警告: 情報災害性異常
1. 指定符号以外での呼称
↳右記行為を厳に禁ずる
2. 許可なき筆記・発声
異常性警告:
情報災害
下記の行為を
厳に禁ずる
1. 指定符号以外の呼称
2. 許可なき筆記・発声

図 1.1. 意味論的攪拌収容セル、内部映像キャプチャ。

図 1.2. 第IV世代型 H███████式概念攪拌房。
アイテム番号: SCP-4000-JP
オブジェクトクラス: Safe
特別収容プロトコル: SCP-4000-JPをその符号以外のあらゆる名前、肩書、呼称で言及することは制限されます。それらの名の使用は収容以前のSCP-4000-JPに言及する際にのみ部分的に許可され、同時にそれが"SCP-4000-JP"というナンバーに指定される以前の旧名または変形に過ぎないことが明確に示されなければなりません。
当報告書、及び付帯する文書では収容以前のSCP-4000-JPについて言及します。このため当報告書では収容違反の予防的措置を目的として、当該アノマリーに関して言及を行う際にその呼称を統一して着色し1区別します。
SCP-4000-JPは財団81管区(通称"日本支部")が保有する無号サイト群2の1つに収容されます(図 1.1)。当該施設には専用に調整された概念攪拌房(図 1.2)を収容セルとして配置し、意味論的刻印として機能している"SCP-4000-JP"を除いた全ての名辞要素を当該アノマリーから常時分離し続けます。現時点で、収容以前にSCP-4000-JPと関連していた名前、肩書、呼称は支障なく使用可能な状態です。
Incōdex処理に基づくSCP-4000-JPの取り扱いは上記の手順を助けるとともに、当該アノマリーの自己収容状態を維持するために必要不可欠であると考えられています。代名詞の使用は許可されますが、収容サイトの職員はコミュニケーション及び可読性を過度に損なわない範囲において、"SCP-4000-JP"という符号を用いてSCP-4000-JPに意識的かつ継続的に言及し続けなければなりません。
図 2.1. 初代"管理者"、W██████ F████。
説明: SCP-4000-JPは、"管理者(The Administrator)"として知られる称号に紐づく意識体です。"管理者"は初期の財団において最高意思決定権を持つ個人(図 2.1)のために設けられた役職でしたが、その権限が後に発足した13名のメンバーからなるO5評議会へと順次に移譲されたことから、当該の称号は長らく名誉職位としてのみ用いられていました。
SCP-4000-JPが異常性を発露した正確な時期は判明していません。現在判明している事実の1つは、ある時点を境に「管理者の称号そのもの」が自我意識を獲得したということです。当初この意識体は明確な実体を持っていなかったものの、次第に"管理者"の称号を与えられていた複数の財団職員の精神を侵襲し、その人物らの身体を通して基底世界へ影響を及ぼし始めました。
SCP-4000-JPは存在と同時にQ-HEARTSクラスの源理改変性質を保有しており、その影響は多様な結果を産み出すものでありながら、極めて単純な機序に沿って作用しました。すなわち、名辞が持つ複数の意味・背景に沿う形で発生する現実構造への干渉です3。この性質によりSCP-4000-JPは理論上、名辞可能なあらゆる事物を支配下に置き無力化することが可能でした。
その異常性とSCP-4000-JPに紐づく称号は、"管理者"という名がかつて持っていた財団の最高意思決定権限を異常な形態で無制限に行使することを可能としました。これによりSCP-4000-JPは財団を厳格なトップダウン型の組織構造へと改変するとともに、その頂点に立つ人物が"管理者"こと自身であると再定義しました。
改変の影響は既知の全財団職員の意識下に対しても速やかに波及したと推測され、急激な変化に関するあらゆる違和感は財団内で表面化しませんでした。以上の経緯から、SCP-4000-JPにより財団は一切の対策を講じる暇なく即時に掌握され、長期間に渡って事実上の制御不全に陥っていたと考えられています。
図 3.1. 改変後の財団直轄地域の図示。その地域への影響力は███の順で強い。
補遺: SCP-4000-JPに掌握されて以後の出来事について、財団は前述した理由から全景を把握していません。その期間について推察するにあたり現状最も正確であると考えられている情報源は、協定Α19-4000-Fに基づきGoI-α-019("蛇の手")から財団へ提供された文書群です。
この文書群は過剰に装飾的な表現と客観性を欠く視点で構成されていました4が、協定の付帯条件のため、脚色や誤謬、偽情報が含まれている可能性を加味した上で大きな変更を加えずに当報告書へと引用・掲載されました。SCP-4000-JPにより発生した諸影響については[回収されたエントリー]を、財団機能の復旧に至るインシデントについては[文書4000-JP:2A]及び[文書4000-JP:2B]を閲覧してください。
当該文書群に依拠すると、SCP-4000-JPによる組織再編の目的は財団の異常存在に対する管理権限を最大化することにあったと思われます。財団は現時点で政府の管轄権を超えた活動を世界の主要各国において認められていますが、SCP-4000-JPが求めるイニシアチブは更に急進的なものであり、利害が競合する全ての要注意団体を殲滅・吸収・合併して、財団を異常に関して独占的な管理を行う世界で唯一の組織として位置付けることを至上命題としていました。
この試みはSCP-4000-JPの異常性により、開始から間もなくほぼ成功裏に達成されることとなったと記録されています(図 3.1)。有力な要注意団体がSCP-4000-JPの源理改変により武装解除されていった一方で、Q-HEARTSクラス源理改変へのオカルト的対抗知識の保有、及び組織の本拠を「放浪者の図書館」として知られる超常的な異次元空間に置いていたという要因から、当時蛇の手は財団に対する最後の大規模な抵抗勢力として活動を継続していました。
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財団の"管理者"
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概観
人の世には常に「看守Jailor」が居た。人知を超えた事物は世界を蝕む"異常"であると断じ、それらを牢に封じ込めて見張る者たちが。彼らはやがて「財団」と名乗り始めた。財団はいつだって鼻持ちならない仕切り屋ではあったが、それでも我々は彼らの存在を必要悪23として許容してきた。
だが潮目は変わった。"管理者"と呼ばれる者の台頭によって、看守たちは狂気に堕とされた。黙示録が示すような派手な世界の終わりはやってこない。文明の破局も、惑星の崩壊も無い。それでも大衆のあずかり知らない内に、暗闇の世界のにぎやかさは寒々しく清潔な無音に塗りつぶされつつある。
後に残されるのは、渦巻くように空気を囲う抑圧と、"財団"の名を掲げた看板だけだ。
知識
特徴: もっともよく知られる姿はスーツ姿のヨーロッパ系男性のものだが、"管理者"の外見は不定である。恐らくは肉の体を持たない存在だと考えられ、その称号が与えられた財団の者に憑依することを可能とする。たとえ体を破壊したとしても、新たに管理者へ任命された者の肉体を借りて復活することができる56。
現時点で"管理者"に現れる形質は、純粋な力の顕現であると見られている。全てを表す欠けることなき本質であり、万物が逃れることのできない最古の掟の1つ 「名」の力だ。特に知られる能力として"管理者"は他者の真名を奪うことができる。地球の裏側に逃れようと、ひとたび名前を知られてしまえば奴の力から免れることはできず、至近距離ならばその条件すらも必要ない7。
そして、"管理者"は命名によって万物を統御する。「名付け」という行為が、認知言語学では「世界の認識と規定」を、文化習俗上では叙任や偏諱授与などの「主従関係の証明」を意味することはよく知られる。それを自在に行う"管理者"の力が、相手の魂そのものを握るも同然の権能であることも我々は身をもって知っている。
"管理者"が与えた新たな名は、それが示す性質通りの運命をその者に及ぼすことができる。あたかも「先見の明を持つ者」を名にし負うプロメーテウスが、後に地上を征する人類へ神の火を与える役目を担ったように89。東洋における「名詮自性」と呼ばれる概念がこれを最も簡潔に表現する10。
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| 暴君死すべし!11 |
性質: "管理者"が最も危険な存在と見なされているのは、力よりもむしろこの性質に所以がある。
"管理者"は看守たちをより露悪的に戯画化したような振る舞いを見せる。異常を独占するために「確保」し、鉄檻の空きを埋めるために「収容」し、そして全てを支配下に置くために「保護」する、という形で。
"管理者"は多くの場合、己の力をこの3つの理念のために存分に振るう。敬意の込められた古き尊称を奪われた者は、「SCP-XXXX」という新たな名によって「SCP財団によって管理されるべき者」として貶められ、逆らうことを許されなくなった。今の世界は鎖で繋がれた哀れな神々の列で埋め尽くされている。
歴史と関連組織: 名の奪われし古き友がその正体であると考える者がいる。だが、"管理者"が外からでなく財団の内より招かれ出てたことをうかがわせる証拠は、彼らが長きに渡り続けていたあの忌まわしい「手続き」の存在が示している。
「Incōdex標準収容プロトコル」と呼ばれる例の手続きは、はるか昔、財団という名を掲げる前の看守たちが考案した一種の儀式にその起こりを求めることができる。神や悪魔といった恐れるべき"非科学"が持つ神秘性と、力と、個性を剥ぎ取るためのIncōdexプロトコルは、我らの苦難が始まったその日より世界の深遠さを駆逐しつつあった。
このエピソードが直接的に"管理者"の起源を示しているわけではない。しかし性質の項で示したような特徴的な振る舞いは、その力の源とIncōdexプロトコルの魔力との密接な繫がりを見出すのに十分な材料であるとの見解が現在最も広い共通認識となっている12。
接触: どのような形でも接触するべきではない。まず間違いなく名を奪われ、あなたは番号で管理される囚人へと成り下がる。"管理者"を打ち倒す方法が見出されていない現状では、我々から仕掛けられる策は何もない。
観察と物語
今や世界中のあらゆる神秘が沈黙している。世界オカルト連合の誇る邪怪兵器も、Are We Cool Yet?の奇怪な展覧会も、壊れた神の教会が組み上げたMEKHANEの現身も、ワンダーテインメント博士の驚異が生まれる工房も、全てが。現在はこの放浪者の図書館が残るのみだ1314。
先の大戦と違い、これは静かな戦争である。裏で幾千の不思議が虐殺されつつあっても、さざ波程度の変化でさえ表の社会には及んでいない かつての財団がそうであったように、"管理者"はヴェールの維持には細心の注意を配っているようだ。故に、無辜の人々が財団の守る光の中で健やかに過ごせるのであれば、我々のようなこの世ならざる者たちが闇で死に絶えたとしても良いのではないかと考える者もいる。
だが、彼らは"管理者"がそこで満足すると断言できるのだろうか? 私は財団が全てに君臨し統治する世界を知っている。全ての異常を制御することに成功したとき、かの世界のように全ての正常までもを制御し始めようとしないと、なぜ言い切れるのだろうか。現在まさにこの放浪者の図書館は、財団の狂気に侵されゆく世界において、自由な精神を守る最後の砦を担っているのだ。
私たちは"司書"に事態の深刻さを説き、財団の手にある利用証の全てを失効させるよう掛け合った。図書館に至る通路を点検し、それを遮る門をより堅牢に強化した。そうして外部が暗黒の時代に滑り落ちていく中でわずかな明かりを灯し、囲むことのできる安息の地をどうにか守り切った。世界を直すことも、それをさらに良いものにすることも、まだ出来る。
庭園は今も蛇の場所だ。"管理者"が覆い閉じ込めようとするなら、解き放つのは私たちだ。
— M. 放浪者の図書館にて
疑念
時間はそう残されていない。この文章で書かれた情報の集積は不完全なものであり、解決策を導き出すために頻繁に追記と改訂がなされるべきだ。我々はいま、あらゆる可能性を必要としている。
"管理者"の力が及ぶのが人だけじゃないと俺は確信しているよ。町を見渡せば最早S.C.P.の頭文字が眼につかない日は無い。馬鹿げてやがる。 — アリエス.
私は憂慮する。蛇の手は「名」が呪術においてどれほどの意味を持つのかを知っている だからこそ我々はイニシャルやニックネームを用いて様々を書き残してきた。だが、事が此処に至ってはそれすらも危うさを持つ。暫くここに書き込むことは無いだろう。 — [無記名]
名を書かぬ者よ、恐れないでください。たとえそれが全てを支配する"管理者"であっても、司書たちは自分たち以外に利用者名簿の改変を許しはしません。"放浪者の図書館"はその名に敬意を払われるだけの力を秘めているのです。 — 濛.
誰か、かの非ざる存在Neverwereが"管理者"の正体だと考察してた論文がどこに行ったか知りませんか?あれは十分に掲載する価値のある興味深さだと思うんです! — Jol/T.
すまない、Jol/T. 見当もつかないんだ。最近は看守たちの追手から逃れてきた避難民の受け入れと身元確認に忙しくてね。彼らにとってはこの図書館が広大かつ複雑なのは幸いなことなんだが。 — レイジング B.
蛇の巣はこの世の神秘が何もかも"Incōdexされる"まで黙って見てるつもりか?こういう時のために連中が俺たちのトップを務めてるんじゃないのか!? — F.C.
口を慎むべきだ。君は誤解しているが、巣に座す彼らは統制者ではなく私たちに助言を与える賢人たちだ。ゆるやかな集まりである手において誰かが上に立つことは無く、巣がその名において権力を振りかざすことも無い。 — L.角.
とはいえ、少なからざる人々がこの膠着した情勢における指針を欲しているのは確かだ。 — Sif.
なら、良ければ私の話に耳を傾けてください。損はさせないと思います。 — L.S.
"L.S."!本物!? 当代最高の魔法使いの一人が表に出てくるなんて! — ポルカ.
噂を囁かれるばかりの名高き伝説か。偽名とは思わないが、本人なのか? — C.X.
— —
まず私についての誤解を解いておきましょう。逸話が語るほど絶対的な存在ではないですし、蛇の手を操る影のリーダーではないのもご存じのとおりです。私はほんの少し魔術と時空間物理学が得意な秘密主義者に過ぎません。 — L.S.
— —
あのクソ魔女本人だってのは我が血脈の名誉を以って保証しよう。だがどういう風の吹き回しだい、L.S.よ。蛇の巣での一件から、あたしはまだ、アンタのことを椅子の脚で殴りつけるに値する奴だと思ってるんだけどね。 — Morríghan.
もちろん黙って指示に従えとは言いません。だがもし状況を打破する秘策を欲しているのなら 私には1つ、心当たりがあります。 — L.S.
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Thus grew the tale of Wanderers:
Thus slowly, one by one,
Its quaint events were hammered out—
むかしむかし、というほど大昔でもないお話です。あるところに1人の女の子が暮らしていました。……1人で、暮らしていました。というのも彼女は、数年前にお母さんを亡くしたのです。お母さんは元気いっぱいの娘を実に辛抱強く育てあげていましたが、長く患っていた糖尿病が不意にその心臓を止めてしまったのでした。
幸いなことに、そのせいでこの少女が生活に不自由することはありませんでした。お母さんの持っていた銀行口座には、毎月何万ドルかずつが"サンダーソン化学プラント"から端数なしに振り込まれるのです。理由はわかりません。お母さんを棺に納めてからも変わらずそのお金は振り込まれつづけ、今もきっちり0を横並びさせていました。
あまり仲良くない親戚の力を借りて七面倒な諸々を手続きしている間。彼女は、自分のお父さんのことを考えていました。
お父さんは、彼女が小さな頃に消えてしまいました ある日家を出たっきり、二度と帰ってこなかったのです。彼女はお父さんに"高い高い"をしてもらったり、チェスのルールを教わったことをまだ覚えていましたが、その記憶の輪郭はかなりおぼろげになってきていました。
お葬式の最中、彼女は暇があればこっそりと周りを見まわしていました。どこかでこのことを聞きつけたお父さんがひょっこりと顔を出しはしないかと思っていたのです。けれど、それらしき姿はついに現れませんでした。久しぶり過ぎてお互い顔が思い出せなかったのかも。そう考えましたが、あまり気休めにはなりませんでした。
しかたがないので、彼女は日常のあれこれ(数学の宿題だとか、ランチは中華にするかとか)のことだけを考えるようにつとめました。こういうわけで、そんな風に彼女は1人で暮らしていたのです。
退屈な日和
ある日のことです。彼女は教室の中で退屈を持て余していました。
何しろ暖かい日だったので、教科書の中でも挿し絵も無ければ会話もないページを眺めているだけの授業は、彼女の頭をぼんやりと眠たげにするのに十分なことです。
このまま残りの40分を過ごすつまらなさと、わざわざ適当な理由を付けて教室を抜け出す面倒さは、どちらが上になるかなと彼女が考えていると 突然に目の前の床を、つぶらな眼をした緑色の蛇が横切ったのです。
ぼんやりした頭だったので、彼女がおどろいて飛び上がることはありませんでした。それに彼女は変温動物の生態についてとっくに学んでいたので、この陽気でヘビやトカゲが活動的になることをさほど変な出来事とは思わなかったのです。むしろ不思議だったのは、教室中の誰もがその蛇に気づいていないことと、蛇がこちらに鎌首をもたげて喋り始めたことでした。
「やあ、見つけた。君だね。ついておいでよ」
蛇はそう言うと、鮮やかな緑の鱗をうねらしながらドアの隙間を器用に抜けて行きました。
彼女はしばらくあっけに取られていたのですが、やがて、どうもあんな蛇は見たことも聞いたことも無いぞと気が付きました。気が向くとお父さんの書斎に残された様々な本を開くことがあったので、ヒトの言葉を喋るヘビが生物図鑑のどこにも載っていないことを彼女は知っていたのです。
胸の中で急にむくむくと湧いてきた興味に、彼女は素直でした。蛇の誘いに乗って知恵の実を齧ってみることにしたのです。幸いにこの教室はエデンの園ほど魅力的な場所ではなかったので、出ていくことに心残りはまったくありませんでした。
緑色の蛇
彼女が立ち上がって追いかけると、ちょうど少し学校を出たあたりにある林の木陰で、あの蛇がとぐろをまいて待っていました。
駆け寄ってくる彼女を見ると、蛇は懐中時計を尻尾の先に引っ掛けるようにしてどこからともなく"持ち上げ"、時間を確認して微笑みました(ヘビに頬は無いはずですが、彼女には確かにそう見えました)。
「よし。君がちゃんと来てくれたおかげで遅刻しなさそうだ、ありがとう」
「驚き。やっぱり喋ってる」彼女の頭からはもう眠気は吹き飛んでいました。「あなたの生息地はどこ?学名はなんて言うの?」
正直なところ彼女は、物知りのようで格好がつくかなと思ってセーソクチだのガクメイだのと言ってみただけだったのですが、蛇は生真面目に「Elaphe climacophora、日本固有種のアオダイショウ」と答えてくれました。
蛇が続けて「毒は無いから安心して近づいてくれていい」と言ったので、彼女はその言葉に甘えてもう少し近いところに座りました。当たり前ですが、ヘビ自身に毒性の有無を説明されるのは初めての経験でした。
「それで、蛇さんが何の用?ついてこいって言ったのには訳があるんでしょ」
「私はただの使い走りだよ、L.S.のね。君の助けが必要なんだ」
へえ。LとSが頭にくる言葉で彼女が最初に思いついたのはロー・スクール(Law School)でしたが、浮かんできたイメージは見習い弁護士たちが法律書の隣でアオダイショウを育てているというおかしな光景だけでした。
「そのエルエスって 」
その時、木漏れ日が急に遮られたのです。彼女が言葉を止めて見上げると、目の前には灰色のジャケットを着た男性が立っていました。男は少し屈み込んで「ねえ、君はここで何してるのかな?」と話しかけてきました。学校を抜け出したことが知れるとまずいので、彼女は曖昧に返しました。
「そうかい。おじさんはスーパーキュート・ペット社の仕事でね、飼い主から逃げ出した動物を探してるんだよ。緑色のヘビなんだけど」
ヘビ。その言葉で隣を見てみましたが、あの蛇はいつの間にか姿を消しています。「見たのかな」そう言いながら、ジャケットの男はじっとこちらを見つめていました。
その瞳は、全く曇りのないレンズのように見えます。けれどレンズの焦点は、目の前の自分ではなく、もっとどこか遠くの方に合わせられていました。ルーペや顕微鏡で覗きこまれ観察されているような。例えるなら、そんな居心地の悪い気分でした。
彼女が「見なかった」と答えたのは、嘘をつくつもりでもなんでもなく、とにかく早く会話を終わらせたかったからでした。その答えに、ジャケットの男は「ふーん」と言って「じゃあ、何かおかしなことは無かった?」と続けて尋ねました。彼女が黙って首を横に振ると、男はまた「ふーん」と言って屈んでいた体勢を元に戻しました。
「もし見かけたら教えに来てね。おじさんはまだこのあたりを見回ってるから」
ジャケットの男が歩き去っていったとき、はぁと彼女は息を漏らしました。それだけ、なぜかあの男性の前に居ると息苦しかったのです。すると「危ないところだった」という声が聞こえました。あの蛇のものでした。彼女がもう一度隣を見ると、蛇はずっとそこに居たかのように、またそこに居ました。
「彼らの本当の名前は"財団"と言う。私のような者を閉じ込める仕事をしているんだ」
蛇はそう語りましたが、彼女にはよくわかりませんでした。確かにアマゾン出身のまだら模様の大蛇なんかであれば水槽の中でおとなしくしてもらった方がいいかもしれませんが、目の前の蛇はそうではありません。
「あなたに毒は無いんでしょ?しかも話の分かるヘビなんだから」
「財団の方が話を聞かないんだ。昔は会話の席につくこともできたらしいが、今は誰もかれも同じ目をしている。こちらを血の通った生き物だとも思っていない目だ」
彼女は「うーん、まあ、そんな感じするかも」と言ってジャケットの男のことを思いました。あのレンズのような気味悪い瞳。それをよく思い返すために左上の空間あたりを見つめ……ようとした彼女の視界に、こちらに走ってくるジャケットの男の姿が映りました。男は何人かのスーツ姿の同僚を連れていて、彼らの視線は全員、隣の蛇に向かっていました。
思わず、彼女は蛇を抱えて林の奥の方へ走り出しました。
「なぜ抱えられたんだ?」と蛇が尋ねてきましたが、走っている最中だったので彼女は息を切らしながら「ダメだった?」と返すことしかできませんでした。ジャケットの男たちはほんの数秒だけ見えなくなりましたが、完全には振り切れなかったようで、すぐに追いすがってきています。
穴
「いや、良い判断だって言いたかったんだ。ここからは答えなくていいから、私の案内で動いてくれ」蛇の言葉に彼女は頷き、道案内に従って走りました。
泥の道を進み
曲がって進み
その終点には茂みが見えてきました。「茂みの下には穴がある」という蛇の言う通り、そこにはヘビの巣穴のようなものがあります。直径は小さいですがずいぶんと深いようで底は見えず、古い井戸のような不気味な雰囲気すらありました。
「そこに飛び込むんだ。遠い目的地だろうと"道Way"が君を運んでくれる」
つまりはワーム・ホールのことだな、と彼女は考えました。これもやはり、お父さんの書斎にあった物理学の本に書いてあったことです。彼女は小難しい説明の大半を読み飛ばしていましたが、図解付きのその言葉だけは記憶に残っていました。『何枚もの本のページを貫く虫食いのように、異なる時空を繋ぐ奇妙な穴です。』
そのころにはもうジャケットの男たちの足音が聞こえてきていたので、彼女は勇気を出して穴に向かってジャンプしました。飛び込んだ穴は見た目に反して引っかかる所がなく、彼女をつるりと呑み込みます。穴はどんどんと急な下り坂になって、やがて大きな吹き抜けをまっすぐ落ちていくような格好になりました。
どこまでも。
どこまでも。
落ちていく。
縦穴の中は真っ暗でしたが、不思議と周りを見ることができました。足元だけは何も見えないけれども……それが暗いからではなく、穴の底がもっと深いところにあるからだということは分かります。つまり、彼女は穴の中でまだ落ち続けているのです。
穴の底へと
「財団にこの"道"の通り方ノックは解せない。逃げ切れた、と考えていいだろう」
と言いながら、蛇は空中を泳ぐようにして彼女の側に近寄ってきました。NASAの訓練と同じだ、と彼女は思いました。例によってお父さんの本のおかげで。
ジェットコースターで落ちている時にふわっと浮き上がる感覚があるのと同じで、飛行機で急降下すると機内が無重力状態になるのです。この穴を落ちていく彼女と蛇が宙に浮いているのも、理屈は同じなのでしょう。
そんなことを考えていたからか、彼女は壁の壁面に書斎にあった宇宙工学の本が見えた気がしました。 いえ、それは見間違いでは無かったのです。ぎっしり並んだ本棚。留め金に掛かった地図や絵。そのどれもに見覚えがありました。通りがかった食器棚らしきところには、お母さんが何より好きだった杏ジャムのビンすらも置いてありました。
……誰かが食べてしまったのか、ほとんど中身は空っぽでしたが。
「"道"は形而下の実存ではないために通る者の深層心理が……つまりこの場合、君の思い出が反映されることもあるんだ」
思い出ねぇ。彼女は周りのあれこれを眺めながら、久しぶりにお母さん、そしてお父さんのことをゆっくり想いました。 そして「あっ」と声を上げました。これまた久しぶりに、昔お父さんに言いつけられたルールを思い出したのです。それは〈両親に正直であれ〉そして〈他人に礼儀正しくあれ〉の2つでした。
「うっかりしてた、出身地より先にあなたの名前を訊くべきだったや」
「おや、ご丁重にどうも。さっき言った通り私はアオダイショウで、個体名としては"ショウ"と呼ばれているよ」ショウは尻尾の先を彼女の指に軽く巻き付け、握手の代わりとしました。「せっかくだから、こちらも君の名前を訊こうかな」
「私はアリソン、アリソン・チャオ!」
彼女 アリソンは、そうやって元気いっぱいに自分の名前を名乗ったのです。それこそが、ここからアリソンが巻き込まれていく不思議なお話の始まりなのでした。
地球をまっすぐ突き抜けるくらいに思えた長い落下。それがだしぬけに終わったかと思うと、どさ。どささぁ、という音とともにアリソンは明るい空間へ放り出されました。幸いにケガひとつ無くひょいと跳び起きてみると、自分たちが棒切れやら枯れ葉やらの山に埋もれていることが分かります。
その棒切れと枯れ葉は、目で辿れば1枚の古めかしい扉から雪崩れるように吐き出されていました。"1枚"と言ったのは、それが壁にくっついておらず扉単体でこの場所に立っていたからでした。にもかかわらず、扉はアリソンたちが今まさに落ちてきた穴の底と繋がっているようなのです。
わお、やっぱりこれがワーム・ホール。アリソンが感心していると、扉はバタム!とひとりでに閉まってパッとかき消えてしまいました。金属のドアノブだけがまだ扉の名残りとしてありましたが、それもしばらくかけてじんわりと空気に薄れていきました。全くおかしなことばっかりでしたが、アリソンの旺盛な好奇心にとってはむしろそれが愉快でした。
「無事に辿りつけたね、図書館に」
ようやく枯れ葉の中から這い出してきたショウの言葉で、アリソンは初めてここがどういう場所か分かりました。もちろん、言われる前にもちゃんと周りを見回してはいたのですが、上手く知識と景色を結びつけることができていなかったのです。どうにもこの場所は、アリソンが知る図書館とはかなり違うところがあります。
というより、まったくかけ離れていました。だって……あまりにも広すぎて!
本棚を見上げる
「ようこそ。知と蛇鱗の聖域、唯一にして真なる"放浪者の図書館"へ」
ショウが述べた歓迎の言葉をよそに、アリソンは立ち並ぶ無数の本棚に目を奪われていました。言葉にするなら、それは凝り固まった頭を心地よくかき回す混沌です。内容も著者も出版年も言語も実にバラバラな書物たちが、状態や装丁や寸法を気にすることなく棚々に押し込まれ、目の前で共存していました。
聞きなじみのないタイトルたち 『創約 とある数理の揣摩憶測コンジェクチャー(14)』『ブラックウッド卿と不死人の墓所』『完訳 天寰宇志』『はむすたー と、くすりつくる と しほんしゅぎ』などなど がアリソンの目を惹きます。彼女がその1つを手に取ろうとした時、ドタッドゴッという鈍い音が辺りに響きました。
見ると、少し離れた場所で本を眺めていたやけに青い肌の女性が、奇妙な人影によって床に押さえつけられているところでした。その人影はなんとなく粘土の彫像のような質感で、左手に真鍮のランタンをぶら下げていました。青肌の女性は口汚く叫んでいましたが、人影は何も言い返しませんでした。
それも当然で、その顔には口らしき器官が見当たらなかったのです。
「あれはこの図書館の"司書"の1種だね」ショウの口ぶりは役職の説明というより、この場所に固有の生物について解説するようでした。「あれらはここの案内人で、ルールの番人でもある」
「この図書館のルール?どんなのがあるの?」
「ごく基本的なことだ。蔵書を傷つけず、盗まず、時間内に返却すること。そして、図書館とその利用者に危害を加えないこと。……あの女性は急に本を殴りつけたみたいだ」
喚きながら司書に引きずられていく女性は、それでもなお床に落ちた本に向かって拳を振り上げていました。『あなたがサメを殴るべき100の たった1つの理由』と題されたその書物には、明らかに三日月型の背びれがついており、見間違いでなければ元あった隙間に自分で"泳いで"戻ったように見えました。
「図書館巡りは先の楽しみにしておこう。L.S.に会わせた時、君の頭が本に食いつかれてたら一大事だ」
この子もヒト(たぶん)
ショウが書棚の狭間へ這って行くのを見て、アリソンは慌ててその後を追いかけました。
放浪者の図書館をさらに分け入るにつれ、ここが知っている世界の外にあることがよりはっきりしてきます。その理由の1つは、図書館に並んだ書物に負けず劣らずの風変わりな利用者たちでした。
何しろ「普通のヒト」に見える者はアリソンを除けばひと握り程度しかいないのです。そのうちの1人でさえも本を落とした拍子に首を3フィートも伸ばし始めたので、アリソンは目を丸くするばかりでした。
シルクハットを被った大きなアリ、尻尾の生えたカーペット、宙に浮く泡の塊、顔が満ち欠けする修道女……そうした恐ろしげにも見える存在が本を抱えて最寄りの席に向かったり、抑えた声で学術的な議論を交わしたり、と図書館らしく過ごしているのは、アリソンにとって面白い不可思議に思えました。
そうした風景を失礼にならない程度にじろじろと眺めていると、アリソンは彼らの多くに1つの共通点があることにも気が付き始めました。皆一様に元気がなく、傷つき、落ち込み、疲れ果てているのです。
「それは彼らが"異常"だからだ」アリソンの疑問にはショウが答えました。「財団によって排除すべき異常と見なされたために、命からがら図書館に逃げ延びてきたんだ。ここの他に安全な避難先なんてもう無いからね」
「また財団?ここの皆もそんなに危険には見えないけど、何か財団に追いかけられる理由があるの?」
「昔なら説明してくれたかもしれない。だが、今の財団は"そうあるべきだ"という思想で動いているだけだ。"管理者"という狂った男のね」
"管理者"。その名前が出ただけで、周りの人々が少し身じろいだようにアリソンには思えました。驚きや苛立ちなどその反応はさまざまであるようでしたが、その奥底に共通している感情は「恐れ」であるようでした。
「そんなに怖いヤツなの、"管理者"って」アリソンがささやき声で尋ねると「怖くて偉くて悪いヤツさ」とショウは答えました。「ここ以外の場所はすぐに踏み込まれて何もかも靴のシミにされた」
「ひゃ〜こわ……じゃあショウも皆も、ずっとこの図書館に閉じこもってるしかないってこと?」
ショウは頷きかけて 「いや、秘策があるんだった」と呟きました。
「私には何なのか分からないが、L.S.には"管理者"を倒す秘策があって、そのために君を呼び寄せたらしい」
またエル・エス。アリソンはさっき灰色ジャケットの男に中断されたLとSの謎についてもう一度考え始めましたが、やはりそれらしい答えは浮かんできませんでした。ショウを使い走りにするくらいですから、まさかアオダイショウよりも小さなヘビ(Little Snake)ということはないでしょうが。
ついにアリソンは予想ゲームを降参してショウにL.S.のことを尋ねましたが、正解は得られませんでした。聞く限りではどうも人の名前らしいのですが、引き出せた答えは「どんな人なのか詳しくは知らないし、名前が何の略なのかも分からない」という頼りないものだけでした。
「だが、凄くて強くて賢いヤツらしい。私と仲間たちが協力しているのも、L.S.の秘策なら"管理者"を倒せると皆が信じているからだ」
そんな話をしながら、見た目を欺く広さのホールを抜け、今どう歩いてきたか忘れるほど行ったり来たりしているうちに、2人が辿り着いたのはとある黒い扉でした。「もう一回私を抱えてくれるかい」と頼まれたので、アリソンはショウの体を持ち上げて扉に近づけました。
秘密の階段
ショウがドアノッカーを咥え、コンコン、コンというリズムで扉に三度打ち付けると、向こう側からは問いが投げかけられてきます。
「"何故に蛇には腕が無い?"」
「"限りの無しに手を伸ばすため"」
「"では、何故に蛇には歯牙がある?"」
「"賢き頭のすぐ側で、鋭きで敵を除くため"」
ショウが節を付けて唱えた合い言葉に間違いは無かったようで、扉は開かれました。そこには1人の女性がいて、アリソンの顔を見るなり「うまく事が運んだようね!」と笑みを漏らしました。
少々の驚きが混じって見開かれたその瞳の輝きは、むしろ見つめ返すアリソンの方をどぎまぎさせました。彼女の眼には言い難い衝動を掻き立てる何かがあるようでした。
「ありがと、ショウ。ジェネラル・アオの推薦は間違ってなかった」
「ご期待に沿えたならば幸いだ。では」
そう言ってショウはスぅと姿を消そうとして アリソンが寂しげな顔をしていることに気が付くと、「大丈夫。悪いことはされないさ、きっとね」と優しく語りかけました。そして自己紹介の時のように指に軽く巻き付いてきた尻尾を、今度はアリソンも握り返すことで、2人は彼らなりの固い別れの握手を交わしたのでした。
「じゃあ改めて」ショウが去った後、不思議な瞳の女性はその余韻を台無しにしない程度の間を置いてアリソンに話しかけました。「よく来てくれたね、アリソン。待ってたんだから」
「と言うことは、あなたがL.S.なの?」
「え?ああ、違う違う。私はメレディス。L.S.の……部下?友人?信奉者?まあそんなところだよ」
うげ、まだもったいぶるのか。そんな気持ちがアリソンの顔に出ていたのか、メレディスはまた魅力的な笑顔を作って「安心して!彼女にはすぐに会えるから」と言いながらアリソンを部屋の中に案内しました。中は暖炉を囲むような談話室となっていて、炎が椅子に座った1人の影を揺らめかしていました。
そして、その影はアリソンに振り返りました。
"L.S."
「やっほー、お望みのチャオちゃんが届いたよ、L.S.」
アリソンはその姿をよく見ようと目を凝らしましたが、すぐにがっかりすることになりました。
というのも、L.S.と呼ばれた人物は真っ黒なローブで全身を隠していましたし、唯一出るはずの顔さえも白い仮面で覆っていたのです。
それでもメレディスが"彼女"と言っていたことと、体格や体つきからL.S.が女性であることは辛うじて分かりました。L.S.はメレディスに手招きし、「では、招集の準備を」とだけ短く伝えました。仮面越しで声はこもっていましたが、やはり女性の声でした。
「了解。じゃあ後は2人でごゆっくり〜」
そう言ってメレディスが出ていくと、当然ながら部屋には向かい合って座るアリソンとL.S.だけが残されます。
笑っているようにも怒っているようにも見えるL.S.の仮面を見ていると、アリソンは今更ではありますがなんだか恐ろしくなってきました。昔お父さんから読み聞かせてもらった話(なぜか怖いものばかりでした)を思い出したからです。
それは若者を車でひき殺せば寿命が延びると信じる老人たちの話で、無理やり道路を横断する子供を彼らは常に狙っているというのです。……今にして思えば"交通ルールを守りなさい"という教訓的なメッセージが込められていそうですが、ついアリソンは考えてしまいます 「もし目の前のL.S.も、そんなことを企んでいたら?」
「分からないのは不安でしょう、アリソン」その心を見透かしたように、L.S.は気詰まりな沈黙を破りました。「聞きたいことには答えるつもりです。呼びつけた側にとってはそれが最低限の礼儀というものですから」
おや、どうしよう。アリソンは急に与えられたチャンスに悩みました。「何で顔を隠してるの?」「なんで私を呼んだの?」「そもそもあなたは誰なの?」などいろいろな質問が浮かんできた中で、混乱していたのでしょうか。真っ先に口をついて出たのは引き出しの一番手前にあった疑問でした。
「あの……L.S.って名前はどういう意味なんですか?」
L.S.は仮面越しでも分かるくらいきょとんとしたかと思うと、小さく笑い声を漏らしました。そして「いいでしょう。私の秘密を教えてあげます」と言って、奇妙な名の由来を語り始めたのです。
「偉大な独裁者ビッグブラザーに対抗する小さな反逆者リトルシスター。あるいはLost Sinner……Last Saint……Loki Scar-Lip……人々は私の署名から様々なものを連想するようですが、1つ大きな見落としがあります。頭文字にLとSが来るという勘違いです」
「もしかして、イニシャルじゃないの?」
「ええ。切っ掛けはちょっとした悪知恵です。大昔、ある神に永遠の時アイオーン(aiōn)を捧げなければならなくなった時、私のファーストネームからAとIとOとNを取り去ることで代償をごまかしたのですよ」
そう言いながら、L.S.はゆっくりとローブのフードを取りました。その拍子にこぼれ落ちた長い黒髪が垂れかかるのを払いながら、更に彼女は被っていた白い仮面を外しました。ここまで焦らされたのだからもうよっぽどのことがなきゃ驚かないと思っていたのですが、明らかになったL.S.の素顔は、アリソンの目を見開かせるのに十分でした。
彼女の顔は、アリソンにそっくりだったのです。
「お分かりですね、LとSにAIONを補えばALISON。それが私の本名"アリソン・チャオ"です」
アリソンは つまり今までこの物語で「アリソン」と呼んできた方のアリソンは 明らかになったL.S.の姿をもう一度まじまじと眺めました。やはり、自分と目の前の女性はそっくりです。L.S.の方はかなり大人びた顔つきで、体もアリソンと比べてかなり成長していましたが、それらを抜きにすれば鏡を見ているかのようでした。
「あなたの家にも父親の書斎がありましたか?そこにあった書籍を覗いてみたことは?」
「パパの本?もちろんいろいろ読んだけど」
「であれば、"多元宇宙論"という言葉も理解できるでしょう。私は異なる世界から来たあなた自身です。タイムラインのわずかなズレこそありますけれどね」
暖炉
L.S.が人差し指を立てて一振りすると、不意に暖炉の火が緑色に変わって燃え上がり始めました。
「炎色反応と冶金の魔術の組み合わせですよ」と彼女は解説しました。「私には手慣れたトリックですが、あなたには馴染みが無いはずです」
もちろんアリソンに魔法は使えません。年齢だけでなく、どこでどうやって放浪者の図書館へ案内されたのか、いつ誰に魔法を学ぶ切っ掛けがあったのか……恐らくそういった2人に存在するいくつかの差異が、彼女の言うタイムラインのズレなのでしょう。
「蛇の手 私の仲間たちが必要な知識を広めることを使命としているのは、真に守るべき秘密とは何かを理解しているからです」とL.S.は続けました。「私の見解では、秘密は身を守る助けにもなります」
「だからあなたは正体を隠してるの?」
「ええ。嘘を吐くのと情報を隠すのは全く意味合いが異なりますから。自分にとって都合の悪いものを封じ込め、存在しないかのように世界を騙すのは愚かなことですが、かといって個人の全てを白日にさらす必要はありません」
「ああ、プライバシーの権利ってやつね」
「その通りです。ショウは私と直接会ったことはありませんし、メレディスのような近しい者ですら私の名のことは知りません。あなたもこの秘密を口外しないようにお願いします」
アリソンは「うん」と頷いて……少し困ったことに気が付きました。自分と同姓同名で(たぶん少し年上の)同一人物のことを呼ぶなら、どんな名前を使うべきでしょうか?L.S.と自分はある意味では姉妹のような関係ですから、「お姉ちゃん」とでも呼べば失礼にあたらないのでしょうか。
そう尋ねると、彼女は「L.S.で構いませんよ」と言ってまた笑いました。アリソンにとって、2人が同じ"アリソン・チャオ"なのだと本当の意味で納得できたのはその微笑みを見た時だったかもしれません。仮面を付けていた時は分かりませんでしたが、彼女の笑顔にお母さんの面影を見つけることができたのです。
もしかすると、L.S.も自分を見てそう思うのかも。
「さて。これで信用してもらえましたか、アリソン?私はあなたを傷つけるつもりはありませんし、誰にも傷つけはさせません」
「それは分かったんだけど……結局なんで私が呼ばれたの?"管理者"を倒す秘策に必要だとは聞いたけど、何かの間違いじゃないかな」
「間違いでも手違いでもありません。ただ図書館を見せびらかすために私があなたを呼んだとでもお思いですか?」L.S.は椅子から立ち上がり、アリソンに向かって手を差し伸べました。
「行きましょうアリソン。あなたの助けがあれば、この世界を救えます」
「 以上が、GoI-α-019に関する最新の諜報成果です」
秘書官はそう報告を締めくくりました。財団サイト-001の薄暗い執務室の中、目の前のデスクに掛けたスーツの男は、それを聞いて小さく溜息を洩らします。
「蛇は最後の卵にその身を巻き付けたままか。ご苦労なことだ」
「一時的に未確保アノマリーの追跡体制を縮小した結果、GoI-α-019の対応リソースは内向きに発揮され始めました。早々に基底次元との接続を断たなかったのは、予想通り図書館内に難民キャンプが構築されているためのようです」
「図書館の大蛇は慢心しているのだろう。蛇の手はまだ逆転の目があると思っているのだろう」暗がりの中に座る男は笑みを見せました。獲物を前に牙を剥きだすかのように。「庭園は不可侵ではないというのに」
「しかしこちらもSig-3潜入部隊が図書館から放逐されています。奴らの領域が所詮外次元であることも考慮すれば、これ以上の深追いは不要なのでは?」
「それは『手を出せない』ことを『手を出さなくても問題ない』と思い込もうとしているだけだ。かつての財団はその妥協を調和と言い換え、取りうる最善手を見送ってきた。封じ込めるべき"異常"は無数に存在したというのに、だ」
「ですが、それらは必ずしも正常性を毀損するものではありませんでした」秘書官は口を挟みました。「私には、なぜあなた様が完全な制御に固執するのかが分かりません」
言葉は秘書官の体をわずかに震わせました。その疑念は、かつて彼が抱いていた信念や善性のわずかに残った抵抗だったのかもしれません。
「『なぜ』?私の命令に従う理由が必要か?」
しかし。返ってきた静かな一声は一瞬でその抵抗を忘却させ、「自分はなぜ意味のない疑念を差し挟んだのだろうか」という戸惑いに均してしまいました。とうの昔に目の前の存在が己の正義を全て塗り替えてしまったという事実も、彼は思い出せないままでした。
「人類はこれまでにおよそ25万年もの歴史を歩んできた。しかしその歴史のうち特筆すべきは僅かこの4000年に過ぎない」
その存在は、実に財団職員らしく振舞っていました。スーツを着て、デスクに座り、書類にサインし、秘書官からの報告を聞き、適切な指示を下し、下部職員に対して演説をしてみせました。
「獣のごとき人間性をルールによって抑圧し、叡智の歩みによって未知を征服し、暗闇に生きるものどもから生存圏を奪い取る……それこそが4000年に渡って我々が行ってきたことだ。財団は文明そのものの導き手にさえなれた。だが、そうしなかった」
ですがその存在は、1つの称号から生まれた怪物でした。財団を象徴するその称号が、いつしか組織の歪んだ鏡像に怪物としての名を与えてしまったのです。
「正すべき過ちはずっと目の前に提示されていた。財団は完全な制御を確立すべきだったのだ。光の中に生きる人々を守る最善手はたった1つ 暗闇を、一片の陰りも許さないほどに封じ込めることだ」
そして。己の名にそうあれかしと願われるままに、怪物は財団の頂点に君臨していました。
「私は財団を管理し、異常を管理し、世界を管理する。我が名は"管理者"であるが故に」
END="DOC-4000-JP_2A"
.
.
REQUEST="DOC-4000-JP_2B"
…
…
…
[ACCESS: GRANTED]
図書館で本を借りるなら、ふつう利用者としての身分証明が必要です。放浪者の図書館は他にないユニークな場所でしたが、その点についてはありふれた仕組みを採用してもいました。つまりは「図書館カード」です。
「とはいえ、借り出しだけがカードの能力ではありません」
司書カウンター横の椅子で、仮面姿のL.S.はアリソンにそう語りかけました。手の中にある順番札の番号「3=log28」は、"司書"に呼び出されるまでにもう少し時間がかかることを示しているのでしょう。多分。
「図書館カードには持ち主の真名が記されています。『ルンペルシュティルツヒェンの原理』が示す通り、真名は本人の魂とイコールで結ばれた象徴です。図書館側にも複製が保管されるので、彼らがその気になればカードの持ち主をほとんど好き放題にもできるでしょう」
「そんなリスクがあるのに、できることは本を借りるだけ?つり合いとれてないよ」
「"だけではない"と言ったはずですよ。放浪者の図書館に真名を預けることには十分なメリットがあります。図書館で順守すべきルールは既に聞いていますね?」
アリソンはショウに聞いたことを思い出しました。ええと、『蔵書を傷つけず、盗まず、時間内に返却すること。そして、図書館とその利用者に危害を加えないこと』だったっけ。
「カードを持つことは一種の契約であり、図書館に己の生死を委ねる代わりにそのルールに則った魔法の加護を受けられるのです。持ち主は古の魔力によって様々な危害から守られます 図書館に留まる限りは、"管理者"の力からも」
その瞬間、アリソンの心臓は口から飛び出たかと思うほど飛び跳ねました。"管理者"という名前が出たからではなく、急に頭の中で名状し難き声が響きわたったからです。
『3=log28番ノ方、めいんほーる・ですくマデ来ルヨウニ』
カウンター
アリソンがこころもち小走りに呼び出された場所へ向かうと、やはり"司書"がそこに座っていました。
ただし先ほどの口が無かったやつとは違う種類なのか、目に当たる部分を包帯のような布で覆っています。こちらのことは問題なく見えているようで、司書は『ドウゾ』と机の上を滑らせるように伸ばした手をかざしました。
すると、気づけば持っていた順番札はどこかへ消え、代わりに真鍮色の装飾と縁取りが施された緑色のカードがアリソンの手のひらに乗っていたのです。
「それこそが図書館カードです」下がっていった司書を横目に、L.S.が囁きました。「真名の重要性は説明しましたね。決して紛失しないよう取り扱ってください」
先ほど説明されたリスクを除けば……ええ、確かにカードは素晴らしいものでした。金属板のような重みがありつつも、感触は吸い付くように肌に馴染みます。ぎゅっと握りしめてみると、周りの音が一瞬消えて遠ざかりました。まるで、見えない壁がアリソンを囲って守るように。
「これは魔法の世界における身分証明証でもあり、魔術師見習いにとっては仮のライセンスと言えます。シンプルな魔法であれば、適切な呪文とともに対象にカードを突き付けながら……今試すのはやめてくださいね」
アリソンは天高く掲げていた図書館カードをしぶしぶ下ろしました。残念。試してみたい呪文がいくつもあったのに ビビディ・バビディ・ブーとか、エッペ・ペッペ・カッケとか、オー・シシャヨヨミガエリ・タマエとか。
「後ほど初級から教えてあげますから」という言葉に頷きながらカードをポケットに仕舞っていると、肩をポンポンと叩かれる感触がありました。アリソンが振り返ると、後ろに居たのはメレディス。あの不思議な瞳を持ったL.S.の友人です。
「皆はもう集まったよ。そっちも準備が整ったタイミングかな?」
「ええ、丁度」L.S.が答えました。「では共に向かうとしましょう、蛇たちの会議に」
辿り着いた会議場は案外狭くて、せいぜいが10平方フィートくらいの広さしかありそうに見えませんでした。それを踏まえると本当に不思議なことではあるのですが、アリソンが何度数えても部屋の中には7人ほどで固まったグループが12個以上あって、しかも全くもって窮屈そうではありませんでした。
広げられていた旗
ただ、まあ。寸法を変えずに人数に合わせて拡張する騙し絵のような部屋なんて、大して驚くようなことでもないかもしれません。その中で待っていた会議への出席者たちの方が、よっぽど不思議の世界の住人だったからです。
小さなドラゴンが居ました。血まみれの亡霊が居ました。しかし携帯をいじっている普通の男の子も居ました。
額にEMETHの文字が刻まれたゴーレムが居て、スターウォーズに出てくるようなロボットも居ました。ホログラフィック映像のアニメキャラすらも居ました。和服を着た女性の横にはショウが居て、こちらに気づいて尻尾を振っていました。
全く違う彼らが、真ん中に緑の旗が広げられた1つの円卓を囲んでいたのです。旗には"蛇の手"(THE SERPENT'S HAND)という名が記されていました。
「遅かったね、L.S.」
口を開いたのは、その中でもとんがり帽子を頭に乗せたネコです。M.という文字を象った飾りの輝きが、真夜中のように暗い色の毛並みと帽子に映えていました。集まった人々が少しざわめいたので、L.S.があまり人前に姿を現さないってのはホントの話なんだなとアリソンは思いました。
「ようこそ蛇の同胞よ。私は 」
「失敬!」L.S.の言葉を遮るように、グループの1つから男性が立ち上がりました。顔には多頭の蛇のタトゥーをしていました。「高名なる黒の魔女よ、ギリシアのヒュドラ―よりご挨拶を申し上げる」
「時間は有限だ。社交辞令は省略してまずは貴殿の秘策とやらについて詳細を伺いたい。先日もレオニディオにあった森精霊アルセイデスの里が丸ごとIncōdexされたばかりだ。状況は切迫している」
「もちろんすぐにでも動いて頂きます。ただ、秘策の中核についてはまだ明かせません。標的はあの"管理者"……ひいては財団です。事は慎重かつ極秘に運ばれる必要があります」
L.S.の説明にまた人々はざわめきました 今度は困惑と苛立ちの声が混じっていました。
「明かしてもらわなければ困るんだよ」帽子をかぶった猫はあからさまに溜息をつきます。「ここに集まったのは決死作戦への志願者たちだ、当然指示には従うさ。だが何の勝算もなく命はかけられない」
同意の声が上がりました。メレディスは眉を寄せながらL.S.に「もう教えてもよくない?」と囁きましたが、彼女自身も秘策の詳細を知りたくてうずうずしているような態度にも見えました。もしかするとわざわざ図書館に辿り着くような知りたがりでなければ"蛇の手"には入れないのかもしれません。
L.S.はそれでも沈黙を守ります。会議場にはたちまち不信と議論の竜巻が渦を成しました。
「 秘密主義も大概にしろ!あんたは蛇の手を第二の看守にしたいのか」「待ちなよ。神秘性が力になるのは隠秘学オカルトの基礎だろう 」「どんな魔法もIncōdexされうる今の世界でか?その程度のことも考慮に 」「そう言って真正面から突っ込んでった焚書者共でさえ失敗したんじゃないか」「 気に食わないがこのやり方も一理はあると思うね。毒を以て毒を制すだ」「冗談じゃない。ただでさえ連中のIncōdexは息が詰まるってのにこれ以上看守流の 」
「あのーすいません!」アリソンは手を挙げ声を張り上げました。小難しい議論を遮る子供の言葉に視線が集まりましたが、流石にこう何回も謎の単語が出てくると、彼女の性分では質問せずにはいられませんでした。
「"Incōdex"って何なの?」
「……簡単に言えば、Incōdexとはおとぎ話の首をちょん切るためのメソッドだよ」
「"Incōdex標準収容プロトコル"。この科学の小刀で看守は神秘を切り刻んできた」
少し困惑しつつも帽子の猫が語り出し、刺青の男がそれに続きました。知りたがりの蛇の手たちは、その実のところ案外教えたがりでもあるようでした。先ほどまで議論していた人々が口々に語り出します 吟遊詩人かのように、滑らかに。
「多くの人は理解できないものを恐レル。人類がまだ洞窟の中で身を寄せ合っテいタ時、暗闇に潜む得体の知レないものには名前が無かっタ。私タチのような一部の者だけが、畏怖しツツも共存のタめの橋渡しを担っテいタ」
「だから看守の祖は神秘の存在わからないものを恐れずに済む方法を編み出したのだ。神、悪魔、妖精、怪物……そうした存在から権威と物語を剥ぎ取るための儀式をね」
「彼らは我を竜とは呼ばない」小さなドラゴンが言いました。「"爬虫類に似た未知の種"と呼ぶ。神話の怪物ではなく、あくまで生物の一種だと」
「彼らは私を幽霊とは呼ばない」血まみれの亡霊が言いました。「"タイプ4G霊的存在"と呼ぶ。あくまで類型にあてはまる実体でしかないのだと」
「やがて時代が下るにつれ、その意味も重要性も次第に忘れ去られる 決まりは緩やかに破られ始め、規範からの逸脱は幾分か許容されるようになる」
「けどIncōdexの名と処理手順は残った。それが古き儀式であったことも忘れ去られた現代にあっても、なお継承され続けているの。文書化の際の基本手続きとして」
看守/財団
「感情を差し挟まない冷酷コールドさで」
「装飾や語りを省いて臨床的クリニカルに」
「対象をモノのように客観的オブジェクティブに扱い」
「明確な序列や称号の代わりに一貫した由来のない分類クラスを与え……」
「名の代わりに無作為な符号アイテムナンバーを指定する。それがIncōdexプロトコル、看守が重んじる忌々しい文書化手順とその規範だ」
あまりのおしゃべりにアリソンがあっけに取られていると、隣のL.S.が「Incōdexとは古ラテン語の『写本へ記す』に由来し、英語ではencodeに当たる用語です」と少しかみ砕いて補足しました。
「現代で符号化エンコードとは『アナログ信号を取り扱いに適した形式へ変換すること』を指します。つまりIncōdexとは、不思議な物語を無機質な報告書に置き換えるための手順なのですよ」
なるほど。アリソンはなんとなく、ここまで財団が嫌われている理由がわかった気がしました。問答無用でとっ捕まえてくるというのもそうなのでしょうが、図書館を根城にしている人たちとはそりゃあ反りが合わないでしょう。しかも"管理者"とやらは現実を捻じ曲げて無理やりその財団ルールを押し付けてくるそうですから、なおさらいけ好かないはずです。
「ところで、いま見つかったもう1つの質問にも答えてもらおうか」猫はL.S.に顔を向けながら、アリソンを前足で指しました。「この子は何者なのかな?どうしてここに居る?」
……そういえば、さっきまで「秘策」の内容を明かすどうかで押し問答をしていたのでした。詳細を隠したがっていたL.S.の味方をするつもりなら目立つべきではなかったかもしれません。未だにどういうことなのかは分かっていないものの、彼女は世界を救うための秘策にはアリソンが必要になると言っていたのですから。
L.S.は少し頭を抱えるような仕草をした後、「段階を踏んで明かすつもりだったのですが、いいでしょう」とアリソンをみんなに見せつけるように前へと押しやりました。
「この子こそが秘策の中核部分です。彼女は今この世界で、"管理者"を打ち倒すことのできる唯一の存在です」
驚きの目が一斉にアリソンに向けられました。が、一番驚いていたのは多分アリソン本人でした。
「この子が?」と猫がいぶかしげに呟きましたが、それも当然でしょう。本物の不可思議と魔法使いたちの目の前で、何を自分だけの特殊な能力と言い張るべきなんでしょうか?たまにやってる1人2役ごっことか?
「ええ。保証しましょう、彼女は私が見つけ出した天賦の才です」
L.S.は涼しい顔をして いえ、仮面を付けていたので実際どんな顔をしているかは分かりませんが そう言い放ちました。
アリソンは、よっぽど「そんなわけあるかい」とでも叫んでやろうかと思いました。本当になんなんでしょう。タイムライン違いの自分とはいえ、あんまりにいい加減なことを言ってると誰かに罰されたりすると思うのですが。警察代わりの"多元宇宙事件局"とかは存在しないのかしら。
「へぇ……それじゃ、もう少し気を配ってやるべきだ」
猫がそう言った瞬間、アリソンの横を強い突風が吹き過ぎました。ダァンッという物音が聞こえて振り返ると、先ほどまで隣にいたはずのメレディスが、影で出来た手のようなもので壁に押さえつけられていました。予想外の光景に、L.S.は猫に向かって声を荒げました。
「ミッドナイト、何のつもりですか 」
「こちらのセリフだよ。手癖の悪い友人を招き入れたようだね」
影の手はメレディスが握っているものを奪いました。それは図書館カードでした……彼女自身のものではなくて、アリソンの。アリソンはポケットをまさぐって、先ほどまであったはずのあの四角い重みが無くなっていることに今更になって気が付きました。
「残念だな。秘策とやらを潰すことができると思ったのに」
メレディスの呟きに、アリソンの背筋は凍りました。さっき教えてもらったばかりのルールを思い出したからです。"図書館カードは持ち主を守るが、盗まれると最大の弱点にもなる"。
カードを手に入れる前のアリソンはショウやL.S.に守られていました。だからメレディスは彼らが気を逸らす隙を伺っていたのです 利用者に危害を加えてはならないという掟に抵触しない形で、最小の労力によってアリソンのことを始末しようとしていたのです。
「どうしてです。メレディス……」L.S.はそう言いかけて、何かに気づき身じろぎました。「いや、違う。あなたは何者だ。メレディスを何処へやった」
「我々が"保護"している。"管理者"の指令で彼女の名前を借りさせてもらった」
偽装の意味は無くなったとばかりに、メレディスの口調は様変わりしました。彼女の瞳からあの魅力的な輝きはすっかり失せて、そこには、レンズのような透き通す無情さだけが残っていました。灰色ジャケットの男と同じ、あの不気味な観察眼だけが。
"管理者"は人から名前を奪います。何かを奪うということは、それを別の者に与えることもできるということです。アリソンは昔読んだ物語に、消えた王様に成り済まして何年も国を牛耳った悪役が出てきたことを思い出しました 名を得るということは、役割を得るということ。
もし他人の真名を自由に扱えるなら、その人そのものに成り代わることすらできるのでしょうか。
「正体を暴けたことは僥倖だ」刺青の男が虚空から青銅の剣を取り出し、切っ先を突き付けました。「貴様のしくじりのお陰で、我らは同胞と種々の宝を看守どもから取り戻すだろう」
「拷問でも試してみるか?諦めたほうがいい」メレディスの名を騙っていた財団エージェントは、殺気立った蛇の手のメンバーに囲まれた状況でも表情を変えませんでした。余裕なのか虚勢なのかすら、その顔色からは読み取れません。
「秘策の妨害は副次目標に過ぎない。内部にさえ進入できれば、放浪者の図書館を守る力は別側面から攻略が可能だと推定されていた。そのための工作活動の時間も十分にあった 」
しかしアリソンには、そのエージェントの「向こう側」で、誰かが嘲りの笑みを浮かべたように見えました。
「図書館は現時点より、外次元サイト-01Aとして接収される。我らが"管理者"の名の下に」
地面が揺らぎ、千切れるヴァイオリンの弦の音が図書館中を響き渡りました。
会議室は急速に輪郭を溶かし始め、誰もまともに立っていられなくて。
L.S.がこちらに手を伸ばし アリソンは掴み損ねました。
足元に空いた大穴へ崩壊する本棚が落ちていきます。
アリソンは、A█ソん・Cゃオは……
・・・
・・・
・・・
気が付くと、そこは真っ白な部屋でした。家具も何もなく、唯一の物と言えば正面の壁に掛かった黒い真四角の板のようなものだけです。どうやらこれは映像モニターであるようでした 最初は外を覗く窓だと思ったのですが、窓より何より、この部屋にはドアすらありません。
『おはようございます。SCP-████』
突然モニターに白衣を着た研究者らしき人物の姿が浮かびあがりました。戸惑いで声も出せないでいると、研究者はもう一度『おはようございます。SCP-████』と、全く同じ抑揚で繰り返します。そこでようやく、"SCP-████"という言葉は自分を指して呼びかけているのだなと理解できました。
でも、納得はできませんでした。自分はあくまでも「████・███」であって、勝手につけられた名前で呼ばれる筋合いはないからです。
「ちょっとまってよ、私の名前は」『SCP-████。それでは今日のインタビューを開始しましょう』
「だから私は」『まずは、あなたが"魔法の呪文"と呼ぶものについて詳しく説明していただけますか?SCP-████』
研究者は遮るように言いました。それはまさしく、囚人の口答えを罰する牢番のようでした。ここではお前は記号の羅列で管理される対象でしかないんだ、という峻厳とした冷酷さ。混乱と恐怖がないまぜとなった気持ちは、モニターへの「ふざけないで!」という叫びとして飛び出しました。
研究者は困ったような顔をしました。それも良心の呵責が表れたのではなく「面倒ごとが1つ増えた、今日はツイてないかもな」といった程度の苦笑でしかありませんでした。その態度にさらに頭がカッとなり、どうにかして名前で呼ばせてやろうとまた叫びました。
「私の名前は !」
叫び声は出ませんでした。のどにどす黒いどろりとした塊が詰まっているかのようで、口を縦に開けたまま████は固まっていました。それどころか、もう自分の名前が思い出せません。
SCP-████……SCP-████……その呼び声だけが部屋の中で反響して 頭を抱えようとした自分の手を見ると、それはもう子供のものではありませんでした。幾年もの時を示す皺が刻まれていました。
『おはようございます、SCP-████。今日はちょっとしたプレゼントがありますよ』
モニターを見上げました。そこには、さっきとは別の若い研究者がいて「SCP-████の収容法確立から30周年記念」と書かれた厚紙が握られています。████は暴れようとしましたが、拘束具のベルトがそれを抑制していました。悲鳴を上げようとしましたが、舌はどこにもありませんでした。
「……リソン……アリソン!」
L.S.の呼び声で目を開けて ████は自分がアリソン・チャオであることを思い出しました。ふらふらと起き上がろうとして、手を突くための床が無いことに気が付きます。虚ろな闇だけが広がる周囲には図書館の痕跡すら無く、多分重力の法則も壊れてしまったのでしょう。水をかいて泳ぐような要領でなんとかアリソンは体勢を立て直しました。
するとようやく、この空間に自分とL.S.以外の存在が居ることが分かってきました。「虚ろな闇だけが広がる」と書いたことはすぐにでも撤回すべきですが、言い訳をさせてもらうなら、アリソンはそれを生き物だとすら思わなかったのです。過去最悪の夢から覚めたばかりでしたし、彼女の脳は視界に入る"それ"の分析処理を一時停止せざるを得ませんでした。
それは「蛇」なのだと思います。ただし地球を何巻きにもできそうな、規格外なスケールの大蛇です。捻れ連なった巨体が奈落の底へと果てしなく伸びていました。その体表には世界中のタイルと屋根瓦を集めても足りない数の鱗が備わっていて、さらにパロットグリーンを主色とした極彩色の羽毛までもが生えています。
「"大いなる蛇The Serpent"よ。唯一にして真なる図書館のナハシュにして司書長、知を司るネフシュタンにして書に長じしサタンよ。私たちを助けたのはあなたですか」
仮面を外して呼びかけたL.S.に、大蛇は「いかにも」と応えました。暗闇から大陸級の存在感とともに現れた頭は、その鼻先に金ぶちの老眼鏡を乗せています。蛇の手が冠する"蛇"の名の由来、図書館の深層に巣食う古代の神がそこに在りました。
「では、その慈悲に拝謝と敬意を。名の"AION"を計らいの対価として以来、すっかり嫌われてしまったものかと思っていましたから」
「正当な支払いなら、今からでも遅くないとも」大蛇は栞ひもに似た長い舌を業火のようにちらつかせました。「だが、それしきで我が背を行く放浪者を見捨てはしない。その娘は図書館の崩壊に巻き込まれ、魂の時間を止められかけていた」
魂の時間を、止める。アリソンは思わず自分の体を抱きしめました。先ほど見た白い部屋は必ずしもただの夢ではなかったのでしょう 生まれ持った名前を奪われ、"管理者"に"符号化Incōdexされる"ことが意味するのは、ああいう結末なのです。
「ありがとうございます、大蛇さん」アリソンはおずおずと尋ねました。「あの……他の図書館に居たみんなは?」
「安定した"道"へ。もはや彼らに安息を与えることはできない。司書は図書館を守るが、あの場所の名は書き換えられ"放浪者の図書館"では無くなってしまった」
アリソンは、そのように言う大蛇の瞳孔が一瞬苦痛に歪められた気がしました。……ただの気のせいであれば良かったのですが、事実、蛇の巨体は徐々にその鮮やかな色彩を失いつつあります。それは患った大樹が枯れ凋んでいくようでもありましたし、メドゥーサの呪眼に睨まれた者が足元から石化していく様子すら思い起こさせました。
「数多の名が我が身から引き剥がされていくのを感じる。まだ猶予はあるだろうが、図書館にあった全ては奪いつくされ、かの者の手中に収められるだろう」
「利用者の名簿も、ですね」
L.S.の言葉にアリソンはハッとしました。カードを作る際、複製が図書館側にも保存されると彼女は言っていたはずです。"真名を預ける"と。しかし放浪者の図書館は、その名前に纏う謎めいた神妙さごと失われてしまいました。もし守る者が居なくなった真名のリストが"管理者"の手に渡れば、全ては一巻の終わりです。
「ああ。だから……黒の魔女L.S.、そして祝福されし娘アリソン・チャオよ。お前たちに託そう、放浪者たちの行く末を……」
そう言いながら大蛇はその巨体を奈落の底へ沈めていきました とぐろを巻くように、残されたものを少しでも長く守ろうとするかのように。アリソンとL.S.の周囲には、今度こそ本当に、虚ろな闇だけが残されていました。
「これから、どうするの?」アリソンは大蛇が居た空間をぼんやり眺めながらL.S.に尋ねました。
「散らばった仲間たちに連絡を取ります。そして財団が利用者名簿を手に入れる前に、決着を付けます。"管理者"さえ倒せば失った全ては元の位置に戻るでしょう」
L.S.は、アリソンの図書館カードを差し出しました。偽メレディスに盗られた後で図書館とともに消えてしまったかと思っていたのですが、彼女が預かっていたようです。アリソンはカードを受け取ろうとして、手が止まりました。体にはあの白い部屋の恐怖がまだ残っていました。財団に歯向かうことの恐怖が。
アリソンだって"管理者"に心底むかついています。今すぐにでもぶっ飛ばしてやりたいですし、これまで出会ってきたみんなのことを助けたい気持ちでいっぱいでした。でも、体が動かないのです。
その葛藤が伝わったのでしょうか。L.S.はアリソンの手をやさしく包みました。手のひらの暖かさが体の強張りを少しずつ溶かします……不安になった時、お母さんがよくしてくれていたおまじないです。
「安心してください。あなたは、両親が施した最も古い魔法で守られています」
「最も古い魔法?それって何?」
「名前ですよ、アリソン。とうの昔に私が捨ててしまったものです」L.S.は微笑みを浮かべました。
「古来より様々な願いを込めて親は子に名を付けます。丈夫に育つように、立派な人物になるように……そして、子供の身があらゆる災禍わざわいから守られるようにと。"管理者"が名を力とするなら、彼を打ち倒しうるのもまた、名の力なのですよ」
そう言って、L.S.は彼女が見い出した秘策の全貌をアリソンに説明しました。その時明かされた真実は まさに驚くべき運命の巡り合わせでした。
「さて。もう一度言いましょう、アリソン。あなたは"管理者"を倒すことができる唯一の存在です。あなたの助けがあれば、この世界は救えます」
力を貸してくれますか?とL.S.に問われて、アリソンはまだ衝撃に見開いていた目をぎゅっと瞑ります。再びまぶたを開いた時、彼女の瞳には決意の光が灯っていました。周囲に広がっていた虚ろな闇の中には、いつしか扉が浮かんでいます。
それこそが"道"でした。大事なものを取り戻すために、アリソンが進むべき道でした。
行こう。
サイト-001には、静寂を切り裂くようなけたたましいベルの音が鳴り響いていました。
このサイトが建設された時期、財団は起こった問題の種類に応じて個別の警報音を鳴らすという取り組みをしていました。だから当時の設備が残っているサイトなら、今も職員は音を聞くだけでどの緊急時マニュアルを参照すればいいのかがすぐわかるのです。サイレンなら「火災」、ビープ音なら「収容違反」といった具合で。
中でも、ベルの音は「要注意団体による襲撃」を意味していました。
「襲撃者の識別はGoI-α-019、蛇の手です」
だろうなといった態度で、"管理者"は秘書官の報告に眉一つ動かしませんでした。どうせ今の世界において、財団に対する大規模な抵抗勢力と言えば蛇の手しか残っていないのです。
予想外の要素があったとすれば、彼らがサイト内に出現した多数のポータルから襲撃を仕掛けてきたことでした。外壁や保安システムを無視してあちこちで発生するゲリラ戦は、最高の警備とセキュリティが用意されているはずのサイト-001においてさえ、事態の収拾を手間取らせるだけの厄介さを持っていました。
「蛇め。手足もないのに悪あがきか」
放浪者の図書館は多数の世界が結節した異次元に建造されていました。その偉業を可能にしたのが「大いなる蛇」の自在に"道"の扉を開く能力であることを、"管理者"は当然知っています。図書館の主である神話的存在にとって、この程度のことは至極容易でしょう。
かつて放浪者の図書館だった外次元サイト-01Aの全てを掌握するには、いましばらくの時間がかかりそうでした。機能不全にさせたとはいえ、かの図書館は膨大な情報量と迷宮のような複雑性ゆえに"放浪者の図書館"であったのですから。大樹の根のように絡み合った魔法の掟は、利用者名簿を蛇が巻くとぐろの向こうに覆い隠していました。
しかし。逆説的には もう少しの時間さえ稼げさえすれば、あの煩わしい蛇の手の連中を世界から一掃することができるのです。
"管理者"が蛇の手によって殺されることはありません。本質的に実体を持たない彼に死の概念は存在しませんし、やってくる暗殺者の名前を奪って無力化することもできます。
ですが万が一に今乗り移っている肉体が破壊されれば、"管理者"は現実との接続をわずかな時間失うことになるでしょう。それは大いなる蛇から図書館の主の座を奪い取るための注力が、一時的にでも中断されることを意味しています。
財団による世界の完全な制御を至上命題とする"管理者"にとって、この事態は許しがたいことです。蛇の手の無力化という最後の課題を達成し、可及的速やかに新たな秩序を構築するためには、1分1秒たりとも邪魔をされるわけにはいきませんでした。
「ならば、今は量より質だ」
"管理者"はそう呟き、呼び寄せた秘書官に「君、名前は何と言ったかな?」と問いかけました。
「はい、私の名前は 」
「そうか。でも違うだろう」
答えを聞く必要はありませんでした。"管理者"は遮るようにして、答えられるはずだった名前を命名によって上書きしました。名を得るということは、役割を得るということ。彼の力は、伝説の人物を、伝説そのままの形でこの場に再現することさえ可能でした。
「君の名は、ずっと前からアルト・クレフ博士だ」
走れ!
蛇の手の総力をもったサイト-001襲撃戦は、混沌を極めていました。魔法陣から呼び出された深淵の悪魔はSV-98狙撃銃の一撃で沈黙し、カイゼル髭の博士がけしかけてくる機械は跳ね回りながら訳の分からない戯言を喚きまくることで呪文の詠唱を妨害していました。
警備兵の首を絞め上げようと這い寄っていた影の手は、投げ込まれる火炎瓶と爆弾の閃光でかき消されています。窓の外では怪獣使いカイジュウマンサーがワニとタコの合いの子のような化け物を乗りこなしていて、卵型の二脚式戦車と燃え盛るスクールバスがそれに目掛けて突っ込んでいくところでした。
そして施設の奥底へ進もうとするL.S.たちを阻んだのは、ショットガンを肩に担ぎながらにやにや笑いを浮かべる男でした。"あのクソヤロウ"などと呼ばれるその男の名は、蛇の手たちもよく知るところです 本物の彼が5年ほど前に死んだはずであることも、彼らはよく知っていました。
彼の第三の眼が開かれ、現実歪曲の力場が通路全体を占有しました。力場を中和するのがコンマ数秒遅れていたら、L.S.たちは同時に発砲された弾丸を脳天で受け止めることとなったでしょう。迎撃としてL.S.は指から青いエネルギー飛翔体を発射しましたが、クレフ博士は瞬き1つでそれをかき消すことが可能でした。ですが……。
「私たちを逃げ帰らせたいなら、"神殺し"を成し遂げた時のエージェント・ウクレレを連れてくるべきでしたね」
恐怖には値しませんでした。同じ名前の役でも、役者の力量で差が出るのは当然です。突き出される青銅の槍やポルターガイストとの連携攻撃で第三の目の処理能力に負荷を掛けつつ、L.S.はクレフ博士を挑発しました。
「今からでも借りる名を変えてはいかがですか?あるいは連合の"おっかな女"D.C.アルフィーネ、もしくは"恥知らず”のティルダ・ムースでも十分でしょう。それとも 」
L.S.は、全能にも思える命名の力の盲点を知っていました。それは気に掛ける必要もない程度の欠点でしたが、付け入ることのできる唯一の隙でもありました。
「やはり、"管理者"は一度付けた名を変えることができないのですか?」
答えを待つ暇はありませんでした。突然焚かれたフラッシュが目を眩ませ、喉元があった空間をサーベルがかすめました。まだ十分に回復していない視界であっても目の前の人影が3つに増えたことは理解できます。さらには通路の奥から雪崩れ込んでくる大量のリンゴの種が、新たな増援を知らせていました。
烈しい戦いが繰り広げられる一方で……誰もアリソンには気づいていませんでした。彼女はL.S.に渡された隠れ身の帽子がずり落ちないように手で押さえながら、混乱の渦中にあるサイト-001を駆け抜けます。
帽子に掛かっている魔法のお陰で、アリソンは誰にも止められることなく施設の奥深くに潜り込んでいけました。サイト-001の詳細な構造を覚えるような時間はありませんでしたが、問題はありません。大いなる蛇が目の前に開いてくれる"道"を順番に通り抜ければ、一足飛びにとはいかないものの、やがて目的地へたどり着くことができる手はずになっていました。
アリソンは走りながら、L.S.に言われたことをもう一度頭の中で繰り返しました
『イン・ノミネ・メオ……何て?』
『"In nomine meo, Administratores, discedite a Patre."。神の名を借りる必要のない悪魔祓いの呪文ですよ。カードを突き付けて唱えれば効力を発揮するはずです』
意味を説明されずとも、アリソンはもうその呪文を口になじむほど暗唱することができるようになっていました。あとは目的地 "管理者"の執務室に辿り着くだけです。
最後のポータルを潜り抜けて、アリソンは音もなく床に降り立ちました。緊急事態の発生を示す警告灯が薄暗い部屋の中を照らしていて、スーツ姿の人影がデスクに座っているのが分かりました。部屋に居るのは一人で、ちょうどこちらに背中を向けています。遠くに聞こえる警報に紛れるように、アリソンは少しずつその人影に近寄っていきました。
「ようこそ、我が執務室へ」
アリソンは声が漏れそうになるのを抑えました。すぐに頭に手をやりましたが、帽子は外れていませんでした。だというのに、人影は椅子をくるりと回転させてこちらに向き直りました。
「本当の意味で"存在しない"ということに比べれば、その程度は他愛のないものだな」"管理者"はフン、と鼻で笑いました。「だが、SCP-268は財団の所有物だ 今までどうも。そろそろ我々の帽子を返してもらおう」
その言葉とともに、被っていた帽子はひとりでに飛びだして"管理者"の手の中にすぅと収まりました。SCPという名を付けられた事物が「財団に管理されるべきもの」として"管理者"によって支配されるという話は、やはり本当のようでした。
「ふむ……タイプΣ識別試験システムのセンサーは、君を十分"正常"の範囲内に居ると判定している。懐のそれを除けば、だが」
立体映像ホログラムのようにデスクの上に計測データが浮かびあがり、"管理者"はそれを指で弄びます。「なるほど。図書館のカードと、形而上生物の類か」
その瞬間、アリソンの服の影に潜んでいたショウが実体化し、牙を剥きだすようにして"管理者"に飛び掛かりました
「特筆すべきはこの程度だな、うむ。身体機能の推定も常人に収まる範疇だ」
しかし、ショウは空中で凍り付いたように静止します。その間に"管理者"が行ったことと言えば、そちらを見もしないでデータを弄りながらもう片方の手をショウにかざしているだけです。たったそれだけの動作で、彼が名前を奪うには十分でした。
アリソンはぐっとこらえました。今すぐ掴みかかりたかったですが、まだその時ではありません。
「やはり分からない。蛇の手を率いる指導者L.S.……彼女はなぜ君などを必要としていたんだ?」
"管理者"は溜息をつきました。その息遣いが妙に大きく聞こえたことで、アリソンは警報音が鳴りやんでいることに気が付きます。「見ろ」彼は立体映像をぐるんとスワイプで裏返し、アリソンに見せつけました。「何をするつもりだったのかは知らないが、もう手遅れだ」
映像はサイト-001の各地を映していました カメラが切り替わるたびに共通していたのは、蛇の手のメンバーがショウと同じように固まっていたことでした。L.S.も、ミッドナイトも、みな……。図書館の利用者名簿は、アリソンが辿り着いた時には既に財団の掌中に落ちていたのです。
アリソンはその時、"管理者"の手の中で、赤い光のようなものが尾を引いて渦巻くのを見ました。それはよく見れば無数の小さな粒で、時たま彼の掌からから逃れようとしては渦の中に引き戻されていました。"管理者"が皆から奪い取ったばかりの「名」なのでしょうか。
「まだ君が立っていられるのは、ひとえに私が秘策とやらの正体を調べたかったからだ」"管理者"は拳の中に封じ込めるようにして光の粒を掌握しました。「そう不安な顔をするな。もちろん君にも収容セルの割り当てはある」
白い部屋での光景が瞬間的にフラッシュバックしましたが、すぐにアリソンはその幻影を振り払います。子供の身があらゆるわざわいから守られるように 両親が施した最も古い魔法。あの時語られた言葉が、彼女の勇気を奮い立たせました。
「そんなに知りたいなら、教えてあげようか」アリソンは一歩踏み出しました。
「いや、もう結構だ。あとでじっくりと実験させてもらうよ、SCP-AATR」
"管理者"はそう言いながらアリソンに手をかざしました。これまでやってきたのと全く同じように、何の気負いもなく。退屈に感じるほど繰り返された名前の剥奪と新たな名付けが、全てを終わらせるはずでした。
……しかし、何も起こりませんでした。アリソンはアリソンのまま、そこに居ました。
その事実に気が付いた時に走った動揺をアリソンは見逃しません。彼女はすかさずデスクまで駆け寄り、己の真名が刻まれた図書館カードを"管理者"に突き付けて呪文を叫びました。
「In nomine meo, Administratores, discedite a Patre!」
"管理者"は声にならない悲鳴を上げました。"管理者"の輪郭が滲み、2つに分裂するように激しく揺れ動きました。悪しき「名」の力の顕現が、宿主にしていた肉体から追い出されようとしていること そしてなお形而下の領域にへばりつこうと抵抗していることが目に見えて分かりました。
これこそが呪文の効力でした。L.S.が見い出した秘策、アリソンだけが使える……アリソンの名によって唱えてこそ、初めて意味のある呪文。
"管理者"の姿は維持できなくなりつつありました。それでもまだ彼は「やめろSCP-AATR!」という命令を部屋の中に響き渡らせるだけの存在感を保っていました。名付けによる支配の原理はSCP-AATRを従属させ、財団の名の下に管理されるべき存在として再定義するはずでした。
しかし、やはりアリソンを支配することはできません。アリソンはそのわけを知っていました 彼はもうすでに名付けているのです。むかしむかしに、とびきりの願いが籠った名前を。
「私を見て!」そう言って、アリソンはもう一度呪文を唱えました。
「我が名において、"管理者"よ、父より退けIn nomine meo, Administratores, discedite a Patre!」
呪文とともに赤い光の粒たちがその体から飛び出し、火花のように執務室の暗がりをあらわにします。もはや"管理者"ではなくなろうとしている怪物は、長らく憑りついていた体をようやく解放しようとしていました。一人の、ただの人間がそこには残っていました。
もはや謎めいた呪文も、ロマンチックな真実の愛も必要ありません。"管理者"の呪いを解くには、彼に本来の自分を思い出させるだけでよかったのです。
「私の名前はアリソン・チャオ。あなたが名付けてくれたんだよ、パパ」
その瞬間。ひときわ大きな絶叫とともに、封じ込められていた全ての名が解き放たれました。世界を覆うわざわいはついに打ち破られたのです。宙に舞い上がり降り注ぐ光の粒を一身に浴びながら、小さな英雄はそれらが発する歓喜の声に体を委ねました。
・・・
And home we steer, a merry Hands,
Beneath the setting sun.

END="DOC-4000-JP_2B"
.
.
REQUEST="Agreement_Α19_4000F"
…
…
…
[ACCESS: DENIED]
[このデータは制限されています。]
…
…
…
REQUEST="Agreement_Α19_4000F"
CREDENTIALS="QXJvdW5kIGFuZCBiYWNr…"
…
…
…
[ACCESS: GRANTED]
[こんにちは、ギアーズ博士。]
財団指揮系統の復旧に先駆けて、最初にSCP-4000-JPの影響を認識することに成功した財団職員はチャールズ・ギアーズ博士でした。当時"管理者"の名誉職位を与えられていた職員の1人であったために当該アノマリーの宿主となっていた博士は、サイト-001の執務室で覚醒した際に即座に周囲の状況と自身の記憶との間に不整合が存在することを認めました。
同時刻、セキュリティ違反通知を受けて急行した複数の機動部隊は、サイト-001内に複数のGoI-α-019("蛇の手")構成員の姿を確認しました。GoI-α-019構成員は明白に損耗しており、機動部隊の到着を察知してから交戦を避けるかのように速やかに撤退しました。この際、機動部隊群は"管理者"の安全確保を優先し撤退を看過しています。
機動部隊群が執務室に到着した際、ギアーズ博士が部隊員に対して前述の記憶の不整合について質問したところ、多くの部隊員は財団体制の違和に対する合理的な説明ができず、激しい認知的不協和による一時的な混乱が発生しました。そのため博士はこの異常事態に関する特別委員会を立ち上げ、自らそのプロジェクトの陣頭指揮を執ることで事態の全容把握と解決に向けた取り組みを開始しました。
指揮系統が復旧し、財団が徐々にSCP-4000-JPの存在とその影響力を認知し始めると、次に浮上した問題は当該アノマリーの所在についてでした。特別委員会はギアーズ博士を筆頭とする広範囲の財団職員を調査しましたが、SCP-4000-JPによる精神への侵襲を痕跡以上のレベルで確認することはできませんでした。
その時点で有力な仮説は、SCP-4000-JPが単に基底世界との接続方法を失ったというものでした。しかしながら、GoI-α-019がSCP-4000-JPを独自の手法で収容していることが判明したために状況は変化します。資料提供要請のため渉外部門が接触を図った際に明かされたこの情報は、「GoI-α-019の裁量で当該アノマリーが解放され、再び財団を制御不全状態に陥らせることが可能である」という差し迫った保安上のリスクを示唆していました。
SCP-4000-JPの引き渡しについて、財団は日本における比較的穏健な組織性で知られる分派"青大将"を仲介役としてGoI-α-019との協議の機会を得ました。GoI-α-019の代表者は交換条件案の事前提示とともに、協議へのギアーズ博士の出席を要請しました。要請は認可され、日本国内の中立地帯FP-06に設けられた非公開地点において以下の通りスリー・プラス・ツー形式での会合が開催されました。
二組織間会合記録4000-JP
Record 20██/██/██
メンバー:
- 財団O5評議会全権特使 O5-9
- 司令部機能復旧委員会 ギアーズ博士
- 財団81管区渉外部代表 理事"鳳林"
- GoI-α-019("蛇の手") L.S.
- GoI-θ-019("青大将") AO
[渉外部門により編集 — 挨拶、会合出席者の紹介 等]
O5-9: さて、今回の主題は蛇の手側から提示された3つの交換条件についてだ。それではまず、1つ目の要求の「付属リストに記載された人物の解放」だが、これについては妥協点を見出していくほかないだろう。
"鳳林": ああ。リストを確認したが、財団の勾留下にあるほぼ全てのヒト型オブジェクトが対象と言っていい。財団のポリシーに照らせば、とても現実的な試みではありえないね。
AO: 元をただせばその拘束が不法かつ不当だ……という話は置いておいて。俺の仲間の言葉を借りるなら、この件には少なくとも巻き戻しロールバックが必要だ。"管理者"というバグは世界中を荒らし回った。あなた方が元の方針を取り戻したところで、結局財団が狂っていた間に牢獄に閉じ込められた者たちの状況は変わらないし、俺たちも納得できない。
ギアーズ: では、こう書き換えることは許されるでしょうか。「財団は世界を"管理者"による影響の発生以前の状況に限りなく近づける」と。全てとは言いませんが、これはリストに掲載されている人物らも対象としています。
AO: それが可能なのか?
ギアーズ: ええ。どのみち"管理者"が構築しようとしていた秩序体制は、その異常性が無くなった時点で自然に崩壊し始めているというのが我々の見解です。既に財団に吸収合併されていた複数の組織が再建の動きを見せています。多少の混乱や差異は残ると思われますが、そちら側が保有している詳細な文書を元にすれば修正することが可能でしょう。
L.S.: 文書は提供しましょう。ただし提案された改訂案については付帯条項を付けることを望みます。「蛇の手はその活動を監視し、取り組みが達成されたと判断される時点で遅滞なく"管理者"の引き渡しを行う」
"鳳林": 後から反故にはさせないってわけだね。僕は賛成する。信用は無いだろうが、その分ちゃんと君たちが我々の誠意を見届けてくれ。世界に奉仕することこそが財団の第0ポリシーだ。
O5-9: 同意見だ。よって条項については特使の全権において受諾する。では次の要求、当該アノマリーに対する「安全な抑制手法の確立」について。
L.S.: 財団が適切な封じ込め方法を持っていない状態では"管理者"を引き渡しても野に放つのと大して変わりはありません。この点についての信用は必須です。
ギアーズ: その点については、当該アノマリーを81管区の管轄とすることで財団内の合意を得ています。日本支部理事会という独立した指揮系統を持つ81管区であれば、収容違反が発生した際にもその影響範囲を日本だけに収められると推定されているためです。
"鳳林": といって単に貧乏くじを引いたつもりもない。僕らにはこの手の異常に関する多数の前例とノウハウがあるからね。日本支部では"管理者"の強力な源理改変をそれ自身に向けさせる、いわば自己収容の状態にすることを検討している。
AO: どうやって?
"鳳林": 単純さ。アイツにもSCPとしてのナンバーを割り当ててやって、それを唯一の名とすればいい。"管理者"という称号を得て"管理者"になるのなら、ナンバーを得れば奴は自分から管理される側になる。一番目立つ主役のための特等席はもう用意してある "SCP-4000-JP"だ。
L.S.: それでは、この要求については大枠で解決されたものと見なします。
AO: ああ。必要なら今こちらで使ってる封じ込めの儀式について教えてもいい。
O5-9: 合意に至った。では最後の3つ目……「物語の掲載」。これについて財団はまだ要領を得ていない。
L.S.: こちらです。
[L.S.が束にまとめられた[文書4000-JP:2A]及び[文書4000-JP:2B]を提出する]
L.S.: 私たちが如何にして"管理者"を打倒したのかについて。それを描いた物語です。もし今回の一件についての報告書を作るのなら、この物語を元の形を保ったまま掲載してもらいます。
"鳳林": ……それに何の意味が?
L.S.: 記録するためです。この物語をあなたたちのやり方で記録するなら、『蛇の手の構成員が"管理者"を無力化した』の一文で事足りるでしょう。しかし、Incōdexの刃でそぎ落とされるエピソードは、血の通った人間が暮らし、戦い、生きていた証そのものです。彼らの生きざまを主観的かつ装飾的に、言葉と表現を尽くした物語として"より良く"記録する。それが私たちのやり方であり、敬意です。
AO: "巣"の連中もこれをかなり価値のある事だと思っている。あの財団の堅苦しい報告書に、蛇の手謹製のおとぎ話を載せることができるんだ。苦難の暦が始まって以来の歴史的快挙と言っていい。
O5-9: ともかく、君たちには意義があるというのならその条件についても受諾しよう。協定の細部についてだが
L.S.: 待ってください。その前に、この物語が未完成であるということもお伝えしておかなければなりません。
ギアーズ: 未完成、ですか。十分まとまっているように見えますが。
L.S.:ええ。ここにはある少女が巨悪を打ち倒すまでの冒険が描かれています。しかし、少女はまだ旅路の果てに存在するはずのものを手に入れてはいないのです。わざわいの後のハッピーエンドと、それを締めくくるための言葉を。私とは違い、彼女にはその権利があります。
[L.S.はギアーズ博士に向き直る]
L.S.: ギアーズ博士、この結末を欠いた物語はあなたに宛てたものでもあります。ぜひ読んでみてください。そして、心が正しいと感じるやり方で完結させてください。これが、私からあなたへの4つ目の要求です。
会合の結果、財団とGoI-α-019の間には協定Α19-4000-Fが締結されました。協定で双方に求められた義務の履行は滞りなく確認され、提供された文書群によって財団はSCP-4000-JPが及ぼした広範な影響についての情報を入手しました。協定の全文はストレージレベルB-8にて参照可能です。
協定第一条に定められる活動については、ギアーズ博士の率いる特別委員会が財団の復旧に引き続き主導することとなりました。SCP-4000-JPの引き渡し後に特別委員会は正式に解散され、ギアーズ博士は約3か月間のサバティカル休暇を申請しました。申請書には休暇中の所在や連絡先が記載されていませんでしたが、彼の財団に対する長年の貢献と特別委員会での活動を鑑み、O5評議会はこれを認可しました。
その数日後「蛇足 / serpent's superfluous short-piece」と題された文書がGoI-α-019から送付されました。当該文書は親子が2人で過ごす様子を描写した物語に過ぎずSCP-4000-JPとの関連性が認められなかったため、O5-9の命令で当報告書の掲載からは削除されています。
END="Agreement_Α19_4000F"
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