再燃
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いつの頃も、私の周りには何も無かった。特に何が得意だという事もなく、何が苦手という事もなかった。何かを始める気にもなれず、結局趣味の一つも無い。一応人並みの付き合いはあったが、それも若干無理をしているような節があって、一人でいる方が心地よかった。ずっと続いてきたそういう日々が、私にはくすんだ灰の色に感じられた。その灰色が私の人生の色だった。

幸いにも、と言えるかどうかは分からないが、私には研究の才能があったようで、大学院を出ると同時に財団にスカウトされた。あれよあれよという間に新人研修が終わり、あるオブジェクトに配属された。SCP-918-JP。ショーケースの中のその本からは、誰かが諦めた夢が形を取って現れる。私たちのすべき事は、実体が出現したかどうかを確かめ、出現した実体を収容すること。そして彼ら自身の夢、再び誰かの抱く夢になるという願いを叶えて実体が消えてしまわないよう、薬を与えて望みを持てない状態を保つこと。

そのオブジェクトの報告書を見て、正直少し不快に思った。ただ消えてしまわないためだけに、何の望みも目的も持たず毎日を過ごす。そんな彼らの運命は、私の人生と同じ、無機質な灰色をしているように見えた。彼らを目の前にしてみると、自分の人生まで惨めに思えた。

その一方で配属先では大きなイレギュラーもなく、私はマニュアル通りに作業をこなし続けた。いつも通りの灰色の日々。その中でいくつもの実体が現れ、問題無く保護され、運ばれ、投薬されていった。

そんなある日、ショーケースを見ると、そのすぐそばに一体の影があった。影と言うには語弊がある。それは影を固めて作ったような、不透明な黒い人型だった。所々ぼやけた輪郭が引き締まったりほつれたりを繰り返して、形を絶え間なく変えていた。

私は強化プラスチックでできた窓の前に立った。すると人型の影はこちらを向いて手を上げた。

やあ、とそれは言った。私はややあってこんにちは、と返した。相手は意思疎通の意思があるようだった。

「今あなたが置かれている状況はご存知ですか」

「ある程度は。あの中でも全く何も分からない訳じゃないからね」

「では乗り物と警護の機動部隊を呼びます。少し待っていてください」

「分かった」

珍しいな、と私は思った。言葉が通じるというだけでもそうだし、何よりここまで実体が状況に理解を示すのは稀だった。ともかく話が通じるからという事でその影の乗ったカーゴと機動部隊に付き従い、割り当てられる部屋へと向かって歩く。詳しい説明も早々に済ませ、廊下には靴音とキャスターの転がる音だけが響いていた。手持ち無沙汰になったのか、彼は世間話を始めた。

仲間の増え方がどうだとか、廊下のリノリウムの艶がこうだとか、取り留めもないことを話し続け、しばらくして、彼はこう言った。
 
「君には夢があるのかい?」

「いえ……特には」

「でも今まで一度もという事はないだろう?」

それを聞いてどきりとした。このまま、特段良い事も起こらず、悪い事ばかりが当然のように起きて、ゴミのように野垂れ死ぬのだと思い始めたのは、果たしていつの事だったか。私は激しく動揺した。思い返してみると夢というものを持った記憶がろくに無かった。彼は話し続けていた。

「そういう奴は少ない。夢を見る彼らが心折れてこそ僕らがこうしてあの本の中にいる訳だからね」

「そう、ですね」

「なあ、何かになりたいと思った事くらい、ないか」

私は何も言わず、彼も何も言わなかった。ガラス屋根に差し掛かったところで、彼はゆっくりと口を開いた。

「僕はね、最初から諦めている人間は諦めるという事を知らないんだと思うんだ。何も知らない。何も持たない。そうやって心が折れないように逃げている。だけど、いつまでも逃げている必要は無いんじゃないかな」

「何が言いたいんです」

全てを見透かしているかのような口ぶりに私は少し苛ついて、当たり気味に問いかけた。彼は少しも気にしていないようだった。

「君、僕を抱いちゃくれないか。君はきっといい担い手になる」

死にたいわけじゃないんだろ、と彼は言った。その声がいやに真剣で、だからこそ私は揺らいだ。

「あなたは……何の夢なのですか」

彼は右手を上げて上を指差した。その顔がニヤリと笑った気がした。

驚きの声が上がった。見上げると、空が灰色に染まっていた。私はその光景に目を奪われ、感嘆の声を上げた。その色は決して艶やかではなく、しかし透き通った色は先ほどよりもより深く、より透明感を増していた。輝く太陽の光が作るグラデーションが、一色でありながら鮮やかに見えた。それは別の色のようでもあり、しかし確かに灰色という名の色だった。灰色とはこうまで美しくなるのか、と思わずにはいられなかった。

警備隊の驚く声も、通報しようと叫ぶ声も、何も耳に入らなかった。視界を埋め尽くすその空は、単純な言葉よりもよほど私の心に響いていた。空は、灰色はくすんだ、燃え尽きた灰だけの色ではないのだと教えてくれていた。そして、その色をした私の人生もまた、ただ無機質なだけで終わるものでもないのだと言っているように思われた。私は灰色の空に手を伸ばした。信じてみたいと、そう思った。

程なくして空は瞬き、元に戻った。皆、呆気に取られて固まっていた。

向き直った時、既に彼の姿は無かった。

-

映像記録を見直しても彼は映ってはいなかった。映っているのは収容室に出入りして廊下を歩く私たちの姿だけ。そういう事もあるのだと知ってはいたが、あのほんの一時の記憶はどんどん薄れて、あの出来事の現実味は私の中で加速度的に無くなっていった。それこそ財団にいなければ、いや、財団にいてさえ集団幻覚か何かと言われれば信じてしまいそうなくらいにまで。数ヶ月も経つ頃には、私が彼の実在を信じる理由は自身の記憶ではなく「そういう事があった」という記録になっていた。

ただ、あの日から私の人生は少し変わった。と言っても違いは新しく趣味を探し始めたくらいだ。無機質だった灰の色は、その色合いを変えつつある。

今でも空を見上げる度に、あの日見たモノクロームの空が脳裏をよぎる。勇気をくれたあの空をいつかもう一度見てみたい。そう思うと、彼がどこかで笑った気がした。

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