「どんな人でも変わることはできるのよ」
カーテンの隙間から漏れ出た光が反射して粉雪のように見える塵埃たちをぼんやりと眺めながら、在りし日の母の言葉を思い出す。
本当に?
「あの子たちには悪いことをしたと思ってるよ、一応。それが?」
抑揚の無い平坦な声で彼は言う。それは命を奪った当事者が放った言葉とは思えないほどにあっけらかんとしていて、形だけの謝罪だと部外者の私でも分かった。
「"それが?"とは何ですか。やはり何も反省していないのでは?」
「まぁ、反省している証拠なんて提示できないんで、別にどう思ってくださっても構いませんよ。特に貴方は我々Dクラス職員に対して先入観があるようですし」
クソが。本当に反省しているのなら"一応"だなんて口が裂けても言えないに決まってる。どんな人でも変わることができる?そうだね、確かにコイツは生まれ変わると丁度良いかも。
ゲロを拭いて半月放置した雑巾のような、気持ち悪いぐちょぐちょとした渦が逆流してこの口から出ていかないよう、私は必死にそれを胸の中へと抑え込む。
「で、そういう話をする場じゃないですよね、これ」
そう、これは尋問やインタビューではなくただのカウンセリングだった。彼が解雇される際──つまり一般社会に帰還する際の、匡済部門が主導となって実施するサポートの要望や、新生活へ踏み出すことに対する不安の解消などを目的とした、ただのカウンセリング。
「もういいですか?こちらとしては別に特別何かして欲しいとかは無いです。他の方と同じように手続きしといてください」
それでは、と呟き待機していたエージェントに手綱を握られ、彼は普通の部屋と区別つかないような独房へと帰っていく。扉がオレンジ色を視界から遮断するその時まで、私に一度も顔を向けなかった。
「人殺しめ」
あぁ結局溢れちゃった。でも仕方ないよね?この仕事をしていると真面目に生きるのは馬鹿のやることだと言われているようで、ストレスが締まりきらない蛇口のように、ちょっとずつ、そして必ず溜まっていくんだから。こうやって少しは排水溝に流してやらないと、心が死んでしまう。
席を立ち、オフィスに帰ろうと銀色のドアノブを握ると、粘着性のある生温かさを感じてしまって、とてつもなく嫌だった。
◇
私は正義感が強い方らしい。財団に属している人間なら少なからずその傾向はあるだろうけど、私は特に。道に迷ったお婆さんがいれば目的地まで連れ添うし、落し物をしたサラリーマンが居れば一緒に探してあげる。まぁそんな機会は今までで1、2回しか無かったけど。1番多いのはDクラスたちの罪状を読んで憤ることかな。結構な頻度でデータベースにログインしてるよ。
ねぇ、これって正義って言えるの?
溜息をつく。たまにこういう馬鹿げた疑問が浮かんでは沈むけど、その度に辟易としている。正義とその他の区別方法なんて私は知らないよ、正義であることに囚われてはいないから。だからこの感情や言動が正義であるかは断言できない。ただ、善い行いであることは確実だ。不正解ではない。なら、問題は無い。
神様が私の善行を見てくださっていることを祈りながら、カードキーをかざす。電子機器は祝福の音色を奏でて応える。廊下には澄んだ冬の空気だけが跋扈していて、呼吸するたびに鼻奥の粘膜が刺激されるのを感じながら、胸を撫で下ろした。
「奇遇だね」
反射的に振り返ると、そこには私の直属の上司がいた。心臓が高鳴り聴覚は機能せず、頭は白色に満たされて何も浮かばなくなる。そろそろ赦されないところまで来たってこと?私より頭一個分ほど上の位置から彼は言う。
「そんなに驚かなくていいじゃないか。どう?3674の面談は」
口に溜まった唾が上手く呑み込めなかったから、数瞬、静寂が支配した。
「別に希望や要望はありませんでした。他のDクラスと同じように手続きしてくれ、と」
不自然じゃない程度に視線だけを彼と交わす。彼はいつも通りのニコニコ顔で、「そうか~」と間抜けな相槌を打つだけだった。
「じゃあ次の日曜日にはお別れだね、簡単な花束も用意しなくちゃ」
「Dクラスに花束……ですか」
「なんかその方がそれっぽいしね~」
二つの足音が廊下に響く。私はこの無機質な音楽が好きだ。お世辞にも社交的とは言えない私にとって、これは沈黙を埋めてくれるから。でも、何に対しても例外は存在するし、沈黙を埋めてくれるといってもこの廊下は長すぎた。別れ道はまだ先の方。
「あのDクラスは、解雇するべきじゃないと思います」
「どうして?」
最悪だ。何で唯一の不正解を選んでしまったんだ。いつも何か言わなきゃと焦って、クソみたいな話題を振って、相手を呆れさせる。この絶望的な私の特徴に於いては未だに例外を観測できていない。
「だって、アレは何も反省していないんです。絶対にまた人々に害を与えますよ」
それでも、口からは濁った塊が逆流してく。言葉の嘔吐を止めたくてもその方法を知らないんだ。人と上手く話せたことがないから。まだ成功例を確認できていないから。
彼はバレバレの愛想笑いをひとしきり吐き出した後、「何回も言ってると思うけど」って、我儘な子供を言い聞かせるように、そう切り出した。
「彼がどんな人間であったとしても、財団の研究のために、人類の安全のために、命に関わる危険な業務を引き受けてくれた。そして我々匡済部門は対価として彼を一般社会へと戻し、第二の人生を歩めるようサポートをする。確かに、よほど精神状態がおかしかったり、一般市民に危害を加えないと生きていけないような異常者は財団で使い潰すけどさ、彼ぐらいなら全然大丈夫だよ」
「彼は殺人犯なんですよ?」
自然と声が大きくなる。うん、やっぱり私は正義感に溢れている。
「でも償いはした。彼の権利を取り上げることはできない」
それを遺族の前で言ってみろよ。そう怒鳴りたいけど、この反論は些か感情的だ。建設的な意見を構築するために足を止める。マルチタスクは嫌いだ。
私が血液を脳に集合させていると、男は「それにね」と呟いて振り返る。今日初めて目が合った。完成しかけていた意見はバラバラに崩壊し、頭蓋に入った重要器官はこの人の真っすぐな瞳を見つめ返すことだけにリソースを割く。
「解雇されたDクラスの再犯率を知っているかい?」
「……再犯率ですか。一般市民のそれは確か50%くらいだったはずなので、元Dクラスは……そうですね、70%弱でしょうか」
口角をゆっくりと上げる彼。
「残念、正解は0.02%でした。彼らはDクラスでの経験がよっぽど堪えたらしい。また、面白いことに記憶を消去したとしてもこの確率は変動しなくてね、警察官やオレンジ色の服を見るだけで足が竦むことだってあるらしいんだ。潜在的なPTSDなのかな、詳しくはよく知らないんだけどね」
ケラケラと笑う彼。匡済部門の鉄板ジョークなんだろうか、大して面白くはない。
「いやはや、やっぱりここは最大の更生施設だよ」
「更生していると言えるのでしょうか。根幹の人間性は変化していないように思います」
「別にそれで問題はないよ、腹に何を抱えていようが、表に出さないのであればそれは無害さ」
「Dクラスは不足しがちでしょう?やっぱり、資源を有効活用する点から考えてむやみやたらに解雇するのは──」
「別にかな、直ぐに新しいDクラスを迎え入れば良いだけだし。最近は死刑囚以外からの雇用も活発的だからね」
私の反論は悉く跳ねのけられ、言葉は相手の脳に本当の意味で入らない。妙に言い慣れている彼の演説は酷く理解しやすくて、私は何番目の聴衆なんだろうかと疑問視してしまう。私が彼との対話を諦めた時、ようやく目前の壁に気が付く。別れ道だ。
「それじゃ、花束の件頼んだよ」
左手を空中で往復させながらぶっきらぼうに言う。私は口に広がる鉄の味を堪能しながら、「わかりました」とうそぶいた。
◇
中学生の頃、同級生の母親が殺された。噂に聞いた話では通り魔だったらしい。まだ子供だった彼女は現実を受け止めきれなかったらしく、一日中自宅に閉じこもってしまって、冬休みが明ける頃には多くのクラスメイトが彼女の顔を忘れてしまった。中心的な存在だった彼女の椅子は別の娘に奪われていていたから、もし登校していたとしても気まずいだけだっただろうけれど。
私の実家は彼女の家の近所だったから、引き出しに溜まったプリントを週に一度、彼女のクリーム色のポストに届けてあげていた。面倒だし、乗り気じゃなかったけどね。終盤はポストの受け口に隙間を見つけられなかったから、すぐ下の地面に置いて、重りとして石を幾つか並べるように載せていた。
あの日は雪が降っていた、はずだ。石を探す私の手が桃みたいに赤くなっていた気がするから。記憶があやふやなのは、その日初めてあれからの彼女の顔を見たからだと思う。それは向日葵のような朗らかな笑顔が過去に存在していた事実を訝しんでしまう程に痩せこけていて、私は先週放映されたドキュメンタリーに映るスラム街に野垂れ死んだ野犬を思いだした。今にも鼻から小豆くらいの大きさをした蠅が顔を覗かせてきそうで、正直逃げ出したい気持ちが強かった。
それでも声を掛けたのは、人気者であった彼女が、地味な私より弱い、生きているか死んでいるか分からないような状態にあるのを見て、何かが満たされたからだろう。どんな人間だって脆弱になり得る。それを見つけられた時の喜びといったら!
親友になった彼女とは高校を卒業したあたりで疎遠になってしまったけれど、あの日見た彼女の顔色は全く色褪せない。私の人生はここから始まったんだ。
「それじゃあD-3674、今までありがとうね」
上司の言葉で回想から引き上げられる。犯罪者、いや今はもう元犯罪者になった彼は新調した顔を明るく歪ませながら頷く。近くのデパートで買ったそれっぽい花束は私の右手に握られていて、茎に巻かれたアルミホイルは橙色の空を反射する。ああ、今からコイツを渡す。n回目の覚悟を決めて、自然と手に力が入る。花束から漏れ出た水が私に滲む。気持ち悪い。
「あの、死刑囚だった僕を救ってくださって本当にありがとうございます。お陰様で寿命が延びました」
「気にしないで。君もほら、花束を渡してあげて」
彼に花束を渡す。なるべく手に触れないように、慎重に。私から色彩の集合体が分離し、オンシジュームの甘い匂いが鼻をくすぐる。チョコレートの匂い。あの娘も好きだったっけ。
花束を受け取ったアイツは踵を返し、正常へ溶け込もうとした。またね、クソ野郎。心の中でそう呟いて、私も振り返る。視界にアレを入れたくなかったのと、単純に空気が冷たかったから。
「ごめん、ちょっと待って!」
不意に上司が口を開き、駆け足で元犯罪者に近づく。そしてあろうことか花束を奪い取った。何故?
「いやね、一応異常の巣窟である財団から物を持ち出すのは色々なリスクが伴うからさ、これ、回収しなきゃいけないんだよね。ほんとごめん!あげられないけど、あった方が雰囲気でるかな~と思って一応用意しただけなんだ」
彼は「それじゃ!」と軽すぎる別れを告げてこちらに戻る。私は内心舌打ちをしながら自然にふるまう。
「あげないんですか?せっかく用意したのに無駄になったじゃないですか」
「いや無駄にはしないよ、これは君にあげるから」
要領を得ない彼の返答に困惑する。しかし、それは直後に明白となった。
「君、この中に小型GPSか何か入れてるでしょ」
冷汗が全身の汗腺から噴き出す。チョコレートの匂いはまだ辺りを揺蕩っていて、私に現実逃避を教唆する。問いかける彼の口角は上がっているけど瞳は怖ろしく冷たくて、心臓がちゃんと動いているのか不安になる。笑わないで、何も面白くないから。
「最近ね〜、一般社会へ帰還した元Dクラス職員がね、結構な確率で一年以内に死んでることに気がついたんだよね。でさ、匡済部門の皆や情シス関係者と調査してみると、SCiP-net監視システムやAnomalousアイテム保管記録に、君が高頻度でアクセスしてることが分かってさ。それだけ見れば問題ないんだけど、それを死亡記録と照らし合わせてみると──」
矢継ぎ早に何かを言われていると理解はできるが、後半から私の耳は完全に空気の振動を遮断していて、心臓の鼓動を感じ取ることだけに集中していた。視界はブラウン管テレビの砂嵐みたいなノイズが支配していて、沈みかけの太陽だけが辛うじて見えるくらいだった。
「流石に悪質だから、満場一致でDクラスに降格だね。普通に殺人犯だし」
耳を疑う。"終わってる"殺人犯を殺しただけでDクラス?降格は予想していたけれど、そこまで落ちるなんて聞いてない。それはあまりにもあんまりすぎる。
脱出口を探す私を静観しながらもう一人の私は言う。当たり前だろ、って。そんなの一番よく分かってる。この言動が矛盾してるなんて数えきれない私に言われた。でも、あまりにもさ、あまりにも唐突すぎじゃない?もうちょっと、この日常が続くと思っていたのに。まだ私が優位に立てると思っていたのに!
「それでね」彼が口を開く。私より頭一個分ほど上の位置から声が聴こえる。顔を到底上げられない私は、綺麗に揃った自分のつま先を代わりに睨んだ。
「この花束は君にあげるんだ。ほら、匡済部門を抜ける訳だし、これもまた退職祝いだよ。ある意味就職祝いでもあるね。はい、あっちでも頑張ってね」
そうやって手渡された花束は先刻よりも色彩を失っていて、それが単に陽が沈んだからだと気づくには少し時間が掛かった。冬の寒さが肌を刺す。自分の小さな浅い呼吸が更に白く濁っていくのを、確かに感じ取る。
「大丈夫、そう落ち込まないでよ!少しの間だけ頑張ってくれたらさ、必ず解雇するから!」
妙に明るい雑音に向かって、とりあえず謝ろうとしたけれど、余白の無い脳と肥大化した精神が言葉の紡ぎ方を忘れさせるから、仕方がなしに聞き慣れた鳴き声を使った。
「反省してます。赦してください」