僕が12歳の時のことだ。
「本当にいいんだね?」
担当医が言う。優しくて落ち着いた声色だった。
僕は医療用ベッドの上で横になっている。白く無機質な天井と、そこに付属している蛍光灯を眺めている。担当医は机に置かれた書類を眺めながら、ペンを持った右手を動かしていた。カリカリという筆記音だけが診察室に響いている。僕は黙って、これまでのことを考えていた。
老いて死ぬことは生物にとって当然のことである。どうやっても逃げられない、生物としての終わり。その逃れようのない終わりを、僕はただひたすらに恐れていた。死んだ後はどうなってしまうのか。自我はどこへ行ってしまうのか。そう考えるだけで怖くなり、身体が震えてしまうほどだった。
特に、老いることを恐れていた。死後のことは誰にも分からないから空想として済ませられる。でも、老後のことは誰もが知っている。筋肉は衰え、満足に身体を動かすことができなくなる。食欲も減り、今のように脂っこいものは受け付けなくなる。じわじわと自由を奪われていき、最終的には何もできなくなってしまう。緩やかに死へと向かっていく。それが怖くて仕方なかった。
──醜く老いて生きたくなんかない。
それが、僕の出した答えだった。そして、その答えはいつしか意思へと転じていた。そうして生まれた意思を、言葉として口から吐き出す。
「はい。お願いします」
そう言って、施術に進むよう担当医に促す。担当医は書類にサインをしながら相槌を打った。そして椅子から立ち上がって、僕の方へと歩き寄ってくる。
「最初は少しぼんやりして、次第に意識がなくなるから。目が覚めた頃には、君は『老い』というものから解放される。何も心配する事は無いよ」
「はい」
「けれど、最後にこれだけは伝えておくね」
「なんですか?」
改めて、担当医は僕の方を見た。その表情は複雑で、色々な感情が混ざっているように見えた。なんでそんな顔をしているのかと考えていると、担当医は口を開いて声を出した。
「いつか、君にも大事な人ができる」
先生はそう言って、ゆっくりと言葉を吐き出していった。
「その時、君はこの選択についてきっと苦悩すると思う。でも、これはあくまで君の人生だから。その時になって、君がどうそこから歩んでいくのか。目一杯悩んで、結論を出してほしい」
正直、僕は担当医の言っていることがよくわからなかった。それがこの施術と何の関係があるのか、なんで今この話をするのか、僕にはさっぱり分からなかった。
「この忠告が、君が今後、人らしく生きるための手助けになることを願っている」
「あ、あの」
「なんだい?」
「な、なんで、先生は、今そんなことを?」
感じた疑問を言葉にして口から出す。それを聞いた担当医は優しく微笑みながら言った。
「それが、医者としての僕の仕事だからね」
21歳の時、彼女と出会った。
大学に進学した段階で、周囲の反応は様々だった。中学時代に老死のタナトマを抽出した影響は顕著であり、成人を迎えた段階でも僕の身体は子供の状態を維持していた。それもあってか、学部やサークルの先輩からは特に可愛がってもらっていたのを覚えている。
大学生活はそこそこの満足感を伴いながら過ぎていった。将来就きたい仕事のために知見を深めていくことも、サークルのみんなと楽しく過ごしたことも、今となってはいい思い出だ。一つだけ面倒なことがあったとすれば、それは飲み会の時に一々身分証明証を提示しなくてはならなかったことくらいだろうか。
それでも、僕は希望に満ちていた。
老いない僕には、無限の可能性と時間がある。時間があるという事は、僕にはそれだけの知識が技術を蓄えられる余剰があるという事だ。ならば、あの日にこの特権を獲得した時から、僕には人以上に努力して世の中に還元する義務が存在する。それを常々念頭に置きながら、今日まで生きてきたのだ。
創作物に登場する不老不死者のような、堕落して悪徳の限りを尽くすような人間になりたくなかった。なりたくなかったから必死に勉強したし、道を踏み外さないように意識してきた。あの時の担当医が言った「人らしく生きる」という言葉が僕を突き動かす原動力になっていたのだ。
そんな中、僕は彼女に出会った。
僕の所属しているサークルに、彼女は途中参加者として入ってきた。畏まった様子で部室に入ってきた彼女の顔を見た瞬間、僕は彼女の持つ美しさにやられてしまったのだ。
要するに、僕は一目ぼれした。
こうなってからの僕の生活は、苦悩の連続だった。
問題はこの身体だ。いざ、彼女に僕の想いを伝えようとしても、こんな子供のなりのままの男に「イエス」と返す女性がいるだろうか。普通なら露骨に嫌がるか、遠回しに断って以降は関わらないなんてのがオチだろう。それを考えただけで、僕はひどく落ち込んだ。
正直、関係性は悪くなかったと思う。それでも、この身体のせいで振られたらと考えると、出るはずの勇気も出なかった。施術してから約10年。僕は最初の後悔を味わった。
「んなこと、考えてないで当たって砕けろよ」
「で、でも……」
先輩と一対一で飲んだ時、相談した際にそう言われた。カウンター席に成人男性と見た目中学生が並んで座っている光景は、傍から見れば異様なものだろう。もう長いことこの見た目だから「仕方ない」と割り切ってはいるが、やはり慣れないものは慣れないのだ。
「あの子が、そんな人を見た目だけで判断するような人間だと思うか? ん?」
「思いませんが……」
「だろ? じゃあ、あの子を信じて告白しちまえよ。好きなやつすら信用できなくてどうすんだよ」
そう言って先輩は僕の背中を叩き、喝を入れた。幼い身体には正直堪えるが、今はとても嬉しかった。背中に残る先輩の手のひらの感触が、僕を勇気づけてくれた。
「骨なら後で拾ってやる。成功したら、明日もここで祝勝会。駄目なら慰め会。それでいいな?」
「は、はい……!」
「よし! なら飲め!」
そう言われ、僕はジョッキに注がれた生ビールを一気に流し込んだ。ホップ由来の苦味が喉を通っていく。その日は早く解散して、日をまたぐ前に帰路についた。
「じゃあ、撮りますよ~!」
そう言って、遊園地のスタッフは僕達にカメラを向けた。空は晴れていて、雲一つない。暖かくて心地よい日差しが僕達を包んでいる。そして次の瞬間、視界はカメラのフラッシュによって満たされる。
25歳を迎えた夏のこと。
僕達は付き合い始めてから2年が経った記念として有名なレジャーランドに来ていた。遠方ではジェットコースターに乗った人達の歓喜の悲鳴が聞こえ、家族連れ出来ている子供の愉快そうな笑い声も反対側から聞こえる。
今に至るまで、何度も喧嘩したし、意見の衝突だって起きた。それでも、僕達の関係性が続いているということは、ひとえに僕達が愛し合っているからなのだろう。少なくとも、僕はそう思っている。
「ねえ、いい感じじゃない?」
「うん、そうだね」
デジタルカメラの液晶には、僕達2人が並んで立っている様子が鮮明に映っている。ピースサインをしながら笑っている彼女の顔に、思わず釘付けになってしまった。その様子を見て不思議に思ったのか、彼女は僕の顔を覗き込んで言った。
「……どうかした?」
反射的に顔を上げる。付き合ってから2年が経った今でも、彼女の顔を見ると赤面してしまう。それが恥ずかしくて、僕は両手で顔を隠そうとした。
「いや、なんでもない……よ?」
「ウソ。その顔は何かあるって顔。わたし、分かるんだから」
顔を覆い隠そうとしていた両手が振り払われる。驚いて思考が止まったタイミングで、彼女に顔を掴まれる。そして彼女は、その手の柔らかさとは裏腹に強引な手つきで僕の顔を自身の方へと向けた。
「いてて……」
「お願い。言って」
こうなると梃子でも動かないのが彼女である。観念した僕は、絞り出すようにして自身の胸の内を明かした。
「……だって……この写真」
「写真?」
「姉弟みたいで……」
彼女が一瞬固まる。そして次の瞬間、彼女は声を出して笑い始めた。その様子を見て、僕の表情は更に赤くなる。
「わ、笑わないでよ……!」
「だ、だって……! おっかし~!」
「僕は真剣に──」
反論しようとした僕の口を、彼女は人差し指一本で止めた。僕は見上げる形で彼女の顔を見る。その笑顔は、少しばかり頬を染めながら僕を見つめている。
「そんな事を気にしてるいじらしい貴方も、未来の為に頑張っている貴方も、全部。私は好き」
こんな歯が浮きそうになる台詞を、なんの恥ずかしげもなく口にするのが彼女なのだ。僕は、そんな彼女の純真さに惚れたのだろう。そう考えていると、彼女は僕の手を取って先に進みだした。
「ねえ!」
「なに?」
「これからさ! 毎年、写真を取ろう?」
唐突な彼女の提案に、僕はほんの少し唖然とした。
「貴方とわたしの記録! 一緒に過ごす貴方との記録! ね?! いいでしょ?!」
その提案を受けて、僕は思わず微笑んだ。
これからの未来。彼女と過ごす未来。それを想像すればするほど、大きく深い幸福感が僕の中に沸き起こってきたのだ。
「うん。うん! 撮ろう!」
「じゃあ決まりね! 約束だよ!」
このデートからしばらく経ってからだ。僕が、彼女へ指輪を渡したのは。
30歳の冬。
「ねえ、聞こえる?」
大きくなった彼女の腹に耳を当て、その中に宿る生命の鼓動を感じる。イマイチ現実味の湧かない幸福に浸っていると、彼女の腹の中から蹴るような音が聞こえてきた。
「うん。聞こえるよ」
暖房の効いた、ホットカーペットの敷いてあるリビングに僕達はいる。彼女はウールの羽織を纏い、自身の腹部をさすっている。
「本当に、不思議だよね」
彼女はそう言って言葉を続ける。
「この中に新しい生命があるなんてさ」
「本当にね」
「……ねえ」
「なんだい?」
彼女はこちらを向いて、微笑みながら言った。
「あの時の約束、覚えてる?」
「もちろん」
僕はそう返答して席を立ち、近くの棚に置かれたデジタルカメラを取った。カメラについた埃を払って、電源を入れる。
「最近は色々と忙しかったからなかなかできなかったけども、今日がその記念日だ」
棚の横に置かれた三脚を動かして、そこにカメラをセットする。大学時代から使っているものということもあってか、カメラからは相応の年季が感じられる。このカメラの中には、彼女と撮った過去の写真のデータが残っている。
彼女と出会って、約束をした日からの記録がここには宿っている。記録を写真に現像したうえでこのカメラを使い続けている理由は、ひとえにこのカメラが彼女と共に生きた証になっているからだ。
当初、僕はカメラを買い換えようとしていた。それを止めたのは彼女である。彼女曰く「思い出の蓄積を感じることができる」のだという。僕はその意見に納得した。納得したから、今も変わらずこのカメラを使い続けている。今でもカメラを手に取る度に、蓄積された思い出を感じている。
最近、やっとのことで育休が取れた。彼女の代わりに掃除や洗濯をこなす中で、彼女が感じている日々の苦労を理解することができた。料理は不慣れだったが、インターネットでレシピを調べながらなんとか成し遂げた。
低身長であるが故に、脚立を使いながら家事をする僕の様子を見て、彼女は手を叩いて笑った。確かに傍から見れば「親の家事手伝いをする息子」のような光景と捉えられても仕方がないな、と思って自分でも笑っていた。
この時間が、僕にとってどれだけ幸福なものだったのだろう。彼女がいて、その彼女の力になれた。彼女と笑いながら過ごすことができた。そんな幸せな日々が続くことが嬉しくてたまらなかった。
僕は見た目が子供だ。しかし、だからだろうか。僕を構築しているこの器は、ちょっとした幸せでも僕を十二分に満たしてくれる。
それでも、齢を重ねているのは事実である。知見も増え、学習を今でも続けているお陰か、同年代の職場の同僚からもいわゆる「博士」の称号を与えられた。まあ、称号と言えども渾名に過ぎないのだけれども。それに、枕文字として「子供」が付くのは少々癪に障るが、今となっては慣れたものだ。
「はやくはやく!」
彼女が僕を呼ぶ。僕はカメラのセットを終え、およそ5秒後にシャッターが切られるようにタイマーを設定した。
「そう焦らないで。カメラは逃げたりしないから」
「いや、フレームに入れなかったら意味ないでしょ!」
「……確かに」
急いで彼女の傍へと移動する。そして、彼女の隣にすっと腰を下ろす。そうしてシャッターが切られる瞬間を待っていると、彼女が僕の片手に自身の手を乗せてきた。
「……もうすぐパパだね」
内緒話をするように、小さな声で語りかけてくる。
「うん。もうすぐで、僕達も親に──」
そう呟いた途端に、自分の中に一筋の芯ができていくように感じた。
──僕は親になる。
この幸福に満たされた世界の中で、僕は他者の生命を預かる立場になるのだ。
これは覚悟だ。父親という存在に昇華する、僕の覚悟だ。
「パパー、はやく〜」
「はいはい。今行くからね」
呼びかける声に返事をして、僕は妻と息子のいる方へと走っていった。
僕は今年で37歳になる。年齢だけ見ればもう立派な大人だが、見た目は相変わらず子供のままだ。本来であれば訪れるであろう様々な衰えも来ないまま、僕は日々を過ごしている。
息子が産まれてから、あっという間に時間が過ぎていった。初めての育児は大変だったけど、それを上回る幸せがあった。息子が僕や妻のことを「パパ」や「ママ」と呼んだ時は、思わず嬉しくて泣いてしまいそうになるほどだった。
そんな日々が積み重なったある日、息子が小学校の入学式を迎えた。
新品のランドセルと学校支給の黄色い帽子を被った息子は、どこか落ち着かない様子だった。学校というものを経験していないのだから、きっと期待と不安で満ちているのだろう。ソワソワしている息子の姿を見ながら、僕は微笑んでいた。
そして今、息子の入学式が終わって。
僕達は入学記念に写真を撮ろうとしていた。校門前に設置された「入学式」と書かれた看板、その隣に立ってこちらを見ている妻と息子。そして、そこへ向かって足を動かす僕と、それを映しているデジタルカメラ。
そういえば、このカメラもすっかり古いものになってしまった。最近は新しい規格のSDカードが主流になっているらしい。行きつけの家電屋の話によれば、このカメラと互換性のある品の製造も停止したようだ。
彼女と交際を始め、結婚して家庭を築いた。気がつけばそこそこの年数が経ったようにも思う。でも、人生はある意味これからだと言えるだろう。
僕の見た目は子供のままだが、精神面では確実に歳をとっている。
よく周りでは「身体の衰えを実感する」や「歳のせいか節々が痛む」などの話を聞く。しかし、肝心の僕はそういった経験がない。そういった苦労話に入り込めないのが、少しもどかしく感じることもある。
それに、いくつかの弊害もあったりする。僕の身体は衰えないので、今でも若い頃と同じように動き回ることができる。でも、精神は成熟しきっているからそういった気は起きない。かつて感じていた「運動場を走り回りたい」といった感覚は湧かなくなっている。
そういった心と身体の「ギャップ」に、気持ちが追いつかなくなることがあるのだ。
今になって思う。老いとは、単なる身体の老朽化ではない。顔や身体に刻まれた、その人の生きた証なのだと。かく言う僕にはそれがない。今では、ほんのり髪の色が白くなりつつある同年代の仲間達のことを羨ましく感じることもある。
そんなことを思案している間に、家族のもとへと辿り着いた。本当ならば走ってすぐに辿り着けられるというのに、先程までの気持ちのせいか、どうしても歩みが遅れてしまう。
「パパ、おーそーい」
「ごめんごめん」
幼い息子の頭を黄色の帽子越しに撫でながら謝る。ムスッとした態度の息子の表情が笑顔に変わる。
「ほらほら! カメラ見て!」
妻はそう言って僕の肩を叩き、前を見るように促す。そんな彼女の身長は僕の背丈をゆうに超えており、純礼装のスカートとハイヒールが合わさることで僕との身長差を強調している。
この前まで、ずっと小さかったはずの息子のことが頭に浮かぶ。この前までこんなに小さかったのに、なんて感想を抱くのは、僕からすればきっとすぐのことだろう。
「はい、チーズ!」
彼女が元気な声で合図を出す。僕達は、整えられたスーツや制服には似つかわしくないほど砕けたダブルピースを以てして、この日の思い出をレンズに焼き付けた。
59歳の春。僕は妻と一緒に玄関前に立っていた。
「……じゃあ、行ってくるよ」
そう言う息子は、こちらに顔を向けずにスニーカーを履いた。親に似たのか酷く物持ちがよく、ボロボロになってはいるが「まだ使える」と言いながら使い続けているスニーカーだ。
「何かあったら、すぐに連絡するのよ?」
妻が息子に向かって言う。ふと妻の顔を見れば、既に顔には皺ができはじめており、完全に大人の女性へと変わったことを実感した。それでも、出会ったばかりのあの美しさが消えることはない。
でも、僕は何一つ変わっていない。時間が流れ、息子は成長し、妻は歳を重ねた。別に疎外感があるわけではない。それでも、僕だけは何も変わっていないのだ。
「それじゃあ──」
そう言って息子が立ち上がろうとした時、唐突に言葉が途切れた。
「……父さん」
僕は、ほぼ無意識のうちに息子の袖の端を握っていた。
「……もう、しょうがないなあ」
先程までのどこかつっけんどんとした息子の表情が次第に緩んでいく。そして息子は膝を屈めて、僕の顔を覗き込んだ。対して僕は、酷く俯いたままで息子の顔を直視できないでいた。
「普通、父親は厳格な態度で息子を送り出すもんじゃないの?」
「……そうだな」
息子が優しい声色で語りかけてくる。それに応える僕の声は、心做しか震えているようだった。
「別に今生の別れって訳でもないしさ。安心してよ。仕事が落ち着いたら顔は出すから」
「……ああ、分かってる。分かってるんだ」
すると、息子が僕の頭に手を置いた。
「お、おい。やめろ。父親だぞ」
頭からどかそうとして触れた息子の手は、想像していたよりも大きく骨ばったものだった。僕は「息子も成長したんだなあ」と思いながら、産まれたばかりの小さな彼の手を思い出していた。最初は僕の手をおしゃぶり代わりにしていた彼の手が、今では立派な男性の手になっている。その手から伝わる温もりに触れると同時に、栓をして塞ぎ込んでいた感情が涙として溢れ出した。
「こうやって、いつまでも純粋に俺のことを見てくれる父さんだから、こうするんだよ」
息子はそう言って、僕の頭を優しく撫でた。一方の僕はひたすらに涙を流していた。この身体のせいかは分からないが、涙が止まらなかったのだ。
「大丈夫。だから、安心して?」
それからのことはよく覚えていない。年甲斐もなく大声で泣いたことや、実の息子の胸に顔を埋めたことも、その息子に背中をさすられながら宥められたことも。何も僕は覚えていない。
きっと、これを蒸し返すようなことがあれば、妻は面白がって僕のことをいじり倒すだろう。笑って、あの日のことを口にするだろう。そうして僕はあの日の出来事を思い出して顔を真っ赤にするのだ。
だから、僕は何も覚えていないし、何も言わない。
それでも、絶対に忘れたくない光景はある。
僕の自慢の息子が、光り輝く未来へと歩みを進めて行った、その光景だけは。絶対に忘れないし、忘れたくないのだ。
70歳を迎えた冬のこと。僕は、霊安室の中で立ち尽くしていた。
「父さん!」
息子が扉を開けて部屋に入ってくる。息は荒く、様子からも慌てていることが分かった。キィ、という蝶番の軋む音が耳に入るが、そんなことはどうでもよかった。
先日、妻が倒れた。
「……マジかよ」
息子が呟くように言う。すぐに妻の遺体に駆け寄って声を掛けるが返事はない。現実を理解したのか、次第に声は小さくなり、最終的には何も聞こえなくなった。その様子を見て、僕は妻が死んだということを再認識するに至った。
何かを失う感覚は、どうやっても慣れないものだ。
最愛の妻を亡くした。彼女自身、最低限の保険適用になる交通事故系のタナトーマを抜いただけであり、急性心不全などの疾患に関するタナトーマは抽出していなかったという。
朝、横で寝ている彼女を起こそうとして、その肌に触れた。そこにはいつものような体温はなく、気持ち悪さを覚えるような冷たさだけが残っていた。次の瞬間、何が起こったかを理解した。血の気が引いていく感覚。やや過呼吸になりながら、僕は彼女の名前を呼んでいた。
──まさに「眠りながらの死」だった。
そうして逝った彼女の身体は今、顔に布を被せた状態で僕達の前に置かれている。
笑顔を浮かべながら彼女が朝食を用意して、それのお返しとばかりに僕は挽きたてのコーヒーを振る舞う。それが僕達の日課だった。その日課が、今日をもって終わってしまった。かけがえのない日常が失われた。
それでも、僕は変わらない。変われない。
僕は彼女の結婚式のときに誓ったのだ。
死が二人を分かつまで。
けれども、僕はそれを全うできそうになかった。僕はもう、彼女に会えないのだから。
「うわ、まだ持ってたのこれ」
息子が押し入れの中を整理しながら言う。床にはアルバムやスーツなどが置かれている。それを見て懐かしさに浸りながら、僕は言葉を返した。
「全部取ってるよ。捨てられないし」
「いや、でもこれ俺が中学校のときのやつでしょ? もう使えないって」
「けど、父さんの手にはピッタリだ」
そう言って、僕は息子の傍に腰を下ろした。そして、彼が持っていたグローブを改めて手に取り、自身の手に嵌める。
「ほら、入った」
それを息子に見えるように差し出し、少々得意気に胸を張る。息子はそんな僕を見て微笑みを浮かべた。
「……今度、けんちゃんも連れてどっか行こうか? キャッチボールもしてさ」
「いいね。いつにする?」
息子が結婚して久しい。今では彼も一児の父親を全うしている。最近、子供がジュニア野球のチームに入ったらしい。かつては息子も野球部に所属していたのだから流れとしては自然だろう。まさに鳶が鷹を産んだようで、運動音痴な自分からスポーツマンが誕生したのだ。これは大変に喜ばしいことである。
妻の葬儀は円滑に進んだ。警察、役所、病院などの各所に赴いて必要な書類にサインをして、葬儀場の手配が済んだあとの手続きは職員の方々が代行してくれた。葬儀が終わっていざ火葬をするとなった際、僕はただ静かに細い涙を流していた。息子の妻も、孫も、友人達も駆けつけ、一緒に泣いてくれた。
皆が皆、歳相応の見た目と人生の積み重ねる面持ちをして、妻の最後を共に悲しんでくれた。でも、僕だけはその中で明らかに異質であり、明らかに場違いでしかなかった。それ以降、僕なんかが誰かの死を悲しむ資格があるのかと疑問に感じるようになった。
かつての僕は「老い」を恐れて、若くしてそれを捨て去った。駄々を捏ねて、半ば強引に親を説得して「老い」を摘出した。
でも、それは大きな過ちだったと、今になって考える。
老いは、人が醜く変貌していく過程などではない。その証明として、妻は最後の最期まであの美しさを失いはしなかった。いつまで経っても彼女は彼女のままだった。
老いとは、人生の積み重ねを可視化するものである。
顔を覆う皺も、黒から白に変わる頭髪も、細くなりゆく指も。それらは全て、その人が生きて、生きて、生きて生きて生き抜いてきた結果なのだ。だが、老いを失っている僕という存在は、それに反する異分子なのだ。今なら、老いることの尊さを理解することができる。理解するのが遅すぎた。もっと早く理解しておくべきだった。
今もなお、左手薬指に取り付けられた結婚指輪の重さは変わらない。未だに彼女が隣にいる幻覚に襲われ、あるはずのない温もりを、声を、笑顔を錯覚する。
彼女と共に老いて生きたかった。一緒に老いて、増えた白髪のことで笑いあって。そして、彼女と共に天寿を全うして死にたかった。その考えが、ずっと僕の頭の中に残り続けている。
「父さん?」
不意に息子に呼ばれて、意識を現実に戻す。
「大丈夫?」
「う、うん。大丈夫。ごめんな、心配かけて」
「いや、いいよ別に。それよりさ、これ見てよ」
そう言って息子は僕の前に一枚の写真を提示した。それは息子が10歳の頃に撮った家族写真だった。かつて、僕が妻と一緒に行った遊園地での思い出である。あの頃の僕達は最高に幸せだった。これからも幸せがずっと続くと信じて疑ってなかった。まさに人生の絶頂だったのである。
今でも、当時の情景や匂い、会話などの感じた出来事を思い出せる。妻の笑い声も、アイスを落として泣いた息子の顔も、三人でジェットコースターに乗った時の浮遊感も、全部。
「懐かしいよね」
「……ああ。そうだな」
息子の顔を見ると、懐かしさに頬を緩めている。でも、僕は違った。アルバムにおけるある一点だけを見つめながら、一種の絶望とも言えるような感覚を覚えていた。
それから息子は何枚もの写真を捲り、思い出話に花を咲かせてくれた。だが、そこに写っている僕は、どの写真を見ても同じ姿のままだった。僕一人が変わらずに、その周りに立っている妻と息子だけが変化している。
僕だけが変わらない。
そう自覚した途端、とてつもないほどの孤独感が襲いかかってきた。隣には息子がいてくれている。なのに、寂しくて仕方なかった。
これから先の僕はどうなるのだろうか。息子も、息子の妻も、その子供も。僕より先に死んでしまうのだ。それでも僕は変われなくて、ずっと同じ姿のまま生き続けていく。それはある種の地獄とも言えるだろう。過去の思い出に囚われたまま、逃げることもできない人生がずっと続いていくのだから。
僕は永遠の孤独の中で生きるしかなく、そこに他人が介入する余地などない。みんなと同じように時間を積み重ねることすらできない。
──いつか、君にも大切な人ができる。
遠い昔、担当医に言われた言葉を反芻する。その担当医も、もう死んでしまっている。
──その時、君はこの選択についてきっと苦悩すると思う。これはあくまで君の人生だから。その時になって、君がどうそこから歩んでいくのか。目一杯悩んで、結論を出してほしい。
ええ、そうです。そうですとも。僕は今、これまでの人生で一番悩んでいるのです。僕はどうすればいいのですか。悩みを抱えたまま、生きるしかないのでしょうか。
──この忠告が、君が今後の人生において人らしく生きる手助けになることを願っている。
助けてください。僕はどれだけの悩みと後悔を重ねればいいのでしょうか。
あの時、あの選択をしていなかったら。そう考えたところでそれは「もしも」に過ぎず、今が変わることなんてない。一時の感情に身を委ねることの愚かさと、選択することの意味を改めて理解した。
「……父さん」
息子の呼びかける声によって、意識が現実へと引き戻される。
「みゆきとも、話し合ったんだ」
「どうしたんだ、改まって」
「……ねえ、父さん。俺達と一緒に住まないか?」
一瞬、思考が止まる。あまりにも唐突な提案だった。
「ずっと前から考えてたんだ。本当だったら、母さんも一緒にって考えてたんだけど」
「……ゆうと」
「嫌だったら断ってもいいけどさ。どうかなって……」
息子の提案は、今の僕の心情を少しばかりほぐしてくれたように感じた。こんな、同じ時を歩めないような人間を気遣ってくれているのだ。
「ありがとう」
思わず、そんな言葉が漏れる。それから少し考えるふりをして、僕は言う。
「けど、少し考えるよ」
こんな時でも、僕は一旦はかっこつける方の選択肢を選んでしまう。答えなどとうに決まっていて、それが覆ることなどないのに、だ。
「わかった。いつでも連絡してよ」
「ああ」
「……じゃあ片付け再開しよっか!」
そう言って、息子は片付けを再開した。その時の息子の表情がずっと忘れられない。
「ようこそ。話は聞いています」
僕は受け付けを終えてやってきた男性に声をかけた。カルテによると齢は37歳。ふと、昔のことを思い出す。
「……よろしくお願いします」
「規約は……もう読まれましたね」
業務連絡をこなしながら、目の前の彼に対して横になるように促す。彼は黙ったまま天井を見つめている。
「はい。お願いします」
「本日抽出するタナトーマは……なるほど、『自死』ですか」
あらかじめ受け取っていたカルテに書かれていた内容を読み上げる。彼はそれに対して、都度相槌を打つ。
「それでは、始めます。……が、その前に」
僕は、いつもの常套句をそこで述べた。
「この選択が、貴方の人生を人らしく導いてくれることを祈っています」



