SCP-3002-JP
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絵本「ぎんのひづめときんのつき」表紙

アイテム番号: SCP-3002-JP

オブジェクトクラス: Eparch1

特別収容プロトコル: N/A

説明: SCP-3002-JPは2011/08/13に財団の運営するプリチャード学院小等部の職員室に出現した非異常性の物品群です。出現した物品はSCP-████-JPの報告書、絵本、録音装置の3点からなります。不明な経緯で出現したという1点を除き、これらの物品はいずれも異常性および異常存在による関与の痕跡を一切持ちません。しかし、これらの物品の全てが財団に認知されていないオブジェクト"SCP-████-JP"の存在を示唆しているため、SCP-3002-JPとして記録されています。

絵本『ぎんのひづめときんのつき(原題: zoccolo d'argento e luna dorata)』はイタリアの絵本作家エマヌエーレ・ソルミ氏による作品です。飛行能力を有するペガサスと夜間に眠れない少女の交流を描いた絵本で、現在は絶版となっています。発見された報告書には財団によって販売を停止されたとの記載がありますが、財団がこの絵本に関わった事実はありません。

発見された報告書は財団の標準的な書式で表記され、印刷されたものです。報告書内に記載されている異常存在ならびに現象、インタビューは全て実際には確認されていないものです。報告書中で言及されている実在人物の中で存命であるエージェント・ハヤカワ、エマヌエーレ・ソルミ氏ならびに真嶋涼香氏は「そのようなインタビューに関わった記憶はない」と回答しています。2以下は印刷されていた内容です。

アイテム番号: SCP-████-JP

オブジェクトクラス: Euclid

特別収容プロトコル: SCP-████-JPを直接収容する試みは現在に至るまで成功していません。そのため、SCP-████-JPへの対処は主に接触者の捜索および記憶処理によって行われます。

SCP-████-JPに関する情報の拡散を防ぐため、絵本「ぎんのひづめときんのつき」の販売は停止されました。接触者の周辺に当該絵本が発見された際は適切なカバーストーリーを適用し、回収ならびに記憶処理を行ってください。

説明: SCP-████-JPは選択的反ミーム性ならびに飛行能力を有する、有翼のウマ(Equus caballus)に似た姿を持つとされる実体です。自身に関する情報を認識した存在が特定の手順によって"呼び出す"事によってのみ出現します。出現したSCP-████-JPは自身を出現させた存在(以下、"接触者")以外からは基本的に知覚されません。ただし、接触者ならびにSCP-████-JPが情報の共有を意図した際に限り、他者に存在を認識される事が可能となります。また、SCP-████-JPは自身の反ミーム性を接触者に付与する事が可能であり、これによって"神隠し"と呼称されるような失踪事件を引き起こしていると考えられます。

SCP-████-JPを出現させる試みは全て失敗しており、接触者となるにはSCP-████-JPに関する情報を有する以外の条件があると考えられます。現在主要な仮説として「未成年者である」「SCP-████-JPの存在に疑念を持たず、本心から接触を希望している」の2点が考えられていますが、いずれも確証を得るには至っていません。また、SCP-████-JPを直接観測する試みはその反ミーム性によって全て失敗しています。このため、当オブジェクトに関する情報の殆どは接触者らからの証言に基づいています。

SCP-████-JPは1個体として存在するのではなく、接触者固有の存在として発生する異常生物群であると考えられます。SCP-████-JPを出現させる手段ならびにその容姿(色や大きさなど)は接触者それぞれに固有のものです。また、当オブジェクトは自身を呼び出した接触者に対して非常に友好的な挙動を示しますが、他の接触者に対しては強い関心を示しません。

反ミーム性により、一定の年齢を超えた人間はSCP-████-JPに関する具体的な事象について長期間記憶しておくことが出来ません。消失した記憶はクラスW記憶補強薬やそれに類する処置によって取り戻す事が出来ますが、その効果は一時的なものにとどまります。記憶が消失する年齢は一様なものではなく、最小で10歳、最大で17歳の事例が確認されています。記憶の消失は接触者にも例外なく現れ、成人以降にSCP-████-JPについて具体的な記憶を保持していた例はありません。

発見経緯: SCP-████-JPは2005年2月に財団が運営するプリチャード学園を訪問した財団エージェントが"黒い影"の存在を報告した事で発見されました。当エージェントは別任務のためにクラスW記憶補強薬を投与されていたためSCP-████-JPを部分的に認識出来たと考えられています。この報告を受け、オブジェクトを認識していた児童らは全てインタビューの後に記憶処理を受けました。

調査により、SCP-████-JP接触者は世界各国にまばらに分布していることが判明しました。反ミーム性を持つ異常存在の情報がこのように広く流布することは不自然であり、反ミーム性をもたない情報発生源の存在があると考えています。

追記(2006/4/24): 調査により、接触者の多くが絵本『ぎんのひづめときんのつき(原題: zoccolo d'argento e luna dorata)』を読んだ経験を持つ事が判明しました。これは飛行能力を有するペガサスと夜間に眠れない少女の交流を描いた絵本です。この絵本自体に異常性は認められませんでしたが、SCP-████-JPに関する情報源候補として著者であるエマヌエーレ・ソルミ氏に関する追跡調査が行われました。

エマヌエーレ・ソルミ氏はイタリアの絵本作家です。デビュー作『ぎんのひづめときんのつき』から計6作の絵本を公表後、引退生活を送っているとされています。第一作公表までの経歴には不明点が多く、少なくとも20代前半の一時期に異常芸術家集団"Are We Cool Yet?"と関わりを持っていた事が調査によって判明しています。

 音声記録████-JP-014 (2007/1/19)

対象: エマヌエーレ・ソルミ氏

インタビュアー: エージェント・ハヤカワ


«録音開始»

インタビュアー: インタビューへの快いご協力、たいへんに感謝致します。

エマヌエーレ・ソルミ氏: か弱い老婆一人を数か月追い回しておいてよく言うよ。聞く事を聞いてとっとと帰ってくんな。

インタビュアー: ご存じないかもしれませんが、通常のか弱い老婆は我々の追跡を7カ月にわたって回避したりはしないのですよ、マダム。

エマヌエーレ・ソルミ氏: 財団が通常を語るかい。わざわざ引退作家へのインタビューなんて建前を作って、つくづくご苦労なこと。

インタビュアー: それが仕事なもので。ではお望み通り単刀直入に行きましょうか。あなたはかつて"Are We Cool Yet?"と関わりを持っていた。少なくとも我々を財団と呼ぶ程度には、超常コミュニティの知識を保有している。この認識に間違いはないですね?

エマヌエーレ・ソルミ氏: あんたらはそう呼ぶんだったね。そう、連中があんたらの手口を教えてくれていたもんでね。連中と関わって得た数少ない収穫の半分がそれだ。ああ、聞かれる前に言っておくと、正式なメンバーだった事は一度もないよ。

インタビュアー: 異常性を有する作品は作ったことがない、と?

エマヌエーレ・ソルミ氏: 少しばかりの習作はあるが、全部抜ける時に処分した筈だよ。それがどういう風の吹き回しでここまで追いかけて来たんだい?

インタビュアー: 『ぎんのひづめときんのつき』。

エマヌエーレ・ソルミ氏: 最初の絵本じゃないか、懐かしいね。あのただの絵本がどうしたって?

インタビュアー: 作中のペガサスが現実に影響を及ぼしています。

エマヌエーレ・ソルミ氏: そういう事もあるだろう。元々現実にいたんだから。

インタビュアー: 現実に? では、あれはあなたの創出した概念ではないのですか。

エマヌエーレ・ソルミ氏: あれはずっと昔からいたよ。長く暗い夜を過ごす子供の傍にはずっと。みんな忘れてしまっただけ。

インタビュアー: でも貴方はそれを覚えていて、描いた。

エマヌエーレ・ソルミ氏: 連中は見えないものを見る術を教えてくれた。正直に言えば、それが残りの半分だ。

インタビュアー: その結果読者が失踪しているのですが。

エマヌエーレ・ソルミ氏: 子供が望んだことなんでしょうよ。で、財団はあれを収容する術を見つけたの?

インタビュアー: 絵本は殆ど回収しています。

エマヌエーレ・ソルミ氏: 絵本だけ対処したの? 道理で届く子供らの声が減ったと思った。

インタビュアー: 何が言いたいのですか。

エマヌエーレ・ソルミ氏: 人の夢想が常に良いものとは限らないのは知ってるだろ。あの子らは隠されたものの一部に過ぎない。それだけを封じれば、必ずバランスは崩れる。瞼の裏の暗闇に何が飼えるか、あんたたちが一番よく知ってるだろ。人の眼を覆ってまで夜の番人を務めてるんだからさ。

インタビュアー: なるほど。全てを収容できる術を探すように伝えておきましょう。

エマヌエーレ・ソルミ氏: あんたたちがそうするなら、何も言わないさ。

«録音終了»

追記(2008/5/22): 記憶処理を受けた接触者の1人がSCP-████-JPに再び接触していた事例が報告されました。この接触者は最初にSCP-████-JPの存在が報告された際にプリチャード学院幼稚園に所属していた児童です。以下はインタビュー記録です。

 音声記録████-JP-022 (2008/05/22)

対象: 真嶋涼香氏

インタビュアー: 真嶋博士

付記: 心理状態を考慮した結果、対象の母親である真嶋博士が監視のもとでインタビューを担当しています。


«記録開始»

インタビュアー: ごめんね、急に改まってお話があるなんて言って、まっすぐ帰って来てもらって。でも大事な事なんだ。だからこれから聞くことには正直に答えてほしい。できるね?

真嶋涼香氏: ごめん、[関係が薄いため省略]。あれ、わたし。

[5秒の沈黙]

インタビュアー: それは全然知らなかった。後でじっくり聞かせてもらいます。そうじゃなくて、この前のサファイアの話。

真嶋涼香氏: え、そっちなの。

インタビュアー: そっち。サファイアの話、もう一回お母さんに聞かせてくれない?

真嶋涼香氏: あー、うん。

[10秒の沈黙]

真嶋涼香氏: 誰にも言わないでくれる?

インタビュアー: もちろん。

真嶋涼香氏: 絶対に絶対?

インタビュアー: 二人だけの秘密にするよ。

真嶋涼香氏: わかった、ありがとう。絶対に誰も言うなってあの子が言うから。

インタビュアー: あの子?

真嶋涼香氏: サファイア。誰にも、特に大人には自分のことは話すなって。自分がまだいるのが、私と遊んでるのが大人たちにバレたらやばいから。

インタビュアー: そっか。じゃあ何で一昨日は話してくれたの?

真嶋涼香氏: 弱ってるみたいだったから。最近はいつも傷だらけだし、来ない事も増えてきて。

インタビュアー: 弱ってる?

真嶋涼香氏: 自分を呼んでくれる子供がいなくなって、忘れられてるって。だからお医者さんにみせるか何かしなきゃって思ったんだけど、見えない馬をどこに連れていけばいいかもわかんないし。

インタビュアー: 家の消毒液とか絆創膏がやたら減ってたの、それ?

真嶋涼香氏: うん。お母さん、何とか出来る? 今にも死んじゃいそうなんだよ。

インタビュアー: 考えてみるけど……。一ついい?

真嶋涼香氏: うん。

インタビュアー: 呼んでくれる子供がいなくなったから弱ってるの?

真嶋涼香氏: そんな感じのことを言ってた。大人に見つかったら忘れさせられちゃう、あたしもそうだったんだって。

インタビュアー: ……忘れさせられた、って? そう言ったの?

真嶋涼香氏: 幼稚園の頃はみんなと一緒に遊んでたのに、大人に見つかって会えなくなったって。見つかるはずがないのに。

インタビュアー: そう。

真嶋涼香氏: だから絶対内緒にしてね。じゃないとサファイア、また連れてかれちゃうから。

[5秒の沈黙]

インタビュアー: わかった。それじゃ、涼香も忘れてたのに思い出したの?

真嶋涼香氏: うん。一週間くらい忘れてたんだって。

インタビュアー: 一週間。で、どうやって思い出したの?

真嶋涼香氏: うちの絵本で、こんな友達がうちにもいたらなって思って呼んでみたら本当に来た。で、びっくりしてたら一週間ぶりだねって。

インタビュアー: そっか。

真嶋涼香氏: そういえばあの絵本、最近見てないな。どこかにしまっちゃった? 久しぶりに読みたいんだけど。

インタビュアー: ……そうだね。また探しておくよ。

«記録終了»

この供述はSCP-████-JPが何らかの変化を起こしている可能性を示唆しています。これを踏まえ、真嶋涼香氏に対する記憶処理は保留となり、真嶋博士による定期的な聞き取りが実施される事になりました。

異常現象記録 (2009/09/03)

2009/09/03早朝、複数名の財団職員の消失現象が発生した事が判明しました。当職員らは以前から失語、不眠、幻覚、幻聴ならびに暗闇への強い忌避感情を報告しており、SCP-████-JPとは独立した異常現象として調査が行われていました。しかし、2009/09/02の夜間に真嶋涼香氏がSCP-████-JPによる応答の完全消失を報告した事、昏睡に陥った職員の複数名が馬の嘶きや蹄の音といった幻聴を報告していた事から、この現象はSCP-████-JPと関連していると考えられるようになりました。以下は行方不明となった職員の一人、エージェント・岩波の寝室から発見されたメモ書きです。

2009/9/2

 背後に張り付いた暗闇がいよいよ近づいて来ました。もう追いつかれます。勘だけど、今夜乗り切れるかどうか。だからここに今の所感を書いておきます。今晩を乗り切れなかったら、読んで役に立ちそうかどうか判断してください。朝日が昇ってちゃんと起きられたら、これを捨てて改めて報告に行きますが、どうも駄目そうだという気がするので。

 人間は、自らの想像力からは、瞼の裏に焼き付いたものからは逃れられない。

 この暗闇の幻と失語に見舞われているのは私も含め、主にカバーストーリーを流布する職務についている者です。日常の裏で何が跋扈しているのかを知りながら、それを覆い隠す人々。報告書には"限定的な失語"と記されているようですが、本当に失った言葉はそれじゃない。さきほど気づきました。自分たちがなくしたのは嘘をつく声、そして特に「ここには怖いものなんて何もない」という台詞です。

 他者にとっての恐怖を隠すストーリーは語れても、自分自身の恐怖は騙れない。"いやな想像"は加速して、夜闇に潜む空想上の怪物は雪玉のように肥え太ってゆく。今私の背後にいるのはそういう存在なんだと思います。

 人間が想像できる事は、必ず人間によって実現されてしまう。たぶん、これが答えです。

発見された録音装置は財団エージェントに支給される標準的装備に含まれるものです。複数の音声ファイルが保存されており、これらの内容はSCP-3002-JPの起源に関わると考えられています。録音内容および登録情報はこの装置がカバーストーリー部門所属の"エージェント・岩波"に支給されたものである事を示しますが、そのような人物が財団に存在していた記録はありません。また、記録の中では"エージェント・岩波"を名乗る人物と不明な少女以外の声は確認できていません。

    • _

    いつのことだか、どこのことだか。いつのことでも、どこのことでも。

    古今東西、冒険の終わりにはいつだって休息がつきものです。ほんの小さな事であっても、冒険には違いがありません。だからでしょう。一行が戻ってきたとき、そこには小さな石造りの小屋がありました。中に入ってみれば……そうだな。小さな灯りの水晶ランタンに、清潔で丁度いいベッドが一つ。休みを取るのにはうってつけです。

    色々あって疲れてるだろ。一回休むといい。お兄さんはここにいるから。

    おやすみなさい。
    怖いものなんて何一つここには入って来やしないよ。
    こどもを傷つけるようなものなんて、何一つここにはないんだよ。
    だから、安心して眠るといい。おやすみ。

    ……よし、寝たか。

    もしもし。聞こえていますか。財団に届いているといいんですが。どうも発信しか出来ないらしいので、これ。まあ、通じていると信じよう。そういう世界だ。

    さて。

    まず……俺は岩波。エージェント岩波……岩波文哉、そう名乗ってました。俺のこと、財団にはどう認識されてるんだろう。行方不明なのかな。で、第一の報告。俺は生きてます。生きてここにいる。まあ、ここがどこなのかは皆目検討もつかないんですが。

    ……反応がないとどうにもやりづらいな。ともかく、俺の主観で何があったのか、最初から話します。

    まず、俺は同僚たちと同じように暗闇の幻覚に追いかけられていました。部屋の隅とかに黒い影がわだかまってて、それがどんどん近づいてくるやつ。その影に呑まれまして。気づいたら真っ暗で何もない所にいました。まあ、自分は死んだのかなって思いましたよ。それで、静かに漠然と漂っていたんですが、ある時子供がどこかで泣いている声がするのに気づきました。それで、自分以外にも誰かがいるのかと寄っていったんです。

    小さな女の子でした。10歳かそこらの子供が暗くて何も見えないって泣いてた。それで、どうにか泣き止んでほしくって、ここは暗いけど少し歩いた先にちゃんと明るい場所がある、俺はその道を知っているって言いました。もちろん出任せです。不思議な事に、暗闇の幻覚を見ていた時はあれほど嘘の言葉が出てこなかったのに、その時はとんでもなく滑らかに出て来たんですよ。それで、本当に不思議なのはここからです。そう言って顔を上げたとき、遠くに光が見えたんです。だから、俺たちはそこに向かった。それで、気づいた事があります。ただ黙って歩いても辿り着かないのに、「近づいて来た」「もうすぐだ」と言ったらそうなった。

    ただ、言った事が全部実現する訳ではないみたいです。どう言葉を探しても帰路は見つからなかったし、どうやら何かするには段階を踏んでそういうストーリーを作る必要がある。辿り着いた先にあったのは月が浮かんでいるだけの平原でした。

    それで俺は、ここに前からいる奴がいるはずだ、そいつは世界の在り方を知っているかもしれない、と適当なことを言いました。そうして探したところ、果たしてそいつはいました。3つの空気穴がある箱の中に入った羊です。姿は見てないし、本人は勇猛で美しい獅子を自称していたけど、まあ羊だろうな。メエメエ言ってたし。

    羊……ボクシィと我々は呼んでいますが、そいつは色々と教えてくれました。大体想像通りだった。ここはどんな地図のどこにもない月影の地で、その在り方は訪れた旅人によって規定される。何かを得たくとも結末だけを描くわけにはいかない。一筋縄には行かないってことです。ちなみに、これを教えてもらうのにも条件がありました。連れて行って、その先で見たものを箱の中に聴かせてやることです。まあ、どうせ報告は要るから大した手間でもないのですが。

    それで、その法則ってのを試しがてら通信手段を確保するべく俺は色々とでっち上げて、この音声をお届けしています。地下に住む小人と交渉して、かつて人魚から貰ったっていう貝殻を譲ってもらいました。そう、俺は今これを貝殻に話しかけて吹き込んでるんです。笑える絵面でしょう。それで、戻ってきて、休める場所をでっちあげて、子供が寝たのでこの報告をやっています。

    現状報告できるのはこれくらいです。少し休んだら、この世界を探索してみます。では、今日のところはここまで。

    ああ、そうだ、言い忘れてました。色々試したんですけど、この世界、月影の地では俺はナレーターみたいに喋るのが一番やっていきやすいみたいだとわかりました。見たものを語るし、見せたいものを騙るって訳です。まあ、日頃の任務とそう変わりませんね。そういう訳で、今後は絵本みたいな語り口調でやっていきます。お約束として、そういう口調の方で語られる世界の方があんまり悲惨な事は起きなさそうな印象があるし。ともかく、別に気が狂った訳でもなければ世界に取り込まれてる訳でもないです。今のところは。

    あと、どうもこの世界には夜明けは訪れないようです。何を言ってみても駄目でした。まあ時間の流れが曖昧なのはいいこともあって、どうやら睡眠や食事は必須って訳でもないらしいです。旅にはおあつらえ向きの世界って事なんでしょう。

    だから、子供が目を覚ましたら出発します。

    冒険の始まりってやつですね。

    はじまり、はじまり。

    冒険は始まり、一行は歩き出しました。少女と語り手、箱入り羊は腕の中、この世界をより知るために。暗い月の小屋を出た先に現れたのは……現れたのは……うん、麦畑みたいだね。そういう事にしよう。一面に広がる麦畑です。月光を受けた金色の輝きが波のように、海のように揺れている。そのそばには穏やかで優しい小川のせせらぎ。静かで見晴らしのいい景色です。この調子だとこの先に果樹園とかないかな? それか、この畑の主。おや丁度いい、人影が見えてきた。あれは……いや、違った、カカシか。ああ、きみはカカシを見るのは初めて? 本で見たことはある? そっか。そう、害鳥を追い払うためのものだね。

    追い払われる害鳥がここにもいるのかって? いるみたいだな、ほら、遠い空に黒い点が一つ二つ……いや何か増えてないか。増えたな、急に。……ちょっと怖がるのやめてもらってくれない? なんか反映されてるんだけど。駄目か。仕方ない、俺の後ろに隠れてなよ。ちょっとはマシだろ。お、一羽群れから離れてこっちに向かってきたな。黒いカラスで、眼だけがすごく鮮やかな緑色だ。こいつが代表で、どうやら俺に用が……いや、話がある事にするか。ごきげんよう、カラスくん。この旅人に何か話があるようだね、言ってごらんよ。

    "大人がどうしてここにいるの?"

    それは俺も知りたいね。来たくて来たんじゃないんだが。

    "へえ、招かれてここに来たんじゃないのか。だから君たちは友達を連れてないんだね。まあ今となっては不思議でもないか"

    友達? 何のことを……どうしたんだい、前に出てきて。

    「あの子のこと、何か知ってるの」

    "おや、君はお友達の事を覚えているんだね"

    「久々に声を聞いたと思ったらここに来てたの。教えて。あの子のことで、知ってること」

    "君の友達のことは知らないな。でも銀の蹄の一族の事なら誰でも知ってるぜ。銀蹄族、人の子の友、世界と世界の渡し橋。その蹄はあらゆる境界を飛び越え、背に乗った友は何からも守られる。彼らの危機は世界の危機だよ、嘆かわしい事だね"

    「危機? 世界の? ならどうして誰も助けないの?」

    "何か出来るのは、友としてその者の名を呼べる人間だけだ"

    「知ってるんだね、ボクシィも。どういうことなの?」

    どうやら俺たちにしか出来ない事があるらしいぞ。で、何が起きていて、何をすればいいんだ?

    "大人には無理だよ。友達の名前どころか自分の名前も呼べなくなったような人には、特にね"

    「あたしなら出来る? どうすればいいの?」

    "そうだな。友達のために何かしたいと思うなら、この道をそのまま東に向かうといい"

    この子にはえらく素直に教えてくれるじゃないか。

    "いずれ誰でもわかることだよ、願いも怖れもその方から来るのだと。なら、門の案内者もそこにいるのが道理だろ"

    そういうもんか。じゃあ行くよ、ありがとう。

    "まあ、あのカカシどもを何とかしてこの畑を抜けられたらの問題だけど"

    は? カカシ? 単に突っ立ってるだけじゃ……うわっ、話してる間に増えたな。

    "こいつらは畑を東に向かおうとすれば霧を吐く。それに巻かれるうちに、方向を見失ってここに戻ってくるっていう寸法さ。さあ、お兄さんはどうする? さっさと迂回してそれが正しい道だったことにでもするかい?"

    とりあえず一回試すか。はぐれないようにしっかり掴まっててくれよな。[咳払い]さて、一行は恐々と、しかし着実にカカシの一体に近づいていきます。冷静に、対処法を見出すべく。そしてかかしからは一筋の霧が吹きだして……霧か?

    ……おい、これ煙草じゃねえか! 

    子供の前でもうもうとふかしやがって、恥ずかしくないのか俺だって我慢してるんだぞ! 場所を変えろ場所を!

    [沈黙]

    すまん、急に大声出して。思ってたのと大分違ったんで、つい。でもアレだな。今ので消えたな。正直何一つ釈然としないんだが、これでよかったのかいカラスくん。君が何も言ってくれないと困るんだけど。

    "解決法があまりにも思ってたのと違った"

    だよな、俺もだよ。じゃあ、俺たちは行くよ。色々教えてくれてありがとう。……なんだ、付いてくるのか? 君は大人が嫌いなもんだと思っていたんだけど。

    "そうだよ。でも、あのカカシもそんなに好きじゃないし。それにお前らがどこまで行けるのか興味が出て来たし。その我慢がどこまで保つのかにもな"

    我慢? ああ、煙草のことか。別に俺、喫煙者じゃないぞ。

    "何だって? あれ、嘘なの?"

    最近言葉が出なかったもんだから、ここでならどうなのか試したかっただけだよ。君も知っての通り、大人は嘘つきで……痛い、頭に爪を立てるな! 人の頭を巣にするんじゃない!

    "別にいいだろ、元々鳥の巣みたいな頭なんだから。ここから連れ出してくれるまでは降りてやらないからな"

    はいはい、判りましたよ。

    さて、一行に仲間が増え、道中はますます賑やかになってゆきます。箱入り獣にカラスと少女、そして語り手、兼、旅人の珍道中。傷ついた友達を探すため、世界と危機について知るため、元いた場所に帰るため。旅の理由はたくさんあれども、目指す方角はただひとつ。ここらで東へと向かう旅の仲間を改めて紹介することにいたしましょう。

    まずは箱入りのボクシィ。本人は勇猛で美しい獅子って言うけど、どうだか。木箱の外からも内からもお互いを直接見る事はかないませんが、最初にこの世界の理を教えてくれた頼れる仲間です。何かを得るには何かを為す必要がある、そうだったね。

    そして次……の前に、ちょっと待って。麦畑の国はここで終わりらしいですね。目の前には深く流れの速い川、その向こう、遥か彼方に雪の国。そうだね、流れに沿って歩いてみてどんな橋がこの先にかかっているか見てみることにしましょうか。それとも君がひとっ飛びして様子を見てくれるかい? 気乗りしない? そっか。

    ああ、君の紹介がまだだったね。こちら、麦畑のただ中、霧の鳥籠で出会ったカラスのクロウ。翡翠の鋭い眼をした、美しい羽根の黒い鳥。少々口は悪いけれど、色々な警告を教えてくれます。名前のこと、月影の地のこと、銀の蹄の一族のこと。そして、ついさっきも教えてくれたね。雪で出来た橋、ちょうど俺たちの目の前にあるようなのは大人の重みにはよくないって。

    でも、そうだよな。きみは友達が心配だよな。あの霧の鳥籠みたいに何とか出来ないかって? いい考えだ。……ああ、ここで我らがリーダーの出番です。人の姿のお嬢さん、[不明瞭な音声]ちゃん。日頃はすずって呼んで欲しいらしいので、今後もそう呼びます。小さいけれど、友達の身を案じて前へと突き進める、優しさと勇敢さと賢さをそなえたすてきな女の子です。そうだよな。この先に進まなきゃいけないもんな、俺たちは。

    "大人をやめれば?"

    本物の前で子供にはなれないよ。

    "一気に飛び越えでもすればいけるんじゃないか。今の私は箱入りだから無理だがな"

    飛び越えるのは無理だが、駆け抜けるなら出来るかもしれない。よーし、一か八かやってみよう。一行には語り手が必要だし、お目こぼしがもらえるかもだし。いや、そうだな。

    ここで通りがかったのがカササギの群れ。彼らはどうやら別に目的があるようで、橋を補強するのを手伝ってくれました。うん? 鳥の上を渡っていいのかって? 大丈夫だろう、織姫と彦星もやってることだし。うん。そういう話があるんだよ、昔から。

    で。ボクシィ、木箱からロープとか出せない? ありがとう。これを持って行ってもらえるか。その後で俺が駆け抜ける。……いや、実際案外簡単に渡れましたね。今なら虹の橋でも渡れそうな気がする。ロープを解いて、一行は先へと進みます。その先に待つものはいったい……うん? どうしたの?

    「岩波お兄さんの紹介はいいの?」

    岩波? ああ、俺の名前か。語り手の説明は別にいいんじゃないか?

    "お兄さんも旅の一行でしょ"

    そうかな。…‥じゃあ、語り手の話もしておきましょう。ナレーターを務めるのは私、かつては岩波と呼ばれていた大人です。実は岩波と言うのはお仕事用の名前で、子供だったころは……。

    あれ。

    本名、思い出せないな。

    [重要性が低いと見られるため省略]

    一行は東を目指してさらに進んでゆきます。雷鳴轟く嵐を潜り抜け、虹の橋を越えてなお東へ。常泣きの芋虫から銀の長靴を譲り受け、道化の蛾から英雄の熱い血のように赤いコートを貰い受け、糸織る蜘蛛から白い防寒具を借り受けて、いよいよ雪の国への到着です。

    うん。咄嗟に思いついた名前だけど、おとぎ話の雪の国ってのはいいですね。そこまで寒くも危なくもなさそうだし。月光を反射して地面全体がぼんやりと輝いているうえに足跡が残りやすいから何かを探すにはうってつけだ。きっとここで何かが見つかるに違いありません。一行は注意深く、月に濡れて煌めく世界を一歩一歩と進んでいきます。

    一歩、また一歩。雪の中を進んで……おやボクシィ、君が最初に何か見つけるとはね。後ろ? 一体……う、わ。……何だよ、これ。手か。でかい。

    「お兄さん?」

    いや、大丈夫だ。そう、怖い怪物って訳じゃない。あれはきっと君には何も出来ないよ。君のような、後ろ指をさされるようなことをしていないこどもには。

    "それじゃ、君は指をさされるようなことをしてきたわけだ、大人の語り手?"

    その通りだよ、クロウ。こいつらは……この、宙に浮かんでいる、いくつもの、巨大な手は、全部俺を指さしてる。自分の名前も名乗れなくなった嘘つきをな。ああ、いつの間にか四方を囲まれてるな。

    くそ、このタイミングでぶり返してきた。声がうまく出ない。嘘がつけない。

    [沈黙]

    なあ。俺が君たちから離れたら、君らは無事先へ進めるのかな。

    「それは違う、と女の子は言いました」

    「そうだ。一人になろうとしてはならない、と木箱の中のライオンが言いました。手が怖いなら入って来れない場所まで逃げて隠れたらいい、って緑の目のカラスが言いました。しぶしぶって感じだったけど。そうしよう、でもどこに逃げたらいいんだろう。女の子は考えました」

    「考えて、考えて」

    「それで思いつきました。お兄さんがやってくれたのと同じことをしたらいいんだって」

    「手を握って」

    「ここには本当に怖いものなんて何もないんだって言って」

    「それで、いつだって笑いかけてくれて」

    「それで、何とか次へ進むやり方を無理やりにでも作り出してくれた。だから考えなきゃいけない、何か思いつかなきゃいけないんだ」

    「……」

    「この世界に大人の身は歓迎されていない。君らには重すぎる荷物だろう、とお兄さんは言いました」

    「そっか。そうだった」

    「ねえ、クロウ君。言ってたよね。雪の橋は大人の重みで壊れるって。なら、こういうのはどうかな。実はこの雪の国には地下におっきい空洞があってね、一歩でも後ろに下がれば重みで崩れて下に──きゃあ!」

    「いたた……本当にこうなんだ。おっきい手はついて来てない! 私にもできたよ! どう?」

    「……お兄さん?」

    「どうしよう。何とかあの大きな手からは逃げられたけど、岩波お兄さんは起きなくなっちゃったし、ここからどうやって戻れるかもわかんない。起きるまで待つしかないのかな」

    「ここ、地下の洞窟なのかな。暗くて何にも見えないや」

    「遠くから何か聞こえて来た気がする。何なんだろう。やだな」

    「……でも、最初の時ほど怖くないな。何ならこの暗さ、ちょっと落ち着くかもしれない。岩波お兄ちゃんが横にいるからかな」

    「お兄ちゃんはいつだって綺麗なあかりをつけてくれる。でも……私はこうも真っ暗だと何も思いつかない。この世界にはどうも火があんまりないみたいだし」

    「だんだん見えるようになってきた。でも、お兄ちゃんはまだ起きない。息はしてるし、大きな怪我はしてないみたいだけど……うわっ」

    「小さな手が、浮いてる。ついて来たんだ。……いや、大丈夫だよクロウ。私たちには何もしなさそう。お兄ちゃんの言った通り、こどもには何もしてこないんだと思う。…‥別に、私もそんなに良い子じゃないんだけどな。後ろめたい事だって、ないわけじゃないし」

    「あのね。あたしがここに来たのも、きっとあたしのせいなんだよ。あそこに、あの施設にいたくなくって、次の一日が始まるのが嫌になって。サファイアに会いたい、またあの絵本みたいにここじゃないどこかに連れて行って欲しいって思ったんだ」

    「そしたら、こうなっちゃった」

    「親がいなくなった子のための施設だよ。お父さんとお母さんね、なんか急に帰ってこなくなっちゃったんだ。いや、施設の人たちはすっごく親切だよ。こっちが申し訳なくなっちゃうくらいに。でも」

    「事故だったって言うんだけど、詳しい事はなんにも教えてくれないんだ。普通の事故で、そんなにたくさんの子供がいっせいに親をなくすなんて、どう考えてもおかしいのに」

    「この手……そっか。一緒にいてくれるんだね」

    「お兄さん。ねえ、岩波お兄さん。もう起きてるんでしょう? さっきまで私のそばにいて、私がおちついたらお兄さんを指さしに戻ったその手、お兄さんのだもん。実は起きてて、聞いてるんじゃないの?」

    おはよう。奇妙なもんだな。狸寝入りして聞き耳を立てるつもりは毛頭なかったんだが、そういう感じになってる。いや、君のせいというよりは君のおかげと言ったほうがいい。そうじゃなかったらまだ気絶してただろうし。

    で、この手。そうだな、君の言う事は正しい。これは俺の手だよ。傷と血で汚れる前の。人は自分の瞼の裏からも自分の手からも逃れられない、そういう事なんだろうな。ああ。

    俺は、誰よりも、君に言わなきゃいけない事がある。

    俺は君が思っているほど良い大人じゃない。薄汚れた大噓つきだよ、必要とあらば他人を騙して燃え盛る焼却炉に投げ込めるような。友達と二度と会えなくなった子供にまたいつかは会えるさと笑いかけて、その友達に関する記憶を丸ごと消し飛ばした事だって一度や二度じゃない。

    そうだ。君の友達……君らのペガサス、銀の蹄を持つ一族を君たちから取り上げたのは俺たちだよ。あの絵本を取り上げて、誰の目にも触れないようにした。人には知るべきでない危ない知識がこの世にはあるからと、ありとあらゆるものを平和の幻で覆い隠して、暗闇の中に押し込めた。その結果がこれだ。

    ごめんな。確かに君がここに来たのは君に理由があるからかもしれないが、帰れなくなったのは俺たちに原因があるんだ。そりゃあ、弾劾の指も俺を指し示すよな。

    「でも、もう指さしてないよ」

    本当だ。

    「ねえ、お兄さん。ここはとっても暗いの。何か明かりになるもの、見つからないかな」

    そうだな。ちょっと目を凝らしてみるか……ああ、あっちに光るキノコが生えてる。小さいのがたくさん、ぼんやりと薄緑に光ってるんだな。洞窟だから湿度が高いんだろう。ちょっと動くか。

    「ありがと。ね、お兄さん。確かに人を焼いちゃうのはやめたほうがいいと思うけどね」

    "本当にそれはそうだぞ"

    「クロウはちょっと黙ってて。でも、ここに怖いものは何もないってお兄さんがどうして何度も言ってくれたのかはわかるから。お兄さんに見えていて、それでも口にしなかったものが何だったのか、あたしにもちょっとわかったから。だから、全部が全部悪い事じゃないと思う」

    そうか。ありがとう。

    「でも、いつか。私がそれを見ても大丈夫なくらい大きくなったら。泣かないくらいになったら、その時は教えて欲しいな。だめ?」

    大人になったらな。無事に戻れたら、夜が明けた後の世界をお見せするよ。酷いものも沢山あるけどさ、その先に、酷いだけじゃないものも沢山あるから。だから、君の友達を見つけて帰ろう。ほら、あの手が置いて行った指輪だ。君なら何か使い方を思いつくんじゃないか?

    「これ……お母さんの指輪だ」

    そうなの?

    「うん。これをこっそり借りてサファイアを呼んでたんだよ」

    そうか。なら、今回もそうしてくれ。俺にはもうできないから。

    「ねえ。もしかして、お兄さんにもサファイアみたいなお友達がいたの?」

    昔はね。でも大人にはそういうの、いないんだよ。だから君が呼んでくれ。

    「わかった。……友よ、銀の蹄を持つ友よ! サファイア、来て! どこにいるのか教えて……お願い!」

    [沈黙]

    嘶いてたな。あっちのほうだ。

    「聞こえたんだね。お兄さんにも」

    まあな。さあ行こう。この光る洞窟を進んだら、きっと地上に出られる筈だ。

    さて、どんどん進んでいきましょう。一行が地上に出てみると、そこは静かに雪の降る森でした。頭上には月と流れ星、周囲にはそれに照らされた蝶々たち。湿った匂いのする柔らかな土には、はっきりと白く光る蹄の足跡。追えば、きっとすずちゃんの友達の所までたどり着けることでしょう。道に迷う心配はなさそうです。

    「お兄さんのお友達もそこにいたりしないの? 銀の蹄の一族って言うくらいなんだから、あたしのサファイアだけってことないでしょう?」

    だとしても、俺は呼ばないよ。呼ぶ必要もないからな。

    "呼べない、の間違いじゃないの?"

    両方だよ、クロウ。君が言った通り、自分の名も捨てたやつには呼べないし、呼ぶつもりもない。

    "当人が呼ばれるのを待っていたとしてもか?"

    今更そんな事もないだろうよ、ボクシィ。俺にはもう、木箱の中のヒツジもライオンも見る事は出来ないんだ。来たところできっと見ることはできないよ。……それにさ。

    なあクロウ、言ったよな。銀の蹄の一族は危機に瀕していると。どうしてそこまでの事になっているんだ。呼ばれない事だけが理由なのか。……あいつらが大人の記憶に残らないのは、そうしなければいけない理由があるんじゃないのか。

    "どうしてそう思う?"

    幼い日に何度となく庇ってもらった覚えがある。先の見えない夜の闇から、全てを暴く夜明けの光から。あいつは何度となくその翼で幼子をかくまってくれていた。その背に乗る友は守られる、と言ったな。その分の傷を銀蹄族は引き受けているんじゃないのか。

    "気づいていたのか"

    そうだよ、ボクシィ。ここにあるのは願いであり夢想であり、そして恐怖だ。違うか? あの浮いてた巨大な手なんかは間違いなく俺が持ち込んだものだろうし。

    "そうだ。だが、君らが銀の蹄の一族と呼ぶ彼らは人間に呼ばれ、彼らの見たものを受け取る事で傷を癒している"

    じゃあ、なおさら駄目だよ、ボクシィ。俺が見て来たものはあまりにもひどいから。

    「会いたいとは思わないの?」

    いや……どこかで他の子どもの傍にでもいてくれたら、俺にはそれで充分だよ。……すずちゃん。何だいその目は? 何でもないってそんな事ないだろう。……そう。

    さて、蝶舞う森の果ての果て、急に視界が開けました。森を抜けた先にあったのは、幻の動物たちの病院です。羽根の抜けたヒッポグリフ、肩こりが重症化したケルベロス、心臓が悪いケンタウロス、その他もろもろありとあらゆる動物が集う憩いの場所です。へえ、医者役は不死鳥なんだ。それと、杖に巻き付いてる双頭の蛇、あれも医者らしいな。看板かと思った。

    それで足跡は……この先か。やあ、俺たちは見舞いの者なんだけど、通してもらえないかな? それとも受付で書類とか書かなきゃいけない? そう。どうやらあんまり歓迎されていないな。手出しはしてこないようだが。……気が急くのはわかるが、慎重に行こう、な。もう近くまでは来てるんだから。それにしても、これが病室なのか。屋根がないのは奇妙な気分だ。ここには雨も雪も降らないんだろうな。……で、ここか。

    「サファイア! よかった、生きてた!」

    あー。居るのか。そこに。

    「うん、いる。そんなに怪我も酷くないし……見て、ちょっとずつ治ってきた!」

    そっか。それはよかった。

    「お兄さんには見えないの?」

    残念ながらね。俺から見えるのは宙に浮いているツタの首輪とそこから伸びる異様に頑丈そうな鎖だけだよ。何が見えているのか、聞かせちゃくれないか。

    「雪みたいに真っ白な毛並みのお馬さんでね。たてがみがちょっと短くて、あったかいふわふわの羽が生えてるんだよ。それで機嫌がいいと尻尾が揺れるの」

    で、青い目をしてるのか。

    「そう! なんでわかったの? 見えてるの?」

    いや、なんとなく。良かったら触れてみてもいいか?

    「いい? いいってさ。このあたりなら他の人が触っても大丈夫だよ」

    そりゃどうも。……輪郭が曖昧だが、たしかに暖かいな。

    「でしょ! もういいの?」

    ああ。積もる話もあるだろうに、悪かったな。今はゆっくり休むといい、俺らは部屋の隅でちょっと話をしてるから。

    「うん、わかった!」

    クロウ、ボクシィ。お前らに聞くことがある。

    "何だい。見えなかったのがそんなにショックだったの?"

    違う。そんなことはどうだっていい、最初から解っていた事だ。

    "では何だ。サファイア嬢のことか? じきに完治すると思うが"

    そりゃ何より。それで、完治した後はどうなる? 俺にはどうにも、ここの連中が快く退院患者を送り出してくれるようには思えないんだが。

    "そうだね。彼らは銀の蹄の一族には出て行ってほしくないだろうな。今は様子を見ているけれど、あの首輪の鎖が断たれる時が平和の断たれる時になるよ"

    やっぱりか。どうしてなんだ?

    "月影の地は東の果て、君らの来たところから流れ込んだ空想によって成り立っている。そこまでは判ってるだろ?"

    ああ。さっきは言わなかったが、明らかに10万ボルトくらい出せそうな黄色いのとかも患者に混じっていたしな。

    "そう。そしてそれは銀蹄族を通じてのことなんだ。ここに残った最後の銀蹄族が君らを送り返すべく飛び立ってしまえば、供給が断たれた月影の地は少しずつ欠け落ちて消えていく。連中はそれを避けたいのさ"

    俺たちがここに残らなければ月影の地は潰えるのか。

    "少なくとも彼らはそう思ってるね"

    クロウは違うと思ってるのか?

    "終わりが始まるのは向こうとの繋がりが断たれた時だ。ここに残ったとしても、あの子が向こう側のことを忘れ次第、他の連中と変わらなくなるだろうな。僕みたいにね"

    は? 君は……そしてここの彼らは、かつてここに来た人間なのか?

    "全てじゃないよ。太古からいる者も、人の願いから生まれた者もいる。銀の蹄の一族なんかはそうだった筈だ。でも、僕らについて言えば、そうだな。忘れたいと、あるいは忘れられたいと願えばいともあっさりと叶ってしまう世界だからさ。自分が何をなくしたのかもわからないまま忘却が進めば、自分がかつて何だったかも思い出せなくなっておしまいさ"

    でも、君は何と言うか、他の連中とは違うだろ。

    "君という語り手に名前と役割を貰ったからね。君の前では旅の案内人だ。でも、君らが去ればただの陽気なカラスだよ。ああ、別に同情してくれなくともいい。僕はここに来たくて来たんだし、それにいくつかの物語をここに持ち込んで世界を広くもした。それなりに楽しく生きてきたさ。向こうにいるよりもずっと居心地がいいし、戻ろうと言う気も起きない。他に似たような連中がたくさんいるから寂しくもないしね。可哀そうだなんて思われる筋合いはない"

    そうか。

    "でも君とあの子は違うんだろう。だから、気にするな。銀の蹄の一族が最後の一頭になった時点で結末は決まっていたのさ。子供はベッドに戻って夜明けを待つ時間なんだよ、もう"

    ……そうか。

    「お兄さん! サファイアの傷、完全に治ったんだよ! もう立って飛べるようになったんだって。この首輪と鎖、どこかで取ってもらえるのかな?」

    わかった。今行くよ。

    なあ、クロウ。ボクシィ。この世界さ、本当に空がきれいだよな。時々星が流れてさ。なんでかわからないがここの流れ星を見ると酷く懐かしい気分になるんだ。こんなにきれいに見えるのも、きっと余計な光がないからなんだろうな。

    "それもまた君が持ち込んだ空想だよ。その流れ星は君についてやってきたんだ"

    そうだったのか……いや、いいんだ。空だけじゃない。手前味噌かもしれないけど、俺さ、この病院の景色も好きなんだよ。こんな状況じゃなければしばらく居着きたかったくらいだ。人の形をした者のためのシーツがあって、獣のための藁のベッドがあって、たぶん鳥のためだろうな、松の匂いがする小枝が沢山あって。本当に色んな連中のための、温かい空間で。

    "一体急にどうしたんだ"

    本当にさ。俺、この月影の地が好きだよ。ああ、本当に嫌になる。どうしてこの世界は。

    「ねえ、お兄さん? さっきからどうしたの? それに何を作って……今ポケットから出したの、ライター?」

    どうしてここはこうも綺麗で、こうも可燃物が多いんだろうな。

    "驚いたな。火種なんかずっと持ち歩いていたのか"

    ああ。喫煙者のふりをした後にはもうポケットには滑り込んでたよ。結局、内側の恐怖からは逃げられないんだろうな。

    "大丈夫か? 木箱の中からでもわかるほどに手が震えているようだが"

    他に何も思いつかなかったんだから仕方ないだろう。……すずちゃん。これからサファイアさんの鎖を焼き切る。焼き切った後どうなるかは正直わからん。だから、先に友達の背中に乗っておいてくれ。それで、サファイアさん。大丈夫だとは思うが……何かあったらこの子を頼む。東に行けば、果ての海はすぐ近くだから。

    「お兄さん? 一体何をしようとしているの?」

    逃げるんだよ。……よし、点いたな。この時点で空気が重くなったが……切るぞ。

    切れた。……う、わ。あちこちから遠吠えと地鳴りみたいな音が響いてくる。いや、大丈夫だよ。野の獣はたいてい炎を怖がるものだから。人間よりも賢明かもな。

    病室を出た。囲まれてるが……こっちが、こちらが進めば道は開いてゆきます。皆、火が怖いのでしょう。炎の輝きを受けてぎらぎら光る何対もの眼で両脇を彩られた道を、一行は進んでいきます。廊下を抜けて、病院を出て、たくさんの眼に送り出されて銀蹄族の加わった一行は……翼の音?

    くそ、不死鳥か! うわっ……走れ、逃げろ、サファイア! あとで追いつくから、先に海まで行っててくれ!

    うわっ……炎、が。

    あいつらが逃げられたなら、良かった、のかな。

    何なんだ、ここは。熱いな。死ぬほどじゃないが。……熱い。燃えてる。出られやしない。

    ああ、そうだ、報告。一体だれが聞いてくれるのかはわからないが、順を追って話す。今の所他に出来る事もなさそうだし。

    俺らは銀の蹄の一族……俺らが言う所のペガサスを動物らの病院から連れ出すため、威嚇として松明を使った。巻き込まれた民間人を元いた所に戻すにはそれしか思いつかなかったんだ。そして、脱出は途中まではうまくいったんだが、俺はここの医者が不死鳥、つまり火の鳥である事をすっかり忘れていた。そりゃ、火の鳥が炎を怖れる筈がない。叙事詩に残りそうなほど勇猛に突っ込んできたよ。それで、上空に俺を攫っていった。その後の事はあんまり覚えていない。ただ、その時に取り落とした松明の火が燃え広がるのが最後に見えたから、ろくな事態になってないんだろうな。まあ、あいつらは飛べるから大丈夫だろうけど。

    それで、俺は今、炎の檻に放り込まれてどこぞに運ばれている。どういう訳か、木箱のボクシィと一緒に。

    なあ、ボクシィ。俺はおまえにも逃げて欲しかったよ。そういう訳にはいかなかったとしても、お前がそれを望まなかったとしても。こんな、炎の檻からは。

    いや、これ以上はやめておこう。次はこの檻がどこかに着いてからになる。では、報告終わり。今日の所は、ここまで。

    報告。俺とボクシィは別の部屋に押し込められてる。石造りのがらんとした不愛想な部屋だ。押し込まれる際にちらっと見えたが、円形の劇場だか闘技場だかの脇にある一室だ。控室ってとこだろうな。それで、ここに俺を押し込んだ連中は裁判の準備が始まるまで待ってろって言い渡して出て行った。

    裁判。

    放火したもんな、それは妥当だと思う。ただ。さっきちらっと劇場の底にやたら大きいドラゴンが蹲っていたのが見えてな。挙句、遠くの上の方からは裁判の傍聴にしちゃあ妙に熱気のある声が聞こえてくると来たもんだ。どうも裁判と言うよりは公開処刑の前置きと言った方が近いんじゃないかという気がしてならない。うん。誰かの想像が集まる場所なら、そりゃあ攻撃性だって集まってくるよな。

    正直、めちゃくちゃ怖い。

    迎えが来た。

    わかってる。抵抗はしないさ。

    "被告人は前に出よ"

    あれが……裁判長か。黒曜の石像だ。

    "よろしい。そこに立ったまま右手をその平たき石版の口の中に入れよ。これより先、一切の偽証は許されない。月影の地では他者のための嘘のみが許されているが、この場ではそれも駄目だ"

    ええ、心得ました。……そうだったのか。

    "では始めよう。被告人。お前は動物たちの憩う治癒の場を火に焚べた。この事実に相違はないな"

    はい。ですが故意ではない。横からあの火の鳥が飛んでこなければああも燃え広がりはしなかった。裁かれるならそちらからにしては?

    "かの蘇りの鳥は既に頭を垂れて裁きを受けた"

    え、本当かよ。

    "既に火炙りの刑となった。今は雛鳥になっている"

    生活サイクルの一環じゃねえか。

    "黙れ。今はお前の話だ。お前はこの月影の地に炎を持ち込んだ。破壊と威圧の手段として。それが恐怖と破滅の象徴たりうると知った上でだ"

    ……はい。

    "次に。お前はあの場を焼くために炎を用いたのではないと言ったな。では、何の為だ?"

    退院患者を見送るためです。

    "それはかの銀蹄族のことだな?"

    ええ。サファイアと呼ばれています。

    "その者が最後の銀蹄族である事は承知か"

    ……そのように聞いていますね。

    "そうか。被告人。お前は恐怖と破壊の象徴としての炎をこの場に持ち込んだ。その結果生まれ落ちたのがあの炎の竜だ。あれは全てを焼き尽くして破壊する以外の役割を持たない。あれがお前の為した罪だ"

    罪状書きだったんですか。処刑用とばかり。

    "そのどちらでもある。ここに集う多くの者はお前がアレに焼べられるのが妥当と考えている"

    そうでしょうね。

    "だがお前にしか出来ない事がある。故に、我らのために一つ働きを為せばそれを償いとして釈放してやろう。銀蹄族をここに呼び戻せ。この月影の地で暮らすように、その友を説き伏せるのだ"

    お断りいたします。

    "その答えは想定されていた。だがお前が炎の中で痛苦と恐怖の声を上げれば、必ずや彼女らは駆けつけるぞ。あれはそういった一族だ。余計な手間を減らしたいとは思わないか?"

    いいえ。そうはなりませんよ、裁判長。

    "何故そう言える"

    俺があの竜に勝つからです。

    "名乗れもしない者が大きく出たものだな"

    いいや、名乗れるさ。俺は岩波。確かに偽名だが、自ら選んだ在り方の名だ。

    ……エージェント・岩波。この場における財団の代理人、カバーストーリーの流布を任務とする者。夜闇に潜む怪物と対峙してきた人間の一人であり、幻を想うこと──そして物語ることにかけては長らく命を賭してきた者の名だ。空想に住まう者たちなら、虚構にこそ真実が宿ることがあると知っているだろう! だから俺は噛まれていない。無傷の腕をここに掲げることができる!

    "その名に真実が宿ることは認めよう──だが、それであの炎に何が出来る? 炎に最も強い恐怖を抱いているのはイワナミ、お前ではないか!"

    ああ。一人なら無理だろうな。だが、俺には古くからの友人がいてな。そいつとなら。

    "古い、友人。そんな筈はない。銀蹄族はあれが最後の一頭だとお前も認めただろう"

    そう聞かされてるとしか言ってねえなあ……そうだろう、もう一人の銀蹄族!

    友よ! 我が幼き日からの友よ、銀の蹄を持つ友よ! 頼む、力を貸してくれ! 守るだけじゃない、一緒に戦ってくれ! ──ペルセ!

    ……木箱を被ったまま来るとはちょっと思ってなかったな。

    "どうせ君には見えないだろうからね。気づいてもらうには丁度いいんだ。ほら、乗り給えよ"

    ああ。

    "乗れと言ったのは私だが、躊躇なく全体重を乗せるんだな、見えもしないものに。怖くないのか?"

    そりゃ、もっと怖いものを沢山見てきたからな。それに、見えてるかどうかはどうだっていいんだよ、本当に。

    "そうか。では、飛び立つぞ"

    頼む。

    ……ああ。はは、懐かしいな、この空の風は。夜の、冷たくてどこか優しい風だ。それで、地上が遠ざかって行って。あれほど怖かったものが全部、遠いおとぎ話のことのようになって。こんな異常事態なのに、昔の冒険の続きだったような気がするよ。

    "覚えてくれていたようで何より。あまりにも呼ばれないから忘れられているのか、それとも気づかれていないのかと思ったよ"

    気づかれたいやつが初対面で美しいライオンを自称した挙句メエメエ鳴くなよ。

    "嘘吐きの旧友としては相応しいだろう?"

    ああそうかい、まったく。昔はもう少し素直だったと思うんだが。変わり果てちまってよ。

    "こちらの台詞だ、リュウセイ。本名までどこかに落としてくるとはな"

    リュウセイ。俺の名前か。

    "ああ。教えてくれただろう、自分の生まれた日にペルセウス流星群があったのだと。だから自分の名前はリュウセイだし、お前の名はペルセなんだ、と"

    そうか……そうだった。だからペルセなんだ。不思議だ、お前の名前はすぐ思い出せたのに。

    "そういうものだろう、私も君の名しか思い出せなかったのだから。それで、どうする。あの竜はいずれここまで上がってくるぞ"

    あいつ、飛べるのか。

    "ドラゴンだからな。まあ、私はマッハ1億の速度を出せるから振り切るのは容易い事だが"

    待て、急にそんなバカみたいな数字を出すな。混乱する。

    "幼き日の君がくれた設定だぞ。で、逃げるか?"

    小学生の考えた設定を急に蒸し返すな。あと、逃げはしない。これだけの聴衆の前で大見得を切ったんだ。恐怖との戦い方ってのをお見せするさ。

    "そうか。ならば私はあの炎を避けることに徹する。とっとと決めてしまえ"

    言われずとも。

    さあ……ここに集った者たちよ、この声を聞く者たちよ! 君たちも一度は見聞きしたことがあるだろう、あるいはその身に覚えがあるだろう! 恐怖とは、脅威とは時に覆すことが出来るものであると! そして──ドラゴンには流星群が『こうかばつぐん』であると!

    ……撃てた。マジか。

    "凄いな。本当に効いてる"

    撃ったのか、俺。流星群を。

    "あと一撃で倒せるんじゃないのか。撃てそうか?"

    同じ威力のは無理だな、とくこうががくっと下がってるし、その前に反撃が来る。……ありゃ避けるのは厳しそうだな。真ん中の一番薄い所、狙って突っ込めるか。

    "もちろんやれるが、君は大丈夫なのか"

    大丈夫さ。自称ライオンの相棒だぜ、火の輪も潜れなくてどうするんだ。

    "……時間もない。信じるぞ"

    ああ。

    "……来るぞ!"

    よし──切り抜けた! 大丈夫か、そんならそのまま下を掠めて直進だ。

    "木箱は灰になったがな。脱いだコートが燃えているようだが……自分から燃やしたのか?"

    大丈夫だ。これで何とか出来る。

    何度も見てきたように、この世界の檻は炎と煙から出来てる。ならばこいつを収容するならこいつによる炎を使うのが一番いいだろ。己の中にあるものからは逃れられないからな。

    "そういうものか"

    そういう事になったんだよ。見ろ、通ったところに炎の軌跡が残ってるだろ。このまま速度を上げてこいつを縛ってくれ。

    "了解。振り落とされるなよ"

    よし、ここで右に回って……よし。ありがとう、これで大丈夫だ。

    "……出来るものだな。正直、なかなか苦しいのではないかと思ったが"

    カバーストーリー部門のエースだからな。虚構を押し通すやり方もそれなりに覚えてるのさ。

    "そうか、エースか。大きくなったな"

    すまん、エースはちょっと盛った。それより、そろそろ降ろしてくれ。あの裁判長に言わなきゃならない事があるから。うん、ありがとう。

    裁判長。

    ご覧になった通り、俺の持ち込んだ恐怖は無力化されました。そして、ここにはもう一頭の銀の蹄の一族がいる。それを踏まえた上で、頼みたい事があります。

    "申してみよ"

    あの子らを無事に返してやってください。それが出来るなら俺はここに残ってもいい。俺は銀蹄族の友人で、そして竜を無力化する物語を即席で編める程度には口の回る語り手だ。月影の地を存続させるには十分な柱になれる、そうは思いませんか。

    "好きにせよ。我らにはもはやそれを止める術も理由もない。だが心せよ、彼女らが帰るのは彼女らが本心からそれを望んだ時のみだ。この月影の地はこの場を求める子らを決して拒まぬからな"

    了解した。助言に感謝する。

    "よき物語を、蹄の者とその友よ"

    ありがとう。行こう、ペルセ。

    やあ。こんばんは、お互い無事で会えて嬉しいよ。

    「こんばんは、お兄さん。リュウセイお兄さんって呼んだ方がいい?」

    岩波でいいよ。というか、聞いてたんだな、裁判所での一連の事。

    「うん。お兄さんが貝殻に向かって話しかけてたのを思い出して、同じことをしようと思って。サファイアに海辺まで連れてきてもらって、色々あって貝殻を探し当ててね。そうしてるうちに、そこの入り江にお兄さんたちの様子が映ってる事に気づいたから、サファイアとクロウと一緒に見てたの」

    じゃあ、顛末は全部知ってるんだな。……思い返すとわりと恥ずかしいんだが。

    「格好良かったよ」

    あー、それはどうも。……まあ、聞いてたんなら話は早い。そういう訳で、君はもうどこにでも行ける。帰れるんだよ、友達と一緒に。

    「お兄さんはあたしに帰ってほしいの? 一緒にいちゃダメ?」

    駄目って訳でも、居てほしくないって訳じゃない。でも、一度は戻って欲しいんだ。向こう側の日の登る所にも居場所を持っておいて欲しい。片方にしか居られないってのは少しばかり悲しいから。俺の勝手な願いだ。

    「お兄ちゃんは一緒に来ないのに?」

    そりゃ俺だって帰りたくない訳じゃないが、そういう約束だからな。

    "反故にしてこっそり帰ったって誰にも止められないぜ。現実を大事にすれば? そういうの、別に苦手じゃないだろう"

    ここを蔑ろにするやつは向こうのことも大事には出来ないよ、クロウ。実際向こうにも影響が出てるしな。ここで食い止めなきゃどうなるか判ったものじゃない。

    "そうか。ご苦労なことだね"

    それに、言っただろ。俺はこの月影の地のことがわりと好きなんだ。夜闇や夜明けが怖いやつがそれをやり過ごすのに来られる場所があるなら、それを守りたい。今までさんざん匿われてきたからな。俺に順番が回ってきたってだけだよ。

    "君は、僕に帰れとは言わないんだな"

    帰りたきゃ帰ってもいいと思うぞ。

    "別にいいよ。せいぜい、どれだけのものをここで創り上げられるか眺めさせてもらうさ"

    そりゃ頑張らないとな。そういう訳で、すずちゃん。俺はここに残らなきゃいけないんだ。やる事が色々あるからな。

    ……なあ。この旅は楽しかった?

    「うん、とても。色々なものがあって、とっても綺麗で。お兄さんのおかげだよ」

    そうか。あれの大半は、俺が向こう側で見聞きしたもの、読んできたものを元にして考えたんだ。つまり、あれの元ネタは大体向こう側にあるってことだ。向こう側の色んな連中が、暗い夜空に星を探して、それを繋いで天を駆ける馬の姿を思い描いて。その馬を絵本として留めた人間がいて。そう考えたらさ、そう悪いもんでもないだろ? 夜が明けた後にしか見えないものも、夜の暗闇の中でしか見えないものも沢山あるんだし。

    「そうだね。……でも、岩波お兄ちゃんはもうそこにいないんでしょ。あたし、もう会えないの?」

    会えるさ。色んなものを見聞きして、それで休憩したくなったら夢の中ででも遊びにおいで。今回は飲まず食わずだったからな、次は何かお茶会の準備でもしておくよ。それで、向こう側でのことを教えてくれよ。そうすれば、こっちにも何か増えるだろ。ああ、それでさ。

    「……うん」

    逆に、他の向こうの連中にも、ここでの旅のことを教えてあげて欲しい。君が物語を語るんだ。あの時、俺をあの巨大な手から逃がしてくれたように。そうすれば、次に誰かが向こうで何かを思いついて、その断片がこの海に流れ着くかもしれない。そうやって豊かになっていくんだ。もしも銀の蹄の一族がこれから増える事があれば、俺もお役御免になるかもしれないしな。……ああ、そうだ。これのことも君に頼まなきゃな。すまん。これ、向こうに届けてくれないか。

    「紙と……貝殻? お兄さんが時々話しかけていたやつ」

    そう。これに俺たちの旅の記録が全部残ってる。これをどこか……そうだな。君、プリチャードって学校に通ってるって言ってたな。帰る途中にサファイアと一緒にちょっと寄って、そこの職員室にでもこっそり置いてきてくれ。それで、たぶん伝わる。俺たちが何をしてきたのか、俺たちが何をしでかしたのか。ちょっとした冒険の続きだ。お願い出来るか? それともちょっと難しいかな?

    「ずるいなあ。そう言われたら出来るって言うしかないじゃん」

    すまんな。まあ、たぶん気づかれないと思う。ここ、色々あったけど一夜も明けてないからな。きっと、君にとっては一晩の長い夢だったことになると思う。向こうではどのくらい経ったかはわからないが……まあ、何とか辻褄があうようにストーリーを考えて、サファイアにうまい事やってもらうさ。それが本来の職務だからな。だから、目が覚めたら全部元通りだよ、夢ってそういうものだから。そういう事になるように、俺もこれから頑張るから。

    「わかった。……ね、あのね」

    うん?

    「……ううん、何でもない。それじゃ、行ってくるね。あたし、ここの事絶対に忘れないから、岩波お兄さんも忘れないでね。また会おうね! 絶対に絶対だよ!」

    ……ああ。君の行く先に沢山の良き物語がある事を。

    端末上での情報は、これらの音声群が1日~2日につき1度の頻度で記録された事を示しています。音声内での時間進行とこの記録時間は一致しないと考えられるため、"月影の地"において経過した時間については不明です。

    また、音声内での"すずちゃん"と関連している可能性があるとみられる児童はプリチャード学院小等部に在籍していましたが、確証は得られなかったため特別に措置を行う事はなく、最低限の観察のみに留めています。

      • _

      追記(2022/12/15): 2022/12/15未明、岩波文哉なる人物がエージェントとして財団のカバーストーリー部門に所属していた事を示す情報がデータベース内に再出現しました。この再出現はデータが新しく作成されたのではなく、データに発現していた反ミーム的影響が消失した事によって認識されるようになったものと考えられます。

      また、ほぼ同時にエージェント・岩波と見られる人物が失踪した時点(2009/09/03)とほぼ変わらない状態で発見された事がエージェント・角川によって報告されました。これについてエージェント・角川は「取り返してきた」と報告しています。以下はインタビュー記録です。

      対象: エージェント・角川

      インタビュアー: エージェント・岩波


      «記録開始»

      インタビュアー: お久しぶりです……では、始めましょう、か。

      対象: お久しぶりです。インタビュアー、岩波お兄……岩波さんなんですね。

      インタビュアー: 10年以上最初からいなかった事になってた奴が実はいたっていうんでみんな混乱していてね。俺がどこにいたのかちょっとでも把握できているのは俺だけだ。という訳で、暫定的に俺がインタビュアーです。そのうち俺も君も、別の所で調べられる事になるでしょう。

      エージェント・角川: わかってますよ。

      インタビュアー: と言っても俺も何が起きたのかろくに掴めてないんですがね。たぶん、だからこそ今のうちに本人に話を聞けっていう事でもあるんだろうな。

      エージェント・角川: わかりました。で、何から話せばいいでしょう。

      インタビュアー: その前に……君、あの"すずちゃん"で合ってるん……ですよね?

      エージェント・角川: 仕事中は角川って名乗っていますが。ええ、真嶋涼香、サファイアの友人。"すずちゃん"で間違いありません。お兄さんが音声のほうで名前を消しておいてくれたからでしょうね、あんまり重たい取り調べも記憶処理も受けずにすみましたよ。

      インタビュアー: こちら側でつじつまを合わせた甲斐があったというものだよ。

      エージェント・角川: それにしても、見ておわかりになりませんでしたか?

      インタビュアー: 最後に見た時から比べると随分と大人になってたものだから。その、なんだ。そのくらいの女性にお兄さんって言われるの、凄まじく奇妙な気分だな。

      エージェント・角川: 10年以上経ってますからね。そっちではやっぱり一夜も明けませんでしたか?

      インタビュアー: ああ。正直今は全部が眩しい。……それで、本題です。一体何をしたんですか?

      エージェント・角川: まず、あの絵本の読者を増やそうと思いまして。試験的にプリチャードに置くことになりました。そこまでなら監視できるから。でも、私たちがあの銀蹄族を見つける事は出来なかった。

      インタビュアー: そうだったんですね。それで、その次はどうしたんです?

      エージェント・角川: 絵本作家に話をつけに行きました。エマヌエーレ・ソルミさんです。

      インタビュアー: あの人、見つけるの相当難しいと聞いた覚えがありますが。

      エージェント・角川: 休暇中にお邪魔して子供のころ読んでた読者だって言ったら簡単に会ってくれましたよ。

      インタビュアー: なるほど。

      エージェント・角川: で、月影の地とか、ソルミさんのベアトリーチェの話とか、わたしのサファイアの話とか、岩波さんのペルセの話をしていているうちにですね。一人の語り部が紡ぐ以上の物語を私たちは持っているんじゃないかって話になったんです。

      インタビュアー: と、いうと?

      エージェント・角川: 月影の地に物語が流れ込むような仕組みを作れば、語り部がずっとあそこにいる必要はなくなるんじゃないかって。それで、サファイアを呼んで、何冊かの絵本を届けられるか試してみました。

      インタビュアー: 呼べたんですね。大人になった後も。

      エージェント・角川: あなたが呼ぶ所を見ていましたからね。不安はありませんでしたよ。確かに見えなかったけれど、そこにいるんだって事はわかったから。

      インタビュアー: よくわかりますよ。

      エージェント・角川: それで、どうやらうまく行ったらしいとわかったので。幌馬車の移動図書館の物語を用意したんです。こっちではソルミさんが、あっちでは私が何夜かかけてそれを語りました。お兄さんがやったようにね。それで、向こうの住民たちが図書館を営めるようにしました。それからしばらく様子を見ていたら、本が増えて、図書館に関わる人も増えていたので。これは大丈夫だな、と。

      インタビュアー: それで俺を迎えに来た、と。

      エージェント・角川: はい。お邪魔でしたか?

      インタビュアー: いや。格好良かったよ。とても。速すぎて何が何だかわからないままここに来たけど。そうか、そうだったんですね。

      エージェント・角川: ええ。

      インタビュアー: 独断専行もいいとこだと思いますが、どうなんですか。

      エージェント・角川: 多少の処分くらいは覚悟してますよ。……一人連れ帰ったことで多めに見てもらえないかなあ。

      インタビュアー: あんまり無茶はしてほしくなかった。

      エージェント・角川: 私しか覚えている人間がいなかったんだから仕方ないでしょう。

      インタビュアー: そうですか。……それにしても、よく実現できましたね。そんな事が。

      エージェント・角川: ええ。自分で最後に言ってたでしょう。帰りたくない訳じゃないって。もしかしたら、自分もお役御免になるときが来るかもしれないって。だから、やりました。

      インタビュアー: ああ、言った。でも正直実現するとは思ってなかった。

      エージェント・角川: そうでしょうね。でも自分でも書いていたでしょう? 人間が想像できる事は、必ず人間によって実現されうる、って。

      [5秒沈黙]

      インタビュアー: そうだった。そんな事を書いたんだった。

      エージェント・角川: ええ。これで聞きたい事は終わりですかね? 財団の記録としてはこんなものかと思いますが。

      インタビュアー: 個人的に聞きたい事なら山ほどありますが、そうですね、これで充分でしょう。インタビューを終了します。

      エージェント・角川: ええ。まだ時間はあるので、どこからでも話せますよ。

      インタビュアー: そうだな。じゃ、君の作った移動図書館の話を聞きたいかな。

      エージェント・角川: ええ、喜んで。あっ、記録終了ボタンは裏側です。お兄さんがいた10年前とはだいぶ変わったでしょう。

      インタビュアー: ありがとう。もしかして先にそういう事聞いた方がいいのかな?

      «記録終了»

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