7月1日
ユミが日記とペンをくれたので、今日から日記をつけることにする。
今日はいつも通りの一日だった。ユミの家に来てから結構経つが、ようやく専門学校へのルートにも慣れてきた。以前いた施設で運転の訓練は何度もやったが、実際に公道を走るとなると、やはり勝手の違いを感じる。ユミを送迎する時間帯に、丁度道路が混みあうのも問題だ。
ただ、最近ユミがよく学校をサボって公園に行きたがるのは気になる。別に俺はどこでユミを下ろそうと構わないのだが。多分、父親のケンゾウさんにうるさいことを言われているのが原因だろう。ユミが不機嫌になるから、できるだけ彼のことは話題に出さないようにしている。
7月5日
ユミが、俺にプレゼントがある、と言ってでっかいステッカーを持ってきた。白地にフランス語で、エテルニテ? とか書いてあるらしい。横には小さなドラゴンの絵も描いてある。いや、確かにフランスとは関係あるけどさ、いくら何でもダサすぎるだろ、恥ずかしいよ、と言ったら、ユミは「貴方って冷たいんだね!」と叫んで、臍を曲げてしまった。俺はしぶしぶステッカーを使うことを了承した。ユミは笑顔に戻った。
昔からそうなのだが、俺にはどうやら、普通の人が備えている情緒や、感情の起伏に欠けている面があるらしい。普通の人間は、結構ちょっとしたことで怒ったり泣いたりする。ユミもそうだ。俺にはそういうことはない。ユミが何をやっても怒りはしないし、涙なんか前にいつ流したかわからないくらいだ。
機嫌を直したユミは、ステッカーと一緒に、辞典と三冊の小説をくれた。これで日記に書く語彙を増やしなさい、だと。確かに、俺は物心ついた時からテレビとラジオで育ってきたから、あんまり言葉を知らないのだ。これを読めばもっと面白く日記を書けるかもしれない。ユミは変な奴だけど、頭はとても良いと思う。
でも、小説の一冊は女の子向けの恋愛小説で、俺の好きな感じじゃなかった。これが好きなユミには申し訳ないが。男と女の誰が好きとか嫌いとか、どうでもいいよそんな事は。
7月23日
最近、ユミの様子がおかしい。いつもひどく元気がないように見えるし、俺が話しかけても黙り込むことが多くなってきた。以前のユミでは考えられないことだった。何かあったのか、と俺が聞いても、何でもない、と頬を引き攣らせて笑うだけだ。学校には通っているが、友達とはあまり遊んでいないようだ。
学校からの帰り道、俺はユミに、何かしたいことはないのか、と尋ねた。ユミは小さく、故郷の知床に帰りたい、私はあの海から嬉しく思われているはずだから、と答えた。ユミは知床で生まれて、亡くなったお母さんに、知床の海にちなんで「ユミ」と名付けられたらしい。お母さんはケンゾウさんと再婚した後、1年前に病気で亡くなったと聞かされた。俺はケンゾウさんとユミが実の親子だと思っていたから、ユミの言葉にショックを受けた。だから親子仲がうまくいっていないんだな。
俺は、一緒に花火でもしないか、とユミに持ち掛けた。昨日、テレビでお祭りのニュースをやってたからだ。無断外出はまたケンゾウさんに怒られるだろうけど、家の庭は広いから、花火くらいなら問題ないと思った。ユミは頷いて、寄ったコンビニで花火セットを買ってきてくれた。
家に戻った後、バケツとかを準備して花火を始めた。ユミがおっかなびっくりな姿勢で火をつけていたので、俺はガスライターを使って一気に何本かに火をつけ、空中でくるくると回して見せた。勿論、ユミの安全には配慮した。ユミは猫みたいに目を大きく見開いて、すごいすごい、と拍手してくれた。貴方って魔法使いみたいだね、とユミが言ったので、俺は魔法じゃない、こんなの訓練すれば誰にでもできることだろう? と返した。ユミは一瞬きょとんとしていたが、すぐにいつもの笑顔に戻った。ユミには笑い顔が似合うと思う。
最後は線香花火をして終わった。色とりどりの点滅する光が、ユミの目の中で弾けていた。俺は自分の花火を見ずに、いつまでもユミの目の中を見ていた。
7月28日
ユミが泣きながら俺のところに来た。どうしたんだ、と話しかけても、泣いているばかりで答えてくれない。とりあえず、座らせて話を聞くことにした。いつものようにやり取りしたが、詳しいことは話してくれなかった。
俺が只管相槌を打っていると、だんだんユミは落ち着いてきた。俺の体にもたれ掛りながら、ユミは唐突に「死んだら人はどうなると思う?」と聞いてきた。死んだあと、人間の魂はどこに行くのかと、そう尋ねてきた。俺は、もしも魂というものがあるなら、それが肉体を離れてどこかに移動するだけだと思う、と返した。行き先が天国か地獄か、あるいは他の場所なのかは知らないが、とにかく魂は魂のままで、どこか行きたい場所に行くんだろうと。だから、死んだといっても、ある意味で魂だけは生き続けるんじゃないか? と言った。前にユミに貸して貰った小説の受け売りだった。
それを聞くと、ユミは嬉しいんだか悲しいんだかよくわからないような顔をして、そうかもしれない、と言って俯いた。ユミは、私には死んだら行きたい場所があるんだ、とはにかむような顔をして俺に言った。俺は、それはどこなんだ? と尋ねたが、答えは戻ってこなかった。
長い沈黙の後、ユミは俺に小さな封筒を渡した。中には手紙が入っているようだった。もし自分に何かが起きたら、これを読んで誰かに伝えてほしいと、そう言っていた。俺は、それじゃあこれからユミに何かが起きるみたいじゃないか、縁起でもないことを言わないでくれ、と返したが、ユミは曖昧な笑顔を浮かべるだけだった。
話し終わった後、ユミは俺の方を向いて微笑み、俺の鼻に唇をつけた。俺が驚いていると、ユミは悪戯っぽい口調で、じゃあね、と言った。俺は何も答えられずに、しばらくそこに立ち尽くしていた。ユミは振り向かずに去っていった。
7月30日
ユミが死んだ。自殺だったらしい。
原因は分からなかった。ケンゾウさんは俺と一緒に色々な人のところを回って、今日の通夜のための準備を大急ぎで進めていた。ケンゾウさんの顔は真っ青だった。ただ、ケンゾウさんは、一人娘を亡くして悲しんでいるというよりは、何か取り返しのつかないことを仕出かしてしまったかのような、そんな蒼醒めた顔をずっとしていた。勿論、俺には何も語ってはくれなかった。
通夜の間、俺は外で待たされた。葬儀に参加したいという気持ちがなかったわけじゃないが、俺の心には相変わらず、ユミの死を悲しむような感情がどこにもないようだった。真夏なのに、駐車場の風が随分と冷たく感じた。俺の目からは涙は流れなかった。
葬儀場には、ユミの友達が何人か来ていた。友達は人目を憚らずに大声で泣きわめいていて、中に入ってからもずっと泣いていたようだった。その姿を見ても、俺は泣きたいと思えなかったし、涙の一滴も流れることはなかった。
俺は、ユミの魂がどこに行ったのか考えた。もうとっくに遠いどこかへ行ってしまったのか、それともまだどこかで俺のことを見ているのか。もしも近くにいるのなら、もう一度ユミと話がしたい、と俺は思った。
でも、会ったところで何を語ればいいのか、俺には全然考えつかなかった。俺はただ茫然と、悲しげな人々の列を眺めていた。
[財団の調査によると、2007年7月29日未明、████ 由海氏は自室にて異常性のない縊死を遂げていることが判明している。自殺の動機、及び上述の手紙の内容は明らかになっていない]
8月1日
ケンゾウを殺した。
昨日の夜、ユミから貰った手紙を読んだ。ユミは警察に渡してくれと手紙に書いていたが、俺は渡さずに破いて捨てた。街外れの下水道に投げ込んだから、誰にも見つからないはずだ。中身は全部俺の頭の中に入っている。ここに書いたら、万一これを警察が読んだ時に知られてしまうから、内容は書かない。誰にも言うつもりはない。この秘密はユミが俺だけに伝えてくれたものだ。
とにかく、手紙の内容を読んだ俺はケンゾウを殺そうと決意した。俺の心には「殺意」と呼べる何かがあった。でも、俺の中に「憎しみ」とか「怒り」とか、殺人の動機になるような強い感情があるとは思えなかった。どちらかと言えば、これは「条理」の話だ。ユミが最後に死を選んだことは正しくなかったかもしれないが、ユミは元々正しい生き方をしてきた人だった。ユミにあんなことをしたケンゾウは、間違った生き方をしている。俺はユミの味方だ。だから、正しい者が正しくない者を殺すことに問題はないはずだ。
警察に読まれたら嫌だから詳しく書かないが、ケンゾウ殺しはあっさりと終わった。俺は急にハッとした。自覚はなかったが、その数時間は思考が止まっていたようだ。今の科学捜査なら、ちょっとした痕跡からでも簡単に犯人を見つけられるとテレビで見たことがある。そう思うと、俺は今すぐどこかへ走り出したくなった。殺しまでしておいて、今更罪から逃げたくなったわけじゃない。俺はただ、ユミが行きたいと言っていた場所が、どこだか分かっていないことを思い出したんだ。警察に捕まれば、今後一生知る機会はないだろう。それは俺にとって本当に恐ろしいことだった。
俺は駐車場を出て、猛スピードで道路を走りだした。どこに逃げようとしていたのかは自分でもわからない。ただ、どこか遠くに逃げなければ、すべてが終わってしまうという焦りだけがあった。俺は何としてでもユミの行きたかった場所を探さなければならない。それまでは絶対に捕まりたくない、そう思っていた。
道路に出てから一分くらい経った時に、突然目の前に閃光が走った。全てを包み込むような白い閃光だった。その後、周りの風景がどんどん透き通ってきた。道路以外の全てが段々と透明になり、俺の体も風景と同じく透き通っていった。目の前にトラックが走っていて、あまりに加速していたので避けきれなかったが、俺の体はトラックを通過し、只管道路の上を走り続けていた。
どれくらい走ったのか自分でもよく分からないが、俺は今苫小牧の付近まで来ているようだ。札幌は今頃大騒ぎになっているかもしれないが、とりあえずここまでくれば安心だろう。何だか全身に酷い倦怠感がある。さっきの不可思議な現象のせいかもしれないが、とりあえず今は考えずに休むことにする。
ケンゾウを殺したことに後悔はない。俺は正しいことをしたという確信があるからだ。でも、ユミはきっと、こんな行いを望んでいなかっただろう。もしも優しいユミが生きていたなら、ケンゾウを許し、警察に全てを任せるようにと俺に伝えたと思う。今の俺はただの人殺しだ。ユミのところへは、もう戻れないだろう。
[██████駐車場内の監視カメラの映像を確認したところ、2007年8月1日午前1時37分、一人で駐車場に現れた████ 権三氏にSCP-1340-JP-1が接触し、転倒させた後に頭部をタイヤの下敷きにして轢殺する様が記録されていた。約3分後、SCP-1340-JP-1は駐車場から発進した。SCP-1340-JP-2の姿は確認できなかった。██████駐車場は郊外にあり、事件の目撃者は存在しない。尚、事件の直前、権三氏は駐車場の近辺でタクシーから降りたことが判明している]
[後の公安部特事課の捜査により、権三氏の自室から、「由海氏の死の真相を知っている」と主張する、何者かからの手紙が発見された。手紙により権三氏は██████駐車場に呼び出されたと考えられている。手紙の筆跡はSCP-1340-JP-2と一致した。尚、権三氏は手紙の内容を誰にも伝えていなかった]
8月7日
ケンゾウを殺したあの夜から、全く腹が減らなくなった。食料を盗みに行かずに済むのはとても助かるが、一体俺の体に何が起こっているんだろうか? どんどん不安ばかりが広がってくる。
もう6日経つが、苫小牧の郊外に隠れていると、不気味なくらい誰からも注目されない。テレビのニュースではケンゾウ殺害事件をバンバン報道していて、犯人が俺だってことも、明言はしないがだいたい見当がついている感じだった。ミステリーもののドラマで見たが、犯人は現場に戻ってくる習性があるらしい。警察は俺を待ち構えているのかもしれない。そうはいかない。元より俺に帰る場所なんてないんだ。ずっとこのまま北海道を逃げ続けてやる。
でも、いくら腹が減らないからって、ただ逃げているわけにもいかない。ユミの行きたかった場所を、出来るだけ早く見つけなくては。色々候補を考えた。やはり第一は故郷の知床だろう。札幌からは遠いし、俺の事情とも合致している。明日当たり、こっそりと道東に向かおう。ばれないように高速道路は使わないでおこう。
8月9日
頭が割れそうなほど痛む。少し休んだが、改善の気配がない。雨が降っている。雨は体が冷たくなるから嫌いだ。
山道を走っていたら、パトカーに見つかってしまった。幸い逃げ切れたが、あの変な力をまた使ったせいか、体の調子がおかしい。頭痛だけじゃない、足も腕も心臓も、全身が引き攣るように痛む。
海沿いに走り続けて、小さな町まで辿り着いた俺は、潰れた民宿の駐車場で休むことにした。もう警察から逃げる機会がないことを祈りたい。
そういえば、逃げ終わった時、後ろに花火セットが落ちていた。民家もないような場所なのに。
(花火 花火? 花火って何だっけ 思い出せない)[この部分は欄外にメモ書きされている]
[8月10日未明、SCP-1340-JP-2は警察から二度目の逃走を行った。異常効果の影響か、以後の記述はSCP-1340-JP-2が重度の錯乱状態にあったことを示唆している]
8月10日
頭が痛い。
心臓が痛い。
足が痛い。
腕が痛い。
体がバラバラに
ユミの
ユ月ミ日
[「ユミ」という単語が乱雑な字で157回書かれている]
花火 花火 花火 花火 花火 花火 はなび はなび 花火 花火ってなんだ? 花火ってなんだ
[字は10回以上重ね書きされている]
月 日
あの絵を描いてもらったとき、ユミは最初、俺にぴったりと体をくっつけてきた。やめろよ、と注意したら、今度は俺の腕に自分のを絡ませてきた。ユミの、ユミの小さな手が、俺の手をしっかりと握っていた。
8月15日
俺はとうとう辿り着いた。
記憶がグチャグチャになっていて、どのように走ってきたのかはわからないが、気づいたら海が見えていた。知床の海だ。透き通った、真っ青な海だった。見てすぐに分かった。ここだ。ここがユミが生まれた海だ。この海の中にユミはいるんだ。そう思うと、頭にかかった靄のようなものが晴れて、思考が巡るようになってきた。
これを書いている今も、頭が割れるように痛い。動悸も止まらない。心臓にヒビが入っているみたいだ。たぶん、俺はここで死ぬんだろう。俺みたいな人殺しの魂は、きっとこの海の中には行けない。でも、ここにユミがいるとわかっただけでもいい。俺の魂がこれからどこに行こうとも、最後に目指すべき場所はここなんだ。俺の頭が完全に狂ってしまう前に、この場所に辿り着けて本当に良かった。
海を見ていたら、俺の顔を何かが流れていた。涙だ。熱い涙がぽとぽとと流れている。俺は涙を拭うこともできずに海を見つめ続けた。涙がこんなに熱いものだなんて知らなかった。
俺はユミに向かって「ありがとう」と言おうとした。
俺の喉は枯れていて、もう何も言葉は出なかった。