はあ、とため息をつく。
サイト-841の食堂の椅子に座って、私はミルクを飲んでいた。受け取りカウンターはとっくに消灯しており、食堂全体は蛍光灯の明かりがあるにも拘わらず薄暗いように感じられる。白いテーブルの上にはミルクの入ったコップが置いてあり、コップから立つ湯気は私の息でたちまち揺らめき、消えていく。
時刻は既に1時を回り、ようやくさっき自分の仕事が片付いたところだった。別に困難だったわけではなく、単に仕事の量が多かっただけだった。当然かなりの疲れと眠気を感じるが、それは仕事の多さだけが原因ではなかった。
私は白衣のポケットからスマートフォンを取り出し、電源ボタンを軽く押す。すぐにロック画面が映し出され、夫と娘と私が笑顔で並んでいる写真が出てくる。その写真は私の疲れを癒すと同時に、更なる不安を私に与えてくる。もう一度、大きなため息がこぼれる。
「今日も、無事に乗り切れた……」
私と夫は職場結婚だった。たまたま同じオブジェクトの担当になり、そのまま惹かれ合って、素敵な結婚式を挙げた。1年後には娘が生まれたが、今娘は財団とは全く関係のない幼稚園に通っている。これは夫と決めたことだ。娘には財団とは無縁の幸せな生活を送って欲しい、というのは私も夫も同じだった。
元々専門が同じだったこともあり、現在も私たちは同じ研究チームに配属されている。大変なこと続きだが、それでも不満のない生活だ。夫は職場でも家でも真面目で、いつも同僚たちに羨ましがられる程だ。共働きということもあって家事は分担し合っているが、正直料理の腕は私より上手だと思う。本当に、理想の夫だ。
色々なことを考えている内、頭ががくりと倒れかけたのに気づいて慌てて元の姿勢に戻る。同僚のデイビッドに「今日は遅くなる」と言って娘の世話を頼んでいるから、もうここで眠ってしまおうかとさえ思う。しかし、流石にこんなところで寝てしまうのは身体に良くない。私はゆっくりと立ち上がり、ミルクのことなど忘れてしまいながら、ふらふらと自分の研究室へと歩き始めた。
………
……
…

ふと気がつくと、私は廊下に座り込んでいた。眠気はすっかり吹き飛んでいた。どうやら、研究室に向かう途中ここで力尽きて眠ってしまったようだ。
ゆっくりと立ち上がり、辺りを見回す。少し向こうに「第六研究室」というプレートが見えた。思ったよりも近いところで寝ていたらしい。私は急いで研究室に駆け込む。何故かはわからないが、言い表せない恐怖を感じる。
研究室に入ると、そこには誰もいなかった。不思議がりながら自分の席に座る。少し安心感を覚えるが、完全には恐怖を拭うことができない。辺りをキョロキョロと見回しても誰もいないにも拘わらず、誰かに見られているのではないか、という気持ちが抑えられない。
取り敢えず、落ち着こう。そう思い、ウォーターサーバーへ向かおうと立ち上がって──

突然、耳をつんざくような銃声と、ガラスが割れる音が鳴り響く。私の目の前の窓ガラスが割れ、こちら側に飛び散る。私は咄嗟にしゃがみ、耳を塞ぐ。ガラス片は私には降りかからない。
何が起こったかわからないまま、再び私は周囲を見回す。私が入ってきたドアには弾痕が見えるが、相変わらず視界には誰も映らない。しかし、確かに私はあの銃声を聞いた。つまり、誰かがいる。銃を持った何者かが私を狙っている。心臓がバクバクと高鳴っていく。取り敢えず、ガラスが飛び散った方向と割れたガラスの位置から、この窓の向こう側、つまりこの研究室の外から銃撃してきたことは確かだ。私はしゃがみながら、急いで近くの机の下に潜り込む。その衝撃で机が揺れ、上にあったと思われる紙が落ちてくる。
震えながらも、私は冷静に考えようとする。しかし当然そんなことはできず、隠れる以上のことをすることはできなかった。息が荒くなるのを必死にこらえる。足音は聞こえない。まだ私のことを狙っているのか?そういったことが目まぐるしく頭の中を巡る中、ふとさっき落ちた紙が目に留まる。それは、オブジェクトの報告書だった。

夢に登場する老年男性のモンタージュ画像
アイテム番号: SCP-1669-JP
オブジェクトクラス: Euclid
特別収容プロトコル: 財団ウェブクローラーがインターネット上を走査し、SCP-1669-JPに関係している可能性のある全ての情報をフラグ付けしています。収容チームはフラグ付けされた情報からSCP-1669-JPに関係している可能性の高いものを選出し、隠蔽工作の対象を特定します。被害者へは原則クラスA/B記憶処理が施されます。
説明: SCP-1669-JPはヒトに発生する仮死現象です。この仮死状態は最短4時間、最長12時間続きます。通常の仮死現象との相違は、原因が不明である点と、全被害者が仮死中に共通点の多い夢を経験している点です。その主な内容は以下の通りです。
- 被害者は夢で自分が現在暮らしているか、過去に暮らしていた場所にいる。屋外にいる場合歩行しており、屋内にいる場合はどこかに座っている。被害者は周囲に対して恐怖を感じている。
- 銃声が響き、被害者に関連する物品、或いは被害者に関連する映像を映し出した何かが破壊され、被害者がパニック状態に陥る。被害者は銃声から逃亡する。
- やがて、被害者は恐怖に耐えられなくなって絶叫する。同時に被害者が射殺され、地面に倒れる。この時、視界にライフルを持った老年男性(画像)が映る場合がある。
読んでいる途中で、銃声と共に何かが割れる音がする。直後、机の上からコーヒーがボタボタと垂れてきて、報告書が汚れていく。私はその内容に驚いて何もできずにいた。あれは、明らかに私の現状と一致していた。
そうだ、思い出した。前に一度、デイビッドが担当しているオブジェクトが気になって目を通したことがある。その事実は私の恐怖を幾らか和らげると同時に、別種の恐怖を増大させる。つまり、私は今まさにSCP-1669-JPというオブジェクトの影響を受けていることになる。これまでに何か大きな肉体的・精神的被害は見られていなかった筈だが、相手は異常存在だ。いつ何が起こるか完全には断言できない。
だが、これはある意味チャンスでもある。財団職員が被害者になったケースはなかった筈だ。私はその初めてのケースとして、あの狙撃者に相対する必要がある。えー、確か、あの報告書の続きは──
被害者の夢に登場することのある老年男性の外見は基本的に共通であり、財団が作成したモンタージュ画像は該当する被害者の記憶とほぼ一致していると証言されます。当該男性は黒い無地のジャンパー・黒い手袋・ジーンズを着用しており、ジャンパーのポケットからは赤い布が覗いているとされます。当該男性が自我を有する夢界実体であるかは、現在も議論中です。
覚醒した被害者の多くは、自身の現在の周辺状況と記憶の相違を訴えます。この記憶混乱は3時間から7時間で治まります。
そうか、相手は夢界実体──つまり、意思を持った夢の存在である可能性もあるのか。となると、私はこの狙撃者と何らかの会話をしてみるべきか?そう思い、私は机の下から出て、狙撃者に呼び掛けた。
「あなたは何者なんですか?」
直後、銃声と共にブンという音が私の右側を通り抜けていく。数瞬後、私はそれが弾丸が頭の横を通過した音だと理解する。恐怖が一気に増大するが、落ち着いて深呼吸を始める。これは夢だ、問題ない。
一時の静寂が研究室を包む。どうやら会話をするつもりはないようだ。そして、私は次の行動を考える。取り敢えず、今までのケースから逸脱するような行動を取るべきではないか。何より、夢とはいえこのままじっと銃撃される恐怖に耐えられるかといえば微妙なところだ。
取り敢えず、まずは何かに狙撃者の注目を向けさせてみることにした。私は素早くズボンのポケットから10セント硬貨を取り出し、前方目掛けて投げる。銃声がして10セント硬貨が弾かれると同時に、私は研究室の扉に手をかけ、開く。

もう一度銃声が響き、ガラスが割れる音が背後で聞こえる。だが、そんなこと等構わず、先ほど銃撃をしてきたと思われる場所まで走る。「狙撃者に生きたまま接触する」ことが私の考えた行動だ。そうして、私は目的の場所にたどり着き──
──そこで、娘の巨大な顔写真が壁に掛かっているのを見つける。
戸惑っている間に銃声が響き、娘の写真の額に弾丸が撃ち込まれる。弾痕から白いミルクのような液体がドロドロと噴き出て、娘の顔を汚していく。私の心臓の高鳴りが加速する。
夢だとわかっているのに一向に恐怖が衰えることはなく、むしろ私はこの状況から逃げたくて仕方なくなる。それに、何故だ?何故ここで娘が出てくる?疑問と恐怖で私の余裕は無くなっていき、次の瞬間に聞こえた銃声と同時に、私はその場から再び逃げ出した。今度は、何の思惑もなく。

息を切らしながら、必死に廊下を走る。暫く走っている筈なのに、全く奴と距離を離せている気がしない。その証拠とばかりに、銃声と共に目の前の壁に弾痕が現れる。逃げられないのではという考えが浮かぶが、足を止めることができない。止まれば撃たれる。撃たれれば、私は死ぬ。その考えが、私を更に震え上がらせる。
別の研究室の横の廊下に差し掛かる。すると、微かに誰かの話し声が聞こえてくる。私は研究室の窓を見る。
「──ふふ、元気なんだから」
「……え……?」
そこにいたのは、私たち夫婦と娘だった。研究室の中は、よくピクニックに行く広場だった。夫は、娘を抱き抱え高い高いをしてやっており、窓の向こうの私はそれを見て笑っている。走っている私は、それがつい最近の私たち家族のワンシーンだと気づく。
走りながら、私は状況を何とか飲み込もうとする。しかし、そんな暇を奴は与えてはくれなかった。銃声と共に窓ガラスが割れ、私は思わず立ち止まって小さく悲鳴を上げる。ガラスが割れると同時に、研究室の中の光景はただの暗黒に変化する。私は混乱したまま、次の銃撃を恐れて走り出す。
今度は、サイト-841の中庭の近くに差し掛かる。本来花壇とベンチが置かれている筈のその場所には、私の家のリビングが存在した。そして、テレビの前のソファーにはまた私が座っていた。しかも、大きなお腹をさすりながら、隣に座る夫と笑い合いながら。何の番組を見ているのか、何の話をしているのかはわからないまま、再び銃撃によって窓が割られ、幸せに見える光景が暗闇に飲まれる。私は飛び散るガラス片から離れつつ、走り続ける。
何故、ここで娘や夫が出てくるのか?奴に狙われているのは私の筈なのに。心臓の鼓動が疲労と、益々増大する恐怖によって加速する。息が苦しい。もう止まってしまいたい。でも、死にたくない。死ぬ苦しみが怖い。
そういったことで頭がいっぱいになっていると、突然足首を掴まれた感触がする。何事かと思って下を見ると、私の影から黒い手が伸びていた。やがて、私の影が黒い人型の存在として実体を持って、私に語りかけてきた。その顔は、涙でぐちゃぐちゃになった私の顔だった。
「逃げるな」
「……は、離して!」
「お前のせいで、お前のせいで……!」
黒い人影は私の肩を掴み、激しく揺さぶる。振りほどこうとするが、その力は異常に強く全く抜け出せない。
「あんたは!あんたはずっと逃げてきた!死ぬのを怖がって、死ぬことから逃げることさえも怖がるようになった!」
「何の──」
「あんたなんか、あいつに撃たれて死んじゃえば良いんだ!」
瞬間、銃声と共に私の影の頭に穴が空き、黒い液体が辺りに飛び散る。私の身体に液体が降りかかるのとほぼ同時に、私の肩を弾丸が貫く。激痛が走り、私は肩を抱えて呻く。しかし、次の瞬間には再び走り出していた。実際に死というものが目の前に提示されたことで、私はいよいよ何も考えることができず、ただ逃げることしかできなくなった。
暫くして、私は第二研究室にたどり着く。窓ガラスの向こうには、私と、夫と、同僚のデイビッドが立っている。夫は普段使っているグラスを片手に持ち、私とデイビッドは陶器製のコップを持って、全員が楽しそうに談笑している様子だった。しかし、その光景もまた銃撃によって割られてしまう。それを見て、私は全く冷静でない判断に流れてしまう。廊下で走るのはもう耐えられない。先ほど研究室でも銃撃を受けたことを忘れ、私は研究室のドアのノブに手をかける。急いで隠れなければ。急いで、奴から身を隠さなければ。そうして、私はドアを開き──

──扉の向こうで、私が、ベッドの上で裸の男──デイビッドと、抱き合っていた。
「嫌あああああああああああああ!」
私の叫びと共に、弾丸が私の心臓を貫いた。

どさり、という音を立てて、私の身体は床に倒れる。生温かい液体が私の身体に触れ、広がっていく。それとは対照的に、私の身体は少しずつ冷たくなっていく。僅かに動かせた指先も、次の瞬間には完全に言うことを聞かなくなっていた。
視点が切り替わり、血だまりに倒れる私の死体が見える。しばらくして、足音と共にライフルを持った老人が──報告書の記述通りの老人が近づいてくる。
「死ねて良かったな」
瞳孔の開いた私の死体が、唇を動かさずに返事をする。
「何で、殺したの?」
老人は私の死体の近くに座り、壁にもたれ掛かる。
「お前に呼ばれたからだ」
「……え?」
老人はライフルを手に取り、ポケットから布を取り出して拭き始める。
「お前は死にたがっていた。だから殺した。お前はここで死を味わい、その和らいだ苦味を噛みしめながら、死して目覚める」
「……よく、わからない……」
「すぐにわかる。さあ、死ね。そして、二度と私を呼ばないことだ、逃亡犯」
老人が立ち上がり、死体から離れていく。死体は結局動かず、私の意識も次第に薄れていく。ああ、次は何が起こるんだったか──
………
……
…
目が覚めると、私は研究室の自分の机に突っ伏していた。机の上には、DNA鑑定サービスとやらからの何かの封筒が置いてある。意識が朦朧としている中、私は自分が何か重大なことを経験したことを朧気に思い出し、何だったか思い出そうとする。ああ、そうか、あれは──
「おはよう」
ポン、と肩を叩いて、同僚が話しかけてくる。私は一瞬ドキリとしたが、デイビッドではないことを確認してすぐに冷静さを取り戻し、今回の夢の内容について話そうとする。
「ねえ。話があるんだけど──」
「今は私と話してる場合?そんなことよりまず、やることがあるでしょ」
「え?」
「え?じゃないでしょうが。早く支度して、家に帰って、娘さんに会ってあげないと」
「──ああ、そうか。そうだね」
同僚の態度に納得はしたものの、違和感が残る。その口調には、いつもの優しさではなく、何か、底知れぬ怒りのような、悲しみのようなものを感じる。
「全く。……本当にバカなことしやがって」
バカなこと、とはどういうことだろうか。彼女の態度の原因に全く心当たりがないが、すぐにこれがSCP-1669-JPによる記憶混乱なのではないかと思い当たる。なるほど、こういう風になるのか。となると、何か彼女の怒りに触れるようなことがあった筈だが……。
……ふと、私の隣の席に夫がいないことに気づく。時計の針は9時を指しているから既に起きてはいるんだろうが、毎朝使っているグラスが洗われたままだ。確か、今日と明日は娘と一緒に遊ぼうという話だった。二人同時に休むといけないから、今日は私が、明日は夫が、というように休暇を取っていた筈だ。それなのに、夫がいないのは気になる。刺激しないように、同僚に声をかける。
「あの、ごめん。彼って、どこにいるの?」
「……は?」
「あ、その、えっと──」
瞬間、彼女は私の胸ぐらに掴みかかる。私が驚いていると、彼女は憎悪に満ちた目でこちらを睨み付けながら、私に向かってこう怒鳴った。
「いい加減にしなさい!あんたの旦那なら──」
「──あんたの子供の本当の父親を知って、昨日駅のホームに飛び込んだでしょうが!」
視界が動転する。咄嗟に左手を机の上につくが、すぐに滑り、そのまま私の身体は床に落ちる。ポケットから何かが落ちる感覚がする。ガシャン、という音と共に、目の前に紙と四角いものが落ちてくる。私の視界に入ったのは、報告書と、それと──
補遺1: 被害者に共通する特徴として、仮死以前に何らかの秘密が発覚し、それによるネガティブな周辺状況の変化を経験しているという点が挙げられます。多くは秘密に関して後悔があったと証言していますが、被害者は例外なく秘密の発覚による周辺状況の変化を記憶していません。
