらい、大嫌いだった。
金目のものだけはどれだけ探しても見つからない部屋で、とりわけ目を引いたのが2つ。
1つは、無造作に床に転がっていた古ぼけた「鉈」だった。刃の部分は錆で満遍なく茶色に燻んでおり、どう見ても切れ味が良いようには見えない。気持ち良く切れるものを探すのに骨が折れそうだ。一体何の為にこんなもの持っていたのやら。
もう1つは、ゴミ袋の山。今日日珍しい、中身の見えないようになっている黒色のポリ袋に包まれた物体。自分1人だと抱え切れるか分からないぐらいの大きさのものが5つも6つも、部屋の至る所に転がっている。
まさか中身はティッシュじゃないだろうな。そんな不安にも駆られたが、何にせよ中を見ないと分別ができない。袋を開けようとしたが口はきつく固結びにされており、一度破いてしまわないと中身は取り出せなさそうだった。そうだ、丁度いいところに刃物があるじゃないか。僕は鉈を手に取って、袋の上部に押し当て横に引く。案外簡単に袋は切れて、中身が溢れ出した。
ごろごろごろごろごろごろっ。
赤と黒の雪崩が、一瞬で視界を埋め尽くす。床に大量に散らばったそれには、よく見覚えがあった。庭でその数を日に日に増して行く、あの木の実だ。僕は呆然として、暫くその場に立ち尽くした。何で、庭の木の実が袋に?それもこの量、とてもじゃないが1週間や2週間であの小さな木に生る数じゃない。そっと切り口を覗き込んでみる。
袋には、塵みたいな大きさの蛆虫が大群でたかり、腐って半ば液状化した木の実がぎっちりと詰め込まれていた。部屋全体にツンとした、きつい臭いが漂う。思わず部屋に転がる、他の袋に目が行く。まさか、これ全部木の実なのか。熟れた臭いに敏感な蝿が、瞬間的に袋にたかり出す。無意識に後ずさった左足が、床に落ちた木の実を1つ踏んでしまった。
ぶじゅっ。
不快な音と足に伝わる粘液が広がって行く感触に全身が総毛立つ。置いてあった座布団に、必死に足の裏を擦り付ける。でも一度足に付いた液体は簡単には取れない。不快なベタつきが伸びて広がっていく。
ああ、凄く、不愉快だ。気付けばまた舌打ちが出ていた。自分でも信じられない位、苛立っているのが分かる。視界が狭くなり、声を荒げるのが我慢できない。胸の中で、怒りをガスとして溜め込む風船が少しずつ膨らんでいる気がした。
ドアを乱暴に開けて、大股で廊下を歩く。途中、突っ立っていた邪魔な妹に肩がぶつかった。由紀は「ちょっと、気をつけてよ」と睨みつけるが、虫の居所が悪いので、無視して通り過ぎようとする。「はあ?ごめんの一言もないわけ?」と、尚もしつこく突っかかってくる由紀に「うるっさいな」と振り向いたところで、僕は言葉を失くした。
そこに立っていたのは、一本の木だった。だらしなく実を吊り下げながら、床に根を張って逞しくふんぞり返っている。
「……ねえ?」
呼び掛けられて我に帰る。目の前に立っていた由紀は首を傾げながら、急に押し黙った僕を不審そうに見詰めていた。僕は素直に謝って、一度全ての袋を外に出してしまうために、親父の部屋に戻ることにした。
やけにリアルな、見間違いだった。
掲載見送り(2) - 記録█月██日
あの木ですか。まぁ、確かに道路に葉っぱがはみ出してたのは少し邪魔でしたけど、そんなに気にするような事だとは思わなかったですけどね。枝切り鋏とか使いながら、奥さんが毎日楽しそうに木を手入れしているのは、隣に住んでいるのでよく見かけましたし。大事な木なんだろうなぁって思って見てましたけどね。
・・・
ぱあん、と乾いた音がした。
握り拳ではなく張り手を使ったのは、叩くそれが実の娘の顔であるという、せめてもの良識のつもりだったのだろうか。それでも、ろくに栄養を摂れておらず細身だった由紀の身体は、頬に喰らった衝撃で簡単に吹っ飛んだ。
「……うあっ。」
「由紀っ。……あなたやめてっ。」
転げた拍子に壁に強く頭を打って呻く由紀を見て、母さんは悲鳴のような声をあげた。
「うるっせえよ。」
娘を張り倒し、やめてと叫ばれた当の本人、親父は舌打ちをして酒焼けした喉でそうがなる。
「俺が悪いってのか。俺の苦労なんて、何も分かってねぇ癖に。お前らがギャンブルやめろやめろってうるせえから、わざわざ稼げる仕事を見つけてきてやったのに、またぎゃあぎゃあ言いやがって。お前らどうせアレなんだろ、もう俺が何しても気に食わねぇんだろ」
「……いい加減にしろよ」
捲し立てる親父に対して、ずっと、ずっと堪えてた言葉が、その時は簡単に口から出た。
「あぁ?」
「少しは人の話を聞けよ!毎日朝から馬鹿みたいに酒飲んで煙草吸って、お前がいつ苦労なんてしてるんだ!胡散臭いことばっかやってその度に出費重ねて、いつまでこんなこと繰り返すつもりだよ!」
全部、本当のことだった。こんな正論で引き下がってくれるとは思えなかったが、こいつには何か言ってやらなければ気が済まない。そんな思いで、つい衝動的に口をついて叫んでいた。
瞬間、ゴンッという音が響いた直後に、身体がぐわんぐわんと揺れる。親父が持っていた酒瓶を僕に振り下ろしたと分かった時には、僕は床に倒れ伏していた。つつ、と視界を赤いものが流れる。激しい痛みと、額が割れて出血してることのショックで、起き上がることが出来なかった。
そんな僕を見て親父は、あの男は、口の中でなにかもごもごと呟いた後、「死ねや」と呟いた。
母さんは、男の足に縋るように絡み付く。震える声で必死に、「やめて。やめて。」と繰り返しているのがぼんやりと聞こえた。母さんを見下ろして、男はふん、と鼻を鳴らす。小声で何かを聞いた後、服の襟を掴んで自室に引き摺っていった。僕はその様子を、ただ眺めることしか出来ない。
扉を開けた男が、最後に此方を振り返る。そこに立っていたのは、男ではなかった。
そこには、木が立っていた。
枯れ果てた枝の節々に、不釣り合いな程大量の木の実を実らせている。
扉がひとりでに閉まる。がちゃん、という音が響いた後、木の実が一斉に、枝から墜ちた。
ぼとぼとぼとぼとぼとっ……。
・・・
そこで目が覚めて、僕は布団から跳ね起きた。湧き上がって来た吐き気に、朝から顔をしかめて手で覆う。なんて、不愉快な夢なんだろう。何もかも過去に実際に見聞きした光景の焼き直しだった。……最後の木以外は。
そうだ。あの日を境に、僕は親父を日常からシャットアウトした。中途半端に相手にしようとするから、あの男はつけ上がる。生活も、家計も、暴力も。完全に隔離してしまえば、あの男には意味を成さないものになった。自室に引き篭もって、僕等に干渉しなくなったのも、そのおかげだ。そして今では、男そのものが居なくなっている。
完全な自由なのだ。もう手に入らないと思っていたそれが、僕達家族の目の前に広がっている。再び頭に浮かび上がりかけた、木の実が落下する様を必死に振り払う。
苦しい生活はもう終わった。家族3人での、楽しい生活が幕を開けたんだ。
丁度半年ほど前の僕はそんな風に、この先に待つ暮らしに楽観的な妄想ばかりを抱いていた。
掲載見送り(3) - 記録█月██日
奥さんを見てたら分かってしまって。だから私は、親切心で忠告してあげたんです。やめておきなさいって。もう高齢だし、下の子も大分大きい。家計も良くなさそうだし、何より旦那さんがあんな状態でしょって。そしたらいきなり引っ叩かれて、「あの人は、そんな人じゃない」って叫んで。当時はちょっと頭に来ましたね。
まぁ、旦那さんが急に亡くなって、すぐにそれどころじゃなくなりましたけどね。
目の前には、山積みの請求書。
内容は様々だ。携帯代や光熱費、奨学金申請を怠った分の学費に、カードの督促状。その殆どが僕由来のものだと、分別する中で察してしまう。
いや違う、厳密には僕が使ったものではない。これはつまり、家族を幸せにしようと思ってつい出費が嵩んでしまった結果なのだ。お得そうだった家具とかオーディオ機器を買い替えたのも、要するに母さんや由紀を思ってのことで、それに普段から頑張っているんだから多少は娯楽に興じても仕方のないことで、だからこれは家族の出費ということな訳で。
手に持っていた紙の束を放り出す。僕一人の責任じゃないんだから、これは母さんにやってもらわなきゃ。
ぶうん。
母さんを呼びに行こうと立ち上がったところで、耳元に野太い羽音が聞こえた。また蠅か。舌打ちする。親父の部屋にあった、木の実が詰まった袋にたかっていた蝿は出来る限り殺したつもりだったが、それでも生き残りは僕の家に棲みついて、今でもこうして姿を見せて煽ってくる。
すぐに叩き潰してやる。そう思い羽音のした方を見て、ぎょっとした。普通飛んでいる蠅や蚊を見つけた時、空中に小さくて黒い「点」が浮かんでいるように見える。素早く飛行する虫の残像だ。僕が目を向けた方、そこに浮かんでいたのは「点」ではなく「丸」だった。
大きい。普段目にする蠅とは比べ物にならない程巨大な虫が、緩慢に空中を羽ばたいている。
ぶうん。ぶうん。
一瞬、伸ばしかけていた両手に抵抗が生じた。だがこの不気味なやつを家に野放しにしておくことを考えると、僕の手は反射的にその虫を叩いていた。
ぐじゅっ。
手に伝わってくる、すごく嫌な感触。なぜか、覚えがある。そうだこのドロドロが広がっていく感じを、僕は以前にも感じていた。正直見たくはなかったが、合わせた手の平をそっと開いた。
両手の大部分に、虫の体液と混じって赤黒い、じゅくじゅくとした粘液が染みていた。同時に鼻にツンとくる、散々嗅いだキツい臭いが襲い掛かる。
あの木の実を潰した時のそれだと、手を開く前から理解してしまっていた。まるで、虫の中に木の実がぎっちりと詰め込まれていたかのような。すぐに洗面台に行き、流水で手の平を擦る。汚い色は落ちたように見えたが、鼻に近付けると臭いはまだ残っていた。
ああ、クソ。不快で不快で、舌打ちが止まらない。「なんで」を考え出したらキリがなく、苛立ちが募るだけなので思考は止めた。
「……あんた何やってるの」
いつの間に忍び寄ったのか、背後に立っていた由紀は掠れた声でそう問い掛けてきた。
「ああ、良いところに来たな。あの木の実が」
「木の実?そんなことどうだっていいでしょ?」
思わずカチンとくる。僕がこんなに不愉快な思いをしているのに、それが「そんなこと」?「どうだっていい」?母さんといいこいつといい、何でみんな僕の気持ちを分かってくれないんだ。
言い返そうとした僕の目の前に、由紀は紙の束のようなものを突き付ける。
「これ、何なの?あんた一体どういうつもり!?」
それは、家族共用の預金通帳だった。暗証番号は僕も由紀も知らされてて、緊急時にはお金を引き出していいことになっている。2、3日ほど前にそこに入っていた何十万円かが、満額引き出されていることが示されていた。
「お金引き出したの私でもお母さんでもない!あんたしかいないでしょ!ウチの事情知ってるよね!?何に使ったの、なんで何の相談もしないで勝手に!?今すぐ返してよ!」
なんだ、そんなことか。血相を変えて怒鳴る由紀を宥め透かすように、僕は説明する。
「心配しないでいいよ、2、3週間もしたら倍になって返ってくるから」
「……はあ?」
頭が弱いからか僕の言っていることが理解出来ないらしく、由紀はぽかんと口を開けた。
「いやな、SNSで優しい人が良い商材を教えてくれて。それがすごい話であまり一般には流通してない、今のうちにやっておくと絶対に儲かる投資法なんだよ。」
「……何言ってるの」
青ざめた顔の由紀が、わなわなと震え出す。人の話を聞いてないんだろうか。滑稽だな。
「わ、私たちの、お金は」
「だから心配しなくてもすぐに膨れ上がって返ってくるって。俺だって家族の生活のために、ちゃんと色々考えて」
全部言わせて貰えなかった。由紀が僕の頬を、平手打ちしたからだ。
「巫山戯るのもいい加減にして!どうするのよ、あれうちの全財産なんだよ!?頭おかしいんじゃないの!?」
叩かれたショックで呆然として、由紀が何を喚いているのか頭に入って来ない。なんで僕を殴るんだ、僕は家族のために。そんなぐるぐるとした思考は、妹の呻くように搾り出した次の一言で凍り付いた。
「お兄ちゃんってさあ、ほんと親父そっくりだよね」
……は?
目を、見開く。頭に一気に血が昇る感覚があった。俺が、親父に、似ている?
「部屋、見たよ。何なのあの、お酒の空き缶と吸い殻の山。あんた毎月、いや毎日どれだけ飲んで吸ってるのよ?」
違う、あれは、気分を落ち着かせるために仕方なく嗜んでたもので。それに僕は親父と違って自制心があるし、1週間に1日、いや3日に1日くらいは節制を。
「親父がいなくなって、せいせいはしたけど絶望もしてた。あんなのでも家に少しだけでもお金は入れてくれてたから。だから、お兄ちゃんが代わりに稼いできてくれるようになるのかなって思ってた。信じてたんだよ。でも、期待した私がバカだった。お兄ちゃんはずっと親父のこと見下してたけど、そんな資格ない。あんたなんか親父以下のクズじゃない!」
瞬間、何かが切れる音がした。
ゴンッという音と、握った拳に痛みが響く。由紀は仰け反って背中から倒れ込んだ。僕は無意識のうちに、由紀を殴っていた。
「……ほら、親父以下」
殴られたことなど意に介していないように、地面に臥した由紀は僕を睨む。途中から言い争いに気付いて来ていたのか、母さんが由紀の後ろで僕を呆然と見詰めていた。
「翼……?」
引き攣った顔が、あの日親父の膝に縋り付いて懇願していた時の顔に重なる。母さんは僕を、恐れていた。まるで僕がまともな会話が通じない獣かなにかみたいな、そんな。
そんな目で、僕を見るな。
気付けば、足元に母さんが倒れていた。お腹を押さえて、痛みに顔を滲ませながら水面に浮かんでる羽虫のようにのたうち回っている。僕が、やった?いや違う、僕じゃないんだ悪いのは。
握っていた拳を開く。手の平から仄かに漂う、あの木の実の臭い。僕は逃げるように、家を飛び出た。途中で親父の部屋から鉈を手に取って、そのままの勢いで庭に向かう。あの木はいつもと変わらぬ様子で、鬱蒼と枝葉を繁らせ、ぶつぶつと木の実を生やしている。その足元には落下した実が、いくつもごろごろと転がっていた。
こいつの、せいだ。僕は歯軋りする。僕の生活を、これまでさんざん邪魔しやがって。僕は鉈を大きく振りかぶって、幹に突き立てる。途端に木の実が5、6個ほど落下する。
ぼとぼとっ。
錆びた鉈は幹に数ミリほど刺さったものの、それ以降は動いてくれない。そもそも鉈は切るためのものじゃなく、割くためのものだ。そんなことも知らなかったのか、親父の馬鹿め。僕は舌打ちを何度もしながら、全身の力を籠めて必死に押して引いてを繰り返す。その都度、幾つもの木の実が地面に落っこちる。
ぼとぼとぼとっ。
ぼとぼとぼとぼとっ。
どのくらい、そうしていただろうか。ついに幹から「めきっ」という音が鳴り、木の体勢が傾いた。
終わりだ。僕はもう一度振りかぶり、鉈をひび割れた幹に突き刺す。
びきびきめきっ。
ぼとぼとぼとぼとぼとぼとっ。
木は、様々な音を立てながら横に倒れていった。身体を起こした僕の周りには、落下した無数の木の実。ふん、と鼻で笑い、そのひとつを踏み潰す。
ぐじゅっ。
木の実は抵抗もなく、簡単に潰れた。ざまあみろ。僕は鉈をその場に放り出して、そのまま外に遊びに行った。
掲載見送り(4) - 記録█月██日
妹の由紀ちゃんは本当に良い子でねぇ。毎日のように謝りに来てくれたりしたんです。お母さんの事も分かってて、自分が支えるしかないって言ってました。ただ、息子さんは旦那さんに似てしまったのか、昔から少し横柄と言うか自分勝手と言うか。最近は怒鳴るような声が毎晩聞こえてきて、正直怖かったですよ。
足取りが重い。酒が入った袋を片手に家のすぐ近くまで来た所で、身体は前に進まなくなった。心安らぐ場所だった筈の家に、今は帰りたくないと思った。親父が死んでからずっと、頭の中には「どうして?」という疑問符が浮かび続けている。
どうして、楽しくないんだろう。どうして親父が居なくなったのに、家族の中で僕が一番肩身の狭い思いをしなくちゃならないだろう。どうして、僕の思い通りになってくれないんだろう。腹の底に湧いた怒りで、自分の中の風船が一気に破裂寸前まで膨らみ始める。
……落ち着け、大丈夫、大丈夫だ。もう大丈夫なはず。気付いたんだ。今の僕達家族の生活を妨げていたのは、あの変な木と木の実だったって。あれを見る度、父を思い出して風船が破裂しそうになる。自分が、自分じゃなくなる。だからこそ切り倒してやったんじゃないか。今頃、母さんも由紀も木が無くなった庭を見て、喜んでいるに違いない。この前由紀や、母さんの腹を殴ってしまった事も許してくれるし、無視もやめてくれるだろう。
僕を出迎える2人の笑顔を思い浮かべて、少し足取りが軽くなった。いつものように玄関の鍵をかちゃん、と回しながら、ふと庭に目をやる。
木が生えていた。
至る所に赤や黒い木の実と、その隙間から緑の葉っぱが見える。まるで葡萄みたいにぶつぶつぶつぶつ、我が物顔で実らせている。
僕は鍵を取り落として、思わず庭へ駆け寄った。昨日、確かに切り落とした筈の木が、何事も無かったみたいに庭の元の場所に生えている。は、と口から息が漏れる。それに呼応するみたいに、枝から木の実が幾つも、幾つも墜ちた。
ぼとぼとぼとぼとぼとっ。ころころころころっ。
柔らかい音を立てて、僕の足元に転がる沢山の赤色と黒色。気持ち悪い。風船が、大きく膨れ上がるのを感じた。僕は絶叫して、何かに急かされたみたいに地面に落ちた木の実どもを全て踏み潰す。
ぐしゅうっ、ぶじゅぶじゅっ、ぶちっ。
ペンキを撒き散らしたみたいになった庭を尻目に、僕はふらふらと玄関に歩みを進めた。切り倒さなきゃ。思考がまとまらない中で、その事だけが理解できる。あれのせいだ。あの木があるから、僕達は、僕は。幸せになれない。自由になれない。僕の自由な暮らしの為には、あの木の実どもが、邪魔だ。
切り倒さなきゃ。切らなきゃ。つぶさなきゃ。ころさなきゃ。
玄関を開け、家中に大声で呼び掛ける。鉈はどこに行った。母さんでも、由紀でもどっちでもいいから。無視するな、早く持って来い。…………返事が無い。
「……おーい?ただいま…。」
そこで異変に気付けた。もう夜の8時を回った所だから、2人とも帰って来ている筈なのに。どの部屋も電気が消えてて真っ暗すぎる。家の中が、静か過ぎる。何の音もしない。
「母さん?由紀?ただいまって言ってるだろ。」
胸の底から湧いて来る不安を押し留めるように、語気を強めて声を発する。やはり、物音一つ聞こえて来ない。唾を飲み込もうとして、口の中がカラカラになっていることを自覚する。嫌な予感が止まらない。がぁんがぁんと、全身が何かを感じ取っている。
ぱちんぱちんと一部屋ずつ、電気をつけていく。玄関、廊下、リビング……。誰も居ない。テレビの電源をつけると、賑やかなバラエティ番組が大音量で流れ、逆に家の静かな異様さが際立つようだった。台所、寝室、トイレ……、あと風呂場は。
ぶちっと、何かを踏んづけた。何を踏んだのか。足裏に伝わって来る感触が、直接見なくても答えを教えてくれている。なんで、なんで。震える足を無理矢理動かす。ねちゃあ、っと糸を引いて来る土踏まずを拭う気にもなれない。
風呂場に続く廊下に、赤い木の実がぽつぽつ並んでいる。さっきまで、無かったのに。
「由紀?」
風呂場を、覗き込む。そこには下着だけを身に付けた由紀が、脱衣室に倒れていた。反射的に駆け寄る。抱き起こして身体を揺さぶるが、死んでるみたいに反応がない。どうすればいい?救急車を呼ぶか?もしかしたら母さんもどこかで倒れているんじゃないか?
パニックになりそうな一方でどこか冷静だった僕の目は、由紀を観察する内に「それ」を見つけてしまった。右の頬に、丸い膨らみが出来ている。一瞬にきびかと思ったが、ビー玉が丸々入ってしまいそうな大きさのそれは、1日で自然にできるようなものじゃない。僕の手は、なぜかその膨らみに伸びて行って、指の先でそっと押してしまった。
むりっ。ぽとっ。ころころ。
膨らみはそんな音を立てて潰れ、そこからよく見覚えのあるものが転がり落ちて来た。僕の膝に当たって止まった、その木の実から目が離せない。
妹の身体から、木の実が噴き出て来た。
ゆっくりと目線を再び由紀の身体に向ける。露出した肌の色んな所に、同じような膨らみが何個も何個も、ぶつぶつと出来ている。ほんの数秒後、それはぼとぼとひっくり返したように落下して、肌には蓮のような穴が無数に。
思わず身体を突き飛ばす。由紀は風呂場の方へ木の実みたいにごろごろと転がって、柱の角に頭をぶつけて止まった。
よろめきながら立ち上がる。ふらふらと壁にもたれようとして、伸ばした右手はいつの間にか鉈を握っていた。
そうだ、木を切り倒さなきゃ。
その事だけを考えて、庭へと来た道を戻る。途中で家中に転がる木の実を幾つも踏み潰したが、気にしてる余裕は無かった。倒れるように庭へ駆け込んで、僕は鉈を脇に置いて木の周辺の土を掘り返し始めた。中途半端に切るから駄目なんだ、もっと深くから、根本から切ったら。夢中で湿った腐葉土を掻き回す。雑草みたいに生えてる花は邪魔なので全部引きちぎった。
もっと、もっと深く、そうだ鉈なんか使わなくても、根っこから丸ごと掘り起こして捨てて仕舞えば。突っ込んだ両手が、何か大きな塊を掴んだのを感じる。これだ。全身の力を込めて、それを土中から一思いに引っこ抜いた。最初、木の根だと思って持ち上げたそれが何なのか分からなくて、暫くぽかんと見詰めていた。
それは、小学生が絵の具を塗りたくった後の、筆洗の水みたいな汚い色をした土塗れだった。
くびれた瓢箪のような形で、ボロボロの手足が不規則にくっ付いていた。
よくよく見ると、赤ん坊の様な形にも見えた。ちょうど背中辺りから、びっしりと根っこが集まってそこから木が生えている。下の方にある3つの窪みが目と口だと分かって、自分がそれを逆さまに持っていたことに気付いた。
さっき見たばかりの由紀の身体の記憶と重なり、手に力が入らなくなって、それを取り落とす。頭から落っこちて、「ぐちゃっ」と音を立てた。
ただただ呆然と、地面に落ちたそれを眺める。その時僕の頭に浮かんでいたのは、恐怖とか気持ち悪さではなく、どうしようもない苛立ちと無力感だった。
一体何なんだろうこれは。どうしてこうも、僕の周りにはままならないことばかりが起きるのだろう。どうして僕のやる事なす事、全てうまくいかないんだろう。どうしてみんな、僕が自由に生きる邪魔をするのかなあ。
ぽとっ、ころころころっ。
僕の背後から、木の実が一つゆっくりと転がって来た。
ゆっくりと、後ろを振り向く。
立っていたのは、母さんだった。髪型と服装で、辛うじて母だと分かった。木の実が顔と、腕と、腿と。とにかく露出している全ての肌から、数え切れないほどの木の実が生えているのが見える。ああ、家に木の実が散らばってたのはこいつのせいか、と妙に納得出来た。
「お、かあさ。」
今落っことした土くれの方から、そんなか細い声が聞こえてきたような気がした。胸の中の風船が、中のガスで生地が引き攣られてみりみりと音を立てる。黙れよ。僕は後ろを見ずに、頭の中で呟いた。お前のお母さんじゃないだろ、用があるなら地獄の親父に言え。この人は、僕の。
ぼとぼとぼとぼとっ。
母が掠れた声で呻く。その振動だけで、身体中の至る所から木の実が落ちてこっちに転がる。
ぼとぼとぼとぼとっ。
異様に膨らんだ下腹部を大事そうに抱き抱えながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる。僕に助けを求めているのだろうか?いや、違う。僕が掘り起こした木の方を見てやがる。 ああ、凄く、不愉快だ。だから、あの男を父さんと呼ぶなって言ってたのにな。
ぱあん、と風船が破裂する乾いた音が聞こえた。
「おい、無視するなよ」
僕は、鉈を手に取った。
だから、ながれちゃったかもしれないって庭先で話しているのが聞こえてきてしまった時、気の毒ですけど少し安心もしたんです。だって、ねぇ。上手くいく未来が見えませんでしたから。
奥さんは、「うえなきゃ」ですかね?「うまなきゃ」だったかもしれません。狂ったように泣き叫び続けてて、由紀ちゃんが「出来る事は何でもする」って必死に慰めてて。
息子さんですか?その時はどこかに遊びに行ってて、留守にしてたみたいですけど。
窓から差した朝日に照らされて、ゆっくりと眼を開けた。頭がきいん、とする。飲み過ぎてしまったようだ。記憶ははっきりしないが、足元に散乱したビールの缶でわかる。
起き上がって洗面所に行く途中で、玄関の方からけたたましいノックの音と怒号が聞こえて来た。凄い剣幕だ。何日か前にインターフォンの電源を切ってしまってから毎朝あんな感じである。
伊藤さんが何を言っているのかはもう聞かなくても分かる。庭に生えてる「あれ」は何だ、と言いたいのだろう。今日も無視を決め込むことにした。
顔を洗ってる最中にふと、頬に出来ていた小さなにきびを見つけた。
とても不安になり周囲に何か刃物がないか探すと、廊下に放り出してあった鉈が目に入った。刃の部分を持って拾い上げる。べっとりとした、赤黒いものが手に付いたが気にしない。
先端をにきびに押しあてて、躊躇なく抉る。
切れた頬から白っぽい脂の塊と、真っ赤な血がとめどなく溢れ出した。木の実なんて、ひとつも出て来ない。
僕は何だか安心して、鏡に向かって朗らかに笑った。