結論から言うと、西山さんは死にました。俺が殺したからです。順を追って、初めから説明したいと思います。
"ぎんやんま"に来る少し前、俺は大阪にある別の料亭で働いていました。料理の道に進むためにわざわざ青森の田舎から出てきたくらいですから、腕に自信はありました。ですが、いくら頭に血が上ったからといえ、お客様に手を挙げるような料理人は店に居場所なんて在るはずがありません。三十路に足を突っ込みかけ、料理以外に取り柄なんてない自分に再就職なんてできるのかと途方に暮れていましたが、そんな俺を拾ってくれたのが西山さんでした。なんでも太平洋戦争を生き抜いた戦友である、元の店の店長から俺の噂を聞いたそうで、わざわざ向こうから連絡をくださったのです。必死に頭を下げる俺に、料理の腕が確かなら心配ない、と優しい言葉をかけてくださったのをよく覚えています。
勤め始めてから10年近く経った頃でしょうか。盆もとっくに終わり、もう涼しい夜が何日も続いてきた頃、ある常連のお客様が酔いつぶれて眠ってしまいました。もう店じまいの時間なので、私は片付けを他の板たちに任せてしばらく介抱を行っていましたが、そのお客様がふと妙なことを口走りました。曰く、セキリュウクラブでは西山さんにはいつもお世話になっている、またいいザクロが入ったら教えてくれ、と。まあ確かに柘榴の季節でしたが、それを使った料理はうちではやってないし、やる予定もありませんでした。そもそも、酔っ払いの話だということを差し引いても、何か話が嚙み合わない印象を受けたのです。西山さんに聞いてみてもとぼけられるばかりで訳が分からないまま、時間を追うごとに違和感は膨らみ、とうとう抑えきれないほどになりました。そこで私は仕事の合間を縫って知り合いの料理人に聞き込みを行い、時には興信所に依頼したりしながら、セキリュウクラブとやらについて調べていくことにしました。
1年半かけて得た断片的な情報を接ぎ合わせてようやく見えてきたその概観は、証拠の写真などによる裏付けが無ければ鼻で笑い飛ばすような与太話でした。内容は大きく分けて3つです。まず、京都には悪趣味連中が集まって定期的に人肉料理を嗜む『石榴倶楽部』というものが存在すること。それから、西山さんもその倶楽部の会員であり、『秋津』という偽名を名乗って料理人を務めていること。最後に、料理人の引継ぎに食人を含む儀式的な要素が存在することです。先代の『秋津』が死んだら、人の遺体だけを溶かすように切断できる包丁とやらでその肉を切り出し、それを食うことで技術の継承とする、というやつです。
これらに気づいてから、私は胃が締め付けられるような思いで日々を過ごしました。俺がこそこそ情報を嗅ぎ回っていることを、どうして石榴倶楽部の連中が気づいていないと言い切れるでしょうか。あまつさえ、俺は西山さんに『セキリュウクラブ』とは何かという問いを迂闊にしてしまったというのに。人肉をある程度自由に供給できる、倶楽部の規模や影響力とは一体どの程度だろうか。もし彼らに俺のことがバレたら、俺のこれからの生活はどうなってしまうのだろうか。
俺は悩み抜いた挙句、西山さんとの交渉に臨むことにしました。仕事が終わったある日、俺はボイスレコーダーを隠し持つと、西山さんを呼び出して石榴倶楽部について知っていることを洗いざらいぶちまけました。西山さんはじっと俺の目を見つめながら黙って話を聞いていましたが、話が一通り終わると腕を組んだまま数十秒間天井を睨み、静かに言いました。『それで、お前はどうしたいんだ』と。
俺は石榴倶楽部のことを公にして法の裁きを受けてもらいたいわけでもなければ、西山さんの趣味に口出しするつもりもありませんでした。ただ、自身の身の安全の保障と、可能であれば西山さんの代で石榴倶楽部とこの店の関わりは絶ってほしい、と頼みました。西山さんはまた腕を組んだまま黙って上を向き、しばらくの間目を閉じて考え込んでいましたが、『できる限り要求は飲もう。だからもう石榴倶楽部の話はするな』とだけ言いました。
それきり、互いに石榴倶楽部のことは一切口にしませんでした。西山さんが口利きしてくれたのかどうか、今となってはもう分かりませんが、俺の生活に特段の変化がないまま6年ほどの月日が流れました。
西山さんがすい臓癌を患っていることが明らかになったのは、今から半年ほど前のことでした。年齢が年齢ですし、転移が始まっている可能性だってあります。家族と話し合った結果、西山さんは市内に新しくできた施設で余生を過ごしてもらうことになりました。そこで必然的に、誰が店を継ぐのかという問題が浮上してきました。自分が店を継ぐことになるんだろうなと、俺は当然のように考えていました。しかし実際はご存知の通り、清水が店を継ぎ、俺はあくまでその補佐にすぎませんでした。
別に40にもなっていない人間が板長になることに不満があったわけではありません。清水だって料理の技巧は私に匹敵するほどでしたし、気遣いや愛想の良さといった面では彼の方が優れていたかもしれません。ですが、客に嫌味を言われてもそれが皮肉だということにすら気づかずへらへらと笑い、仕入れの場で吹っ掛けられても平然としている。そんな人間が人をまとめ上げることができるのか。そもそも清水は石榴倶楽部のことを知っているのか。あんな世間知らずのボンボンを、一体なぜ西山さんは板長に選んだのか。疑念はそれ以来胸の内でずっと燻り続けていました。
それが明かされたのはつい先日、西山さんが施設に入る予定の日のことでした。息子たちが仕事で動けないとのことで、俺は送迎を買って出ました。しかし朝8時頃西山さんの家を訪れた際、そこに西山さんはいませんでした。奥さんの話では、"ぎんやんま"に最後の挨拶をしてくる、と言い残して明朝に家を発ったとのことでした。俺は衣服や日用品だけ受け取って車に積み込み、店に向かいました。店に着くと西山さんは厨房で独り、ゆっくりと丁寧に包丁を研いでいました。直接見るのは2か月ぶりでしたが、西山さんにかつての面影は無く、まるで別人のようになってしまっていました。本来なら同行を促す言葉や、体を気遣う言葉を口にするべきだったのでしょう。しかし、口をついて出たのは別の言葉でした。
二人きりになった今なら聞けます。どうして板長自分ではなく清水を選んだのか。石榴倶楽部の一件のせいですか、本当のところを教えてください、と。
すると西山さんはこちらを振り向き、困ったような笑いを浮かべながらゆっくりと私に語り掛けてきました。出来の悪い生徒に諭すように説きかけるようなその言葉は、一言一句違わず憶えています。
『何を勘違いしてるのかしらないが、石榴倶楽部の件が無くたって、お前みたいに腕の悪い料理人は板長にするつもりはなかったよ』
その言葉を耳にして、内容を理解した瞬間、私の中で何かが切れました。西山さんの首根っこを左手で押さえつけると、台所の上にあった包丁を引っ掴んで西山さんに何度も突き立てていました。西山さんは驚いたような顔をしながら何かを口にしていたようでしたが、その言葉はもう私の耳には届きませんでした。
時間にすれば数十秒くらいでしょうか。何度目かの包丁を突き立てようとした俺は、大きくよろめいて壁に頭をぶつけました。初めは包丁が手からすっぽ抜けたのかと思いましたが、爪が食い込むほど強く握りこまれた拳には、たしかに包丁がありました。包丁、石榴倶楽部、ああ、何が起こったのか、何をしてしまったのか数秒かけて理解して、ようやく俺は我に返りました。俺は胸から上が半分取れかけている西山さんを慌てて抱きかかえ、その顔を覗き込みましたが、その虚ろな目にはもう何も映っていませんでした。
皮肉にも、包丁のおかげで遺体の処理には困りませんでした。水にくぐらせるよりも軽い感触で骨を断つことができるし、脂が切れ味を悪くすることもありません。トーストにバターを塗るように、包丁の刃を寝かせて軽くなぜるだけで、みるみるうちに遺体は無くなっていきました。そうやって処理を進めるうちに、この包丁は人間の解体や調理に用いるのには向いていないことが分かりました。肉を切る感触が本当に全く無いので、関節や筋に沿った解体はできないし、ましてや精密な包丁捌きなんて望むべくもありません。あの興信所の調査が正しければ、西山さんは何十年と石榴倶楽部に在籍し、この包丁で料理を作り続けていたのでしょう。どれだけの練習を積めばそんなことができるようになるのか、俺には見当もつきません。
遺体の処理が一段落し、床についた血を雑巾で拭っていた俺は、椅子の陰に小さな肉片が落ちているのに気づきました。それは、よろめいた時に包丁の刃が当たって切り飛ばされたであろう、左手の親指とその付け根の肉でした。なぜか鶏の手羽元を思い起こさせるその肉片を見たとき、頭の中にもう一度あのことが浮かびました。先代の『秋津』が死んだ時、その肉を食べることでその技術の継承とする儀礼。共犯意識によって当代の『秋津』に帰属感を与え、倶楽部内に料理人を確保するための表向きの題目。きっと西山さんもやったんでしょうし、やがて清水もすることになるはずだったんでしょう。極限状況に置かれたことによる高揚感や清水に対する嫉妬、様々な思考や感情が入り交じり、それを食べたいという欲求がどうしようもなく湧いてきました。
しかし、殺人現場に居留するリスクを冒してまで初めて人肉を食べた感想は、ああ、こんなものか、といった味気ないものでした。肉質の悪い羊肉といった味わいで、豚肉や牛肉と比べてとびきり旨いわけでもありません。肉を食べたからといって料理の腕がよくなるなんてことも、当然ながらありませんでした。拭った血を包丁に吸わせ、西山さんの衣服や靴をごみ袋に詰めて密閉すると、調理場の血の臭いはようやくましになりましたが、時計を見るともう11時半でした。定休日だから誰も来るはずがないと分かっていましたが、それでもその場を早く離れなければなりません。高齢者が徘徊の末に行方不明となる例も全く聞かない話では無いと自分に言い聞かせながら、俺はごみ袋と包丁を片手に逃げるように店を出ました。
それからの記憶は断片的にしか残っていません。ただ高速道路に乗って人のいない方へ、いない方へと向かおうとしたことだけは強く憶えています。運転中も様々な不安が頭の中を駆け巡り、サービスエリアでも人の目が気になっておちおち食事もできません。ストレスのせいか、あの時食べた肉の火入れが悪かったせいかひどい下痢に苛まれ、悪夢にうなされて飛び起きれば30分も立っていない。そうして気が付くと、俺は青森市内に入ったところで高速を降りていました。そのまま人目を避けるように、自分が生まれ育った██山に車を進め、まだ寒さの残る山中で2回夜を明かしました。あの時車に積んだ毛布、ウェットシートや着替えがこんな形で役立つなんて、想像もしていませんでした。そしてその後は、まあ、あなたがたの知る通りです。
あの包丁は、食人欲求なんて下らない好奇心に振り回された人々と、それに縛られた料理人たちの呪いそのものと言っていい。本当ならば西山さんを殺めてしまった俺が、それをやらなくてはいけなかったんでしょう。でも俺にはどうしても出来なかった。証拠品をみすみす壊すなんてこと、あなた方はしないと思います。ですがどうか、どうか全てが終わった後でいいですから、あの包丁を壊してやってくれませんか。