演目-とこしえの憩い
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台本: 『とこしえの憩い』
独創性: オリジナル
ジャンル: 舞台劇
監督: LG

記録者: エージェント・A█████ A██████、エージェント・B███████ M█████

異常影響: 観劇後に、エージェントらは「観劇中は登場人物の名前を何故かはっきりと思い浮かべる事が出来たが、劇場から出た後にはその名前を思い出せなくなった」と報告しました。インタビューにより、多くの観客が同様の影響を受けたことが判明しています。

経緯: 2023/07/08、要注意団体『劇組』から財団に対して本演劇への招待状及び2名分のチケットが送られました。招待状にはオペレーション"スカーレット・ローズ"の運用が複数の言語圏にわたって長期的に安定している事に対する祝福と、それを記念した舞台に財団の職員を観客として招待したいとの記載がありました。この招待状およびチケットにはいかなる異常性もみられませんでした。これまでの『劇組』による財団への友好的振る舞いを踏まえ、フィールドエージェント2名の派遣が決定されました。

以下の脚本はエージェントによる供述と所持していた撮影機器による記録を書き起こしたものです。


幕前


(開幕ブザー)

(幕は下りている。スポットライトが点灯され、下手から中央へ向かって歩く白衣の男を照らす。白衣の男が歩いた後には白い霧が薄く残っている。男は手に拳銃を持ち、憔悴した様子でぶつぶつと呟き、もう片方の手で頭をかきむしる)

白衣の男: ああ。駄目なんだよ……僕は。もう、こうするしかないんだ。

(男は何度か周囲を見回し、舞台中央で膝を折る)

白衣の男: もう時間がない……今しかないんだ。引き延ばしすぎたくらいだ。

(男は何度か袖で目元を拭い、銃口を自身の側頭部にあてる)

白衣の男: まだ、言ってない事が……いや。遅すぎた。もう引き返せない。

白衣の男: (啜りあげて)仕方のない事なんだ。

(スポットライトが消える)

(銃声。人が倒れる音)

(幕が上がる)


第一幕


(先程の男はすでに退場している。舞台のセットは談話室の一角である。小物が多く雑然とした印象を与えるが、部屋の色調は暖色に統一されており、暖かな印象を与える。舞台中心の最奥には台座があり、赤い宝石を中心に据えた首飾りが飾られている。その手前にはソファーがあり、アロハシャツを着て帽子を目深に被った男と、髭面に眼鏡をかけた男が寛いだ様子で座っている。彼らは一度も台座にも首飾りにも視線を向けない)

髭面の男: (笑い声をあげる)それで、いったいあの映画の何がそんなにひっかかってるんだ。いいじゃないか、完全なる喜劇。現実はこんな有様なんだから、たまにはそういうのがあったっていいだろう。

帽子の男: いや、それは結構なんだが。最初に銃が置いてあっただろう、これ見よがしに。

髭面の男: あったな。

帽子の男: 思うに、あれが最後まで撃たれないってのはやはり欠陥だよ。

髭面の男: 何でもぶっ放せばいいもんじゃないって言ってたのはお前だろうが。

帽子の男: それは私以外も、というか君以外の全員が言っていることなんだがね。ともかく、問題はチェーホフの銃が機能してないってことだ。それはもう死んでいるのと変わらないんだ。

髭面の男: チェーホフ?

帽子の男: "もし、第1幕から壁に拳銃をかけておくのなら、第2幕にはそれが発砲されるべきである。そうでないなら、そこに置いてはいけない"だよ。だから……(目を上げる)おや。

(頭髪の薄い長身の男が舞台の上手から入って来る。男には一切の表情がなく、その歩調も機械のような印象を与える正確なものである。無表情な男は会話していた二人の前まで歩いてきて足を止める。三名は沈黙し、先にいた二人は互いに顔を見合わせる)

帽子の男: どうしたんだ。何か用があるのかと思ったんだが。

無表情な男は口を開き、閉じる。それから床と二人に視線を交互に向ける)

無表情な男: 今の段階でこれを言っていいものか判断しかねているのですが。

髭面の男: わかった。言え、聞き流すから。

無表情な男: (少し沈黙して)アイスバーグが戻ってきました。

髭面の男: 何だって? 休みでも取っていたのか?

無表情な男: 二年前に私のオフィスで自殺しています。

帽子の男: (沈黙の末、険しい声で)それが本当にアイスバーグだという保証はあるのか。

無表情な男: あなたはそう言うだろうと思っていました。今調べさせている所です。

髭面の男: ああ、だから「今の段階でこれを言っていいものか」か。

無表情な男: ええ。ですが、他の誰かから噂半分に聞くよりは、と。要件はそれだけです。私は調査結果を受け取り、検討する必要があります。

無表情な男は二人に背を向けて歩き始める)

帽子の男: おい。

無表情な男: (足を止めて、振り返らずに)何か。

帽子の男: 君は財団職員で、異常存在は収容されなければならない。

無表情な男: (やはり振り返らずに)知っていますよ。それでは。

無表情な男は舞台上手から退場する。残った二人は再び顔を見合わせる)

髭面の男: 落ち着かない感じだったな。無理もないことだが。

帽子の男: あれほど長持ちした部下はいなかったからな。

髭面の男: あんな偏屈とうまく行くってんだから不思議なものだよ。それよりもクレフ、お前だ。

帽子の男: 何だい。

髭面の男: 少しは殺気を隠せ。死者の復活騒ぎなんてそこまで珍しいものでもないだろう。

帽子の男: チンケな霊的実体騒ぎならな。だが、その程度の存在ならギアーズがあんなに浮足立って俺達の所に来ることもないだろうよ。

髭面の男: それは──(帽子の男を見て言葉を切る)

帽子の男: (指を何度か振る)そりゃあ『歯車人間』に人間性ってものを見出しすぎだな。その辺のチンケなゾンビだの幽霊だのその他もろもろありふれた出来損ないの復活なら、彼は完璧に事務的に処理するさ。それが誰に似ていたとしても。

髭面の男:: じゃあ、お前はあいつが手こずるようなアノマリーだから警戒してるってのか。

帽子の男:: (大袈裟に頷いて)その通りだよ、平たく言えばね。

髭面の男:: 平たく言わなければ?

帽子の男:: 一番厄介なのは、出来損ないじゃなかった時だよ。

帽子の男は帽子を目深に被りなおし、その表情は客席からは見えなくなる。髭面の男はさらに何かを問いかけるように身を起こすが、帽子の男が端末を取り出したのを見て椅子に背を預けなおす)

(沈黙。帽子の男はしばらく端末を操作し、それを机に投げ出す)

髭面の男: それで、目当ては見つかったか?

帽子の男: いや、何も。数年前から何も変わっていない、静かなる日々さ。

髭面の男: 嬉しくはなさそうだが。

帽子の男: 何が起きているのかを見つけるのが面倒だからな。

髭面の男: 疑り深い事だな。GOCでもさぞ友達が居なかった事だろうよ。

帽子の男: 悲しい事に、頭がイカれていない奴はだいたい私と距離を取るんだよ、友よ。

髭面の男: (陰鬱な笑い声をあげて)賢明な判断だな。それで、数年前から何も変わっていないのか。

帽子の男: ああ。負傷者こそ事欠かないが、インシデントも死者数も下の方で横ばいだ。平和な日々ってやつだよ。

帽子の男は椅子の上で伸びをして上を見上げる。少しして、不意に大きな衝撃音がする。二名は伝わった衝撃に身を起こす。遠くで悲鳴が聞こえ、アラートが鳴り始める。両名は自身の端末を手に取る)

髭面の男: 小規模の収容違反か。大した異変じゃなさそうだな。

帽子の男: そうだな。よくある類のものだ。

髭面の男: (顔を上げて帽子の男の方に向き直る)待て。これで「いつも通りの平和な日々」だって? 死者もほとんど出ていないと?

帽子の男: (顔を見合わせて)確かに。それは妙だ。

髭面の男: なあ。何も変わってないんじゃない。サイト丸ごとの規模で、長期間にわたって何かが起きてるんじゃないのか。改変が。

帽子の男: その通りだ。(数秒経ってから笑って)にしても、疑い深い事だな。財団でもさぞ友達が少ないんじゃないか?

髭面の男: (陰鬱な声で)一人もいねえよ、狂った奴以外はな。

(再び衝撃音と銃声が遠くから聴こえてくる。照明が消えて舞台が暗くなるが、二人はまったく動かない。遠くから喧騒が聴こえてくる中で幕が下りて来る)


第二幕


(病院の事務室のような一角。空間の色調は白と薄い青で統一されていて、清潔だが少し冷たい印象を与えている。中心から下手寄りの場所に長机が置かれており、その両側に二人の男が向かい合って座っている。下手側には幕前に登場した白衣の男が座っていて、多くの書類がその前に積み上げられている。上手側には無表情な男が背筋を伸ばして座っている。その前には何も置かれていない)

白衣の男: それで……君は、僕が確かに死んだ筈だと言うんだな。

無表情な男: そのように記憶しています。

白衣の男: なら覚え違いじゃない筈だ。……僕の方は、長い休暇に出ていたくらいのつもりでいたんだが。どうにも記憶が曖昧で、よく覚えていない。

無表情な男: 財団のデータベースを確認した限りでは、はっきりとした書類は遺されていませんでした。死亡したとも、長期休暇を取ったとも。私の記憶が何らかの異常存在によって改竄された可能性もまだ残っています。

白衣の男: そうか。……なあ、僕が二年前に自殺したと言ったな。

無表情な男: はい。理由に心当たりはありますか。

白衣の男: 遺書とかは残っていなかったのか?

無表情な男: (少し沈黙して)財団のデータベースに登録されてはいない筈です。私にはその理由が掴めなかった。

白衣の男: そうか。わからないが……僕は、死にたくはなかったように思う。

白衣の男: ただ……漠然と思い出した。自分が自分じゃなくなるような感覚があって、怖かった。自分として生きていく手段がなかったとか……そういう事かもしれない。今の僕には、よくわからないけれど。

無表情な男: そうですか。

白衣の男: 参考にならなくてすまない。それで……僕はどうなるんだ? すんなり復職って訳にはいかなさそうだが、即時に収容房に放り込まれて番号を振られる気配もない。

無表情な男: 簡易検査の結果、あなた自身に特筆すべき危険性は認められませんでした。現状では経過観察措置が取られる事になっています。

白衣の男: そうか。収容房送りじゃないのはありがたい。

無表情な男: 既知の異常体質ならびに戻ってきた経緯が不明であるという事以外には異常性が認められませんでしたから。今のあなたに最も近い立ち位置は友好的な要注意人物と言ったところです。

白衣の男: なるほど。で、(目の前の書類を示して)さっきから僕の目の前に積みあがっているこれなんだが。見てもいいのか?

無表情な男: あなたが不在の間に発行された月報や報告書などです。知りたいかと思ったのですが。

白衣の男: ああ。読んでいいなら有難く読ませてもらうよ。

白衣の男は書類を開いて読み始める。無表情な男は黙ってその様子を見つめている。途中で衝撃音とアラート、そして銃声が鳴るが、それらは第一幕で鳴った時よりも小さく、二人は何も反応を示さない)

白衣の男: 一つ聞いてもいいか。

無表情な男: 何でしょうか。

白衣の男: 僕がいない間、新しく部下は取らなかったのか?

無表情な男: 間接的には大勢いましたが。

白衣の男: そうじゃなくて……僕みたいな位置のやつだ。

無表情な男: 何度かその位置に人員が据えられた事はありました。彼らは……長続きしませんでした。

白衣の男: そうか。

無表情な男: 空席であった時間の方が長いと言えるでしょう。

白衣の男: それは……悪かったな。

無表情な男: どうして?

白衣の男: どうしてって……その……(何度か口ごもってから)不便をかけただろうから。

無表情な男: 問題ありません。総合的に見れば一人であった時期の方がはるかに長いのですから。

白衣の男: そうかい。

白衣の男はしばらく無表情な男の顔を見つめるが、再び資料に目を落とす。無表情な男は姿勢や表情を一切変えることなく、その様子を観察している。少しして、舞台の上手からショットガンを背負った帽子の男髭面の男が入ってきて無表情な男の前で足を止める。白衣の男は姿勢を変えずに、書類を捲る手を止めて顔だけを二人に向ける。一方で、無表情な男は立ち上がって二人に相対する)

帽子の男: ああ、ここにいたのか。(白衣の男と無表情の男を交互に見る)二人揃って。

白衣の男: 何だ、僕がここにいちゃ問題か?

髭面の男:白衣の男に向かって片手を上げる)よう、久しぶり。大したことじゃないんだがな、ちょっとしたセキュリティクリアランスの問題だよ。

白衣の男: 僕が2年前に遺書も残さずに自殺した筈だって話なら既に知ってるぞ。それ以外で、僕が知っちゃいけない事なら席を外すが。どうなんだ?

帽子の男: 知っているのか、なら話が速い。どうやって戻ってきた?

無表情な男: 無申請での尋問は許可されていませんが。

白衣の男: 別にいいよ、それに答えるくらいなら。あいにく何も覚えちゃいないんだ。僕としては長期休暇に出ていたくらいの気分で、戻ってきたら死んだことになっていて困惑しているくらいだ。

帽子の男は黙って腕組みする。全員が沈黙する)

白衣の男: これ以上は知らないから何も言えない。これで満足か?

帽子の男: 自殺した筈だという事はギアーズから聞いたのか。

白衣の男: ああ。そうでなくてもどこかで知ったとは思うが。

帽子の男: わかった。悪いが、少し席を外してもらえないか。

白衣の男: オーケイ。(席を立ち、書類をいくつか抱え上げる)じゃあ僕は元いた待機室に戻る。僕が戻って来てから入れられていた部屋だ。それでいいか?

(三人はそれぞれに頷くなどして肯定の意を示す)

白衣の男: それじゃあ、また。(無表情な男に軽く頭を下げて、下手へ退場する)

無表情な男: (退場を見送ってから二人に向き直る)何か掴んだのですか。

髭面の男: ああ。情報が大規模に改変されている。このサイト全体で、数年にわたって死者の数が異様に減っているんだ。アイスバーグの死亡記録も消えていただろう?

無表情な男: ええ。不在の理由については、何の記録も。

帽子の男: あれと同じ事が他にも多く起きている。つまり、他にも死者が戻って来ていて、あたかも一度も死んでいないような顔をして我々の中に混じっているだろうという事だ。

無表情な男: 彼と同じような者が他にもいるというのですね。

髭面の男: ああ。おそらくは、悪意どころか自覚もなくな。アイスバーグもそうだったろ?

帽子の男: あるいは、そういう振りをしているかだ。

無表情な男: 少なくとも悪意や欺瞞があるようには見受けられませんでしたが。

帽子の男: 私情を挟むのはよせ、ギアーズ。死者は死者だ。

髭面の男: おい、言いすぎだ。まだ敵対的な挙動は何もしていないんだぞ。

帽子の男: だがアノマリーはアノマリーだ。それも正常な人間に紛れ込んでいる。

髭面の男: だとしてもだ。人の身内にそれが起きて、言い方ひとつ選べないような奴じゃあないだろう、お前は。自分の身内でも同じことを言うか?

帽子の男: (笑い声を上げながら帽子の鍔を降ろして表情を隠す)

髭面の男: クレフ?

帽子の男: 自分の身内だったら、ねえ。

帽子の男は突然ショットガンを抜き、髭面の男に向けて撃つ。銃声が響き、撃たれた髭面の男は椅子の上に倒れ込む。帽子の男は銃を降ろして無表情な男の方を見る)

帽子の男: 身内だからこそなんだよ。

無表情な男: (一歩進み出て)クレフ。

帽子の男: (立てた人差し指を唇に当てる)まあ見てな。もうすぐだから。

無表情な男はなおも進み出ようとするが、帽子の男に身振りで制されて引き下がる。沈黙)

(二人が見ている前で髭面の男は顔を上げ、座ったまま交互に二人を見上げる)

髭面の男: 悪い、少しふらっとしたらしい。俺も年か。

帽子の男: 長生きするとは哀しいものだな。席を外して休んでくるといい。私はギアーズとするべき話があるから。

髭面の男: (二人を交互に見て)だが、お前らは……

無表情な男: 私からもお願いします。二人で話す必要があるのです。

髭面の男: わかった。何かあれば呼んでくれ。

無表情な男: ありがとう。

髭面の男は下手から退場する。それを見送ってから二人は空いた椅子に座る。帽子の男は鍔を引き下げたまま顔を片手で覆い、長い溜息をつく)

無表情な男: 念のために確認しておきますが、撃ったのは実弾ですね。

帽子の男: 私が挨拶に空砲を撃つような上品な男に見えるかい?

無表情な男: 見えますよ、陽動などの目的があるなら。

帽子の男: バレてたか。ともかく、今のは実弾だ。正真正銘のな。

無表情な男: そうですか。いきなり実弾を撃ち、それで死なない事を実証したと。

帽子の男: ……判ってる。私も冷静じゃないって事は。

無表情な男: それでもあなたは財団職員で、異常存在は保護されなくてはならない。違いますか。

帽子の男: 違わないさ。だが……見ただろう。死の痕跡を全て消すんだ。そして、自覚がない。何一つだ。

帽子の男: 私だって死んだ側かもしれない。君もそうだ。そうして何も変わらずに死体が過去の再演を延々と繰り返す。こんな最悪な事があるか?

無表情な男: 自身の連続性に疑いを持ったことはなかったのですね。

帽子の男: 何だって? ……君はあるのか。

無表情な男: 情動が薄れつつあった日々には。まだ自分に情動と呼べるものは残っているのか、それともこれは機械がかつての自分を模倣しているにすぎないのか。そんな事をよく考えていました。

帽子の男: だが、君は……思考は連続しているだろう。感情が表出されないだけで。

無表情な男: 自我の欠落がどこで止まるか、当時の私には判断がつかなかった。仮に自我が欠落しきったとして、そのことを自覚して何か思えるだけの何かが残っているかどうかも。

無表情な男: そうなる前に全ての変化を止めると言う事も……私とて、一度も考えなかった訳ではない。

帽子の男: でも君はそうしなかった。

無表情な男: はい。職務が果たせるのであれば、自我の有無など関係ない。そう思おうとしたから。

帽子の男: 実際には中身が生きていようが死んでいようが変わりはないってか。

無表情な男: はい。そこに客観的な違いはないのではないか、と。

帽子の男: でも君は結局のところ、死ぬ事も過去を模倣する事も選ばなかった。かつての自分にしがみつく代わりに現状の、自分に即した「無表情な男」を演ずる事を決めたのだろう。

無表情な男: 情動は消えようとも自我は残っていた。そして残った自我は、そのどちらについても意義を見出さなかった。けれども、それらを否定する意義もまた見いだせないのです。

帽子の男: そうか。

無表情な男: もちろん、死者の蘇生が異常現象である事は事実です。潜在的危険については正しく評価されなくてはならない。ですが、我々の中にも異常性を有するだけの職員は他にもいる。

帽子の男: それはそうだ。我々は知らなくてはならない。……なあ。

無表情な男: 何でしょうか。

帽子の男: どうして君は気づいたんだ。アイスバーグは既に死んでいた筈だと。我々は誰も、死者が戻ってきたとは気づかなかったのに。

無表情な男: (しばらく沈黙してから)遺書が。

帽子の男: 遺書?

無表情な男: 彼が遺した遺書が私のオフィスにあるのです。私個人に宛てたものだったから、どこにも提出せずにときおり見返して、思い返していました。完全に忘れてしまったら、それが最後になるだろうと思ったから。

帽子の男: そうか。遺書か。

無表情な男: ええ。だから、改変を免れたのだと思います。

帽子の男: コンドラキは何も書き遺さなかったらしいからな。

無表情な男: その時間がなかったからですよ。

帽子の男: 何だって?

無表情な男: どこまで思い出しているのですか? 彼の死について。

帽子の男: いや……死者が他にも戻ってきていると気づいて、それから自分の記憶に曖昧な部分がある事に気づいて。自殺したという報せを見た事だけだよ、思い出せたのは。

無表情な男: そういう事でしたか。彼は自殺ではありません。そのような扱いになっただけです。

帽子の男: 君は覚えているのか。

無表情な男: 彼が撃たれたのを見て思い出しました。以前にも同じ光景を見たので。

帽子の男: ……そうか。

無表情な男: 何も遺さずに自殺しようと思ったわけではないのです。そして、何かを書き残したとしてもそれが充分であるとは限らない。

帽子の男: アイスバーグの遺書は充分でもなかったのか?

無表情な男は黙って首を振る)

帽子の男: そうか。難しいものだな。

無表情な男: ええ。

帽子の男: なあ。アイスバーグが戻ってきた時、どう思った?

無表情な男: これは何の異常が働いた結果なのかと思考していました。

帽子の男: そうじゃなく、感情の方だ。

無表情な男: 喜んではならないのだろうと思いました。

帽子の男: 喜んではならない?

無表情な男: 彼自身が自分で選んだ結末だったから。それに、異常は異常だ。それでも……死んでほしくはなかった。

帽子の男: そうだな。

無表情な男: 全貌の把握すら出来ていない異常の発生を喜ぶべきではない。それでも、もう一度言葉を交わせるのなら……少なくとも、せめてきちんと別れを告げられるのであれば、それは悪い事ではないとすら思うのです。

帽子の男: 別れか。

無表情な男: ちゃんと話す機会などなかったでしょう。私も、あなたも。

(沈黙。帽子の男は帽子の鍔を降ろして顔を伏せ、しばらく考え込む素振りを見せる。少しして帽子の男は立ち上がる)

無表情な男: 行かれるのですか。

帽子の男: ああ。やる事が出来た。


第三幕


(第一幕と同じ談話室のセット。髭面の男が一人でソファーに座り、浮かない調子で端末を操作している。上手から帽子の男が一人で入って来る)

髭面の男: よう。話は済んだのか。

帽子の男: ああ、終わったよ。完全にね。

髭面の男: 丁度いい。聞きたい事があったんだ。

帽子の男: 何だい。

髭面の男: 先程アイスバーグと話していたんだ。あいつは自分が居なかった期間について知りたがっていてな。それで答えようとしたんだが、どうにもここ数カ月の記憶が曖昧なんだ。

帽子の男: 年なんじゃないか。

髭面の男: いいや。思い出せないのは、その時俺が何をしていたか、その一点だ。

帽子の男: ああ。

髭面の男: なあ……ここ数カ月、俺は、本当に、ここに居たのか。

帽子の男: (少し沈黙してから笑い声をあげる)君は本当に勘がいいな。

髭面の男: そんな葬式前みたいな顔をして歩いてきたら誰でもわかるさ。その話を俺にするためにきたんだろう?

帽子の男: 嘘吐きもそろそろ引退を考えるべきらしいな。ああ、その通りだよ。君は既に死んでいる筈だと言いに来た。

髭面の男: そうか。

帽子の男: 案外静かに受け入れるんだな。もう少し暴れるかと思っていた。

髭面の男: いや……アイスバーグと話しながら、薄々気づいていたんだ。

帽子の男: 話が速くて何より。

髭面の男: で、どうする。俺を撃つか? それとも収容するか?

帽子の男: 気づいていないかもしれないが、既に君を二回撃った。効果はなかったがね。

髭面の男: (しばらく沈黙して)マジかよ。油断ならねえ奴だ。

帽子の男: よく言われるよ。

髭面の男: まあ、まだ鈍ってないようで安心したさ。(拳銃を取り出し、談話室の机の上に放り投げる)それじゃあ、アノマリーが自害できるかどうか報告書に書き足すときが来たようだな。

帽子の男: おいおい、本当に殊勝だな。君ならここからずっと喜劇を続けるかとも思ったんだが。

髭面の男: 一日限りならそれも悪くはないが、いずれは幕を引かなきゃいけないだろ。それに、収容房は御免だ。

帽子の男: そうか。

髭面の男: それに、俺が死んだって言うんならそれが潮時だったんだろうよ。認めたくはないが、たぶん俺ならその時に一通りの抵抗はやったはずだ。

帽子の男: ああ、その通りだよ。酷い有様だったさ。

髭面の男は満足そうに笑ってから拳銃を手に取る)

髭面の男: なら、同じことを繰り返しても芸がない。……その、何だ。そこの端末に一通りの遺書は入れたから。お元気で。

(舞台が暗転する。銃声。舞台の照明が点いた時、そこには帽子の男だけが立っていて、端末を取り上げている)

帽子の男: 言葉足らずめ。

帽子の男は自分の端末を操作する。少しして、無表情な男が上手から現れる)

帽子の男: ああ、来たか。先程終わったところだ。

無表情な男: 彼は……(誰も座っていないソファーに目を落とす)

帽子の男: 死を受け入れたよ。自覚して引き金を引いて、消えちまった。記憶をちゃんと突き合せれば自分がその時期に存在していたかどうかは自覚できるし、それで幕引きになるらしいな。明日には収束するだろうよ。役者が変わって同じことが起きても、今度はすぐに片付くだろう。 

無表情な男: そうですか。では、彼に会ってきます。

帽子の男: お別れか。

無表情な男: ええ。おやすみと告げてきます。

帽子の男: “良い夢が見られますように”か?

無表情な男: そうですね。

帽子の男: 私もそのくらい言えば良かった。いつだってそういう言葉は終わってから思い出すんだ。

無表情な男: きっと、私も明日そう思う事になります。

帽子の男: 遺書なんて書くもんじゃないな。何を残した所で、気に留める者がいなくなれば無いのと同じなのだし。

無表情な男: あなたは私に向けて書かないように。

帽子の男: お互いにな。

(沈黙)

無表情な男: 一つ、聞こうとしていた事があったのを思い出しました。

帽子の男: 何だい。

無表情な男: 私がアイスバーグが戻ってきたことを部屋に告げた時、あなたたちは映画の話をしていた。壁に拳銃がかかっているのなら撃たれなくてはならないと。

帽子の男: そんな話もしていたな。随分昔のように思うよ。

無表情な男: 仮に、意図があって撃たれないとしたら、それに意味はあるのでしょうか。

帽子の男: (しばらく考え込んで)既に撃ち尽くされた後であるか、とうの昔に使えなくなっていたかだろうな。

無表情な男: なるほど。

帽子の男: 撃つのをやめたくなったかい?

無表情な男: いいえ。ただ、そういう選択肢があるのかどうか気になっただけだから。

帽子の男: わかるよ。

無表情な男: それでは。

帽子の男: ああ。せめて、幾ばくかは前よりもいい別れになることを。きっと、繰り返すためのものじゃあなかったんだろうからな。

無表情な男は軽く一礼して下手へと退場する。舞台の照明が暗くなる。最後にスポットライトが照らされ、一度も言及されることのなかった台座の首飾りを暗がりの中に照らし出す。沈黙のうちにスポットライトは消え、幕が下りる)


カーテンコール


(観客たちは劇場を出て、あの場で真に死して忘れられたものは誰だったのかと話し合おうとした。観客たちは一つの名前を思い浮かべていたが、それを声に出すことは出来ず、それこそが永遠の別れであるのだろうと結論付けた)

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