時化
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1948年 海軍中将 左近允尚正 辞世の句

絞首台何のその
敵を見て立つ艦橋ぞ


 三国同盟の締結された1940年、汐見少佐は強く歯噛みをした。
 彼は海相の及川などよりも所謂海軍三羽烏に心酔する性質の軍人で、対米開戦に真向から反対する海軍左派だった。さらに三国同盟の決まった今、アメリカとの戦争は避けられないだろうと推察できる程には聡明な人間であった。
 独逸のために火中の栗を拾うべきではない、そんな言葉が頭を占めている。

 前々から彼は判官会など言う会に出入りをしていた。それは政治的な結社とかそんなものではなく、同志が集まって酒をやりながら、政治の行く末や陸軍の何某に文句をつけるような類のものだ。
 彼はそこで、陛下が戦争を回避できるよう試みていた、という話を聞いた。彼の開戦の反対には ― 日本の海軍は米英を相手にするよう出来ていない、独伊であれば問題はないだろう、といった海軍の論理もあったが ― 国民を危険に晒すまいとした陛下の心優しさこそ一番の理由であった。

 米内大将が組閣された際には陛下の為に最大限努力されたのだろう、と一六会に顔を出した事があるわけでもない彼は夢想し、そこで思考は陸軍に移った。米内内閣を瓦解させたのも陸軍、戦争を始めた内閣の総理も陸軍だ。陛下の御意思に反して尚戦争に踏み切るとは東條め、帝国軍人の風上にも置けぬ、と憤慨した。

 軍人は大命を下されれば戦うのみだ。兵学校で扱かれていなければ、彼は重い溜息をきっと吐いていただろうと思われた。しかしそれは鳩尾の奥にぐるぐると溜まり、結局その時に出てくることはなかった。


 汐見少佐の職務は輸送艦の航海長だった。陸軍の奴らを乗っけるのは気に食わぬところもあったが、最終的に戦を決するのが陸戦兵力だということに異を唱えるわけでもなかった。
 満州事変以来、国民の間では"陸軍と比べて海軍は役立たずだ"というのが専らの評判となっているようだった。町の人から海軍の弱虫、と面罵されたこともある。
 彼はそれにも煩悶していたが、それでも皇国の為陛下の為、陸軍を輸送するだけの職務に全うする程には忠実な軍人だった。であるからか、彼の元には新たな職務が持ち込まれることとなった。

 大日本陸軍特別医療部隊、曰く負号部隊
 その一部構成員を輸送するための艦に乗れということであった。

 上司の言うことであれば一二もなく従ったが、負号部隊とは聞き慣れない部隊名だ。必要以上の事を知る必要は無い、汐見少佐はそう自らを押し留めようとしたが ― 負号部隊幾人かを率いて艦に乗った吉井少佐が、彼に声を掛けたのはその船内でのことだった。

「ヤア良い乗り心地じゃないか。汐見少佐だったかね? 君、この船の着く先に行った事はあるかな」

 この二人の男と、それぞれの部下十数人が乗れば十分なほど、特務輸送艦・立神丸は小さい船だった。向かう先は前述した通り陸軍が華々しい功績を残した満州で、汐見も何度か兵を運んだことがある。

「ええ、最初から最後まで船に乗ったままでしたが。国境警備に就かれるんです?」
「いいや。哈爾浜ハルビンに行くのさ」
「なら鉄道関係で?」
「それも違う」

 自分との問答を、というより自分が間違える様子を楽しんでいるような相手に対し汐見少佐は愈々眉を顰めた。蛇を思い出す目付きからか吉井少佐の風体は不快感より不気味さを感じさせるもので、やや視線を逸らす。その後で、目を逸らした自身に汐見少佐は情けなさを覚えた。
 間も無く吉井少佐は熱に浮かされたような高揚を顔に滲ませ、何やら紙束を懐から取り出した。

「何です?」
「我等負号部隊の職務だよ。皇国を勝利に導く」

 言われるがままに紙束へ視線を落とす。小難しい専門用語や表が散見される堅苦しい文書に添付された写真は、汐見少佐の心臓を跳ねさせるに十分であった。

 満州生まれらしい容貌の男だった。顔色は酷く黒ずみ、頸動脈から身体にメスが引かれて開かれている。肋骨が鋸でだろうか引き切られて内臓が露出しており、臍より下は乱雑に切り落とされて見当たらない。
 汐見少佐にとって何より恐ろしいのは、その男の眼に生命らしい光が感ぜられる事だった。歯を食い縛り、カメラマン ― 汐見少佐には自分を見ているように思えた ― を鬼の形相で睨みつけている。
 これは何だ、と最初に思った。作り物かと次に思って、そんな訳がないと断じた。文書を読む振りをして、無機質な船室の床に目を落とす。

「これは」声は震えた。情けないと思う間は今度こそ無かった。「……哈爾浜で?」
「そうだ。素晴らしい成果とは思わないかね、君? その研究がモット進んだなら――」

 吉井少佐はそこで言葉を切った。
 文書を覗き込む表情は喜色と優越感に満ちており、愛おしいなにか ― 否それよりかは、苦労して作り上げた傑作を見る文豪のような目を男の写真に注いでいた。


 職務を終えて本土に戻っても、汐見少佐は尚くろぐろとした心持ちでいた。
 あれを心優しい陛下が知ったらどう思われるだろうか? 米内大将はこの黙殺を軽蔑するだろうか。数か月もすればあの吉井少佐を本土へ戻す為にまた艦に相乗りすることになるのだ……頭が休まる事は無かった。

 奇しくもその日は判官会の日であった。任務で暫く空けていたが、そこが心休まる場であることに間違いは無かった。
 このことは言わざるべきだ、と汐見少佐はボンヤリ思った。彼は吉井少佐から聞いた事を己の失敗のように感じていて、そして彼は例えばコッソリ花瓶を割った時、活けられた花ごと瓶を捨てて隠してしまう性質の人間であった。

 今日は一杯やろう。そして明日からはまた国へ御奉仕するのだ。おれ如きが何を考える必要もないじゃないか。
 彼はそう自らに無理やり言い聞かせ、判官会会場の扉を開いた。戦争で勝鬨を上げた同僚たちが、御国の為に共に生きる同志たちが頭を安らげてくれる、筈だった。




「ああ、吉井少佐。丁度探していた所です」

 と汐見少佐は言った。吉井少佐は内心、この愚直な男を見下していた。
 海軍の連中で継戦に否定的な奴が多いのは前からだ。最近では殊に破滅的な雰囲気が漂っているのも海軍の奴の特徴で、それが一等気に食わなかった。
 特別攻撃なんていう名前をして人間を爆弾にするぐらいなら、もっと御国に役立つ方法があるはずだと彼は思えてならなかった。近頃の彼には大体の人間が研究材料に見えていた。

 数か月振りに再会した汐見少佐は、そういった海軍の雰囲気が更に濃くなったように見えた。以前この艦で乗り合わせた時には実験体への怯えや虚勢こそあれ、これ程生気を失ってはいなかったはずだった。
 近頃の海軍は負けが込んでいると満州で小耳に挟んだのを思い出し、ああそういうことか情けの無い奴らだ、と鼻から笑いが抜けそうになる。なればこそ陸軍に縋れば良いものを! 吉井少佐は負号部隊の研究如何が戦争の勝敗を分けるのだ、と確信してさえいた。

「そうだったか、これは失敬。相変わらず良い乗り心地だね」
「お気遣いなく。今日は難しい航海です」

 下らない世辞に汐見少佐は微笑んでみせ、その妙な余裕がまた吉井少佐には気に入らず、同時に違和感を感じさせた。
 汐見少佐の顔は憔悴しきっているように見受けられたが、空気のみは温和を保っていた。それを指摘する前に、汐見少佐の声が割って入る。

「平房区からのお帰りでしたね。如何でしたか、前に見して頂いた研究は」

 思いもよらぬ事を聞かれ、吉井少佐の頭には一瞬空白が生まれた。そこに、哈爾浜は平房区の研究施設で散々見た実験体のイメージが浮かんでくる。
 藻掻き苦しむもの、屈辱に唇を噛んで堪えるもの、絶望に泣き叫ぶもの、大よそそんなものであった。"計画"の進展は微々たるものだったが、生物兵器の開発には相応の成果がみられた ― 満足感に口端が上がる。
 懐にある研究成果を本土に持ち帰れば、我等の研究はさらに ― 飛躍的に進むだろう。色の良い返事を返そうとして、そこで、氷柱を差し込まれるような感覚が吉井少佐の頭に走った。

「平房区? そこまでは……」寸で言葉を噤む。「何処で知った?」

 相変わらず汐見少佐は薄笑いを湛えたままでいて、それが吉井少佐を苛立たせた。
 仮にも同じ国の組織なのだから知られた事は問題ではない、陸軍が知らせていない情報を海軍の奴が握っているというのが何より気に食わない ― そう彼は思えてならず、全てを把握している、という厭らしい情報の出し方も相まって鋭く汐見少佐を睨む。

「判官会」

 汐見少佐はそこで区切り、吉井少佐の様子を楽しむように目を細めた。

「という、まあ海軍内での会合がありまして。色々な奴が入っていて、色々な情報を共有するのですよ……あのような研究を、他にも随分なさっていたようだ」

 負号部隊と判の押された紙束が汐見少佐の懐から幾つも取り出され、音を立てて床へ落ちた。どれも頓挫した計画か、失敗作の報告書のどちらかだった。研究施設で失敗作の処理をどうしたか吉井少佐は思い返そうとする。するが、大体を部下に一任していてすべては曖昧だった。
 上手くいったものばかり記録していて、それ以外は思い当たらない。

「勝手ながら、貴方方の捨てた実験体を私ども判官会で回収させて頂いたのです。皆酷い有様だった。こんなものは、陛下の望むものではない」
「皇国の勝利の為だ」吉井少佐はそこだけ即座に言い返した。「何の問題がある?」

 汐見少佐は眉をひそめた。悲しげな眼であるように見えた。

「勝利は絶望的です。それに結果の伴わない研究に、人間の命を浪費する事は無い。あまりに彼らが可哀想じゃありませんか」
「腑抜けが!」吉井少佐は激高した。「絶望的、結果の伴わない? 貴様、皇国を愚弄するか」

 滅相も無い、と汐見少佐はあくまで首を振った。吉井少佐の苛立ちは収まらなかった。思い返せば支那事変を泥沼化させた海南島攻略を提案したのは海軍の米内で、しかもその理由は海南島や上海に孤立した海軍部隊の救出の為だった。
 思えばそれを初めて聞いた時から吉井少佐は苛立っていた。海軍の何奴かがイギリスの漂流者を救助し、オランダの病院艦に引き渡したなどという話を耳に挟んだ時もそうだ。反吐が出る。これは戦争なのだ、彼は再度恫喝した。

「――可哀想? 皇国の為に死ぬのだぞ。これ以上があるか」
「皇国の為に死ぬのなら、華やかに散らせてやるべきだったのだ」

 吉井少佐は顔を上げて、そこで気付いた。汐見少佐の顔からは一切の色が消えていた。ジッと見返して来る無機質な目に、彼は見たことも無い深海を見た。
 そこで船内に爆発音が響いた。吉井少佐は何事だ、と取り繕うように叫ぶ。

「話し合ったのです。我らは和平を目指した。平和の道を望んだ、御国の為に……こんなものがあってはいずれも最早不可能だ!」

 汐見少佐は怒鳴りつけ、吉井少佐は耳に嫌な音を聴いた。グチャリグチャリと肉の潰れる音は、哈爾浜での職務中によく聴いていた音だった。


 須賀少将は判官会の窓を見遣った。空には暗雲が立ち込めていて、彼はああ良い天気だ、と思った。まるで海の底のような。
 席を立って肘の低い敬礼をする。列席した軍人達が一斉に倣うのを見て、須賀少将は声を張り上げた。

「失敗は相応の犠牲を以て取り戻されなければならない! 陛下の為、我等がその犠牲となる事を厭う者はいるか!」

 列席者は一斉に歓声を上げ、否、否、否、と口々に叫ぶ。
 机上には負号部隊が失敗とした計画や被検体の資料、幾つもバツの付けられた太平洋の地図、それから判官会独自の研究結果である紙束が広がっている。
 それが歪むのも構わず、須賀少将はテエブルに拳を叩きつけた。

「汐見少佐が本日、負号部隊幾名、負號七三一番から七四三番と共に玉砕する! 陸軍の失策を陛下が御覧にならぬよう我等判官会が隠蔽し、その失敗を取り戻すのだ。 心優しき陛下に、哀れなる国民に、何も悟られぬように!」

 須賀少将の眼からは大粒の涙がいくつも零れ出ていた。室内の熱気は更に高まり、暗くぎらついた。壁に貼り付いた一航戦の写真が手招くように彼らには感じられていた。和平の為に軍部を無くし、全ての失敗と心中する、それが判官会の今や歪み切った目的であった。
 
「武人たるはこの行進に続け! 失敗せし我等軍部は共に滅びの道を往き、国民の盾となり、そうして皇国は繁栄する! 我等が沈めばこそ日ノ本は再び昇り、天に輝くだろう!」


 狭い間口を潜り抜けて汐見少佐の背後から現れたのは、二メートル程の巨大な肉塊だった。見覚えのある黒ずんだ顔が幾つも埋もれて此方を見下ろしていて、血で染まった生白い脚が十数本も伸びている。饐えた生臭さがいつの間にか充満し、なり損ないの集合体が船室の一角を埋め尽くつつあった。

「見覚えがありましょう、負号部隊が廃棄したトキジク計画の失敗作です。判官会で修復しました」
「修復だと」吉井少佐は耳を疑った。「これがか」
「ええ。たとえ彼らが臣民でなくとも、誇りをもって死ねるよう助力してやるのが帝国軍人の務めですから」

 その間にも肉塊は船内を侵食し、床はぐらぐらと揺れていた。吉井少佐はそれにも不安感を覚えていたが、寧ろ表情に正義感と恍惚を満たして真っ直ぐ見据えてくる汐見少佐に後退りした。この男はこのように退廃した色の男だっただろうか、とどこかうわの空で考える。

「……しかしこんな物を放置していては、陛下にも米内大将にも顔向けできない。償いをしなければならない。その為に沈むのです、貴方も、私も、これも、この船も」

 破綻している、と吉井少佐は先ず思い当たった。この場の現実感を喪わせているのは白い蛆虫のような失敗作がズルズルと這う音で、汐見少佐の現実感を喪わせていたのは続く敗戦と己等陸軍の狂気だった。轟音と共に船が傾き、肉塊は汐見少佐に迫っている。吉井少佐はふと、肉塊の脚に血染めの階級章が埋まっている事に気付いた。陸軍のも海軍のも、何方のもである。

「正気か貴様。この国の大事に、纏めて心中する気か」
「国の大事だからこそ心中するのです。帝国軍人として貴方も潔く死ぬべきだ ― 私たちは滅び、皇国と陛下は続いてゆく!」

 静かな船内に汐見少佐は咆哮した。掠れた声が空気を震わせて反響し、その口端は大きく吊り上がって喜色に溢れた。

「軍部の汚点と共に玉砕する、きっと陛下もお褒め下さる! 万歳!」

 笑い声を遮るように肉塊が汐見少佐を踏み貫く。自分にも近付くそれに後退りしながら、吉井少佐はぼんやりと考えた。
 いつしか祖国には狂気と硝煙の臭いとが充満していた。箍を外したのは陸軍、そうして狂っていったのが海軍だった。
 それでも共通するところは、嗚呼、天皇陛下万歳!どうか皇国がこの先も栄えんことを。 あれら海軍が火の玉となり、我ら陸軍が首に縄を巻くことになろうと、御健在であれ天皇陛下!

 そこで吉井少佐の思考は途切れた。
 失敗作は船内の生命を踏み潰し、行き場所を探した ― やがて全てはあぶくを浮かべながら、海の底深く沈んでいった。




GoI-8165

判官会


概要: 判官会は1930年頃、大日本帝国海軍の一部軍人によって立ち上げられた組織です。元は英米協調路線を主とする左派の単なる会合でしたが、太平洋戦争においての続く敗戦、大日本帝国陸軍特別医療部隊(通称"負号部隊")の圧迫によりその組織内理念は歪み、結果的に判官会は極めて破滅的な組織へと変貌します。

判官会の目線は常に過去へと向いており、成功する事ではなく失敗を繕う事に執心しています。また自己犠牲に並ならぬ関心を持っており、構成員は自身の命を投げ出すことに一分の躊躇も見られません。
その一方で一般市民は出来る限り巻き込まずに行動しようとし、構成員の不慮の危機には損得を無視して救出を試みる様子も確認されています。

得てして判官会の目的が達成される確率はごく低いものですが、その失敗には常に大規模の損失が伴います。またこの際の失敗にも判官会は奮起し、新たな失敗を取り繕おうとするため、行動の規模は広がり続けています。

その技術は"負号部隊"の失敗作を独自に研究したものが主であり、一回限りの歪なものが多く見受けられます。現代ではかつての判官会構成員の子孫がこれを受け継ぎ、"隠蔽"と"玉砕"を完遂させようとしているものと推測されます。

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