賽の河原に溺れて褪めて
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 最初のはっきりとした記憶は、男の悲しそうな顔だった。
 それなりに広い屋敷で、その男は独りぼっちで暮らしていた。屋敷に他に人がいなかったわけではない。食い物を持っている者、布で床を擦っている者、何をしているのかわからない者。屋敷の廊下は多くの行き交う足々で賑わっていた。だけどもその男は、おそらくはこの屋敷の主人だというのに、わざわざそれらから身を遠ざけて、庭の見える縁側にひっそりと隠れているようだった。

 私も同じく縁側の住人であったが、それはそこが丁度よい陽だまりであったからにすぎない。私にとって、屋敷の中も縁側も、隔てられたものではなかった。腹がすけば屋敷の中に潜り込んで、足の合間をするりするりと抜け、暇そうな人間に向かって控えめに鳴いてやる。するとしばらくすれば、ごちそうが下りてくる。腹を満たしたらまた縁側に戻って、男の近くで丸まってやる。男は私を撫でたが、他の屋敷の人間と違って、何かを語りかけることはなかった。

 正直なところ、屋敷での記憶はおぼろげで、光景や音、臭いや味を何となく、ばらばらに覚えているだけだ。明瞭な記憶が始まるのは、私が化けた日。

 私を照らしていた陽光が雲に遮られる。寝床を移動しようと体を起こすと、尻に違和感があった。というよりも、知らない感覚があった。起き上がって伸びをすると、私は自然と二つの後ろ足で立ち上がっていた。自分の状況もよく掴めないまま、私は座ったままこくりこくりと眠っている男の名を呼んだ。できるはずのない発音で、知らないはずなのにやたらと親しみのある声が響いた。
 男はそっと目を開けた。そうして、悲しげに首を傾げた。不思議と彼に驚いた様子はなく、立ち上がって私をひょいと抱き上げて、鏡の前に連れて行った。
 そこで、私は尻の先から続く不思議な感覚の正体を知った。私は二又の尾を持つ、黒い化け猫になっていた。

 後から聞くところによると、猫が化けるというのは当時よく知られた噂だったらしい。私は何の因果か、その一例となったようだった。
 男はうまく、屋敷の人間から私を隠した。化け猫というのは人を騙し、ときに食らうという。猫に限らず、化けものというのはそういうものらしかった。もちろん私は人を騙して食らおうとなど思いもしなかったが、それでも化けたことが屋敷の人間に知られれば、ろくな目には遭わなかっただろう。
 男は私が言葉を得たというのに、結局私に話しかけるということはなかった。そうしてそのうち、男は死んだ。不思議と死ぬときは縁側でなく、屋敷の中で死んでいった。私はもはや屋敷の中に入ることはできなかったから、男の死に顔は知らない。屋敷に居る意味もなくなったので、私はそこを離れて、次の住処を探した。

 かつてのように腹がすくことはなくなり、放浪には困らなかった。それに、江戸の街には私に似た化けものが溢れていた。そういった連中は、この街の隙間に身を寄せるため、巧妙に自らを隠す術を心得ていた。私も彼らに倣ってそういった術を学び、やがて新たな尾を隠してただの猫の真似をすることもできるようになった。そうして私は普通の「けもの」として、適当な人家を渡り歩くようになった。
 目的もなく放浪と停滞を続けて、数十年が経ったころ、私は自分が老いないということに気が付いた。そうなると目下の課題は、押し寄せる退屈であった。かつてのように寝て過ごすのもよいが、どうしてかそれでは落ち着かない。芸を覚えて見世物になってみたこともあったが、すぐに退屈になってしまって逃げだした。

 そうやって無為に日々を過ごしているうちに、江戸は東京へと名を変え、激しい火に包まれて多くの人が死に、そうかと思えば人が突然増えて、街並みも酷く変わっていった。かつて大勢いた化けもの仲間はいつしか身を潜め、今ではとんと見かけなくなってしまった。
 彼らがどうなったのか気がかりだったが、最近になってやっとその答えを知った。彼らは消えたのだ。
 そもそも私のような化けものは、人が想像したものが形になったものだという。だから、火事にあおうが車に轢かれようが滅多に死ぬことなどないのだが、人が私たちを忘れたとき、私たちが存在意義を失ったときは、私たちは最初からいなかったかのように死体も残さず消えてしまうのだという。化けものにも死はあったらしい。

 私はどうにか自分の存在を記憶に残すことができないかと、夜な夜な街に繰り出していた。しかし人々は夜の闇を照らし、電話や光る板で孤独を埋めて、私たちに入り込む隙間を与えない。店や張り紙には空想の、だけども化けものではない何かが描かれている。私は幸運にも今まで消えてこなかったが、それも時間の問題だろう。
 死。今更になってその言葉が現実感と重みをもつ。自分が死ぬことなんて考えたことがなかった。急に漫然とした不安と焦燥が襲い掛かってくる。私も、死ぬのか。
 だからといって、何ができるというのだろうか。いっそ隠れることなど忘れて、公園に行って二本の尾を見せびらかし、人の言葉を大声で話してやろうか。そういうわけにはいかないことを、私は知っている。そういう派手な動きをする者は今までにも居たには居たが、そういう者は決まってすぐにどこかへ消えていった。いつの時代も私たちをどうにかしようとする人々が居て、私たちはそういう者に許しを請うように、ひっそりと生きていかねばならなかった。化けものが闊歩するのはあくまで夢物語の話であり、そうであるからこそ価値があった。

 結局考えあぐねたまま、住処の廃墟へ帰る。途中で通りかかった公園では、猫たちが知性を感じられない甘ったるい声で鳴いて、老い先短い老婆たちから飯を巻き上げていた。私もかつてそうだったかと思うと、うっすらと寒気を感じる。
 化けものには化けものとしての誇りがある。私たちには意思があり、ただ衝動のままに動くけものとは違うのだと。
 手持ち無沙汰な怒りと焦燥感とを誤魔化すように、打ち棄てられたソファの上に丸まって、私は眠りに落ちていった。


◇◇◇


「やあ、化け猫、化け猫」

 欠伸をすると、目の前には大きな一つ目。そのまん丸いものを引っ搔いてやろうと爪を出し、手を伸ばす。
 ややくたびれた化け唐笠は、ぐっとのけぞって、持ち手の代わりについた足で、とっとっとっ、と後ろへ跳ねた。横に長く広がった口の端を、不服そうに下げている。

「おいおい、やめろよ、やめろ」
「何しに来たんだい。私は見ての通り暇じゃないのよ」
「寝るのは猫の本分ってかい?」
「私をそこら辺のけものと一緒にするんじゃないよ」

 唐笠はこの町に残った数少ない化けもの連中の一つで、もう古い付き合いだった。とはいっても、最後に会ったのは、もう十年以上前だったか。

「あんたはとっくに消えたものだと思っていたけどね」
「まあ、半分消えかけみたいなもんさ。ほれ、こことか」

 彼は骨を器用に動かして、体の一部を突き出した。紅の張り紙が、ところどころ破れている。全体的な古臭さは昔からだったが、今までは破れるということはなかったはずだ。

「目口と足以外は普通の地味な唐笠だから、今まで残っただけでも御の字だよ。手でも生えていれば映えたのかもしれないけれど、あんな邪魔くさいもんはいらないね」
「じゃあ今日は別れの挨拶かい」
「いやいや、その程度の根性じゃあ江戸の大火事で骨だけになってるよ。今日は紹介したい人がいてね」

 私が何かを言う前に、唐笠はぴょんぴょんと廃墟の外まで跳ねていって、すぐに見慣れない人間を連れて戻ってきた。
 それは、二十かそこらの若い男だった。洒落た帽子を被っている。肉付きはよくないが、煮干しというより青魚のような、控えめに頑健な生命だった。
 男は私の前に来ると、丁寧に帽子を取って頭を下げた。明るい茶に染められた髪がさらりと揺れる。

「おはようございます。そして初めまして。カイサキといいます」

 私も立ち上がって、隠していた二本目の尾をゆらりと揺らし、恭しく礼を返す。

「これはこれはご丁寧に。ご存知かと思いますが、化け猫と申します」
「お名前を伺っても?」
「お気になさらず。名と言ってもそこらにあるようなものですから、ただ化け猫とお呼びくださいな」

 笠がちょちょいと寄ってきて、得意げに小さく広がる。

「この人はね、俺たちみたいなのを助けるために活動をしてくれているのさ」
「私たちを助ける?」

 青年が頷いて続けるには、彼は映像作家で、私たちを題材にした作品を作りたいという。そうすることで、私たちが忘れられることを防ごうというらしい。それに加えて、好きなイメージを付け加えることで、自己実現とやらの手助けをしてくれるという。
 そんなことで、本当に私たちが消えることを防げるのだろうか。かつてのものが忘れられるのは、人の世の一つの道理だ。それを、たった一人の若い男が覆すことができるとは、正直、簡単に信じられるものではない。

「化け猫」

 私の疑いを察しでもしたのか、唐笠が改まってぴしっと閉じる。

「お前にはきっとまだ時間があると思う。でも、俺はきっともうすぐなんだ。だからこそわかる。俺はこのまま消えたくない。こんなボロボロになって、幸せにもなれないまま終わりたくないんだ」

 唐笠の大きな目が真っ直ぐに私を見つめる。それに一瞬ぞくりとして尾の付け根の毛が逆立つ。ああ、そんな目もできたんだね、お前さん。いつもへらへらと舌を出しているだけじゃないのかい。

「ああ、唐笠、消えたくないってのはわかるよ。でも幸せになりたいってどういうことだい」
「ずっとあるんだ、どうしても満たされない感覚が。お前だってそうじゃないのか」

 私は答えなかった。だけども、唐笠にはそれで十分なようであった。

「そのときにこの人が現れたんだ。もともと俺の知り合いが世話になっていたらしいし、信頼もできる」

 青年は微笑んで屈み、私に目線を合わせる。目の前にいるのが数百年の化けものだというのに、彼は物怖じもしていないようだった。

「最近、笑えることはありましたか」
「笑えること──」

 最近のことを思いだそうとしても、もう同じような退屈な光景ばかりが浮かんでくる。仲間も減って、笑うことなど久しくなかった。

「もう、不幸に甘んじるのはやめましょう。あなたたちは消えなくてもいいし、幸せになれるんです。僕が、そのお手伝いをしますから」

 青年の目はまっすぐで、夏の肉球を焼くアスファルトのように、ぎらぎらと熱していた。彼の作戦が上手くいくかは未だ半信半疑であったが、それでも彼が本気であるということは疑いようもなかった。

「わかりました。お断りする理由もありませんし、そのお話、是非詳しく聞かせてくださいな」

 深くお辞儀をする私に、ええ、と青年は快活に声を張って、にかりと笑った。唐笠も満足げに、ぱたぱたと小さく開閉を繰り返している。長いこと私に付きまとっていた焦燥が、ほんのわずかに軽くなったような気がした。


◇◇◇


 青年が私を案内したのは、今にしては珍しい木造の家屋だった。外から見上げたところだと二階建てで、古い作りだが、新しい塗料の匂いがした。

「古い寮を改築したんです。隙間風とかはないはずですので、安心してくださいね」

 玄関を入るとまず階段があり、その横には長い廊下が続いていた。廊下には等間隔で扉が並び、そのいくつかには表札がかかっている。すでに何体かの化けものが住んでいるのだろう。

 彼は私を、二階の部屋に案内した。広くはないものの、ベッドと机、イスが備え付けられている。寮の設備をそのまま流用したようだったが、綺麗に掃除され、布団も洗われたにおいがした。
 窓の外には力強く枝を張った高い木があって、私はまだ尾が一本であったとき、屋敷にもこういった木が生えていたのを朧げに思い出した。木を登るのは得意であったが、降りるのには大変苦労した覚えがある。四足の爪を幹に引っかけて、蛙のようにへばりつきながら少しずつ下っていくから、地面に戻るまでかなりの時間がかかっていた。みかねて、縁側で寝ていた男が起き上がり、竹の梯子を登って私を迎えに来ることもあった。そういうわけで、その木にはいつも梯子が縛り付けられていた。登ることを考えて降りることを考えていないあたり、まさしく衝動のままのけものといった感じで、今ではもう登ろうとも思わない。実際化けてからは木を登ったことはなかったのだが、梯子だけは男が死ぬまで、ずっと木に縛り付けられていた。

「本当はもっといい部屋を用意できればよかったんですが、そこまではお金がなくて」

 思い出に耽る私へ、彼は申し訳なさそうに微笑んだ。

「いえいえ、お気になさらないでくださいな。もともとあばら家に住んでいた身ですから。それに、こんな改装まで」

 案内された部屋の扉には、私のような小さなものも通り抜けられるように、猫用の通用口が取り付けられていた。あらかじめ唐笠から聞いて用意をしていたのだろう。あとから聞くところによると、唐笠の部屋の扉も、手のない唐笠用にドアノブのない特別製らしい。

「これだけのもの、むしろ私には過ぎた贅沢ですよ」

 私の言葉を聞いたとたん、青年の顔からふっと柔和な笑みが消えた。それから彼は屈んで、私と目を合わせた。廃墟で彼が見せた静かな熱意が、じっと私を見つめていた。

「だめですよ」
「──はい?」
「こんなところで満足してはいけません。あなた方には幸せになる資格があるんです。そのためには、今に満足しないで、もっと高いところを目指さなくては」

 有無を言わさぬ言葉の重さに不意を突かれ、反応が遅れる。それを見て青年は我に返ったようで、小さく口を開けた。

「ああ、僕ったら! 申し訳ありません! こんな若輩者が偉そうに……」
「いいえ。こんなに私ら化けもののことを考えてくださるなんて。それがわかって、とても嬉しい気持ちです」

 平静を装ったが、彼の熱に当てられて心臓が高鳴るのを感じた。
 今までこの長い人生の中で、正面から向き合って生き方を説かれるような経験はなかった。そのためか、自分でも気恥ずかしいほど素直に、彼ならこの退屈と焦燥をどうにかできるのではないかと、そう期待してしまう。
 青年は私の高揚を読み取ってか、実は用意していたアイデアがあるといって、一枚の紙を取り出した。そこには何やら楽器を抱えた猫の絵が描かれていた。

「化け猫というと、色々とお話はありますが、やはり僕としては三味線を弾く猫の絵が有名だと思うんですよ」
「はあ、私は三味線など弾いたことがありませんけれど」
「そうですよね。きっと昔の画家が勝手に想像で書いたんでしょう。でもこれは使えると思いましてね。三味線は今風にミニギターへ変えて、弾き語りなんていうのも良いと思うんです。なにより、歌はウケますからね」

 青年はまくし立てるように饒舌に語って、にかりと笑う。自分のアイデアにかなりの自信がある様子だった。

「それで、化け猫さんにはこちらのキャラクターを演じて頂きたいと思っているんです」

 なるほど、ここでやっと話が見えた。つまり彼は、私に楽器を弾かせて、それを映像に収めようというわけだ。そうしてその映像が人気になれば、私という存在が知れ渡って、私が消えることを防げるということらしい。非常に明快で分かりやすい解決策だ。だが、一つ気がかりが残る。

「私のためを思ってやってくださっているんです。私にできることであれば、もちろんなんでも致しますよ。ただ、目立ってしまうと、どうしても私らを捕まえようとする人間たちがいますので、そこだけが心配で」
「その点はご心配なく。私はこう見えてCGの腕に自信がありまして。皆さんの映像はCG作品という体で投稿しています。今までずっとそうやっていますが、面倒ごとが起こったことは一度だってありません。いざというときは、頼れる伝手もありますから」
「ええ、そういうことであれば、是非演じさせていただきますよ。こちらこそよろしくお願いしますね」

 私の言葉を聞くや否や、青年は部屋を飛び出し、やがて私でもなんとか抱えられるほどの小さな楽器──彼のいうミニギターと、画面のついた小さな板を持ってきた。

「そうときまれば、さっそく練習を始めましょう。まずは尻尾で抱えてもらって──」

 彼は小さな板に映像を映しながら、ギターの持ち方を説明し始めた。彼の話を聞きながら、どうにか安定して持つための試行錯誤を繰り返しているうちに、日はあっという間に暮れていった。時間の流れを速く感じるのは、久しぶりのことであった。


◇◇◇


 雨が屋根を強く叩き、毛に暖かい湿気がまとわりつく。火事と喧嘩が江戸の華なら、その両方が鳴りを潜める雨の日は江戸っ子にとってさぞ退屈なことだろう。だが人ではないものにとっては、静けさを享受する良い機会である。──というのに。

「おい、そこの猫。お前だお前」

 高めのキンキンとした声が微睡に割り込んでくる。軒下で丸くなっていた私は少し首を上げて声のする方を見たが、そこにあるのは長屋の壁に立てかけられた赤い唐笠のみで、喋るようなものは他になかった。気のせいかと、また首を前足の上に戻して目を閉じる。

「おい、気のせいじゃないぞ。こっちをみろこっちを」

 私が再び目を開けると、先ほどはなんでもなかった唐笠が、大きな一つ目を開いてこちらを見ていた。

「やっと気づいたな。ああ、逆さで失礼。それで、やっぱりお前も化けものだろう」
「にゃあ」

 私は否定するように、普通の野良猫が出すような甘ったるい声で鳴いてやる。

「おい、おい、そんなことしても無駄だ。お前からは俺と同じ臭いがするぞ。化けものの臭いだ」

 唐笠は心底楽しそうで、放っておいてもこのまま話し続けそうな勢いだった。この調子でこれ以上喋られても面倒なだけだと、私は根負けして、口を開く。

「──笠の化けものかい。あんまり話すんじゃないよ。人間にばれたら面倒だ」
「そういうな。雨の音で聞こえやしない。それに俺の主人の耳は遠い」
「あんた、化けもののくせに主人がいるのかい」
「そうだ。この中で家主と碁を打っている」
「そりゃまあ、なんとも良い趣味をお持ちだこと」

 耳を澄ますと、確かに家の中からは時折碁石を打つ音と話し声が聞こえてくる。内容は老人同士の他愛もない会話で、やれあそこの親方がどうだの、倅がどうだのと、しばらくの間は続きそうだった。

 唐笠は化けもの仲間に合ったのは久しぶりだといって、身の上話を続けた。持ち手の部分も本当は太い足のように変えて動けることや、雨のない日は家の中で暇をしていること、ときおり人が寝静まった夜に外に繰り出して散歩をしていることなど、どうでもよい話ばかりであったが、雨宿りの退屈しのぎにはなった。

「それでまたあんた、なんで好き好んで雨になんて打たれてるんだい。あんたなら逃げ出して自由にほっつき歩くこともできるだろう」
「理由なんて考えたことなかったなあ。ただ雨に打たれたいから打たれてるんだ」
「主人の役に立つのが嬉しいのかい」
「別にそんなこたぁない。あんな爺さんの役に立とうと俺には関係のない話だね。ただ、打たれたいから打たれるのさ。打たれて雨粒を全部受け止められたなら満足だ。打たれなくとも、別にどうということはないけどな」
「はあ、笠の性かね。殊勝なこった」

 唐笠のいうことはどうにも短慮的で、私には馬鹿っぽく聞こえたのだけれど、奴の方は私のそういう小馬鹿にするような態度を一切気にしていないようだった。話しているうちに、私も奴の話をどこか小気味良く感じるようになって、そのうち少しだけ、自分のことについても話していた。
 やがて碁石の音が止むと、私たちは白々しく普通の傘と猫に戻った。玄関から出てきた好好爺は唐笠を開くと、軒下で丸くなっている私を見つけて微笑みかけ、雨の中を去って行く。唐笠の雨に打たれる音は、ぱらぱらと楽し気に聞こえた。


 窓から差し込む朝日に目を覚ます。唐笠と出会った日の夢を見るとは不思議なものだ。
 結局あのあとも私と奴は何度も会うことになった。如何せん奴は目立つ綺麗な朱色をしているから、主人が変わろうが、遠くからでもすぐにわかるのだ。会ったとしても他愛もない会話を重ねる程度の仲だったが、とうとう今日まで続く一番長い付き合いになった。
 そんな、ずっと腐れ縁のような関係ではあったのだが、青年が奴の登場する映像を見せてきたときは驚いた。あの青年の手にかかれば、あの気の抜けた笠も恐ろしい怪物に早変わりする。暗闇に突然血走った大きな目が浮かぶ様は、私含め他の化けものがみてもぎょっとするだろう。奴の登場する映像は、一部のホラー好きの中で順調に再生回数を伸ばしているようだった。

 私といえば、あれからもひと月も、歌とギター、そして二足歩行の練習を続けている。二足歩行のほうは元からある程度できるだけあって、順調に慣れていった。その気になれば簡単な舞も踊れそうな勢いである。歌も上々だが、一方でギターは苦戦していた。やはり私の小さな手では弦をはじくのは難しい。
 それでもCGの助けを借りつつ、最初の映像が世に出たとのことだ。内容は猫又が必死にギターを弾こうとするというもので、私としては恥ずかしいものなのだが、これもまたよく再生数を稼いでいるという。

「化け猫さん、すごい人気ですよ!」

 青年は最初の映像を投稿した後、私の手を取って喜んだ。

「いやあ、そうはいいましてもね、私はまだうまく弾けちゃいません──」
「それがいいんですよ。最初は頑張って弾こうとするけど上手くいかない、その姿が視聴者の胸を打つんですよ。ただ、化け猫さんのおっしゃる通り、もちろんこのままじゃいけません。ここから少しずつうまくなっていきましょう。そうすればその物語が、きっと視聴者のみなさんに勇気を与えますよ。それはとっても偉大なことです」

 彼の勢いに半ば気おされはしたものの、私の努力が多くの人に認められているというのは、どこかふわふわした、心地良い感覚だった。思わず、顔が緩む。

「──あっ、化け猫さん、やっと笑ってくれましたね」

 青年は優しく微笑んだ。そうか、これが、この妙に頬のあたりがくすぐったくなるのが、笑顔がこぼれるということなのか。それで、このふわふわした感覚が、きっと幸せというやつなのだろう。
 未だに慣れない感覚ではあるが、ずっと居座っていた焦燥が消えて、代わりに心臓のあたりを優しく包むような充実感が、私の体を温めていた。 


◇◇◇


 悲鳴、数発の銃声。ものが倒れるけたたましい音と共に、生気を失い、目も虚ろな人間たちがバリケードを乗り越えて流れ込んでくる──
 私はその様子を眺めながら、小さく欠伸をした。

 事の発端は唐笠だった。

「なあ化け猫。俺な、ゲームに出ることになったんだよ」

 突然部屋に入ってくるなり、奴は嬉しそうに小さく揺れながら、そう上機嫌で話しだした。

「はあ、それはよかったじゃないか。野球のバットにでもなるのかい」

 ここに暮らし始めてもう数か月になる。タブレット、スマートフォン──そういう新しい道具については、青年や唐笠から聞いていた。昔は大きな画面でやっていたゲームも今ではあの小さな板で出来るという。私たちの存在を保つ映像も、人間たちがこの板を通してみているらしい。

 冷たくあしらったつもりが、唐笠は動じやしない。こういうところが奴の変わらないところで、私はそこに呆れつつも安心を覚えていた。奴はゲラゲラと笑って自慢話を続ける。

「野球の球は痛そうで嫌だなあ……っと、そうじゃなくてな。あの映像作家の作った俺のCGってやつが、ホラーゲームに使われるってことらしいんだ。いやぁ、今までの努力が実ったってわけだな」
「はいはい、おめでとうさん。それであんたは何の役をやるんだい」
「ああ、唐笠のゾンビらしい」
「ゾンビぃ? なんだいそのゾンビってのは」
「俺もよくわからんがな、ゾンビってのは人の死体が動いたやつらしい」
「ああ、昔はそういうやつもちらほらいたねぇ。でもお前は人間じゃないだろう」
「それは俺も不思議なんだがな、どうやら最近のゾンビはウイルスってので増えるってんで、人以外もゾンビになるんだとよ」
「はあ、よくわからんねえ」
「まあ、そうだと思ってな──」

 唐笠が少し開いてガサガサと体を揺らすと、ひらりと一枚の紙きれが落ちてきた。

「そのゲームを映画にしたってやつがあってな、なんとかまだ近くで上映しているところがあったから、あの映像作家にチケットを買ってもらったんだ」
「そんなチケットがあったって、お前さんは映画館に入れやしないだろう。傘立てに置かれるのがせいぜいさ」
「いいや、見に行くのは俺じゃない。化け猫だ」
「なんだって? いやだよ。面倒な」
「そういうな。お前最近元気がないだろう。映画でもみて気分転換にするといい」
「なにを適当なことを──」

 全く変なところに気の利く奴だ、と内心呟いて小さくため息をつく。
 私がギターを弾く動画は少しずつ広まり、人間たちの知識が変わったことで、私の体にも変化が見え始めた。というのも、指の切れ込みが少し長くなって、ギターの弦をはじきやすくなってきたのだ。しかしそれ以降はどうにもめっきり上達しない。定期的に投稿されている動画の視聴者も減り始め、青年も「マンネリ化が始まった」と困り顏を隠しきれなくなっている。
 一時は充実していた気持ちにも、また焦燥が湧きだしていた。このままではもうあのような充実感を感じられないのではないだろうか。ここが限界で、そうなると私は、この先ああいう「幸福」を感じられないのではないだろうか。消えることはないとしても、このまま私は笑えずに生きていくのではないか。そう思うと恐ろしく、その恐ろしさが集中の邪魔をして、一層演奏はうまくいかなかった。

「──まあ、貰っとくさ。見に行くとしても、猫にはチケットなんて使えないけどねぇ」

 唐笠は「しまった」と言わんばかりにハッと目を丸くしたが、「まあとりあえず貰っておいてくれ」とチケットはそのままに、忙しいらしくそそくさと部屋を出ていった。

 そうして、今に至る。私がもともと居た公園のすぐ近くにある、古臭い映画館。館内全体が薄暗く、忍び込むことなど造作もなかったが、まさか唐笠の言う映画がこんなに人気のないものだとは思わなかった。観客は私と、一人の老婆しかいない。老婆といっても背筋の伸びていて、身なりも小奇麗に整った、上品な女性だった。なぜこんな低俗な映画をわざわざ見に来ているのかがわからないほどだ。

 大画面のスクリーンでは、迫りくるゾンビの波を何とか主人公がやりすごしている。この町から逃げ出すためのヘリコプターが用意されているというビルの屋上は、もう目の前だった。ゾンビの大群が遠くに行ったのを見て主人公が立ち上がり、階段を登ると、そこにあったのはヘリコプターではなく、見知った影。ゾンビ化した彼の恋人だった。
 主人公を見るなり襲い掛かる恋人。彼は一瞬の躊躇いをみせるが、「楽にしてやるからな」といって、恋人ゾンビを撃ち殺した。続いて、「彼女のいない世界には意味がない」と、残った一発の弾で自分の頭を撃ちぬく。そうして、エンドロール。
 演劇や映画の類は何度か見た記憶があるが、こんな三文芝居は初めてだ。かつて東京で好き勝手に路上演劇をやっていた化けものの一団がいたが、演じるということにおいてはそいつらの方がよっぽど上手だろう。そいつらは喜劇だとか言って聴衆を笑わせていたものだが、こちらはというとよくわからない後味の悪さばかりが残る。誰がこれに金を出してくれるというのだろう。
 一方で合点が行ったのは、突然唐笠がゲームに出ることになった理由だ。この出来の酷いシリーズを、唐笠の人気でなんとかしようということなのだろう。最近の奴は演技にも拍車がかかり、ホラー以外にも手を出して、より多くの人に知られるようになっているらしかった。そうでなければ、唐笠のゾンビなどという突拍子もない設定が許されるわけがないのだ。

 人間にはこれが面白いのだろうか、と椅子の隙間から老婆の表情を覗く。彼女は全くの無表情で、淡々と流れる文字を眺めていた。やはり人間にとってもこれは面白くないらしいが、しかしここまで無感情になるものだろうか? そして私はふと、その老婆をどこかで見たことがあるような気がした。
 老婆は、エンドロールが終わって照明がついても、しばらく放心したように座っているばかりで、片付けのためのスタッフがやってきて初めてゆっくりと席を立った。 
 私は彼女に興味を引かれて、その後をつけることにした。一人で歩く彼女の目には、ぞっとするほど生気がない。あの映画によると、ゾンビとは、背は折れ曲がり、足はのろまで、人の肉を求める衝動に支配された歩く死体だという。だがどうだろう。太陽に照らされながら、背筋を伸ばし、リズムよく足を前に進める彼女のほうが、なぜかずっと死体のようにみえた。

 彼女がそれなりに綺麗な一軒家の中へと入っていく。別の出入口を探して家の周りをぐるぐるしていると、ちょうど脱衣所の小さな窓が開いていたので、私はそこから中へ忍び込み、老婆の居場所を探す。
 室内はどこも薄暗い。どこの窓も、外からの視線を拒絶ようにレースのカーテンが覆っていて、そのうえから遮光カーテンが中途半端に開かれていた。何か意図があるというより、それぞれの開き具合は無造作で、単に開き切るのが面倒だという感じだった。そうしてできた影たちが堆積し、家全体に陰気な雰囲気が充満している。
 居間のちゃぶ台の上には手を付けられないまま賞味期限の切れた小分けの菓子類が深皿に詰められていて、その周りには久しく使われた形跡のない座布団が二枚敷かれている。作られた当時は最先端だったろうキッチンには様々な調理道具が揃えられていたが、それらが最近使われた形跡はなく、代わりに袋麵や総菜、パック飯の残骸が放置されていた。

 私は足跡を殺して、隅に埃が溜まった階段を上がった。段々と老婆の清潔さと湿っぽさを合わせたような臭いが近づいてくる。ごそごそと物音がする部屋を覗くと、老婆がクローゼットに向かって何かをしていた。二人分のベッドが並んでいて、寝室として使われている部屋のようだった。カーテンは閉め切られていて、廊下から入る僅かな日光で辛うじて視界を確保しているような状態だ。
 寝室など真っ先にカーテンを開けるところだろう。それに、こんなに暗いところでわざわざ何をしているのだろうか。私は不思議に思って、そろりとベッドに上って、クローゼットの中を覗いた。
 クローゼットの中には何着も値の張りそうな洋服がかけられてるが、それらはすべて両端に乱雑に寄せられていた。彼女はそうしてスペースのできた真中へロープを括り付けている。その先端は、輪を作るように結ばれていた。何度か見たことのある結び方だった。もしや、と思って眺めていると、彼女は輪へ頭を通そうと、恐る恐る首を垂れる。
 
「死なれるんですか」

 私が尋ねると、老婆はびくっと震えながら振り返り、二本の尻尾を揺らす私を見て言葉を失う。それから目に涙を浮べたかと思うと、顔を両手で覆い、膝から崩れ落ちてしまった。張りつめていた緊張が急に切れて、感情が溢れ出してしまったという様子だった。

「私でよければお話を聞かせてくださいな」

 死ぬ直前の異様な精神状態から引き戻され、しかし不可思議な存在が目の前にいる。そういう現実と非現実の境目、夢現の状態で、老婆はぽつりぽつりと自分の境遇を話し始めた。

 彼女は夫に先立たれ、子供もいないとのことだった。彼女がクローゼットの上の段から取り出した写真立てをみて、私は彼女に抱いた既視感の正体に気付く。
 かつて、私の住処の周りをよく通る、幸せそうな若い夫婦がいた。どこに行くにも一緒で、あまりにも仲睦まじいものだから、私の記憶にぼんやりと残っていたのだ。私はそのあとすぐに住処を移動したのですっかり二人のことを忘れていたが、写真の中の若い男女は、まさにその夫婦だった。
 今の彼女は、面影こそあるものの、年を取って顔も変わり、なにより当時のような気力を感じない。思い出せないのも無理はないだろう。

「もう、しばらく笑えていないんです。お笑いも、くだらない映画も、色んなものを試しましたが、結局笑うことはできませんでした」

 私は適当に相槌を打ちながら納得した。そういう理由で、あの酷い映画を見ていたのかと。

「楽しいこともないままなら、生きる意味はないと思ったんです。幸せになれないのなら、生きていくべきではない気がするんです」

 私も、落ち込んでいる人間を放っておくほど冷たい化け猫ではない。何とか励まそうと頭を働かせて、あの幸せそうだった二人の姿を思い出す。

「この写真の中のあなたは、とても幸せそうに見えますよ。きっと、このときは幸せだったんじゃありませんか?」

 老婆は黙り込む。答えにくい質問だったかもしれないと思い、私はカイサキが言いそうな言葉を続けた。

「きっと、今すこし運が悪くて──よくないことが続いているだけですよ。それに、意味がないなんておっしゃらないでください。生き続けることはきっと素晴らしいことです」

 老婆の思い詰めた表情が、少し和らいだ気がした。立ち直ったとはいえないだろうが、少なくとも、今すぐ首を括りそうな表情ではなくなった。
 それから私は、暗くなるまで老婆の話に付き合っていた。その最中、私が普通の猫と違うことを、彼女は一切指摘しなかった。夢でもみているのかと思ったのかもしれないし、指摘すれば私が消えてしまうとでも思ったのかもしれない。
 どちらにせよ最後には、これからまた笑えるように頑張るという約束を取り付けて、私はその家を後にした。


◇◇◇


「どちらへ行かれていたんですか?」

 自分の部屋に戻ると、カイサキが椅子に座って待ち構えていた。顔には不満、あるいは怒りが滲んでいる。目の下には隈ができていて、おそらく作業で寝不足なのだろうことが見て取れた。
 予想外の出来事に、全身の毛が逆立つ。なぜ私の部屋に? 
 もちろん、ここは彼の厚意で使わせてもらっているわけだし、私はプライバシーなど気にしないが、人間の常識で考えるのなら、普通人の部屋に勝手に入って帰りを待ったりしないだろう。
 疑念は色々とあるが、まずは呼吸を落ち着けて、口調の上だけでも平静を取り戻す。

「唐笠に映画のチケットを貰いまして。そちらを観に」
「それは知っています。でもあの映画は午前しかやってないんですよ。その後は何を?」
「久しぶりに遠くまで散歩へ出かけておりました。あまり動かないと、体が鈍ってしまいますから」

 青年は片手を額に当てて深くため息を吐き、首を振った。

「化け猫さんは、今の状況がわかっていないんですか?」
「今の状況、とおっしゃいますと?」
「再生数が伸びていないことですよ!」

 突然の怒声に、びくりと体が揺れる。

「あのね、遊んでる場合じゃないんですよ。はやく演奏上達しないと、人気になれないじゃないですか」

 気ままに行動することだって、意味のないことではない。今日だって、私の気まぐれで一人の老婆の命が助かったのだ。それに、これ以上練習を増やすとなると、自由な時間がどんどんと無くなっていくことになる。今まで気まぐれに生活を送ってきていたから、自由な時間が失われるのには拒否感があった。私は珍しく反論する。

「おかげさまで多くの方に認知していただきましたから、しばらく──また数十年は消えることはないと思うんです。ですから、うまくバランスを取りながら、焦らずに進めていきたいと──」
「何を言ってるんですか? それじゃあ現状維持ですよ! そうじゃなくて、幸せになろうって話をしたじゃないですか」

 私は、出会ったときの彼の熱意に溢れた瞳を思い出した。彼は再びその熱を瞳に宿している。

「唐笠さんを見てくださいよ。頑張って人気が出たからこそ、どんどん活躍の場を広げているんです。今後はこの人気に乗っかって新しいデザインを広めることで、新しい姿を手に入れる計画になっています。自己実現という奴です。望んだ自分になれるんですよ」

 唐笠のことは全くの初耳だった。最近は唐笠が忙しく、見かけることはあっても話す機会はほとんどないに等しい。それこそ最近まともに話したのは、チケットを貰ったときくらいだった。新しい姿というのならば、きっとあのボロボロの体を治すのだろう。そうすれば、かつて奴が楽しんでいたように、また雨に打たれることができるようになる。

「化け猫さんも、もっと頑張って願いを叶えましょう。今は具体的になりたい姿がなくても、将来的に絶対知名度は必要ですから」
「でも、私はもともと猫ですから、自由な時間がないというのは──」
「あのですねえ、化け猫さんは欲張りすぎなんです。幸せを手に入れるためには、今を多少犠牲にしなきゃいけないんですよ。でもそれを頑張れば、化け猫さんなら絶対幸せになれます。僕がしてみせます」

 彼はすごい剣幕で私に迫った。やはり彼の目には、説得力と熱意と、それからこちらを絆すような優しさがある。私は熱量と重圧に負けて、小さく頷いた。

「わかってくれたらいいんです。これから練習頑張りましょうね?」

 その屈託のない笑顔をみて、私は初めて目の前の青年を恐ろしいと感じた。

 それから数か月の間は、事実上の軟禁状態だった。
 日に数回、不定期にカイサキが部屋を訪れてきて、練習の進捗を確かめられたり、突然撮影が始まることさえあった。やっと繊細に動かせるようになってきた指は毎日酷使されて常にどこかしらに血が滲んでいたし、夜には疲弊してもう動かせなくなっていた。

 カイサキが私に課した訓練はミニギターの演奏だけではなかった。今後の活動のために、私は常に二足で歩くよう言われ、また曲に合わせて踊る練習もした。
 自分のために時間を使うこともできず、かつてのように好きな時間に寝て起きるということもできなかった。外出なんてもってのほかである。狭い部屋、過酷な練習、青年の監視、衝動の否定。それらすべてによって、私の心は少しずつ、着実に削られていった。
 それでも逃げ出さなかったのは、今を我慢すれば青年がいう「幸せ」が手に入って、以前経験したような笑顔と暖かい気持ちを得られるならと考えたから。あるいは単に青年の熱意にあてられただけかもしれない。どちらにせよ、私は文句の一つも言わずに今を殺し続けた。小さな部屋には衝動の死体が山を成し、私はどんどんと衝動に対して鈍感になっていった。
 ただこのような努力の甲斐あって、私の演奏の腕は着実に上達していき、簡単な曲なら一通り奏でることができるようになっていた。踊りも上達し、今では四足歩行より二足歩行のほうがしっかりくる始末である。直接は確認していなかったが、動画の再生数も順調に伸びているようだった。

 ある日、青年がいつものようにノックもせずに扉を開けた。だがいつもと違って、その表情からは抑えられない喜びが滲みだしていた。青年は、わきに抱えた銀色の板を私の前に置く。それは前々から目標にしていたもので、私の知名度がかなりのものになったことを証明するトロフィーのようなものらしかった。

「化け猫さん! ついにやりましたね!」

 青年は腕を目に当てながら、声を震わせる。

「いえいえ、ここまでこれたのも、カイサキさんのおかげですから」
「何言ってるんですか! これも全部化け猫さんが頑張ったからですよ! いやあ、よかった……」

 とうとう我慢できなくなって、青年はボロボロと泣きながら嗚咽を漏らす。彼の感情の起伏の激しさに若干ついていけなくなりながらも、努力が報われた感じがして、私も自然と笑みが零れ、胸のあたりが暖かくなるのを感じた。そして、またこの感覚を得れたことへ安堵した。

「また笑ってもらえて、よかったです、ほんとに」

 私の笑顔を見ると、青年の涙が一層増え、彼の顔面がぐちゃぐちゃになる。泣き声を心配して、何体かの化けものが部屋を覗きに来るほどだった。
 やや落ち着いた頃を見計らって、私はずっと気になっていたことを尋ねた。

「カイサキさんは、どうして私たちみたいなもののことへ、そんなに目をかけてくださるんですか?」

 この様子にしても、厳しい指導にしても、ボランティアにしては入れ込みすぎである。まして、私たちは人間ではないのだ。彼がここまでする理由が私にはよくわからなかった。

「……化け猫さんは、人間の最高の発明ってなにかわかりますか?」

 私が首を振ると、青年は涙をぬぐいながら、努めて冷静に説明し始める。

「それはね、言葉なんですよ。言葉を操ることで、人は今ここにあるものだけじゃない、未来の、まだ見ぬもの、抽象的なものについて語れるようになったんです。言葉のおかげで、人は未来に目的をもって、幸福のために進む力を得たんですよ。それが最も崇高な能力なんです」

 なるほど、確かに言葉がなければ、せいぜい近くにあるものを指をさすことができるくらいで、見えないものについて何かをいうことはできないだろう。そうなれば未来のことを考えられないのだから、衝動に身を任せて行動するしかなくなる。将来の大きな目的のために、何かを我慢し、何かを積み上げるということができなくなってしまう。それでは当然、大きな幸せを掴み取ることもできない。

「妖怪の皆さんは、言葉を操りますよね。中にはそうでない方もいますが──言葉を操るというのとは、幸福のために進めるということなんです。つまりは、私からみれば皆さんはほぼ人間のようなものなんですよ。人間が困っている人を助けるのは当然ですよね?」

 彼は柔和に微笑んだ。つまり、少々特殊なこだわりから生じた同胞意識と極めて善良な精神が、彼を動かしているのだ。では、言葉を発さないものたちはどうなのだろうか。私は少し意地悪な質問を投げかける。

「なら、言葉を解さないけもの──家畜であったり、そのあたりの野良猫のようなものに関心はないのですか?」
「けもの……動物たちですか? まあ、色々と人間の役に立っていることは認めますが、彼らは一体何のために生きているんでしょうかね? 幸福にならないなら、生きている意味も価値もないでしょうし、無理に助けようとは思いません」

 彼は元々けものだった私を前にしても、笑顔を崩さずにさらりと言い切った。そのことにやや驚きつつも、安堵する自分もいる。自分の心の中に、ずっとあの男の悲しそうな顔が巣くっていたからだ。それを思い出すたびに、けものを辞めて化けものになったことが、間違いだったような気がしてくる。だが彼の言葉は、その不穏な影を掻き消し、私がけものとは全く違って、言葉を操る素晴らしい存在なのだと教えてくれた。

「難しい話はよしましょう。まずはこのことを喜んで、次への糧にしないと」

 青年はそう言って、寄せられたコメントやファンアートを私に見せ、ひとしきり祝福して私を褒めちぎった後、「これはここに飾っておきましょう」と、銀のプレートを机の上において部屋を出て行った。

 突然静かになった部屋。少しずつ暖かかった体が冷えていき、私を満たしていたものが急に蒸発していって、代わりに腹のあたりに不快感の蠢く靄のようなものを感じた。人気になったことは喜ばしい。だけども、この人気を維持するには、飽きられないようにまたあの辛い努力を繰り返さなければいけないのだろう。
 それを繰り返すとして、私はいつになったら幸せになれるのだろうか。幸せになった私は、どういう姿をしているのだろうか。──全く、想像できなかった。
 高揚した気持ちが反転、憂鬱と不安に落ちていくのがわかる。私は小さく首を振って、机のうえのプレートを眺めた。

 大丈夫。今は辛いけれど、我慢を続ければ、きっといつか幸せに辿り着ける。

 私は疲れが溜まっているのだと断じて、ベッドの上で眠りに落ちた。


◇◇◇


 涼し気な風が抜けていき、爽やかな陽光が街を洗う朝。私は久々に、野良猫のふりをして街を歩いていた。近々四つ足で街を歩くミュージックビデオを撮影するので、リハビリがてら外を歩いてくるようにとカイサキから指示があったのだ。前足で地面を踏みしめる感覚が懐かしい。近頃は二足歩行にも慣れて、前足はもっぱら演奏のときにしか使っていなかった。
 野良猫たちの集う公園、かつて住んでいた廃墟。数か月ぶりにそれらを見て回ったが、特段変わったところはなかった。そして映画館の前に差し掛かったところで、私はふとあの老婆のことを思い出した。
 そういえば彼女はどうしているだろうか。新しい趣味でも見つけて、幸せに暮らすことができているだろうか。
 私は気になって、朧げになりかけの記憶を辿り、老婆の家へと辿り着いた。朝露の青臭い香りに混じって、つんと饐えた臭いがした。
 悪い予感がして、あの日と同じように脱衣所の窓から家に入り込む。外では人にわからない程度だった臭いが、酷く強くなっていた。

 階段を駆け上がり、寝室へ入ると、そこには彼女があった。まるであの日の続きを忠実に演じたかのように、クローゼットの真ん中からロープを垂らして、首を括っていた。排泄物と体液、それから腐って液状化した肉が床の上で混ざって、酷い臭いを発している。肌は腐敗しているだけでなく所々蛆が湧いていて、骨の露出している部分もあった。
 一体この老婆は、いつ命を絶ち、どれだけ放置されたのだろう。そして、どんな気持ちでこの選択をしたのだろう。あの日立ち直ったはずではなかったのか?
 私はそれらの答えを知らなければいけないような気がして、鼻が曲がりそうなのを堪えながら家中を探した。すると、今のちゃぶ台の上に、一枚の紙が置いてあるのに気づいた。私はそれを覗き込む。

 不思議な化け猫さんへ

 あのとき答えられなかったことを、こちらに書き残しておきます。
 あなたは、写真の私を指して、幸せそうだといいましたね。ですが、幸せというのは、ずっと続くものをいうのです。そうでないと、追う意味がありませんから。
 私たち人間は強欲で、美味しいものを見つけても、いつか必ず飽きてしまいます。もしくは、それが誰かに取られやしないかと心配でたまらなくなるのです。同じように、あの写真が捉えた私と夫の幸せそうな一瞬は、あの一瞬満たされていたというだけのもので、つまり幸せではなかったのです。
 始めの短い期間だけは、確かに満たされていました。多くの困難を乗り越えて、夫と結ばれた甲斐があったと思いました。でもすぐに私はそれに慣れ、あとの大半の時間は惰性と倦怠と不満、そしてこの築き上げた現状がある日突然失われてしまうのではないかという不安ばかりがありました。
 その反面私は、いつか夫がいなくなってこの生活が壊れれば、何かが変わって解放され、今度こそ幸せになれるとも期待もしていました。だから退屈な日々を耐え、お金を貯めるために好きでもない仕事に励んだのです。
 夫が死んだあと、確かに最初は自由を謳歌しました。また満たされた感覚がありました。だけどもすぐに、私は慣れ、今後の人生への不安に押しつぶされそうになりました。
 もしこの先満たされることがあっても、それは一瞬で終わってしまうでしょう。その先はまた、満たしてくれるものを探すために長い長い努力と不幸の時間を過ごさなければいけないのです。私はもう疲れてしまいました。こんなに走り続けたのに、あったのは一瞬の満足だけ。幸福には辿り着けなかったのです。そしておそらく、今後も辿り着けないのでしょう。

 このように、私は生きていく理由をなくしてしまったのです。

 もう一つ。あのときあなたは、生き続けていることがすでに素晴らしいことだ、そういってくれましたね。私はそれがとても嬉しくて、あの瞬間救われたような気持ちでした。ここまで頑張って生きてきたこと自体に価値があって、それで許されたような心持でした。
 だけどもあなたが帰ってしまって、またこの薄暗い家に一人になったときに、私は疑問に思ったのです。
 確かに生きていることは大変ですし、それを続けていることは素晴らしいことだと思います。だけどもその素晴らしさは、「だから生きていてよい」と自信を持って言えるほどのものなのでしょうか?
 鏡をいくら覗き込んでも、素晴らしい私を見つけることはできませんでした。ただ死んだような目をした私がいるだけでした。

 私は、私には生きていくだけの価値がないとわかりました。

 だからやはり、終わりにしようと思います。せっかく励ましてくださったのに、ごめんなさい。

 さようなら。あなたは幸福になれますように。

 濡れた本を乾かしたときのように、ところどころ紙が波打っている。ペンを走らせる惨めで哀れな老婆の姿を想像しそうになって、私は居間を飛び出した。二つの後ろ足で玄関まで走り、飛び上がってドアノブを下げ、扉を開ける。幸せに辿り着けなかったと語る彼女が、自分に重なり始めていた。何かを達成して仮初めの満足を得ても、次から次へと新しい課題が現れて、休まる暇がない。自分が積み上げたものが失われるのではないかと怯えている。私もこのさき、幸せになることなどできないのだろうか? 生きる意味などないのだろうか?
 家の中の澱んだ空気とは違う、外の澄んだ空気が一気に肺の中に流れ込んできた。私は我に返って、慌てて四つ足を地につける。

 とはいえ、頭の中では全てが揺らいでいた。街は酷く色褪せている。私の横を通り過ぎていく駅へ向かう会社員たちの目は、一つ残らず死んでいた。彼らはなぜ今日も働く? 我慢して我慢して、我慢し続けたその終着点に何があるんだ? ただ己を殺して、今の衝動を抑え込んで、歩く死体になって、死に続けて最後の最後に救いはあるのか?

 気付けば私は、公園の前まで来ていた。猫たちは今日もいつもと変わらず、知性の欠片もないような甘え声をあげて、老人に体をこすりつけ、餌を巻きあげている。いつになく、私の中に怒りが湧いた。そうして楽をし続けて、いつかその老人たちがいなくなったらどうするつもりなんだ。未来のことを何も考えず、衝動に身を任せて生きるけものたちが憎くて仕方ない。私はあれとは違うんだ。
 だが彼らの目には、光が宿っていた。猫の一匹が餌を無視して、衝動のままに草むらに飛び込んでいった。バッタでも見つけたのかもしれない。老人をとっかえひっかえ、ずっと餌を貪っている輩もいる。随分と図体がでかく、肥満で死んでもおかしくないくらいだ。彼らは総じてこういった、全く未来のことなど考えられない、言葉を持たぬ愚かな連中だ。だが彼らは、どんな人間よりも命を躍動させている。生きる意味なんてないくせに──

 あれ、意味がないと、価値がないと、生きてはいけないのだったか。生きるというのは、そういうことだったろうか?

 あの男の悲しそうな顔がまた浮かぶ。額に深い皺を寄せて、今にも泣き出してしまいそうな、憐れむような顔が。──どうして、そんな顔をするんだい。わかっているなら教えておくれよ!

「……ああ、もう、疲れた」

 私はそう小さく零す。もう何も考える気力も湧かず、とぼとぼと寮へ向かって歩くことしかできなかった。


◇◇◇


 寮に帰って、頭を休めるためにベッドで微睡んでいると、ドアをノックする音が聞こえた。外はいつの間にか真っ暗になっている。
 今は誰かと話す気力もない。私は無視を決め込もうと、両手で耳を抑えた。

「おい、化け猫、化け猫やい、いないのか?」

 扉の向こうから聞こえてきた声に、パッと起き上がる。唐笠の声だ。ここしばらくは両方練習や撮影で忙しく、顔を合わせることすらなくなっていた。あいつならば、この混乱に何か答えを出してくれるかもしれない。そうでなくても、他愛もない話でこの鬱屈をどうにかしてくれるだろう。

「うるさい奴だねえ。勝手に入っておいで」

 言ってから、ああしまった、あいつには手がなかったんだと思い出し、そろりと床に降りる。しかし、それと同時にガチャリと扉が開く音がした。

「あんた、それ──」

 唐笠には、立派な一対の腕が生えていた。間違いなく人間のものである。

「どうだい、すごいだろう。カイサキさんが新しくデザインして、宣伝してくれたんだ。みんながこの姿を知ってくれたおかげで、こうして化けることができるってわけよ。日頃の努力の成果だな」

 これがカイサキの言っていた、「新しい姿」。私は、言葉を失った。これが、唐笠の幸せなのか? 人のような腕をはやすことが? 

「びっくりしすぎて言葉も出ないか。この腕、怖いだけじゃなくて色々と便利でね。例えばこんな風に」

 唐笠は一本足でぴょんぴょん跳ねて部屋の奥に行き、ガラッと窓を開けた。落ち着いていた空気がかき乱され、青々として寂し気な夜の香りが部屋に流れ込む。

「窓だって開けられる。今までだったら考えられなかったよ」
「……破れたところを直すかと思ってたけどね。雨に打たれたいんじゃなかったかい」
「あー、そこを直しちまうと怖くなくなっちまうからな。雨には打たれたいけど、それより幸せになる方が大切だろう? 未来のことを考えないと」

 腕が生えただけで、それ以外の形は唐笠と変わらない。だが私は、唐笠が全く違う何かになってしまったように感じた。

「今となっては、あのとき雨に打たれているだけで満足して、時間を無駄にしていた理由もわからないな。雨に打たれているのもいいが、それでは何も変わらない。それだけじゃあ、俺が俺として生きている意味がないだろう」

 唐笠の言葉を聞くたびに、どんどんと吐き気がこみ上げてくる。
 なあ、退屈な話をしておくれよ。どうでもいいような話ばかりしておくれよ。どうしてそんなに前を向こうとするんだい。あんたは一体どこへ行っちまったんだい。それに、生きている意味ってなんなんだい。あのときのあんたは──

 そうだ。あのときのあんたは、私たちは、そんなこと気にしていなかったんだ。

 気付いたら私たちは生きていて、それを選んだわけじゃなかった。なんせ自分が普通より長生きだということに気付かないほどだったんだから。どんなにつらいときも、嬉しいときも、生きているのはただ前提であって、私たちの手が及ばないただの現象だった。選択できる行為なんかじゃなかった。

 だから、生きていることは素晴らしいことなんかじゃない。だって、それは私たちの行為じゃなくて、現象なんだから。風が吹いたら誰が偉い? 地球が回ったら誰が偉い? そんなの馬鹿げた話だ。それと同じくらい馬鹿げた話を、私はしていた。
 生きていることが特段素晴らしくならば、私たちは、素晴らしくなくても生きている。生きて「いい」のではない。生きる「べき」でもない。ただ生きているんだ。生きることに条件なんてないんだから。
 そう考えると、死のうとする相手を「生き続けることは素晴らしいことだ」と慰めることは、なんと馬鹿げていて理不尽なことだろう。結局これは、「素晴らしければ生きていいのだ」、すなわち「素晴らしくなければ生きていてはいけない」という思い込みを肯定しているだけだった。だから、あの老婆は死んだんだ。

 昔ならばあんな慰めはしなかったろう。あんなに生きていることに無頓着だったんだから。だけども私たちは、今や生きることが行為だと思い込んで、その行為を正当化する意味を求めている。一体私たちに何が起こった? 私たちは何になっていくんだ? 私たち「化けもの」とは一体なんなんだ?

「おや、お二人共、こちらにいたんですね」

 気付くと、カイサキが部屋の入口に立っていた。唐笠は嬉しそうに、跳ねて彼の横まで行く。

「ちょうど化け猫と話していたんだよ。この腕を自慢していたところだ」
「それは素晴らしいですね。この先ももっと知名度を上げて、色々な姿に化けれるようになりましょう。……と、今日は化け猫さんにお話があって来たんでした」

 青年は持っていたタブレットを操作し、一枚の絵を表示する。

「化け猫さんも、そろそろ新しい姿を手に入れてもいいと思うんですよね。それで、こんなのはどうでしょう?」

 その絵は、着物をまとった私だった。それを見て、私は頭を思いきり殴られたような衝撃を受けた。そうして、急激に思考が整理されていく。

「──ああ、そういうことかい」
「……化け猫?」

 唐笠が心配そうに私の顔を覗き込む。彼の大きな目に映る私は、不自然なほどに晴れやかな顔をしていた。

「唐笠。私たちは、人間に化けていたんだよ」

 化けるとは、人間になることなのだ。人間の言葉を話し、人間の腕を生やし、人間の服を着る。人間でないものが人間になっていく、それが化けるということ。

 私は記憶の始まりを、あの悲しそうな顔を思い出していた。なぜあの男があんな顔をしたのか、そしてなぜ最後まで私と口をきかなかったのか、その理由が分かった気がした。

 男は人間の哀れな宿命を知っていたのだ。

 人間は言葉を操ることで、見えないもののこと──例えば未来のことを考えられるようになったという。そうして、未来のためにたくさんの「今」を犠牲にするようになった。瞬間瞬間の「今ここにあるの生」は、遠い未来のための手段でしかなくなった。言葉によって、人は遠い未来の奴隷になった。生きることは、人の手の及ばぬ現象から、遠い未来への意味と価値を必要とする行為になり下がった。

 さらなる不運は、人が幸福という大それたものを考案し、それを輝かしい未来の位置に据えてしまったことだ。幸福にさえ到達すればすべてが上手く行き、満たされ続け、ずっと笑っていられるのだと。だが人は常に変化に追われて、もしくは慣れや飽きに追われて走り続けなければいけない。本当はずっと満たされ続けることなどなく、ゆえに幸福なんてものは幻想にすぎなかった。

 人生の終盤、一向に縮まらない距離を見て、人はようやく自分が追ってきたものが幻想であることに気付く。そのときにはもうどうしようもない。振り返れば、存在しないもののために苦しみ、衝動を抑え込んで、今を犠牲にしてきた期間は、ほんのわずかな満たされていた期間と比べて無限のように長い。前を向けば、これからの人生もその砂漠の道が続いている。見えていたオアシスは蜃気楼で、口を潤す程度の水溜まりが時々あるほかは、ただただ砂が続いている。自分の体を見ると、単なる過程として置き去り、否定し、殺してきた「今」の集積こそが、自分自身だったと知る。もはや死体の塊でしかない自分を肯定することなど、誰ができるのだろう?

 これが人間の悲しい運命。そしてそのすべての始発点こそが、言葉を持ったことだった。だから、男は私をできるだけ言葉から自由なけものに留めてやろうと、決して言葉をかけず、けもののように扱ったのだろう。ずっと縁側に居たのも、彼が人の世界から逃げたかったからかもしれない。

 だが彼の願いは叶わなかった。結局男は人の領域で死に、私は言葉を弄して二本の足で立つ。だから私はこんなにも苦しいのだ。

 私は彼と出会ったときそうしたように、恭しく頭を下げた。

「カイサキさん、ごめんなさいね。でも、もう辞めさせていただきます」
「ちょ、ちょっと待ってください! いきなり何を──」
「決めたんです。これ以上はもう、人間のふりをやめようって」
「いいんですか、このままじゃ今まで見たいに笑うこともできなくなるんですよ! 虚しいまま消えていくんですよ! そんなの──悲劇じゃないですか!」

 なぜ笑えなければいけない? なぜ幸せな最期を迎えなければいけない? 動物たちは人のように笑わないが、あんなに輝いている。私に人間の感情を押し付けるな。遠い未来ばかりに価値を置くな。私に人間を押し付けるな。
 悲劇だろうと、喜劇だろうと、結局のところ「今」の集積に過ぎない。私は今を肯定する。この衝動を肯定する。今を生き、私は生きたものの集積となり、そうして私は生きることができる。私を殺すのは、もうおしまいにしよう。私は静かに首を振った。

「私はもう、自分が死体の山になっていくことが我慢ならないのです」

 カイサキは黙り込んでいる。今までお世話になりました、ともう一度頭を下げて、私は青年と唐笠の間を通り抜けようとした。しかし、それは突き出された青年の足に阻まれる。

「カイサキさん、身勝手は承知ですけども──」

 突然、腹部に激痛が走り、私は部屋の奥へと吹っ飛ばされる。カイサキに蹴り飛ばされたと気付くまで、数秒かかった。次いで、ドアを乱暴に閉める音がする。カイサキが血走った眼でこちらを睨みつけていた。

「唐笠さん、化け猫さんを捕まえてください」
「え、だけどよ──」
「化け猫さんはきっと混乱しているんですよ。そうでなければ、こんなわけのわからないことを言いだすわけがないでしょう」

 困惑しながら、唐笠は両手を広げて一歩私に迫る

「何が人間のふりをやめるですか。理解できません。せっかくこうやって、言葉が通じるようになったのに、どうして幸せになろうとしないのか……唐笠さん、早くしてください」

 その冷たい声はもはや依頼ではなく、力を背景とした命令だった。唐笠も今後の自分の未来が握られているのだ。哀れな化けものは、逆らうこともできずに私へと飛び掛かった。

「本当はこんなことしたくないんだが、すまん、化け猫!」

 ああ、傲慢な人間、傲慢な先ほどまでの私。傲慢であることによって己の悲しい運命から目を逸らそうとする、愚かで愛しいものたち──

「さようなら」

 私は四足で開いた窓枠に飛び乗って、そこから木の枝に飛び移った。当然、唐笠は追うこともできずに窓の近くでうろうろしている。その後ろでカイサキが舌打ちをして、部屋をでていった。きっとここまでやってくるつもりだろう。

 懐かしい風景だった。木の上から眺める世界など、いつぶりだろう。風が心地良く、命が躍動するのを感じた。化ける前は降りるのに時間がかかったが、今なら素早くやれる気がした。

「唐笠!」

 私が呼びかけると、唐笠が動きを止めてこちらを向く。奴が何か言おうとしている。

「にゃあ」

 私はそれを遮って、できる限り甘ったるい声で鳴いてやった。そうして、幹を駆け下りていく。ただのけものだったころはできなかった芸当だが、やってみれば案外簡単で楽しいものだった。
 建物の影からカイサキがぬるりと現れる。私はその横を四足で駆け抜けた。青年は追いつけないことを悟ったのか、ただそれを眺めていることしかできなかった。


◇◇◇


 瞬きたい。瞬くのが良いことか、悪いことか。そんなことは考えたくない。考えなくていいのではなく、考えたくない。

 深夜の街。私はアスファルトを蹴って駆けだした。内側で漫然にどろどろとしていたものが、心臓が発する急激で苛烈な光に当てられて、ひび割れた地面に変わる。それを砕くように、両の後足に力をこめる。

 けものだ。私は生きたい。ゆえに、けものになりたい。その衝動が、この一瞬を動かす流れとなって、体の中で内臓を渦のようにぐるりと歪ませ、発熱させる。

 駆けだせ、足を動かせ。私が今足が動かすのは、足を動かしたいからだ。けものにはなりたい。でも今足が動くのは、決してけものになるためではないのだ。理性的な計画や目的なんかを洗い落とし、具体化された衝動が「今」を強烈に彩色していく。暗い街が滲んで、ブレて、ぐちゃぐちゃの色の塊へ昇華される。

 斜め前に光が迫ってくる。衝動は留まることを知らない。概念で凝り固まった人間の表情が剥がれて、けもの的な形相だけが残っていく。私はもはや四足で駆けていた。手に感じる地面の抵抗とざらつきが心地良い。

 眩い輝きが迫っている。小さな段差に躓くように転がって、それでも足を動かすことは止めない。

 何かがこすれるような、けたたましい音。

 そして、衝撃。


 道路に残るブレーキの跡。小さく舌打ちをして、運転手は古い軽自動車を降りた。

 彼は、目の前に転がっているものを一瞥して顔を顰める。それから少しの間、それと車との間を、迷ったように行ったり来たりしていたが、結局とぼとぼとそれに近づいて、足で転がし、道路の脇へ寄せた。

 軽自動車が、何事もなかったのようにその場を去っていく。道路脇の草むらには、打ち棄てられた、ただの野良猫の死体。

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