以下は親衛隊少佐で、SKPの細菌学者であるハマーシュミット医師の研究日誌の抜粋です。この記録は部分的に公式の文書、私的日記に由来します。一部の文書はSKPによって破棄されたファイルから再構築されました。
1944/2/3
親衛隊全国指導者は個人的に私をSKPに移した。SSの異常部門だ。私はそのようなものを常にペテンだと考えていたが、彼は私の移籍をSKPの個人的な視察に結びつけたために私は様々なプロジェクトの一見の機会を得た。戦争の結果を決定すると証明できるものとして、ここには幾つかのまったく驚くべき研究がある。工場が開発した報復兵器は驚くべきものではあるが、言葉本来の意味で、ここでは本物の奇跡の兵器が作成されている。
彼は私をすぐに任務に任命したが、指導者たちが総統閣下の不興を買っていたために作業部会で研究できない。しかしながらヒムラー殿はこれらの仕事は最も重要であり、もし私のプロジェクトが使える状態でさえあるならば彼は総統閣下の考えを変えられるという考えだ。私のSKPへの移籍はヒムラー殿が引き合いに出すように、総統閣下が「トリック」だとみなして成功を信じていないという全ての事実で説明される。これは彼がSKPの仕事を実際に気に留めていないということを意味している。
私のプロジェクトは自軍を危険にさらすことのない制御可能なB兵器の開発だ。それらは大量殺人には役立たないが、腐敗と士気低下に役立つはずだ。ドイツの敵の大軍が用いることを考慮すると、大量殺人を画策するB兵器の使用は制御不可能だと考えている。私はその評価に同意する。何十万と殺す伝染性の高い病気は自軍を危険にさらし、恐らくは土地全域を何年にもわたって使用できなくさせる。一方で全ての敵が恐れるほどの恐ろしい兵器は、敵を全滅させるよりも戦闘に勝つのに効果的だ。
1944/2/5
私は自己批判する。総統閣下はB兵器を見下している。だから稲妻の嵐の作業部会の指導者たちはそれに対する防衛策にのみ取り組んでいる。もしも親衛隊全国指導者が、出撃の可能性についての認識をも明るみにしているなら、私は彼が正しかっただろうと確信できるが、それもただの副次的効果に過ぎない。これはここでは総統閣下の指示への直接的な違反だ。そして、ジュネーブ議定書違反だ。この戦争で誰も条約を好む者はいない。単なる昔の騎士道的な戦いはどこに行って、無差別虐殺に堕落したのだろうか? 世界大戦は我々にとっての教訓であったはずだ。
トミーやアミー、イワン共はB兵器に取り組んでおり、恐らくは局面によってそれらを使用するのも時間の問題でしかないと私は確信している。開発をより早く始めるよりも、我々はよく準備をした方がいい。
ここでの私の装備は一級品だ。乏しい財源にも関わらず、SKPが最新の技術状態を備えた完全装備の研究室を私に提供できるというのは、まったくの驚きだ。この場所の本当の大きさは - 私はこれがSKPの唯一のサイトではないと耳にしていたが - 総統閣下が認識しているよりも、SKPがはるかに金回りがよいということを示している。
1944/2/8
私はますますSKPの役割で危なくなっている。表向きにはそれはSSの1部門だ。ここでは制服を着用してSSの階級を使用する。だが、その構造は独立した組織だ。私はまだこの駐屯地で、ここに配属していないであろう人を誰一人としてすら見かけていない。サイトを訪れる全てのトラックはサイトの運転手によって運転される。
都市にいる他のSS隊員とゲシュタポは武装親衛隊の特定機密支部とみなしており、我々に干渉しない。我々が都市で言及された際に、我々が伝えるべきこのサイトに関する詳細な話を人々は聞く。しかしこの話の大部分は、機密の全てがここにあるかどうかを中心に展開されている。
その全てが背信の悪臭を放ち、私はその一部だ。私はヒムラー全国指導者が今までに本当に総統閣下に対して心を開いていたという印象を抱いていない。更に、彼は徹底的に裏切る気があるようだ。しかしどんな目的で? 彼はレームが突撃隊としたようなクーデターを計画しているのか? 総統閣下はもはや識別能力がないのか? 彼に結託するほかないのか? 私はB兵器が必要だという全国指導者の意見に賛成するが、SKP全体のバックグラウンド -より適切に言うとSS全体- の働きを知っていれば、私はかなり快適になる。一方でここでの研究を考慮すると、SSが指揮する他の機密プロジェクトを想像したくはない。
1944/2/13
今日、施設の責任者であるシェーン大佐が私のもとを訪れた。明らかにSKPの仕事の正当性に対する私の疑念に気付かれた。しかし彼は理解を示し、我々は互いに親密な会話をした。SKPが実際、非常に違法であるというのは事実だ。第一に部分的に実際には存在しない、もしくはもはや存在していないプロジェクトを含む他のプロジェクトから、または占領された地域から押収された資金から、資金が転用されている。第二に施設は強制労働によって建設され、その後に人体実験にTクラスを使用し、いくつかの研究プロジェクトはここで国際法下で関連した分野を取り扱う。
人体実験。私が人間でB兵器をテストしなければならないなんて夢にも思わなかっただろうが、非倫理的かどうかに関わらずそれは不可欠だ。そして最後に、徒労のようにこの忌々しい戦争での倫理を追求する。責任者は私にSKPの仕事が -総統閣下の意思に反して- 戦争に決定的になるということを明かした。C兵器は通常のB兵器と同じくらい役に立たない多くの欠点を持っている。あるいはV兵器はプロパガンダを利用するが、資源が不足しているために軍事的価値はほとんどない。核兵器はまだ開発初期段階だ。我々は戦争に負ける。アミーが戦争を持ち込むのは時間の問題でしかない。SKPは資源不足を補えるプロジェクトに取り組んでいる。我々の敵が差をもはや埋めることもできない最先端技術より先行した武器と装甲。核兵器の欠点なしで全区域を一掃できる私も知らない爆弾。そして、私は当初のうちはその構想で始めたけれども、親衛隊全国指導者が「稲妻の嵐」と命名したB兵器。
ここでの私の仕事は私の人生で最も重要であるということが少なくともはっきりしてきた。前の私の仕事は全てこの役目に比べるとほんの僅かでちっぽけなものだ。できるだけ早く結果を出すためならば、私は昼夜問わず働ける!
1944/2/28
私は最も有望だと信じる大まかな構想を開発した。「稲妻の嵐」の主な焦点は敵を殺すということではなく、単なる副作用ではなく敵を恐怖させ士気低下を目指すことだ。野営地に適用されると、それは恐怖や怯え、不和を広めるはずだ。考慮すべき2つの要素がある。この兵器自身とその使用の性質だ。
1つは、兵器そのものが恐ろしい効果を持つはずだ。だから実体のあるものは、最もいい場合には悪臭を放ち、激しい痛みがある。それは腫物やよう、壊死、一般的な痛みを伴う発疹を引き起こす。しかし、それはそれほど伝染すべきでない。そうでなければ我らの軍隊に同様に危険がある。そして誰もが感染するという訳ではないが、誰が感染しているかそうでないか誰も知り得ないために、その影響はより大きくなる。だからこの疾患は最初は無症候性であるべきだ。私はできる限り低い感染率を望んでいる。稲妻の嵐は破壊ではなく、士気喪失を目的とするべきだ。十分な恐怖を喚起するのに、20%の割合で十分なはずだ。恐らくもっと少なくとも。
第二の要素は兵器の使用方法だ。私は思うのだ、この兵器は輸送機もしくは大口径の大砲によってか、侵入者を通してかで配備されるべきだと。しかし、装甲車や歩兵を介してではない。分散媒として吸い込ませ、その後すぐには漏出や蒸発を起こさない物質が適している。全てが濡らされて野営地が完全に感染するために、我々はどこでも制御でき、最低でも除去ができる物質を必要としている。敵は陣地を放棄すると同時に常に感染性物質を見逃し、退却時に持ち帰る危険性があるということを余儀なくされる。衣類や消耗品、兵器、装備を。キャリア内部で病原体は数日間生存できるはずだが、遅くとも1週間後には死滅している。また、稲妻の嵐に襲撃されたことに敵が実際に気付くように、最低でも抑制されるまではキャリアは明度の高い色をしているべきだ。私はそのような物質の開発のための科学者をサイトへ配置することを責任者に依頼する。
1944/3/12
「稲妻の嵐」計画の開発は順調に進んでいる。私は他のプロジェクトに取り組んでいるSSの様々な細菌学者に連絡を取り、黄色ブドウ球菌に決定した。しかしながら幾つかの特性を引き起こす、もしくは排除するための多少の研究が必要だ。例えば、伝染タイプの変更をしなければならない。そして殺菌剤への耐性を高めなければならない。更に、ただ皮膚疾患を誘発するものへと病原体を調節することが望ましい。
私は少量のウェルシュ菌を加えることを考えている。それはとにかく何処ででも起こるが、望まれたゲル状キャリアを介して、ゲルが完全に酸化されるまで酸素を保護し、より容易に指の傷口や顔に浸透することができる。
非常な痛みを伴い死に至る罹患者にとって、両方の病原体のこの症状は酷いものだ。個人的には最初の要素で十分だが、親衛隊全国指導者は明らかに致命的な経過を望んでいる。私は黄色ブドウ球菌をペニシリンに対して耐性があるようにしなければならない。
1944/3/16
親衛隊全国指導者はSKP-███での実験を監督すると発表した。それはSKPの最も有望なプロジェクトであると最近は考えられている。それゆえ総統閣下自身が監督者を送った。だからそれにはかなりかかっていて、ここの同僚は緊張している。
一部の同僚は、脳の変性や行動変化を引き起こす異常なタンパク質やその幾つかのサンプルが存在することを報告している。珍しいことだが、ここでは研究者グループ間に競争はない。むしろ自由に交換している。恐らく、ここでは誰もが組織外での働きの承認を期待できないからだ。これは作業環境を非常に快適にする。共にプロジェクトのアイデアや解決策を探すために、様々な分野の専門家が定期的に集まる。よいアイデアを聞こえないようにするのはあまりに馬鹿げている。あまりにも不適切だ。そして同僚のある一人が、もしも感染者が健康な人物に襲い掛かった場合、手に入れたい感染力をさらに恐ろしいものにすることができる、とからかったから、実際にそのタンパク質についての考えが生まれた。それは更に恐怖を増幅させる点では興味深い効果だが、私はモンスターではなく士気喪失のための兵器を作りたい。私はその方面における同僚からの更なる冗談を拒否した。もしヒムラーがそれについて聞いたなら、彼は確かにそれを稲妻の嵐の中に適応させたいと思うだろうが、それは私にとってはやり過ぎだ。
1944/3/██
私は何を言うべきかわからない。SKP-███の実験は大惨事に終わった。総統閣下が送られた監督者を含めた4名の死者と多数の負傷者を出した。全国指導者でさえも多少の怪我を負った。ヒトラー警護部隊の親衛隊少佐である監督者は総統閣下にSKPを解散するように助言したはずだ。ヒムラーは憤慨した。シェーン大佐は普段通りにするように命令したが、不安は憂鬱な空気を湧き出させる。
1944/4/3
それからまだ続いている。総統閣下はSKPの全ての公的資金を取り消した。彼は「ゲーム」を続けたいのならば自分自身で資金を調達するべきだと全国指導者に言ったらしい。シェーン大佐が発言した。SKPは縮小され、5つのサイトの内3つが破棄された。有望でないプロジェクトは停止、保留され、職員は他のプロジェクトやSSの他の部門に移される。
しかしヒムラーの命令で「稲妻の嵐」計画は引き継がれ、私は他サイトからここへと移動された職員や、はるかに多くの資金や設備からの支援を受ける。さらに、病原体に関する以前の研究にアクセスすることができる。私はSKP-███の失敗後に「稲妻の嵐」がSKPの新たな外向きのプロジェクトとなることを怖れている。私は本当にその無駄なプレッシャーを使用できない。
1944/4/10
私に利用可能な情報と機器の発見及び私の研究グループの再編成が完了した。私は黄色ブドウ球菌は皮膚に関連する症状に限定されるように調整しなければならないと思う。私はそれがどのように機能するのか全く分からないが、別の施設は微生物の性質を操作する機械を作った。それらは1940年にパリで発見された生物兵器研究所で発見され、2年前に解体されるまで炭疽病やペスト菌の研究のためにクリ―ヴェ支部で使用された。この機械では、望まれた特性の少なくとも幾つかを生成することが可能でなければならない。
1944/4/15
皮膚病変の場合にのみ現れて、そうでなければ無症状で感染して死滅するように黄色ブドウ球菌を調整するために、我々がどの経路を取らなければならないかを発見することに成功した。私は機械が操作しやすいことに単純に驚いている。正確な設定を発見するためにTクラス職員の試験を開始しよう。
我々が何をしようとしているかを考えている時、私は吐きそうだ。前線の兵士が手榴弾や稲妻の嵐にやられているかどうかは、私には関係ない。前線は遠く離れている。しかし、ブライテナウ強制収容所から来た彼らの全てが非戦闘員だ。神よ、戦争によってどれほどの恐怖が我々にもたらされたのか? 私は個人的に野営地を訪問してTクラス職員の写真を撮った。その状態は衝撃的だ。ほとんどの収監者は栄養不良で病気だ。寮内の宿泊施設と乏しい衛生施設は病気の広がりを促進する。私は最前線の兵士と同じような状態のTクラス職員を必要としている。問題となる一般的な栄養不足はこの分野ではかなり偏った栄養に変えられ、そして宿泊施設はより清潔に清掃される。さらにこの可能性は、天気により調和した衣服とこれらを洗い流す方法、そして時折凝乳石鹸で洗う方法といったより多くのスペースを得た。一般的にTクラス職員に適格である者の収容は、我々のサイトの独房のそれに似ている。そこに空きがあるのならば、私は彼らを一緒に連れて行く。彼らの大部分が私の手によって恐ろしい死をもって息絶えることを考えれば、この考えはまったく馬鹿げている。しかし私は全てを選んでいるわけではなく、他の場所でも使われていると自分を慰めている。恐らく彼らはそこで生き残ることができる。
1944/4/18
人体実験を行うのは信じられないほど困難だ。遠方の前線で殺す兵器を開発するのはとても気楽だ。しかしここでは防弾ガラスのみが私と私が手にかけた犠牲者を分けている。私の研究グループの誰もそれに慣れていない。我々は1日3回、感染者の検疫状態を冗談や愚かな発言をせずに議論しなければならない。気分が落ち込む。施設の副責任者という存在の、ライトリンガー中佐は、我々の進歩を監視するのだが、特に2番目の文章に隠された脅威が含まれているために特に役立つものではない。これが続くなら私は責任者と話をしなければならないと思う。彼は私のグループの仕事倫理を乱す。我々は医者と化学者であって、兵士ではない。彼らの仕事がそれを必要としているため、ほとんどがSSに入っている。人々が衰弱するのを見て楽しみたいからではない。
1944/4/28
病原体を皮膚感染症に適応させる試みは成功している。しかしそれは26の人命を犠牲にした。私は彼らの奇異な身体とその痛みの呻きを忘れることができるのだろうか。彼らの歪んだ顔は夢の中で私を悩ます。私は最後にいつもの少数の人員で実験を行った。それが私のプロジェクト、私の仕事だ。私の重荷だ。
我々は次にペニシリン耐性の確立を試みる。最初は病原体培養のみで、その後は収監者で再び培養する。
今日私はライトリンガー中佐と口喧嘩をしてスタッフを集めた。その後私は責任者に召喚され、彼は非常に動揺していたが、最終的に監督者を送ることを取り止めた。このため私は彼に週に2回報告する必要がある。
1944/4/30
彼らが死んだ。ヒルデとグスタフは既に22日に。3月にイギリスの爆撃機によって殺された。情報が私に届くまで何故1ヶ月以上かかったのかが分からない。恐らく責任者はそれらを私から遠ざけていた。しかしそれは問題ではない。彼らは死んだ。そして私は他の父親から息子を取り上げる殺人ツールに取り組むだけで何もできない。ヒムラーはそれが必要だと考えている、だから好きにする。
1944/5/7
あの機械でペニシリン耐性を確立することが可能だ。我々はこの特性を保証するためにTクラス職員でテストを開始する。Tクラス職員の品質は低下した。このほとんどは既に病気や栄養不良になっている。私は責任者に、強制収容所の収監者が私が求めるように世話をされているか確認するか、別の出所を提供するかを頼んだ。
時間と共に、私と研究グループは人体実験に慣れてきたようだ。それは我々全員の問題をはるかに減らし、それは実験と議論の間に最初の皮肉な冗談へと変わった。私は幸せになるべきか、これについて心配するべきか分からない。
1944/5/16
ペニシリン耐性は明らかに我々の普段の洗浄剤にも抵抗性をもたらした。幸いにも、我々は全ての器具をアルコールと沸騰で洗浄するので、検疫区域から汚染が持ち出されることはない。キャリア物質はテストの準備ができており、稲妻の嵐もある。細菌がこれまでに変異し、何人かが既にStaphylococcus fulgorと命名した。たとえそれが事実上間違っていたとしても、ヒムラーはその名前が好きだ。
我々は計画された塗沫感染の影響に関する広範な試験の前に、試験場の細菌なしで初めにキャリアの打ち上げ試験とキャリア内部での細菌の生存率の実験を計画する。
Tクラス職員の状態は耐えがたいものになっている。よりよい出所が見つからなければ、私はもはや現実的なテストを行えない。疑いがある場合はヒムラー自身に新しい出所を求めたり、ブライテナウ強制収容所の収監者の世話をしてもらうように私は責任者に頼んだ。
1944/5/23
キャリアでの実験は成功した。実験のためにHJの建設された野営地上へ、洗濯を繰り返しても衣類や装備に検出されるこの物質を投下をした。この明るい黄色自体も、特にヒトラーユーゲントに事前通知することを控えていたため、望ましい効果を発揮した。投下数分以内にこの物質は透明になり、ほとんど見えなくなった。雨の中での投下でさえ少なからず成功した。研究室ではゼロ以下の温度でのみこの物質はより強くなり、粘着性が少なくなる。
キャリア中の生存試験も成功しており、放出後1週間以内に細菌が生存し、栄養素が存在しない状態で細菌が死滅するまで物質は酸化される。
我々は、様々な状況におけるキャリアによる塗沫感染の有効性に関する試験から始める。責任者はTクラス職員のための出所をより良い状態で開設したと発表した。
1944/5/25
戦争捕虜。責任者は第9A捕虜収容所から戦争捕虜を送った。私たちに送られた大部分は、ここで彼らの裏切りを清算することになるイタリア人だ。後はベルギー人、オランダ人、ユーゴスラビア人、そしてイギリス人。我慢できないが、私は彼らの中に1人もイギリス人がいないことを望むべきか、あるいは彼らがイギリス人だけであることを望むべきか分からない。私は彼らの目を見ることができない。彼らの制服を見れば私の心は痛みを伴い、その上私のヒルデとグスタフを害したもののようになった。
1944/6/3
私は自分が分からない。他の全ての囚人の苦しみはまだ少し心苦しく思うが、私の心はイギリス人の囚人の苦しみを笑っている。ライトリンガーほどに私は残酷になってしまったのか? 夢中になるのだろうか? それはまったく重要なのか? テストが成功すれば稲妻の嵐はすぐに使用できる。
1944/6/8
シェーンは本日、昨日のノルマンディーでの大規模作戦で、数十万人が上陸したと宣言して現地会議を開いた。ヒムラーは数日後に我々を訪問して結果を見たいと言うだろう。我々がもっと早く働いてさえいれば、侵略を鎮圧する何百トンもの稲妻の嵐が既にあり、海賊を海に戻すことができる!
私は再びウェルシュ菌を加えるというアイデアを思い出した。私はハンマーを使って残りのイギリス人の1人に筋組織に幾つかの打撲傷を刻み、2つの病原菌の相互作用を研究するためにA型ウェルシュ菌と"Staphylococcus fulgor"込みでこれらを感染させた。
1944/6/10
恐らくウェルシュ菌の感染の結果としての毒素性ショックが原因で、イギリス人が死亡した。ほぼ全ての感染部位で予想通りガス壊疽が起こったが、ブドウ球菌感染の症状は報告されていない。恐らく決まった潜伏期間を増大させるのは間違いない。
苦しむのを見るために、最初のガス壊疽が発生した後で私は気が付くとイギリス人を何度も何度も観察していた。彼の痛みだけが私を安らがせる。恐らく、私は既にメンタルヘルスセンターに通うのに十分ではあるが、まずは兵器を開発しなければならない。ヒムラーに英国空軍兵を送ってもらおう。
1944/6/11
ヒムラー全国指導者からの訪問はうまくいった。彼は我々の進歩に満足しているが、現時点で総統閣下が利用に同意するとは考えていない。私は行動変化をもたらしたタンパク質のアイデアについて彼に教え、そして彼はタンパク質の組み込み方法について幾つかの研究をするように命じたが、我々は実際の状況下で捕虜を使った実地試験など、もっと多くの研究と試験を行うべきだ。このために、まず20トンの分散媒を製造して工場が流通用の爆弾を開発できるようにする。さらに、稲妻の嵐の製造の機会が決定されなければならない。このタンパク質の組み込みは従属的だ。
私は必要なだけ多くのイギリス人を使っていて、それをやりすぎてはならない。結局のところ、私は表向きはジュネーブ条約に固執するだろう。
1944/6/20
20トンのキャリアの生産が完了し、今は待ち時間だ。機能的なプロトタイプの完成前に1から2ヶ月が経過すると考えられている。我々の化学者は生産プロセスの最適化を担当し、我々は病原体の大量試験も開始する。さらに私はこのタンパク質に関する文書も取り寄せた。
1944/6/25
文書によると、タンパク質は脳の突然変異と攻撃性の増加につながる。それがどのくらい正確に機能するかは、文書の作成者だけでなく、私も完全に予想がつかない。攻撃性の増加は、例えば兵士が仲間を相手に闘ったり、白兵戦で感染したりするなど、テロと感染を広げるための更なる効果として使用することができる。私はこのタンパク質を請け負って実験を始める。
初期のフィードバックによると、既に爆弾のプロトタイプがあり、液状C兵器を使用している。恐らく、我々は最初に変換されたプロトタイプを1から2週間で期待できる。
1944/7/4
我々は3個の爆弾のプロトタイプを受け取った。見本の兵器であってもイギリス人の捕虜が典型的な野営地を建設することを余儀なくされるとテストの計画は予測している。彼らはHJの訪問のために奉仕し、適切な英国式の食事、シャワーのためのお湯、タバコ、ビールのグラスなどの利益を得なければならないと騙されている。彼らはしばらく待機させられ、いったん落ち着いてすぐに稲妻の嵐を投下する。全域が何回か広範に囲まれる。2週間後に生存者は繰り返し曝露の影響をテストするために再び稲妻の嵐の標的になる。
私は稲妻の嵐への免疫可能性について生体解剖の枠組みで検討しているが、誰が生き残るのか。
1944/7/18
試験は成功した! 野営地は実際にHJの軍隊によって最初に訪問された。彼らは数日連続でHJとBDMによって訪問されるだろうと説明された。しかし2日目には稲妻の嵐が投下された。当然のことながら、現場の軍隊は柵で逃げることはできないが、高所での爆撃機の目撃が既に懸念されているため、観測は全く現実的ではない。この爆弾にはジェリコのラッパが付いていたため、ほとんどのトミーにはよく知られているような影響が得られた。既に地上100メートル上での時限点火の前に、野営地でパニックが発生した。飛行機の目撃とサイレンのみのハウリングは、彼らに空中から攻撃しようとしていることを知らせるのに十分だった。稲妻の嵐は爆弾によって均等に分散されていなかったため、ここでまだ再仕上されなければならない。当初黄色の沈殿物はC兵器と考えられ、予防措置を取ったがすぐに効果がなかったため、トミーの会話記録はC兵器またはその反応の早期試験に基づいていた。
数日後、最初の症状が皮膚に現れた。これらの見た目が増すにつれ、トミーはB兵器がテストされたことに気付いた。この反応は無関心から絶望にかけて、病人を健康な者から隔離しある程度の検疫を確立しようとするまで、大きく変化した。個々の被験者が症状を示した際に、幾人かがその領域で他の人と別れ始めた。2名の被験者が脱出を試みる間に撃たれた。さらに、彼らの苦痛や自殺の試みを和らげるために感染者を殺そうとすることもあった。とにかく、稲妻の嵐はその仕事をした。生存者は依然として互いの距離を保ち、他の野営地は元の野営地から離れた第2の野営地をその場で作っている。100名のうち41名が稲妻の嵐に襲われ、自発的な暴力が発生した。我々は彼らが再び一緒になってからの反応をテストするための第2の爆弾を投下するために、数日待っている。
1977/7/21
総統閣下の暗殺の試みがあった。幸運なことに、彼はほんのわずかしか怪我をしておらず、全国指導者はいなかった。彼は次の爆撃を観察すると発表した。彼は間違いなく総統閣下に何か見せたいと思っている。しかし、それは既に完全にテストされていなければならない。
1944/7/25
全国指導者が到着し、2回目の爆撃を実施した。既に航空機の目撃時にパニックが発生しており、生存者59名がこの地域広範に分散した。彼らはそれを計算しなければならず、この場合の計画を立てた。爆弾はより高度のある地域をカバーするために、より高い高度で爆発された。幸いにも、これらの爆弾は驚くほど正確だ。
この、物質によって明らかに襲撃を受けた者は元の野営地に集まり、死んだ同志たちを積み重ねた。彼らは最後の日を共に過ごしたいと思ったようで、互いに距離を保ち感染していないと思われる仲間を危険にさらしたくないように見え、物資を得るために第2野営地に1人ずつしか訪れない。
1944/7/26
夜になると感染したと思われるほとんどの者が野営地に集まり、我々が提供したガスの一部で木材と防水シートを燃やした。実際に今日出発したいと思っていたヒムラーは、敵軍を自己破壊することができるという考えに感心している。もちろん現場での反応は異なるが、ここでは彼らは絶望的な状況にある。この分野では、最初にペニシリンで治療されて他の手段が試みられる。彼はその試みが成功すると宣言し、試験区域をリン爆弾で焼き尽くし汚染除去をした。今我々の仕事は大量生産に取り組み、タンパク質をテストすることだ。
1944/8/2
東部戦線の崩壊と西側のアミーとトミーの更なる侵攻の報告が最近注目されている。シェーン大佐は今は主に報告書を確認した。ヒムラーは可能であれば秋の前に、このタンパク質を加えた稲妻の嵐を望んでいる。 それはまったく非現実的だ。彼はそれをタンパク質なしで使うことができたが、総統閣下が連合国軍のB兵器を使用することへの恐れからそれを禁止にすることを彼は恐れなければならない。トミーは我々の都市に対してB兵器を使用し、民間人だけを爆撃することができる。私はできるだけ多くの囚人にタンパク質を感染させた。このほとんどは単体か感染していない者も含むグループ内の一部に。私はできるだけ早く成果を上げることを願っている。
1944/9/1
このタンパク質のテストは計画よりも長くかかった。SKPの財源は乏しく、第2サイトは閉鎖されてここで職員を解雇または移転した。私の研究グループからもスタッフを引き抜かれた。さらに通常のテストでは強制収容所の収監者とボルシェビキの捕虜だけが渡される。
タンパク質は実際に記載された効果を有する。この罹患者は約41-45時間後に自発的に攻撃的になり、動きや音、光に積極的に反応する。これには短期間のかんしゃくがあるが、それは1-2時間で激しくなり、グループ単位で致命的な暴力や備品に対する暴力を引き起こす。全国指導者は興奮するだろう。
この当時者は約12時間後には初歩的な運動の本能をコントロールする能力しか持たず、彼らの心は完全に退化しているようだ。遅くとも、彼らは飢えを満たすためにお互いの死体や自分自身を消費し始める。脳の高度変異、脱水症、または未治療の障害による敗血症のために、その死は5日以内に起こる。
検死では、発症の進行前の約4-5時間でホルモンが下垂体に放出されることが示されている。我々はこれをStaphylococcus fulgorのトリガーとして使用しよう。
1944/9/28
それは成功だ。それがホルモンと接触するまで無症状に留まり、非常に短時間で皮膚に侵入する場合にはエクソフォリアチンAとBを生産し始め、その時リッター病や皮膚壊死、せつやようと他の症状の大規模な発症をもたらす、Staphylococcus fulgorを我々は操作できた。今や合併した病原菌の影響ならびにキャリア中の安定性を試験する時期である。私は冬休み前に再テストできることを願っている。
1944/10/23
このテストは非常にうまくいった。殆どの場合、この罹患者は彼らが狂乱の中で死ぬ前にブドウ球菌感染の症状を示す。皮膚病の痛みは彼らをいっそう攻撃的にするようだ。このキャリアは結局適切であるということが分かった。ホルモンの他の影響は感染者の汗の化学変化のようで、そして互いに向かってむしろ平和的な行動をする。私はこのタンパク質の開発目標が何をしたかったのか少し不思議だ。
私はヒムラーに別の実地試験を依頼した。しかしながら我々はもはやイギリス人の捕虜を受け取らないが、私はイワンと強制収容所の収監者のどちらかを選ぶことができる。私はイワンを選んだ。今の所私が誰でテストをしようが同じことだ。イワンと強制収容所の囚人は既に同じように悪い状況にいる。私のヒルデとグスタフはトミーを何人殺そうが戻ってこない。私はこの戦争がどうにかして、間もなく終了することを願っている。それで私が最終的にそれを止めることができるように。私はもう誰も苦しめたくないし、もう誰も殺さないようにしたい。
1944/11/8
実地試験のために多くのTクラス職員は衰弱して気分が悪そうではあったが、それはうまくいった。イワンはトミーのように事前に野営地の設営を強制されていたが、HJは来なかった。彼らはまた、爆撃に大変に恐慌して反応するが、他方で彼らの調子が悪かったことをほとんど気付いていないようだ。爆弾の飛散は今の所かなりよく調整され、より滑らかになった。2日目の正午にブドウ球菌感染の初期症状が発生したが、パニックにはつながらなかった。液体の攻撃に続く皮膚疾患の発症の影響を受けないがために、この哀れな生物が経験したことはどれほどの恐怖になるだろうか?
攻撃的な段階の発生だけが騒動と集団パニックを引き起こす。我々は道具箱を彼らに残しただけでなく、数丁の装填した拳銃を収納した。感染者と非感染者の両方がお互いを攻撃し始めた。それらの優位から、非感染者は攻撃者を殺害したり、彼らを無力化したりすることに成功した。しかし更に症状がアウトブレイクして、特に夜間には感染者はすぐには認識されないために野営地では更に争いがあり、午前中には全ての皮膚疾患者を殺害するために争った。この動きは数日後に収まった。5日目にはテストは焼夷弾によって終結した。死亡者のほとんどは何の症状もなかったTクラス職員だった。
私は稲妻の嵐はとても使いやすいと思う。私はヒムラーに通知し、書類の完成を命令する。
1944/11/15
ヒムラーははっきりと稲妻の嵐の存在に対して総統閣下に指摘した。そうすると彼は再びあらゆる種類のB兵器に対する嫌悪感を示した。ヒムラーが秘密裏にSKPを続けたことにも、彼は非常に憤ったとみられる。ヒムラーは研究成果とサンプルの確保をし、さしあたり更なる研究を行わない、または兵兵器級の量を生産しないということを命じた。だから我々はサンプルを仕舞い込んで、我々の活動の痕跡を取り除くことに時間を費やす。我々は本当にこの戦争に負けるべきで、誰も我々がここで何をしたのかを知るべきでない。そして、ここの異常のどれもアメリカの異常のための組織、SCP財団の手に渡ることはない。
1944/12/24
クリスマスイブだ。私が家族なしで過ごす最初のクリスマスイブだ。彼らの死への感傷が私の心を傷つける。
ここには親戚や友人を失った者は誰もいない。何のためだ? 血と国のためか? 理想郷のために。何人かは食堂で笑顔の裏に痛みを隠している。他は酒に溺れたり、拳銃のバレルを何時間も凝視したりした。
もし正しい角度でそれを持つなら、バレルの中の弾丸を見ることができる。私は口のどこかに傷がある。
私はそれらをもう一度見た後で何かをするだろう。しかし、それは正しい方法か? 私はそうは思わない。私は楽園も地獄も信じていない。私は再びそれらを見ることはない。決して。
1945/1/30
総統閣下はSKPの解散を命じた。ヒムラーは当初、未だ実行中の全てのプロジェクトを凍結し、データを保護するように指示したが、私は我々がそれらのいずれかを再開するとは考えていない。
1945/2/8
彼ははっきりと明け渡した。ヒムラーは既に2月12日から全ての記録、異常性物質、Tクラス職員を破棄することを火曜日に発令していた。しかし、今日は何か不思議なことが起こった。シェーン大佐はノート及び稲妻の嵐の様々なステージのサンプルを含む、全ての研究材料の完全なセットを集めてキューネ博士に引き渡すよう指示した。私はキューネが次元異常の仕事をしていることを思い出した。私は彼が文書に望んでいるものが分からない。それはもはや役に立たないが、彼はそれらを持っているべきだ。我々は今は何もしていない。我々は解放されないので、アメリカ人を待っている私を含めた残りの者は記録の破壊を助けるだろう。
私はシェーンの記憶処理の申し出を受け入れない。アミーが私を裁くのならば、少なくとも私は何のためにかを知っておきたい。
1945/4/1
アミーはカッセルにちょうど入って来ている。シェーンは我々に市民服か軍隊の制服を作るように指示した。我々は兵士ではない。我々は降伏するだろう。異常性物質と文書の隠滅は、誰もそれに取り組んでいないため、私がかろうじて先んじたようだ。彼らがそれらを持っているとしても、私には同じことだ。
次のイベントは完全には明確ではありません。米軍は報復も逮捕もせずにSKPの降伏を受け入れ、数日後にSCP財団に引き継がれました。ヒムラーがSCP財団に連絡してSKPの平和的買収を計画していなければ、シェーン大佐は既に数週間前に退職していました。SKPの職員が連合軍の訴追から保護されるために、彼は可能な限りスタッフから疑念を抱かれることなく多くの異常性物質や文書を破棄から助けました。
ハマーシュミット医師は家族の喪失を制御するために精神療法を受け、残虐行為の記憶を消す選択制の記憶処理を受けた後に、彼は財団に吸収されました。シェーン大佐は連合軍当局からのアクセスから保護することができず、情報奪取を防止するように予定されていました。後期にはキューネ博士がSCP-028-DEに関する彼の研究グループに属する他のメンバー11名と共に、サイトの病院で完全に抹消された記録と共に発見され、安楽死されていました。
SCP-188-DEがSCP-028-DE-Cを介して提示されたアノマリーの1つであったことは、U-3378-DE宇宙から手に入れた文書から明らかです。そこではSKP-███の成功後に稲妻の嵐に関する研究は停滞し、故郷のハマーシュミット医師の家族は爆撃から生き残っています。
SCP-188-DEはU-3378-DEで大量に製造され、1951年2月にオーストラリアの抵抗を破るために使用されました。しかしながらそれは大都市への大量破壊兵器としてです。その後同年に米軍に対して使用され、U-3378-DEの第三帝国最後の勝利に効果的に貢献しました。