三界に処無し
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つ、と白刃が女の胸に吸い込まれる。
白く光る膚から迸る血が、突き立てる男の面を朱く朱く染めていく。儘、下手人は女を掻き抱き、内へ内へと刀を圧し入れる。
虚空へ延ばされた女の手は蛍のようにさまよい、男の背へ辿り着くと、離さぬと云うが如く衣を強く掴む。男の手に殊に力が入り、とうとう背から切先が出でる。
女は仰け反り、絹を割くような物狂おしい悲鳴が流れる。薔薇色の頬の下、小さな 口から真紅の花が咲いては零れ、二人の足元に散り落ちてゆく。
はくはくと蠢く唇の言の葉を聞き逃すまいと、男は眼も耳も凝らし女を感じようとする。
女は微笑って、
にいさま――。
 
新年の挨拶というものは、少年にとって退屈なものである。特に其れが、親族連の集まる彼の本邸で行われるものであるならば。
次期統領筆頭候補の彼は、祖父である当代統領の傍らに控え、次々現れる分家たちの挨拶をじっと聞いていた。昨年と同じ顔もあれば、違う顔と名の当主もいる。変わらないのは彼らの媚び諂う様と、連れられた子らの怯えた目。子らは皆、隣の大人が死ねばすぐさま後を継ぎ、同じように振る舞わねばならない。少年と彼らの違いは只、宿命を受け入れたかそうでないかのみであった。
無聊をかこっていた少年は、一組の親子の姿におや、と眉を上げた。分家筋の中でも位階が高く、統領の前でも気高さを失わない老人は、一人の幼子を連れていた。幼子―少女は若竹のようにすっくと背筋を伸ばし、物おじせずに座っていた。
確か去年は、ツマラナイ青瓢箪が伴だったはずだ。こんなに小さな、それも女の子をなぜ。
訝しげな少年を横に、年賀の挨拶が終わり、下女らが粛々と宴の準備を始める。少年は本邸の別室へ、分家の子は離れに案内された。彼の疑問が解消されない内に、少女は列の後ろについて消えて行った。

大人達が年賀の宴を愉しんでいる最中、少年は控えていた部屋を抜け出し庭をふらついていた。こうしていると、面倒な手合いを巻く練習にもなったし、渡り廊下での密談も盗み聞けた。
「今年も那澤はこないのか、武の無い、諂うだけが能の一族の癖に」
「当たり前だ。あの外様の淫売の産んだ子がここの敷居を跨ぐなど、統領様の目の黒いうちは・・・・・・」
「外様と言えば、ほれ、あの娘・・・・・・」
「ああ、相談役殿にも困ったものだ、乳兄弟だからと無理を通す・・・・・・」
「まて、相談役殿が手ずから択んだのか?あのような乳臭い娘を?」
「らしい。どうも道場を来てすぐにな、・・・・・・」
目当ての情報を得られたため、少年は気どられる前にそこを離れた。相談役が、手ずから。
内々で血を交わらせてばかりの一族に、迎え入れる程の存在。来年も見れるといい、と胸躍らせて歩いていた少年の耳が、微かな音を捉えた。あれは東屋の方角だろうか。
期待を込めて向かった先には果たして、東屋で泣き晴らす幼子の姿。晴れの着物に皺がより、薄化粧も剥げていても彼女には何処か、涼やかな印象があった。
「おい」
急に少年が呼び掛けたことに驚いたのか、目を丸くしている様は絵本のようで、愛らしさを彼に感じさせた。柔らかく、高く、震える声で彼女は、応えた。
「あ・・・・・・統領様の、側の・・・・・・ご本家の方、ですか・・・・・・?」
「そうだ。名はかなえ、あの髭がくたばったら統領を継ぐ・・・筈の、男だ。お前は?」
「かなえ、さま・・・・・・う、・・・・・・小豆、です。お師匠、ううん、お養父さまと、一緒に来ました。・・・・・・ほんとのおうちは、串間です」
生家の名を告げると、小豆はぼろぼろと泣いた。
「おうちにかえりたい・・・・・・こんなとこ、早く帰りたいよお、お養父さま・・・・・・。みんな、お義兄さまみたいに、小豆のこと、遠ざけるんだもの・・・・・・」
周囲の反応は予想の範囲内だ、と少年は思った。相談役の実子は幾ら青瓢箪と雖も、鍛練は確かに積んでいた。
目の前の少女は恐らく才覚だけで、そんな実子より相応しい判断されたのだ。恐ろしくて並大抵の者は近寄ろうとすまい。
しかし、少年には。
「小豆、泣くな。ここにいる間は、このかなえお兄様が面倒を見てやる」
「え・・・・・・」
「ちょうど妹が欲しかったんだ、こい、精々甘やかしてやる。テレビも、お菓子も、今日は好きなだけ楽しめ」
少女が、閉じ篭り淀んだ一族に吹いてきた、一陣の風のようにも思えて。
精一杯大事にしてやりたくて、彼は手を差し出した。そして、少女も。
「・・・・・・はい。ありがとう、かなえ・・・・・・にい、さま」
少年の手を取り、泣き跡をまだつけたままそれでも、野花がほころぶように笑って。
二人は、ゆっくりとその場から歩いていった。
「うーん、小豆、絵本とか好きか?」
「はい!大好きです!・・・・・・にいさま!」
「そうか。じゃあ、まずはそれでも見よう」
たわいない会話を続ける彼等は、本物の兄妹のように見えた。

監察官として初めての尋問を終えた串間小豆は、手洗い場で戻していた。知識としては学習済みであり、既に人を手に掛けたこともある少女でも、凄惨さに吐き気を覚える現場であったのだ。
ーー彼女の教育担当が、当代きっての拷問官差前鼎蔵だったのが不幸といえよう。尊厳を奪い尽くす肉体の破壊と精神の陵辱を思い起こし、串間はまた食事の名残と胃液をぶちまけた。
一通り落ち着き、身嗜みを整えた彼女に声がかけられた。
「お嬢ちゃんには、俺のテクニックは刺激が強すぎたかな?」
「・・・・・・申し訳ありません、鼎蔵様。粗相を働いてしまいました」
そう。串間小豆にとり、差前は養子先の本家筋となった。常日頃からの習わしで、彼女は敬称を用いて詫びたのだが、
「あー、いい、いい。ここは一応財団だ。俺も君も一職員なんだから、その呼び方は止めておけ」
「はい、鼎蔵・・・あっ、差前、さん」
思わず赤面した串間を見て、差前は笑った。だが、その目は鋭く。
「はっは、相変わらずだなあ。ーいい加減甘さを捨てろよ、串間監察官。俺達内部保安が容赦したら、財団はあっという間に腐り落ちるぞ」
普段からは想像出来ない程の差前の冷たい口ぶりに、串間は身を縮こまらせながら傾聴した。
「お前の才は俺も買っている。だがな、刀として動く時は情は持つな。それが出来なきゃ、爺の後は継げねえぞ」
「はい・・・・・・」
忠告を終えると、場に気まずい沈黙が漂った。予想よりしょげている串間を見兼ねてか、差前からまた声をかけた。
「ま、保育士もやる以上慈悲が無いってのも困るから、少しずつ直せばいいさ。・・・・・・要望の絵本入手したぞ、取りにくるか?」
はい、とぱあっと顔を輝かせ後を着いてくる後輩に、現金なものだと差前は内心で苦笑した。一族の若手でも期待されている女とは思えない純真さを、少女は持っていた。
だが、頬の紅潮が、欲しいものを手に入れた純粋な喜びばかりではないことを、その時の差前はそっと無視した。

差前が連絡を受け現場に辿り着いたとき既に、その場で生きているのは串間のみとなっていた。内通していた職員と敵対組織、串間と共に強襲調査に乗り込んだ密偵達は皆、骸となって転がっていた。
死闘の痕がありありと残る中、差前は横たわり虫の息の串間へと近寄った。薙刀は折れ白く豊満な胸も顕に血化粧の施された彼女には、消え行く蜉蝣の美しさがあった。
敢て冷徹に、差前が問うた。
「首尾は」
「駄目でした、鼎蔵様・・・・・・誰も逃がしていません、けれど、誰も、生きていません」
面の向こうの男の顔を想像したか、串間が口だけを歪めた。
「ごめんなさい、でも私も、もう・・・・・・情けないですが、自害する余力も無いんです。鼎蔵様、お情けを」
ふつふつと呟く串間へと到ると、差前は彼女を心持ち丁寧に抱き起こし、脇に差した刀を抜いた。蛇面に遮られ、彼の表情はわからなかった。
「何か、言い残すことはーー小豆」
看取るためのその一言が切欠となったか、串間の口が開き、滔々と言葉が流れ出た。

嬉しい、嬉しい、鼎蔵様、かなえにいさま。小豆は名を呼んで頂けて、其れだけで、十分嬉しゅうございます。
甘さを捨てきれず、全て忘れて温かいままにも成れず、赦されない思いを孕んだままで。小豆は刀として、職員として、女として半端者でございました。なのに、呼んで頂けるのですね・・・・・・にいさま。
にいさま、御慈悲がまだお有りなら、どうか、どうか、今だけ、小豆を鞘にして下さいまし。その刀を突き立て、決して抜かないで下さいまし。小豆が逝くまで、抜かないで下さいまし。
ああ、ああ、小豆は、本当は、本当は、にいさまの鞘に成りたかった!

女が言い終えるや否や、男は振りかざした刃を音も無くその胸へ呑み込ませた。
歓喜すら含んだ女の絶叫が響く中、互いが互いを離すまいとしかと抱き合った男女の下、血の花が咲き乱れた。
男の腕には、女が熱さを喪う様がまざまざと伝わっていた。
「にいさまーー最期に、御顔を」
今際の身の何処に隠れていたのか、女は渾身の力で男に縋り付いた。男の面が弾みで取れ、外界に出た素顔に女の唇が合わさり、花の微笑が女の顔に広がった。
刹那、女の眼から茫と光が溶け、男の背を掴んでいた手がぶらりと下がった。男が顔を上げると、口からつ、と赤い線が一筋垂れた。
女の血であった。
ーーもう死んでいた。

―あの嬢ちゃんは残念やったなあ。差前クンと違うてかげもひなたもこなせる、使い勝手のええ子ぉやったのに。
「まあな。あそこの爺さんも惜しんでたぜ、手元にゃうらなりしか残ってねえとよ」
―ヒヒ、君んトコもなかなか・・・・・・。ま、ぐだぐだ揉めんと一族連中ではよ話纏めてや、刀サン。ウチは長々身内争いするような血族を、雇い続けんでもええのやから。
「うるせえ、小動物。明日には殺してやるから首を洗ってろ。切るぞ」
嫌味たらしい少年の声は尚も喋り続けていたが、差前鼎蔵は無視して電話を切った。宣言通り、今日中に串間小豆の抜けた穴の埋め方を決め、本邸を発つつもりであった。老人共が幾ら政争をしようとも、結局は統領の彼の判断を総意にせざるを得ないのだから。
庭が見渡せる東屋の中、長椅子から立ち上がり、これからのことを鼎蔵は考える。
串間小豆は荼毘に付された。串間家の人々は突然の交通事故で長女を喪った悲しみに襲われているが、年月が其れを癒すだろう。親しい職員達も、処理により忘れるなり受け止めるなり、向き合い方を見つけたろう。
保育士としても監察官としても落としどころとして妥当な人材は既に見つかっていた。もう暫くすれば財団の傍で幼き子の笑い声が聞こえるようになるだろう。
以前のように、何も欠けのないように、総ては回ってゆく。
―は天にいまし、世はすべてこともなし。
鼎蔵は東屋を出、大広間へと足を向けようとした。
すると、百合の香が鼎蔵の頬を撫でるように漂った。
振り向くと真白な花弁が、ほとりと地面に落ちていた。厚い雲の隙間から一筋皓皓と光が射し、其れを照らしていた。
男は初めて、いもうとのために祈った。

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