アイテム番号: SCP-3986
オブジェクトクラス: Euclid
特別収容プロトコル: 機動部隊チー-99 “戦見通す先つ祖の声” がSCP-3986発見のために設立されています。捜索範囲はモンゴル、新疆ウイグル自治区、カザフスタン、ロシア南部の一角まで絞り込まれています。チー-99はヒューム検出の広範な使用、ニュートリノ砲、地元民への大規模インタビューなど、数多くの慣例に囚われない検出手段を採用しています。
“金の書”Altan Debter、“蒙古人に関する一記述”、“アフシャール詩集”Divan-e Afshar、“ラクシュミー・ラオの朗唱”、“上都演义”、“ロシア及びトルキスタン旅行”の現存するコピーが発見された場合は、直ちに財団が取得するものとします。
説明: SCP-3986は、インナーアジアの何処か不明な場所に存在すると仮定されている山です。SCP-3986の実在は証明されておらず、13世紀から20世紀にかけて執筆された少数の文章記述から推測されたものです。若干の矛盾点があり、お互いの記述を参照し合ってはいないように思われるにも拘らず、これら全ての出典は極めて一貫性のある風景と、幾つかの異常と思しき特性を描写しています。
出典文書群は、SCP-3986が平坦な大草原ステップの中心にあり、周辺に起伏が無いため非常に目立っているという点で一致しています。山の大きさは断定し難いものの、コバルトのような色合いである、またはコバルトの階段があると一様に記述されています。この階段は山腹を切り込んで作られており、山の周囲を何度か回りつつ、地上から山頂までの通り道を提供しています。山頂には巨大な展望台があります — ここで出典文書群の記述は矛盾し、あたかも各文書が執筆された時代・文化に属するものであるかのように展望台を描写しています。
展望台に関して一貫している観測点は、多国籍な居住者が多数存在していること、構造物に広い中庭があること、その中庭の中心にモンゴル皇帝チンギス・ハーンの遺体が安置されていることのみです。遺体は墓の中にあり、一枚のガラスに覆われています — このガラスの種類や色は観察者ごとに様々です。遺体は完全な保存状態にあると報告されています。
その仮説的な状態にも拘らず、財団工作員ジョン・キャラハンの証言やそれ以前からの報告は、SCP-3986に財団データベース上の指定番号を割り振るのに十分なものと見做されています。1999年にニコラス・カートライト博士が死亡する以前、6回にわたって、SCP-3986を解明済アイテムに再分類する申請が為されました。これらの申請は全て却下されました。カートライト博士の死亡時に集められた証拠を基にExplained分類申請は一時停止されていますが、これは後日変更される可能性があります。
SCP-3986を記述している出典文書6点からの適切な抜粋は以下の通りです。
これはモンゴルの公式な国家史であり、ラシードゥッディーン・ハマダーニーと中国の歴代史から広く参照されています。かつては既に喪われた文書である、または単一の歴史書でない可能性があると考えられていたものの、16世紀の写本数冊がフフホトの書庫で発見されました。構文と言語は全て純正の写本であることを示しているようですが、書き写しの作業を通して幾つかの改竄が行われたと考えられています — 改竄の疑いがある箇所には下記転写の段落989が含まれます。写本は財団によって押収され、発見報告は抑制されました。ラクシュミー・ラオへの言及と思われる箇所が最初の段落に存在します。段落番号は下記転写に示されています。古典モンゴル語から翻訳されています。
986. そして天命を受けた軍勢は、彼らの彷徨に倦み疲れ、旅の終わりを探し求めた。そこで彼らは街に住まう賢人、その名をラオという男に教えを乞い、彼は黄金と[コバルト?]に囲まれた山について彼らに語った、そしてその頂上には何もない平野があると。
987. 軍勢は山へと向かい、そこに人が住まっているのを見出した。そこで彼らが立ち去り、再び引き返すと、山にはまだ人が住まっていなかった。
988. 軍勢は黄金と[コバルト?]で作られた階段を上り、誰がこれらを建てたのか知らなかったために驚嘆した。彼らは階段を上り、そして言った、此処こそ我らが神聖なるハーンを埋葬する場所であると。そこで彼らはハーンの亡骸を大地の中に置いた。
989. 彼らは風と共に変じる一枚のガラスを作り、ハーンをその中に入れて、平野へと沈めた。軍勢は彼と共に、彼のお気に入りの奴隷たち、彼の武具、高潔な妻ハトゥン・ボルテの亡骸を置いた。そして軍勢は唱和した、おゝ悠久の天よ、此処に我らは彼の骸が汝を見据えるようにした、故に彼の魂は離れ、二重の炎を通るかのようにガラスを通り抜け、汝へと達して交わるであろう。
990. そして彼らは馬に乗り、平野と山の上を駆けて、それらを覆い、何者も再びそれを見出せないようにした。
アンダルシア人の民族誌学者、アブ・アル=アジズ・アル=シャムス・ムハンマド・イブン・ウバイドによる14世紀後期の本です。イブン・ウバイドの著作は主にマフムード・カーシュガリーやラシードゥッディーン・ハマダーニーから参照されているものの、学問的な価値の低さで知られています。アンダルシア文学を研究するアメリカ人歴史家のフィリッパ・キャッスル博士が、出典と推定される文献からの逸脱について書いた論文は、明らかにSCP-3986に言及しており、この本に財団の注意が向くきっかけとなりました。古典アラビア語から翻訳されています。
キプチャクの部族はオクサス川の北方に住んでいる。彼らは好戦的な民であり、狩猟に長けており、多くの伝説を持つ。
カルムイクの部族はオクサス川の北方に住んでいる。キプチャクの振舞い方と同じく、彼らは好戦的な民である。
観測者の部族はカスピ海の東方に住んでいる。彼らは多くの国から集った者たちの部族であり、山の麓に住んでいる。彼らは星を見つめ、アンダルシア様式の偉大な天文台を建造した。
この部族は一枚の彩色ガラスを持っており、その下にはあの好戦的な預言者、チンギス・ハーンChingiz Khanが眠っている。彼の遺体は腐敗しない。それは、多くの民族の子供であり、トルイの軍勢に殺されることを望まなかった観測者たちとの盟約によってそこに置かれたためである。彼らは全ての者がそれを見て思い出せる場所に遺体を置いた。奇怪な闇の魔術によって観測者たちはそれを保存した。トルイの軍勢は再び去った。
キルギスの部族はオクサス川の北方に住んでいる。キプチャクやカルムイクの振舞い方と同じく、彼らは好戦的な民である。
ティムールの宮廷に仕えていた15世紀のペルシア詩人、シャムス・アル=ディン・アフシャール・シーラージーの詩集です。多数の文献において上質であると述べられているものの、19世紀の東洋学者/財団工作員であるジョン・キャラハンの翻訳1点を除いて、この詩集の内容は完全に失われています。この翻訳は著しく厳密性に欠けており、キャラハンは詳細な点を数多く粉飾ないし捏造したと思われます。しかしながら、彼がSCP-3986を論じている他の出典文書に接触した経験があるとは考えられていません。
オノンの河辺、オフストラートの山の上、
岩多き荒れ野の頂上に、荘重なる歓喜の丸屋根ドームあり、
コバルトブルーのタイルを踏んで、夜を見つめる者たちが立ち、
トンネルはあまねく反射し、敷居は星明りに縁取られる、
その広間を歩くのは学問と愛の徒、
その心は鳩の羽根の如き純白、
闇に煌めく星々の秘密に目を光らせ、
そして微笑み、賢者のみが捲る秘伝の頁を綴る。
16世紀半ばの未知のヒンドゥー人作家による著作であるこの本は、ヨガ行者/神秘主義者であるラクシュミー・ラオの言葉を記録したものです。近世を通して、それぞれ細部の異なる多数の写本が流通していました。ヒンドゥスターニー語から翻訳されています。
八日目、尊ぶべき賢者は私たちの下へ来ると、何故私たちは死ぬのかと訊ねました。
私たちの中の婆羅門バラモンは彼に多くの事を語りました。曰く、身体とは真我アートマンにとって擦り切れた服の如きものであり、何度も着替えなければならないと。
そして、真我は安息を得るまで繰り返し何度も浄化されるのであると。
尊ぶべき賢者は微笑んで頷き、それを是としました。私たちの中の婆羅門は慰められました。
しかし続けて、尊ぶべき賢者は一つの別の観念を示しました。彼はチンギス・ハーンについて話し、彼はベッダーシャーラBedhashaala、またの名をラサドハーニャ・ムガルRasadkhane-ye Moghul、また別の名ではシャングリラShangri-Laを建てるために死んだのであると語りました。
私たちの中の婆羅門は抗議しました。「そのような場所は存在しません」、婆羅門はそう言いました。「そのような場所は伝説にすら存在していません。」
尊ぶべき賢者はただ笑って言いました。「これは死の犠牲である。お前たちは皆、忘却の内へと滑り落ち、誰一人としてお前たちが何を為したか思い出すことはできないのだ。
形も、名前も、場所という観念さえも、後に残された者たちにとっては空虚な言葉、脆い記憶でしかない。そして、永遠の命をもたらす霊薬を探し求め、しかしその非実在を受容したチンギス・ハーンには、この現実を受け止めることができた。
そしてそれ故に、学者を厚遇したいという己の欲求を越えた理由無く、彼は自らの屍を種子として与え、その周囲には美しい天文台が育った。
全ての国々の民草がそこに辿り着いた。そして、モンゴルの毛皮やイスラムの石ではなく、赤いパトナの壁を築き上げた我らの国の栄光を知ったのだ。それは太陽の炎を受けて輝く。
こうして、チンギス・ハーンの魂の中から帝国は消え去り、彼はようやく安息を得たのである。」
私たちの中の婆羅門はそれを是とし、尊ぶべき賢者に敬意を表しました。
17世紀の中国人小説家、李虞建リー・ユーヂァンが著した小説です。李は明王朝に仕える官僚でしたが、満州族による征服に続いて貧困に陥りました。この小説はフビライ・ハーンによる上都ザナドゥ建設の物語であり、李はこれが国家を破産させ、甚大な破壊を引き起こす過程を描き出しています。この時代の小説には珍しいことに、“上都演义”は元王朝への同情を示し、フビライを(欠点はあるものの)英雄的な主人公として描写しています。問題の一節は小説の終盤、フビライの忠実な従僕であるバイチーが、確実に失敗すると理解したうえで計画を続行する理由をフビライに問い質す場面に現れます。
バイチーはようやく立ち上がり、フビライを見つめた。「理解できません」 彼は言った。「私が一介の愚鈍者であることは分かっています、それでも私には理由が見出せないのです。貴方を取り巻く全てが怒りの炎を噴き上げ、上都は燃えているというのに、それでも貴方は諦めようとしない」
フビライが振り向き、バイチーは火明りに浮かぶその顔を、もはや血肉を備えたものではなく、石の如きものとして見た。正しく、それは彼が若い頃に見た彫像を思い起こさせた — 風雨に晒され、年月と共に削られてはいたが、見る者に皇帝の神聖なる威光を思い起こさせる何かが依然として彫り込まれていた。
フビライは言った。「止まるわけにはいかんのさ、気高きバイチーよ、それは俺自身を否定することになるからだ。幾つもの城を持ち、栄光ある王国を築き、他のどんな皇帝も及ばぬ者として世界のあらゆる国々から敬意を表されてなお、俺はまだ一人の蒙古人だ。蒙古の王として生まれ、俺たちの民にとっては当たり前の事である狩りと黄金への渇望の他には何も知らない。
ここから西、遥かに遠い西に、俺の祖父が横たわり、太陽を見据えて微笑んでいる。最も高き山、草原の中にある唯一の山の頂上に眠っている、そしてその上には祖父の権力にとって最大の証しが広がっている。そしてどうだ!波斯ペルシヤと中国の最も叡智ある者たちが一つ所に寄り集まり、最も偉大な皇帝の居城にも似た宮殿に住まっている。彼らはそこで宇宙の深みを測っている。大地の回転と太陽の中心性を見ている。孤独な守り人から遠き神々の伝道者に至るまで、玻璃を通して全ての星が祖父に臣下の礼を取る。祖父は世界の天蓋に立っている。永遠に、誇り高く屹立している。人間には触れることの叶わない、忘れ去られてなお欠くべからざる記念碑として」
フビライは彼の炎上する城を、木石で出来た山を見て涙を流した。バイチーも彼と共に泣いた。皇帝にも聖者にも決してなれないとは分かっていたが、皇帝や暴君と一緒に育ち戯れてきた者として、自分たちを未だに拒絶するあの世界を、帝国に広がるあの永遠を征服したいという欲望が、バイチーには理解できた。
ニコライ・カレンスキーは18世紀初頭にジュンガル・ホンタイジ国への特使として派遣されたロシア軍将校であり、1718年3月に同国で死亡しています。彼と妹のカテリーナの間で交わされた相当量の書簡が現存しており、財団によって押収されています。ロシア語から翻訳されています。
1718年2月20日、グルジャ近郊にて。
私の愛しいカテリーナへ、
ここの天候は相も変わらず酷いものです。雪が降り始めているのですが、お粗末なタタール様式のテントは雨風からほとんど身を守ってくれません。案内人のメフメトからは、ハーンのお達しで私たちはその場に待機しなければならないと聞かされています。残念です — モグーリスタンの古都アルマリクが見たかったのですが、禁止されました。一切寄り道せずにサンクトペテルブルクまで真っ直ぐ帰る羽目になりそうです。
でもそんなのは些細な事です。前の手紙で話したように、最近私はハーンと共にタリム盆地を移動していた時、実に驚くべき光景に出くわしました。私は一行のまとまりからはぐれてしまい、馴染みの無い牧草地をさまよっていました。道は分からず、食料もほとんど無かったのです。けれども、私の前に一つだけ山が見えました。とても奇妙な形をしていたので、私はきっと何かの建物が山頂にあるという思いを強めました。
私は馬で近寄り、一続きの階段が山腹に刻み込まれているのを見ました。鮮やかなコバルト色に輝いていて、あまりに美しく保存されているものだから結構驚きました。私は階段を上り — ひたすら水を求めて — 大して時間もかからなかったと思うのですが、ともあれ山の頂上に着きました。
そして、私の前に広がっていた光景ときたら! ほんの数秒前まで遊牧蛮人の土地にいたというのに、そこを一歩離れた瞬間、ロシアの大学に踏み込んだかのようでした。正教会の礼拝堂が一方の端にあります。まるでロシアの教会からそのまま持ってきたかのような、ステンドグラスに覆われた大きな広場。ロシアで最も美しい礼拝堂と肩を並べる、丸屋根と白い大理石。
てっきりこの場所はロシア植民地の一種に違いないと思ったのですが、それは私の誤解でした。そこはペルシャ人や中国人やアラブ人でいっぱいで、全員小脇に望遠鏡や紙束を抱えて歩き回り、大層な物事を議論していました — 天文学、星占い、地球の回転。何人かは帝国の哲学を、また別の者たちはキプチャクの民族誌について語り合っていました。彼らの一人、イブン・ウバイドというアラブ人が私に水と食べ物をくれました。ここは何かと訊ねると、チンギス・ハーンの星見台だと言うのです! どういう意味なのか測りかねて困惑していると、彼は先ほど私が称賛していた素晴らしいステンドグラスを見るように言いました。
その下には、カテリーナ、この目で見ることになろうとは考えもしなかった物がありました。征服者その人の、完全に保存された死体です。彼が死んだのはもっと東の方だとばかり思っていましたが、あれは間違いなく彼でした — 魂でそれを悟りました。彼が私を凝視しているのを感じられるほどでした。野蛮なタタール人がこのような場所を築き上げるとはなんて奇妙な事だと思ったものです。しかし後から考えるに、多分彼はここを作ったわけでは無かったのでしょう。あれは望まれない遺産であったのかもしれない。彼の目は空恐ろしいほどに天を見据えていました。
誰も私にあの場所の事を詳しく教えてはくれず、彼らは数時間後、私に物資を持たせて送り出しました。私は再びあそこを発見できず、程なくして仲間と合流しました。ああ、でもカット、何という発見でしょう! チンギス・ハーンの墓所だなんて! 家に帰り次第この奇跡の記録を書き残すつもりでいます。仲間の旅行者たちと、大陸の歴史を学ぶ学生たちのために!
アレクサンドルと子供たちにも宜しく — きっとすっかり大きくなっているでしょう! — どうか私のためを思って祈ってください。
ニコライより。
イギリス人東洋学者であり、財団の工作員でもあったジョン・キャラハンが1887年に執筆・出版した旅行記 兼 報告書です。この本には他の異常存在(SCP-3838の一部と、最終的にSCP-3150であると判明したもの)に関わる機密情報が描写されていたため、1889年の“スナーリング・クープ” — 現代の財団が科学的な組織として発展するうえで重要な前段階となった事件 — の期間中に、キャラハンは私刑制裁を受けることになりました。
そして、この広大な草原には1つの小さな山がある。私の計算では標高およそ400m。一連の階段が山腹に彫り込んであり、頂上に至るまでに山の周囲を10周する。
頂上には小さな天文台がある。特に注目すべきは現代の基準を固守している点であり、西洋諸国の各地にある同種の施設の多くと密接に類似している。これにも拘らず、天文台は主として様々な種類の東洋人を雇い、また彼らに占拠されている。ここの無学な警備員たちは、いっそ失望するほど古臭い文書類を保管している。彼らが言うには、地動説に関する幾つかの著作はコペルニクス以前から存在したらしいが、これは明らかにあり得ない事だ。それでも、私には見覚えの無い、素晴らしいペルシャ詞があった。ウマル・ハイヤームの大作と、これまで目録や言及以外では遭遇する機会が無かったシャムス・アル=ディン・アフシャールという人物の、過去に知られていない作品が幾つか。
現代の建造物や機器が啓蒙されていない国に存在することを鑑みるに、ここは明白に異常な場所である。住人たちは現代の道具や技法について明確な知識を有しているが、科学的な努力に見合わない点が多くあるにも拘らず、古代モンゴルのパスパ文字の変種らしき字で文書を記している。彼らは用心深く得体の知れない者たちで、天文台に関するこれ以上の情報を私に提供するつもりが無いか、或いは提供不可能のようである。
最後に書き記すべき事が1つ — 山腹の一角にある小さな中庭の中心部に、1枚の透き通ったガラス板が置かれており、完全に保存された人間の死体を収容している。間違いなくチンギス・ハーンの死体ではないだろうが(住人たちはそう主張している)、着衣はかなり古雅な趣があるように思われ、非常に上質である。サンプルを採取しようと試みたものの、ガラスは容易に除去・破壊できないようであったため、中止とした。
これを別とすれば、カザフスタンは異常な物がほとんど存在しない場所である。早急に市場へ引き返す予定。
補遺1: 1999/09/12、1969年から1984年までSCP-3986のプロジェクト主任を務めたニコラス・カートライト博士が、睡眠中に死去しました。SCP-3986に関する内容の小さな覚え書きが財団に宛てて残されました。転写は以下の通りです。
私は — まだ非常に若かった頃 — キャラハンの人柄について、面識のあった父が話していたのを覚えている。今夜再びファイルを読み返しつつ、私は父がキャラハンをどう評したか思い返している — 彼の多方面に渡る弱点を、極めて偏狭な物の考え方を — しかし率直で寛大な精神を、不幸な者たち(或いは彼が不幸だと見做した者たち!)への優しさを、そしてスナーリング・クープの直前に突然心変わりしたことを — その時、キャラハンはタブリーズの書庫で何かを発見した後、自分が書いた旅行記の大半を否認したのだった。具体的には、彼はSCP-3986が以前思っていたよりも遥かに重要なものだったと主張した — あそこは確かにチンギス・ハーンの墓所であり、最終的な発見のために至急そこへ戻るつもりだと。
彼は発見したことを書き留めたが、それは失われてしまった — 我々が思うに、スナーリング・クープの何処かの時点で。そして恐らくこれが、SCP-3986は反物語アナファブラの影響を受けたのだと我々に長らく信じ込ませたのだろう。失われた7つの著作、世界から削除されたと思われる場所 — キャラハンは過去数世紀に執筆された多くのフィクションの後追いをして、天文台の話をでっち上げた夢想家だったという理論を捻り出すのはそう難しくなかった。60年代と70年代、神話と歴史の合成というアイデアを踏まえて、我々は天文台の存在を軽蔑していたからだ。こうして天文台は神話の一部と化し、様々な他の作品で観察され、存在から削除された。
だが、これが反物語の仕組みと違っていることに我々は気付くべきだったのだ。その通り、私は多くの著者たちが天文台をもう既に隠蔽されたもの、失われたものとして描写していることに困惑し始めた。私は — 相当な数の反対意見と対峙して — 天文台に独自のファイルと指定番号を割り振り、プロジェクトを発足するべきだと提唱した中の一人だった。しかし我々の捜索は何の成果も上げられず、私は一時、己の私的な夢物語を追って財団に無駄足を踏ませたのではないかとも考えた。
しかし、やがて私はそれを見つけた。私にとって、その山はロシアの南部に現れた。かつてはタタールの一角であり、その後に植民され、キリスト教化され、現代的になった大草原。草は — 初期の観察者たちなら北の蛮族の地獄めいた大地とか、或いは遊牧民族のロマンチックな自由とか、そう言った表現をするであろう草は — 今ではただの草だった。説明可能でロマンの欠片も無い、経済や歴史や地理学の観点から議論されるような草だ。それは解明されていた — 現代的になっていた。
そのただ中に、コバルトの階段と黒い石の山が突き出していた。私は興奮のあまりに眩暈を起こしながら上った。記録装置で全てを撮り、全てを聞く準備が整っていた。職務熱心な財団の研究者は皆そうだが — 私のように、老いて虚弱になり枯れ果てた者でも — 知識の因果を前進させるために、全てを上司の下へ持ち帰りたかった。
やがて、私は山頂に着いた — そして立ち止まった。天文台が、アメリカ科学の最先端を行く技術の結晶にも似た天文台が、そこにあった。友好的で、寡黙で、恐ろしいほどに博識な住人たちがいた。そして一枚の — そう、あれは“奇妙な”としか言い表しようがない。私以前の者たち皆と同じぐらい誠実で欠陥のある表現だ。
私はそこで何も学ばなかった。例の一つの燃え盛る質問をひたすら訊ねた — 「これら全てにはどういう意味があったのか?」 — だが住人たちは奇妙な目で、訝しそうに私を見るばかりだった。私は彼らにとって無関係だったのだ。彼らは世界の天蓋に在り、より大きな関心事を抱えていた — 自分たちの学問、天界の地図作り、宇宙の真実。
しかし熱心な研究者として、私は知らなければならなかった。どういう経緯でこの場所は存在したのか? 何故ここにあるのか? 何が世界の征服者とその仲間たちに、遺体をここに安置させ、この天文台を建造 — または占領 — させたのか? 何故ここの住人は生きていられるのか? 何処から食料を得ているのか?
そこで私はガラスの所へ向かい、空を見つめるハーンの目を覗き込み、そして笑った。何故なら、大した事ではなかったからだ。この場所にはかつて一つの意味が、または複数の意味があったのだろう。世界の暗闇の中、時代の謎の中で、そこには何らかの目的があり、しかしそれは失われた。大した事ではない。このファイルのページには、我々と異なる懸念を抱く男たちによって、六種類の理想郷が描写されている。彼らは創作し、使用し、文脈に当てはめようとした。この場所を、この奇跡を、一つの団結、単一の意味に結び付けようとした。彼らはこの場所を定義して意味を与えたかったのだ。我々は現代的な手法で同じ事をやりたがっている。
そうだ。全てはどうでもいい事なのだ。それに私は死にかけなのだから、お前らのことだってどうでもいい。私には誰が何故あれを作ったか分からない。私に分かるのは、それが美しく、偉大な才能を持つ者たちを触発しているという事だけだ。ページにインクを零すだけの連中はお呼びではない。これはチンギス・ハーンの星見台であり、それだけで十分だ。お前たちのような石頭の研究者どもには決して理解できない崇高な謎だ。その日の残り — そして続けて滞在した2日間 — 私は座って本を読み、馬乳酒を飲んで阿片を吸い、笑って本を読んで空を見つめた。我々の理解を超越した瞬きを。アフシャールやイブン・ウバイドや李たちと言葉を交わした。そして山を下りる時、私は幸福だった。分かったからではない、分からなかったからだ。
そろそろ行くとしよう。私の時は間もなくやって来る。親愛なる読者に、この世のあらゆる幸福がありますよう。
ページリビジョン: 5, 最終更新: 10 Jan 2021 17:24