理想の僕になるために
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 真夜中、姿見の前に座り込む。机の電気スタンドだけを光源に、薄暗く映り込む自分の顔に手を伸ばす。冷ややかと滑らかが指先に触れる。強く押すと鏡面の均衡がたわんで、顔も歪む。そのまま右目から左目に、眉間から唇に、十字を切るように指を動かす。祈る神様もいないし、そもそも神様を信じてはいないのに、神聖なものといえば十字を思い出すのは不思議なことだ。指の油で引かれた白い二本の線を空虚な気分で見つめては、溜息を吐くのが僕の日課になっていた。祈りのように、自慰のように孤独な行為だ。僕は自分の、お世辞にも綺麗と言えない顔を直視して、ぎこちない微笑みを浮かべて、その真上の十字架に祈っている。これはきっと青春の惑いで、明らかな自己陶酔で、清らかな切望だ。

 来世と言うものがあるのならば。
 僕はモナ・リザになりたい。
 

 小学生だった当時、初めて図工の授業で「モナ・リザの微笑」を見て、その微笑みに釘付けになった。凪いだ湖畔のように静かな目、完璧な口角、柔らかそうな肌、溢れる気品。周りが小学生の感性で不気味がる中、僕だけはただ黙って黒板に貼られたモナ・リザを見つめ返していた。やがて科目の名前が図工から美術に変わり、見る絵も増えた。ボッデイチェリ、アルベール・アンカー、ミュシャ。オーフィリア、三女神像、真珠の耳飾りの少女。何枚と名画を見たところで、やはり心を穿ったのはモナ・リザだけだった。その不思議な微笑みが毎日、四六時中、頭から離れないでいた。

 時が経ち、僕は、「モナ・リザになりたい」という願望を抱くようになった。あの美を自分のものにしてしまいたいと思うようになる。しかしそれは声変わりが始まり身体も骨ばみはじめる、第二次性徴を迎えた男の僕にとって、重たい心の枷になった。親に黙ってウィッグやワンピースを買い、夜な夜な身に着けては、理想からかけ離れていく自分の身体を悔やむという傍目には愚かな行為を繰り返した。校内合唱祭で問答無用に男声パートに括られたとき、父親の背丈に自分の背丈が追いつこうとしたとき、どうしようもなくあの美から遠ざかる悲しみを呑んだ。

 そんなふうに歪な青春も、高校生という盛りを迎えた。心の奥底に秘密を隠している分には、家族も友人も僕に対して奇異の目を向けてくることも無かったし、彼女も出来た。結局彼女とは勉強を優先しがちな僕の性質が災いして別れてしまったけれども、いい思い出のひとつになったことは確かだ。なんとなく生きていても、全てが順調だった。
 
 心の底の憧れの残り滓が、ときどきジクジク痛むことを除けば。

 高校二年、二学期の考査期間だった。はやく帰ることのできる貴重な期間なので僕は早々に帰宅し、次の日の科目の最終確認をしていた。それがひと段落した午後六時くらい、僕は気晴らしに散歩に出ることにしたのだ。そのとき母から「洗濯洗剤を買ってきて」とついでを頼まれたので、近所のドラッグストアに向かうことにした。そうして歩く九月の夕暮れ、夕焼けの余熱が残る空を眺めながら、ただ頭を空っぽにする。夏の名残をどこかに隠しながらも寂しい秋を告げる風が僕の頬を撫でて、鮮明な寂寥感に出会う。

そうして辿り着いたドラッグストアで洗濯洗剤を買う。そのときふと思い立って、コスメ売り場を通ってみた。ピンク、金、銀、紫、赤、黒。ローズ、バニラ、シャボン。色彩と芳香に溢れた、乙女と淑女の美と憧れが蛍光灯の白のもとに陳列されている。ほんとうなら手に取って、その色を、その香りを自分のものにしたい。美しい淑女像に近づくための行為をしたい。そう思っても、誰かに見られたら……という感情が先走って、化粧品に手を伸ばすことはなかった。

 しかしそこに、ふと興味を引くものをひとつ、見つけた。

 女性用の洗顔料だった。ピンク色の可愛らしいルックス。吸い寄せられるように手に取ってみた。くるりと裏返してみると、「これ一本ですべすべ美肌に!あなたの理想のフェイスを手に入れよう!」と書かれている。そして自分の頬に触れる……、ニキビだらけの、まあ「青年」の肌だ。油脂も多い、きめも粗い。使ってみたいと思ったけれど、そもそも男性用と女性用では最適な成分配合が違うのだ。戻そう。そう思って棚に戻そうとしたとき。

「アラ、そちらにご興味が……?」

 と若い女の人が僕に話しかけてきた。ピンクのスーツに身を包んだ、すらりと背の高い綺麗な女のひとだった。

「え……」

 僕は少し戸惑って、視線を泳がせてしまう。

「そちらはとてもお勧めですわ。是非ともお試しを」
「いえ、僕、男ですし……」
「男性にも当然対応した成分配合になっておりますのよ。アナタも、なりたい顔があるのでしょう?」

 心の一番深いところを射貫かれたような、気まずさと衝撃が全身に走る。誰にも明かしたことのない僕の憧れが、僕の秘密が、この人には見抜かれている。
 僕の、モナ・リザになりたいという願望が。

「素敵なことですわ、なりたいお顔、なりたい姿があるというのは。そちらは、そんな願望に寄り添ってくれるのです。如何でしょう……?」

 女の人は素敵な微笑みで、その洗顔料を僕に進めた。僕は何と言うか、胸の内を読まれた気味の悪さと、「なりたい顔」になれるという謳い文句への好奇心で揺れていた。そして選び取ったのは、

「……買います」

 手に取るという決断だった。
帰宅後、僕は母に洗濯洗剤を渡した。洗顔料は持っていることがなんとなく気恥ずかしい感じもしたので、一人でこっそりと使うことにした。真夜中に自分の顔を眺めては失望する遊戯を繰り返すように、秘密に。

一日目。なんとなく肌艶がよくなった気がした。ワントーン明るい、白い肌色になった。
二日目は昨日に増して肌の調子が良くなった。

効果が顕著に現れ始めたのは、三日目からだった。
なんとなく顔が、柔和な丸みを帯びてきた。唇はぷっくりと艶が出て、目の形も心なしか整い、睫毛も伸びた。真夜中にのぞき込む鏡の中に映るのは、すこし女性に近づいた顔だった。そして一週間経ったころには、より女性らしい顔立ちに変わっていった。僕にはそれが夢のように嬉しかった。鏡をのぞき込み、微笑みを浮かべてみると、あの憧れたモナ・リザに近づけた気がしたのだ。真夜中、家族が寝静まったころに。部屋の姿見の前でモナ・リザに似せたウィッグを被りワンピースを着てみる。するとそこには、今まで辿り着く事が出来なかった憧れの姿があった。青年の歪なからだの上に女性の優美な表情。これこそ、モナ・リザの魅力である歪さそのもの。まだ少々不完全ではあるが、いままでのいつよりも望んだ姿に近づいた。額縁の中の憧れが、今ここに再現されようとしている。

 僕はおもむろに自分のスマートフォンの電源を入れ、顔をより装飾できる自撮り用のカメラを立ち上げた。画面の中に微笑みを向けて、シャッターを切る。青年の体の上に女性らしい顔のついた、歪な魅力の人物がそこにはいた。僕は不本意にも興奮した……、カメラの助けを借りたという事実こそあれ、こんなに美しいのが僕。僕は心の芯から熱くなった。その熱いうねりに身を任せたまま、手の中の不夜城、Twitterに自撮りを一枚投稿した。誰にも秘密の、好きな女装家を追いかけるためだけのアカウントに。そうすればいずれは誰かに見てもらえる、そう思うだけで満足だった。その満足に浸りながら、その日は眠った。

 次の日、朝目覚めてみるとTwitterに見たことない数の通知が来ている。美しい、と見知らぬ誰かの称賛を浴びていた。僕は人生最高の歓喜を味わった。その歓喜の種類というのも、爽やかな香りのする完全な喜びとは全く違う、秘密の悦と表現するのが似合いそうな喜び。理想の僕が、ワタシがこんなにも認められている。それが画面の中に事実として存在している。

 その日から僕は貰ったお小遣いの殆どを化粧品に注ぎ込むようになった。二十四時間開いているドラッグストアに深夜、こっそり買いに行く習慣がついた。いつの日か憧れた色彩に、今の僕なら手が届く。そうして買い揃えた化粧品できちんとメイクを施し、また画面の中に微笑みを向ける。艶のある肌、紅い唇、涙袋の影、長く伸びた睫毛。一つ一つが愛おしい。粧うことがこんなにも素晴らしいだなんて。僕は心の底から幸福だった。そうしてTwitterにまた、自撮りの写真をアップロードした。今度は直ぐに反応が来て、瞬く間に僕が拡散されてゆく。堪らない。見てもらえることが、理想の美に近づいていくことがこんなに愉しいだなんて。

 そして僕はある日、とうとう女装姿で出歩くことを決意した。綺麗になった僕をいろんな人に見てほしかった。夜の繁華街を、ピンクのパンプスで歩く。ひらひら風に翻る白いフリルのワンピース、黒髪のロングヘア。偽の胸まで用意して、僕は完璧に背の高い女の子だった。
 やはり、ネットでの反応と、リアルでの反応は僕の心に残す幸福感が違う。指先一つで偽装できる感情と、心の底からの感嘆は違うのだ。「あの子可愛いね」そんな言葉を聞くたび、それが自分のものだと思った。今の僕は可愛くないはずがないのだから。嫌いじゃないはずがないのだから。都会の毒々しいネオンサインに晒されて、肌は紫になったり黄緑になったりする。なんとなく生臭い飲食街の風、煙草の匂い、ひしめく雑踏、淫猥な会話。不健全の具現化の中を僕は歩いた。本当に僕は可愛いんだ。シリコンの豊かな胸部も、ほんとうに感覚が通ったようにときめいた。ほんとうならこのまま誰かと触れ合いっこに興じてしまいたい。けれどそれは最後に残った理性が止めた。そのかわり、すれ違う全ての人に目で追われて、どんな妄想をされることも許した。そうされていると思うことが僕の自尊とえもいわれぬ満足感を掻き立てたからだ。
 やっぱり理想を追うことは尊い。それは正の方向にはたらく健全なものだけじゃなくとも。耽美派の小説のワンシーンのような陶酔に爪先から脳天まで浸かることも、人生にあって良い刺激だ。幸せ!幸せ!僕の気持ちの昂りは、深夜の街灯に照らされて影を落としていた。このまま朝なんて来なきゃいい。そうとさえ思った。

 けれども朝はやってくる。
 すべてを白日の元に晒す、残酷な日光を引き連れて。
 それに暴かれる前に、元の姿に戻らなくちゃいけない。僕は白む空の淵を眺めて、魔法が解けたシンデレラの気分になった。

 洗顔料を使い始めて、そろそろ一ヶ月になる。そういえばこれとの出会いが僕の全てを変えた。勧めてくれたお姉さんに心から感謝している。今夜もまた自撮りをしよう。そう思って朝、十月の晴天の中を学校に向かって歩いていた。磨かれたような太陽と遠く高い空も僕の美を褒めてくれているようで、心から気持ちよかった。学業の成績も、心の底に願望を燻らせていた頃よりずっと良いのだ。

 ふと、後ろから声をかけられる。僕の本名を見ず知らずの人に呼ばれて少し慄く。その人は警察をかたった。

「すいません、すでに学校には遅れるって連絡してあるんで、御同行願えますかね?私たちは実はこの洗顔料の被害調査をしているものでして……」

 見せられた画面には、一ヶ月ほど前に僕が買った洗顔料のパッケージが映されていた。

「それ、確かに買いましたけど、何か悪いことがあったんですか?それに……どうして僕がそれを買ったって分かったんでしょうか……」

 不思議に思って、僕は警察をかたる人に問うた。するとその人はまた端末を何度か操作して、

「これ、貴方ですよね?」

 と。
 僕の自撮りの写真を、見せつけた。
 どうして警察が僕の自撮りなんかをマークしているのだろう。どくどくと心臓の深いところが鳴る。何かものすごく悪い予感がした。

「僕……、です、が、何かあったんでしょうか……」
「実はですね、貴方が買った洗顔料は異常なものでして。ええ、顔を特定の形に変形させる効果があるのです。それは行き過ぎると戻れなくなる。貴方の顔も今その状態なんです。貴方はこれから私たちに同行して、聞き取り調査のあと適切な処置を受ければ何も悪いことは起きないのです。さあ、いらしてください」

 異常な、もの。
 僕はその響きに不思議な心当たりを感じた。しかしそんなことはないと信じたい一心で、差し伸べられた手を取らずに一目散に駆け出した。

「あ、待って!」
「嫌です!」

 どこを目指すでもない、ただその場から離れたい一心で。しかし僕を追ってくる彼の足の方が速く、その上応援を呼ばれてしまったので数に押される形で取り囲まれる。それを振り切って逃げ切る勢いは僕に無かった。

「君の家にあった洗顔料はすでに回収させていただきました。お願いします、君がついて来てくれないと大変なんです」
「回収しちゃったんですか……!?嫌です、あれがないと僕は……!!」

 きれいになれない。そう絞り出す。
 絵画のように。淑女のように。
 無意識の涙が頬を伝うのを感じた。

「いいんですよ、そのままのあなたで。あなたの思う憧れを貫くままの貴方で構わないのです。けれど、異常な物に頼らせる訳にはいかないのです」
「そんな……」

 僕はひどく脱力して、その場にへたり込んでしまった。その両脇を抱えられて、車に乗せられる。その車が何処に向かうのかわからないまま、ただ漠然と心に喪失が伸し掛かった。車窓に映る消沈した美女の顔は、それすらアンニュイで美しい気がした。


 そんなことがあったような、無かったような。
 気がついたら家にいた。なにか大切なことをすっきり忘れてしまったような感じがするが。気分が晴れないので、顔を冷たい水で洗おう。そう思って見た鏡には、浮かない青年の顔が写り込んでいた。

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