クレジット
タイトル: 幸福はあなた
著者: ©︎reinofollower
作成年: 2022
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星の瞬きが聞こえそうなほど静かな夜を、筆記音と無様な呼吸音で台無しにしてゆく。まだ起きていることが親にばれてしまわぬよう、デスクライトの明かりだけが部屋の片隅を照らす薄暗い自室で一人、もはや誰にもあかせなくなった感情を、ただノートだけが静かに聞いていた。
インクも感情も何もかもを吸い込んだそれをそっと閉じて表紙を眺めれば、随分と手垢のついたその顔が今日はやけに雄弁に感じた。
独白を終えた私は、脳内でモノ言わぬはずの紙の塊と問答を続け、明日も早くから学校があるのに何をしているのかと、そう告げられた気がして視線を逸らす。その先は追い詰められたと感じた時に、ほの暗い感情を抱きながら眺めるのが癖になっている引き出し。
そこにある物に頼ってしまっては終わりだと、僅かな意地が鍵をかけていた取っ手に手をかけ、どうしても眠れないときのためにと買って保管していた薬を取り出す。これに頼るのは何度目だろうか、という問いに空になったシートが眠れなかった夜を数え伝えてくる。
本当はこのまま絶望に浸りながら夜を浪費し、朝日と共に眠って全てを投げ出してしまいたい。上手く眠りにつけないという事実は、明日を迎える気力を着実に削ぐ。勿論、心情をかみ砕けば他に理由など山ほどある。明日が来て欲しくない何よりも耐え難い理由だってある。それらに押し潰され続けた私にとって、明日を呼ぶ正常な睡眠という行為は苦痛でしかない。だがそれでも、僅かに残り続ける理性と社会性が入眠へと背中を押す。
引き出しから取り出した錠剤は天使のような白い顔をした、明日へと導く悪魔だ。過剰であれば苦痛からの解放へ、適量であれば変わらぬ明日へ誘う錠剤を飲み下す。
脱ぎ捨てられた制服を雑に踏み、教科書の整理を怠ったままの鞄を蹴って押しのけ、随分と長い間私のことを待っていたベッドに横たわり、深い眠りに落ちるため行儀よく胸の前で手を組む。
胃に収まった錠剤が自分の中で溶けて広がってゆく感覚に浸る。思考能力が緩やかに落ちてゆくが、それでも自分を卑下することは止められない。ただただ人生に、世界に、全てに絶望しながら、一筋の涙が頬を伝った事をよく覚えている。
そう、よく覚えている。
廊下を歩く、スカートが太ももに擦れる感覚がむず痒い、ような気がする。自分の足音が聴こえない、学校独特の埃っぽい空気を嗅ぎ取れない、そして記憶におぼろげな部分がうすぼんやりとした輪郭で存在している視界。妙に情報量が少ないその世界の中で、自分が夢の中に居ることを理解する。
せっかく明晰夢を見ているのなら心地よい夢にしてしまおう。私は現実の辛い部分を切り取り、楽しいことだけが残った世界を期待して教室の扉に手をかける。
何の抵抗もなく開いた先には想定通り、何よりも大切なあの子が笑顔で私を待っていた。おはよ、と軽い挨拶をかわしながら駆け寄り、いつものようにどちらからともなく向かい合いながら両手を繋いでお互いの信頼を確かめる。
今日も元気そうでよかった、とほほえみ合いながら繋いだ手にほんの少し力を込め、また笑う。まるで洋書の児童文学に出てきそうなこのやりとりは、彼女が好きな作品に憧れて始めた行為だ。私は彼女のそんな少し夢見がちで愛らしいところが大好きだ。彼女の憧れや夢をひとつまたひとつと、一緒に叶えてあげたい。
一緒に叶えていこうねと、約束したのに。
ふと過ぎった現実の私を蝕む感情が、私の幸福な夢までも蝕んでゆく。
背後から、聞きなれてしまった男性の声が聞こえた。私の恋人を奪った、あの子の現在の恋人。あの子が申し訳なさそうに別れを切りだし、そして親友でいてほしいと願ったから存在を許した、本当は何よりも許しがたい存在。彼が私の背中越しにあの子を呼ぶ、私からまた幸福を奪ってゆく。
あの子が私の手をほどいて、背後にいる彼のもとへ小走りで向かう。私がそんなあの子を視線で追うために振り返り視界に映ったのは、豪華な刺繍の施された真っ白なタキシードを着て、幸せそうに笑っている彼の姿だ。
そんな彼の隣に寄り添うあの子の姿は先ほどまでは制服だったはずなのに、上品なレースのあしらわれた白いドレスへと変わっていた。いつかおそろいで着ようねと、かつて約束していたそれを着た彼女は華やかなベールの下で穏やかに、彼と同じように幸せそうに笑っている。
ゆっくりと口を開き、なにか喋ろうとする彼女の姿に胸が締め付けられる。先の予想ぐらいついた、だって私の夢なのだから。私が導き出した最悪の想定を、刻一刻と着実に私に近付いているであろう未来を、私は夢の中でも見てしまうのだ。どうかお願いだから、それだけは言わないでほしい。私はその言葉だけは、本当は聞きたくない。そんな願いもむなしく、世界一残酷な言葉が私を貫く。
「来てくれてありがとう、スピーチ楽しみにしてる」
夢の中だと分かっているのに、ドクリと心臓が跳ねた気がした。絶望感が頭上から降ってくるような感覚、泣き出してしまいそうなほど惨めな感情が湧き上がり、それを顔に出すのが嫌で俯く。気が付けば自分の恰好はウエディングドレスとは悲しいほど遠い大人しいドレスになっていて、自分の服装の違和感に導かれるようにもう一度視線をあげれば、周囲は静かな讃美歌の流れる結婚式場へと変わっていた。ゆっくりと会場の照明が落ち、たった一つ、スポットライトに照らされたマイクスタンドが誰かを、いや私を待っている。早くここへ来て、言葉を並べろと催促している。
逃げ出してしまいたい。けれど幸せそうに笑う元恋人の笑顔を、今もまだ愛してしまっている彼女の笑顔を、たとえ夢の中でも曇らせる事が出来ない。そんな顔は、見たくないのだ。だから私は黙って身を引いたのだから。
たった一人、処刑台に連れて行かれるような心情で前へと歩み出て、観衆の目に晒される。誰一人として、私が本当は二人を祝福できていないことを知らない。きっと本人達だって分からないだろう。私は彼女が望んだ親友を完璧に演じているのだから。
私が見ている夢の中だというのに、私は酷く孤独だ。幸せを望んだはずなのに、私を包む世界は、現実でも夢でも酷く残酷だ。
今まで学んできた社会性が脳を働かせ、当たり障りのない言葉を並べてゆく。皆の視線が集まるのを感じながら、夢の中だというのに緊張が胸を支配する。出来る限り人の顔を見ないように、天井と壁の境目という中途半端な高さを目に映す。
「この度、私の親友が結婚することになりました。二人は学生時代からの仲で、花壇で咲き誇る花でさえ霞んでしまうほどに寄り添い笑いあって居たことを、よく覚えています」
我ながら夢の中なのによくやるな、などと思いながら、口は止まってくれなかった。私は絶対に、この言葉を止めるわけにはいかなかった。振り返り二人の様子を見れば、思い出に浸るように二人で見つめあった後、幸せそうな顔でこちらを向く。視線が交わってしまえば私の本心がバレてしまいそうで怖くて、私は彼女達から顔を背けてマイクへ向き直る。言葉を並べなければ。彼女が、見ている。
「彼女が落ち込んだ日もありました、泣いてしまった日もありました。けれど、そんな日々を支えてくれたのが彼です」
私だって、そばにいる。私のほうがずっと心配して、ずっと助け合って生きてきた。なのにどうして、ほんの少ししか関わりのなかった彼を選んだの。貴方のことを世界で一番愛しているのは私なのに。そんな叫び声を上げそうになるが、それを口にするわけにはいかない。滲む視界の中で、必死に言葉を探す。彼女が、笑っている。
「きっと二人なら、この先に何があったとしても助け合って生きてゆけるでしょう。私は、二人の結婚を心から祝福しています。結婚おめでとう」
私のほうが幸せに、したい。出来ると言えない自分が心の底から嫌になる。祝福なんてしたくない、私が隣に居たいのに。そんな事を言える筈がない。彼女が、幸せなのだから。
パチパチと鳴り始める拍手の音が、私をより孤独にしてゆく。ここには彼女達の結婚を祝福する人しか居ないのだ。そんな当たり前のことが、辛くて仕方がない。笑顔で涙を流した、そうする事しか出来なかった。笑いながら泣く私を見て、彼女が感極まったのか抱きしめに来る。嬉しいと、思いたい。
拍手が鳴り響く中に、私は立っている。みんな笑っている、寄り添う二人も笑っている。私も笑顔で涙を流した、そうすることしか出来なかった。泣きながら笑う私を見て、彼女が感極まったのか抱きしめに来る。
幸せだと、そう思いたい。
不幸が塗りつぶされてゆく、悲しみが何かに流されてゆく。どこかへ行ってしまう。
彼女が幸せそうに笑っているから。私ではない人の隣で幸せそうに笑っているから。私とお揃いではない白いドレスがとても綺麗だから。彼女の薬指で指輪が自慢げに輝いているから。持っていたブーケを投げるのではなく私に直接手渡してくるから。
私は絶対に、幸せだ。
幸福を祝う場所で、幸福を願う場所で、みんな幸せな気持ちになっている。同じ顔で笑っている。
だってしあわせだから。
まどろみと覚醒の廻間へ差し込まれた、お気に入りの曲で目が覚めた。アラームを消そうと携帯へ手を伸ばし、画面を覗き見て微笑んだ、大好きなあの子からメッセージが飛んできている。上体を起こしながらメッセージを開けば、いつものように朝の挨拶が送られてきていた。
どちらの方が早く起きられるか、という些細な勝負を続けて一年半が経過しようとしている。今日はどうやら負けたらしいな、と返信を打ち込む。入力のたびに鳴るカカカッという可愛らしい音が、彼女と会話出来る喜びを表現するかのように軽やかに響く。
「おはよ、起きた?」
「おきた、今日は負けか。やばいな、追いつけない」
「勝ち越させて貰うよ!」
「連休で巻き返すしかないな」
「今年の連休は予定が入ってるから勝ちます~^^」
予定、という文字に一瞬思考が止まった。しかしそんな空白は幸福感に流され記憶の外へ放り出されてゆく。「言ってろ!」と短く返して、身支度を始めた。顔を洗おうと洗面台に向かい、鏡に映った自分の頬に残った涙の跡が目にとまる。
よく覚えている。
なぜこの跡が付いているのか、泣いたからに決まっている。涙を流すほど感情を動かされる何かがあった事実がそこに残っていた。感情が動かないより、動く方が良いに決まっている。私は昨夜の記憶を思い返し、そして微笑む。世界を憂うほどあの子のことを思っている事実が愛おしく、幸福だ。
だからこそ早く準備を終えて待ち合わせ場所へ行きたい、あの子に会えるあの場所へ。顔を優しく洗い、柔らかく花の香りがするタオルで拭きあげ、鏡に映った自分と微笑み合う。左右が反転している世界の私もきっと幸せなのだろうと、喜びを分かち合ったような感覚を抱いて心が弾んだ。
脱ぎ捨てられていた制服を着て、床に転がる鞄を掴んで自室のドアを開ける。閉める動作も惜しむほど急いで、私は階段を駆け降りた。
食卓では父がすでに食事を終えてテレビを見ていて、母は「はやく食べちゃいなさい」とお決まりの言葉を送りながら私の好物をテーブルへ並べてくれる。全体的に柔らかくつるりとした食感になるよう、必要最低限だけ焼かれた目玉焼き。薄く黄身を包んでいる膜を箸で割り広げると、鮮やかなオレンジ色がとろりと溢れ出してくる。隣に添えられたカリカリに焼かれているベーコンに黄身を絡めて口へ運べば、ベーコンの強い塩気を黄身のまろやかさが程よく包み込む。ニコニコと食べ進める私へ「味わって食べてる場合?」と苦笑しながら母が完食を急かす。
「だって美味しいんだもん!」
「味わいたいならもっと早く起きなさい?」
「はーい、明日の朝ごはんもこれが良いな~そしたら早起き頑張っちゃう」
「またそんな調子のいいこと言って、嘘じゃないでしょうね」
「保証はしかねまーす」
呆れたように笑う母とけらけらと笑いながら食べる手が止まった私へ、父が自身の付けている腕時計を指先でコツコツと軽く叩きながら柔らかく注意を飛ばす。
「話している場合か?そろそろ本当に遅刻する時間だぞ」
「あ、ほんとだ」
「父さん先に行くからな、お前も遅刻するんじゃないぞ。母さん、いってきます」
「はい、いってらっしゃい。お弁当忘れないでね?」
「ああ、ありがとう。それじゃ」
ちゅ、と視界の端からリップ音が聞こえてくる。いつも通りいってきますのキスをしているのだろう。両親の仲がいいのは喜ばしいことだ、私は二人の機嫌が良いことを小さく喜びながら、目玉焼きを食べ進める。
最後のひとかけらを口内へ放り込み、皿の上へ箸を転がしながら立ち上がる。飲み込みながら鞄を掴み、玄関先でごちそうさま、の声を張り上げながら外へ飛び出してゆく。
まだ白さの残る青空の下を駆けると、耳元をさわやかな空気がひゅうひゅうと歌いながら通り過ぎる。息と心拍数が上がる感覚ですら、愛おしさと待ち遠しさへ変換されてゆく。この空の下にあの子が居る、その事実が愛おしくて仕方がない。足音の響くアスファルトを後ろへ置いてゆく。この地面の先にあの子が立っている、その事実が愛おしくて仕方がない。
橋を渡り、交差点を抜けて、白い彼岸花が植えられているあの家の角を曲がれば。少しでも早くその姿を目に収めようと首を回した視界のその先に、あの子がいた。隣にはあの子の彼氏が穏やかな笑顔で立っていた。
幸福そうに寄り添う姿が、今朝の夢と重なりブレる。
手を繋ぎあい、見つめあい、微笑みあい。そして道の先に立っている二人が、この幸福で溢れた世界でさえも嫉妬しそうなほど、お似合いに見えた。
今朝見た夢の中とは違う。日の光は私だけには当たっていない、周囲に参列者はいない、スピーチを言わなくてもいい。それでも今の私は二人を祝福する言葉を紡ぎたくなるほどに、幸福を享受している。柔らかく弧を描き続けている口で息を吸い込み、弾んだままの心であの子へと言葉を送り出す。些細な会話でさえも、私にとって特別なことのように愛しい時間だ。
「おはよ!遅いよー!!」
「ごめーん!これでも急いだ!」
「まあまあ、ほら急いで行かないと遅刻するから」
彼女とのじゃれつくようなやり取りを、彼氏が静止して通学を促す。はいはいと適当な返事をしながら、学校への道を歩んでゆく。
宿題の話、昨日見たテレビの話、SNSで話題になっていた面白いニュース。なんてことのない会話をしながら三人で歩いてゆく。話を聞いて鈴が転がるように笑う彼女を眺め、心が柔らかな毛布に包まれたように暖かくなる。
こんな日々が続けばいい、彼女が幸せそうに笑う日々が続くなら、私は幸せだ。これ以上望むものなど、あるはずがない。
歩む中で足元に違和感を覚えて視線を落とせば、靴ひもが解けてだらしなく地面へ広がっていた。ちょうど信号が近かった為、二人に声をかけながらしゃがみ込む。
「あ、靴ひもほどけたから結ぶわ」
「おけー」
信号が変わるのを待ち、青いライトが灯ったことを確認してから二人は歩みを進めた。話に夢中になり、周囲の確認を怠ったまま。
靴ひもが結べた私は、立ち上がりながら視線を前へ戻す。何度となくこなしてきた行為、無意識に世界に違和感を感じても身体は自然と決まった行動を行う。世界を切り裂くような甲高いブレーキ音を聞き取りながらも、私はただ当然のことのように視線を前へ戻した。
目の前の光景が映画のワンシーンのようにスローモーションで映ってゆく。
まず見えたのは、のけぞるような姿勢で前方へ押し出される彼と、それを付き飛ばしている彼女。その横に乗用車が迫っていることを遅れて脳が理解した瞬間に、世界のスピードが元に戻った。
彼女が宙を舞い、交差点の真ん中へどさりと音を立て、赤い液体をゆっくりとアスファルトに広げながら横たわる。その奥で彼は吞気にモタモタと起き上がろうとしていた。彼女に駆け寄ろうとするより早く、視界の端をトラックが通り過ぎてゆく。また鳴り響いたブレーキ音と、スイカの割れる様な音。飛び散った赤色が私の頬にベタリと付着した。
大丈夫、きっと大丈夫。この世界からあの子がいなくなるなんて、そんなことが起こるはずがない。
だってしあわせだから。
大丈夫、だなんて誰が言ったのだろうか。いや、誰も言わなかった気がする。それでも私はきっと大丈夫だと思い続けていた。あの子がいなくなった世界など存在するはずがないと、ずっと脳を埋めつくす幸福感が現実を否定し続けていた。
だが、日常を機械的に過ごし続けたなかでも、非情な現実を突きつける日はやってくる。
線香の香りがする中に私は立っている。幸福感が立ち上る煙のように不安定に揺れ、脳がようやく彼女が死に、葬儀を執り行っているのだという現状を飲み込む。幸福とはなんだろうか、そんな疑問が過ぎるが、それは何かに塗りつぶされていく感覚と共に消えてゆく。
みんな笑っている、写真の中の彼女も笑っている。穏やかにほほえむ坊主が軽やかに経を唱え、木魚を楽しげに叩く。焼香を上げる為に並び、談笑しながらゆっくり進んでゆく人々に私も続く。
棺の中を覗き込めば、あの子の笑顔が印刷された紙が包帯でグルグル巻きにされた何かに貼られていた。それを見ながら、親族は綺麗な笑顔だと言いながら笑っている。
何のためにやっているのか詳しく知らないその行為を終えて振り返れば、笑顔で席についている彼女の彼氏がいた。
何かが塗り潰されていた感覚が、流されていた何かが。戻ってくる。
それは幸福感とは正反対の位置を取る感情、不幸だ。
戻ってきた感情が身体を突き動かす。抑えられない衝動を全て込めるように、強く拳を握る。大きく息を吸い込んで、目を吊り上げて彼を睨みつける。私から彼女を奪っただけでなく、彼女が居なくなった世界を嘆かない彼の存在を許すことができない。
私は絶対に、この男を許せない。
この場にたった一つの慟哭を響かせながら、私は掴みかかる勢いそのままに彼を全力で殴り飛ばす。
「なんで笑ってるんだ!なんで泣かないんだ!」
夢から覚めたかのように、心臓が存在を主張する。絶望感が頭上から降ってくるような感覚、泣き出してしまいそうなほどに怒りの感情が湧き上がり、それを纏うかのように全身を震わせる。気が付けば私は周囲の視線を一身に浴びていて、周囲の空気の違和感に導かれるように視線を巡らせれば、一人として例外なく理解できないものを見たかのように不思議そうな表情を浮かべている。ゆっくりと視線が外され、たった一人、取り戻した不幸を握りしめたまま、私は立ち尽くす。誰も悲しんでいない葬儀に戻れと、無言の圧力が私に訴えかけてくる。
逃げ出してしまいたい。けれど幸せそうに笑うこの男の笑顔を、今もまだ愛してしまっている彼女の死を冒涜的に悼むこの式を、たとえ不謹慎だとしても許すことができない。そんな顔は、許してはいけないのだ。何のために私は身を引いたのか。
たった一人、世界に取り残されたような心情で後ずさりし、参列者の顔色を伺う。誰一人として、本当の意味で追悼をしていない。きっとこの場にいる誰も分からないのだろう、私が心の底から絶望していることを。
彼女のための葬儀だというのに、彼女は酷く孤独だ。死を悼むべきはずなのに、私を包む世界は、何かが決定的に間違っている。
今まで学んできた社会性などかなぐり捨て、思いつく限りの暴言を吐きだす。皆の視線が再度集まるのを感じながら、許せないという感情が思考も身体も全てを支配する。出来る限りの声を響かせながら、殴られてもなお笑っている彼をもう一度殴り飛ばす。
「なんで誰もあの子がいない世界を悲しんでくれないの!なんでまだ一緒に居たかったと泣いてくれないの!」
私はこんなにも声を張り上げることが出来たのか、などと思いながら、口は止まってくれなかった。私は絶対に、この言葉を止めるわけにはいかなかった。視線を彼女の遺影へ写せば、酷く寂しそうに笑っているような気がして、決して幸福そうには見えなくて。視線が交わったまま何も喋らない彼女の意思を、勝手に想像して都合がいいように汲み取る。私が訴えかけなければ、彼女が、見ている。
「なんであの子の死を悲しんでくれないんだ!」
私が一番、寄り添っている。私の方がずっと悲しんで、ずっと悼んでいる。なのにどうして、彼女が選んだこの男はヘラヘラと笑っているの。貴方の死を悲しむ権利が一番あるのはお前なのに。そんな憎しみを込めて、唇を強く噛みしめる。滲む視界の中で、必死に思考を巡らせる。彼女が、悲しんでいる。
「なんで私だけ泣いてるんだ、なんで私だけ怒ってるんだ!おかしいでしょ、ねぇ、こんなのおかしいじゃん!」
私の方があの男よりも悲しんでいる。なのに彼女が選んだのは私ではなかった。いまだにそんな嫉妬に蝕まれる自分が心の底から嫌になる。祝福なんてしたくなかった、私が隣に居たかった。でもそんな言葉を言えるはずがない。彼女が、選んだのだから。
朗らかに進んでゆく葬儀が、私をより孤独にしてゆく。ここには彼女の死を悼むものは私しか居ないのだ。そんな事実が悲しくて、そしてそこに少しだけ別の感情が付随する。
私一人だけ、吐き気すらこみ上げてきそうなほど、周囲とは正反対の感情に飲み込まれてゆく。
確信した。今この場所に、彼女の死を悲しむ者は私しかいないのだと。この場にいる人間全てがおぞましく見えた。こんな葬式はしても意味がない。
理性が怒りと悲しみと絶望に焼かれ、消えてゆく。衝動だけが自分を支配してゆくのが分かる。ソレを抑えることは、なにより自分が許せない。
もう一度、目の前で不思議そうに顔を擦る彼へ感情をぶつける。力強く彼を蹴り上げ、硬いローファーの先を腹部へめり込ませた。殴られた場所を抑えながら蹲るが、その顔はまだ困ったように薄っすらと笑っていて、余計に私の神経を逆なでする。
周囲と同じ顔を続ける彼を見限り、私は振り向いて祭壇へ荒々しい足音を響かせながら近付く。吞気に談笑しながら焼香をあげる人々を押しのけ、香炉を掴んで軽やかに経を唱えている坊主の頭へぶちまける。
火が付いたままのロウソクを親族席と一般席の両方に投げつけ、消火器を持って来ようと席を立った人の背に向かってまた蹴りを入れる。数個並んでいる花輪を引き倒し、踏みつけ台座に全体重をかけてへし折る。止めようと近付いてきた笑顔に向かって、足元に転がった破片を掴んだ先から投げつけた。
こんな式は全て壊してしまえ、と叫ぶ怒りの感情に任せ。私は思いつく限りの破壊と暴力を続けた。周囲はやはり理解できないものを見るような目で困ったように笑い、そっと私から距離を取るために逃げてゆく。私は彼女の遺体にだけは何もしない、彼女に罪はないのだ。彼女はただ、不運だっただけなのだから。
破壊行動の執着点は「棺に縋りついて泣きわめく」という、ベタな嘆き方に落ち着く。私が一か所から動かなくなったのを見て、周囲が困ったような笑顔で警察を呼ぶ。疲れ果てて呆然とする私を、人々は笑顔であの子の元から引き剥がす。
パトカーに乗せられ、遠ざかってゆく葬儀場をバックミラー越しに見送る。もう抵抗する体力も、泣くための水分も使い果たした私は、糸が切れた人形のようにただ座席に座っていた。
そしてたどり着いた場所は、最寄りの警察署。
ではなかった。
大通りを避け、交番で車を乗り換え、目隠しをされて長時間運ばれる。世間知らずな女子高生でも分かる、何かがおかしい。
しかし無駄に抵抗をすれば余罪が増えるだろうと、不測の事態に呼び寄せられた理性が私を「黙って従う」という行動へと導く。
そもそも、何かがおかしくなってしまった全てのヒトの顔が同じ世界で、真面目に質問してまともな答えが帰ってくる気もしなかった。何より、笑う人々ともう会話をしたくなかった。誰も今の私の感情に寄り添ってはくれないのだと、理解してしまったから。
簡単に言えば、もうどうでもいいのだ。
どれほど運ばれたのだろうか。何も見えず、何も喋らなかったので若干眠っていたような気もする。今自分がどこにいるのかも分からない。流石にそろそろ質問ぐらいしても良いだろうか?と思い始めた頃、ようやくエンジンの止まる音がした。
目隠しを取ってもらえるだろうか?と思った矢先、何時間かぶりに耳に声が届く。
「そのまま少し歩いて頂きます。手を取って誘導しますので、指示に従ってください」
宣言の通り、手を取られて軽く引っ張られる。
無機質な、けれどどこかくたびれたような男性の声。必要以上に力の入っていない、感情という概念を極力切り落としたような。幸福そうだとは決して言い難いその声に、微かに心が揺れた。
「人間って、自分とは違う人だって分かってる人に『私もそうだよ』って言ってもらえると凄く安心するんだよ」
そんな親友の言葉が脳裏に蘇る。ただ優しいのではなく、冷静に人を見て感情を見て寄り添ってくれる。そんな彼女が好きだった。
歩いた距離は先に想定していたよりも長く、途中で立ち止まったまま待機しろと指示を受けるタイミングの直後に浮遊感もあったことから、縦横に大きな場所で屋内なのだろうと推測は出来る。
やがて扉の開閉音を何度か聞いて、引かれていた手は離された。
「目隠しを取りますので、眩しさに備えてください」
そんな声の後に、宣言通りに目隠しが外される。何時間ぶりかも分からない明るさに顔をしかめながらゆっくりと目を開き、視界の情報を少しずつ理解してゆく。
最初に見えたのは、シンプルな白い床と黒い革靴だった。視線をあげながら、仄かな期待が胸に広がる。さっき聞こえた声は、幸せそうではなかった。もしかしたら、という願いを乗せて映した視界には、笑顔ではなく無表情の男性の顔があった。
「はじめまして、単刀直入にお伺いします。貴方は幸せですか?」
酷くやつれた顔には濃い隈が刻まれ、幸福かと問う声は疲れが隠しきれずに滲んでいる。他の人達と同じ顔ではない。葬儀場で嫌というほど見た光景と同じ顔で笑っていなかった。
問われた内容より、目の前に笑顔がない事実に酷く安心してしまう。ようやく誰かを正しく認識できたような感覚に、私は泣き出してしまった。しかし水分不足からか涙は出ず、ただただかすれた泣き声が部屋に響く。
そんな私の様子を見て、彼は静かにこう呟いた。
「貴方を探していました」
落ち着いてから話を聞けば、信じがたい言葉ばかりが飛び出してくる。
世界全体が「幸福になる」異常に陥っていること。
その中でもごくわずかな人が「幸福ではない」こと。
ここは簡単に言えば、異常を補足し研究して収容する組織であること。
そして、世界を元に戻す協力をしてもらう、という一方的な宣言。
「圧倒的に人員不足なんです。職員の大半が世界全体と同じように、異常に浸食されています。通常業務をこなすことに現時点では支障は無いようですが、世界を元に戻す必要性を誰も感じていない。そもそも異常であることを認識していません」
淡々と言葉を並べる目の前の「財団職員」と名乗った彼を眺める。
しわが目立つ衣類、妙に脂っぽい髪。しかし、私を見つめるその視線は圧を感じるほどにまっすぐで、覚悟が滲んでいる様な気がして。それでいてどこか寂しげで。私も彼から見たら同じように見えているのだろうか。
強く崖に打ち付ける波が、涙をまき散らしている。中立を装う空は、ばかばかしいほどに綺麗な青空で、海との境界線をあやふやにしている。まるで涙の行く先が天であるかのように。私にはただの景色ではなく、一本の道のようにしか見えない。
眼前に広がる涙と相反するように、切り立った地面は程よく乾き。軽く足元を蹴れば、コロコロと可笑しそうに小石が笑いながら駆けてゆく。
私の居場所がどちらであるかなど、明白だった。
せめて少しでも今後の人生に彩を持っていってほしい、と言ってくれた優しい女性職員が温室で育てていた花。それらをいくつか分けてもらい作った花束を抱え直し、感情を取り込むように香りを嗅ぐ。
ぽわりと身を寄せるように咲く紫色のスカビオサ不幸な愛、重たげにその身を俯かせている黄色いスイセンもう一度愛してほしい、コロリと揺れるフウセンカズラ貴方と飛びたい。
私の花束を見た女性職員は、最後に一回抱きしめさせてほしいと、この世界ではもう希少になった悲しげな顔を浮かべていた。
引き返すなら今このタイミングしかないと、そう最後の警告をするように財団で行ったやり取りが脳裏を過ぎってゆく。
疲れ切った様子の男性職員は、手に持っていたタブレットの画面をこちらに向けながら動画を再生する。そこにはここ数日間の私の行動を写した、おそらく監視カメラからであろう映像が流れていた。
「警察に『暴れだした』という通報を受けた時点で、貴方を勧誘する為に色々と調べさせていただきました。世界が一斉に異常に苛まれたタイミングで、貴方も周囲の方々と同様に幸福状態だった。異常が始まった当日に貴方の親友が交通事故で亡くなっても尚、貴方は幸福だったはずです。しかし、貴方は暴れだしてから現在に至るまで、異常性に浸食されている様子がありません」
「それが、なにか…?」
「貴方は我々が観測した中で唯一『幸福状態に陥ってから元に戻った』人間です。世界を元に戻すうえで、貴方を調べて少しでも解決への足がかりにしなければならない。教えてください、なぜ貴方は幸福状態から復帰したのか。心当たりはありませんか?少しでも手がかりが必要なんです」
なぜ、と問われて脳裏を過ぎるのは、葬儀会場での記憶だ。大きなきっかけがあるとすればあの時で、私には正気に戻った理由に心当たりがあった。恋人を奪われてもなお、この世界で僅かな幸福を抱けるたった一つの存在が死んでしまった事実。そしてそれを一番悲しむことが出来る権利を私から奪った彼が笑っている事実が、どうしても許せなかったのだろう。
心当たりはある、妙な確信もある。だが、私はあの子の親友という立場をどうしても捨てられない。私に残された唯一の繋がりだから、誰にも真実を伝えたくない。私とあの子だけが知っていればいい、だから私はただ首を横に振る。
「話したくありません」
「心当たりに検討自体はついていらっしゃるようですね。であれば、どうか」
そこまで口にして、彼は一瞬苦々しげに表情を歪めた。私の事情を概ね知った上でその言葉を口にすることが、どれほど残酷か分かっているのだろう。
一拍おいて、言葉に強く意味を乗せる為に息を吸う音が聞こえる。
「世界を救う手助けをしてください、本当の幸福を取り戻すために」
正直、心を動かしたかったような気もする。
非現実的で、特別な存在であると告げられるドラマティックな展開。自分が主人公なんじゃないかと疑いたくなるような、そんな展開。
「でも、その世界に私の幸福はもうありません」
もう居ないのだ。もう私の元恋人は、何よりも大切で何よりも愛しい。私の幸福の全ては存在しないのだ。
「こんな世界を救っても、私に得なんて一つもないんです」
学校で習ったとおりに腰を折る。45度に上半身を傾けて、私は世界を見放した。
自殺の名所は監視して、不幸な人を保護しようとしていると言っていたから、きっとこの光景は見られているはずだ。見ているうえで、止めないことを選択してくれたのだろう。
世界に取り残された側だからだろうか、彼らも正しい感情を持つ人間だからだろうか。本来であれば記憶処理という行為を行い財団への知識を消すが、それは今回はやめておくとだけ伝えて私を送り出してくれた。もしかしたら、こうやって思い返す段階で考えが変わって戻ってくることを期待しているだけなのかもしれないが。こんなにも私たちに優しくない世界なのだから、せめて同じような境遇の人たちから受け取れた優しさだろうと思っていたい。
最期に思うのは、あの子のことがいい。
そうだ、さっき見知ったばかりの赤の他人との会話ではなく、何よりも愛しいあの子のことを考えていたい。私は思考からあの子以外の存在を排除してゆく。何を最期の言葉にしようか、何をあの子のために捧げようか。そう思考を巡らせて、ゆっくりと紡ぐべき想いを構築してゆく。折角最期なのだから、折角ここには私一人しか居ないのだから、折角崖の下で海が大声をあげて泣いているのだから、どうしても伝えたくて、どうしても伝えられなかった言葉にしよう。
穏やかに息を吸い込んで、伝える機会を得られなかった言葉を世界に放り投げるのと同時に、私は言葉のあとを追うように身も投げ出す。
「私はまだ愛してる。たとえ裏切られても、貴方が幸福に生きてくれるのなら。それだけでよかった」
僅かな浮遊感、そして落下。
こういうことにはお決まりだから少し付き合ってよ、とでも言うように。走馬灯が海へ映し出されてゆく。
あの子の笑顔ばかりが思い出されて、あの子の幸福を願った日々ばかりが過って。ふと、隣に誰かの気配を感じる。視線を移せたのか、間に合わなかったのかは分からない。
私が抱えていた花束が、視界の端に映っただけなのかもしれない。
けれど、それがあの子であるような気がして。
手を伸ばし、握る。くしゅりと何かが潰れた感覚がして、掴んだのがフウセンカズラだと理解が追いつく。だがそれはただの植物の一部ではなく、私にとってはもう喋れなくなってしまったあの子が伝えてくれた最期のメッセージだった。
世界にたった一つの純粋な笑顔を浮かべ、冷たく温かい海へ落ちてゆく。
ゴポリと生を吐きだして、意図的に肺へ死を送り込む。本能的な拒絶が衝動的に身体を動かすが、私は理性的に笑い続ける。
私の幸福は貴女の隣にしかない、私の未来は貴女の隣にしかない、私の全ては貴女だ。
突然世界から与えられた幸福など霞んで泡と消えてゆくほどに、私が選んだこの末路は。
幸せだ。