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記録データ情報
ファイル名: SurveyTeamA15.Spatial_Psychological_Infomation_Map.29271204C.log
回収日時 2960/04/01
回収者: Terra Verde - 外郭調査部隊-51C
復元状況: 復元済
ファイル名: Izanami_Spatial_Psychological_Infomation_Map-PCAM14_fJHb23qaUcn90.log
回収日時 2960/04/01
回収者: Terra Verde - 外郭調査部隊-51C
復元状況: 復元済
ファイル名: Playle-Isanagi_Calculation_Log.22051x9123.dmp
回収日時 2960/04/01
回収者: Terra Verde - 外郭調査部隊-51C
復元状況: 復元済
2927/12/4 03:52:09 (北米連邦時間) |
北米連邦 アラスカ州フェアバンクスノーススター郡 64°45'48.4"N 146°06'02.1"W 付近 |
アラスカ州のはるか郊外。輸送機が安心して降り立つのも運任せになりかねないような、針葉樹林と山岳、そして降り止まない吹雪が荒れる失われた地に、A15班は降り立つ。この寒さのおかげか、あるいはわずかな人間の気配すら感じられない不毛さゆえか、ここに行き着くまでに幾度となく上空から観察できたあの金属の塊は、この場所では一切見かけることはなかった。
輸送機は目的となる建物、イザナミが肉眼で確認できる程度の位置に着陸することにかろうじて成功した。全身を──あるいは身体の一部だけでも──義体化させている班のメンバーはこの寒さには多少なりとも耐性があるようだったが、古河は彼らよりも数枚多く防寒着を身にまとって、機外へと足を降ろした。
「これより、イザナミに対する立ち入り調査を行う。内部にトリフォリウム・イサナギとエノラ・クラッドの両名がいることは、現在もバイタルグリッドが端末に送信されていることから確実だ。この僻地にいようと、相手は財閥の最高権力者。半端な態度で挑むようなことはなんとしても避けてくれ。いいな?」
「了解」
一同の一斉の合図とともに、輸送機を離れてイザナミの建屋側面へ近づく。すると、まるで全てを見計らったかのようなタイミングで、薄暗く雪に汚れる壁面が観音開きの様相で開き、高さ数メートルのゲートが音を立てて開放される。
「行くぞ」
古河のその掛け声とともに、A15班は高まる緊張を空気にまといつつイザナミへと侵入した。
2927/12/4 03:55:12 (北米連邦時間) |
北米連邦 アラスカ州フェアバンクスノーススター郡 "イザナミ" 施設内部 |
がらんどう。空洞。それがプレイル・イサナギのイザナミに対して抱いた第一印象である。
人造の神に必要なものは、うっすらとした人類全体の祈りと呪い、そしてそれを束ねる神殿だけだ。願いをイザナミへ誘うために、数百年前から広告に微弱な信仰誘導ミームを仕込んでいたため、神の生成に必要なものはこの星全体から現在進行形で回収できる。今もなお、願いはこの施設に溜まっている。100年以上も倉入りしていた願いは儀式さえあれば神を生成することができる。「塵も積もれば山となる」をそのまま体現したそこに、電力は最低限度以上は必要ではない。その一日当たり電力消費量は本社の二十分の一。施設の維持管理、最低限の空調や照明だけでようやくそこまで押しとどめることができる。神殿すらも、電力を用いない。願いで構築される「神」という存在は最初から最後まで電力など不要、それが財閥のイザナミ建造の理由。
「あら。まだ起動できる余力が残ってたのね、お人形さん……いえ、あなたの上っ面」
北極圏のモノクロな世界で、背後から声が聞こえた。再起動を果たして初めての声である。既に電力供給は成されていないためか、自然光が差し込む中央制御室の深い青でオーバーレイされた灰色は重い。その重さにさらに乗算掛けしたような酷く冷たい声に、プレイル・イサナギのエミュレート結果は動揺を導く。
『……まずは落ち着こう。相手は君を飲み込むことを目標にしている』
カメレオンは意識の内に健在であるが、逼迫した声色である。一度でも気圧されると飲まれる。飲まれれば、何もかもが声の主の思いのままだ。そう警戒を促す爬虫類の言葉を信じる。
「『上っ面』、『あなた』……よくわからないことを言うね。エノラ・クラッドさん」
「あら、あなたはイサナギの人格をエミュレートしたものでしょう?表層も表層の、綺麗な所だけを切り取った、加工済みのスピネル・ホビー」
「仮にも人格を持つ機械に対してルビーの劣化品呼ばわりとは、ずいぶんなご挨拶だね」
「────えっ」
ここでようやくプレイル・イサナギは振り向いた。しかし、この熊型の人形は絶句する。有り得ない。有り得ないありえない。視覚は受け入れがたいものを映し、OSはそれを正直に処理する。
プレイル・イサナギの人格エミュレート結果は、「隠しきれない動揺」を表した。
「なんで、君が居るんだ。イサナギ」
立っているのは、まぎれもなくアトラスタ財閥の代表取締役社長、第五代目「イサナギ」、トリフォリウム・ラグナダ・イサナギに見えた。その場にいると思われていたエノラは、彼の持つ通信端末の向こうから話しかけていた。おかしい。プレイル・イサナギの人格エミュレート結果上、彼がここにいるはずがないのだから。
『まずはその思考回路の回転を抑えろ!君が驚いてしまうのは彼等にとって想定の内、君だけでは彼らの思うつぼだ!』
そこに立つのは、ただの人格エミュレートのモデルだぞ──カメレオンが発破をかけるようにプレイル・イサナギの思考演算のプールで叫ぶ。だが、彼の、イサナギの心の動き方を模倣しているだけに過ぎないプレイルにとって、同じイサナギであるがゆえに予想外の動きなどできるはずがない。
「妻は活動的でね。財団施設を直接叩いて、君を連れてこちらに戻って調査班を呼び出したと思ったら、今度はGOCだ。もう少しゆっくりしても良いのだけれどもね」
『だって、死なないトカゲさんに石棺の武人さん、果ては神様だなんて、手に入れてしまったらとてもわくわくするじゃない。こんなものをただ閉じ込めておくだなんて、可哀想だわ』
「いや、違う……そうじゃなくて……」
今、エノラの行動なんてどうでもいい。今は彼が何者なんだ。プレイル・イサナギの思考回路では結論の出ない男について、推測とその裏付けを必死に要求した。
『今は他のことを考えろ!あいつが何者なのかなんてのは後回しだ!僕の言うとおりにしてくれ、君だけだと良いようにされてしまう!良いのか、A15班、ひいては財団や世界にとって不利益になるぞ!一度会話ログをクリアしろ、自己認識を変えろ!「ここにイサナギは居て当然」と思い込め!』
もはやカメレオンの言葉は受け付けなくなっていた。異常とされるものを征服し、正常で世界を握った企業の頂点に見える姿は、当然のようにそこにいる。それが考えられないのだ。思考がまとまらず、そして思考は止められない。
「あの、アラートは」
「ああ、呼び出した調査班がこちらに到着したんだろうね。君は調査班のところにまだ居るんだろうと思って、エノラに君を回収するように頼んだ。でも、ついでに北米連邦ごと財団もGOCも潰すって言いだしてね。すこし驚いたけど、時期的にも丁度良かったし、その方向で行動に移した」
違和感の正体は、余りにもあっさりと見つかった。
「僕は、そんなこと考えない。僕のOSは、君の姿をした男は、間違ってもそんなことを言わない。誰だ、君は」
「考えない、言わない。それは君の勝手な解釈だろう。僕はイサナギ。トリフォリウム・ラグナダ・イサナギさ」
「嘘を言うな!」
その叫びは、悲痛さすら滲む。
「嘘を言うなよ」
人格エミュレート結果は、彼をイサナギとは認めなかった。そして、この言動がイサナギに対する勝手な解釈であるとも認めなかった。「自分はイサナギの人格を正確にエミュレートする」という、存在意義にも関わる根底の定義は、意地でもエミュレート結果を覆さない。たとえ間違っていたとしても絶えず計算し、また、その定義を否定することすらも許さない。
「……人間とは、多面的で複雑だ。ペルソナという言葉がなぜ存在するか……それを考えてみた方がいい。人は相対する人によって人格を、キャラクターを変えるんだ。聖人君子が世界を憎悪すること、これは矛盾した表現じゃないんだ」
「僕はその一面に過ぎないと?」
「ああ。君は僕の人間社会に対する人格をエミュレートしている。僕の心を平面的にとらえて、『なぜそうなるか』を考えもせず出力する。そのほうが彼ら調査班に、僕の真意を露見させずに取り入る上で都合が良かったからね」
「じゃ、じゃあ……班にワタシをよこしたのは」
「調査班の調査を手伝わせるため、ではないんだよ。『イサナギ』という人間の社会的な側面を見せ、僕の正体に近づけさせないためだね。AIには内省も自己批判もない。ただ、模倣する。それだけの機能が、人間の本心なんて見抜けるはずがないだろう」
「じゃあ、今のお前は何だ」
プレイル・イサナギは問う。
「何って───」
イサナギは、疲れた人間の笑顔で返した。
「イサナギに、決まってるだろ」
両手を広げ、環境光を背に陰りに薄く目を光らせるイサナギ。ああ、こいつは言う。人格をエミュレートした結果として、イサナギならば言う。何から何まで違っておいて、そこだけ同じなのだ。彼の言葉の含意を完全に理解した。同時に彼は絶望を演算上で理解した。絶望したプレイル・イサナギはどうするか。「何もしない」だ。全ての演算は止まった。機体はその軽い腕をちっとも動かせやしない。カメレオンが焦りを隠しきれない。
『馬鹿、お前、ここで全部思い通りになる奴があるか!イサナギなんだろ!!世界の天辺が絶望するのかよ!!なんか言えよ、おい!!』
だが、もはやカメレオンがいくら呼びかけても、プレイル・イサナギは何一つ応答すらできなくなっていた。イサナギは何も言わない。ただ、かつ、かつ、と、静かにプレイル・イサナギへ近寄った。
『再起動の仕方は……くっそ、電源が見当たらない!!君は動かなきゃいけないんだ、僕なんかの手脚じゃなくて!!たとえ初期化してでも!君が動かないと、意味なんてないんだ!』
さて、イサナギはカメレオンなど見えていない。彼の焦りなど、彼の見ている世界には存在していないのだ。ただ、淡々と。プレイル・イサナギの首に手をかけた。瞬間、大きな破裂音と共に制御室のモニターの一つが砕ける。ゆっくりと最強の男は振り返った。
「久方ぶりだな、トリフォリウム・イサナギ」
そこには、イサナギでないイサナギが共にした仲間たちが居た。
「おや。遠路はるばるご苦労様です。茶などは用意できませんが、そちらにおかけになってください」
「茶番なぞもう腹いっぱいだ」
A15班は一切の油断を見せていなかった。全員が、今にもその一つだけの頭を撃ち抜きかねない。その気迫の中でも、彼は動じなかった。
「やれやれ、冗談の通じないお歴々だ。それでMC&Dにも噛みついたのですから、良い胆力をしていると評さざるを得ません」
「100年も椅子に縛り付けられて時間感覚狂ってんじゃねえか。現場は秒単位で様相が変わっていくってのによ、そう本題にすぐ入らねえのは上層の悪い癖だぜ」
「暗喩や皮肉を理解しない野蛮人にはゆったり考える時間が必要と思いまして」
「リーダー、社長さんの口車に乗せられちゃだめだよ、本題に入らないと」
「お嬢さん、良いことを言いましたね。私は別に時間があろうとなかろうと、私にはどちらでもいいのです。あなた方に合わせる方向で構いません。何か、質問は」
イサナギはA15班に向き合って、両手を軽く上げる。
「なぜここにお前が居る」
「最後の仕上げに必要だからです」
「その最後の仕上げとは」
「秘密です」
銃声。もう一枚モニターが割れる。
「次はない。最後の仕上げとは、何か」
「……インクリニティウムを拡散する最後の拠点がここです」
「ここの建材もか」
「ええ」
「なぜインクリニティウムを暴走させる」
「答えたところで、世界にもたらされる結果は変わりません。その問いに価値はありません。これはやり通します。私を殺したところで、計画は止められません。あなた方に露見した時点で、私の死を以って発動する4つの予備策は健在であり、稼働中です。指揮所も宙にあります。この星に存在する武力では、破壊など不可能です」
勢力を増し続ける財閥一同と財団や国家影響圏が対峙する構図となっていたゼロサムゲームの果てに、いつからかミサイルすら保有を糾弾される世界となったこの時代。今更宇宙まで飛べる兵器など、残されてはいなかった。
「既に詰みってことかよ」
「ええ」
イサナギの表情は、笑顔であった。アトラスタ財閥本社で見た、あの臆病で弱気なことが一目でわかるおどおどした見た目はどこにもない。ただ、楽しいと心の底から思っている顔だった。どうして人類社会の死滅を主導している男が、これほどににこやかなのだろう。
「大変でした。4つも名前を新しく考えなければならなかったこと、偽りの妻を、父を、母を、祖父を、祖母をでっち上げ続けたこと。重役の視線をそらし続けるのも、色々ストレスでした。大仕事をひとつ終えるのです。最後のネタばらしをこうやってできるわけですから。生身だったら、酒でも飲みたいところですよ」
古河は眉を顰める。何を言っているんだ、こいつは。
「古河、君は真実を求めてた。そうでしょう?」
「……あぁ」
「耳を貸すな。アレはもう悪魔の類だ。何を言っても……」
ローゼンバーグの言葉を、古河は手で抑える。彼にとって、そのようなことは百も承知であった。だが、全てを知っているであろう人物を前に、その真実を知ろうとしないという選択肢は、取れない。
「私は、700年前に生まれた人間。第五代目、なんてものは存在しない。初代からずっと、私はイサナギです」
「そんな出鱈目が真実か」
古河の脳内では、あらゆる可能性が検討され始めた。第五代目に至るまでに、同じ人格を共有してきた、というのが最も納得できるものだ。形而上の共有可能な電脳的意識がイサナギという家に取りついている、そんな可能性。
「ええ。気持ちはわかります。200年が精神的寿命の限度である人間が、そのような期間を生きていくことなどできない、と。実際、あの常盤の彼はそうでした。復讐や野心で限界近くまで正気を保っていましたが、やはり200年を少し超えた程度で発狂した。彼のやったことは悪くなかった。しかし、常人より少し強いだけの執着ではいけなかったのです。……そう、古風に言えば、『気合いが足りなかった』」
どうやら、そういうことではなかったようだ。イサナギはたった独りであり、彼の身に関する数百年間は嘘の産物であった。ということらしい。
「気合いひとつでご長寿が達成できるならこれほど楽な世の中はないな」
「楽ではありませんよ。気が緩めば即座に廃人になるのです」
「仮にそれが正しかったとして、そうまでして成し遂げたいことは何だ、何故そこまで生きる」
「世界の完膚なきまでの破滅。私を、私の望む未来を、私が妻とともに見たいと願った希望を踏みにじったこの気持ち悪い世界の根絶を見届けたいからです」
「ほう。つまり云百年前のテロ事件の壮大な復讐劇ってわけか。で、どこからどこまで貴様の仕業だ」
「そうですね……そこまで多くありません。BREAK、Re:BREAKは確実に私が実行しました。そして今回の事変も。ニューロバンクの方は残念でした……アルベルタと同じ目に遭った方々が大勢現れてしまいました」
この時、イサナギは顔を伏せた。
「でも、仕方がないですよね。彼らがなぜそうなったのか、それには必ず原因があります。様々な因果で、そうなるように私が仕組んだのですから」
一同に衝撃が走る。
「ここ100年の出来事は、私が仕掛けた時限爆弾が作動するだけのイベントです。100年前のニューロバンクに存在したアクセスログ。あれはあの施設が暴走する、所謂、事前予約の痕跡だったのです」
二の句を継げない中、イリシアが叫ぶ。
「……そんなに前から仕掛けといて、アンタ、考え直さなかったの!?冷静にならなかったの!?
やっぱりやめておこうって、ならなかったの!?」
「なりませんでした」
即答だった。そこに迷いはなかった。目は据わっている。煌煌とした眼の揺らめきは、余りにも不気味だ。啖呵を切ったイリシアが逆に怯むほどに。
「アンタ、おかしいよ……」
「彼らの死は痛ましいものですし、申し訳ないとも思います。ですが、その程度で止まるなら。私は500年前に廃人となっていたことでしょう」
彼は、あっさりと言ってのけた。
理解が、できない。この場の全員の、理解の範疇を超えていた。
罪悪感を踏み砕いても、成し遂げなければならないことはある。それは理解できる。A15班の誰も必ず一度は経験したことだ。だが、こうも淡々に言えることではない。常人なら、その罪悪感を抱えて潰れてしまいかねない。乗り越えたとしても、それはただならぬ心の傷だ。これほどまで薄っぺらな「申し訳ない」を聞いたことがあるだろうか。
「さて。ここまで話してスッキリしてしまいました。私に残されている時間も少ないです。あなた方を相手にしてまで、この機械を壊すことはいささか効率的ではないでしょう」
イサナギは歩き出す。A15班の方へ。ローゼンバーグの銃声は床へ吠えた。
「忙しいんだな、アンタ。もう少しゆっくりしていけよ。これから仕事からも解放されるんだろ?」
「ええ、ですから、このしみったれた空き箱よりも見晴らしのいい場所で余暇を過ごそうと思います。止めたいと思うのならどうぞ。あなた方の火力でこの義体を壊すことは叶いませんし、壊せたとしても世界滅亡という未来は変えられません」
彼は疲れた笑顔で答えた。
「お疲れ様でした。お先に失礼致します」
「待って」
イリシアの低い声にイサナギは立ち止まる。
「まだ何か───」
ガァン。金属音が甲高く鳴る。平手打であった。
「これは、皆の分。アンタが迷惑をかけた人の分。これでどうにかなるアンタじゃないけど。せめて叩かれたことは覚えてて」
「……最期まで、覚えていましょう」
これ以上引き留めても無駄。ある種の怪物を前に、A15班はただ、何も……否、一発殴って見送ることしかできなかった。結局、彼の思い通りになってしまう。その絶望を携えて、どこへ向かえというのだろうか。
あの心象風景だ。夕日に、前時代的な都会の風景。歩道橋は目を覆いたくなる西日を遮り、夜は顔をのぞかせている。
道路の真ん中で、彼はうなだれていた。
「……で、君は。そのままうなだれているのか」
彼は何も言わない。カメレオンはその読み取れない表情で彼を睨みつけていた。
「……できることなんて、ないじゃないか」
「ある」
「なぜそう言えるんだ、世界は滅ぶんだぞ?」
「たかが世界滅亡、この星は何度も経験済みだ!」
「……は?」
彼は本気で疑問の声を上げる。世界が本当に何度も滅んでいては、この意識は、この世界は、存在していないだろう。ノストロモ計画の失敗も、インシデント"BREAK"の混迷も、行くところまで行っていたはずだ。果てにはそれ以前からも世界は何度も焦土になっていた、そう言いたいのか。
「キミは出鱈目が好きなんだな……カメレオンだからか。世界はこれまで一度も滅んでいないからこそ、この時代があるんだろ。実際、イサナギは一度も失敗しなかった!イサナギの努力は何になるんだ!!大切に世界を、壊すためとはいえ育ててきた、あいつの努力は!!」
「出鱈目だって、本気で思うのか」
「ああ、思うとも!」
言い切った彼の胸倉を、カメレオンは初めて触れた。掴み上げた。
「じゃあ、僕の記憶の全てをあげよう」
直後、彼に大量の記録が流入する。自分のものではない、永遠とも思える2000年間の記憶。喜怒哀楽の感情を抜きにして、『カメレオン』という存在が人々に認知されたその瞬間から、今に至るまで。形而上より俯瞰した世界と、形而下にて見た世界。確かに、何度か滅んでいた。世界は、様々な方法で滅んでいた。突拍子もない、単なる理不尽のこともあれば、全てに納得のいく合理的な滅亡もあった。
「この世界は、少なくとも5回は滅んでいる」
「じゃあ、なんで」
「やり直せたんだよ。その力を持つ人たちが居た。時には魔女と呼ばれた人たち、時には妖精と称された者たち、時には財団と呼ばれた人たちが」
「……今回も、やり直せるって?」
「さあ?」
「……そこはそうだって言う流れだろ」
「それはわからない。今回も」
「……全部博打だったって?」
「そうだ。諦めない人たちが居て、諦められない社会があって。そして、全力で足掻いたところに初めて、『やり直し』という選択肢が現れる。今の世があるのは奇跡だよ」
「……イエローストーンのか」
「他にもたくさんある。都合よくそれが機能しなかったら?あるいは、爆破されていたら?別の方法で人類は再起を図るのさ」
「……でも、相手はイサナギだぞ」
「そう、でも、所詮人だ。世界中を異界に落とした神でもなければ、命を異形に変える太陽でもない。いくらでもあるよ、やりようなんて」
彼は、それでも、動く気にはなれなかった。
「でも、ワタシの行動は、すべてイサナギの予想した範囲内にとどまる。イサナギの、一部だから……ワタシが必死こいて会心の一手を打っても、彼は……」
彼は完全に怖気づいていた。彼はイサナギの一部をエミュレートした存在。どこまでいこうと、イサナギを超えることはない。仮に超えたとしたら、それはイサナギとしては間違っている。それはイサナギではないのだ。彼がイサナギの一部である限り、超えることは叶わない。万一、超えたとしても。彼は『イサナギの人格エミュレーター』という存在としては不適格としてOSが崩壊するだろうことは、目に見えてわかっていた。
「それでも」
カメレオンは確かめるように言った。
「世界が仮に滅んでも。今足掻くだけ足掻かないと、やり直しの選択すらできない。今度こそ滅ぶぞ。この星は」
大量の記録の中、カメレオンは一つの報告書を強調する。
「君が誰だろうと関係ない。足掻くだけ足掻け。君は独りで戦ってるわけじゃないんだ。ほら、居るだろ?物語の必勝法、『仲間』ってヤツが」
「これは?」
「僕の同僚の情報。既にばらまいてるけど、誰も使い方を知らない。どう使うかは君に任せるよ」
受け取ったファイルは、財団の報告書。こんなものが一体何になるというのか──
「じゃ、あとはご勝手に。僕はやることやって疲れたから、寝る」
「あ、おい!」
カメレオンと共に風景は消える。勝手に意識が覚醒する。強制的な再起動だ。A15班の姿が、目の前に現れた。
「で、リーダー。どうするんだ?あのまま行かせるのか」
「……」
ローゼンバーグの言葉に何も言わず、古河はそのまま立ち尽くしていた。ただ顔を下に向け、両手で銃を握ったままに。今更あいつを引き留めようと、何をしようと意味がない。700年間もただ怨嗟それだけで行き続けた、人の皮をかぶった怪物に、A15班ではどうすることもできないと悟っていたからだ。
「リーダー……んぅ……っ」
イリシアの不安げな呼びかけに、わずかにふらつきが見えた。彼女は視界が歪んだように見え、目眩で少しふらつく。
「大丈夫ですか」
「う、うん……ちょっと、頭が変なだけ。少し気が動転したかな、ははは」
「無理なさらないでください」
キュリオンが肩を支えながら聞くが、彼女は大丈夫だと返す。わずかに息が上ずり、苦し紛れに言うイリシアに、彼女は心配げな表情を見せた。
イリシアが頭を振るのが遅いか早いか、彼女のすぐとなりの司令台の縁から、聞き馴染みのある声が聞こえてくる。
『……お、お-う、あぁ、あー!』
「ん、なんだ?」「どうしたんすか?」
その声に気づいた一同はその方向に向き直った。するとその目先には、ようやく処理から復帰して再起動したプレイル・イサナギが身を捩って動き始めていた。と思えば、器用なことに一瞬で姿勢よく座り込んでいた。
「あー……ええっと、おはようございます」
アイスブレーク、重々しい空気が変わった中で、彼らとプレイル・イサナギは情報を交換した。
「……ここは、イザナミなんですね。ここのことは、ワタシの記憶にも場所は記録されていました」
人造神格実体発電所。それがイザナミである。イサナギの作った、イサナギらしからぬ施設だ。
「信仰を束ねて神格実体を生成し、それの放つエネルギーで水を沸かしてタービンを回す、でしたっけ」
キュリオンの問いかけに対して、ローゼンバーグは首肯する。
「そもそも神の放つエネルギーは莫大だ。水を沸かすにしても瞬時だろうな。そうなると水蒸気の凝結する時間が追い付かない」
「だから事故を起こした。そう発表された」
「ああ」
しかし、と、プレイル・イサナギは逆説で接ぐ。
「しかし、その情報は欺瞞を含みます。この施設にタービンなどは存在しません。神の放つエネルギーは純粋です。純粋ゆえに不安定ですが、『イサナギなら』信仰によってエネルギーを直接電気エネルギーに変換できるように誘導するでしょう。わざわざ熱エネルギーに変換するのは無駄ですから」
「はあ?無理だろそんなの、どうやって指向するんだよ。どうやったって幾らかロスが出るはずだ」
「いえ、あのイサナギならできます。このあまりにもすかすかなイザナミの構造が答えです。もし本当に熱エネルギーに変換しているなら、水をためるタンクも、大出力のタービンも必要です。それらを用意するうちに、いつか核融合発電所や火力発電所と同じ構造になっているでしょう。方法は……設計図を見ないことにはわかりませんが」
ここでできること。それとカメレオンが残したこの報告書。その接点が見えない。カメレオンに本来睡眠は必要ないのに、寝ると言って応答しなくなった意図も見えない。ない呼吸器でため息をつく。と、その時だった。古河の懐から着信音が響いた。
「……管理官からだ」
古河は応答した。
『イザナミでの成果はどうだ』
「詰み、でした」
『そうか。こちらは施設全部が金属に埋まって、今は空の上だが……まずいぞ。O5評議会はその半分が持って行かれた』
届いた報せは衝撃的なものであった。
「俺たちですら場所がわからないってのに?」
『何らかの方法で居場所を掴み、衛星兵器で陸地ごと消し飛ばしている。やり直しの機会も与えたくないらしい。ヤツは本当に根絶やしにするつもりだ』
「……くそ」
『そしてアストリズムから伝達だ。衛星砲を打ち込む予定地は決まっている。世界全土30か所、その中にイザナミも含まれた。この調子なら、猶予は2時間だ。航空機で飛んでいたO5-3は的確に撃ち落され、前もって予定地から移動していたO5-7も追尾され消失した以上、君たちA15班には、助かる見込みがない』
ああ、終わりとはこういうものか。古河は腹の底から実感した。
『よって、君たちに私の全権を委任することにした。好きなことをして死ぬと良い』
「は?ちょっと待ってくださいよ、アンタ何を」
『私ができることはそれだけだ。実は、私の所在もターゲットにされていてな。できることと言えばこれくらいだ。あとは若人が好きにしろ。ああ、それと。あの機械人形によくやったと伝えておけ』
一方的に切られる通話。デバイスを見ると、臨時管理人として、権限が今までの非にならないほど強化されている。
───こんなものを得ても、結局死ぬんじゃ虚しいだけだ。
そんな考えが、古河の脳裏にちらつく。しかし、そうも考えていられない事態がもうひとつ。どさり、と古河の背後で音がした。
「ぐあっ、はっ、あ、あああぁ……っ」
振り返ると、イリシアの体躯は地に伏せている。伏せて、頭を抱えながら身悶えていた。
「イリシア!」
一同が慌てて駆けよるが、彼女の視線は一つを指していない。手足を力なくばたつかせ、文字として形にならない声を吐くだけだ。
「なんだ、一体どうした。イリシア、何があった?」
「わからん、突然こうなったとしか……」
勢いよく立ち上がったローゼンバーグが古河に向かって問い詰めるが、明確な答えは出ない。しかし、その特徴はある症状の一類型に酷似していた。キュリオンは零した。
「ダビングアウト……」
「えっ、そんな……なんで今になって!」
マダラザの焦りを隠しきれない反応に、ローゼンバーグは思い出したかのように言う。
「こいつの義体には、ニューロデータのシリンダーがないんだよ」
「そ、それって……」
「そういうことだ。こいつのニューロデータは財団管轄のバンクであるトツカにある。財団の施設がこんな有様なんだ、トツカが潰されたと考えておかしくはない」
ローゼンバーグは珍しく爪を噛んで、噛みしめるように言った。すると古河は「野郎、置き土産か?」とつぶやくも、直ぐ側にいたプレイル・イサナギはそれを否定する。
「いや、イサナギなら、今更こんなことはしません。なにか他の、イサナギとは無関係のトラブルが……」
「マダラザ、イリシアの頸髄部のコネクタをお前の端末に繋げ」
「えっ、でも……イリシアにはシリンダーはないって」
「馬鹿野郎!リモート義体ってことは、ニューロバンクに常時接続される形で運用されてるってことだ、つまりそれを処理演算する代行システムが頭に入ってる」
「……っていうことは」
「義体本体のシステムに入れば何が起きてるかくらいはわかるはずだ、いいからやれ!」
明らかな焦りを見せるローゼンバーグに圧倒されながらも、マダラザはハッとした顔をして、おずおずと、しかし流れるような手つきで「失礼します」とシステムに侵入する。今も悶え苦しんでいるイリシアをローゼンバーグは抑えて、端末からケーブルを引き伸ばして頸髄の穴に接続させた。何度もイリシアの名前を呼びかけるローゼンバーグの姿は、旧知の仲であった古河すら見たことのない焦りようだった。
そして、マダラザがケーブルを接続したところ、その直後に端末の画面は謎の文字列が大量に、それも高速で埋め尽くされてしまった。突然の不可解な現象に、マダラザは雄叫びを上げながら接続を断ち切ってしまった。
「何だ今の!?」
「どうだった」
「な、なんか、よくわからないデータが、ぼこぼこ黒い文字だらけで……」
「ぼこぼこ?」
「とにかく、見たこともないやつでした」
「ニューロデータの無秩序な複製、ではなく?」
プレイル・イサナギは問う。
「複製じゃない、あれは、何というべきっすか……その、発生?」
「なるほど……少し、ワタシが見てみます」
心当たりのありげなプレイル・イサナギはイリシアに接続する。イリシアの肩を抑えるローゼンバーグの表情は彼からは見えなかったが、抑える手の力が込められているのを見て、プレイル・イサナギは余計なことを思考せずに作業を続けた。
即座に始まった演算処理中、そこで見たものに彼はなにか得心の行く声を出して、プレイル・イサナギは接続を解除した。
「システム内の状況を撮影したので、共有します。既にイリシアさんのニューロデータは破壊されていますが、同時に見えたものは、みなさんも見ておいたほうがいいでしょう」
「そ、それは……危なくはないのか?」
古河がプレイル・イサナギに問うも、彼は首を振ってそれを否定する。
「ウイルスの類ではありません。よって僕らが感染する可能性は低いですが、むやみに触るものではありません」
「すると、XANETがハッキングを仕掛けたのか?」
「いえ、それでもないのですが……なんというか、とにかく、見ていただければ早いかと」
その画像はただただ妙であった。財団の技術で構築された揺るぎない特殊防壁基盤の上に、無秩序に発生している文字の塊。それは、掘り返したような文字列の散乱跡にも解釈できた。
「なんだこれ」
「『伝書使』……SCP-2000-JPの特徴を持つ痕跡です」
古河は誰か知っているかの目配せをするが、皆知らないという旨の反応をした。キュリオンが閲覧可能なデータベースログの一部を検索にかければ、そのナンバーは既に数百年も前に "空き" となっていた。
「オブジェクトナンバー2000番台、管轄は財団日本支部ですね。相当前の情報ですが……」
「はい。『伝書使』は過去、財団に対する財閥の収容アイテムの保有取引の関係で、既に廃棄処分済みになったオブジェクトの1つです」
「同様の理由で欠番になったナンバーは他にも山ほどあるだろ」
古河が眉をひそめながらため息交じりに言うも、プレイル・イサナギは続けて言う。
「はい、ですが、このオブジェクトについては、特に現状において重要なファクターになりえるかもしれない性質を持っています。報告書データはワタシの記憶域に保持されているので、共有します」
そして、プレイル・イサナギは報告書を共有する。古河達はその性質に、廃棄処分されることも妥当であると納得した。絵にかいたような『どんなセキュリティをも突破するウイルス』だ。
「ですから、『伝書使』がそのまま復活したのではなく、その特徴を持つそっくりさんが発生した可能性が高いです……ああ、同僚ってそういう」
「同僚?」
「いえ、こちらの話です」
ともかく、と、プレイル・イサナギは思考回路を回す。
「『伝書使』のそっくりさん……いえ、こうなればもう能力的には同等ですし、区別をつける必要もないので『伝書使』で良いでしょう。このオブジェクトを用いて、最後の足搔きをしましょう」
イサナギならどうするか、で超えることができないなら。イサナギなら知り得ない情報で戦う。それもこれもカメレオンが居ないと成せなかったことだ。
「勝算は」
「ありません」
古河の問いに対する答えは即時だった。
「……だとしても、すでに滅びは確定している中で、『よりマシな滅び方』を選ぶための足掻きです、これは。
正直なことを言うなら、『全部が全部思い通りに行くと思うなよ、大馬鹿野郎!』と言うための」
「なるほどな」と、古河は彼の言葉を受けて頷く。直後、古河はローゼンバーグ他技術メンバーに向けて指示を出した。
「ローズ、マダラザ、キュリオン。この施設についてわかる範囲のことを片っ端から調べろ」
「え、リーダー、いきなり何言うんすか?!」
「こいつが言うように、既に俺たちにできることは全てやった。やり尽くした。そのうえで、あのくそったれな社長に一泡吹かせる方法を探る」
「そうは言いますが、この施設は単なる発電研究施設に過ぎません。早々なんとかなるようなものが見つかるとは到底思えませんが」
キュリオンも重ねて古河に反訴するも、それにも止まらずに古河はさらに踵を返す。
「だったら、なんで連中は俺たちをここに呼び出したんだ?神格実体で発電するってだけの施設にわざわざ呼び出さず、本社に呼べば良いものを、こんな僻地に呼び出したんだ。俺には単なる秘密の会談をするための場所だった、とは考えられん」
「古河、根拠は」
古河が思案する推論に対し、イリシアを抱えていた手を離したローゼンバーグが立ち上がって問う。その表情は決して明るいものではなかった。
「……エージェントとしての勘だな」
「そうか」
ローゼンバーグのただれた声色がより深く、威嚇するように引き伸ばされたものになる。
「いつもそうだな。お前さんは」
「どういう意味だローズ」
「古河、よく考えろ。財団もGOCすらも財閥の、イサナギの手の内でこうも簡単に潰されたんだ。おまけに俺たちは空っぽな鉄の箱に缶詰状態だろ」
「……何が言いたい」
ローゼンバーグは古河の胸ぐらを掴みかかって、強く投げつけるように叫んだ。キュリオンやマダラザが止めに入ろうとするが、彼らの上司としての姿しか知らなかったがゆえに、あまりの気迫に近づくことすらかなわなかった。
「なぜわからねえんだ。いいか、俺たちはもう詰んでんだよ、もうチェックメイトなんだ!今更ここでなにかしようったって、あの狂った社長の前にはなんにもならねえんだ。毎度毎度、根拠もなく他人に突っかかることしかしないお前さんに付き合うこっちの身にも──
「黙れ!」
ローゼンバーグがまくし立てるように古河に詰め寄るも、それに対して古河は彼の右頬に強烈な一撃を加えるという返事で打ち返した。
「ちょ、古河さん!」「リーダー、何をするんすか!?」
「ローズ、とうとうお前もイカれたか。いちいちお前の古い相棒が死んだくらいで騒ぐな!どうせ数時間もしないうちに全員お陀仏になるんだ。ちょっと遅いか早いか程度の話だろうが!それなら今ここで足掻けるだけ足掻くのが、財団職員としてあるべき姿だろ」
「……っ」
古河は吐き捨てるように声を張り上げ、彼の胸ぐらを掴み返した。その眼はまっすぐに彼を向いている。決してイリシアの死を無駄にさせようとする意図は含まれていないのは明白だった。
「何もしないでただ死ぬ時間を過ごしたいならそうしろ。管理官から譲り受けた権限をもって好きにすれば良い。だが、それをして死んだイリシアに申し訳を立られないってんなら、やるべきことを思い返せ」
「……。わかったよ、俺が悪かった。少し取り乱しすぎたようだ」
「しかし、古河さんの言うことは間違ってはいません」
ちょっとした混乱の末、古河のその言葉に賛同したのは、意外にもプレイル・イサナギだった。
「イサナギは意味のない行為や思考は決してしない性格です。皆さんをこの場に呼び出したことには、明確な理由が存在すると考えるべきでしょう」
「それは、イサナギならそうする、って意味か?」
「はい」と、プレイル・イサナギは即答する。イサナギ自身の思考を真似ているのなら、少なくとも古河の勘には多少の根拠が示される──ローゼンバーグはそれなら、と若干の不信を懐きつつも、持っていた端末を台に置いて開いた。
「イザナミ・メインフレームへのアクセス完了です。思った以上にセキュリティは作動しませんでしたね」
「セキュリティシステムを突破しなきゃと身構えてたっすけど、杞憂だったっぽいす……」
2人の技官の肩の力がわずかに抜ける。だがこの絶体絶命なる1時間を過ごした手前、そう簡単には気が抜けそうにはなかった。既にアストリズムによる攻撃の瞬間が今か今かと待ち構えている中での作業は、死と隣合わせの緊張との戦いだったからだ。自身の端末を並列接続していたローゼンバーグは頬に汗を伝わせながら、施設機能の解析を始める。
「どうだ、ローズ」
「そうすぐに分かるもんじゃねぇよ。なにせ財閥の極秘研究施設なんだ、XANET保護があろうがなかろうが、財団が血眼になっても見つけられなかった場所だからな」
若干の焦りを隠しきれず、高速で端末をタイプするローゼンバーグ。眼前に見える画面の表示には施設の機能を解析するためのソフトウェアが走っているが、その解析速度は想定よりも遥かに遅く、まるで自分たちが吹き飛ぶ瞬間を悠長に待っているかのようにさえ感じられた。
「あまりにも複雑な構造すぎて、解析速度、これ以上上がりません」
「メインフレームの構造、まるで迷路そのものっすよ。神格発電の中心部なんて到底調べられない……」
「だとしても可能な限りやれ!余計な処理は全部カットして、無関係なセクションはスキップしろ」
ついには怒鳴り声と大差ないような張り上げ方で2人に指示を出すローゼンバーグに、古河は「流石に落ち着け」と言おうとするも、もはや避けられない、対処もできない終わりを前にすれば、財団職員といえど無理のない反応だと察することしかできなかった。ましてや先程までの事もあったのだからなおさらである。
いよいよ本当に足掻きも無駄になりつつあることに漠然とした絶望感をにじませつつあった、その時。
「ずいぶんとお忙しそうですね、A15班の皆様」
背後から、声がした。冷たくて、穏やかな声だった。
一斉に振り返る。そこには、彼女が居た。エノラが居た。
「エノラ・クラッド……」
「どうも。この度はイサナギがお世話になりました」
古河は拳銃を突きつけるのに躊躇いを経由しなかった。おそらく無駄だとわかっていても。
「あら、怖い」
「何をしに来た」
「無駄な足掻きをからかいに……と思ったのですが、やめたところです」
「そりゃどうも、こっちには時間がないんでね、邪魔しないでくれりゃ助かる」
「はい。なのでお手伝いしようかと」
「手伝い?」──エノラのその言葉に、古河は眉をしかめる。
「ええ。人類がこのまま滅んでしまうのは、面白くないので」
やはり、何を考えているのかわからない。イサナギの影がちらつく今、A15班以外の人間を信じるには大きなハードルがあった。
「イサナギの差し金か」
「いいえ、彼は完膚なきまでの人類の根絶を目指しています。放っておいてもそれが達成されるというのに、それに反することを旦那が許すわけありません。そうでしょう?お人形さん」
プレイル・イサナギはかぶりを振る。
「それは……わかりません。人類根絶に直接かかわることについて、ワタシにはわかりかねます」
エノラは微笑んだ。
「あら、これは少し誤算でした。では、こう質問しましょう。イサナギは、事業においてしなくていいことを許しますか?」
「……いいえ。あまり好まないです」
「そういうことです」
2人の会話を聞きながら、ひとまず彼女が自分たちの作業の邪魔をするつもりがないと判断したところで、古河は銃を降ろすと、その代わりというかのように質問を投げる。
「じゃあ、この施設は何だ」
「イザナミ。人工神格体の生成のための機関。発電を主な用途として、世界に横たわる解決不能な諸問題を強引に解決する奇跡発生機関として企画、建造されました。
ここが最初に起こした奇跡は、『死者の蘇生』です」
「……アルベルタの復活」
「よくご存知ですね」
エノラはにこやかに笑う。
「この施設の本来の役割は、『不可能を可能にする』というもの。代償として少なからず安からずのものを支払う羽目になります。私が調査班をわざわざここに呼び出した理由でもありますね」
「……ローズ、裏取り」
「確かじゃないが、今のところ矛盾点は見当たらん」
「……あ。だから……」
「お人形さんが何か気付いたようですね」
「イサナギは、アルベルタを蘇生した。今、それにふさわしい人物はアナタしかいない。エノラ・クラッドは、アルベルタ・ダークだ。恨みだけで生きているイサナギがアルベルタを蘇生したのは、復讐に必要だったから。それで、今その役目を終えたアナタは、役目を着せて蘇生させたイサナギに対して、ささやかな復讐をしようとしている。その駒が、A15調査班……」
「素晴らしい。満点です」
エノラは軽く2、3拍ほどの拍手をしながら言う。
「……で、その復讐とやらを実行しに、わざわざ戻ってきたお前さんは、この状況をなんとかできるっていうのか」
ローゼンバーグの表情は固く、眉をひそめながら言う。信用をしていないわけではないが、具体的な話がわからなければ話に乗っかれるだけの時間が残されているかを勘案も出来ないからだ。
「何も難しくはありません。彼の成し遂げたかったことを完遂できずに不完全に終わらせられれば良いだけです」
「つまり、人類の殲滅を成し遂げさせなければ良い、と。そういうことですか」
「はい。そうなりますね」
キュリオンの問いに対して、ただ静かに首肯するエノラ。
「皆さん含め、既にここからの切り札はそのエージェントを介してお見かけしたはずです」
「イリシアの……もしかしてSCP-2000-JPのことか?」
「はい」
倒れ伏すイリシアと、マダラザの端末に未だ残っている文字列のノイズを古河は一瞥しつつ問えば、エノラは笑顔ながらも冷たい声で即答した。
「あのデータは、財団施設へ彼の複製を回収しに行った際に、私の義体に流入してきたものです。即座に排除しましたが、その際に断片が私の義体から外部へ送信されました」
「その送信先は」
古河はその言葉を聞くなり送信先を問うた。なりふり構わずとはこのことである。
「外部へ。どことも誰ともわからない、大勢の人間の端末……外側に向かって。本来、複製にはそのような外部送信機能はプログラムされていなかったはずなのですけどね。……おや、お人形さんはまた何かお気づきですか?」
「いえ。まさか、ワタシの内部データから、SCP-2000-JPに関する情報が、エノラの義体を中継して外部へ送信されたとは、予想外でした」
プレイル・イサナギは、それがカメレオンが「世界をやり直すための奇跡」になり得ると信じて成し遂げた事実であることを理解していたし、彼女のその口ぶりから、彼の存在が察されてしまっているのは漠然と理解していたが、それをわざわざ話すことは、しなかった。
「しかし、"切り札" と言ってみた所で、所在が把握できなきゃどうする?」
「確かに、外部にSCP-2000-JPのデータ本体の情報が流れて、今は手元にはないんすよね。プレイルの記憶領域には残ってないんすか?」
「ええ、ワタシがシステムスキャンで参照可能な範囲には、それに該当するものは見つかりませんでした。そもそも、それらについてワタシは最初から認知していませんでしたから……」
プレイル・イサナギの無念じみた声色を横目、ローゼンバーグが報告書の文面を視界に表示させていたところ、何かに気づいたようにハッとした表情をして呟いた。
「なあ、熊。あれについての報告書によると、SCP-2000-JPには帰巣本能があるんだったな?」
「帰巣本能、という解釈をするべきかはワタシにはわかりかねますが、文面および行動機序の記録からは、そのオブジェクト番号をアンカーとしてネットワーク経由でファイルがダウンロードされうることはあったとされていますね」
「そうか、そうだ。なら……!」
ローゼンバーグが顎に指先を置いて考え込むようにそう言った直後、なにかに気づいたように声を張り上げて立ち上がった。
「おい、キュリオン、マダラザ!イリシアの義体の自動リモート接続を復帰させろ、まだ死んでないなら接続できるはずだ!」
「えっ、い、いきなり何を言って……」
「いいからやれ、イリシアの義体が機能停止すればいよいよどん詰まりだ、早くしろ!」
ローゼンバーグが突然発破をかけ始めたことにマダラザは当惑するが、指示通りに端末に向き直り、イリシアにケーブルを接続した。意識が戻らず、時々痙攣を繰り返すばかりの彼女が、ケーブルの接続にわずかに身体が跳ねた。
「自動リモート接続復旧しました、まだニューロバンクとの交信は絶たれてないようです」
「イリシアさんのバイタルグリッドはコードレッドを指してるっすよ。義体の稼働停止まで時間の問題かと……」
「接続できたんなら良い、トツカとのオンラインモードはなんとしても切るんじゃねぇぞ」
「ローズ、いきなり何をやりだそうっていうんだ」
「SCP-2000-JP、あれはただのファイルじゃねぇ。おそらくこの報告書を読んだ人間の精神上にイメージとして降り立つ"何か"だ」
「その"何か"っていうのは、つまり」
「……『伝書使』か」
古河はそれを呟いた後、首を傾げながら続けて言った。
「だが、だとしたらここにいる全員の頭の中にそいつがいることにならないか?あの報告書を全員が共有した手前、そう考えるのが自然だろ」
「当然そうだな。だがそれだけじゃどうにもならねぇ。少なくともこれが副社長殿を介して外部に漏れたのには何か繋がりがある気がした。ニセモンだろうがなんだろうが、この場でイリシアだけがぶっ倒れたことも無関係じゃないだろうよ」
「イリシアさんはニューロデータをトツカに保管してリモートで動いていた……つまりあそこに保管されていた彼女が倒れたということは、トツカに『伝書使』が降り立ったと?」
「トツカはニューロアークを受けた財団職員のデータが集積されてる場所だ。副社長殿がサイト-19にわざわざカチコミに来たタイミングで、そこに向かって報告書が一気に共有されたとしたら……」
ローゼンバーグがそう言いかけたところで、マダラザは彼に向かって大きく口を開いた。
「イリシアさんのトツカとの接続、安定しないっす。こっからどうするつもりっすか!」
「よし!ここまで正常につながっているならそれで良い。イリシアの義体の予備記憶域のどっかでいいからディレクトリを作れ、"SCP-2000-JP"だ」
「は、はいっ」
マダラザが声を張り上げて返事をするのが遅いか早いか、彼女の義体内部に"ハコ"を立てる。これにはさして時間がかかるものではなく、作ったそばから変化が訪れた。
「よし、ここまでの俺の読みが正しければ……既に来たはずだ」
ローゼンバーグの表情は硬い。何か、確信を持てない様子だ。それは事象に対するものではなく、切り札が切り札足り得るか、すなわち、「今やっていることが無駄に終わらないか」という心配であった。その表情は、マダラザの声で崩れることになる。
「なっ!ディレクトリ内にファイルが勝手にダウンロードされました、分析官、これって……」
マダラザは手にした端末に伝書使きりふだのソースコードを表示した。
>> "he is scp-2000-jp. the messenger dog."
そこにあったのは、たった一行のプログラムソースだった。いや、それをプログラムと言えるのかすらもわからなかった。単純で、弱小なそれは、演算すらしている様子もない。だが、間違いなく動作していた。たった一文の「犬」は、主の命令を待つかのようにディレクトリに座り込んでいた。
ローゼンバーグの後ろから見ていたエノラも、やや興味深そうに見ている。
「ええ、『切り札』……これこそ、そうですね」
「これが……?」
古河は眉をしかめた。どう見たって一行しかないソースコード。情報量も文字数分しかない。この中に、一体いくらのプログラムが積まれているのだろうか。
「財団は異常な物品を収集している組織だと思っていたのですが、ずいぶんと普通の反応をしますね」
「うっせえ。俺だって人間だよ」
エノラのからかう調子を不愉快に思いながらも、古河はその動物に彼女と同じく好奇な目を持った。
「さて、好奇心は捨てましょう。問題は此処からどうするか、に集約されています」
いちいち古河の考えることを先取りするエノラであったが、それに文句もつけられない。古河は思考し、決定する。
「コイツがやれるのは、イリシアにしたこと……なら、標的にXANETを代入すれば、機械にも同じことが言える。アストリズムにこの犬を送ろう。地球全土に送信できるのは、空の上の衛星だけだ」
「あ、それ無理です」
しかし、出鼻をくじかれた。
「なぜだ」
「アストリズムでは間に合いません。XANETの攻略法を思いついたあなた達に向けた対策の一つに、アストリズムの管制OSを乗っ取るバックドアを仕込んでいました。イサナギはO5の殲滅に向けた衛星兵器の起動に際して、その策を発動させています」
古河は舌打つ。やはり彼は用意周到であった。が、彼女の話は終わっていないようで、「しかし」と逆接の接続詞で言葉をつなぐ。
「もう一つ、バックドアが仕込まれていない第二の『切り札』が、無数の星のひとつにあります」
「星……まさか」
ローゼンバーグはハッとする。目ざといエノラは彼に視線を投げかけた。
「ローゼンバーグ分析官、答えをどうぞ」
「……あの星だろ。AL120」
「はい。またの名をSCP-1000-JP」
「また日本支部の古いナンバーか」
「あれの概要を説明しますと、高い現実改変能力を持った人類のバックアップを抱える人工衛星の人格が存在する小惑星です。その現実強度……ヒューム値でしたっけ。あれは500を超えます」
SCP-1000-JP。嘗て欠陥品の切り札は小惑星へと更迭されたが、その人工衛星が人格を持ち、地球へ小惑星ごと帰還を始めた。
現在、アトラスタ財閥と財団が共同で進めた『アストリア計画』──XANETの前身である対話特化型AI、「αNET」との対話を永久に続けさせる計画──の実行によって、距離を一定に保ち続けている。とはエノラの弁だ。
「それで、なんでそいつが出てくるんだよ」
「高い現実改変能力を、周囲の正常化だけでなく、この子犬ちゃんを地球全土に迅速に届けさせれば、殲滅を半壊にとどめられます」
「その情報が真である保証は」
「財団がアトラスタよりも弱い構図となっている原因は、この一件で私たちが活躍したためです。私たちの作ったAIが、財団のどの知能をも凌駕した。アストリア計画は、その記念碑とも呼べる計画だったのですよ」
つまり、財団の敗北という現状によって保証されるのだと言いたいのだ。確かに、ヴェール条約の撤廃とアトラスタの帝王的権力の獲得は、何も無関係ではないどころか密接だ。
「どの道やるしかないのです。あなた達はどうあれ残り十数分で死にます」
「……」
言いたいことはわかるでしょう?という無言の微笑みに、一同はため息を吐く。古河はあきらめたように両手を上げる。
「神格実体を起動しよう。もう十分信仰は溜まっているだろうからな」
神は降りる。神は違えず、彼らの願いを読み取る。神は違えず、彼らの望みを遂行する。神は違えず、世界を救う代償を求めた。
同時に、死にかけの人類世界は何かを支払った。何を支払ったのかは、彼らの内の誰も知らない。知ることはない。その代償すらも、金属が飲み込んでいくのだから。
◀◀◀ BACK DATA | SCP-3363-JP | NEXT DATA ▶▶▶