SCP-1960-JP
アイテム番号: SCP-1960-JP
オブジェクトクラス: Euclid
特別収容プロトコル: SCP-1960-JPに埋め込まれたGPS装置の信号を受信した場合、近隣サイトから臨時機動部隊が出動します。可能ならば、機動部隊の隊員1名が対象となり、異世界の調査を行ってください。もし民間人が対象となった場合は、帰還後にその対象を近隣サイトに移送し、そこでSCP-1960-JPに関する聞き取り調査を行ってください。聞き取り調査が終了した後は、記憶処理を施し解放してください。SCP-1960-JPの転移現象を目撃した民間人にも記憶処理を施し、対象が帰還するまで付近に監視網を敷いて下さい。
説明: SCP-1960-JPは異世界転移能力を持つ一匹のイエネコ(Felis silvestris catus)です。体長は約60cm、黒毛で覆われ、老化の兆候を一切示しません。SCP-1960-JPは、その生活時間の大半を異世界で過ごしています。その異世界との行き来を行うことが出来るのは、現在のところSCP-1960-JPとSCP-1960-JPに接触していた人物(以下”対象”と表記)のみです。SCP-1960-JPは出現すると、周囲の人間1人に接近し、脚部に体を擦らしながら円を描くような動作を行います。これに対し人間が行動を起こさず、およそ5秒ほど待機すると、SCP-1960-JPは転移現象を引き起こします。転移現象によりSCP-1960-JPと対象は異世界に移動し、その後あらゆる手段をもってしても現実世界との連絡が取れなくなります。
転移先の異世界は、全体的に平坦な島と海で構成され、現実世界と同一の大気に満たされている、無人の空間です。SCP-1960-JPが転移する先は、後述するSCP-1960-JP-1が接舷してある埠頭です。転移後すぐにSCP-1960-JPは、対象のズボンの端や靴を噛みながら引っ張ることで、SCP-1960-JP-1内へ対象を誘導するような行動を取ります。対象がSCP-1960-JPから5m以上離れると、対象は自動的に現実世界へ戻ります。この特性のため、対象が埠頭とSCP-1960-JP-1以外の場所を広範囲に探索することは困難です。また、異世界に存在する物品を現実世界に持ち帰る試みは、現在までのところ成功していません。
SCP-1960-JP-1は異世界に存在する大型船舶『ムエート』です。全長およそ50m、全幅およそ15mの木造船で、フランスの戦列艦として1795年まで運用された後、老朽化のため一線を退き、流刑囚輸送のための改装を施されていたことが歴史的資料から判明しています。その後の経歴については調査中であり、どのような経緯で異世界の埠頭に接舷するまでに至ったかは未だ詳しいことが分かっていません。SCP-1960-JP-1は、埠頭から船梯子を通って入出可能です。SCP-1960-JP-1内部に光源は存在せず、人間による運用・整備が行われていない期間が長く続いたことによる腐食・損壊が見られます。SCP-1960-JP-1内部は主に3つの階層に区分され、第二階層は更に複数の牢獄によって区分されています。詳細な船内構造の資料は、こちらのページを参照してください。
SCP-1960-JPは対象を最終的に、各階層を通過した後、第一階層のエリア1-Y(上記資料参照)まで誘導します。エリア1-Yは一般の船員が利用していたと考えられている部屋で、人間由来の液体や骨が散乱しているほか、船員が著したと思われる文書類が多数発見されています。また、この部屋には現在までのところ唯一、SCP-1960-JP-1の船員であったと思われる人物の遺体が発見されています。SCP-1960-JPはこの遺体まで対象を誘導すると、以降対象との積極的な接触を行わなくなります。遺体の周囲には膨大な数のドブネズミ(Rattus norvegicus)の死骸が散乱しています。SCP-1960-JPがこの遺体の元まで対象を誘導する行動原理、遺体の周囲に散乱するネズミと遺体との因果関係などは研究中で、はっきりとした結論は得られていません。

異世界において、対象をSCP-1960-JP-1へ誘導するSCP-1960-JP
補遺1-登録までの歴史: SCP-1960-JP発見以前より、年に3~5回に渡り原因不明の失踪事件が相次いでいました。失踪した人物は全員、数分から数十分で帰還し、全員が同様の場所に転移した旨の証言をしたことで、財団の注意を惹きました。より詳細な聞き取り調査の結果、全員が失踪直前にクロネコと接触していたことが判明し、このクロネコによって異常が引き起こされている可能性があるとして、要注意生物に指定されました。
失踪した人物間に何らかの有力な共通点が確認できなかったため調査は難航しましたが、1990年4月23日にフィールドエージェントの1人が対象となり一時失踪、2時間後に帰還したことで、初めてSCP-1960-JPが報告されることになりました。その後、潜伏エージェントが同様に対象となり、SCP-1960-JPに関する複数の資料の回収に成功したことで、正式なSCPオブジェクトとして登録されることが決定しました。それ以降、GPS装置を取り付ける試みが実施され、2010年3月22日にGPS装置埋め込みに成功したことで、現在のプロトコルが制定されました。
補遺2-発見された資料: 異世界で発見された資料はその場で撮影された後、対象の帰還後に精査・文書データ化され、以下に添付されます。ただし、乱文や、意図不明な単語の羅列のみで構成される資料は省かれます。全ての資料の原文版を閲覧したい場合は、こちらのページを参照して下さい。
SCP-1960-JP-1入り口前の立て板に記された文章
概要: 以下の文書は、SCP-1960-JP-1の入り口前の立て板に書かれていたものです。艦隊司令部とSCP-1960-JP-1との関連性は、現在までのところ不明です。
閉鎖海面第1716番保存船
『ムエート』
乗る者なき哀れな船よ、せめて安らかに眠れ。
── 艦隊司令部
フロア1-Mから回収された文書
概要: フロア1-Mから回収された文書です。フロア1-Mの出入り口には”医務室”と記されていたことと、文章の内容から、SCP-1960-JP-1に乗船していた船医の1人が筆者であると推測されています。当該文書はSCP-1960-JP-1に於ける医療関連の文書として、非常に重要な資料として扱われています。また、SCP-1960-JP-1内の探索が試みられるようになってから、初めて発見・回収に成功した文書でもあります。
1809/9/5: 出航から3日。この船で初めての病人が出た。症状は発熱、嘔吐、異常な発汗。そして意識混濁。およそ船乗りがかかる典型的な症状を示している。もし船員に症状が広がることがあれば大惨事になりかねないため、医務室へ一時的に移動させ、少量の瀉血1を行ったが、症状回復の兆候はなし。一時的に様子を見、いよいよもって絶望的ならば海に投げ捨てよと船長からのお達しである。
いままで幾つかの船に乗ってきたが、ここまで早くに病人が出るのは初めての事である。早急な原因解明が必要である。
1809/9/9: 出航から1週間。囚人間で体調不良を訴える者が続出している。現在、当船にいる医者は数少なく、全員の面倒を見るのは不可能である。様子を見て、症状が悪いものは処分する。前日まで魘されていた病人は既に処分済みである。船員たちには、牢獄の近くに出来る限り近づかないように警告した。船員たちの動揺が、長い航海における最大の敵となるのである。
[日付未記入]
病人の増加速度、ネズミの増加速度、ともに異常。
1809/9/13: 出航から11日。船長が倒れた。船員にも体調を崩し、職務を十全に行えないものが続出している。もはや船医が対処できる範囲を優に超えているのが現状である。船長、および航海長には、船が動かせなくなるより前に近くの港へ一時的に避難したほうが良い旨を伝えた。船長は「検討する」とだけ答えたが、あの調子では今後まともな判断を下せるかも疑問である。
船長の症状については概ね、当船で初期にでた病人の症状と一致している。船医として感じた疑問点は、船長が囚人と殆ど接触せず、当船で受けられる最高の食事、最高の生活環境を賜っていたにもかかわらず、囚人と同様の病を発症したことである。もし、囚人の病と船長の病が同様のものなら、船長も長くは持たない。もし船長がなくなれば、当船を統率し、目的地に導ける者はいなくなる。今までは、船員に出来る限り囚人たちの死を包み隠し、船員に動揺を起こさせないようにしてきた。だが、船長の死は流石に隠し通せるものではない。もし船長が死んだと分かれば、生き残っている囚人は直ちに暴動を起こすだろう。船員だって、もしかしたらこの労働環境に嫌気がさして、囚人たちと同調するかもしれない。船長にはできる限り精神を強く持ってもらい、瀉血と、もう数少ない果実を摂取することによる回復を祈る以外にない。
かくゆう私も昨日から体調が優れない。もし症状が悪化するならば、私も覚悟を決めなければならない。
1809/9/20: 出航から18日、おそらく。
私が生きているのか、それとも死んでいるのかわからない。ここはどこなのかわからない。陸は見えない。気づかない間に、病室の窓は大変に汚れ、ひび割れてしまっている。どうやら私が眠っている間に、とてもながい時間が経ってしまったように感じる。私の生命はもはや絶望的である。ベッドの横には瀉血によって排出された、おそらく私の、どす黒い汚れた血が溜まったバケツが置いてあった。私がそれをした記憶がないので、ほかの船医が私が寝ているまに施してくれたのだろうか。私がこの文章をかけるだけの体力が残っていたのは幸運である。私はこれより、最期の希望をかけて、私自身に対して瀉血治療を施す。これでもし、事態が好転しなければ、私は自らの運命を受け入れ、我が愛する妻への遺言を残し、そしてこの文書をボトルに詰め、海へ放つ。
神よ、我を救いたまえ。
フロア2-Qnの内壁に刻まれていたメッセージ
概要: 以下の文章はフロア2-Qnの内壁に、おそらく突起状の石を用いて刻まれたものです。大半の文章は意味を読み取ることが出来ていません。
ねずみに犯される
死の舞踏
我を赦したまえ
フロア1-Yから回収された文書
概要: フロア1-Yは前述の通り、SCP-1960-JPが最終的に到達するフロアであり、1人の死体がベッドに寝た状態で放置されています。当該文書は遺体のベッドの傍のテーブルに置かれており、筆致から同一人物によって書かれていることが判明しています。現在までのところ、最も多くのSCP-1960-JPに関する情報が記された文書であり、SCP-1960-JPに関する歴史背景を調査する上で重要な資料として扱われています。
親愛なるアリスへ
今日より私はムエットという立派な船に乗り、僕と君の祖国をしばし離れます。君と離れ離れになるのは、何度経験しても辛いもので、僕は毎日こういう航海の内は憂鬱な気分になり、職務に従事している時間以外は遠くの海を眺め君を想うのが日課になっています。でもそれはあまりにも辛いし、空しいことの様に感じるので、今回の航海では、僕の船内での日々の暮らしや、船から見える大海の眺めをこの手紙に綴りながら、君への思いを馳せようと思います。今日は船長や船医、航海士の方々と食事会に参加しました。その場では色々なことが話し合われていましたが、特に興味深かったのは囚人の管理についてのこと、病人の処置の事。目的地まであと何日で着くとか、囚人の受け渡しはどうやって執り行われるかとか、そういうことが話し合われていました。残念なことに、僕たち船員の給料のことは、軽く流されてしまいました。いつだって、僕たちの仕事というのは、給料と釣り合わないものです。
食事はとてもまずい。君の作る料理に比べればどんな料理も美味しくは感じないでしょうが、そうはいってもこれほど不味い料理はこの世にないでしょう。生臭くて、舌と喉の奥の方に纏わりつくような、とにかく嫌な食感です。これを食うぐらいなら甲板で釣りでもして、そして手に入れた小魚を適当に焼いて食った方が数倍マシです。君の料理を早く食べたい。君が恋しいよ。
今日の朝日は格別の美しさでした。私の寝室の窓から差し込む陽光で私は目を覚ましたのですが、甲板に出ると心地よい潮風と暖かな日の光が私の心身を癒してくれます。日々の職務は辛いし、給料も多いとは言えないけど、こういう船乗り特有の癒しを味わえるから、僕はこの仕事が好きです。今日も力仕事や、言うことを聞かない囚人たちを鞭打ち働かせたり、ネズミを捕まえたりしました。ネズミは厄介な存在です。どこから入り込んだのかまったくわからないけど、毎日毎日捕まえて殺しているのに、まるでいなくなる気配がない。おかげで食料の幾つかが既にダメになりました。
ところで、この船にはとても優秀なネズミハンターがいるので、ここで紹介したいと思います。それはメスのクロネコで、船員たちは「シビル」「ウィルバー」「フレイヤ」などと名付けています。なんでこのネコのことを書いているかと言うと、僕がこの船にいる人間の中で最もこのネコと仲が良いからです。ネコは僕のところに一日一匹必ずネズミの死体をもってきます。僕はそれを窓から放り投げて、ネコに夕食の残りをあげるんです。ネコはとてもかわいくて、とても利口(少なくとも、どの囚人よりも)。この仕事が終わったら、僕はこのネコを我が家に持ち帰り、家族の一員として迎え入れたいと本気で考えています。きっと君も気に入るだろうと思いますよ!
今日は幾つかの水葬を執り行いました。囚人内で死者が出たということが食事会で船医から話されたのですが、船医は全くあっけらかんとしていました。それが、僕たち船員を動揺させないためか、それとも本当に大したことないと思っているのか、僕には判断が付きませんでした。今日は昼間からその死んだ囚人というのを水葬する仕事を任されたのですが、これが本当に嫌なものでした。というのも、囚人というのは生きていようが死んでいようが関係なく不潔で、ひどく臭いのです。特に死体の臭いはひどく、近づくだけで吐気がしてきます。死体はもはや人の形相を保っておらず、目が眼窩から零れ落ちて、歯が一本残らず抜け落ちて、枯れ木の様に細い手足がなにか(おそらくネズミ)に食われ骨が飛び出し、見るに堪えません。こんな酷い仕事を完璧にこなせたのだから、給料の他に何らかの勲章でも貰えなければ、全く割に合いません。このことについて、次の食事会で船長に直談判しようと思います。
今日の甲板からの眺めは残念ながらあまりよくありません。空は曇っていて、海も昨日に比べ明らかに荒れています。でもきっと神様は僕ら船乗りを見捨てず、祖国へ無事に返してくれるでしょう!君が僕の帰りを祈ってくれていることを願います。
今日も天候は悪く、下手に上甲板に出れば波に攫われてしまいそうです。船内は湿気と病人の瘴気でどんよりしていて、仄暗く、とても長い時間はいられません。そんなことをすれば気が狂ってしまいます。時折、監獄からは囚人たちの怨讐の声が聞こえてきます。もしかしたら、彼らは既に狂ってしまっているのかもしれません。今日も引き続き死体の処理を頼まれたのですが、なんと今日は5人の処理です!船医の態度は相変わらずですが、僕に言わせれば、その気の抜けた態度こそが、船内がなにか可笑しなことになっていることを示唆しているのです。
こんな酷い環境を放置しているからでしょう。船長が昼過ぎに倒れ、医務室に運ばれていきました。とても汗をかき、呼吸は浅く、なにか譫言を言っていましたが、何といったかはもはや聞き取れませんでした。
クロネコだけはとても元気で、今日も僕の元にネズミを持ってきてくれました。これで何匹目でしょうね?とても利口な子です。おそらく、この船で今一番の働き者はクロネコです。本当に働き者なんです。今日もってきたネズミは今までのよりもっと太っていて、臭いやつでした。こいつらのせいで、僕たちが日々必要とする飲み水や食料がやられているのを考えると、とても腹が立ちます。
ああ、早くそちらに帰りたい。ネズミなどに悩まされることの無い、清潔な我が家に帰りたいです、アリス。
今日は良い出来事と悪い出来事があります。良い出来事とは、僕とクロネコとで、ネズミの親玉を懲らしめたことです。クロネコは今日、僕のズボンの端を引っ張って、自分についてくるように僕に言いました。僕が彼についていくと、食糧庫の傍の床の上で立ち止まり、そしてそこを掻きながら鳴き声をあげ始めました。なるほど、ここに何かがあるのだなと思った僕は、周りに誰もいないことを確認してから、その床をひっぺはがしました。実際、船は連日の悪天候と船員の体調不良のためにだいぶ痛んでいて、そこまで時間をかけずに床に穴を開けることが出来ました。その下は空洞になっていて、船の骨組みが見えていました。そしてあの忌まわしい、足跡が聞こえました。いくつもいくつも聞こえました。なんと恐ろしいことでしょう!僕たちが一番に守らねばならない食料庫の真下に、巨大なネズミが溜まっていたのです。灯台元暮らしとはまさにこのことです。僕が見ただけでも30はいたでしょう。どれもが丸々と太っていて、不気味な鳴き声を発して、空洞内を走り回っていました。クロネコはそこへ飛び込むとまず一匹、そして一匹と、ネズミを殺していきました。なんという手際の良さ!それはネズミ専門のアサシンのようです。間違いなく勲章ものです。僕もその狩りに参加したんですが、いやはや、あのネズミたちときたら、こちらの動きをまるで予測しているかのように身を翻し、僕が空けた穴から次々と逃げ出していくのです。僕はもう怒り狂い、もう少しで監獄に飛び込んでいくところでした。
ここからは悪い出来事です。監獄はもはや手の付けようがない状態になっていたんです。なぜ今まで気が付かなかったのか。そこは明らかに黒い靄の様な瘴気で満ちていて、一寸先も見えないのです。牢はどこも錆びていて、ちょっと触れば崩れ落ちてしまいそうでした。船医たちはもはや何をする気もないことは明らかです。なぜなら、船医たちもは総じて医務室に閉じこもってしまったからです。
アリス、僕はもはや生きて帰れる気がしません。しかし、もう少しで目的地に着くはずですし、もう少しの辛抱です。君に良い報告が出来ないのが心苦しいです。でも、きっと向こうは良いところなはずなのです。君がこれを読んでいるなら、船がどこもこんな酷い環境であるなんて思わないでくださいね。殆どの船というのは、剛健で、煌びやかで、高貴なものなのですからね!
皆死んでしまった。僕がネズミ捕りに躍起になっている間に、信じられないほどの時間が経過してしまったのでしょうか。そして僕以外の人間はみんな瘴気にやられてしまった。
正直なところ、僕も現状が受け入れられず、今は自分の船室に引きこもってこの手紙を書いているんです。いつもは、船の中や外を行ったり来たりしながら書いているんですが、もうそんなことをする余裕がないほどに、船内は瘴気に満ちてしまっていて、外は雷鳴が鳴り響いています。どうしてこんなことになってしまったのか、誰にも分らないでしょう。医務室にはもはや治療を受けるべき人間は1人も存在しません。船室も僕の部屋以外は空いてしまって、とても静かです。ネズミはどうかというと、人が減るたびに増えているようです。今や、生きている人間よりネズミの方が多いでしょう。
皆死んでしまったのに航行はどうやっているのかと疑問でしょうが、それこそが僕が最も受け入れがたい現実としてここにあります。今、この船は何者にも縛られることなく動いているのです。舵輪は独りでに動き回り、帆は常に暴風を受け続けていますが壊れる気配がありません。信じ難いことです。こんな暴風のなかで帆を広げるなんて!誰がそんなバカげたことをしたのか!
もはや僕は、この船がどこに向かおうとしているのかもわかりません。話を聞ける状態の人がもういないし、星を見ようにも天には常に雲がかかっているのです。唯一頼りになる可能性があるのは、灯台からの光ですが、それがどの港の灯台の光か僕にはわかりません。そう、今、僕の船室の窓からははっきりと灯台の光が見えるのです。船は明らかにその光に向かって進んでいて、明日には港についているでしょう。ただ、着いたらどうなるというのでしょうか。もはや運ぶべき囚人は誰一人として残っていないのに。
僕はもう船が沈んでしまった方が良いように思えてなりません。こう思ってしまうのはとても悲しいことです。
もう少し陸に近づいたら、僕はこの船から脱出しようと思います。勿論、あのクロネコと一緒にです。僕は生きて帰ります。神に誓いましょう。
僕にはもう時間がありません。港なんてありません。残念です。今日もネズミを一匹、クロネコは捕えてきました。どんな状況でも、健気な子です。もし僕が船長だったなら、このネコに最上級の褒美をあげてやるところです。しかし、僕にはもう彼女にあげられる食べ物もありません。食料を取ってくる力も残っていません。残念です、アリス。もう二度と会えない、僕の愛した人。
今はただ、このネコが神の手によって拾われて、君の元へ辿り着いてくれることを祈るしかできません。もし、君の元へ一匹のクロネコが訪れたなら、それを僕だと思って大事にしてあげてください。
神よ、この船をどこか遠い場所に運んで行ってください。この船を満たす瘴気が、我が祖国に届かぬように。
フロア1-Aから回収された文書
概要: 以下の文書は、2009年8月20日に、エリア1-Aで発見された文書です。発見時、文書には金製の額縁が取り付けられていました。
閉鎖海面第1716番名誉ネズミ捕獲長
『ウィルバー(1790-現在)』
この世で最も優れたネズミ捕りにして、最も多くの時間をただ一隻の船に捧げた黒猫。
── 艦隊司令部