『Highway!!最後の公演です!!』
文化祭、司会のマイク越しに張り上げた声は観客席を超えてステージに響いた。暗幕に包まれた舞台上は、セッティングを既に終えており、準備が始まる前よりも一際に静かだ。
その静寂の中で、もう高3なんだなという微かな郷愁と仄かな陶酔に塗れアタマがぼーっとしていると、唐突に肩を叩かれてその方に目を向ける。ギタリストがニヤニヤと嫌らしい笑いを浮かべ、俺の肩を組んできた。首から吊り下げられたギターが胸元にあたり、少し痛い。
何突っ立ってんだよ、暗幕開くぞ?
うるさ、と握りこぶしを脇腹にぐりぐりと押し付けると、ギタリストはケタケタとキモイ笑いを漏らしてふらついた。体幹が弱く身長も大して高くないコイツは結局高校の卒業まで体育の評価が3以上になることが終ぞなかった。
『皆さん!!喉が枯れるまで!!いや、枯れても叫び続けてください!!』
床に貼られたカラーテープを見て定位置を再度確認し、履き慣れた運動靴でステージを蹴りつける。ベースの弦を小さく弾く。ぴーと電子音が響いて、暗幕が動き出す。観客の中から両親を見つけるのが最初の時からかなり早くなったな、とふと気づいた。
カーテンが閉め切られた体育館の中、スポットライトが当たっているのはたった4人。そのうちの1人が、俺。
衆目を集めること以上の幸福がこの世界にあるか?
ギタリストがマイクを両手で力強く握りしめる。その手は既に汗ばんでいた。見慣れた横顔なのに、やはりどこか寂しげだった。マイクを飲み込むのかと思うほど迫ったアイツは、一言。
『俺たちHighwayのラストショー、楽しんでください!』
叫んだ。
俺は双眸を緩やかに開く。19歳の誕生日とぴったり被っていた、中学生時代から聞いていたバンドのアニバーサリーライブの帰り道。運転初めに藍色だった空は今や影よりも暗く泥よりも濃い雲が立ち込めており、窓硝子には雫が尾を引いていた。二月初めの冷たい外気から遮断された車内は微かに暖かく、目を瞑ればもう一度夢の続きを見ることができるような想像を思わせる。
「寝てたか。ライブ楽しんでたもんな」
呆けていると、突然に懐かしい声がして、思わず聞こえた方の運転席を見やる。テレビの切り替わったカーナビから放たれる薄暗い蒼光で運転席に人のシルエットが浮かんでいる。そのシルエットと声は若い頃の父に似ていた。
「あれ、父さん?」
直前までハンドルを握っていた感覚が手のひら微かに宿っているが、父が運転していたのだろうか?テレビには、知らない有名人が何か口を開いて話をしているが、音声を消音にしているのか、何も聞こえない。車内には高速道路を走っているゴトゴトとした走行音と、時折真横を追い越す自動車の音だけが響いていた。
この人は俺の父さんだろうという確証はないが、この人は俺の父さんなんだろうという確信があった。
「懐かしい夢を見たんだ」
「へえ、どんな夢?」
「高校生の頃の、コピーバンドしてた夢。それの最後の文化祭の時の夢。Highwayってやってたでしょ。俺さ」
「ああ、覚えてるよ」
シルエットは微動だにしない。ただ運転しているだけだ。けれどもそこには、受容が存在していた。その距離感が心地よくて懐かしくて、気づけば俺の口からはすらすらと言葉が流れていた。
最初は父の自室にあったベースに興味があった。その時、生まれてからたった6年の俺には奇妙な曲線を描く糸の張った変な音の鳴る何かという物体は些か刺激的で、目を爛々と煌めかせて、これなあに?と聞く俺に、父はベースとだけ言った。
父はそのベースを持ち上げて、窪みを右膝に乗せる。やけにどうの入った動きで左手で突き出した方を持って、右手の指で1番太い弦を弾いた。
じいいいいいいいん。
音が鳴って、驚いて父の右膝に駆け寄る。父は気になる?とヘッドを持ちながらベースをこっちに緩やかに傾けた。か細く短い指を懸命に動かし、やっとの事で4弦を弾くと。
じいいいいいいいん。
同じ音が鳴って、驚いて父の膝に抱きついた。暖かかった。良いじゃん。父はそう言って頭をゆっくりと撫でてくれた。
小学生時代はそれっきりベースを触ることはなかった。というよりも、父のベースに触れる機会がかなり少なかった。趣味でバンドを組んでいる父は、ほぼずっと練習にベースを使っていたから、自室に入っても触れるのはかなり父の練習が上手く行って、調子の良い時ぐらいだった。
中学生になってから、クラス内外を問わずにやけに注目を集めているやつがいた。そいつはかなりギターが上手くて、軽音学部の申請を幾度もなく出しては教師陣から却下されていた。成績は良くも悪くもなかったし運動も得意じゃなかったが、顔はかなり良かった。二年生二学期、そいつの隣の席になった初日、放課後になって彼はバンドをやらないか、とやけに元気な声をかけてきた。
勿論最初は拒否した。自信なんてなかったし、急に誘われても練習環境を作れるほど余裕がなかったから。だけど、毎週月曜日の勧誘に負けて、3回目に渋々承諾してしまった。
初めての練習の日、父が帰ってこない午後7時までならとこっそり彼を招いた。ギターケースを肩に担いだ彼はいつもより3割増しくらいにかっこよく見えた。父の部屋の床に一緒に座り込んだ彼がこれやりたくて、と見せてきたタブ譜は、父が好きだと教えてくれた好きなバンドの曲だった。
そこから数ヶ月、学校の誰にもいわず密かに毎日放課後に俺の家で二人で練習した。目標は10月の文化祭で講演すること。それまでに完成させると張り切って、ここがむずい、ここは楽しいとあーだこーだ言い合って9月にはなんとなくそう聞こえるまでに発展させた。
文化祭のプログラムを決めている担任の説得にはそれなりの時間を有したが、結局の決め手は、穏やかな他クラスの先生の、生徒の自主性を尊重しましょうという鶴の一声だった。決まった後にありがとうございます。とお礼すると、期待してるよと笑顔で返された。
文化祭当日、父の出勤直後に部屋に忍び込んでケースごと借りた。クラスパフォーマンスが終わって昼休憩、午後からは有志の発表となる。2人で机を合わせて弁当箱を開けると、キットカットが入っていた。裏を見ると油性ペンで頑張れとだけ父の筆跡で書かれていた。
初めてステージに立って暗幕が開いたとき。正直足が震えていた。拍手は背中にのしかかって、額には汗がにじんでいた。その時に、彼がマイクをぐわっと取った。
あの、今日は僕たち、Roadを見に来てくれて、ありがとうございます
僕たち、えーと、マジで上手いんで、聞いてください
なんとも言えない雰囲気が体育館に充満して、逆に笑ってしまった。思わずに彼の方を見ると、ちょうど目が合った。苦しそうにニヤニヤと笑っていて、更に笑いそうになった。いつの間にか、足の震えは治まっていた。
そこから先の記憶は、正直にいうと覚えていない。ただ最後、曲をやり終わった後の観客と、彼の瞳だけが目に焼き付いている。最初の疑念にみちたそれは、尊敬と歓喜に染まっていた。そして、横を向いたとき、彼と、また目が合った。始まる前の目と違って、その目つきは俺が初めて4弦を弾いたときの父のそれに似ていた。
家に帰ると、両親が既に揃っていて、テレビを見ていた。俺たちのライブだった。その時になって、文化祭が公に開かれていたことを思い出した。父は帰ってきた俺のことを見て、かっこいいじゃん。そう言った。
3年生の文化祭は辞退した。彼が俺と同じ高校に行きたいと言ったからだった。毎日彼の勉強を見ることにした。夏休みも彼と図書館にいって、一緒に机に向かってはわからないところを教えたり、自分にない発想を聞こうと尋ねたりした。時々煮詰まると俺の家に行ってはベースを借りて二人で触ったりした。
2人で受験日は会場の高校まで歩いて、帰りも同じように歩いた。
結果は2人とも合格。またバンドをやろう。そう言った彼に、俺は深く頷いた。そして入学してすぐにキーボードとドラムを探して奔走した。バンドの名前も一新した。名前はHighway。彼の発案だった。今考えると道ってなんかださいしまだ高速道路の方がよくね、と彼はニヤニヤしながら言った。
高校生になると、また文化祭に来る人も増えていく。文化祭は3年間大盛況で幕を閉じた。やるのは、毎回同じバンド。中学生の時から二人で決めていたし、新しく勧誘した2人も好きかどうか聞いて確認していた。大学生になってもバンドしよう。次はオリジナル曲とか考えてさ。3年生の冬、放課後の空き教室で密約を交わした。
合否発表の日、2人で固く握手をしたことを未だ覚えている。
そして3月のある日
僕は利き手を失った。
相手はながら運転だった。いつも通りに横断歩道を渡っていた途中、真横から突然飛び込んできた何かに横っ腹を貫かれた以降の記憶はぷっつりと途絶えている。3月に似つかないやけに晴れた暖かい日だった。
手術が終了して両親と相対した時、正直どんなテンションで話せば良かったのか分からなかった。母の鼻のすする音と、父の沈黙が病室内に重々しく満ちていた。母親から言われたことは色々あったけど、正直頭に入らなかった。失ったはずの手が痛かったってのもあるし、現実味が無さすぎた。一つ思ったことは、中学の時の文化祭。あの暗幕が開いた直後の雰囲気、それと似ている。
色々話していた母は急に黙り、ごめん、とトイレに行った。私だけ泣いてても気まずいよね、との事だった。父と俺、ただ2人が残った。
父の視線は、正直どこを向いてるのかわからなかった。俺の顔なのか、手なのか。それとも目線を合わせないようにしているのか。
父さん、俺大丈夫だよ。
そう言おうとした。そう言おうとして、喉が突っかかって空気が押し出された。嗚咽した父が背中をさすってくれたが、胸中が騒いでいた。
片手で、ベッドの布団を握る。体験したことのない感覚が不快で、あったはずの手を睨んだ。
大丈夫、大丈夫だよ。
父が機械みたいに繰り返す。手摺の縁に父の顔が映る。
かつて利き手があったほうの腕を伸ばして、消えた手の甲で父の頬の涙を拭おうとした。涙は布団の上に落ちて小さなシミを作った。そのシミはその後すぐに数あるシミのひとつになってしまった。
義手について調べてる間に一瞬見た彼からのラインは数十もたまっていた。だいたいが具合の心配だった。なんて返そうかと思い、わけもなく苦しくなって既読スルーをする。それがずっと続いていた。そんなある日、いつも通りの両親の見舞いだと思っていたノック音の後に扉に聞こえてきたのは彼の声だった。
久しぶり。元気、というか、病院食旨い?
まあ、食えなくもないくらい
へー良かった、なんかまずいとか言いそうだと思ったから
どういうことだよそれ
そんな当たり障りのない会話を何分か繰り返した。途中から彼の応答はワンテンポずつ遅くなっていく。西日が病室内に差し込む、橙と藍で二分された部屋。耐え難くなった俺はスマホを手に取ってGoogleを開いた。片手操作に手こずりながらもゆっくりと検索ボックスに文字を打ち込む。
これ
ん、なにこれ?
義手だって、ほらこう動くっぽい
画質悪、まあ、いいね
…結構、かっこいいと思わね?
あー、まあ…、いいんじゃね
一瞬躊躇った。そんなことを考えている内、脳内で編んでいた言葉が口を突いて出てしまった。
なんかしゃべんの遅くね?
彼の顔を見た。
そして、彼の瞳が潤んでいたことに今更、いや今まで彼の顔を見ないようにしていたのだとようやく気づいた。彼は気づかれたことを悟ったのかちょっと花粉が、とベッドに顔を埋める。いつかの母さんを朧気に想起する。足元がだんだんと涙で湿ってくる。やめろよ、と言おうとして、その肩に拳をぐりぐりと押し付けようとして、意図していなかったのか、それとも弱い体幹のせいか、右肩に俺の拳が当たった彼がどたんと床に倒れる。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった彼の顔が夕焼けに照らされて光っている。
胸中で何かがかちりとハマった。
ただ義手を見せた時、彼は良いと思う、と言った。
行けなかった入学式の日、すっかり見なくなって忘れてしまった時間割の、多分終わった後の時間帯に彼はやってきた。彼に、高校生の時の2人と組んでHighwayは続いている、いつでも待ってると言われた。ただ、どうにも入る気になれなかった。両親とは今でも話すことはあるが、明らかに音楽関係の話は避けるようになったと感じる。具体的にこうといえるものはないけれども。時たま相槌を打つ2人の瞳は、俺じゃなくて、義手を見つめている、ような気がしている。
だらだらぐだぐだと彼との関係は続いて1年。進級するというときに、ライブに誘われた。中学生の時からずっと、今でも聴いているあのバンドのアニバーサリーライブ。ちょうどその日は俺の誕生日だった。チケットを大学で渡されて、行こうとだけ言われた。何か考えるより頷いていた。あの時みたいに彼がニヤニヤ笑った。
「あいつ覚えてる?俺が中学の時にバンド誘ってきたあいつ」
「ああ、元気だったよね」
「ライブ終わった後にずっと待ってるっていわれて」
何を俺は話しているんだろう。これを父に言ったところで、特に何かなるわけでもないのに。気づけば服の裾をぎっちりと握っていた。外の雨はいつの間にか激しく音を鳴らしながら窓硝子にぶつかるような豪雨に変わっていた。あの日とは大違いだな、と病室に彼が来たときの天気を思い出す。
「何言ってるんだよって思って」
沢山の雨粒が窓硝子上で混ざり合って、滑り落ちていく。郷愁だの哀悼だのも想う暇すらなく、雨粒達は消えていく。その一つ一つに、口を閉じて不機嫌そうな顔をする俺の顔が映りこんでいた。空はもう暗い、星すらも見えそうになかった。
「再開してみたら」
父がぼそりと呟く。その言葉は、なんとなくあの時の父の話し方に似ている。利き手を無くした俺を見て、大丈夫だと繰り返していたあの時とおんなじような気がした。雨が止む気配はない。
「なんで」
「続けたいんでしょ、そういうことじゃないの」
「は?」
何言ってるんだよ、率直に思った。雨足が強くなる。だってそっちじゃんか。いつの間にかテレビはカーナビに戻って、父のシルエットはもう見えなくなった。ただ、そこにいるだろうという感覚だけ。車のスピードが落ちる気配はない。
「だってこの手じゃ上手く弾けないし」
「それ用の義手だってあるでしょ」
「てか、流石に他のメンバーに何て言えば」
「あの子が誘ってるんだし便宜くらい図ってるよ」
「さっきからなんかいってるけど、ずっと気にしてるくせに」
押し黙った、さっきまでペラペラ喋ってた父が押し黙った。悪辣な興奮がつま先から脳天を駆け巡って、気づけば視界がぼやけていた。眼球が灼けるように熱く気持ち悪くて、最悪な気分が胸から込み上げてくる。
「覚えてるよ、あの時の顔」
あの時の父親の顔が、はっきりと形を伴って浮かんできた。俺はあって良かったな、なんて微かに思っているような顔、そうじゃないのかもしれないけど、無意識に俺はそう読み取っていた。良いよね、ダサくなくて。
「知ってるよ、父さんも母さんも、時々目合わせて図ったみたいに俺のことじろじろ見て」
リハビリ中、装具士と話している時。ふと両親の方を見ると、揃いも揃ってヘラヘラとした笑顔を返してくれた。その直前までの真顔なんか一切してませんでしたよ。なんて風にして、自分は応援してますよって、それだけの上っ面が気持ち悪い。
「リハビリ中も励ましてくれて」
大丈夫だよと父はよく言いながら義手を撫でた。なんとも言えない気持ちになって、やめてよとだけ呟いた。どうやら、現在は大丈夫じゃないらしかった。
無意識に頬を拭って、自分が馬鹿みたいに泣いてることに気づいた。父のシルエットすらももう認識できないまま、途切れ途切れに言葉を吐き出す。
「何も知らないのに言わないでよ」
こんなのただの八つ当たりだ、ふと我に返る。それでも、溢れるような涙は一切止まる気配がない。今まで頑張ってきたのに。泣かないようにしてきたのに。ずっと大丈夫にしてきたのに。
今更、なんて自嘲する。それでも涙は止まらなかった。
爆発しそうなほど頭が痛かった。何も話さない父は、やはり黙って運転しているだけだ。
「父さんの、全部父さんのせいだよ」
その言葉だけ吐き出して、俺は黙った。もう出す言葉が無かったし、何を言っても蛇足になる気がした。それに、これ以上言うと自分の何かが壊れると思った。いや、多分もう壊れていた。
…ごめん
何も話さなかった父が、静かにそう言った。雨音に消えない程度の音量だったそれは、やけに車内に湿気を持って底に沈んでいく。
心底、居心地が悪かった。やけに手に痛みを感じると思っていたら、開いた手の平と人差し指の爪に血が滲んでいた。紫に薄暗い車内の中でやえにはっきりと見える橙の手中から、静かにどくどくと溢れ出す紅い血が止まる様子はない。
言ってやった。なんて快感はもう胸中を過ぎ去っていた。
徐に、父がカーナビを弄くった。ディスプレイがゆっくりと動いて、CDの差し込み口が奥から現れる。
これから言うことは本気にしなくてもいいから、しっかりと聞いてほしい。
父がそう言って、呟くように話を始めた。いつの間にかテレビからは今日のライブで聞いた曲が流れ出していた。
まずは、僕は君の父さんじゃない。
僕は、なんて言えばいいかな。
子供たちみんなのお父さんでも、お母さんでもあるんだ。
子供たちに時折やってくる、心の疲れから子供たちみんなを守るために、僕たちはいるんだ。
そう、君は今、バンドを再開しようかしないか迷っている。
その一瞬の迷いが、一瞬の疲労が事故を起こす。
それをさせないために、僕や僕たちが君と運転席を入れ替わって、父さんや母さんとして振る舞うんだ。
最初に言ったことは、今思うと流石に軽薄だったよね。
君はまだ迷っている途中なんだ。
君の本当の父さんや母さん。そして大事な友達から変わった目で見られたから。
それはいつものような仲間や守るべき対象として接されている君からしたら、すごく驚くことだ。だって、いきなり腫れ物をさわるような、丁寧な扱いをされるから。君はそれが申し訳ないと思った。手があった頃は1人でできたことが、今は人の補助を得ないとできないんだから。
それは、別に間違ってる行動じゃないんだ。だって、みんな。君のことが大切で、だから自分から君の手助けに動いたんだよ。
だから、一旦。視点を変えて見るんだ。そんな、不安そうなみんなの目を変えたくはないかい?
そんなことを、父じゃないなにかが話した。その言葉を理解しようとする前に、急激な眠気が瞼にのしかかる。気づけば、雨音はかなり弱まっていた。
「もう、目的地に着く時間だね」
「それじゃあ、さようなら。君の疲れが取れることを願っているよ」
その言葉を最後に、俺の意識の灯火は消えた。
気づくと、何度も見たことのある駐車場に車が止まっていた。運転中に寝てしまっていたのか。たちまちに顔が青くなる。
スマートフォンを開くと、凡そ深夜と言って差し支えない時間帯だった。温い車から出ようとしてカバンを手に取り、買った記憶のない紙袋の感触に完全に目が覚めた。ブラウンの紙袋の中には、四角い箱が紙に包まれてあった。
何となく紙を破る、そして開く。包まれていたそれはピックの入った箱だった。それも、高校生のコピーバンドをやっていた時期に使っていたシリーズの。
部屋の隅でインテリアと化していた、ベースのことをぼんやりと思い出す。
気づけば、俺はそのピックを金属の親指と人差し指に挟んで、見えないベースを掻き鳴らしている。
頭の中には、中学校の時の文化祭がコマ撮りのように流れている。
始まる前の、観客の不安そうな目。マイクを握った友人の不安そうな目。
ライブが終わったあとの、観客の輝くような目。彼と笑顔で見つめ合った、あの時。
そして、家に帰った後の、両親の笑顔。
いつの間にか雲は晴れ、煌煌と光る月の光がピックを照らしていた。
俺はLINEを開く。数時間前、ライブ会場で待ち合わせをしていた履歴の一番下、テキストボックスに俺は文字を打ち込んでいた。
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