朝、キッチンでレイチェル・リンデンが料理をしている。今朝のメニューは目玉焼きとベーコンとパンであり、今彼女はベーコンを焼いた油で目玉焼きを焼いている。その手つきは手慣れており、彼女は鼻歌を歌っている──テイラー・スウィフトの「Shake It Off」をノリノリで鼻から再生している。そうして目玉焼きは焼き上がり、これまた無駄の無い手つきでフライパンから白い皿へと目玉焼きをスライドする。
出来立ての目玉焼きとベーコンから湯気がたっているのを見て、彼女は満足げに頷く。そして、テーブルに目玉焼きとベーコンの白い皿を置く。既にテーブルに置かれていたパンの皿もまた白であり、下に引かれているテーブルクロスの花柄と可愛らしくマッチしている。それを見てにこにこした後、彼女は気合いを入れるように息をついて椅子に座る。そして、そのまま目を閉じる。

レイチェルが部屋のドアを開けると、相変わらずそこは埃っぽく散らかっていた。基本的に掃除は無意味なので、ため息をつきながらレイチェルはずかずかと部屋に押し入る。そして、クローゼットを勢い良く開け、舞う埃に咳き込みながら中に座っている女を見下ろす。
「ルイザ、ご飯できたわよ」
レイチェルが言うと、ルイザは彼女を見上げる。ルイザの目の下には深いクマができており、目は多少充血している──少し腫れている。
「また泣いてたの、あんた?今度は何があったのよ」
「な、何でもない……」
「何でもない訳無いでしょ。もう、私には隠し事しないって約束じゃない」
ため息をつき、レイチェルはクローゼットから離れる。ふらふらとルイザが立ち上がり、ベッドに座る。ルイザは顔を拭い、鼻をすすっている。身体が小刻みに震える。
「ごめん、レイチェル……」
「ほら、さっさと吐いちゃいなさい。楽になるわよ」
「……また、ミスをしちゃった。大したことじゃなかったけど、また博士に怒られて……」
うう、とルイザが泣き始める。レイチェルはただ横で彼女を見つめる。
「しょうがないわよ、あんたおっちょこちょいだもの。でもまあ、いつものことだしそんなに気にしなくてもいいのよ。大したもの担当してる訳でもないんだし」
レイチェルが慰めているのか馬鹿にしているのかわからない言葉を投げ掛けるが、それでもルイザには効果があったようで、やがて彼女の呼吸が落ち着いてくる。レイチェルは黙ってそこら辺に落ちていたティッシュ箱を拾って彼女に差し出し、ルイザはそこから3枚取って思い切り鼻をかむ。チーンという割りと大きめの音が静かな部屋に響く。
「……どう?少しは落ち着いた?」
ルイザは黙って頷く。それを見て、レイチェルはほっとため息をつく。
「じゃあ、さっさとご飯食べちゃいなさい。冷めちゃうわよ」
「分かった、き、今日のメニューは?」
「目玉焼きとベーコン。美味しいわよ~」
レイチェルのおちゃらけた言動に、ルイザの口角がほんの少しだけ上がる。彼女はもう一度ティッシュを2枚取り、鼻をかむ。そして、今度はしっかりと立ち上がる。
「……ありがとう。食べてくるね」
「はーい、いってらっしゃい」
レイチェルに見送られながら、ルイザはドアを開けて部屋から出ていく。彼女がドアを閉めるのを見届けてから、レイチェルは部屋の棚に置かれたスピーカーのスイッチを入れる。そこからは鳥の囁きが流れだし、彼女はゆったりとした気分で懐から本を取り出して読み始める。ルイザが食べ終わって戻ってくるまで、レイチェルはずっとその本を読み続けていた。
「ルイザ、またやったのか、お前?」
廊下に2人の男女が立っている。男の方は身長が高く、眉間にシワを寄せながら女を見下ろしている。女の方はただでさえそこまで大きくない身体を更に小さく縮こめ、長い前髪の隙間から男を見上げている。どちらも財団支給の白衣を羽織っているが、この男に比べてこの女はあまり着こなせていない──というより、白衣に見合う研究者らしさが欠けているように見える。
「ご、ごめんなさい、ジョン」
ジョンと呼ばれた方──ジョン・ブラウン博士は口をへの字に曲げる。ルイザと呼ばれた方──ルイザ・リンデン研究員は更に縮こまり、ズレた眼鏡を慌てて元に戻す。
「いいか、前も言ったが、俺達は世界を守るっていう重大な職務に就いてるんだぞ?それなのにお前は、いつもいつもいつもいつも面倒なところでミスをする」
「はい、その、すいません」
「本当に申し訳ないと思うなら、同じミスを繰り返すんじゃない。全く、何度やってもわからない奴だよ」
ため息をつき、ブラウン博士は頭を掻く。こ、怖い……。まるで今回初めて怒られたかのように──実際は既に数えきれないぐらい怒られている為、もう慣れても良いかもしれないが──ルイザは彼を恐れる。離れたところにいる2人の男性研究員達は、ニヤニヤしながらそれを眺めている。
「おいおい、またルイザが叱られてるぜ」
「全く、美人なのに中身がこれじゃなあ」
聞きたくもない声が聞こえ、彼女は更に苦しむ。何で、何で私がこんな目に遭わなきゃ……。
「──おい!聞いてるのか、ルイザ!」
「は、はい!ごめんなさい!」
「ったく……。もういい、さっさと自分の仕事に戻れ、ルイザ」
涙目でブラウン博士を見つめながら、そそくさと彼女は彼の近くから離れる。彼はそれを見送り、再び大きなため息をついてその場を立ち去る──途中、見物していた研究員達の頭にチョップを食らわす。1人は痛がり、1人はそのままヘラヘラ笑い続けていた。
こうしてルイザはズンと落ち込んだ気持ちで宿舎に帰り、自身の部屋に籠ってしまったのである。
チャールズ川を右手に眺めながら、レイチェルは車を走らせている。大きなサングラスとオールバックの長い髪、更には彼女の真っ白な歯が太陽の光を反射して光輝いている。さながら、彼女は凛々しい大女優か何かのようだ。
車内に響くテイラー・スウィフトの名曲「22」のリズムにノリながら、彼女は目的地について思いを巡らせる。ずいぶん久しぶりだけど、流石にずっと行かない訳にもいかないしね……。ポップなメロディーとは裏腹のあまり明るくない感情を抱きつつ、彼女は鼻歌を歌い始める。
エリオット橋近くの急カーブを曲がりきった辺りで、レイチェルは背後から物音がすることに気がついた。気になってバックミラーを見ると、後方座席でデパート空箱がガサゴソと蠢いていた。驚いて目を見開くと同時に、突然彼女は激しい眠気と頭痛に襲われる。ハンドル操作がおぼつかなくなり、車体が左右に揺れ始める。

視界に、車内ともう1つの光景が重なって映る。これは……ルイザの部屋?必死にハンドルを動かしながら、彼女はバックミラーをもう一度見る。ルイザの部屋にあった棚が重なっていて見にくいものの、レイチェルの車の後方座席で、白衣を着た何者かが下方から這い出てきているのが見えた。目はまるでカメレオンのようにぐるぐると動き、口からは泡を吹き、腕はまるで蜘蛛か何かのようにぎこちなく動いていたが、それは紛れもなくサイト-990の研究員──ルイザを笑っていたという男性研究員の1人だった。
「レイ、チ、チェル。レイチェ、ル、リンデン」
壊れたおもちゃのようにぐちゃぐちゃな声で、その男は彼女に呼び掛ける。レイチェルはそれを見て額に冷や汗を流す──恐怖と頭痛に彼女は苦しめられる。
「ど、どうしたの、ブルーノ」
「お、お前、殺す。俺たち、お前に、じ、邪魔された」
ブルーノとされる男が、上向きに身体を捻って前方座席に手を伸ばす。腕の関節はあり得ないほど後ろに曲がっており、ボキという嫌な音が聞こえた。レイチェルはハンドル操作に必死で彼の動きを止めることができない。
やがて、ルイザの部屋の光景にも変化が起きる。部屋に、得体の知れない1体の何かが入ってきたのだ──それは、見たところ巨大なゴキブリだった。
「おい、ダスティ。さっさと済ませろよ」
ゴキブリが口を器用に動かして声を発する。それに呼応するように、レイチェルのすぐ近くから大声が響く。
「わかってるって。でも、こいつ無茶苦茶抵抗する力が強くてさ」
そうして、レイチェルの視界に灰色の塊が映り込む。それは埃の塊のようであり、明らかに意思を持った動きをしていた。2つの光景で起きる奇妙な出来事に、レイチェルは混乱する。
落ち着いて、レイチェル。彼女は自身にそう呼び掛ける。これは恐らく話に聞く「乗っ取り」に違いない。なら、私がやることは1つじゃない。
ゴキブリがどんどん彼女に近づいてくる。視点は徐々に部屋の奥へ近づいていく。引っ張られていく感覚がする。ブルーノが彼女の身体に手を伸ばす。手が届く寸前、彼女は大声でこう叫んだ。
「今よ、ルイザ!そこから出て!」
瞬間、クローゼットからルイザが飛び出す。彼女はすごいスピードで部屋の扉を開けて、外に出ていく。同時に、彼女は部屋のベッドへと倒れ込み、車内の光景は視界から消え去る。
「お、おい!何だお前!」
「こ、こいつ、話に聞く以上に……!」
埃の塊とゴキブリが叫ぶ中、ベッドの上にレイチェルは立つ──正確に言えば、彼女は「足をつけて立っている」訳ではない。その身体は人間のそれではなく、青い車体のバイクだ。彼女がベッドに置いているのは、足ではなくタイヤだ。
「さて、あなた達がどういう存在かは後で訊くとして──」
彼女がエンジンをふかし、2体の怪物達は1歩後退する。
「──私の夢界に無断で入った罪は重いわよ、夢界実体ども」
レイチェル・リンデンもとい、オネイロイの機動部隊ファイ-16の隊員、ロード・ランナーがそう宣告した。
*
自身の部屋──レイチェルと共有で使っている夢界から出てきたルイザは、目が覚めて自身の肉体に戻ってきた。その瞬間、ブルーノの手が彼女の身体に触れ、思わず離れる──ハンドルが左側に回る。車体が左回転し、その勢いでブルーノが体勢を崩す。
「レ、レイチェ、チェル……」
おぞましく蠢く彼の眼球に驚愕しつつ、彼女は自身が置かれている状況に目をやる。瞬時に飲み込めた情報はあまり多くはなかったが、それでも彼女は「車を何とかしなければいけない」という最低限のトゥードゥーを理解した。
彼女はハンドルを握り締め、思いっきり右に回す。その勢いはあまりにも「やりすぎ」で、2人の身体は大きく左に傾き、車体は側壁に接触し火花を散らす。慌てて彼女はハンドルを左に回すが、それによって車体は反対車線に吹っ飛び、大きな振動が走ってブルーノが天井に身体をぶつける。お分かりかと思うが、ルイザはペーパードライバーだった。
「き、きさ、ま」
「ご、ごめんなさい!次はもっと、もっと慎重にやるから!」
*
雄叫びと羽音を上げて、ゴキブリがロード・ランナー目掛けて突っ込んでくる。彼女はアクセルを入れて勢いよく発進し、ゴキブリとすんでですれ違う。同時に、埃の塊に彼女のタックルが炸裂し、大量の埃が舞う。
「こ、この……!」
ゴキブリが再び飛び立とうとするが、瞬間部屋が斜めに大きく伸び、部屋の対角線上にいたゴキブリと彼女は大きく引き離された。再び彼女がエンジンをふかすが、空中に舞っていた埃がまとまって彼女を捕らえる。
「クソバイク女が、捕まえ──」
「粉塵爆発って知ってる?私はそんなに詳しくないけど、あんたもまさに粉塵Dustじゃない」
そう言うと同時に、彼女の排気パイプから炎が上がる。舞う埃1つ1つに連鎖的に着火していき、やがて巨大な爆発が起こる。後方で響く埃の悲鳴を聞きながら、彼女は爆風に乗ってゴキブリ目掛けてタックルを決める。ゴキブリがうめき声を上げ、奴の中から得体の知れない透明な液体が流れ出てくる。
「うわ、気持ち悪」
そう良いながら彼女はアクセルを入れ、当然のようにバックする。ゴキブリの腹にタイヤ痕がつき、ゴキブリが倒れ込む。部屋に香ばしい匂いが充満していく。
「何?もう終わ──」
瞬間、ゴキブリの触角が急速に伸びてロード・ランナーのハンドルバーを掴む。同時に、炎の中から黒い塊が伸びて彼女のタイヤを固定する。
「もう逃げられないぞ、貴様!」
2体の夢界実体が、彼女を睨み付ける。
*
「お、おま、ちゃんと、運転、し──」
再びルイザがハンドルを操作し、ブルーノが車内を転がる。目の前から走ってきた赤い車のブレーキ音が響く中、間一髪衝突せずに元の車線に戻ってくる。
「ひー!危なかった……!」
安心したのも束の間、ブルーノがようやくルイザの手を掴む。その関節は逆方向に折れ曲がっており、彼は口に泡を吹いている。
「お前、と、止まれ!」
「キャーッ!」
ルイザが悲鳴を上げると同時に、ブルーノに掴まれていない方の腕でハンドルを思いっきり右に回す。再び側壁に車体が接触し始め、車内に強い振動が走る。思わずブルーノはまた吹っ飛んで、今度はガラスに思いっきり額をぶつける。そのダメージが決定打になったのか、ブルーノはそのまま倒れ込んでしまう。
「嫌!嫌ーッ!」
そんなことなどつゆも知らず、彼女は1人でパニックに陥り、ハンドルを矢鱈に回して車線を行ったり来たりし続けている。その度に何度も車と接触しそうになるが、何故か間一髪避け続けることに成功している──何回もかすってはいるが、ギリギリの瀬戸際で回避している。そうして、彼女はスピード超過など気にする余裕も無く、ふらふらと90号線上を走っていった。
*
「あなた達、夢界において最も基本的なことすら知らないのね?」
2体の夢界実体に縛られながら、ロード・ランナーは余裕そうな笑い声をこぼす。2体は彼女に驚きつつも、より強く彼女を掴む。しかし──
「──夢界ではね、夢界の持ち主が一番強いのよ」
突如部屋の天井が高くなったかと思うと、巨大化したクローゼットが倒れてくる。2体は叫び声を上げて逃げようとするが、彼女を掴む触角や埃は全く離れる素振りを見せない。そうして、巨大なクローゼットは3人を押し潰し──クローゼットの背に大きな穴を開けて、青いバイクが出てくる。
「……全く、今日は災難だったわ」
ふうとため息をついて、ロード・ランナーはタイヤを器用に使って部屋のドアを開ける。今頃あの子大変なことになってるのかしらね……。少し暗い気持ちになりつつも、彼女はドアから部屋の外に呼び掛ける。
「ルイザ、そろそろ戻っておいで。……ルイザ?ルイザー?」
「毎回毎回ありがとね、兄なんかの為に」
「良いんですよ、アメリア叔母さん」
ダイニングテーブルを挟んで、レイチェルとアメリア・オーティスが座っている。彼女はレイチェルの父の妹に当たり、彼の葬儀を行った女性である。アメリアが紅茶を飲みながら、レイチェルに話しかける。
「それにしても、兄にあんなことをされたのに、よく墓参りに付き合ってくれるわね。もう二度と会いたくないでしょうに」
「そんな、叔母さんだって同じじゃないですか。それなのに葬儀をちゃんとやってくれて、こうしてお墓参りまでしてくれて。手伝わないわけにはいきませんよ」
レイチェルも紅茶を一口飲む。爽やかな香りが鼻に抜け、身体がリラックスしていく。あまり明るい話題ではないが、自然と口角が緩む。
「まあ、そうねえ。あんなでも、一応私の家族だったわけだから。それにしても、兄を轢いたあのお爺さん、元気にしてると良いけど」
「ああ、あの人なら時々手紙を送ってきますよ。何だかんだお孫さん達に助けてもらいながら、幸せに暮らしてるそうです」
「ああ、そうなの。良かったわねえ」
ふふ、とアメリアが微笑む。そうして幾らか談笑した後、レイチェルの電話が鳴る。彼女が電話を取ると、ブラウン博士からの連絡が入る。
「もしもし、レイチェル。ブルーノの件だが、ベニントン博士がそっちに向かっている。そろそろ着くそうだから、出迎えてやってくれ」
「了解です」
レイチェルは電話を切り、立ち上がる。
「すいません、急な仕事が入っちゃって」
「あら、そう。忙しいって言ってたものね、仕方ないわ。いってらっしゃい。気をつけてね」
「ありがとうございます。じゃあ、また今度遊びに来ますね、叔母さん」
「ええ、また美味しい紅茶を入れておくわよ」
アメリアの微笑みに見送られながら、レイチェルは玄関を出て自分の車の前に立つ──塗装は剥げ、車体はべこべこになり、後方座席ではボロボロになったブルーノが伸びている。既に彼に取りついた夢界実体もレイチェルの夢界に拘束されている──ルイザは夢界の隅で怯えながら奴らを見つめている。しかし、それにしても色々なものが痛々しい。彼女は今日何度目かわからないため息をついて、ベニントン博士の到着を待った。
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