SCP-6500
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穢れ

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伊吹山

江口戒斗が木々の間の細い、土の道を登ると、冷たい春の風が山の深い緑を撫で降りていった。彼は八つの輪がついた錫杖に寄りかかった。それは彼の父から渡され、父もまたその父から渡されたものだった。戒斗は何代も続く僧侶の家系の出身だが、その職業の他の者とは違い、所属していると言える寺はなかった。彼の寺は開けた空だった。

戒斗は剃り上げた自分の頭を撫で、山道を遠く見上げた。彼は四十代だったが、活動的な生活により、引き締まり屈強な体型を保っていた。彼の袈裟は概ね伝統的なものだったが、長く垂れ下がる袖は切り落とされていた。そのため、冷たい山の空気が彼の剥き出しの腕を撫でた。

流浪の僧侶である戒斗は、行く先々で托鉢をし、しばしば家々に一晩か二晩宿を借りてから再び旅した。そうした生業により、彼は日本の端から端まで、時には一年に二度以上旅した。彼の務めはこのような道なき場所、関西地方、滋賀県の伊吹山の山腹の、土の道へと彼をいざなった。

戒斗は空を見上げ、正午を数時間過ぎたところかと見積もった。そこで錫杖を近くの木に立てかけ、風呂敷包みを背中から下ろして開け、海苔で包まれ、燻した魚の入った握り飯をいくつか取り出した。午後の日差しの中で、琵琶湖を見下ろす稜線を睨みながら食事をした。不意に風向きが変わり、腐った落ち葉と湿った土の匂いを運んできた。食事を終え、彼は錫杖を取り上げ、再び山道を登り始めた。一歩進むたびに、錫杖の頂上の八つの鉄の輪が鳴り、彼の歩みに簡素なテンポを付け加えた。

一時間の後、彼は巨大な石の鳥居に縁取られた、急な石段の麓に立っていた。鳥居は濡れて苔むしていた。彼は境界を超え、落ち葉の積もった石段を登り始めた。登るにつれて両側の木々は近くなり、夜のように暗がりを作っていた。

石段の終わりでは、木の扉が砕けてぶら下がり、開いていた。湿気に腐っていたが、最近常軌を逸した力により打たれてもいた。戒斗は錫杖を握り直し、開いた扉に近づいた。しかし彼が到達する前に、二つの明るいオレンジ色の光が、重さなく飛びすぎていった。彼は飛びずさり、枯れ葉で滑りそうになった。戒斗は二つの人魂ひとだまが木々の間を抜けていくのを目で追った。その小さなの火の玉は、死んだばかりの体から飛ぶ、抜け出た魂だと言われていた。彼は扉に向き直り、二つの魂が浄土へと至れることを祈って阿弥陀経を唱えた。

壊れた扉の向こうは、荒れ果てた伝統的な木の柵の残骸で囲まれ、石畳で舗装された小さな中庭だった。石は緻密に組み合わされ、枯れ葉が散らばっていた。中庭の反対側は、三つの荒れた神社の建物が放棄されていた──かつては伊吹山に棲む神を祀っていたものだった。時と風雨が建物に与えた損傷は明らかだったが、そのように放棄されてなお、山の清冽な空気の中に立っていた。

建物は彼に向かって蹄鉄型に配置されており、その内側に中庭を作っていた。戒斗は石畳の上を進み続け、中央の建物の砕けた引き戸の前に立った。老朽化した建物に入ると、彼には落ち葉と、他に幾つかのものが見えた。内部には家具も、通常神社が備える装飾品もなかった。奇妙で、不可解な音が中庭の方から聞こえた。そこで彼は建物の背面の古ぼけた木の階段を登った。上階からは修理のために瓦葺きの屋根へと出れるようになっていて、夏の日差しに開けていた。

霧が中庭にかかり、さらには山肌へと登っていた。戒斗は屋根の端に近づき、見下ろした。

神社の石畳の上に横たわっていたのは、二つの死体だった。若い男と中年の女。血が石畳の上に流れ、また飛び散っていた。死体は胴体と頭に恐ろしい打撲傷を受けていた。死体の上に伸し掛かっていたのは、粗野でもつれた頭髪、前頭部から突き出た角、非人間的なくすんだ赤色の肌、唇から飛び出た牙を持つ、巨大な姿だった。
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鬼の顔は血で覆われていた。彼は女性の腕を持ち上げており、濡れた牙は開いた口の中で赤く染まり、彼女の肉をもうひと齧りしようとしていた所だった。クリーチャーは立ち上がった。背は大邸宅の屋根で頭を漉くことができそうなほど高く、肩は水牛とぶつかり合っても問題なさそうなほど広かった。

突然、鬼は腕を落とし、戒斗が立っている屋根を見た。
「おう坊主、いい天気だな。」

鬼は毛むくじゃらの前腕で口を拭い、拭き終わると着ていたボロ布とゴワゴワした服の袖を下ろした。
「半刻ほどしてまた来てくれねえか?メシはゆっくり食いたいだろ?俺とお前は古い仲だ。ちょっとした頼みごとをするくらいいいじゃあねえか。」

鬼の日本語は荒っぽく、音節ごとに唸るような響きを伴った。しかし戒斗はその妖怪のことをよく理解していた。

「ダメだ。お二人から離れろ、鬼め。」

「するわけが無いだろう坊主。」
鬼は長い鉄の棒に手を伸ばした。全体は六角柱型であり、その上半分には金属の粗野な歯がいくつも突き出ていた。その柄は骨でできていて、雑に切られた革が巻かれていた。それは戒斗の身長の半分くらいの長さだった。

戒斗は二枚の札を帯から取り出し、一枚を錫杖の先端に巻いた。言霊が戒斗の唇から流れ出すと、それは鉄の輪の下の軸にきつく巻き付いた。

「もう一度言うぞ、手を引け、鬼よ。争う必要はない。私に死者をゆだね、自分の領域に帰るがよい。」

「ダメだね、虫けらめ。帰るはずがないだろう!争わないといいつつ武器を構えている。そもそもなぜお前がここに来た、坊主?ここはお前たちの寺ではないぞ。」
鬼はそれだけ言うと、棍棒を構えた。

「死者に、全てのものに安寧を。それが私をここに導いた。これは武器ではない、道具だ。私はお前と争いたいわけではない。」

「こうして喋るうちにも、不可思議なもの、素晴らしいものは消えてゆくのだ!領域は薄れ、魔法は働かず、そして神はその社を捨てる。お前はここのために戦うというのか?失せろ!」

「神はこの場所を捨てたわけではない。そして私も衆生を見捨てぬ。」

「この二匹の虫けらがか?」
鬼は足元の死体を指し示した。
「お前はこの場所とは違う匂いがする。こいつらはお前の言う衆生ではないぞ坊主。」

「日本のすべての人々が我らが信徒だ、人殺しめ。」

「人殺しだと?二人ほど死んだところで何になる?人間どもは信長の時代から何百倍も何千倍も増えて地を満たした。奴らは海を汚し生き物をなくし、臭い薬を燃やして大気を汚す。ゴミで大地を満たし決してやめない。奴らの生などいくらでも代わりがいる。」

「言葉はもう十分だ、鬼よ。下がれ!」

吠えながら、鬼は小さな中庭の分の距離を詰め、棍棒を戒斗の胴体に向けて振った。棍棒の軌跡を掻い潜り、戒斗は距離を取るため後ろに下がった。鬼は鉤爪の生えた手を振り回し、老朽化した屋根を一部破壊した。戒斗には建物が倒れまいとする軋みを感じた。そこで彼は瓦の端へと滑り、石畳へと滑らかな動きで降りた。彼の膝は着地の衝撃に不平を言ったが、彼は移動を続けた。

鬼は吠えて再び彼へと突撃し、彼の頭へと棍棒を振り下ろした。戒斗は横にステップし、粗雑な鉄の道具は彼の横を通り抜けた。そして錫杖を伸ばし、札に包まれたその先端と迫りくる武器を掠めさせた。

鐘の音が中庭に響き、閃光が瞬き、そして鬼の巨大な鉄の棍棒はそれが玉石を打ったかのように弾き返された。鬼は飛び下がり、両手を交互に振った。

「今のは痛かったぞ、坊主。前に会ったときから、新たに何か身につけたようだな。俺の名を覚えているか?しゃ──」

「お前の名になど興味はない。争うつもりはないが、お前など知ったことか。見知った気はするが、二度とは言わぬ。この領域を去り、私に死者を弔わせろ。」

「お前の体を夜食にしてくれるわ!」

鬼は宙に飛び、巨大な棍棒を戒斗に振り下ろしたが、戒斗は横に走り、錫杖を振った。棍棒は戒斗が立っていた石畳を砕き、戒斗の錫杖は鬼の踏みしめた左の脛を打った。大きな破砕音がして、札の巻かれた先端から再び閃光が瞬いた。

鬼は痛みに唸り、棍棒を取り落して左の脚を抱えた。戒斗は苦悶する巨人へと進み、それは僧侶が近づいてくるのを見ると棍棒に手を伸ばした。

戒斗は意志と阿弥陀経を音に乗せ、言霊を大きな声で唱えた。中庭は天上の鐘の音で満たされ、棍棒は力に打たれ、重い武器は鬼の手の届かないところへと滑った。

痛みに満ちた溜息が、禍々しく牙の生えた口から漏れた。
「魔法が消えるとき、我らが領域は空となり、我らはすべて死ぬ。全ての妖怪と闇の子の場は萎む。お前の言葉はその意味を失い、お前の呪符もただの紙となる。その時お前は何を目的とするのだ?鬼狩りよ。」

答える代わりに、戒斗は前へと駆け、巨人の額を掌で打ち、さらなる札をその肉へと刻んだ。

もう一度、長く澄んだ鐘の音が響いた。鬼は口から煙を吹き、悲嘆の叫びを上げた。白い光がその姿を溶かした。光が止むと、敷石に焼け付いた印だけが残った。棍棒は午後の光の中で、砂漠に照りつける熱のように揺らめき、そして物質界から形をなくした。戒斗は鬼の影響が消えると、霧が晴れていくのに気付いた。

彼は大きな息をつき、アドレナリンに震えた。錫杖の先端に巻き付いた札を剥がすと、それは崩れて塵となった。その中の力は使い果たされたのだ。彼は杖に寄りかかり、息をついた。彼は二人の死者に、なぜ二人はここに来たのだろうかと思案しながら近づいた。彼は騒がせた社へと礼をし、そこに住んでいた神への感謝の祈りを呟いた。

「もし時間があれば、栄えある御身の社を直させていただくのだが。だが連れのものがいるようだな。」

彼は振り向いて、鬼が損傷した神社の建物の角を見て、呼びかけた。
「話があるならば、出てくるがいい。」

戦闘装甲服に身を包んだ若い女が、建物の傍を通る古く崩壊した柵の裂け目から歩み出た。彼女はアサルトライフルを抱え、ベルトに拳銃を装備していた。手にしたライフルは、彼の方には向けていなかった。

「お前は誰だ、そして何が望みだ?」
彼は日本語で続けた。

「私はフミコ・タナカ、ざい──」

「財団のものか。」
彼は訛りのある、だが十分な英語で割り込んだ。
「お前の日本語は酷いぞ、タナカサン。何が望みだ?」

彼女はわずかに目を見開いた。
「あなた、財団を知っているの?」

「そうだ、看守たちはこの国ではあまり見ないが、明らかに注目している。だが、それだけではお前がここにいる理由にはならない。殺されている可能性もあったぞ。」

“看守”?そうよ、その通り。あなたは“手”の仲間ってわけ?」
エージェントは頭を振りながら彼の方向へ近づいた。ライフルはまだ下げられたままだった。

「“手”とは知己でな。昔、手助けしてやると言ってきたことがある。だが仏の顔が何度まであるか試すのは賢明ではないぞ。私の質問に答えろ。」
彼は踏み出して彼女の目を見た。彼女の目は中庭を見回していた。

「私はあなたの力を確かめるために送られてきました。重要なミッションの役に立つかどうか。」

戒斗は数瞬の間、何も言わなかった。それから笑い出した。
「私はお前の組織などとは働かないぞ。おまえたちは鬼を捕まえ、それを研究したかったのだろう?だがそれに有効な手立てなど何もない。逃げ出してもっと多くの人々を害していただろう。」

「あれが鬼なの?」

「そうだ、英語ではオーガとも言われるな。」

「江口サン、私はアメリカ人かもしれないけど、鬼のことは聞いたことがあるわ。それに、私たちの力を見たらあなたも驚くわよ。」

戒斗は害意が無いことを示すため、両手を上げた。
「そうか、それは関係もないし興味もわかないな。もう言ったはずだ。私はお前たちの組織とは働かない。」

彼女はアサルトライフルをストラップで肩にかけた。
「あなたの経験が必要な状況に当たったのよ。説明してもいい?」

「好きにしろ、エージェント・タナカ」

彼女は数分の間話し続けた。そしてそれが終わったとき、彼は溜め息を付いた。彼は彼女に初めて背を向けた。「そうか、それじゃあ、お前と行こう。だがまずは、死者を弔わなくてはならない。運ぶ手段はあるか?」

彼女は頷いた。
「ヘリコプターが近くにあるわ。」

「良いな。」
彼は暴力的な最期から、できるだけ安らげるように遺体を整えた。もう一度経を唱え、遺体の顔から血を拭った。

それが終わると、彼は彼女の方を向いた。
「ヘリコプターを呼んでくれ。伊根に急がなくては。」


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伊根の漁村

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ヘリコプターは日本海に近い平地に着地した。そこからエージェント・タナカは、漁村に行くボートを呼んだ。その村は古都、京都の北にある、丹後半島の北の先端で、沿岸を縁取って建っていた。多くの建物は舟屋と呼ばれる伝統的な手法で建てられていた。小舟のためのドックが一階に組み込まれており、その上が居住スペースとなっていた。

「ご遺体は丁重に扱ってるんだろうな?」
彼はボートのエンジンの音に負けないように大声で言った。

「さっきも言ったけど、然るべき機関に送って、身元がわかったら家族に連絡が行くわ。」

水面に照り返す日差しを防ぐために手を目にかざしながら、戒斗は頷いた。午後遅くになっていたが、村は静かだった。通常ならば、午後の獲物を下ろすために漁船が戻ってくるか、人々が船上で作業している時間だった。しかし今日は、輝く地平線に近づく太陽のもと、何の活動もなかった。ボートはドックの近くの空いた場所に滑り込み、戒斗は木製の構造物の上に飛び降りた。彼はフミコと目を合わせた。

「エージェント、みんなはどこに行った?」

「村民は退避させたわ。テロリストの攻撃が計画されているという名目でね。」

「それじゃあ、自衛隊や警察はどこだ。こういう状況なら出てくるはずだろう?」
彼は彼女に問いかけた。

フミコは微笑んで肩を竦め、彼に続いてドックに降りた。彼女はボートの操縦士に振り返った。彼女と同様のコンバットギアを身に着けた彼は頷いた。彼女がボートから向き直ると、彼はボートを発信させ沖へと向かった。

彼女は戒斗を見た。
「心配しないで。必要になればバックアップがいるわ。」

戒斗は二つの舟屋の間に入り、近くの道路へと向かった。
「それは必要にはならないだろうな。」

フミコは鼻で笑った。
「ちょっと自信過剰じゃない?」

戒斗は彼女を振り返り、錫杖に寄りかかった。目と目が合うと、戒斗の目は細くなった。
「私は成人してからずっと、妖怪や鬼から人々を守って過ごしてきた。その殆どで一人だった。私の自信は実績に見合ったものだ。」

彼女は両手を上にして肩を竦め、彼の後に続いて建物の間を抜け、道路に出た。

「事件について詳しく教えてくれ。」
彼は肩越しに呼びかけた。

「この八日間で六人が突然死しているわ。」
彼女の声色は、まるで祈りを捧げるかのように、わずかに恐れを帯びた。

「噛み跡はあったか?動物みたいに、肉を噛みちぎったあとは?」

フミコはわずかに震え、頭を振った。
「ないわ。どのケースも窒息ね。でも首を締めたり、溺れたあとはなかったわ。」

「犠牲者が発見されたのは寝床でか?」

「違うわ。死亡時刻は夜だけど、自宅で発見されたのは数名。他は路上で発見された。目撃者はなし。」

山地乳やまちちの仕業のようだが、確実ではないな。」

「何それ?」
彼女の声は軽かった。まるで彼女がこの話題をまるで気にかけていないかのように──それは不可解だった。これが彼がここに呼ばれた理由だ。そうだろう?

「眠っている人から息を奪う妖怪だ。だが通常山に住んでいるし、襲われた人は翌日死ぬ。」

「これもその可能性がある?」
彼女は問いかけた。

「山地乳はとても珍しい。例えその仕業だったとしても、これほど頻繁に狩りはしない。」

「どれくらい珍しいの?」

「私も江戸時代の動物絵巻で読んだことがあるだけだ。」
戒斗は溜め息をついた。彼は立ち止まって背中の風呂敷包みから水筒を取り出し、それを飲んでから再び話しだした。
「一番最近の死者はいつだった?」

「数日前ね。この通りをもう少し行ったところの家。見に行ってみる?」

戒斗は頷き、道案内するように彼女に身振りした。数分後、彼女は舟屋の一つのドアを開け、警察の設けたテープを潜った。戒斗は彼女の後に続いて舟屋の居住区画に進み、入り口で草履を脱いだ。フミコは居住区に入ったが、戒斗は足を止め、彼女のコンバットブーツを見下ろした。

「今は誰も住んでないわ。本当はいけないんだろうけど、これを脱いだり履いたりするのはあまりに煩雑。」

「じゃあここで待ってろ。」
戒斗は言った。

彼女の前を通り過ぎると、彼女は言った。
「遺体は台所で見つかったわ。」
戒斗は頷き、伝統的な障子を開け、入り口を通り過ぎた。床は磨かれた松材であり、彼の素足に滑らかさが感じられた。最初に現れたのは小さな居間で、戸棚の上に古いテレビがあった。現代的なトイレを通り過ぎると、台所だった。

戒斗には、命が終わった場所が感じられた。その放射は部屋の隅で、住人が木製の戸棚と小さな食洗機に向かって倒れた場所から発していた。彼は手を合わせて辞儀をし、経を唱えた。

窓から音がして、彼を驚かせた。毛むくじゃらの体が窓台から離れて視界から消えるのが微かに見えた。

戒斗は振り向き、入り口へと走り、草履に足を突っ込み、ドアから急ぎ出た。フミコが数歩送れてついてきた。

「あれは何?」
彼女は質問した。

戒斗は頭を振りながら角を曲がって道路に出た。視界の隅で、数十メートル先の二軒の家の間に何かが滑り込んだのが見えた。彼がそこにたどり着いたときには、何かがいた形跡はなかった。

フミコは彼に追いつき、アサルトライフルをそこに向けた。戒斗は手を置いてその武器を押し下げた。

「行ってしまった。」

戒斗は二軒の家の間の通路の終わりまで歩き、その先の小さな、良く手入れされた公園を見渡した。LEDの光が、道路沿いと公園の内部で瞬き、良く手入れされた芝生や子どもたちが遊ぶ場所を照らしていた。公園の反対側は、盛り上がる山を覆う森になっていた。彼は公園に向けて道路を渡り、なにか小さな、そして恐ろしく密度のあるものに背中を打たれた。

戒斗の顔は大きなガツンという音とともにアスファルトに当たり、一瞬の間、世界は暗くなった。彼の視界が再び晴れると、口の中に血の味が広がった。彼は頭を震わせながらフミコの方を向き、妖怪が彼女の顔の上に覆いかぶさっているのを見た。彼女の体は仰向けになっていた。

彼には息が彼女の唇の間から吸い出されているのが見えた。彼は立ち上がろうとしたが、目の前の道路の光景は揺れて二重に見えた。吐き気が体を貫き、喋ることができなかった。震えるような咳が出たのがせいぜいで、再び血の味が広がった。彼女は死にかけていた。

突然、三発の銃声が響き、山地乳は巻き戻されたように後ろに仰け反り、倒れた。フミコは喘ぎ、うめき声をあげながら体を起こした。戒斗には、数名の財団の兵士が、ライフルを構えながら道路上を接近するのが見えた。

戒斗は立ち上がり、フミコが安定して呼吸していることを確認し、肩に手をおいて座っているように促した。

彼は最も近くの兵士の方を向き、その脚を錫杖で払った。倒れた兵士のみぞおちに蹴りを叩き込み、錫杖を伸ばしてもうひとりの兵士の顎を捉え、彼を大の字に伸ばした。三人目が武器をあげ、戒斗に狙いをつけた。

「そこまでにして!」
フミコは叫び、二人の間に割って入った。彼女は戒斗を手で押し留め、兵士の方に向いた。
「二人を起こして通りに退却して。」

「しかし──」

「いいから!」

フミコは戒斗の方を振り向いた。戒斗が彼女をすり抜け、兵士たちの方に向かおうとすると、両手を彼の胸に当てて押し留めた。

「聞きなさい!」
彼女は彼の顔に向けて怒鳴り、彼を止めた。
「彼らは私を守ろうとしただけよ。それが仕事だから!」

戒斗は彼女が驚くほどの力で彼女の手を除け、山地乳の方に向き直った。妖怪は震えており、赤褐色の血が胴体に開いた三つの銃創から流れ出していた。それは幼児ほどの大きさのオポッサムのように見えたが、やや人間ぽくもあった。その目は青く、ゾッとするほど人間のものに似ていた。戒斗はその胸に触れた。まさに呼吸が止まるところだった。

「本能的に動いただけだ。悪意はなかった。」
彼は言った。

「じゃあ彼らはどうすればよかったの?私を見殺しにしてれば?」

「お前は生まれ変わるが、これはそうじゃない。」
彼は数分の間、山地乳のそばにしゃがんだまま黙っていた。
「妖怪に捧げる祈りはない。地獄も、仏法もない。ただ無があるだけだ。」

フミコは戒斗の肩に手をおいた。彼は顔を上げて彼女を見た。
「すまなかった。ただ、戦いで気が立っていただけだ。」

「どうしてこんなに活力が湧いているのかしら?まるでエスプレッソを三杯飲んだみたいだし、息も乱れてないわ。」

「山地乳が息を奪う最中で止められると、次の日に死ななくなるだけではなく、力がみなぎり寿命が伸びる……そう言われている。」
戒斗は穏やかに言い、風呂敷包みをほどき、それを広げ、小さな毛の生えた体をそこに横たえた。彼は水筒を地面に置き、予備の札を帯につけた袋に滑り込ませた。

「何をしたの?」
彼女は質問した。

「無力化し、この世界から消した。哀れな獣だ。」

木々の中から、手を叩く音が響き、ゆっくりとした拍手となった。

戒斗は振り向き、天狗が公園の反対画の木々から出てくるのを見た。それが歩く度、その爪の生えた足は芝生へと食い込んだ。その黒い羽根の生えた翼は背中で折りたたまれ、手には黒く油で濡れたような金属の長い槍があった。その胸には革鎧を着けており、金属の輪が縫い込まれていた。

「お見事なり。」
天狗はその嘴から甲高い声を出して笑った。
「山地乳に弔いの儀式とは!経でも唱えてやろうか?」

「それは意味がない。妖怪が死ねば、精神は妖怪が行けるところならばどこにでも行ける。妖怪には転生する魂がない。浄土への道もない。」

「それは残念だ。私はその小さきものを見ていた。彼はいい仲間だったし、惜しまれるだろう。」

「殺しすぎた。ここしばらくで六人だ。らしくもない。お前が焚き付けたのか?」

「私か?私のようなものが、漁師に無闇に死んでもらいたいと思うはずがないだろう?あの毛の生えた魔物は飢えていたのだ。お前たちの世界から長く離れてな。私も彼がここで何をしていたのか知らなかった。」

「信じられんな。天狗さん。」

天狗は公園を横断して接近しながら、肩をすくめた。

「私を嘘つきと言うか。坊主。」

「ああ、天狗はいつも悪ふざけを好む。大抵、罪なき者の死に至る。」

「罪なき者だと!ハッ!」

「ここの人々がお前に何かしたのか?」

天狗は公園の境界で止まった。数メートルのアスファルトが間にあった。彼は両腕を広げ、槍で村全体を指し示すように振った。

「彼らは生きているのだ、坊主!彼らは触るもの全てを汚す。我々の生きる場所はもはやなく、我々の力の物語は語られず、我々の獲物は森にはない。テレビや車を持ち、大地を汚す人間たちが限りなくいるだけだ。彼らこそ穢れだ。」

戒斗は錫杖を両手で掴み、障壁にするかのように体の前で水平に構えた。

「だからといって死んでよいということにはならない。」

「おお、哀れな。道を失った坊主よ、もう輪廻を信じなくなったのか?転生するのではないのか?何も害はないではないか。」

「我々がやらねばならないわけではない。この地を平和に保ちたくないのか?私はこれ以上の暴力は望まぬ。」

天狗は肩をすくめた。
「その嬢ちゃんの兵士が我が友を殺めた。この侮辱は血で贖われなければならぬ。」

戒斗はフミコがライフルを拾い上げるのを見た。彼は札を帯から出し、言霊を唱えて錫杖に貼り付けた。彼女は彼を目を合わせて頷いた。彼は顎で彼女に下がるように言ったが、彼女は首を振った。彼女はライフルの狙いをつけ、息を呑んだ。

戒斗は向き直り、天狗が人間離れした跳躍の頂点を越え、空から降ってくるところがようやく見えた。彼は横に飛び、錫杖を上げて迫りくる槍の突きを受けた。衝突とともに鐘の音が響き、札に包まれた錫杖の先端から明るい光が発した。槍の突きは右に逸れ、フミコの方へ向かった。

戒斗は警告の声を上げたが、フミコはすでに身を返して突きを躱し、突きはすんでのところで彼女の顔をかすめていた。フミコはバーストを発射したが、天狗は槍を振るって弾丸を弾き、弾丸は道路へと散らばった。天狗の嘴の生えた口が数回鳴らされ、「ツクツク」という音を立てた。

天狗は槍を更に回転させ、柄を霞むほどの速度でフミコの頭蓋へと打ち下ろした。戒斗は鳴り響く言霊を放ち、槍の柄はフミコの着るアーマーへと逸れ、頭部と肩の中間を打ち据えた。彼女は痛みにうめき、よろけて舟屋の外壁へともたれ、ようやく体を支えた。

「そこまでだ、鳥め!」
戒斗は天狗に日本語で叫んだ。
「そろそろ去るべきだぞ。」

彼は錫杖を振って天狗の顔を狙った。それは受けをすり抜け、黄色い嘴の側面を打った。もう一度閃光がひらめき、鳥のような妖怪はフラフラと飛び、背中からアスファルトに落ちた、それは甲高い痛みの叫びを上げた。戒斗は振りかぶった錫杖を槍を持った手首に打ち下ろした。ゾッとする、何かが折れる音がした。妖怪は叫び、武器を取り落した。

「地獄で永遠に焼かれるがいい、坊主め!私は世界をもう一度見たかっただけだ。じきにどこも居場所ではなくなる。私を無へと送るがいい!」

戒斗は更にもう一枚の消退の札を持って天狗を見下ろした。
「どういう意味だ?早く言え、私がお前を消す前にな!」

「魔法は消える!領域も薄れていく!我らの住む場所はなくなり……ここに来ることになる。」

「お前たちは来るべきではない、」
戒斗はゆっくりと言った。

「オモグチ様の言った通りだ。おまえたち人間は……」

「誰だ?」

「我らが後援者だ、猿どもめ。あのお方は我らが再びここに来ることを助けた。多くの者にとって久方だった。あのお方は、人間たちは日本に妖怪が戻ることを決して許さぬだろうと。」

「その男はどこにいる?」

天狗は無事な方の腕で打ちかかった。だが戒斗は脇に避け、それを錫杖で打った。光は前より弱くなっていたが、天狗は同じように痛みに叫んだ。

「答えろ!」

天狗が口を開くと、それまでの暴力的で、嘲るような響きと打って変わって、声は低かった。
「我らの希望を理解した唯一のお方を裏切ると思うか坊主。人間たちの流す汚泥に浸かるがよい。お前の力が働かなくなるまで、異界から目を逸らすがよい。」

戒斗は踏み出し、消退の札を天狗の胸にそっと貼った。鐘の音が無人の通りに響き、妖怪は消えた。煙だけが残り、悲鳴も上がらなかった。


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戒斗は使い古しの札を錫杖から剥がした。ここ何年か、札の力は弱まっていた。彼は錫杖をついてフミコの方を振り返った。彼女は背中を壁につけ、左手で槍の柄で打たれた所を覆っていた。

「大丈夫か、タナカサン?」
彼は英語で呼びかけた。

「どこも折れてはいないみたい。」

「あの鳥が話していた、魔法が消えるとは何のことかわかるか?」

彼女は一瞬の間戸惑い、それから首を振った。
「何も。あなたが言ったように、私の日本語はそれほどうまくない。全部は聞き取れなかった。」

戒斗は彼女を睨んだが彼女は目を逸らさなかった。彼女は戸惑いなく目を合わせてきた。

「魔法が消えていくことについて何も知らないと言うか。今使った護符は昔よりも力が減っている。神社のときもそうだった。数回の打撃でただの紙になってしまう。」

「護符?杖のほうが……」

「いや、私の錫杖はただの鋼鉄だ。旅する僧侶には伝統的なものだ。杖に貼る護符と、言霊が妖怪を倒すのだ。」

「それはつまり、呪文ということかしら?」

「呪文ではない。菩薩や阿羅漢たちの賜物で、知恵あるものに特定の力を与えるものだ。これらは道具であり、呪文ではない。」

フミコは頭を振った。
「私には呪文に聞こえるわ。」

戒斗は短く、鋭く、鼻で笑った。

「じゃあ、杖は何もしていないの?振り回しているところを見ると、効果がありそうに見えるけど。」

「誰かを打てば痛い。試してみるか?」

フミコはぎこちなく笑った。
「言いたいことはわかったわ、それを下ろして。」

戒斗は息をついた。
「錫杖に力があるという伝説はあまりないな。」

「どういうものがあるの?」

「何年も前、高知県の延光寺に有名な僧侶が訪れた話を読んだことがある。近くの村が干魃で苦しんでいたので、その僧は錫杖を使い、地面を割り、井戸を掘るべき場所を指し示した。その井戸はまだあり、その地の人々に目洗の井戸と呼ばれている。」

「わかりやすい話だけど、現状に役立ちそうにはないわね。」
彼女は彼に微笑んだ。

戒斗も笑ったが、アスファルトにぶつかった頭が痛んだ。

「天狗が言った男は誰だ?知っているか?」
彼は問いかけた。

「聞き取れたと思うけど、オモグチ、だったわよね?」

「そうだ。そして妖怪はをつけて呼んだ。敬意を込めていたということだ。重要な人物なのだろう。」

「問い合わせてみるわ。大丈夫?」

戒斗は水筒から水を含み、口をゆすいで側溝に血を吐き出した。「私は大丈夫だ。」

フミコは彼から顔をそらし、指を耳に当てて無線で話し始めた。戒斗は山地乳の覆われた体を見た。彼はフミコが上官と話す音に耳を閉ざし、心を無にして、山地乳の死の責任を受け入れようと務めた。彼女が肩を叩くまで、彼はそれを見続けていた。

「京都に主口健太という人物がいるわ。」

「なぜ天狗が話していた男だと言える?」

「あまり一般的な名字ではないわ。それとこの主口はトランスター・エナジーズのCEOよ。本社が京都にある。」

戒斗は痛む頭を撫でた。
「そうだな、それじゃあ、主口さんと話に行くことにしよう。」


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京都

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戒斗は色付きガラスの装甲SUVの後席に座り、車が丘を走る間、京都の街が視界に入るのを見ていた。彼は錫杖を両手で握った。一人の男が、妖怪と鬼を物質界に呼び込んだ。戒斗には、その情報が何を意味するのかわからなかった。彼に何を突きつければいいのだろうか?

フミコは助手席に座り、控えたトーンで電話していた。制服を着た運転手は何も知らされておらず、黙って車を運転していた。戒斗は彼女の肩を叩いた。ちょうど電話を終えた彼女は、彼を振り返った。

「私たちは今何をしているんだ?」

「最初の工作チームが建物を確保し、ミスター主口以外を避難させたわ。伊根のテロリストの攻撃と関連した保安上の懸念というカバーストーリでね。私たちが話す時間を作るために、彼だけ遅れて誘導されている。」

「少し迂遠ではないか?」

「ええ、私ならもう少しちゃんとやるだろうけど、これは私の決定じゃないわ。状況をできるだけ早く収容する必要がある。妖怪の事案が増えていることに誰かが関係あるのならば、それを止めなくてはならない。」

「ということは、通常よりも事件は増えているということか?」
彼は問いかけた。

「私たちが知る限りイエスね。財団が掴んでいる限り、普段からあなたは比較的活動的だけど、一日に三体、人を殺した妖怪に対処するのはそうはないことでしょう。」

彼は目を閉じて揉んだ。伊根で打撃を受けた頭がまだ痛んだ。
「一度もないな。彼らは普通は単独で、離れて、隠れている。」

「そうね、だからもしこれが何かの兆候なら、正常性への大きな脅威だわ。」

戒斗は嘲った。
「正常性?ああいうものは日本ができる前から、人が住む前からいる……何が正常だ?お前たちのような愚か者はいつも世界がどうあるべきか、お前たちの狭い観点を押し付けてくる。これが現実だ。」

彼女はシートの中で姿勢を変えて、彼から目をそらし、前を見つめた。
「あなたの意見はわかったわ。だけど今重要なことは、この状況はあなたや私が単独で取り組むには危険すぎるということよ。二つの事件だけで、何人が死んだのかしら?八人、多すぎるわ。人々も気づき始める、パニックになるわよ。」

彼はやる気なく頷いた。彼女が自分から視線を逸らしているのにも気付いていなかった。
「オーケー、そうだな。パニックは困る。だがそろそろ彼らが存在することを、人々に明かすべきときかもしれんぞ。」

フミコは肩をすくめた。
「私の給料の分を越えているわ、江口サン。」

彼は窓の外を見た。次第に都市内に近づいており、京都だけが持つ、古い寺院と現代的なビジネス街が混在した様子が現れていた。もし彼が鬼と交流を持っていたら、どこに棲むのが良いだろうか?過去と現在が、古都の骨そのものの中まで絡み合っていた。

「あなたが消し去る前に、天狗は何か言ってたわね。」
フミコが言った。

「色々なことを言っていた。タナカサン。」

「そうね、でも私が聞き取れたのは、彼が人々を『ケガレ』と言っていたことよ。その単語は知らないわ。」

「文字通りの意味は汚れていること、清浄でないことだが、神道では別の意味がある。」

「それは何?」

「魂の堕落、沈滞、魂のレベルにおいて病んだものを交配すること。これは倫理的な堕落という意味ではなく、罪や行動によって精神に汚点がついたという意味でもない。これは不道徳や不自然な力に対する自然な反応である。よって、人が過ちへの許しを求めたとしても、未だ穢れは残る。その者は行動により汚点がついたままである。理解できたか?」

「あの鳥が言ったみたいな、全ての人類についての文脈ではどういう意味になるのかわからないわね。」

「穢れは、清めの儀式を通じ、それを引き起こした人々によって祓われなくてはならない。神道でよく言われる例えだが、静かな溜り水は澱む。感染源となり、疫病を運ぶ虫が繁殖する。だが流れる水は清浄で純粋である。天狗は人の社会を淀んだ溜り水と呼んだのだ。」

フミコはしばしの間黙っていた。顔が見えなかったので、彼には彼女の気持ちはわからなかった。突然、彼女は再び話し始めた。

「社会全体の純化とは、どのようなものなのかしらね?」

「天狗の考えでは、おそらく津波などが適当と考えていたのではないかな。」
彼は言った。

かすかに息を飲む音がエージェントの口から漏れた。彼女は振り返り、彼の目を見た。
「妖怪がそんなこと出来るのかしら?」

「文字通りにか?私はそうは思えない。海はどんな妖怪よりも強大だ。だが喩えだとしたら?人々を一掃する?あり得ることだ。この世界の他に多くの領域がある。そこには多くの妖怪が満ちている。」

フミコは下を見て、再び黙った。そして言った。
「虐殺ってこと?」

今度は戒斗が肩をすくめる番だった。
「伊吹山の鬼も、天狗も領域は消えつつあると言っていた。彼らが言うには、魔法がうまく働かなくなったからだと。彼らが何を言いたかったのか正確にはわからないが、全ての妖怪や鬼が故郷を失い、どこか新しい場所が必要ならば、今のままの日本にはそんな空きはない。」

フミコは震えた。

「私もそう思う。愉快な考えではないな。」
彼は言った。
『そしてお前は魔法が消えていくことについて何も知らないと言い張ったな、看守よ。』
彼は心の中で思った。

運転手が初めて口を開いた。
「目的地はもうすぐです。」

「先遣隊から連絡はあった?」
フミコが問いかけた。

「ありませんね。彼らはビルからの避難は完了し、POIを確保すると連絡をよこしました。しかしそれ以上のアップデートは来ていません。」

「なんですって?それは良くないわね。」

「どういう意味だ、フミコ?」
戒斗が問いかけた。

彼女はファーストネームを呼ばれたことに少し目を見開きながら振り返り、彼を見た。
「トラブルよ。」

数分後、彼らは10階建てのオフィスビルの前に立っていた。その透明なガラスのドアを通して、無人の清潔なロビーが見えた。財団の活動の形跡は見えなかった。

「そうです、建物を確保して以降、彼らからの連絡はありません。」
フミコは携帯電話に言った。
「いいえ、完全な戦術チームが必要だと思います。任務部隊を起用し、我々の位置によこしてください。ありがとうございます、管理官。」

彼女は通話を終えた。戒斗は彼女を見た。彼女はすまなそうに目を合わせた。
「増援を待たなくてはならないわ。」

「いや、今その男と話しに行くぞ。」
彼はガラスドアに向けて歩き出した。彼女は両手を広げて彼の前に立ちふさがった。

「待たなきゃダメよ。何が起きているのかもわからないのよ。」

「私はお前の兵士の部隊を背後に引き連れて行くつもりはないぞ、フミコ。私は今行く。」
彼は彼女を優しく、しかし断固として脇によけ、ガラスドアに向けて階段を登り始めた。

「ああもう。」

フミコは、まだ席についたままの運転手に振り向いた。
「ここにいて、チームが到着したら状況を教えてあげて。私は位置がわかるようにトランスポンダーをオンにしておくから。」

「それは命令とは違います!」
彼は戒斗を追ってビルに入る彼女の背中に呼びかけた。


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戒斗は人のいないロビーを見渡した。清潔な、磨かれた床と、無人の保安ステーションが彼の前にあった。彼は保安ステーションに近付き、コンピューターのモニターを見た。それはまだログイン状態にあり、使用できた。

「ビル内の全員を避難させたのか?」
フミコがロビーに入ってくると、彼は肩越しに呼びかけた。

「ええ、少なくともそう命令はした。」

「このステーションにはついさっきまで人がいたはずだ。だが今は、周りにも人がいない。」

彼女は肩をすくめて彼のそばに来た。
「避難は二十五分前よ。だから避難した人は全員家に帰ったのではないかしら?もう二十一時を過ぎていたし、もともと多くは残っていなかったと思うわ。」

彼は振り向いて、もう一度ロビーを見渡し、それから彼女と目があった。
「お前のチームはどうした?」

「トランスポンダーは全員重役室にある。最上階よ。」

戒斗は保安ステーションの机の上にあったセキュリティバッジを手にとった。彼はエレベーターのところに歩き、彼女のために扉を押さえた。

「バックアップが来るまであと十五分。」
彼女は開いたエレベーターに乗りこみながら言った。

「それを待つつもりはない。」
彼はセキュリティバッジをセンサーにかざして最上階を解除しながら言った。

「じゃあ、どんな作戦があるの、戒斗?」

「その男と話して、彼と鬼の繋がりを見つけ、お前のチームも見つける。」

「随分簡単そうに言うのね。」

彼は笑った。
「万物はシンプルだ。正しい見かたさえすればな。」

彼女は頭を振り、ライフルをチェックした。
「私の経験ではそうではなかったわ。」

「恐れを手放せ。それは幻覚だ。全てはいずれは終わるのだ。」

「そうね、私たちが、今夜終わるのでなければいいけど。」

彼が頷くと、エレベーターの扉は最上階で開いた。フミコが最初に踏み出し、ライフルを構えて部屋の中に敵がいないことを確認した。戒斗が後に続き、そしてそれを見つけて立ち止まった。

天井は十五メートルほどの高さで、巨大な鳥居が中心に立っていた。そこは多くの部屋に通じていたが、重役室に入るには、鳥居をくぐらなければならなかった。

彼は上を見たまま、赤橙色の石のアーチに近づき、それに手を当てた。

「何かおかしなところがあるの?」
フミコが質問した。

「これは本物の鳥居だ。ただの装飾じゃない。とても古くて、良く手入れされている。このような場所にあるのは奇妙だな。」

「ええ、そうね。屋内で見ることはあまりないってわけね。」

「こんなふうに建物の中に移設された例は知らない。神道では、これは屋外だからこそ機能する。俗世と神聖なものを分けるものだ。よく知らないが、異端の教派ではこういうものもあるのかもしれない。」

「仏陀が企業の重役を神聖なものとみなすことはないと思う?」

「なさそうだな。」

彼は大型の部屋の奥へと歩き、そこがもう一つのロビーであることに気付いた。受付のデスクが鳥居から数歩のところに立っており、CFOとCEOのオフィスへの道を守っていた。それもまた無人であった。

彼が歩くたび、錫杖の輪の鳴る音が無人のホールに響いた。看守のチームの痕跡はなかった。

「お前の部下はどこにいる?」

「この先、何十メートルか行ったところよ。」

二人は突き当りの両開きの扉まで移動した。そこにはCEO 主口健太と日本語の文字で書かれたプラカードが設置されていた。彼は片方の扉を内側へと押し開き、息を呑んだ。

フミコは彼のそばへと急ぎ、叫んだ。
「ファック!」

そこに並んでいたのは、五名構成のチームだった。内臓を飛び出させ、ほとんど形がわからなくなるまで殴打されていた。何名かの頭部は割れていた。血と糞便の臭いが、広い重役オフィスの中に強く漂っていた。

戒斗は死体から視線を移し、部屋の中を探った。部屋の反対側で動きがあり、彼の目をひいた。

高価そうなスーツを着た中年の日本人男性が、タオルで手を拭きながらトイレから出てきた。白いタオルについた赤い筋が目についた。

「何だこれは?」
戒斗は日本語で呼びかけた。

「許可もなく私のビルに入り、それを質問するだけの胆力があるとはな。」
彼は英語で答えた。
「企業スパイだよ。疑いもない。あるいはテロリストだな。」

机まで歩き、血のついたハンドタオルを小さなゴミ箱に投げた。それから机の前に立ち、わずかにそれにもたれかかった。

「あなたが主口健太?」
フミコが問いかけた。
「一体何なの。どうやってこんなことを。」

「彼らは銃をちらつかせながら来たのでね……命の危険を感じたというわけだ。」
男は微笑んだ。

「この男たちを素手で殺したのか?」
戒斗が問いかけた。

「そうだ、無礼な連中だったのでね、お坊さん。」

フミコはライフルで主口を狙った。

「このクソ野郎!」

戒斗は彼女の肩を叩き、囁いた。
「やめろ、ここで何が起きたのかを確かめなくては。」

「私は王だ。放浪の僧侶や秘密組織の準軍事エージェントの質問などには答えんよ。」

戒斗は彼が何を意味したのか質問しようとしたが、スーツが縫い目で裂ける音を聞いて気を逸らされた。彼の肉は盛り上がり、布地を、次いで彼の青白い肌を裂き、二・五メートルの角の生えた鬼の戦士の姿が顕になった。裂けた皮膚はタイル地の床にバラバラと散らばり、血が彼の周りに撒き散らされた。

鬼は明るい青の肌をしており、三本の角が額から生え、口は牙で満たされていた。彼の目は赤く輝き、オフィスを暗く照らした。油で濡れたような緑の鱗の服を着ており、荒々しい肉を包む鎧のように見えた。

戒斗は周りを見回し、部屋が暗くなり、霧が床から立ち上りエージェントたちの死体を包んでいるのを見た。空気も冷たくなっていた。鬼は左側に手を伸ばし、キラキラと輝く空中から長大な薙刀を取り出した。

「我が領地を侵し、答えを求めるお前は何者だ、放浪者よ。」

戒斗は錫杖を握り、その先端に札を設置した。
「お前の名は何だ、魔よ。」

「酒呑童子。」

戒斗の口が大きく開かれ、しばし呆気にとられた。

「何?」
フミコが促した。

「お前の坊主は知っているようだぞ!」
鬼は叫び、豪快な笑いで部屋を満たした。
「何と言えばいい?酒好きなことか?」

フミコはもう一つの質問を投げかけようとしたが、薙刀が彼女の眼前の床に叩きつけられ、衝撃波が迸り、彼女は後ろに吹き飛ばされた。戒斗の錫杖が衝撃を和らげた。札が効果を発揮すると、鐘の音が響いた。

「質問はここまでだ!」
鬼は叫び、戒斗の方に突進した。

薙刀が戒斗に振るわれると、彼は言霊を発し、右へと飛んだ。刃は言霊に弾かれ、再び床に叩きつけられた。砕けたタイルと破片が戒斗の体を襲った。彼は頬と腕に焼けるような裂傷を感じ、出血したと知った。

彼は錫杖を振り下ろし、鬼の前腕を打った。重い打撲音がして、鬼は唸り、しかし彼へと手を伸ばした。巨大な手が戒斗の開いた掌を包み、激しい閃光が鬼の固く握りしめた拳から迸った。青い血が戒斗の胸にしぶき、酒呑童子は喘いで激しく傷ついた手を引いた。三本の指が小爆発により折れ、裂傷は巨大な青い掌まで切り込んでいた。

戒斗は鬼の血で汚れ、効果のなくなった札を捨てた。魔は薙刀を落とし、拳を胸で握り込んだ。

「忌々しい鼠め!よくも俺を打ったな?!?」

戒斗は走り込み、錫杖を巨人の眼前の壊れたタイルに突き入れた。杖の基部はほぼ床へと沈み、頂上の札が明るく輝き、鐘の響きの不協和音を引き起こした。札は白く輝き、鬼は目を無傷のほうの手で覆い、日本語で悪態をつきながら喘いだ。

戒斗は身を乗り出して二枚の札を輝く鱗の鎧に貼った。白い光が発し、何本もの鎖が現れ鬼を縛り、床へと縫い付けた。鎖の一本が太い首を取り巻くと、鬼は喉を鳴らした。

戒斗は杖を床から引き抜いた。使い尽くされた札がその先端から崩れ剥がれた。彼は振り向き、フミコを見下ろした。彼女は衝撃で壁まで吹き飛ばされ、そこから起き上がろうとしていた。彼女が衝突したところの建材が崩れ、彼女の上に降り注いでいた。

彼は彼女の隣に屈みこんだ。
「怪我はないか?」

フミコは呻きながら彼の手をとった。彼は彼女を引き上げて立たせた。
「頭が割れるようだわ。でもどこも折れてないと思う。」

彼は彼女の肩越しに、彼女が壁に残したクレーターを見た。彼女も彼の視線の先を追い、そして息を呑み、自分の体に手を走らせた。
「ジーザス、どこか出血してない?」

「そうは言えないな。」

「山地乳の力?」

彼は頷き、藻掻く鬼に向き直った。鎖は逃げようと藻掻くたびに明るく輝き、きつく締め付けた。

戒斗は鬼の王の前に立った。
「ここで何をしている?お前は死んだと聞いていたぞ。」

「人間が作った物語だ、ハハ!」

「彼は誰なの?」
フミコが質問した。

「鬼の王を自称するもの。かつてこのあたりで多くの死を引き起こした。伝説によると、著名な侍に首を斬られたというが。」

「そのとおりだ坊主。だが俺は生き延びた!俺の魔法は強い。」

「なぜ変装した。なぜ人間のふりをする?」

「権力だ。常に権力をめぐる話ではないか。俺には資源と影響力が必要だった。俺に従う妖怪たちを覚醒する世界に連れ帰るためには。」

「消えつつある領域について話せ。なぜここに逃れようとする?」

「仲間に聞いてみるんだな。」

戒斗はフミコを見た。彼女は首を振った。

「その女は知っている。皆知っているぞ。そいつらは何ヶ月も俺たちを狩り集めようとしていた。そいつらはなぜ俺たちがここにいるか知っているぞ。魔法は消えるのだ坊主。ならば俺たちにどうして欲しい?」

「彼が話しているのは真実か?お前たちは妖怪を狩っているのか?」
戒斗はフミコに問いかけた。

「もちろん、異常を収容するのが私達の仕事よ。」

「だがそこで、疑問があるぞ、坊主。なぜ彼らはお前を必要とした?」

戒斗はフミコを見た。

「もう言ったはずよ!私たちは伊根で人を殺しているのが何なのかわからなかった。もっと習熟した人が必要だった。」

鬼は再び笑い出した。その音が壁に反響した。

「奴らはお前を必要としたのではない。奴らが必要としたのはそれだ。」
鬼は戒斗の錫杖を見た。

「何だと?」

フミコは鬼から戒斗に視線を移し、それからライフルを上げて鬼に狙いをつけた。戒斗はライフルの銃身を掴み、天井に向けた。

「やめろ!説明しろ!」

フミコはライフルを強く引いて彼を振りほどき、顔を背けた。
「彼が何を言っているのかわからないわ。」

「嘘をつくな、フミコ。」
戒斗は声を落として言った。

彼女は彼に向き直った。顔には明らかな怒りがあった。
「私は──」

突然彼女は耳に触れ、彼には聞こえないほどの小声で話した。

「了解しました。サンキュー・サー。」
彼女は通話先の誰かに向けてそう言った。

「何だ、今のは?」
戒斗は問い正した。

「あなたの助けが必要だった。それは本当よ。」

「それで?」

「私たちにはその杖も必要だった。」

「なぜだ?これは我が一族に受け継がれたもの。ただの錫杖だ。必要ならば買える。」

「違う、買えるものじゃないわ。」
彼女は側頭部を揉んだ。痛みからか、苛立ちからか、あるいは両方か。彼女は溜め息をついた。

「それは遺物よ。アノマリーなの。書庫の文書を調べていて見つけたわ。それは魔法よ。それも大文字のね。」

「意味がわからないぞ。」

「知ってほしいの、それはただの杖じゃないわ。それは鍵よ。」

「何に対してのだ?」

「領域、次元、無限の奇跡術的エネルギーへの。神聖なるもののための雷の杖。私たちが見たこともないほどのアキヴァ放射を放っている。」

「それが何になる?」

「それがあなたが妖怪を簡単に消退させられる理由よ。あなたの札によってではなく、あなたの呪文……言霊でもなく。杖がしているのよ。」

「違う。」

「あなたほど優秀な鬼狩りに会ったことはある?ただ他の人より強いからだと思っていたの?あなたは兵士と奇跡術者を一個大隊必要とするほどの精霊を消退させられる。あなたが彼にしたことを見て!」

鬼は再び、しかし更に大きく笑った。
「その通りだ、坊主。お前は何も特別じゃない。その杖が大業をなしていたのだ。」

「人殺しの言うことを聞かないで!私の話を聞いて!」
フミコは叫んだ。

戒斗は杖を見た。今までのようには強く握れなかった。

「彼の言うとおりよ。魔法は働かなくなっている。異常なものも崩壊している。何世紀も私たちが知ってきたものが存在しなくなろうとしている……そしてそのうちには、いくらかの混乱を巻き起こしているものもあるわ。」
彼女は戒斗の肩を掴みながら言った。
「だけど無くなっていないものは、戒斗、あなたよ。その杖。あなたは何十年も魔物と戦ってきた。そして常に成功してきた。その杖がその理由よ。」

「嘘だ、」
彼は呟いた。腕は震え始めていた。

「本当よ!だけどあなたがやってきたことは嘘じゃない……あなたは人のためにやってきたわ。」

「じゃあ今は?」
彼は問いかけた。フミコの手を肩からどけ、彼女からも、鬼からも離れながら。

「このエントロピーに何かができるはずよ。そしてその杖は楔になる。私たちと一緒に来て、助けになって。」

鬼はまた大声で笑った。
「そいつは看守のためになど働かんよ、小役人が。見てみろ、そいつが今更変われると思うか?現実を見て崩れそうだ!」

「黙りなさい!」

鬼は唸り、そして部屋は更に暗くなった。戒斗は半狂乱で周りを見た。オフィスの壁は消え、赤い霧と枯れゆく木々に変わっていた。

「周りを見てみろ、坊主!領域は枯れていく。そして俺たちは目覚めた世界で俺たちの場所を見つけるぞ。」

戒斗が鬼の王に向き直ると同時に、輝く鎖は暗くなり、それから銃声のようにひび割れて分割された。念力の鎖は地面に落ち、点滅してから消えた。

酒呑童子はフミコを手背で吹き飛ばし、フミコは霧の中に消えた。そして彼に叫びかけた。
「お前の玩具は召し上げだ。そしてお前を喰らい、我が民はこの島を洪水のように満たすだろう。人間よりはこの地をいたわることができる。奴らを全て滅ぼした後でな!」

鬼は吠え、霧が両者を包んだ。戒斗は最上階のロビーがあった場所を振り返った。鳥居はそこで鈍い赤色に輝いていた。鬼はそれも彼の領域に引き込んでいたのだ。鳥居は境界であった。神聖なるものではなく、他世界との。

霧の外から、薙刀が戒斗の胸に向けて飛んできた。彼は後ろに下がり、錫杖を鋭い円弧に振り、刃を逸らした。鐘の音が鈍く、遠くで鳴った。

彼は刃が脚を薙ごうとするのを飛び上がって避け、空中で薙刀の太い柄を打ち、それを二つに折った。さらに鐘の音が、より大きく、近くで鳴った。

酒呑童子は吠えた。
「さっさと死ぬがよい!」

戒斗は霧に杖を突き入れながら、日本語で静かに句を詠んだ。

流れ川 水につつみし万物を
海へ流さん 我もまたゆく

霧が割れ、鬼は牙を剥き出し唸った。それは彼へと手を伸ばした。片方は無傷で、もう片方は恐ろしく傷ついて。

戒斗は身を捩って躱した。二本の怪物の手の間をすり抜け、鬼の領域の濡れた地面を錫杖で打った。鐘が彼らの周囲全てで鳴り響き、白い光が鬼を包み、青白い炎が地面を薙ぎ、戒斗の脚へと登った。鬼は叫び、狂乱して炎を叩きながら叫んだ。戒斗は杖を振り、酒呑童子の顔を打った。

青黒い体液が戒斗の体と顔に飛び散り、目を見えなくさせた。鬼の王は痛みに叫び、無闇に腕を振り回した。それが戒斗の胸に当たり、彼は地面に打ち倒された。

彼がようやく僅かに目を開けると、光が空間に戻ってくるのが見えた。溶けた氷が逆回転するように、あるべき場所に戻る壁、そして顔にめり込んだ眼球で彼を見つめる酒呑童子の眼差しが見えた。鬼の王が喋ろうとすると、その破れた喉から震えるような息が漏れた。突如、鬼は無事な片目で戒斗を見て、そして唸った。
俺は……消えないぞ……I will not… fade…

激しい咳とともに酒呑童子の胸は割れ、さらなる青い体液がその唇から漏れた。鬼はようやく弱く、濡れた息を絞り出し、静かに倒れた。獣の胸は上下動をやめ、部屋が明るくなってゆくのと反比例するようにその目から光が消えていった。戒斗は目をそらした。

戒斗は仰向けに横たわりながら、錫杖を胸の前で握った。呼吸するたびに鋭い痛みが脇腹を襲い、血の味を感じた。彼はなんとか首を起こし、杖を見ようとした。

『よし、私を見ろ。今まで自分の力を私に言えなかったというのか?私はお前の力をずっと使ってきたというのに。』

誰かが彼のもとに走ってきた。薄れゆく意識の中で、彼はそれがフミコであることをようやく認識できた。

彼が目を閉じると、世界は暗くなった。



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