1680年代のリターン号を描いた絵画(英・フィッツウィリアム美術館蔵)。
アイテム番号: SCP-3809-JP
オブジェクトクラス: Keter Nagi1
特別収容プロトコル: SCP-3809-JPの来航を防止する為に、日英関係は常に良好な状態に保たれなければなりません。財団の介入により現在両国は同盟関係にあり、SCP-3809-JPの出現可能性は極限まで低減されています。ただし、当措置は暫定的なものであり、SCP-3809-JPによる攻撃の脅威は完全に排除されていない点に留意が必要です。
SCP-3809-JPの来航が認められた際には、オブジェクトクラス切り替え後即座に大規模攻撃対応プロトコルを適用し、シェルターや財団保有施設の開放、航空機・船舶の徴発、職員による避難誘導など、あらゆる手段を用いて可能な限り民間人の生命保全活動を行ってください。
米国本部評議会または日本支部理事会が別途定める特例を除き、SCP-3809-JPへの物理的干渉及びその試みは、手段や規模の程度にかかわらず全面的に禁止されています。違反者については、所属やセキュリティクリアランスレベルによらず即時終了処分の対象となる場合があります。
次回"返答"イベント終了後の対応に関しては、現在米国本部評議会にて協議中です。詳細な方針が定まり次第、本項に追記されます。
説明: SCP-3809-JPは、異常性を有した1隻の木造帆船です。SCP-3809-JPの船体構造や規模、掲出された信号旗などの外見的特徴は、17世紀後半にイングランド王国海軍が所有していたリターン号2と同一です。ただし、SCP-3809-JP内には生物実体の存在が確認できない事から、自律的に航行しているものとみられます。また、SCP-3809-JPは長崎港とその周辺海域でのみ確認されており、当該オブジェクトは東シナ海上の特定海域で出現・消失していると考えられます。なお、これまで行われたSCP-3809-JPの追跡調査は、全ての事例において濃霧や時化、高波といった突発性の異常気象・海象により阻害されているため、出現以前及び消失後の行方は判明していません。
SCP-3809-JPは長崎港入港直後、右舷の第7砲門から一枚の文書を内包した球形弾を、かつて長崎奉行所のあった地点(32.745456,129.873330)へ向け発射します。この時、外殻となる球形弾は接地した瞬間不明なプロセスによって消失する為、着弾による被害は発生しません。
砲弾に内包された文書は、江戸幕府に対し通交と貿易の再開を求める英文書簡です。これまでSCP-3809-JPより発射された文書は全て同一の筆跡で、後付けの年号を除き同一内容の文章が記載されています。組成分析の結果、主原料はイングランド地方北部地域産出のヨーロッパアカマツ(Pinus sylvestris)を使用したパルプ材であることが、また放射性炭素年代測定により、7通全てが17世紀後半初頭頃製造のものであることが判明しています。この文書そのものは非異常である為、現在はSCP-3809-JP関連資料として担当研究員の管理下にあります。
前述の球形弾発射から1時間後、SCP-3809-JPは長崎市街区に対し非異常の球形弾による攻撃行動を開始します。
特筆すべきSCP-3809-JPの異常性は、極めて高い破壊耐性と"返答"能力です。
①破壊耐性
破壊耐性に関して、SCP-3809-JPは一般的な木造帆船と比較してはるかに高い耐久力を有しており、TNT火薬換算で最低3.3kt 8.4kt 規模の衝撃に耐えられるものと推測されます。このような耐久性を有する原理は不明ですが、過去の事例において、SCP-3809-JPへ接近を試みた際に突発的な異常現象が発生したという旨の記録が存在しており、SCP-3809-JPが現実改変を行い外部からの物理的干渉を軽減、または無効化している可能性も否定できません。
②"返答"能力
"返答"能力について、過去の事例より以下の事が判明しています。
- SCP-3809-JPは、入港から出港(或いは出現から消失)までに受けた物理的攻撃に対し、次回長崎港入港時にその約1.5〜2倍程度の威力の攻撃を行う("返答"イベント)。
- "返答"イベントにおいてSCP-3809-JPは、両舷に設置された計44門の大砲から砲弾を発射する。ただし、攻撃規模に応じて使用する砲門数は変化する。
- "返答"イベントでSCP-3809-JPから発射される砲弾の種別は、以前外部より受けた攻撃の手段に依拠する(例. 投石や銃砲弾などの単純物理攻撃→球形弾、火を伴う攻撃→焼夷弾)。
- SCP-3809-JPは、"返答"イベントの過程で生じた反動も全て外部からの敵対的攻撃と見做す。
SCP-3809-JPは発見以降、異常性を早期に解明した蒐集院により「一切の物理的干渉を行わず、民間人に対する存在の隠匿に注力する」という対応策が講じられてきました。その為、今日に至るまでSCP-3809-JPの脅威的な活動は確認されていません。しかし現在、SCP-3809-JPによる大規模な"返答"の脅威が差し迫っており、民間人の生命保護において一刻の猶予を争う状況が継続しています。経緯などの詳細については、補遺を参照してください。
以下は、蒐集院により作成されたSCP-3809-JPに関する文書の抜粋記録です。本報告書への記載にあたり、内容の修正や省略、現代語訳が行われている点に留意してください。全記録の閲覧については、記録・情報保安管理局(RAISA)の認可を得た上でこちらを参照してください。
れたん號蒐集物覚書帳目録第二〇二九番
「れたん號」絵図(一六九九年・按察司"荏家礼水"画)。
一六九九年七月捕捉。福岡藩の在崎聞役として長崎奉行所に潜入し活動していた按察司"荏家礼水"により発見。「れたん號」は、一六七三年に幕府に対し貿易再開を求め長崎へ来航した、左右舷に大砲四十四門を備えるイングランド王国所有のガレオン船「リターン号」と同一であると思われる。ただし、「れたん號」の船上に人影は確認されず、砲門が運用されている様子も無かったと、"荏家礼水"は来航記録で述べている。
[中略]
以下は「れたん號」の来航記録の抜粋である。『其六』以前の年月日表示について、原本では太陰太陽暦で表記されているが、ここでは便宜上全ての記録をグレゴリオ暦で統一した。詳細な全記録に関しては、別途資料を参照のこと。また、新たな「れたん號」の来航が確認され次第、本目録最下に追記されたし。
来航記録 其一 一六九九年 七月
元禄十二年七月九日記す。野母遠見番所より、北西の方角より接近する一隻のガレオン船を捕捉したとの報有り。野母・小瀬戸両番所から、それぞれ白帆注進船3をガレオン船のもとへ派遣すると共に、筑前・肥前両藩へ異国船来航の報が伝達された。
派遣された白帆注進船は、ガレオン船を制止することが出来なかったため、ガレオン船は長崎へ入港した。船頭が言うには、「私はガレオン船に停止するよう何度も呼び掛けたが、船は止まらなかった。不思議に思い船を観察してみると、船乗りが一人も居なかった。また、乗り込んで検分しようと試みたが、波の調子のせいかどうやっても近付けなかった。」と。
入港後、ガレオン船は出島沖に停泊した。出島のオランダ商館長に聞いても、あのような船の寄港は話に聞いていないと言う。船からは誰かが出て来る気配も無く、大砲により攻撃する様子も見られない。長崎奉行所の役人が船の検分を行おうと近付くと、途端に大風が吹き、役人の船は横に着ける事が出来ない。[中略]
同七月晦日追記。ガレオン船の右舷第七砲門より、何かが長崎奉行所に向け発射された。それを受け、待機していた石火矢役が船へ発砲するも、船体に損傷が生じる様子は無い。また、発射により町が被害を受けた様子も無いため、発砲は約三十分で終わった。
[中略]
同九月七日追記。一昨月晦日に発射されたのは英語で書かれた幕府宛書状であり、イングランド王国との貿易再開を求める内容のものであった。奉行所前に着弾後、検閲を経て即日飛脚により幕府へ送付されたが、今月三日に届いた返書で、幕府は要求を拒む旨を示した。
[中略]
返書を貰ったは良いものの、どのようにかの船へ伝えようか、皆で悩んでいた。だが七日、筑前の浦見番である谷中門左衛門という男が、船で可能な限り近付き、要求が棄却された旨を大声で伝えたところ、ガレオン船は錨を上げると共に、急に吹いた大風により停泊を解除、速やかに港外へ退出した。その後の船の行方に関しては不明であるが、後に町衆に聞き込みを行ったところ、当該ガレオン船は延宝元年来航の「れたん號」に同じであると判明した。
[後略]
(元禄十二年 記・按察司"荏家礼水")
来航記録 其二 一七二七年 七月
享保十二年七月九日記す。野母遠見番所から、西の方角より接近する一隻のガレオン船を捕捉した、との報有り。船体の外見から件の「れたん號」であると推測されるため、以下「れたん號」と記す。
先の例と同様、「れたん號」は長崎へ入港し、出島沖に停泊した。これまでと同様、「れたん號」に敵対兆候が見られないと判断した長崎奉行は、検分のために役人を「れたん號」へ向かわせた。
しかし、「れたん號」は突如役人の乗る船に大砲を向け、攻撃を始めた。集中砲火により船は瞬く間に破船、乗員諸共湾の底へ沈んでしまった。更に「れたん號」は、そのまま町を攻撃した。攻撃は三十分ほど続き、奉行所に程近い一帯は出島と奉行所を除いてほぼ全ての家屋が被害に遭った。塀や屋根に砲弾で穴が開き、梁や柱を折られた建物は崩れ落ち、住人には弾が直撃したり崩れた家屋に圧し潰されたりして、亡くなる者が少なくなかった。
この攻撃の後、「れたん號」は奉行所に向け書状を発射、門前に着弾する。内容はイングランド王国との貿易再開要求であり、すぐに江戸へ差し出された。また、江戸からの返事を待つ間、「れたん號」に対し断続的な報復攻撃を行う事が決定され、即日施行される。[中略]
同八月朔日追記。「れたん號」一向に破船の様子無く、奉行所より砲撃停止の命が下される。また、「れたん號」警備の旨も同時に船番方へ伝達される。
[中略]
同九月七日追記。本日幕府より返書有り、「れたん號」の要求を拒絶する旨であった。先例に倣い、筑前浦見番・矢加部喜左衛門が、要求棄却を大声で伝えたところ、「れたん號」は速やかに湾から退出した。
私は帰福するよう藩主直々に仰せ付けられたので、この後すぐに戻り、宿老へ今回の委細を述べると共に、今後の対策について評議を重ねる次第である。
(享保十二年 記・按察司"荏家礼水")
享保十四年三月二十三日追記、前回れたん號来航時の沙汰を踏まえ、蒐集院と長崎奉行所・筑前黒田藩・肥前鍋島藩の間で密約を締結した。今後の為に、以下に「れたん號」来崎時の対応に関する条々を一部記す。文書全体を閲覧する場合は、筑前・肥前両藩の長崎聞役、及び長崎奉行所の蒐集役士のいずれかへ願い出ること。
尚、次回来航時に長崎は大害を被ると思われる。いよいよ注意されるべし。
(享保十四年 記・按察司"荏家礼水")
来航記録 其三 一七六一年 七月
宝暦十一年七月九日午前八時、小瀬戸遠見番所より黒色狼煙上がる。烽火山番所より同様に黒色狼煙を上げ、筑前・肥前両知行地へ「れたん號」来崎を伝える。先例を踏まえ、御奉行は戒厳の令を発出し、敵襲と銘打ち町衆へ避難の命を下される。人々は特段に惑う事無く、殆どが浦上・大浦・稲佐へ退避した。
同日正午前、「れたん號」入港する。錨を下した後、右舷より幕府宛書状を御奉行所へ発射、門前へ着到する。待機していた御奉行所役人がこれを回収し、飛脚によって江戸へ差し出す。
同日午後二時、「れたん號」左右舷全砲門より発砲始める。出島のみならず、湾沿いの住家や商店は数多打ち壊され、町一帯が忽ち瓦礫の山と化した。遺憾ながら反撃は認められていないため、我らは北の立山から眺めるのみであった。我らの営みが一瞬で崩れ去るあの光景は、何に例えることができようか。[中略]
同八月三日追記、一昨日より攻撃止む。享保来航時、八月一日に御奉行の攻撃停止を命ぜられるに因むものと思しき。御奉行の許しを得、町へ下り被害の検分を始める。
[中略]
同九月七日追記、悪天候により江戸差出飛脚今日まで着到せず。然れども「れたん號」、巳の刻錨を上げ、速やかに港より退出する。書状も浦見番の呼び掛けも無くして出崎に及ぶとは如何なる事か。思うに、「れたん號」の動向と書状・呼び掛けの有無に因果関係は無い様子。御奉行、聞役、院にこの事を詳しく相談し、今後の策に使えないか模索する所存。以上。
(宝暦十一年 記・按察司"印桐崇仁")
…
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来航記録 其六 一八八八年 七月
明治二十一年七月九日午前八時二十二分、野母崎沖約五海里地点で「れたん號」を視認したとの入電あり。院・県庁・市役所・警察へ報告。事前の取り決めに基づき、市民に対して「大英帝国通交三十周年祝賀行事」を以て偽装工作を行う事に決定。
同日午前十一時四十九分、「れたん號」遅滞無く入港。同時刻に市中にて行われた楽隊や舞踊の催しが功を奏し、市井の人々は然程「れたん號」に注目する様子ではなかった。[中略]
同年八月十四日追記。「れたん號」に特段の変化は無し。民衆も「れたん號」の存在に慣れたようで、初めこそ物珍しそうに見物する人々が大勢居たり、夜間にちょっかいを出そうとする酔っ払いも居たりしたが、最近ではそういった事もあまり見られず、私も精々、顔馴染みとなった浮浪人の老爺と駄弁を交わしながら監視にあたる程度である。ただ、動物の類は何か感ずる所があるのか、犬猫は「れたん號」にしょっちゅう威嚇しているし、港町にもかかわらず海鳥は「れたん號」へ近寄る様子を見せない。すっかり日常に溶け込んでいるが、それらは私が相対しているのが常ならぬものである事を思い出させる。
[中略]
同年九月七日追記。午前十時四十六分、「れたん號」停泊を解き出港する。入港時と同様の催しを行った為、今日も予想ほど「れたん號」へ衆目は集まらなかった。どちらかと言えば、「れたん號」が伴っていた帝国海軍の新造船に少なからぬ眼差しが向けられていた。同日午後四時十二分、濃霧により「れたん號」を見失ったとの入電有り。今回の来航に伴う対象の活動は全て終了したものとして、各所に戒厳を解くよう伝達する。
[中略]
「れたん號」は、相違無く異常であり、我々の蒐集対象である。近接を許さず、干渉を拒み、天の気を縦にする姿は、正しくこの世のものに非ず。
だが、以下は完全なる私見に過ぎないが、中世西洋風の大型帆船が千年来の港町に顕現するというのは、果たして市井の民に些かの矜持を齎すものと見えた。私が目の当たりにした、「れたん號」を見る童達の嬉々とした立ち居振る舞いこそ、港町たる長崎の希望そのものであった。そしてその笑みを脅威より護る事こそが、我々の責務であり、使命であり、矜持である事を、一刻たりとも忘れてはならぬと、強く感ずる所存である。
(明治二十一年 記・研儀官"蘭野英士郎")
来航記録 其七 一九四五年 七月
[検閲によりデータ非公開]
[SCP-3809-JP報告書「補遺」の項を参照してください]
[1945年10月26日 サイト-8195所属研究員・倫野敦]
これまでの来航事例から、SCP-3809-JPは日本国とグレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)の関係が悪化した際に出現するものと推測されます。SCP-3809-JPが各事象を知覚する原理などは明らかでないものの、過去の来航事例はいずれも、日英関係が悪化する契機となった事象から数年のラグを伴って発生しています。このラグについては、初回を除き事象発生当時の両国関係の悪化度合いに応じて増大する傾向が見られます。
以下は、SCP-3809-JPの来航年と、来航の契機と推定される歴史的事象、およびラグ日数の一覧です。
| SCP-3809-JP来航年 | 日英関係悪化に関連する歴史的事象 | 来航までのラグ |
|---|---|---|
| 1699年 | リターン号の長崎来航。最初のSCP-3809-JP確認事例。 | 26年 |
| 1727年 | セントポール号事件4(1725年4月28日)。 | 2年2ヵ月11日 |
| 1761年 | クロードス号事件5(1754年12月1日)。 | 6年7ヵ月8日 |
| 1810年 | フェートン号事件(1808年10月4日)。 | 1年9ヵ月5日 |
| 1858年 | 日英和親条約の締結(1854年10月14日)。 | 3年8ヵ月26日 |
| 1888年 | 東禅寺事件(第一次:1861年7月5日、第二次:1862年5月9日)、生麦事件(1862年9月14日)、薩英戦争(1863年8月15日)、および四国艦隊下関砲撃事件(1864年8月5日)の複合要因か。 | 24年11ヵ月4日 |
| 1945年 | 第二次世界大戦の勃発6(1939年9月3日)。 | 5年10ヵ月6日 |
補遺(1945/10/26)









