追憶と受容
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絵を描くのに理由はいらない。それが俺の持論だった。と言ってもそれが極めて限定的な真理に過ぎないのは知っていた。ここで言う絵とはつまり写実画のことだからだ。つまり写実においては目の前の光景を写しとるその行いに目的が内包されている。手段がそのまま目的なのだ。だから闇雲に、ただ八つ当たりのように描いていたって構わない。それが写実画の良いところなのだと信じていた。

だから写実画を描くのに没頭した。ただ精密に、ただ細密に。どこまでも詳しく、細かく、写真にも劣らない精度を目指して。そうする事で心の動きを落ち着けた。自分は無能だ。生きる価値の無いゴミクズだ。そう叫び続ける心の一部を視界の外に追いやった。

ずっとそうしていた。嫌な事があれば絵を描いた。辛い事があれば絵を描いた。逃げ出したい事があれば絵を描いた。そうして描くうちに絵が描けるようになっていた。ただ目の前のものを写し取るだけの、写真の代わりのような絵が。

やりたい事が無かったから一番好きだった絵の道に進んだ。周りが自らの内に、或いは外に描くべきものを見つけていく中で俺には何も見つからなかった。絵を描いた。この世に無いものをあたかもそこにあるかのように映し出すその技術が妬ましかった。絵を描いた。写真一枚で代わりになる自分の技術に何の価値があるのかと毎日考えるようになった。絵を描いた。絵を描いた。絵を描いて、描いて、描き続けて。

そして、俺はその先で一人の男に出会った。

冷たい日の光を受けながら半開きの口を閉じた。気づけば辺りはもう明るく、小鳥が甲高い声で囀っている。まだ目覚ましの時間よりもだいぶ早いが二度寝できるほどの眠気も無い。仕方なしに体を起こした。

ベッドから降りてドアに向かうと途中で姿見が目に入った。そこには格子柄のパジャマを着た男の姿があった。

肌は不健康極まりない白色で、頰は少しばかりこけている。ボサボサの茶髪(今は黒髪にしか見えないが確かに茶髪だ)は手入れされた様子も見えない。無表情にこちらを見つめる慣れ親しんだ自分の顔が無様に見えて仕方がなかった。

幸せそうには見えない顔を見て思う。この街から色が消え去って芸術家たちの多くはこんな街ではやっていけないと去っていった。その中で俺が未だにこの街に残っているのはなぜなのだろうか。

しばし鏡を見つめて立つ。死んだ目、艶の無い髪、死人の肌。道に迷ってくたびれた男の顔がそこにあった。この顔を見ていても何も思いつきそうにない。情けなさに思わずにやけたその顔までがやけにくたびれて見えたのは、きっと寝不足のせいばかりではないのだろう。

馬鹿らしくなって目を逸らし、洗面所に向かって歩き出す。今日もいつもと変わらぬ一日が始まった。

彼と出会ったのはとある芸術コミュニティでの事だ。互いに写実画を生業とするというのが出会いのきっかけだった。俺は絵具を用いて。彼は木炭を用いて。使うツールこそ違ったが、似たような事をしているのもあって彼とはそれなりに仲良くやれていたと思う。

ある時、彼に絵を描く理由を尋ねた。節操無しに様々な物を描く彼は、どうも目的というものを持っていないようにも見えたのだ。俺にとって絵を描く事が逃避であったように、彼にも理由があるはずだった。俺はそれが知りたかった。

彼は約束があるのだと朗らかに笑った。

「僕の絵を世界一にするって言ってくれたんだよ。ならこっちとしても世界一にふさわしい絵を描かなきゃならないと思うんだ」

それはまるで無邪気な子供のような表情で、心の底からその日を待っているのだとすぐに分かった。強い信頼の元に成り立つ一つの約束が彼の行いと絵を肯定していた。それが何も持たない俺には眩しくて、自分で訊いておきながらなんだか悔しくなってしまった。だから次の句を聞いて唖然とした。

「こう言うとアレだけど、今の目標は君なんだ」

それは俺への肯定だった。信念も目的も無くただ技術を積み重ねただけの男を、彼の言葉が肯定した。そして彼の見る先に自分が立っているのだという事実は、価値の無かった俺の絵に確かな意味を与えてくれた。俺はその時救われたのだ。

それまでが必死でなかったとは言わないが、俺はそれまで以上に必死に絵を描くようになった。彼の見る先に自分が立っているのだという事実に恥じないようにと。俺たちはただの友人ではなく、いい意味でライバルのような関係になった。

事件が起こって街が灰色になってからも彼とは何度も会っていた。だが彼は会う度に元気を失っていくようだった。随分参っているようだったので念のため家について行こうかと思った事もある。けれどのらりくらりと断られ、なんだか上手いこと言いくるめられ、まあそんな元気があるならいいか、なんて変に納得してしまって、結局ついては行かなかった。

そしてある日、別れの挨拶を交わして家に帰り、その翌日の夕刊で彼が死んだのを知ったのだ。記事には自殺と書かれていた。

そうか、と思った。頭に浮かんだのはただそれだけで、自分の薄情さに吐き気がした。

筆を置いたのはいつだったろうか。もう正確な事は覚えていない。何もかもが嫌になってコミュニティからも逃げ出すように距離を取った、あの時の気持ちだけを覚えている。

目的も無く、前だけを見つめて、ただ一定のペースで延々と歩き続ける。俺にとってはそれが絵を描くという事だった。それはとても難しい事で、できたとしても危ういバランスの上にしか成り立たないものだ。前に進もうとする意思が折れた瞬間、もはやどこにも行けなくなる。前へはもちろん後ろに戻ることもできない。その場で立ち往生する他に無く、どうしようもない孤独感だけが残される。

彼が死んで、自分のしていた事を見つめ直した。あるいは、最悪な気分でそんな事をしようとしたのが良くなかったのかもしれない。ただ写真のように、人がその目で見るように、世界をそのまま映し出す事を求めた俺はその日、彼がいなくなった以上もはや自分の描く絵はそれらの代用品に過ぎないのだと確信した。その瞬間、俺の中で俺が歩んできた道のりが、これから歩むその先の全てが無意味なものに成り果てた。そして、俺はそこで折れたのだ。

部屋の一角をじっと眺める。放置されて埃をかぶったイーゼル。机に転がしたまま、布をかける事もしなかった絵筆。触る気にもなれずに放置していた画材。目に入る度に諦めたというその事実を思い出させる品の数々は俺にとってはこの上なく忌々しい物だ。にもかかわらずそれらを処分できていないのはなぜなのだろうか。

イーゼルに近寄り、指先で埃を掬いとる。埃はさらさらとこぼれ落ち、静かに空気へ溶けていった。埃まみれのイーゼルにくっきりと刻まれた指の跡。その深さが、俺の未練の大きさを表しているかのようだった。

線香の匂いだけが意識の中ではっきりしていた。その他の感覚は何もかもが白昼夢のようで、まるで自分が自分でないみたいな、そんな実感の無さがここにはあった。

念仏のせいかもしれない、なんて思った。坊さんの唱える念仏は大きく、真っ直ぐに響くものだ。脳がその音を環境音と誤解して、何も無いものと扱ってしまう。けれど鼓膜を揺り動かすこの音は確かにここに存在していると頭のどこかでは分かっていて、そのギャップが目の前の物の現実味を薄れさせている、とか。

匂いが少し強くなって考えはまとまりを失った。焼香台が俺のところに回ってきたのだ。隣から台を受け取り、一礼する。香を焚べ、合掌し、再び一礼。一瞬だけ強くなった匂いが元に戻るのを感じながら、こういう時には何か故人を想うべきだろうか、なんて考えていた。

式は滞り無く進み、そして一通りの工程が終わった。随分と呆気ないものだった。

式場の外で空を見ながら一服していると一人の男が近づいてきた。他の参列者からは少しばかり白い目で見られていた奴だ。と言うのも、彼の胸には白地に三本の黒矢印が刻まれた特徴的なバッジがあった。そして俺の方はと言うと、抜けたコミュニティの絵描きたちに混ざるのはなんだか気が引けてしまって、こうして外で座っている。偶然ながらどちらも中に居場所が無かった。多分向こうはそれを分かっていて俺の方に来たのだろう。

「財団の。あんた、悲しくはないのか」

そう話しかけたのはそいつが俺と似たような顔をしていたからだ。鏡の向こうの俺に見た、平然とした無表情。あるべき悲しみも、苦しみも、後悔すらも忘れたような顔。その顔を見ていると自分がどうしようもない人でなしのような気分になった。だから否定してほしかった。自分は人でなしではないのだという確証を俺はそこに求めていた。だが男は目を逸らし、寂しげに笑った。

「どうだろうな……正直悲しいって気持ちは無いかもしれない。まだ感情が追いついてないって感じで」

そいつは自分に言い聞かせるようにゆっくりと言葉を絞り出した。それでそいつも同じ事を思っているのだと気づいた。もしかするとこいつも心を埋める言い訳を求めていたのかもしれなかった。立場が違っても人は人。そう思うと唇の端が自然と上がった。俺はタバコを取り出した。

「似た者同士、どうだ」

「……いいね」

そいつにタバコを咥えさせ、自分のものから火を移す。目の前に来たそいつの腕をぼうっと眺めた。庇を作る手が僅かに震えているのが見てとれた。

それが故人への想いからなのか、それとも無感動な自分への怒りからなのか、俺にはどうにも分からなかった。ただ、そいつが人でなしではないことだけはきっと間違いないのだろう。

二人空を眺めて紫煙を吐いた。果たして俺はどうなのか。その問いに答えてくれる者は無かった。

夕日が沈む。橙色の夕焼け空を引き連れて。それをこの灰色の街の底の底から眺めていた。空は次第に赤紫に染まっていき、そしてその色はどこからか染み出す群青に混ざっていく。そしてすべては星々の輝く青黒に塗り潰された。そこまで来るともはや辺りは暗闇だ。街灯の白い明かりが当たる場所だけがこの世界であるかのような錯覚を覚えた。

夜闇の中で紫煙を吐いた。もう家の中に入ってしまおうか。そう思った時、こつりこつりと足音がした。何気なく振り向いて目に入ったのは黒い人影。人影は足音を響かせながらゆっくりと舞台に姿を現した。

「こんばんは」

そう言いながら現れたのは見覚えのある男だった。

「お前、財団の……?」

平たい荷物を小脇に抱えたその男は、真面目くさった顔で答えた。

「君にひとつ頼みがあるんだ。これを……複製してほしい。そして芸術家たちに撒いてくれ」

そう言って男は抱えた荷物を差し出した。迷ったが、受け取って中身を検める。何かの罠ならそれならそれで構わなかった。繰り返す毎日に俺は疲れ果てていたのだ。だが、結局何か害がある訳でもなく一枚の絵が現れた。

誰の絵なのかはすぐに分かった。そして直感した。これこそが彼が目指した『世界一にふさわしい絵』なのだと。ならば目の前にいるこの男こそ、彼が絵を贈った相手に違いない。

「いいのか?こいつを世界一にするんだろう?」

お得意の収容はどうした、みたいな軽口を予想していたのだろうか。男は少し目を見開いた。その顔はすぐに引っ込み、穏やかな笑みに変わっていった。

「贋作なんて世界一の絵には付き物さ」

男はそこで一度言葉を切った。

「それに、こいつは彼が託してくれた絵だ。彼の望みを叶えるために使いたい」

そうか、と呟くように口にした。それでどうかなと問う男の言葉に気付けば俺は頷いていた。

窓を開けるとどこか遠くでカラスが鳴いた。涼やかな風が湿った匂いを運んでくる。ペトリコール。確かどこかの国ではこの匂いをそう呼ぶのだったか。そんな取り留めもない思考が、俺の心を落ち着けてくれた。

しばし窓の側に佇み遠くの方をぼうっと眺めた。と言っても目の前がビルでは空を見上げるしかない。目に入るのは灰色のビルと、雲に覆われた空ばかりだ。

空か、と独りごちた。雲の向こうの空は青く、しかし青く描けないのだと知っていた。この街にもはや色は無い。故にこの青を青く描く手段はこの街の中には無いに等しい。外から画材を持ち込めば別だろうが、そんな事に意味は無い。窓を閉めて視線を額縁に入った絵に向けた。

雑多な画材が散らばる中に立てられたイーゼル。置かれているのは白い紙に黒で描かれた青空の絵だ。そこには写真にすら優る繊細さと、肉眼にも負けない立体感が両立していた。この絵を見る度に俺は空を見上げた時と同じ吸い込まれるような感覚を覚えた。何より素晴らしかったのは、黒一色でありながらその中に青を感じさせ、油断すればそれが黒であることすら分からなくなるような不思議なタッチだ。この絵に描かれた空は、白黒の街にありながら確かにあの青空と同じ色を持っていた。

その絵は間違いなく彼が全霊を賭けて作り上げた一枚だった。彼はここまでたどり着いた。俺はそれを称賛されるべき事だと思った。だが、ここで余計な思考が挟まってきた。ならば俺はどうだろうかと。

この街にいる意味を失いながらなぜこの街を離れられないのか。絵を捨てておいてなぜ画材を捨てられないのか。なぜ依頼を受けたのか。俺は何のためにここにいるのか。

一旦そちらの方を向いた頭ではいくら考えても答えは出ず、自分を責める言葉だけが渦を巻いた。気分は沈み、呼吸は浅く、荒くなり、心臓の鼓動がうるさく響く。そんな時にする事は、昔から一つと決まっていた。

イーゼルから1mほど離れた椅子に座り、その隣の紙を張った画板の山から一枚を取って別のイーゼルに乗せる。紙はケント紙、画材は木炭。彼が好んだものと同じ、極めてシンプルなデッサンの準備。

俺はその絵の模写を始めた。最初は端の方に見える木々のアタリを付けて、そして徐々に中央部分を占領する空に向かっていく。その道のりは長く、険しく、俺は次第にそこに引き込まれて行った。木々に命が吹き込まれた。空は穴が開いたように深くなっていった。だが、まだ足りない。描いた。細部の書き込みをするために穴が開くほど絵を見つめた。こんなものでは足りなかった。描いた。鉛筆の黒が光を反射し始めた。まだ足りなかった。もうほとんど狂ったように描いた。他の物など目に入らなくなっていた。

日が沈み、辺りが夕闇に包まれる頃になって俺はひとまず描くのをやめた。椅子に深くもたれて伸びをする。そしてひとつ大きく息を吐いた。まだ描きかけの絵に望んだ色はどこにも無かった。描き終わってもいないのだから当然だった。だが、それを当然と思うと同時に、この絵がこれから色を得ることは無いという確信めいた予感もあった。最初から薄々分かっていたのだ。彼がたどり着いた場所に行くためには、彼と同じ手段ではいけない。おそらく、彼が自分の極めた木炭を使ったように、俺が極めた物を使わねばならない。

脇にどけたパレットを見る。乾いた絵具の上に分厚い埃の層ができていた。この埃の厚みは俺が止まっていた時間の長さだ。目指す場所にたどり着く前にリミットが訪れるかもしれない。再び歩み出しても結局は無為に終わるかもしれない。それはいつまでやればいいのかも、どこまで行けばいいのかも全くもって分からない、先の見えない道のりだ。パレットに向けて手を伸ばす。その手が震え、やがて止まってぶらりと落ちた。

できるのか。俺に。ただ逃げるために無意味を積み重ねただけの男に。ただこの街を離れられなかっただけの男に。ただ画材を手放せなかっただけの、絵を自ら捨てた男に。そんな言葉が次々と脳裏に浮かんでは消えていく。収まっていた緊張が、焦りが戻ってくる。

鏡を見る。死んだ目、艶の無い髪、死人の肌。その顔が酷く歪んでいた。彼の死を知ったあの日よりもよほど酷く。それは俺が他人の事には感情が動かない人でなしだからか?

「違う」

肩で大きく息をしながら鏡の中の自分を睨んだ。そう、俺は逃げていただけだ。彼の死を直視する事から逃げていた。この街と彼から逃げようとした。絵を捨て去って彼の影から逃れようと目論んだ。けれど結局逃げ切れなかった。他ならぬ俺自身が無意識にそれを拒んでいたのだ。ならば、俺の本心がそこにあるなら、もう逃げるのはおしまいだ。

認めよう。目の前の現実を。踏み出そう。前へと進むための一歩を。彼の幻影に別れを告げて、本当の彼と行くために。

「彼は死んだ」

口に出した。一度も言う事の無かった言葉を。

「彼は死んだ」

涙が零れた。袖で拭って鏡の俺に目を合わせる。

「彼は、死んだ」

涙がとめどなく溢れ出た。そこに嗚咽が混ざるのにそれほど時間はかからなかった。

冷たい日の光を受けながら半開きの口を閉じた。気づけば辺りはもう明るく、小鳥が甲高い声で囀っている。どうやら眠っていたらしい。泣き疲れて眠るだなんて子供みたいだと苦笑した。

深く深呼吸をして鏡を見る。肌は不健康極まりない白色で、頰は少しばかりこけている。ボサボサの茶髪は手入れされた様子も見えない。無表情にこちらを見つめる慣れ親しんだ自分の顔は、しかししっかりと前を見据えていた。それは進むべき道を見つけた者の顔だった。

洗面所に向かって歩き出す。いつもと同じルーティーン。けれどここから始まる一日はきっといつも通りのものとは違う。彼の遺志を絶やさぬために。彼の願いを叶えるために。そのためならばどこまでだって行ってやる。昨日は無かったそんな決意が心の中で燃えていた。

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