さよならの名前
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「これは名前を変えろ、ということでしょうか?」

デスクワークを終え、帰路に着こうとしていた私、田中 輝子しょうこを呼び止めた仇縁あだぶちは私に対し、一枚の書類を差し出してきた。その書類は無機質な明朝体で『構成員における登録及び戸籍情報の変更希望について』と印刷されており、リストの中には"田中 輝子"の名前があった。少々強い言い方になってしまったのか、仇縁は困ったように汗を拭く。

「まあ、そういうことに、なる」
「理由を伺ってもいいでしょうか?」

反省を踏まえ心持ち柔らかに聞いたつもりだったが、仇縁の表情はさらに険しくなる。目つきが悪いと言われるのは慣れたが、こういったときはあまり喜ばしいものではない。

「どこから話すかなあ、田中君、君は元々公安の所属だな?」
「ええ、そうです。私は元々警視庁公安部の所属でした。しかし、それはもう過去の話であり、現在は」
「分かってるよ、それを咎めるとかそういうわけじゃあない」

突然前職の話を出され、すっと心が冷える。……公安部の職員としてとある要注意団体に関与し、時間、正確には異世界跳躍を成した私は14年の月日を失っていた。その間に私は行方不明者となり失踪宣言も出されていた。家族も、友人も、上司も、全て財団による記憶処理が施され、私のことは覚えていない。私のことを覚えているのは私と、財団に存在するデータベースだけ。

現在、私が所属しているのはその"財団"とだけ呼称されるとある秘密結社。正常性維持機関の名の下に、異常な物品や現象などを一般人から遠ざけ、隔離し、保存する団体である。その影響力は世界規模で、所属するまでは知ることもなかった権謀術策が世界の裏側には蔓延っている。前職であった警視庁公安部も十分裏の仕事と呼べたが、ここはまたベクトルの違う異常な職場だ。私は記憶を消して新たな人生を生きるよりも、保ったうえで世界を守る側を選んだ。結局のところ、私はそういう人間らしい。

「公安部に特事課ってのがあるのは知ってるな?」
「ええ、日本国による正常性維持機関であり、公安部から派生したものだと聞いています。しかし、私は公安部に所属していた際、その存在を認知していませんでした」
「うんうん、分かってる。こっちでもちゃんと調べてるし」
「もちろん、仇縁さんたちを信頼していないわけではありません。しかし、前職と名前の変更を求めるということには繋がりがあると判断しました」

仇縁の小さな瞳孔が締まる。私の言わんことを理解したのだろう。とぼけた男だが頭の回転は私より格段に速い。

「なら話は早い。実はその特事課が元公安の情報を何かしらで探ってる、って噂がある。消された人間も含めてな」
「なるほど、その場合元公安である私がそのまま名前を使っていれば何かしら探られる可能性がある、と」
「もちろん記憶処理や情報の改竄等は行っているが、相手は何のかんのと伏魔殿の中で蠢いている輩だからな」

私の名前は公安に所属したころから、正確に言えば生まれたときから変わっていない。例え記憶処理をしていたとしても、その名前がひっかかりになる可能性はないとは言えない。

「理由は分かりました。名前の候補などはありますか?」
「ちょっと待て待て、田中君は話が速くて助かるが逆に進みすぎる。あくまで今のは可能性の話。だからあくまで氏名の変更も希望制だ、要するに上の人間もそこまで心配してはいないってことさ」

仇縁が太い指で希望の文字を指差し強調する。条項を読めば確かに辞令の類ではないらしい。私が読み終えるのを待っていたのか、仇縁が定規で申し込み用紙を切り取り手渡してくる。

「こういうのも電子化すればいいのにな」
「何故強制命令ではないのでしょうか?」
「そうだな、名前ってのはアイデンティティの確立においてかなり強い指標になるからってのが大きいか。こんな職場で自分を見失うのは危険にも程があるだろう」

確かに名前というのは重要ではある。自分が何者かを示すとき、一番大切な者の1つは名前だ。田中輝子という名前は、生きてきた私の1つの欠片だ。……それを誰もが忘れてしまっているとしても。だが、私だけが持っているその思い出に意味はあるのだろうか? 可能性は低いが組織の障害になるこの名前を後生大事に持ち合わせることに意味はあるだろうか? 最初に取り組んだ調査ではこの名前を使えたことが嬉しかった。私は田中輝子なのだと。……それは14年前の私を見ていたかっただけじゃないのか?

「まあ、逆に名前を変えてる人たちもたくさんいるし、ゆっくり考えればいい。期限もそんなすぐじゃないし、そもそも出さなきゃそのままだ。知り合いに相談してもいいしな。じゃあ今日んとこはこれでいいから。あったかくして帰れよ、最近冷えてきたからな」

押し黙った私を心配したのか、仇縁に似合わず優しい言葉をかけてきた。年の差が親子ほどもあるからか、まるで父親に心配される子どものようで恥ずかしく、ぺこりと頭を下げる。実際のところ、父親に心配されたことなどほとんどなく、子どもの頃に一度ケガをしたときくらいだ。父は優しく、『輝子、泣くんじゃないぞ。お前の名前の輝子ってのはな──』記憶はもう朧気だ。確か、私の名前の由来を話してくれたのだったか。

そのまま流れるように帰路に就く。といっても製薬会社に偽装したサイトに併設されている寮に戻るだけなのでほんの数分だが。街灯の光に伸びた薄い影、その影を踏みながら考える。……相談できる知り合い。正直なところまだ財団内の知り合いは少ない。同じ部署の面々は仇縁を除き明らかな偽名を使っている人間はいない。……そういえば仇縁なんて完璧に偽名じゃないかと気づきはしたが、今更戻って聞くのも面倒だ。雛倉にそれを聞くのはデリカシーが無さすぎるし、粟倉はそもそも話が通じない場合がある。と、そこで背を丸めた白衣の男を思い出した。


「で、何で俺なんですかねえ」

アポイントメントを取ったにもかかわらず、猫宮寓司は黒髪の奥から眼鏡越しにじっとりと私を見つめてくる。猫宮とは私の財団オリエンテーションにおいて、講師の一人として知り合った。愛想は良くないが、説明は簡潔で的確だったため、職務においては信頼できる人物だという印象を受ける人物。オリエンテーション後は会う機会もなかったが、その印象と偽名を名乗っているだろうという二点から、今回の事例に対する相談者としては適任だと判断し、アポを取り付けたのだった。

「理由は簡単ですよ、猫宮さんは本名ではないですよね?」
「いいえ、本名ですよ」

私の鎌かけにひっかかることはなく、自然に否定してくる。それくらいは当然かと気にせずそのまま猫宮が偽名であるという前提で話を続けていく。

「今は、ですよね? 別にそれであなたの素性を探ろうなんて考えてはいませんから安心してください」
「最初っからそんなこと思っちゃいませんよ。で、どうしてそう考えたんですか?」
「猫宮さん自体はそこまで気になりませんけど、あまりにも妹さんが後付け過ぎる印象を受けまして。猫宮だから猫が好きって、それはありかなと、ね」

猫宮寓司の妹、猫宮幸子は無類の猫好きだ。それが高じ、近隣の猫カフェで諜報員として働いている。無論、名は体を表すがごとく偶然という可能性も十分に考えられる。猫宮は珍しい苗字ではあるが、ないとは言い切れない範囲だし。だが、偽名が自由に名乗れるのならば、自分の好きなものから取る可能性も同様にあるだろう。私の疑問に猫宮は薄く笑う。

「別にありえないことはないでしょう。むしろ、名前にあるから関心を持つことだってあるはずだ。逆に犬養さんが犬を嫌ったっていいし、吉野さんが極悪人でもいいわけですよ」

そう言いながら来客用と思われるカップでコーヒーを差し出してくる。少し酸化したインスタントコーヒーの匂いがした。

「どうぞ。知らない仲でもないですから話くらいは聞きますよ。名前を変えるかどうかって話でしたよね? あ、砂糖入れます? スティックが後ろにあるので自由に使ってください。ミルクはありませんけど」
「ありがとうございます、猫宮さん。名前を変えるかどうか、大した話じゃないのかもしれませんが、自分の中で迷うものがありまして」
「講師をしてましたからあなたの経歴は知ってます。俺はまあ、名前なんて気にしないんですが、悩むのも分かります、そう簡単に過去が捨てたり抱えたりできれば苦労はしないわけで……」

自分のマグカップにコーヒーを注ぎ、猫宮は椅子に深く腰掛ける。過去という単語が出た後の表情はどこか生気がなく、目は私を通してどこか遠くを見るよう。言葉尻が浮かんだまま消え、しばしの沈黙が部屋に充満する。手持無沙汰になり、スティックを五本ほどカップに投入しかき混ぜる、追加しようとしたところで猫宮が急に話しかけてきた。

「……そういや、田中さん、故郷はどこですか?」
「え? 出身地ですか? 青森ですが……、それが何か?」
「なんだ、青森ですか。俺は山形でしてね、東北同士ってわけだ。青森のどこらへんですか?」
「三沢です。小川原湖の東側なんですけど、市内からは少し離れた場所でして」
「ああ、確かあの象の檻のある場所ですね。米軍基地もありましたっけ、寺山修司の出身地でもあるはずです」

そういえばそんな話を聞いたことがある。グルグルとコーヒーをかき混ぜながら故郷の風景を思い出した。どんよりとした空に飛行機の飛ぶ街。太平洋と湖に挟まれ、雪はあまり降らないが体の芯から冷える故郷。ホームレス生活をしていた時凍死しなかったのは、故郷での経験もあったのかもしれない。だが、この質問の意図はなんだろうか?

「私の故郷がどうかしましたか?」
「いっぺん、帰ってみればいいんですよ」
「三沢に?」

スティックの包みを開けるほどの短い時間、サラサラという音だけが妙に響く。
猫宮は私の言葉を待つようにくるくるとスプーンを廻す。

「そうです、帰ってみてはどうですか?」
「帰ったところで私のことを覚えている人はいませんし、震災を挟んでいるのでおそらくは」

震災、私には実感のない言葉。街ゆく人々は皆、その手に小さな四角いスマートフォンを持ち、自由にダウンロードした音楽を聴き、Wi-Fiの下でストリーミングを楽しんでいる。自分がここにいなかった間の16年は夢のようにしか感じられない。技術の進歩にもついていけなければ世の中の風潮にもついていけない。未だに財団支給の端末はうまく使いこなせず、連絡はもっぱらガラケー、そのガラケーという表現も以前は無かったというのに。いつかは慣れなければならない。ガラケーを捨て、新しい考え方に身を浸し、そちらへ変わらなくてはいけない。

それは名前もそうなのか?

「ええ、どうしようもなく変わってるんじゃないでしょうかね、好きだったカレー屋は潰れてるし、友人はマルチに嵌ってるし、家族はいないし」
「なら、帰って何の意味があるんでしょうか?」
「意味はありませんよ、ですが、変わった何かを見てくることってのは自分の中の整理になるんじゃないかと思います。田中さんはエルマの件に巻き込まれてからどうせほとんど外に出てないでしょ? それならなおさらです。アイデンティティとかはあくまで二の次、大事なのは、自分の中で納得できるかどうかです。……ぶっちゃけて言えば、諦められるかどうかですよ」

猫宮が何でもないように零した諦める、という言葉が妙にすとんと胸に落ちた。カップの底に残った砂糖を舐める。

「故郷ってのは呪いにも近い。忘れたつもりが無性に思い出されたり、勝手に人格と紐づけられたり、人生の中のどうしようもないタイミングで牙を剥く。名前も似たようなもんだと思いませんかね?」
「そうなんでしょうか?」
「さあ、知りませんけど。俺がそう思ってるだけですしね。そういうわけでいっぺん見てみればいいんですよ。そして自分で変わったかどうかを見て諦めるかどうかを決めればいい」

諦める、諦める、か。私は私を諦めるのか? だが何を以て諦めるというべきだろう。それを知るためにも、震災を、ガラケーを、家族を実感するためにも。スケジュールを確認し、時刻表を思い出す。

「……そうですね。もう実際の時間だと20年近くになりますし、一旦帰ってみてもいいのかもしれない。幸い案件が1つ片付いてまとまった休暇くらいなら取れるでしょうし。ありがとうございます、猫宮さん」
「あまり期待しすぎてもいけませんよ。さよならだけが人生ですからね」

「さよならだけが人生だ」確かそれは寺山修司だったな、と少しだけ寒空の故郷に思いを馳せた。


「どうでしたか? 故郷は」

土産を届けるため訪れた猫宮の研究室には、新しいコーヒーの匂いが漂っていた。差し出された熱いカップは外で冷えた体にはありがたい。だが、スティックシュガーは品切れしているようだった。

「何もかも変わっていました。馴染みの店は潰れてましたし、小学校は廃校になって、友人が一人精神を病んでいました」
「それはご愁傷様」

微塵もそう思っていない調子で猫宮がコーヒーを啜る。包装紙のセロファンを慎重にはがす仕草が猫のようで、案外精神が名前に引きずられているのかもしれない。

「他にどこか行かれました? ご実家は?」
「ええ、実家はやはり他の人が住んでいました。家族は震災の影響もあり、青森の方に移住したようです」
「残念でしたね。では行った意味はありませんでしたか」

今度は少しだけ感情の籠った声に、バッグの中からそれを差し出した。受け取った猫宮が眼鏡の奥で微妙な表情を浮かべる。

「家族はいませんでしたが、門柱の傷はまだ残っていました」
「傷、ですか?」
「ええ、それを見て思い出しました。私が子どものころ誤ってぶつかったときの傷です。その時私は派手にすりむいて、痛みと流れてくる血にびっくりして泣いたんですよね。そんな私に慌てて父が駆け寄ってきて、頭を撫でてくれて、『輝子、泣くんじゃないぞ。お前の名前の輝子ってのはな、どこでもキラキラ光っている名前だ。どんなことがあっても、キラキラと輝いていられる名前なんだ』と言ってくれました。そう、私はそれで納得しましたよ」

その記憶はきっと財団のデータベースにも無いだろう。これは私の記憶だ、変わってしまったものの中で納得できるものだ。だからもうそれでいいのだ。返された用紙の中に書き込んだ名前を見つめる。

「良かったじゃないですか、更羽さらば 輝子さん」

「ええ、良かったですよ。柳沢さん

猫宮の表情が一瞬強張った。目つきの悪さは私とどっこいどっこいだ。

「誰のことでしょうかね? 俺は猫宮寓司ですよ」
「あら、勘違いでしたか? 地元では別に隠されていないようでしたのでね」

だが、今までの表情よりもそっちの方が似合っている。何が彼に起こったのか、彼が何を諦めたのかは知らないが、あの言葉は彼に向けられたものだったのかもしれない。……だが、今はこれ以上踏み込む必要もないだろうし、旅立つ前に言った通りその気もない。……何故猫を偽名に使ったのか、何故完全な偽装を行っていないのか。それはその人だけの納得、あるいは諦めだから踏み入るものじゃない。もうそれでいいのだ。

停戦を伝えるため、カバンを探り、ガラケーを押しのける。小分けしていたシロップを取り出し、蓋を開けコーヒーに注ぎ込む。猫宮の視線が逸らされた。どうやら意図は伝わったらしい。

「……糖尿病になりますよ?」
「お気になさらず。で、話は変わりますがさっき言ってた友人、精神病んだ理由がエルマにあるかもしれなくって」
「それはまた因縁の相手ですね。俺もマルチまがいの連中がいるって話から、ってことがありましたよ」
「あるもんですね、もっとも、その友人とは縁が切れてますし、私のことも思い出せないでしょうけど。……そういや猫宮さん、この前さよならだけが人生だとか言ってましたね」
「……あー、恥ずかしいことを思い出させますね。寺山修司の話が出たんでふと思い出したんですよ」
「それ、寺山のじゃなくて、元になったヤツですよ」
「あれ? そうでしたっけ?」
「ええ、寺山が言ったのは、さよならだけが人生ならば……」

また来る春は何だろう。

変わることも変えないことも選べない中途半端な私だが、これが私だと諦めた。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。これは太宰だったな、と苦笑する。猫宮が大きな口で猫のような欠伸をしていた。

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