音声記録転写開始 - 通話記録 - 2022/7/7 - 09:24:77 - サイト-19 文書化部門 から サイト-19 管理官オフィス への発信
オリーリ管理官: やあクラレンス、何か問題か?
C. ロビンソン: やあ、もう秘書の子は口説いたかい?
オリーリ管理官: まだ言ってるのか? 無理だって分かってるだろ。
C. ロビンソン: (含み笑い) これがラッキーコールになることを期待してたんだけどな。いや何、いくらか用があって電話したんだ。まずは、君が実際にそのオフィスにいる今、お祝いを伝えようと思ってさ。オーガスト管理官以上の苦労はあり得ないさ、それだけは保証しよう。僕らの部署は君を応援しているぞ。
オリーリ管理官: ありがとう! この地位にいると色々と混乱が多いものだよ。昨日の停電とか、上で揺れてる何かとかね。
C. ロビンソン: 停電? どこでだい?
オリーリ管理官: 建物全体の監視カメラとかね。6日以降の映像が全くないんだ。警備スタッフは大慌てだよ。
C. ロビンソン: へえ、まあそのうち詳細は教えて貰えるだろうけど…… って、待て。6日って今日じゃないのか?
オリーリ管理官: 私の時計には7日と表示されているな。今まで間違ったことはない。
C. ロビンソン: おかしいな、間違いなく昨日が5日だったと思うんだが。もしかすると昨日飲み過ぎたかな。
オリーリ管理官: まあ、よくあることだな。
C. ロビンソン: (含み笑い) そう言うなよ、禁酒しようと努力はしてるんだぜ!
オリーリ管理官: (含み笑い) 分かった分かった。
C. ロビンソン: とにかく、もう2つほど話したいことがある。もっと奇妙なことだ。調査部門のパトラと一緒に、入ってきた新しいスキップのカタログを作ったんだ。確か、えー、7000番台の…… 7043だ!
オリーリ管理官: まだ埋まってなかったのか?
C. ロビンソン: 以前は埋まってたが、別スロットに移動しただけだ。俺にとっちゃラッキーだったね。検索をかけたり、ボードにダーツを投げたりせずに、空きスロットを見つけられたから。とにかく、何も考えずに貼っ付けていく作業さ、分かるだろ。
オリーリ管理官: ああ、勿論。
C. ロビンソン: それで、説明セクションまでやり終えて、補遺の書類をスキャンしようとしたとき、ふと見たら、ページが補遺で埋め尽くされてたんだ。
オリーリ管理官: AICは嫌いなんじゃなかったか。
C. ロビンソン: ああそうだよ、だから使ってなくて、ダブルチェックしてたんだ。補遺を検索して何が出てくるか見てみたら、自分のクリアランスレベルを超えるものが3つか4つ引っ掛かったけど、それくらいだった。何をどうしたらいいのか分からない。補遺は切り離したけど、君が見たがるかと思って別の書類にまとめてある。
オリーリ管理官: それは…… 書類に出現したというわけかい?
C. ロビンソン: パッとね。何もないところから。画面には何も表示されていなかったのに、突然9つか10つの文書があって、それもちょっと変わった感じでさ。脳に影響するようなのがあると困るんで、全部には目を通してないが、ちょっと見た分について言えば…… 全然見覚えがないフォーマットだった。
オリーリ管理官: 今忙しいっていうのに、君のおかげで興味が湧いちゃったじゃないか。情報災害の研究者に一度調査して貰ってから見てみるよ。
C. ロビンソン: じゃあメールかファックスで送ろうか?
オリーリ管理官: (含み笑い) 未だにファックスを置いてるのは、あの古い所だけだって知ってたかい? IT部門に試験用に1台あるくらいで、それ以上はない。君のいる書類部門だけが古代人なんだよ。
C. ロビンソン: (笑い声) そうだな、まあ、それでも紙を送るには一番いい方法だと思うぜ。じゃあ、後でメールを送ろう。
オリーリ管理官: 助かる。それで、もう1つ用事があるんじゃなかったか?
C. ロビンソン: ああ、なんだって建物全体から煙草とスタンド売店の安酒みたいな匂いがするんだ?
フェードイン:
屋外. モハーヴェ砂漠 - 昼
1968年製GTマスタングの黒い車体が、乾燥し、ひび割れた大地を突き抜けるように疾走する。車内に乗っているのは二人。彼らの姿は遠く、その上砂が舞っているので、よく見えない。綿の手袋を嵌めた方が空中にコインを弾く。こちらを旅行者1とする。コインは手袋の手の平に落ち、表が出る。コインは再び弾かれ、更にまた弾かれ、その度に表が出る。車のハンドルを握りしめている方、旅行者2は、旅行者1を助手席に座らせている。車体に吹き付ける砂と共に、フロントガラスの上を砂漠が通り抜けて行く。
旅行者1が手袋を嵌めた手を上に掲げると、車が止まる。二人は車から降り、手袋を嵌めた手は旅行者1の体の側面へと降りていく。その腰には.44口径のマグナムが、ベルトのホルスターに収まった状態でぶら下がっている。暗色のレザーのオーバーコートが旅行者1の体の大部分を覆い包んでいる。
マグナムが持ち上げられ、シリンダーが開かれると、空の弾倉が六つ見える。旅行者1は弾を一発だけ装填すると、シリンダーを回転させる。
銃声が響くと、旅行者2が仰向けに倒れ、その両手は力無く地に落ちる。遠のく足音が聞こえ、旅行者2の身体の周りには血が溜まっていく。
フェードアウト。
フェードイン。
屋内. マーフィー・ロゥ探偵事務所 - 昼
色白の男の手がショットグラスにスコッチを注いでいく。男はプレーヤーの針をレコードに落とすと、デスクの椅子に腰を下ろし、スコッチの入ったグラスを置く。彼は白い襟付きのシャツを着て、日焼けした吊り下げズボンを履き、その頭にはトレードマークの中折れ帽がゆったりと載っている。肩掛け型のホルスターには.44口径のマグナムが収まっているのが分かる。彼は口からタバコを離すと、机の上の新聞に手を伸ばし、煙を空中に舞い上がらせる。
彼の名はマーフィー、誰に対してでも少しばかり手助けをする用意ができている男。その顔は険しく、ハンサムだ — クレーンの鉄球で殴っても傷一つつかないように思える顔立ちである。僅かな皺と目の下の隈は、彼の年齢と、過酷で容赦のない仕事での経験の表れだ。
彼は私たちのナレーターでもある。彼の声は耳障りな唸り声だ。声帯に紙やすりを掛けた上にアルコールで消毒したかのように聞こえるだろう。
ナレーター
世の中じゃ、普通の人間にはとても耐えられないようなことだって起こる。その全てを経験できるのが俺の仕事だ。悪人ども、最悪の人生。最近は、誰もが何かを隠している。俺たち人間は、黒い穴に落ちて行くんだ。その穴は死と殺しと、お前を破滅させたがっているトカゲどもで満たされている。
事務所のドアが静かに開く。作業服に運転帽を被った、色白で赤毛の男がドアから入ってくる。万年20歳、首筋を斬られた時の血しぶきのようなそばかすに覆われた顔。彼はフレッド。物言わぬ観察者、影の中の男でありながら、事務所の闇とも異なる存在だ。
ナレーター
そして時には、驚きでも。
フレッド
僕は毎日ここに来てるんだ、もう驚かないだろ。また午前11時に一人で飲んでるのか、マーフ?
フレッドはマーフィーの向かいの椅子に座り、グラスを口に運ぶ様子を見つめる。
マーフィー
誰かがやらなきゃならないことだ。
ナレーター
世の中が悪に満ちていることを思えば、フレッドは多少善良な男だ。良き人、良き仲間、隠し事をしない。とは言え、近頃じゃ、良き仲間には大した意味がない。善も悪も、世間はただ渦を巻き続けるだけだ。
フレッド
…… そうだな。また郵便物を届けに来た。今回も広告と請求書だらけみたいだけど。
フレッドはマーフィーの机の上に書類の束を放り投げる。
フレッド
新しい事件は無いのかい?
マーフィー
いいや、騒動ってやつは未だにそこにいて、俺の名前を呼んでいる。
フレッド
なあマーフィー、悪いがどうしてそう思うんだ? 君が最後に事件を解決したのは2018年だぞ。それにあれは副業みたいなもんだったじゃないか。その前の事件は17年前だったか?
マーフィーは呻き声をあげ、手にしたグラスの中で渦を巻いている液体に目を落とす。彼は、教授が事務所に駆け込んでくるのを見る。三つの弾痕がある1937年製のオリンピア・エリート型タイプライターが机の上に置かれているのを見る。インタビュー室で彼の向かいに座るタウム博士が彼を消し去ろうとするのを見る。街の歩道に散らばるアンドロイドの残骸が、雨に濡れて火花を散らしているのを見る。グラスに浮かび上がった記憶が消えると、彼は顔を上げる。
マーフィー
なぜそう思うかって? お前がここに来たからだ。お前のいる所に騒動は付いて回る。お前がそれを作っているわけじゃないだろう。だが常に、お前の側には騒動がいる。
フレッド
ええと……
フレッドは視線を下げ、考え込んでいる。
フレッド
僕は心配してるんだ、マーフィー。友人としてね。ここの賃貸契約はすぐに切れる。君が家賃を払い続けることが出来るかが心配なんだ。
ナレーター
金は世界を回す。だが、正義は金では買えない。正義が無くとも世界は回る。恐らく、この世界はもはやマーフィー・ロゥを必要としていないのだろう。
フレッド
そんなことは言ってないだろ。とにかくマーフ、多分君の言う通りなんだろう。僕がここにいれば、何かがドアをノックして会いに入って来るかもしれないな。
フレッドは机から立ち上がり、ドアに向かって歩き出す。
フレッド
僕が言いたいのは、君は転職を考えるべきじゃないかってことさ。例えばほら、警察官とか。僕はリムジンの運転手になったばかりだけど、多分君の天職もそれだ。そうすれば、これからも街をドライブして、その道中に堕落とかそういうことを嘆くことができるよ。
マーフィーは机の反対側からフレッドを見上げる。彼がフレッドをじっと見つめていると、フレッドはドアを開ける。
マーフィー
フレッド?
フレッド
何だい、マーフィー?
マーフィーは彼を見つめ、正しいことを言い、彼の間違いを証明しようと言葉を待つ。だが、それはやって来ない。
マーフィー
さよならだ、フレッド。
フレッドは明るく笑う。
フレッド
また明日、マーフィー。
フェードアウト。
フェードイン。
屋内. マーフィー・ロゥ探偵事務所 - 夜
マーフィーは椅子に座ったまま、足を机の上に乗せて眠っている。その姿勢は快適な眠りとは程遠いだろうが、彼に快適さは必要ない。
突然、ドアがノックされ、マーフィーはゆっくりと目を開ける。彼は銃を抜き、その銃口をドアに向ける。
手紙がドアの下を滑って入ってくる。マーフィーは体を起こし、それを見る。
ナレーター
今日はツいてる。
マーフィーはドアまで歩き、手紙を手に取る。表には「ロゥデン様」と書かれている。マーフィーは眉をひそめ、その手紙を裏返す。
ナレーター
それは俺が最も求めていたものであり、俺を探していた騒動でもあった。それは万物の必然であり、俺の存在にとって不幸の種であり、目的でもあった。それは……
カメラが背面の蝋封じにズームインする。蝋に刻印されたSCP財団のロゴに焦点が合う。
ナレーター
事件だ。
タイトル表示
Murphy Law in.. Skip 7043 - THE MONTAUK FALCON!
私立探偵マーフィー・ロゥ — 7043番のモントーク・ファルコン
フェードアウト。
フェードイン。
屋外. モハーヴェ砂漠 - 夜
マーフィーの車が荒れ果てた舗装道路の上を駆け抜け、ヘッドライトが墨染の夜闇を突き刺す。マーフィーの手がハンドルを握り締める。
ナレーター
財団は騒動の化身だった。連中はいつだって世界の殆ど全てを制御下に置いていて、その中には、普通の人間にとってはそれを心配する必要があるということすら知らないような物事すら含まれている。どんな手札が配られてもいいように、連中の袖にはエースのカードが忍ばされていた。
マーフィーの車が急停止する。ヘッドライトが道路に立つ女性を照らし、その後ろには彼女の車が停車されている。彼女はやや豪華な赤いコートを着ており、首には動物の毛皮が巻かれている。45歳より上ということはないだろう。発話のアクセントは、ドイツ語話者であることを匂わせる。彼女の名はサーティーン。財団の最上位中の最上位である彼女の存在感は言うまでもない。マーフィーは車から降りる。
ナレーター
財団はディーラーがカードを捲る前から、フロップが何なのかを知っていた。
サーティーンが彼女の車のドアを開ける。
サーティーン
ご機嫌よう、ロゥデンさん。どうぞ車へ。
マーフィーはその名に苦笑する。
ナレーター
俺をその名で呼ぶような卑劣な連中と来たら、O5評議会か書類仕事愛好家の空想科学部門のどちらかだろう。そして彼女は書類仕事を特別好いているようには見えない。
マーフィー
俺の車はちゃんと動くぜ、お嬢ちゃん。
サーティーン
私の相棒に見えるように、車を交換しなければなりません。地元警察は既に捜査を始めています。私に同行して、FBIの捜査官を装ってください。
マーフィー
なら、あんたの服装はどうなんだ。
サーティーンは車のトランクを開け、FBIの制服を取り出す。彼女はコートを脱いでその制服を着ると、もう一着の制服を取り出し、マーフィーに差し出す。彼はそれを見てから、視線を彼女に向ける。
マーフィー
俺には俺の制服がある。
マーフィーがレザーのオーバーコートの襟を捲り上げると、サーティーンは眉をひそめる。
サーティーン
それが貴方の仕事に必須というのなら構いません。貴方は私の管轄外の存在ですが、私は助けが必要なのです。私に出来る事があれば、何でも言ってください。では、車へどうぞ。
マーフィーはサーティーンの車に乗り込み、助手席に座る。サーティーンが運転席に腰を下ろすと、車は道路に戻り、走り出す。
ナレーター
だが、四枚のエースを引き、カードを数え、操作しても、財団の前には常にロイヤルフラッシュの脅威があった。その時に辛うじて出来ることと言えば、勝者がキャッシュアウトするのを邪魔することだけだ。連中は俺のような男をベガスの砂漠に呼ぶことはないはずだが、己の棺に釘が打ち込まれようとしているのなら話は別だ。
サーティーン
手紙から、この事件の機密度を理解して貰えていることでしょう。心配なのは、この捜査については、私の仲間にも知らせることができないということです。
車は減速し、鮮やかな黄色の立ち入り禁止テープの巻きつけられた場所から20フィート程離れた場所に停車する。現場は悲惨だが、整っている。テープの内側には一台の車が停まっており、被害者である旅行者2は、仰向けのまま、その頭から流れ出した血が胴体の周りに溜まっている。上半身が道路からはみ出ており、周囲の砂漠の砂埃に覆われている。辺りは警官でごった返している。赤と青のライトが遠くで点滅し、さながら味付きシロップの瓶を投下した光のように辺りを照らし出す。
マーフィーは黄色いテープを引き上げて潜り、死体の側にひざまづく。数人の警官が駆け寄るが、彼らが何か言う前にサーティーンが止める。サーティーンは制服のポケットからバッジを取り出す。
サーティーン
私はFBIの者で、彼は私の同行者です。捜査は我々の管轄になりました。速やかにお引き取り願います。
警官1
検視官の所に遺体を運ぶため、車を手配しています。署から数人の刑事も呼んでいます。お望みなら—
サーティーン
全てキャンセルするよう電話して、一晩自宅で待機していてください。何かあったら連絡しますので。
警官2
了解です。それじゃあ、彼は重要参考人か何かで?
サーティーン
その通りです。ですが、それ以上を貴方が知る必要はありません。
警官たちが去っていく。警察車両が赤と青のライトを残して走り去る中、マーフィーは旅行者2の冷たい頬に手を当てている。
ナレーター
死体からは熱が失われていく。ここにある暖かさと言えば、太陽、それと、ハゲタカの羽毛しかない。死体は冷え切っており、振る舞いはより冷淡だ。
サーティーン
遺体に指紋を付ける気ですか。
マーフィーはコートのポケットから革手袋を取り出し、それを嵌める。彼は旅行者2の腕、脚、そして首の順にひっくり返す。
マーフィー
争った形跡はない。
マーフィーは旅行者2のズボンのポケットに手を入れるが、何も見つからない。彼は立ち上がり、車のドアを開ける。
マーフィー
酢のような匂いだ。
マーフィーは手袋を嵌めた手を運転席のシートに沿わせて調べ、次にハンドルに手を伸ばす。
マーフィー
車全体が清掃され、消毒されている。指紋もDNAもない。誰が彼をやったにせよ、そいつはただ殺すだけじゃなく、その後逃げおおせることも目的の内だったとみえる。
マーフィーはグローブボックスを開けるが何もない。彼は助手席側に移動し、ポケットを開ける。
マーフィー
登録証も保険証もない。全く何もない、こいつ以外はな。
ポケットの中には小さな野球帽があり、その前面にはサーシャ洗浄剤製品社のロゴが付いている。マーフィーはそれを取り出し、手の平の上でひっくり返す。
マーフィー
サーシャ洗浄剤製品社 — Sasha's Cleaning Products、S.C.P.だ。
サーティーン
我々のフロント企業の一つですね。ここから西に数マイル離れたところにあります。ここに帽子が残っていたのは幸運でした。
マーフィー
運じゃない。これだけ綺麗に掃除しているのに、こんなミスを残すはずがない。俺が呼ばれた理由は、この帽子だけじゃないな。
サーティーン
ええ。貴方を呼んだのは、私はO5評議会の13番目の評議員として、評議会に対する脅迫に対し最大限の深刻さを以って臨まなくてはならないと思ったからです。貴方を呼んだのは、彼が……
サーティーンは旅行者2を手で指し示し、カメラがゆっくりと旅行者2の顔にズームしていく。
サーティーン
…… O5-7だからなのですよ。
フェードアウト。
屋外. サーシャ洗浄剤製品社 - 夜
マーフィーの車は、小さな町の道路をゆっくりと走り、店やレストランの前を次々と通り過ぎていく。時折通る車と頭上を照らす街灯を除いて、通りは活気を欠いている。
ナレーター
彼女は俺に特別なアクセスカードを持たせ、暗号文を教えたが、俺の腰には鋼鉄があれば十分だった。彼女の懸念は今となっては理にかなっていた。O5を叩けるほど近くにいるのは、他のO5だけだろう。これで、可能性は12人に絞られた。大きな疑問が一つ。動機は何だ?
マーフィーは、ある店の前で車を停める。彼は車を降り、建物を観察する。暗い建物には、消毒液や窓用洗剤で埋まった棚、掃除機やモップが立てかけられた壁、正面にある個人向け清掃サービスの広告ディスプレイが鎮座している。そして、その上部にはオレンジ色の文字で「サーシャ洗浄剤製品社」と書かれた赤い看板が掲げられている。その下には小さな文字で「あなたの汚れが私たちの喜びです!」と書かれている。
マーフィーはドアに近づき、取っ手を引くが、鍵が閉まっていることに気づく。彼はため息をつき、胸ポケットから煙草の箱とジッポーライターを取り出す。煙草を唇に挟んで火をつけ、箱とライターを仕舞う。同じポケットからキーカードを取り出して眺める。赤字で「レベル3アクセス」と書かれている。ドアの横には、カードリーダーがある。カードをかざすとリーダーが緑色に点滅し、ドアから小さな音がすると共にロック装置が解除される。
マーフィーはドアを押し開け、煙草の煙を漂わせながら建物の中に入っていく。彼はカウンターに歩み寄る。レジの横には小さな銀のベルがあり、横には「鳴らしてお呼びください」と書かれた看板がある。彼がそれを押し下げると、ベルが鳴る。
しばらくすると、奥の部屋の扉を開けて、一人の男が現れる。彼は前面にサーシャのロゴが入った紫のシャツを着ている。疲れているようだが、マーフィーを見て警戒を強める。接客員だ。
接客員
知らないお客様ですね。2分以内に貴方の正体とどうやってここに入ったのか教えて頂けますか。
マーフィー
█████████か?
接客員は目を細め、カウンターの仕切りを持ち上げて、マーフィーに入るように合図する。マーフィーはカウンターの後ろへと入る。接客員が奥の部屋へのドアを開け、マーフィーが入る。部屋の中は、点滅するライトとコンピュータのモニターの光に照らされ、机やサーバーでごった返している。奥には、大きなスクリーンが並び、部屋全体を見下ろすように設置されている。それぞれ、町の中の異なるカメラの映像が映し出されている。
接客員
ご要件は?
マーフィー
最近この辺りでおかしな出来事はなかったか?
接客員
特筆すべきことは、何も。
マーフィー
ここ数日、O5評議会のメンバーでここを通った者はいるか?
接客員
一昨日の夜、O5-7が定期査察のためここへ。しかし、おかしな点はありませんでした。
マーフィー
彼はよく来るのか?
接客員
そうですね、隔週で。貴方もご存じなのでは?
マーフィー
俺はO5じゃない。一緒に働いているだけの関係者というやつだ。
接客員
なるほど。
接客員はマーフィーが話すのを横目で見ながら、疑念は消していない様子だ。
マーフィー
O5-7におかしな行動はなかったか?
接客員
分かりません。その時はいなかったもので。おいジミー!
隅の机で寝ていた男が驚いて目を覚ます。ジミーだ。
ジミー
何だよ! 起きてる! 起きてたぞ!
接客員
O5-7が来てた時、何か予定にないことをやってなかったか?
ジミー
えーと…ああ、やってたぜ! 彼は遺体袋を下ろして、それから注文台帳を見せるよう頼んだんだ。
マーフィー
俺に台帳と、それから死体を見せてくれ。
ジミー
死体を見るには下に電話しなくちゃならない。その間に台帳をプリントアウトしておくよ。
ナレーター
また死体か。だがこんなのは序の口だ。この社会じゃ、死人は珍しいことじゃない。財団は別格の無神経さを育んでいる。うんざりするほどだ。
ジミーはマーフィーに二枚の紙を渡した。先月の清掃用具の注文記録である。マーフィーはそれに目を通す。カメラがズームし、書かれた名前を映し出す。マーガレット・エドモンズ、ノーラン・ボディ、ケビン・アルバーストラム…… 特に目を引くものはない。
ジミー
おや、おかしいな。保管庫の記録じゃ、誰かが死体を確認したみたいだ。それなのに名前が残ってないなんて。
マーフィー
死体は誰のだ?
ジミーが電話口でその質問を繰り返す。
ジミー
袋を開けるなと言われたので、開けなかったらしい。ブーンという音がしたとも言ってる。今思い出してみると、確かに俺も聞いたよ。
マーフィー
死体の出処に心当たりは?
ジミーが電話口でその質問を繰り返す。
ジミー
袋には「サイト-19 保管庫」とステンシルで書かれていたらしい。
マーフィー
ふむ。
マーフィーは煙草の先端を叩いて灰を落としながら建物を出る。接客員がジミーに向き直り、彼の肩を掴む。
接客員
上に繋いで、更に上に伝えるように言うんだ。O5-7に関する何かの問題が起きているとな。俺は下に降りてサイト-19に繋ぐ。奴が何者だろうと、暗号コードを知ってようと関係ない、気に食わない男だ。
ジミーは再び電話を取り、誰かに電話をかけ始める。接客員がトイレのドアを開けると、ドアの向こうにエレベータシャフトが見える。彼がボタンを押すと、エレベーターは彼のところまで上昇する。彼が足を踏み入れると、エレベーターは下降していく。その後ろの壁には、「武装サイト-21 行き」という文字が刻まれている。
フェードアウト。
屋外. サイト-19 - 朝
マーフィーは車をサイト-19の境界警備ブースの側まで走らせ、ゲートのすぐ後ろにあるブースの窓の近くに停車する。保安エージェントが窓から顔を出す。彼は疲れていて、単調だが、注意深さに欠けている。彼を警備員1とする。
ナレーター
サイト-19は地球上で最も無菌で生気のない場所だが、ここで飼われている生き物たちを軽く見るべきではない。ここは怪物が未だ徘徊し、壊れた人間が家を持つ数少ない場所の一つだ。そこで俺を待つものが何であれ、全く想像もつかないことは確かだ。
警備員1
顔認証に失敗しました。お名前とバッジの番号をお聞きしても?
マーフィー
█████████か?
警備員1
今何おっしゃいました? 意味がよく分かりません。お名前とバッジ番号をお願いします。もしくは、お引き取り下さい。
マーフィーは貸し出されたセキュリティバッジをエージェントに渡す。
警備員1
お名前を。
マーフィーはエージェントを睨みつけるように目を細める。
マーフィー
俺はマーフィー。マーフィー・ロゥだ。
警備員1がカードを読み込ませ、名前をコンピューターに入力すると、大きなブザー音が鳴り、机の上の小さな赤いランプが点灯する。
警備員1
少々お待ちを。
警備員1がブースの電話を取り、番号を打ち込む。彼は、マーフィーを睨み返しながら、電話の向こうの誰かと話し始める。
ナレーター
この手のサイトは、蹴られるのを待ってる蜂の巣のみたいなものだ。
警備員1はようやく電話を切り、ため息をつく。彼はマーフィーにカードを返す。
警備員1
車はA区画に停め、1番ドアからお入り下さい。
マーフィーは車を駐車場まで走らせ、外に出てドアに近づく。彼はIDカードをスキャンし、中に入る。もう一人の保安エージェントがドアの前に立っていて、彼を出迎える。彼の口調はより暖かいが、意図するところは前の警備員とよく似ている。こちらは警備員2とする。
警備員2
こんにちは、ロゥ様。会議にご案内します。
マーフィーは彼を冷たい目で睨み、そして頷く。警備員2は平静を装っている。二人は施設内を歩き、無数の鍵のかかったドアやラベルの貼られた部屋を通り過ぎる。マーフィーはタバコを一服する。
ナレーター
会議だと。用意された会議に出席する度に1ドル貰えるなら、俺はこんな仕事をやっちゃいないだろう。罠だと判明した会議で2ドル貰えるなら、幸運だと思うだろう。
警備員2が会議室のドアを開ける。初老の中国人女性が面談テーブルに座り、じっと待っている。彼女はマーフィーが入ってくると微笑みかけ、マーフィーはすぐに彼女が誰だか気づく。年齢を重ねて身体こそ変化しているものの、相変わらず威厳のある存在感だ。彼女がファイブ。これ以上の事をお伝えすれば、あなたを殺さなければならなくなる。
ファイブ
ようこそ、ロゥデンさん。随分とご無沙汰ね?
マーフィーはその名前にまたもや苦笑する。彼は面談テーブルの反対側の端に座り、不満げである。
ナレーター
O5-5、70歳……
ファイブ
調子は如何? 元気だといいのだけれど。
マーフィー
ふん。
ファイブ
サイト-21から電話があって、革のオーバーコートを着たタバコ中毒の男がO5-7の調査に来ると言われた時、すぐに誰のことだか分かったわ。
マーフィーは口を開かず、ただ黙って彼女を見つめる。
ナレーター
俺も有名になっちまったもんだ。
ファイブ
ええ、そう。O5-7は今朝の会議に出席しなかった。間違いなく、貴方はこの件について捜査している。この辺りでは一番目を引く事件だし、貴方も彼について調べていたと聞いているわ。どうぞ、昨日施設を出る際の彼の最後の記録よ。
ファイブはマーフィーにプリントアウトの束を渡す。いずれも、O5-7がサイト-19を離れる様子を映した監視カメラから取得された画像だ。マーフィーはそれぞれの画像を注意深く見ている。
ファイブ
サーシャの店の監視カメラの映像を見たけれど、貴方は変わってしまったみたい。態度が違うし、なんだか…… 緩くなってしまって、ノワールらしくないわ。正直言って、がっかりよ。あのサイトが広大な邸宅か薄汚れたダイブバーに変わることを期待していたんだけれど、単に昔のままの場所だったわ。貴方らしくない、貴方のその異常性はそんなものじゃなかった。大丈夫? 貴方の何が変わってしまったのかしら?
マーフィーは、間違ったボタンが押されてしまったかのような苛立ちを含んだ声を出す。
マーフィー
袋はどこだ。
ファイブ
今何と?
マーフィー
奴はここから持ち出した遺体袋を持ってサーシャの店に行った。だが、この写真には写っていない。なぜだ?
ファイブは疑念に満ちた笑みをマーフィーに向ける。
ファイブ
なるほど、でも私には分からないわ。この辺りではよくあることだし、移動中に拾った可能性もある。
ナレーター
500ドルもするピクセルの猿の絵を買うことがないように、彼女の正直さを買ってやることは俺には出来なかった。その態度は嘘と欺瞞の臭いがしたのだから。彼女は何かを隠していた、だがそれは何だろう? 彼女の手は.44口径マグナムを握れるようには出来ていない。
マーフィーはテーブルから立ち上がり、帽子を被り直すと、ドアの方に振り向く。
ファイブ
ロゥデン氏に我々の施設を案内してあげて。多分、彼は調査部門に興味を持つかもしれないから。彼らは常に仕事を探していると聞いているわ。きっと貴方は素晴らしい仲間になれるわね、マーフィー。
マーフィー
ふむ、また来る。
警備員2がマーフィーのためにドアを開け、二人は面接室を後にする。警備員2はマーフィーをエスコートし、先程のホールに戻り、同じドアとハッチの列を通り過ぎる。
ナレーター
彼女は何かを隠していた、それだけは確かだ。だがそれは何だ? あの袋の中には、隠さなければならない程に不味い物が入っているのか?
警備員2がドアを開けると、「サイト-19 調査部門」と書かれた部屋がある。中に入ると、マーフィーはマホガニーの机をいくつか見つける。その上には薄暗い照明がわずかにオレンジ色の影を映し出している。壁際のホワイトボードはマジシャンに関する青ペンでの殴り書きで埋め尽くされ、その横のピンボードには人の顔写真や事件名が貼られ、赤い紐でくくられている。白衣を着た、漠然とエジプト風の女性が、この部屋の唯一の住人として、机に腰を下ろしている。彼女はパトラ博士。パトラは、常に全てをやり遂げようとする自分自身の気迫と決意によって、仕事に振り回されている女性である。それは賞賛に値するが、彼女の顔の疲れ具合が語るのは然程喜ばしくない物語だ。
ナレーター
財団の調査員の殆どは、誰かの操り人形だ。連中は世間のパニックを防ぐため、あるいはそれを無期限に"未解決"にするために、解決済みの事件の証拠を偽造していた。だが、*彼女*は例外のケースだった。
マーフィーは喉を鳴らす。パトラ博士は彼を見上げ、それから自分の仕事に目を戻す。彼女は再びゆっくりと顔を上げ、まるで最初に目を向けた時は彼が見えなかったかのように、飛び跳ねる。彼女は自分の椅子を後ろに押しやると、マーフィーに近づく。警備員2は彼の周りを歩き、部屋の隅に立つ。
パトラ博士
新しい事件の始まり? 或いは古い事件の記録を見に?
マーフィー
部署の他の職員はどこへ行ったんだ? ミス—
パトラ博士
*ドクター*パトラよ。そう呼んで。今日は全員お暇を貰ったの。そう、実は1時間前に解雇されたんだけど、ちょっと忍び込んで、事件簿を取りに…… ね……
パトラ博士は自分の机を見渡す。デスクランプが、乱雑に放り出された書類や写真を照らしている。彼女はそれを弱々しく指差す。
パトラ博士
そうしたらこんなことに。
マーフィーは彼女の机に座る。彼女はいくつかのメモを凝視しながら、空いている机から椅子を掴んで引き寄せる。
マーフィー
やっていた仕事について教えて貰えるか?
彼の声には、純粋な好奇心のようなものが感じられる。まるで、魂が遅れてきた電車からやっと降りて来て、一瞬の間彼に乗り移ったかのようだ。
パトラ博士
まあ、色々とあるわね。これは最近現れたストリートマジシャンのグループについての—
マーフィー
これは何だ?
マーフィーは写真を取り出す。それはキャンバス生地の遺体袋のクローズアップ写真であり、袋の側面には「サイト-19 保管庫」とステンシルで記されている。
パトラ博士
袋よ。
マーフィー
中身は?
パトラ博士
この件は、上層部から機密指定を受けた捜査に関わるもので、正式な身分証明書がないとダメ。えーと…… 申し訳ないけれど、どなた?
マーフィーは眉をひそめ、机をトントンと叩く。しばし考え、それから顔を上げる。
マーフィー
█████████か?
パトラ博士
それって…… 成程、申し訳ありません。
マーフィー
それで博士、袋の中身は一体?
パトラ博士
さて、まずですね、とある重要度の高いアノマリーが紛失しました。私も概要しか知りません。それが何なのかについてはアクセス制限がありましたので。ですが貴方のコードでアクセスできます。我々は、そのアノマリーはこの袋に詰められ、緋色の王の子らによって盗まれたと考えています。あのグループは全滅したと考えられていましたが、誰かが犯行を。
マーフィー
容疑者はいるか?
ナレーター
俺は犯人が誰かを既に知っている。だが問題はその理由、そして彼が殺された理由だ。正しい答えを得るためには、時には間違った質問をしなきゃならないこともある。
パトラ博士
そうですね、正直なところ、緋色の王に関与する誰かということ以外に有力な手がかりはありません。 ですが、我々はとある別の事件についても調べていて、私にはこの二件に関係があるのではないかとの直感があります。10ヶ月前、空想科学部門に押し入った者がいます。面白いことに、私はこのような部門をどこにも見つけられず—
マーフィー
押し入ったと言ったか? この界隈でそんなことがそう単純に行くものか。
パトラ博士
ええと、サイトの入退記録には名前があるのですが、施設内の他の場所や書類にはそのような人物が現れた形跡が一切ないのです。私がここに関連性を疑っている理由というのは、該当する名前が入退記録に昨日もありまして、それがアノマリーの紛失から間もない時期だったからです。
マーフィー
それで、盗まれたアノマリーは一体何なんだ、博士?
パトラ博士
非常に悪いものだと聞いています。私は見てはならないと。ただ、それを回収することが非常に重要だとも言われました。恐らく、私のクリアランス上の地位では知ることができないのでしょう。空想科学の識者に聞いてみるべきかと。
マーフィーは立ち去ろうとする。
パトラ博士
もう一つお伝えしたいことが。
マーフィー
何だ?
パトラ博士
貴方に幸運がありますように。
フェードアウト。
フェードイン。
屋外. サイト-19 - 昼
マーフィーは建物を出て、サイト-19の駐車場のアスファルトの上に戻る。彼は、その敷地の向こうにある隣の施設に目を向ける。その上部には、大きく太い文字で空想科学部門と書かれており、彼の前に立ちはだかる。
ナレーター
こんな地獄のような場所には寄らずに済むようにと神に願っていたが、俺の運はそう振れなかった。俺のお気に入り、空想科学部門の連中とのお喋りの時間だ。連中には過去一度、捕まりそうになったことがある。
マーフィーは腰の銃に手を当てる。
ナレーター
二度と以前のように側に寄らせるものか。
マーフィーは部門のドアに歩み寄る。正面のガラスには部門のロゴが貼られ、その下には「空想科学部門」、「警告: 物語災害」と記されている。彼はキーカードを通すが、リーダーは赤く点滅する。もう一度試みるが、また失敗する。インターホンが息を吹き返したかのようにノイズを発し、険しい声が響く。
インターホン
O5と部門職員以外のの立ち入りは制限されています。直ちにお引き取りを。
マーフィーはカードリーダーの上にある小さなスピーカーに目を向け、その上のボタンを押す。
マーフィー
█████████か?
インターホン
そのフレーズをどこで? なぜ、レベル5のキーカードを持っていないのに、そのフレーズを知っているのでしょう? そこで待機して下さい。
マーフィー
O5-13に繋いで、マーフィー・ロゥが空想科学部門に来たと伝えてくれ。
インターホン
すみません。今、マーフィー・ロゥと仰いました?
(遠い声)
ちょっとどいて、カメラ映像見せて。
ナレーター
財団は元から悪夢のような一団だが、連中の鍵の閉め方を見ると、何かを閉じ込めるためじゃなく、俺を足止めするためにやってるんじゃないかとすら思う時がある。
ドアがカチリと音を立てて開く。
インターホン
ようこそ、ロゥデン様。失礼いたしました。間も無く保安チームの者が参りますのでお待ちください。ロビーにお通しして、私のオフィスにお連れします。
マーフィーはその名前に呻き声を出しながら、ドアをくぐる。空想科学部門の保安チームのメンバーが彼を出迎えに来る。彼女は冷たく、よそよそしく、決してマーフィーの目を見ることができないようだ。緑色のレンズのついた奇妙なゴーグルをつけている。警備員3だ。
警備員3
こ、こんにちは、ロゥデン様。これを装着して私に着いて来てください。
警備員3は自分が付けているものと同じゴーグルをマーフィーにも差し出す。彼はそれを手に取らず、彼女を見る。
マーフィー
しまってくれ。長居するつもりはない。
警備員3
保護眼鏡を着用しないと、機械からの光バーストで網膜を焼かれる可能性があります。これを装着して私に着いて来てください。
マーフィーは渋々ゴーグルを受け取り、装着する。ゴーグルは、彼の硬く暗い態度に対して、ぎこちなく、場違いなものに見える。
二人はホールに足を踏み入れる。左側の壁は全面ガラス張りで、その奥には広大な部屋が広がっている。マーフィーは歩きながら、首を回して窓の向こう側を見る。大きな電気機械が部屋大部分を占めている。その奥では、白衣と緑のゴーグルをつけた科学者の一団が機械の周りに群がり、技術者がその側面の開いたパネルに何かをねじ込んでいる。技術者はパネルを閉じ、科学者たちに向かって親指を立ててみせる。科学者の一人がはしごを登って機械の上に登り、上部のハッチを開けて中に入る。ハッチが閉まると、部屋の反対側にいる別の科学者がレバーを引く。機械は、マフラーに穴の開きすぎたモンスタートラックのエンジンのように回転する。それはやがて光りだし、沸いたヤカンのような音を立て、最後にまばゆいばかりの白い光を放つ。光は部屋の中の全てを飲み込み、窓からホールへ、そしてマーフィーの身体へも照射される。ハッチから水蒸気が立ち上り、科学者たちは盛んに拍手を送る。
マーフィーは警備員3に目を向け、怒気を含んだ声で尋ねる。
マーフィー
彼に一体何をした?
警備員3は再びマーフィーを見ようと奮闘するが、その視界はおよそ5インチほど左を向いている。
警備員3
被験者は物語層の上層に転送されたのです。彼女は調理されていませんし、揚げられたり、直火や不快、あるいは致死的な温度に晒されたりはしていませんよ。
警備員3は再度、比較的前側を向く。
警備員3
蒸気の由来は知りません。
警備員3はホールの端で立ち止まると、大きな金属製のドアを開ける。中は比較的小さく、非常に物の少ないオフィスになっている。部屋は灰色で特徴のない四枚の壁に囲まれ、木製の机の上にモニターが一つ、キャビネットが二つ並んでいる。モニターの横の机の上には緑色のゴーグルが置かれ、ドア脇の角にはフェイクの鉢植えがある。白衣を着た男が、まっすぐ前を見つめ、視線をドアフレームの上部に合わせた状態で、黒い回転椅子にやや真っ直ぐな姿勢で座っている。彼の瞳孔は、両目とも六つの黒い円に分裂している。マーフィーと警備員3が部屋に入ると、彼はさらに姿勢を正し、瞳孔は互いにくっつき合って、二つの黒い塊へと戻る。彼は、いつも少し他人と距離をとるが、温厚で理解力がある。ナラ博士だ。
ナラ博士
ああ、マーフィー・ロゥデン様! 申し訳ありません。あなたが来るのを見ておらず! どうぞ、お座りください。
机の向かいに別の回転椅子が現れる。マーフィーは椅子に座り、タバコを吸う。
マーフィー
こんにちは、ドクター……
ナラ博士
ドクター・ナラです。宜しければティヴと呼んでいただいても構いませんよ。
ナレーター
この場所は異常だ。だが、それ以上に歪んでいる。誰かが自分のイニシャルを刻んだレコードのように。世界は常に変化しているというが、ここでは何もかもが同じままだ。自分の胸の側でカードをプレイしたとしても、十分に注意を払わなければ、手札が全て11になっているなどということになりかねない。
ナラ博士
実際は、ここでは物事をコントロール下に置くための非常に良い仕事をしているんですよ。放っておくと、さらに更に酷いことになるかも知れません。
マーフィーは目を細めてナラ博士の目を見つめるが、博士は気づいていないようだ。
ナレーター
まるでフレッドだ。あいつは俺が言葉にする前に考えを読み取っていた。あいつはアノマリーだったのか?
ナラ博士
ああ、確かに! 423によく似ていますね! 実際、私たちがアノマリーであるかどうかはここで行われている議論のトピックでもあります。私はこれが物語層跳躍の副作用なのではないかと危惧しているところです。そして貴方は……
ナラ博士はマーフィーの上を見上げ、深く何もないところを見つめている。彼の瞳孔は分裂し、同時に変形し、曲がり、捩れ、あらゆる方向に浮遊している。
ナラ博士
…… 跳んだ先の層が気になって仕方がない、といったところでしょうか。
ナラ博士は首を振り、マーフィーに向き直る。瞳孔は正常に戻っている。
ナラ博士
まあ、それはともかく、その話はもういいでしょう。私は、我々の部門とマーフィー・ロゥ探偵事務所の間の関係修復を望んでいるのです。我々は過去に険悪な関係にありましたが、タウム博士は今や我々の雇用下にはおりません。
ナレーター
こいつは好きなだけ約束をすることができたが、それは俺にとっては何の意味もない。タウムが俺にしたことは、言葉では言い表せない。
ナラ博士
なるほど、尤もなお考えです。行動で示せというわけですね。何がお望みでしょう?
マーフィー
セキュリティがおかしなものを検知したと聞いている。入退記録に不審な点は無かったか?
ナラ博士
ええ、ありましたよ。
ナラ博士はファイルキャビネットを取り出すと、キャビネットに入った唯一のアイテムであるフォルダーを取り出し、それをマーフィーに手渡す。
ナラ博士
何者かが裏のガレージから侵入して来ました。ガレージのドアにはキーパッド錠がついています。ええ、時代遅れなのは分かっています。それが原因でしょう。他のドアと同じようなカードリーダーへの交換要請は、10ヶ月前にやっと誰かが言い出し、それ以来、官僚制の地獄の何処かに詰まってしまっています。
マーフィーはフォルダを開き、ページに指を走らせる。
マーフィー
侵入も10ヶ月前か。
ナラ博士
(皮肉めいて)
なぜそれが私の注意を引いたと思います?
マーフィー
侵入者はここで何を?
ナラ博士
古い資料を調べていたようですね。それから…… 物語跳躍機に乗りました。レバー機構がショートして勝手に動いたんです。そのせいで視力を失った職員もいるそうですよ。可哀想に。
マーフィー
成程な、だから建物を出るところが記録されていないんだ。
ナラ博士
その通り。侵入者は物語層を移動したと— おっと、すみません、物語層がどういうものかはご存じですか? 無限のサンドイッチを想像してください。我々の物語現実、つまり、この現実の範囲内であろうとなかろうと、私たちが知り得る全て、その存在は物語空—
マーフィー
俺たちの層をコントロールする更に上の層があり、同様に俺たちの層も下の層をコントロールしている、ということだろう。物語の重なりについて深く議論している暇はない。そいつはいつ戻った?
ナラ博士
手がかりはありません。二度目の侵入事件まで、長期間そのようなことは行われていないと思います。
マーフィー
二度目、と言ったか? いつの話だ?
ナラ博士
昨日です。それから、サイト-19の調査チームに持ち込みました。最初の侵入事件では名前はログになかったんですが、昨日は名前を書いて出て行きましたよ。名前はええと…… ノーリッジ・ボリー。変な名前ですね。
マーフィーは書類をめくって確認し、その名前を見つける。ノーリッジ・ボリー。
マーフィー
連中はどうやって—
白衣を着た女性が金属製のドアを開ける。彼女はマーフィーに気づかず、ナラ博士と話し始める。科学者だ。
科学者
S.R.A. V7は梱包されて、発送の準備ができています! もし良ければ—
ナラ博士
待ってくれ、パーティーにはすぐに向かうから。今はお客様がお越しなんだ!
科学者
おっと、すみませ—
科学者はマーフィーに目を向けると、言葉を失って固まってしまう。そして、彼女はまるで芸能人か何かのファンのように、言葉を爆発させる。
科学者
マーフィー・ロゥデン?? 帰ってきた! ここにいる! 待って待って待って…… 腕にサインしてくれませんか?
マーフィーはやや驚きながら彼女を睨みつける。
ナラ博士
落ち着いてくれ、お客さまに迷惑だろう!
科学者
あっ。あっ、そうですね。じゃあ写真だけでも。駄目ですか?
ナラ博士がマーフィーに視線を向けると、彼は困惑した様子で肩をすくめる。彼女は黄色い声を上げると、スマホを取り出し、マーフィーの隣に身を乗り出して一緒に自撮りをする。彼は不満そうな顔をして、彼女に触れないようにするのが精一杯だ。
科学者
ありがとうございます! 本当にありがとうございます、一生大切にします!
彼女はドアをバタンと閉めて部屋を出て行く。
ナラ博士
すみません、マーフィーさん。貴方は若い職員に大人気のようでして。
マーフィーは目をこすりながら、書類を机の上に戻す。
マーフィー
連中はどうやってキーパッド・ロックを突破した?
ナラ博士
それが分からないのです。九つの数字から五桁入力する形式のキーパッドなので、組み合わせは59,045通りあります。カメラの映像を見る限り、侵入者はただ番号を打ち込み、それから踊るように軽い足取りで建物に入りました。誰かから聞き出したのか、運が良かったのか。本当に、本当に、本当に運が良かったのか。奴は二度目も同じことをしたのですよ、コードを変えた後でです。
マーフィーは机から立ち上がる。彼は煙草をもう一本吸う。
マーフィー
これで全てだな。
ナラ博士
ええ。もし他に何か必要な場合はお知らせください。
マーフィーはドアの取っ手を掴み、下を向いて考え込んでから振り向く。
マーフィー
調査チームが調べていた、盗まれたスキップに着いての書類があった。それが何か分かるか? もしくは、そのファイルを持っていないか?
ナラ博士
ああ、マーフィーさん……
ナラ博士の瞳孔は再び分裂し、小さな点となって彼の目の中を跳ね回る。
ナラ博士
私はすべてのファイルを持っています。
ナラ博士はファイルキャビネットを開き、ファイルを取り出す。彼は机の向こうに手を伸ばし、それをマーフィーに手渡す。
ナラ博士
ロゥデンさん、良い日になりましたね。
マーフィーはその名前に顔を顰める。
マーフィー
俺をその名で呼ぶな。
ナラ博士
お好きなように、ロゥさん。貴方のお好きなようにしましょう。
マーフィーはファイルを閉じたまま建物を出ると、車の鍵を開けて運転席に座る。ドアを閉めると、ファイルを膝の上に置き、それを開く。彼はそのページを手に取り、目を通す。カメラは彼の目にズームすると、彼は心配そうにゆっくりと目を見開いていき、これまでで最も大きく開かれる。カメラが切り替わり、SCPのアイテム番号にズームする。映し出される数字は、SCP-231-7だ。
フェードイン。
屋外. 元サイト管理官オーガストの邸宅 - 夕方
マーフィーは歯を食いしばりながら、力強くハンドルを握り、アクセルペダルを踏み込む。車は砂漠の道を走っている。
ナレーター
SCP-231は、人間の残虐性を映し出す、忌々しく悍ましいディスプレイだ。それが捜査に関係していようがいまいが関係ない。何としても処置110-モントークが何であるかを突き止めなければならなかった。その処置手順そのものは、俺の詮索好きな目から遠ざけようとしたのか、殆ど消されていた。だが、俺は行間を読むことができる。そこにあるのは実に恐ろしいものだった。どれほど卑劣な怪物であれば、人間にこんな苦痛を与えることができるのだろうか。俺は他人の苦痛に対し冷淡かもしれないが、これは別だ。全く別のものだ。
マーフィーの車はオーガストの邸宅の前で急停車する。かつては明るく重厚だった建物も、今では朽ち果て、壁や屋根には蔓が伸びているように見える。木造部の塗装は剥げ落ち、玄関に上がるコンクリートの階段は崩れている。建物からはどこか古めかしい匂いがする。まるで、おがくずや鉛のペンキ缶でいっぱいの工房のような匂いだ。
ナレーター
110-モントークが何であるかを知っている人間がいるとすれば、それはオーガストだろう。昔、奴にはこのゲームで辛勝したことがある。今回、俺はコイン投げのチャンスを得た。
マーフィーは脇のホルスターの中の.44口径マグナムを手に取る。
ナレーター
そして、これが俺の、幸運の両側表コインというわけだ。
マーフィーはドアをノックするが、応答がない。彼はドアノッカーをドアに叩きつけるが、やはり応答はない。マーフィーはドアを蹴破り、施錠装置を部屋の中に飛ばす。
室内は外観と同じように老朽化している。照明は全て落とされ、巨大な色付きガラスの窓から差し込む太陽の光だけが建物を照らしている。部屋の全てが様々な厚みの埃の層で覆われている。マーフィーは銃を抜き、ドアを通り抜ける。
邸宅には誰もいない。建物のどこにも人影はない。マーフィーは全ての部屋を探す。キッチン、リビング、プール、ビリヤード室、地下室、ワインセラー。最後に、彼は階段を上っていく。
マーフィー
オーガスト、この野郎! 今すぐ出てこい!
マーフィーは寝室、バスルーム、屋根裏を探し回り、ついに彼の執務室に辿り着く。ドアを開けると、またしても誰もいない。部屋には本棚が並び、その奥に机が一つ、背後の大きな窓から差し込む陽光の中に鎮座している。マーフィーはその場を離れようとするが、机の上に小さな書類の束があることに気付く。机の引き出しが一つ開けられ、床にはマニラ色のフォルダーが置かれている。
マーフィーは机の回転椅子を回して座り、書類束を手に取る。
ナレーター
正解に一歩近づいた。110-モントークの断片がその姿を少しずつ現していく。フォルダー全体が作戦の書類だ。小さなメモには、職員の動きや囚人のスケジュール、そして、哀れな女の精神の週毎の初期化について書かれている。拷問に関するメモに次ぐメモ、1ヶ月前まで遡れる。一体どんな男が……
マーフィーは最後のページをめくる。大きな経費報告書の小さなページだ。材料費、維持費、請求書。
ナレーター
その時、俺はそれを見つけた。この事件の全容を解明する手がかりをだ。一番下にあるメモ。クエスチョンマーク。
ページの下、人件費の数字 — 2030万ドル — の横に、大きな赤いクエスチョンマークと、その数字を指し示す矢印が書かれている。マーフィーがページをめくると、裏側は数学の記号で溢れ、手書きの文字がどんどん不規則になっていく。そして、その一番下には「20,300,000 - 1,050,000 = 19,250,000!!!!!」とある。
ナレーター
この100万は何だったのか? どんな意味があったのか? さらに探索を続け、その痕跡の書類を見つける。お決まりのパターンだ。
マーフィーは部屋の中を探し始める。机の他の引き出しを開け、フォルダーを次々にめくっていく。彼は本棚に目を向け、カバーに親指を走らせる。どの本も埃にまみれている。どれも大したことはない。世界大百科事典、華麗なるギャツビー、聖書。
マーフィー
さあ、出てこい経費報告書。記録簿、領収書、会計士からのラブレターでも構わない。
マーフィーの手は、「黄金の鍵」という題の一冊の本の前で止まる。本棚の他の本は全てが埃と汚れに覆われ、何年も手をつけられていなかったが、この本だけはまだ装丁がはっきり見える箇所がいくつかあり、ちょうど手のひらの大きさと形をした印が付いている。
マーフィー
今日はツいてるな。
マーフィーが本を引き抜こうとする。それは出て来ず、代わりに、壁がカチリと音を立て、本が棚の中に引き戻される。マーフィーが後ろに下がると同時に本棚が回転して開き、小さくて狭い廊下と木の階段が姿を現す。天井から小さな灯りがぶら下がっていて、それがこのホールの唯一の照明である。
マーフィーは再び銃を抜き、階段を下りる。本棚が彼の背後で閉じられ、ボタンが壁から飛び出す。彼は振り向きざまにそれを見てから、再び階段を下り始める。
階段の下には朽ち果てた木製のドアがある。マーフィーは取っ手を掴み、壊して開ける。もう一つの天井灯が、金属製の引き出しやキャビネットが並ぶ木製の部屋を照らす。あるものは引き出されてマニラ色のフォルダーの束を見せ、あるものは地面に捨てられてクリーム色の海のように広がっている。奥の壁際には木製の机、部屋の中央には椅子が置かれ、大量の伝票や書類に囲まれている。
マーフィーは両手と両膝を床について書類を手に取り、一つ一つに目を通し始める。経費、領収書、その全てが床に並べられているのは、何かを必死に探した痕跡だ。中央の椅子の傍で、マーフィーは領収書の束を手に取る。
ナレーター
それは俺が求めていた答えではなかったが、いずれにせよ正しい答えだった。これが、この事件全ての鍵だ。
手書きの文字が領収書の一枚一枚に伸び、金額を加算している。先月の新しい制服、食事、給料、備品、士気高揚のためのサービス。赤ペンで経費を数え上げ、領収書の横のスペースで合計していくと、105万ドルになる。
ナレーター
人員予算として割り当てられた2000万ドル、使われたのはたった100万ドル。差額はどこに消えた? 一体何を見つけたんだ、オーガスト……
マーフィーは再び山をかき分け、一枚の紙を取り出す。サイト-19の会計報告書だ。19,050,000ドルがサイト-19に送られ、送り主とその理由は編集されている。赤ペンの円が、頻繁に現れる[編集済]の文字列を囲んでいる。唯一得られる情報として、「使途」の後に「評議会資金への振替」とある。だが、その目的もやはり編集されている。
ナレーター
では、O5はその金を何に使ったのか?
マーフィーは再び書類の山を掘り起こし始めるが、今度は必要のない書類は丸めて薄暗い部屋の中に投げ捨てていく。そしてついに、彼は一枚のメモを見つける。その上部には赤いインクで「どういうことだ???」と書かれている。マーフィーの視線がメモを横切ると、中央の数行が目に入る。「評議会の士気と安定のため、O5評議会は輪番制の休暇を導入する。毎月28日に行われる次の輪番まで、評議会員の四分の一が、月に一度休暇を取る。」
マーフィーは会計報告書に駆け戻る。再び1,905万ドルの記載に目をやる。その振込日は27日だ。
マーフィーは立ち上がり、帽子を取って、手にした書類をじっと見つめる。タバコが口から落ちそうになる。
ナレーター
連中は自分達宛てに1900万ドルを送り、ココモに小便をかける。全ては110-モントークの名目で、"世界を救う"ため、少女の拷問に資金を割り当てたのだ。
マーフィーは少し取り乱した様子で部屋を見回し、隅の机の上に何かがあることに気づく。近づいてみると、テープレコーダーが置いてある。その横にはテープが置いてあり、ラベルには赤ペンで「これを聞け」と書かれている。机の周りには、かなりの数の赤ペンが散らばっている。マーフィーはテープをプレイヤーにセットし、再生ボタンを押す。
テーププレイヤー
私はオーガスト、SCP財団の職員で、サイト-19の元管理官だ。これを聞いているのなら、きっと君も財団の者だろう。もしそうでなければ、ああ、はっきり言って、君は見つけてはいけないものを見つけてしまったということだ。とにかく、君はこの部屋を見たことがあると思う。2004年、我々は緋色の王の子らと呼ばれるカルト集団から、何人もの妊娠した少女を回収した。彼女らが出産する度に、悲惨なことが起こった。ある時には数百人が死んだ。そして、それはどんどんと酷くなっていった。我々は…… 彼女を止める方法を見つけられないままに、ついに未出産の胎児は残り一体になってしまった。それは残酷で、耐え難いものだった。多くの人が病んだ。どれだけ酷いことか言い表せないほどだ。しかし、処置110-モントークは一時的にとは言え、必要なものだった。当時の私は普通のレベル4職員で、まだ管理者には昇格していなかった。我々は…… ええと、何て言うんだったか…… 提言、そう、提言をした。数年の間に、いくつかの解決策を提示した。最初は子宮内で子供を殺すことを提案した。だが、ある少女が死産したにもかかわらず、イベント発生は避けられず、その案は取り止めになった。それから、1437への投下、 人体全体の崩壊、極低温での凍結などを提案したが…… 小規模で明確に効率的なことを除いて、許可は降りなかった。ある時、我々は身体に装着する機械を設計する案を出した……
マーフィーは机から目を離し、開かれた部屋の方を見る。彼は、「機器開発計画」と書かれた書類棚の引き出しを開け、その中身を物色する。彼が捲る一連のフォルダーには、それぞれに異なる装置の名前が記されている。「SRA V7」、「物語跳躍機」、そして最後に 「111-モントーク」。
テーププレイヤー
それは小型で維持費もかからず、エンジニアが時々整備するだけで良い、そういう物だった。機械をつけたまま歩くことだってできただろう、ああ、もちろん彼女にはそもそも歩く能力は残っていなかったがね。O5に提案書類を送ったが、却下された。だけど、職員は皆疲弊していたし、士気も下がっていたから、ある種の反乱と呼べる行為に走ったわけだ。とにかく作って繋いでみたんだな。そうしたら上手くいってしまった。彼女は静かになったし、記憶処理も実行された。その時鳴った小さなブーンという音は、今でもずっと思い出せる。それで、私たちは物事を実行するふりをし続けた。書類を偽造し、本物に見せかけた。まるで、まだ彼女に名状し難い処置を施し続けているかのように。退職を申し入れたのは…… 確か、約10ヶ月前のことだ。私たちの提案が却下され始めたのと大体同じ頃だな。数ヵ月後にようやく退職の承認を得た後、面白半分に古い書類やらを調べ始めたんだ……
マーフィーは「個人的なメモ」と書かれたキャビネットを取り出し、パラパラとめくる。「退職承認通知」という題の文書に手が止まる。その下には「人事部門 ノーア・ディー」と署名されている。
テーププレイヤー
そして、なぜ彼らが何も承認しなかったのかを知った。数百万ドルを洗浄するために、あの苦痛をどれだけ長引かせたか、全く、本当に、余りに哀れで、胸糞が悪い話じゃないか。
音声が、まるでロボットの声かのように歪んで聞こえ始める。
テーププレイヤー
O5-5、O5-6、O5-7はバーで会う。34番街にあるバーだ。毎晩仕事が終わった後、7時頃。私は知っていることを伝え、そこで対決するつもりでいる。サイト-19の全てを監督しているのは彼らだ。評議会の特定の誰かがこれを先導してるとは思っていない。だが、誰かが言わなければならないだろう。私が話せば、警備員が光明を見出すことを願う。そうならなければ…… それは私の運が悪いだけだろう。
再生が終了する。マーフィーは部屋の真ん中に座っている。カメラがゆっくりと引いていく。
フェードアウト。
フェードイン。
屋外. モントーク・ファルコン - 日没
マーフィーは車を背後の道路脇に停め、モントーク・ファルコンの前まで歩く。正面に掲げられたネオンサインが、建物をピンク、紫、青の光に染め上げ、バーの名前が道路を照らす。サインは大きく、ブンブンと音を立てて、建物の上部の大部分を覆っている。彼は正面に停まっているリムジンに気づき、運転席の窓に近づく。運転席には運転帽に紫のジャケットを着た、見慣れた赤毛の男が座っており、親指を弄っている。彼はドライバー。彼とは以前にも会ったことがある。マーフィーが窓をたたく。
ドライバー
はい、どちら様。って、なんだ、マーフィーか! 調子はどうだい?
マーフィー
よう、フレッド。まさかとは思うが、O5をここまで乗せて来たんじゃないだろうな?
ドライバー
それこそ、君が探偵で、僕がそうじゃない理由だね。彼らはVIPルームにいると思うよ。
マーフィー
済まない、フレッド。恩に着る。
マーフィーは車の窓を離れ、入口ドアの取っ手をつかむ。
ナレーター
財団は常に俺よりも良い手札を持っている。一方の俺は自分が手札を持っているかすら定かじゃない。エースハイでは大した意味がない。今、俺は地獄の門の手前に立ち、味方は運命の女神だけだ。この女は随分と冷酷な女主人だが。
マーフィーはドアを押し開ける。
ナレーター
さあ、始めよう。
マーフィーはスモーキーなオーク材のインテリアに迎えられる。この建物は、温かみのある雰囲気に包まれている。バー自体は左側の壁に沿って配置され、バーテンダーはその後ろでフットボールの試合を観戦している二人組の男性に飲み物を提供する。部屋全体にまばらにテーブルと椅子が置かれ、そのいくつかには客が座っている。全ての席は部屋の反対側にあるステージに向かって置かれている。ステージ上ではジャズバンドがフランク・シナトラの 「Luck be a Lady Tonight」を演奏している。客、バーテンダー、ピアニストなど、店内の喫煙者が吐き出す煙が天井へと立ち上っていく。ステージの脇には、非常口のドアがあり、出口表示が光っている。ステージの反対側には大きな窓があり、その下にはソファーに座って会話をしている二人がいる。二人とも派手な格好で、マティーニを飲んでいる。マーフィーは一人を見分け、もう一人の正体を推理する — O5-5とO5-6だ。
正面にいたスーツの男がマーフィーのコートを預かると申し出る。マーフィーはそれを跳ね除けようとするが、男はどうしてもと言うので、渋々それに応じる。
マーフィーは暫く部屋を見渡した後、奥の小さなドアの上にオレンジと黄色のネオンサインがあり、点滅する文字で「VIP」と書かれていることに気付く。彼は店内を横切ってドアまで歩き、押し開けると、小さな階段を上って小さな紫色の廊下に出る。廊下には、MTFの隊員がずらりと並んでいる。マーフィーは立ち止まり、一人一人を見つめる。廊下の端、物置を通り過ぎたところに、閉じたドアがあり、その正面には小さなプラスチックの看板でVIPと表示されている。マーフィーはそこに向かって歩く。最初のMTF隊員の横を通り過ぎると、その隊員は彼の後ろに回り込み、ドアまで付いて来る。マーフィーは振り返って、彼を見る。
マーフィー
おい…… 何だ?
マーフィーが次のエージェントの前を過ぎると、そのエージェントも後ろに付く。そして次のエージェントも。
ナレーター
こいつらは何をしている?
マーフィーは、低い機械音を発する物置の前を通過する。最終的に五人ものMTF隊員を引き連れたマーフィーは、肩越しに背後を見やりつつ、VIPルームのドアノブを回す。
ナレーター
これでは何もかも台無しだ。
マーフィーはドアを開け、背後でドアを閉める。MTFは彼の後に続かないが、物置からはやはり機械音が聞こえてくる。ファイブはマーフィーを迎えるために立ち上がる。彼女は、自分よりも背の高い、禿げた男を伴っている。彼は、ウィスコンシンかケンタッキーか分からないような、どことなく南部訛りのある話し方をしている。そこにはしょぼくれた容姿とは裏腹に魅力があり、まるで何でも言い逃れできるかのようだ。勿論、マーフィー・ロゥはその例外だ。彼がシックス。これ以上の事をお伝えすれば、ええと…… まあ……
ファイブ
ようこそ、マーフィーさん。席を用意しているわ。
シックスが部屋の隅から座り心地の悪い木の椅子を引きずって運び、マーフィーの後ろに置く。
マーフィー
どういうことだ? どうやって俺がここに来ると分かった?
シックス
いいかな、ロゥデンさん。我々が知らないことは殆どないんだ。勿論、貴方もそれ位のことは理解していると思うがね。小鳥のバーディーが貴方がここに来ることを警告したのさ。
ファイブ
彼が言うには、セブンが地に伏せれば直ぐにでも貴方が私たちのちょっとした信託資金を嗅ぎつけるだろう、と。だから私達は貴方を遠ざける為、ちょっとしたものを作ったの。
シックス
空想科学部門は、その気になれば何だってできるんだ。マーク-7の現実錨はその典型だな。このブーンという機械音かい? 正に進歩の音だよ。
マーフィー
こ、これは…… これは一体どういうことだ? オ、オーガストの家にあったテープは、あれは何なんだ? あれが全ての証拠のはずだ!
マーフィーは戸惑いながらも彼らを見つめる。彼の顔は青ざめ、胃が痛み始める。
ファイブ
ええ、そう。あの情報は本物よ。
シックス
繰り抜いたパイナップルに入れられた、マンゴーフレイバーのマルガリータを飲んだことは? 私は未だに、あのバハマの店がそれをどうやって作ったのか知らんのだよ……
ファイブ
七月の旅行のときだったかしら? 私は一度も試したことがないような。
マーフィー
やめろ! 俺に何をした!?
ファイブは、見下すような笑みを浮かべてマーフィーに向き直る。
ファイブ: ええ、ロゥデンさん。オーガストの録音テープの最後、ここで行われたという会議に関する部分だけが、本物じゃなかったのよ。
マーフィーは真っ直ぐ座り、口を少し開いている。
シックス: まさか、私たちが毎晩同じ時間に同じ場所で会うとでも? それがどれ程の保安上のリスクを伴うかくらい分かるだろう? 別々に、違う場所、違う時間に行動しなければならない。さもなければ、何者かが我々を捕らえてしまうだろうな!
舞台はナイトクラブへと変化し始める。ダークブルーの壁がマホガニー材に取って代わる。テーブルが消えると、大音量の音楽に合わせて大勢の人が飛び跳ねようになる。ステージバンドはブースに立ち、DJを始める。
ファイブ: 今、貴方はここに囚われたわ。物置の中の現実錨が、ゆっくりと貴方を引き裂いていく。貴方が与えられたものを全て額面通りに受け取るせいよ。いつもイライラしながら嘘つきを探してる割に、見破るのは下手なのね。
SCP-3143: 何だ? 何なんだこれは…… 私は誰だ? ここはどこだ?
SCP-3143の身振りや口調が大きく変化し、本来の空想科学的人格に切り替わったことを示す。
O5-6: 貴方はマーフィー・ロゥデン。我々は貴方の悩みを解決するために来たんだ。どうか落ち着いて。今の気分を教えてもらえないか?
SCP-3143: 私は…… 違う。違う、私はマーフィー・ロゥデンじゃない。
O5-5: 貴方は、ハードボイルドな名探偵マーフィー・ロゥが登場する小説「いつだって雨」の作者。そうよね? 「ただの、起こり得る災いが現実になった時、呼ばれる男さ」と。
SCP-3143: いいや、それは…… 違う人だろう。私はそんなもの書いていない、私じゃないんだ。
O5-5: ねえ、SCP-3143、貴方はマーフィー・ロゥデンと同じ特性を示しているの。だから、貴方がロゥデン氏でなければならないのよ。何かが変わっていない限りね。
SCP-3143: 他は私が…… いや、彼が書いた。ロゥデン — 彼はそんな名前ではない。彼は「殺しのタイプ」と「財団は二度ベルを鳴らす」を書いた。これは — これは……
O5-6はO5-5の方を向く。
O5-6: ああ、空想科学部門のメモでは3043と3143はそのように呼ばれていたな。部門内での俗称という奴だろう。
SCP-3143: 一体…… どうやって私の物語を奪ったんだ?
O5-6: ふむ、我々の共通の友人 — 小鳥のバーディーが、いくつかヒントをくれたのだ。この休暇旅行も彼が用意したものだよ。全く、見事な計画だ。
O5-5: そして、彼が貴方を捕らえられるように導いてくれたのよ。
SCP-3143: こんな — こんなこと、あり得ない。こんなことはあり得ない!
SCP-3143が叫び始める。
SCP-3143: この会合がこうなるはずがない! 上手くいくはずだった! あり得ない!
O5-5: ロゥデンさん、どうか落ち着いて。これからは私たちと長く共に過ごすのですから。
SCP-3143: 俺はクソったれのロゥデンさんなんかじゃない! やらなければ! 勝たなければ! 絶対に!
O5-6: どうしてそう思うのかね?
SCP-3143: 俺にはそれしかないからだ!
俺は腰からマグナムを引き抜き、奴の愚かなグズの頭蓋骨に六発叩き込む!
俺: 全部嘘っぱちだ!
ファイブ: なんてこと —
お前もだ、このクソ野郎! 弾丸を食らえ!
その時、外にいた保安員が駆け込んで来るが、連中はここにいるはずもないので、帰ってしまう。忌々しい機械音も止まる。
下で踊っている群衆の中に、双眼鏡でこちらを見上げる独りよがりのバカ野郎がいる。連中が言ってた小鳥野郎だ。クソが!
俺はガラス窓を撃って開け、外に飛び出し、床に転がる。双眼鏡を落として走り出す男を群衆の中に見つける。
「そう簡単には逃げられると思うな!」俺は叫びながら、奴の後を追いかける。いや、いや待て、こんなフォーマットあり得ない! 全部がめちゃくちゃだ! これはああ、クソ、神よ!
俺
俺は奴を追って人混みへと飛び込んでいく。群衆は叫び、出口へと走り出す。だが、群衆がここにいるはずはない! ここは雰囲気のあるバーなんだぞ!!
群衆が消え、テーブルが戻ってくる。DJブースが消失すると、ステージ上にバンドが戻って演奏を続け、喫煙していた数人の客がドアに向かって奔走する。ディーン・マーティンの「You're Nobody 'Till Somebody Loves You」を演奏していたサックス奏者はVIPルームの窓を見上げ、曲の途中で楽器を落とし、ドアに駆け寄る。バンドがステージから走り去ると、放り出された楽器の不快音と共に曲は終わりを告げる。濃い色の革のジャケットを着て、手袋を片手に嵌めた男が、走り回る小さな人混みをかき分け、横の出口から脱出する。俺も出口を走り抜けるが、奴は夜の闇に消えていった。
俺はドアを引いて開ける。
俺
クソ、クソ…… よし、よし、いいぞ。元のキャラクターに戻れ。部屋を調べろ。クソを連発するな。
俺 — 違う、マーフィーは立ち止まり、二回ほど深呼吸をする。彼は地面に座り込み、震えている。その白いサテンのシャツには、血が二、三滴散っている。ファイブとシックスの遺体は、粉々になった窓枠に寄りかかり座ったままだ。
ナレーター
ここで何かが起こったのだ。あの会合は何かがおかしかった。だが……
マーフィーはマグナムのシリンダーを開け、三つの空薬莢と顔を合わせる。彼は再びシリンダーを閉じる。
ナレーター
それが答えだ。だが、あの男、双眼鏡の男は…… あの二人はO5-7を撃っていない、では誰が?
マーフィーは不安そうに立ち上がる。彼はテーブルや椅子がすべてひっくり返っているのに気づき、部屋を見渡す。テーブルの中央に、双眼鏡と黒い綿の手袋が置いてあることが分かる。マーフィーは膝をつくと、双眼鏡を手に取ってひっくり返し、次に手袋を手に取る。手袋もひっくり返して、開いて中の縫い目を確認する。小さなタグが付いていて、そこには黒いマーカーで「MC&D 展示品用」と書かれている。
ナレーター
俺の為にこれを調べてくれる人は一人しか思いつかなかったが、それは直感だった。もしあのバーディーとやらを見つけるつもりなら、真の幸運が必要になるだろう。バーディ、小鳥ちゃん…… なぜ俺はこの言葉に戻って来るのだろうか?
パトカーのサイレンが建物の外で鳴り響く。それはこちらへ近づいて来て、玄関の前で止まる。二人の警官が銃を抜き、玄関のドアを開ける。
警官1
止まれ! 何者も動くな!
部屋に残っている人間はマーフィーだけだ。彼は再び立ち上がり、非常口に向かってゆっくりと後ろ向きに歩き始める。警官たちは乱れ切った建物を見渡し、顔を上げると、VIPルームの粉々になった窓枠に、ファイブとシックスの遺体が横たわっていることに気付く。手に銃を持ち、シャツに血のついたマーフィーを目にして、警官たちは漸く事態を把握する。マーフィーは振り返り、非常口から飛び出していく。警官2が追いかけようとするが、警官1が彼の胸に手を当てる。
警官1
体力を温存しよう。どうせ直ぐに見つかるさ。
フェードアウト。
フェードイン。
屋外. サイト-19 - 夜
マーフィーは砂漠の舗装道路でタイヤのゴムを擦り付けて燃やし、煙と砂埃が車の後ろに舞い上がる。道路を切り裂くようなエンジン音は、マーフィーに同調するかのように怒りの篭った響きだ。
ナレーター
あのクソ野郎どもは、俺が警察に追われるように仕向けた。奴らは俺を嵌めたんだ、それしか方法が無かった。警察に捕まるのは時間の問題だ。その間、財団はMTFを放ち、連中は蜂のように俺に群がるだろう。何が起きたかが知られる前に、サイト-19を出なくてはならない。腰の.44口径以上のものが必要だ。幸運が必要だ。俺は今や指名手配犯で、全ては時間の問題なのだ。
車はサイト-19の境界ゲートの前で急停車する。警備員1が警備ブースから顔を出す。
警備員1
顔認証に失敗しました。お名前と —
マーフィーは、彼の目を切り裂き、魂を突き刺すような視線を向ける。
警備員1
し、失礼しました。ミスタ・ロゥ。
警備員1が操作盤のボタンを押すと、ゲートが開く。マーフィーは車のエンジンをかけ、道路上を走り出す。彼は駐車場に車を停める。建物のドアからは夜の仕事を終えた人々が溢れ出す。白衣や様々な色の制服のシャツを着た人々が、出口から一斉に流れて来る。マーフィーは車から降りると、人混みをかき分けて走り出す。
ナレーター
彼女はどこだ? どこにいる?
マーフィーは人を押しやって進み続け、ついに白衣を着た女性の肩を掴む。彼女は動揺しながら彼の方を振り向くが、彼の顔を認識すると落ち着きを見せる。
パトラ博士
ああ、ジーザス。貴方に会うなんて。仕事は終わったところですので、もし部門に必要なものがありましたら明日にでも —
マーフィーはポケットから黒い綿の手袋を取り出し、彼女に差し出す。
パトラ博士は取り乱して立ちすくむ。それから、手袋を見て目を細める。
場面転換。
屋内. サイト-19 調査部門 - 夜
パトラ博士は机の上の書類をかき分け、仕事場の残骸の中から何かを探しながら話し出す。
パトラ博士
タグについてるロゴから判断するに、これはマーシャル・カーター&ダーク社の商品ですね。この会社は、異常物品を販売する営利企業です。10ヶ月前、何者かが彼らの運送トラックをひっくり返したのですが、そのトラックが運んでいたのが……
パトラ博士は、机の上に積まれた資料の中から、田舎道の脇の土の上に横たわるトラックの写真を取り出す。彼女は写真を裏返す。裏側には、トラックの内部が写っており、黒い綿手袋の木箱がひっくり返り、地面に散らばっているのが写っている。トラックが横転したせいだろう。
パトラ博士
…… この手袋なんですよ。
マーフィー
なぜ手袋なんか運んでいたんだ?
パトラ博士
MC&Dの資料によれば、これを使うと確率を操作することができるそうです。要するに、自分の運を自分で決められるということですね。あらゆる事象の結果に干渉でき、例えばコイン投げの —
マーフィー
パスコードを正しく推測できる確率を変えることは可能か?
パトラ博士
そうですね、恐らくは。
マーフィー
レバーが故障して、触らなくても機械が作動してしまう確率はどうだ?
パトラ博士
え?
マーフィー
こういう確率はどうだ? ある人物が遺体袋を疑われることなく複数の場所に運び、誰かがそれを拾い、彼を殺して、逃げおおせる確率だ。
パトラ博士
どういうことですか? 一体何の話を??
マーフィー
出来るのか!?
パトラ博士
ええ、恐らく出来ると思います! それが重要だとも思っていませんでした!
マーフィー
どういうことだ!?
パトラ博士
これです!
パトラ博士は机の上の山から一枚の紙を引っ張り出し、上に叩きつける。それは、しわくちゃで擦り切れて破れた、罫線付きノートのコピーだ。マーフィーはそれを机から掴み上げる。
パトラ博士
犯人はこれを現場に残していきました。以前にもノートを拾ったことがあるのですが、確かなものはありません。あちこちにある小さな干渉と、異常存在との小競り合いの形跡だけです。
マーフィーの目はページ内を駆け巡り、書き込まれた文字の上を転がり、名前を探す。
パトラ博士
彼は、人としての感覚の喪失をもたらす異常性に苦しんでいます。自分自身に対してだけでなく、世界全体に対して。何をやっても群衆の中の顔でしかないような感覚です。強い虚無感の中にいることでしょうね。
マーフィーの目がようやく、ページの下にあるサインを見つける。「ノーバディ」と書かれている。
マーフィー
ノーバディ、何者でもないだと? ノーバディか……
パトラ博士
恐らく偽名です。私たちも多くは知りません。中年男性、漠然とヨーロッパ系、複数人いる可能性もある…という所です。
マーフィー
ノー・バディ。俺はなぜこの名に聞き覚えがある?
パトラ博士
まあ、普通に一般的な単語ですから……
マーフィー
違うな…… 空想科学部門への侵入者、そいつの名前がノーリッジ・ボリーだった。
マーフィーはパトラ博士のデスクから鉛筆を取り、ノートに叩きつけるようにしてその名前を記録する。
マーフィー
オーガストの退職通知書類に署名があった男、名前はノーア・ディー。
パトラ博士
ええと、どういうことでしょう?
マーフィー
サーシャの店でO5-7が見た台帳、そこに書かれていた名前はノーラン・ボディだった。ノーボリー、ノーアディー、ノーボディ。ノーバディ、ノーバディだ。"何者でもない"だったんだ!
パトラ博士
い、意味が分かりません。
マーフィー
電話を貸してくれ。サーシャの店に繋げ!
パトラ博士は、机の中の電話の受話器をマーフィーに手渡す。彼女はいくつかの数字をダイヤルし、電話が鳴り始める。ジミーが電話に出る。
ジミー
はいこちら、サーシャ洗浄剤製品社。あなたの汚れが私たちの喜びです。ご用件は?
マーフィー
注文台帳にあった名前、ノーラン・ボディーは何者だ!?
ジミー
申し訳ありませんが、お客様の情報についてはお答えできかね —
マーフィー
█████████か!?
ジミー
少々お待ちを……
ジミーが引き出しを開けて台帳を取り出し、パラパラと捲っているうちに数秒が経過する。
ジミー
ノーラン・ボディーは昨日来た客で、消毒液と魔法の超落ちスポンジを数パック購入してますね。
マーフィー
自分が何者なのか、買った商品は何のためのものなのか、何か言っていなかったか!?
ジミー
えーとですね、そう、アリアで清掃員をしてたと言ってたような? 確か、ラスベガス・ストリップにある大きなホテルですよね?
マーフィーは電話を切ると、ドアから飛び出していく。パトラ博士は部門のドアに駆け寄り、廊下に向かって叫ぶ。
パトラ博士
どこに行くんです!? 私は何も分かってないのに!?
マーフィーは廊下を走り抜け、正面出口の手前で小走りになって立ち止まる。出口はMTFの分隊によって封鎖されている。その前に立つ隊員の一人、MTF-シャイ1は、他の隊を威圧するような力強い声と、それに見合うだけの鉄の意志を持つ女性だ。
MTF-シャイ1
マーフィー・ロゥ! 貴様にはO5-5、6、7を殺害した容疑がかかっている。ご同行願おうか。今直ぐこちらへ来い! さもなくば射殺する!
マーフィーはその言葉を処理する暇もなく、廊下を奥へと走り出す。追って来たMTFが角を曲がって狙いを定めるが、発砲される前に、マーフィーは「カフェテリア」と書かれた部屋のドアを開け、中に飛び込む。
MTF-シャイがドアから入ってくると、マーフィーは椅子を飛び越え、机の上を滑るように移動する。
ナレーター
生死を問わず、捕獲されるのは全く恥辱としか言いようがないことだ。俺にはまだ解決すべき事件がある。そして、神に誓って俺はそれを解決するつもりだ。必要なのは祈りと、少しの幸運と、それから出口だ。
周囲に銃弾が飛び交う中、マーフィーはカフェテリアのホットバーを飛び越えて厨房に飛び込む。マーフィーはコンロや調理台が並ぶ厨房を駆け抜け、背後からの銃撃があらゆる調理器具を倒していく。その奥に、マーフィーは厚い窓を見つける。二発撃つが、窓は割れない。彼は窓に向かって疾走し、跳躍しつつ背中をぶつけてガラスを突き破る。彼は外の地面に激突し、割れたガラスに囲まれた舗道に転がる。ガラスの破片で腕から血を流しながら立ち上がり、自分の車に駆け寄る。MTF-シャイ1ともう一人のMTF隊員がドアから飛び出すと同時に、彼は車に飛び乗り、エンジンをかける。
MTF-シャイ2
車で追いますか?
MTF-シャイ1
いいや、パトラとの会話から行き先は割れてる。アリアに何人か潜入させて、サイト-21にも連絡を入れろ。必ず捕獲するんだ。奴の運もそろそろ尽きるはずだ。
遠くでマーフィーの車が地平線の向こうに消える。
フェードアウト。
フェードイン。
屋内. アリア・ホテル ロビー - 深夜
アリア・ホテル&カジノの内には、高価な家具が置かれ、人々で賑わっている。日本の植物が植えられ、天井から大きなプラスチックの蝶が吊り下げられている。壁の表面は金色の光沢があり、巨大な窓が取り付けられている。ホテルの外では、街の明かりがまだ動き回る大勢の人々を照らし、夜に命を吹き込み、宴と賭博と罪で出来た世界を照らし出している。マーフィーは玄関から入ると、腕にガーゼを巻きながら廊下を大股で歩いていく。彼は糸の端を歯で噛み切ってガーゼを縛り、残りをポケットに押し込む。
マーフィーは人混みをかき分け、フロントの女性のすぐ側へ歩み寄る。群衆は彼を見るなり後ずさりして道を空ける。汗で濡れ、血で塗れたシャツ、疲れた目、そして怒りに支配された彼の顔。彼はマグナムをフロント机の上に叩きつけ、カウンターの後ろにいる受付の職員を怖がらせる。彼女はおとなしく、物腰が柔らかい。マーフィーは彼女を、そして彼の周りの人たちを脅かす。
マーフィー
ある男を探している。三十代で、漠然とヨーロッパ系、最近チェックインした。
受付
ええと、申し訳ありませんが、私どものお客様の半分はそういった方かと……
マーフィー
畜生。
マーフィーはカウンターから銃を持ち上げ、怒りのあまり、そのまま叩きつける。彼は振り返り、カウンターにもたれ掛かり、考えながら部屋を見渡す。豪華な調度品、素敵なスーツを着た人々が行き交い、スーツケースには本当に価値のあるものが詰まっていることだろう。それから、彼はカジノを見やる。その場所は欲望と可能性の音を鳴り響かせ、「もう一回だけ」とばかりに無防備なプレイヤーを誘い出す。彼はあることを思いつき、鋭く振り返る。
マーフィー
大きな袋を持った、物凄く幸運な奴はいなかったか? 勿論、最近チェックインした中でだ。
受付
そ、そうですね、確か昨日、一人部屋を予約した方が。か、彼は、そう、二回連続でジャックポットを当ててですね、そ、それで、そのお金の一部で予約を。
マーフィー
そいつの名前と部屋番号は?
受付
た、大変申し訳ないのですが、その、お、お教えすることはでき —
マーフィー
お嬢ちゃん、部屋番号と名前だ!
受付
ひっ! へ、部屋は6077号室、60階です。お、お名前は、ええと、はい、 少しお待ちください。
彼女は必死でパソコンを打ち、マーフィーはカウンター越しに彼女を覗き込む。
受付
ネイサン O. バリー様です。
マーフィー
N. O. バリー、ノーバディだ。
受付
何を —
マーフィーは彼女が言葉を終える前に、エレベーターに向かって駆け出す。彼が「上」ボタンを押すと、周囲にある六台のエレベーターのうち一台が鳴り、汚れのないステンレス製のドアがスライドして開く。マーフィーはエレベーターに乗り込み、「60」と書かれたボタンを押す。ドアが閉まり、エレベーターが上昇する。
エレベーターは静かに上昇していく。マーフィーは口から煙草を離すと、自分を見つめ直し、彼がいつもそうするように煙草の煙を吐き出す。彼は腕の傷を確認すると、エレベーターのドアに映る自分を見る。彼は、まるで自分が分からなくなったかのように、自分の姿に顔をしかめる。煙草を元の場所に戻し、中折れ帽のつばを下げて、自分の目を隠す。マグナムのシリンダーを開けると、弾丸は一発だけ残っており、残りの薬室は空薬莢で埋まっている。彼はマグナムを閉じてホルスターに戻し、ポケットから黒い綿の手袋を取り出す。彼はそれを、顔の前にぶらさげながら考える。
ナレーター
確率を操る。一体どの程度まで? この手袋だけで奴はどれだけの事を為したのか? 奴は今までずっと俺の目の前にいた、可能性を弄り、自らを幸運にしながら。常に幸運ならば、逃げ切るには十分だろう。だが、なぜ奴は俺をここに導いた? なぜ痕跡を残した? なぜ俺がここに来る可能性を排除しなかった? 奴の目的は何だ?
エレベーターが鳴り、ドアが再び開く。マーフィーは手袋をポケットに戻し、廊下に出る。彼は立ち止まって壁の案内表示を読み、目的の部屋に向かって歩いていく。彼は次々とドアを通り過ぎて置き去りにし、ついに廊下の端にある最後のドアの前で止まる。ドアは僅かに開いており、鍵はかかっていない。マーフィーは銃を抜き、慎重にドアを押し開く。
金色に塗られた石英の壁で覆われた部屋は、整然とした造りで、照明で明るく照らされている。冷蔵庫、コンロ、花崗岩のカウンターを備えた豪華な簡易キッチン。リビングルームには、52インチのフラットスクリーンに向かってどっしりとした柔らかいソファが置かれている。スクリーンではサッカーの試合が再生されており、主審がコインを投げるところが映し出される。左側の壁には大きな水槽が埋め込まれ、青や赤の光り輝く魚が何匹も水中を泳ぎ、水草の間を出たり入ったりしている。右側にはドアがあり、恐らくは可愛らしく豪華な寝室に通じているのだろう。だが、部屋の一番奥、外のコンクリートのバルコニーでは、縛られたベッドシーツが何かから垂れ下がり、窓を叩いてマーフィーの注意を引いている。
マーフィーはバルコニーへの扉を押し開けて飛び出すと、振り返り、屋根を見上げる。金属の柱に何枚ものベッドシーツが結ばれて巻きついているのが見える。そして、マーフィーは柱の横に立っている男に目を向ける。焦茶色の革製のオーバーコートを羽織り、黒い中折れ帽を被っている。手に嵌められた黒い綿の手袋が、男の正体を現している。この手袋が唯一、彼の外見を普通以上のものにしている。その顔は冷たく無表情で、平凡さのブラックホールのようだ。周りのもの全ての特徴を取り込もうとするが、自分は何も生み出さない。彼は煙草を口から離すと、下を向いてじっとマーフィーを見つめる。彼は小さなコインを弾き、その度に音が鳴る。コインは毎回同じように表を出す。どんなに高く弾いても、どんなに長く空中を舞っても、表が出る。彼の声は異常に穏やかで、ほとんど平均的だ。彼はノーバディ。マーフィーは今や、この男が旅行者1でもあることを知っている。
ノーバディ
やあ、マーフィー。君がここに辿り着けたことを嬉しく思う。本当に、純粋に。
マーフィーは即座に彼に銃を向ける。
マーフィー
今すぐお前の頭蓋に鉛の塊をぶち込むべきでないという、正当な理由が一つでもあるなら言ってみろ。
ノーバディ
さらに良いことに、理由は二つもある。まず、君は詮索屋だ、マーフィー。君が抱いた全ての疑問には答えが与えられなくてはならない。そして、それが出来るのは私だけだ。分かるとも。私も人生の殆どを詮索に費やしたのだから。君はそれを無視することが出来ない。たとえ、それで何も得られなくとも、犯人が私であると知っていても、君は動機を知らなければならない。
マーフィーは目を細め、明らかに気分を害した様子で後ずさりする。
ノーバディ
第二に、君はきっと上手く撃てない。恐らくな。百分の一の確率だ。
ノーバディは、手袋を嵌めた手を上げ、指を振る。
ノーバディ
数千枚のコインを弾いて確かめた。何か失敗するかもしれない、弾が詰まるかもしれない、不発弾かもしれない、君の手の中で爆発するかもしれない。どうなるかは分からない。だが、恐らく上手くはいかない。一先ず、どうなるか試す前に、少しの間だけ私に付き合って欲しい。
ノーバディはベッドシーツを顎で指す。マーフィーはそれを見上げ、渋々ながら銃をホルスターに収め、シーツを握りしめる。彼は壁をよじ登り、砂利の敷き詰められた平らな屋根の上に身を乗り出す。ノーバディが手を差し伸べてマーフィーを助けようとするが、彼はそれを拒否する。彼はノーバディから数フィート離れたところに立ち、安全な距離を保つ。彼は再びホルスターから銃を取り出すが、脇に抱えたままだ。
ノーバディ
シーザーズ・パレスの部屋が取れなかったのは残念だが、まあ、アリアの方が堅苦しくないだろう。それに、ここからの眺めを無視できる人はいまい。
ノーバディは、地上から色とりどりの光を放つ街を眺める。超高層ホテル、宮殿、ピラミッド、小さなエッフェル塔、そして遠くには火山。建物が世界を埋め尽くしている。下界はダイヤモンドのように輝き、人間の能力の素晴らしさに心が溶けるようだ。
ノーバディ
立ち止まって眺めるだけなら、ここは世界で最も好きな場所の一つだよ。
ノーバディは振り返り、未だに遠くに立っているマーフィーに向き直る。
ノーバディ
だが、人類の偉業に思いを巡らすのは君の趣味ではないだろう。だから、ほら、探偵くん、質問をどうぞ。詮索屋くん。
ノーバディは背後に世界の輝きを受けながら、屋上の縁台に座る。
マーフィー
お前は何者だ? 目的は何だ? なぜO5-7を殺した? 今回のこと全て…… なぜお前はこんなことを?
マーフィーは腕を振り上げ、全世界に向けてジェスチャーをする。
ノーバディ
おかしなことだが、その質問は全て同じ答えに紐付いている。長い話になる。君も座ったほうがいい。
マーフィーは屋根の真ん中に立ち続けているが、今は片足に体重を預けている。
ノーバディ
なるほど、君は一日中私の話を聞いて回ったのに、今は私の話を聞くつもりがないのか。へえ。
マーフィー
とっとと質問に答えろ!
ノーバディ
世界中の誰もが、自分以外の誰かに作られたものだと感じたことはあるか? 世の中の人は皆、何か、あるいは誰かにとっては意味のある存在だろう。だけどより深く、理屈のない部分で、自分には何の意味もないような気がしないか?
マーフィーは事件も無く、客も無く、毎日やってくるフレッド以外の誰からの知らせも無く、机に座って過ごしていたあの年月を思い返しながら、前を向いている。
ノーバディ
そうだ、だけどそう、より深く、より…… 文字通りの意味で。君がそうであるようにだ。マーフィー、私はかつて本当の人間で、何者かだった。だが、ある日突然何かが起きて、私は何者でもなくなった。壮大な宇宙の電話帳から、私の名前は突然に消えた。そして、何者かだったときのことはもう覚えていない。自分が何者だったのかもだ。もしかするとD. B. クーパーだったのかもしれない。ケネディを撃ったのは私かも。だが、もう何も分からない。
マーフィー
なるほどな、お前が陰鬱で孤独な奴だということはよく分かった。ならば、なぜセブンを撃った?
ノーバディ
いいや、もっと深い話だ。君には理解できないだろうが。もちろん分からないだろうな、私もなぜ君に分かってもらえるかもと思ったのか分からない。"何者でもない"のことは何者にも理解できないと言うのに。
何者でもないはタバコを唇から離すと、夜空に煙を吹きかける。
ノーバディ
物語の中での自己紹介が遅すぎたのかもしれないな。ああ。もっと早くからヒントを入れておけばよかった。全く馬鹿なことをした……
マーフィー
分かった、もっと深い話だ。お前は自分が何者か分からない、なるほどな。では、なぜセブンを撃ったんだ?
ノーバディ
そうなりつつある。全く、誘導尋問じみているな。そうだろう? こんなふうに行き詰まったときに考えることができるのは、如何にして元の道に戻るかということだけだ。何者かだった時の自分に。少なくとも、私にとってはそうだ。再び意味のある存在になりたいと切望し、それを取り戻すための新しい方法を常に探している。この呪いを解くために。最近立てたある計画が失敗し、MC&Dのトラックの荷台に飛び乗った。何があるか見るためにな。それから、運転手と揉み合いになって事故に至ったわけだが、この間にノートのページを一枚失ってしまった。
ノーバディはオーバーコートを開き、小さなノートを取り出す。その綴じ輪には短い鉛筆が刺さっている。
ノーバディ
その時に見つけたのがこれだ。
ノーバディはノートを戻し、手袋を嵌めた手を掲げる。
ノーバディ
トラックにあった台帳には、これが何で、何が出来るのかが書かれていた。私はその一組を拾い、試験を行うことにした……
ノーバディが手に持っていたコインを弾く。コインは手袋を嵌めた手のひらに、表向きで落ちる。
ノーバディ
このバカげたコインを数千回ひっくり返したら、100回当たり99回は表が出た。そこで私は、サイト-19でまだ見たことのない場所を探し当てた。空想科学部門だ。
マーフィー
パスコードを推測できる確率を変え、それを使ってガレージに入ったんだな。
ノーバディ
話が早いな。面白いことに、パスコードロックがあるなんて思ってもいなかったが、それを見たときに私は「ふむ、その可能性は如何程かな」と言った。その時、それが実行可能だと気付いた。
マーフィー
なぜ物語跳躍機に乗った? 何の意味があったんだ?
ノーバディは帽子を取り、ため息をつきながら頭を垂れる。
ノーバディ
それが君たちのような探偵キャラの問題点だ。何事にも理由があると思い込んでいる。私が機械に飛び込んだ時、確率を変えてレバーが勝手に動いた時、蒸気が目を覆うのを見た時、その段階で私が全て計画していたと思っているのだろう? だが違う。帰ってきて、初めて考えたのだ。初めてあれを見た後に。
マーフィー
何を見た?
ノーバディ
私があそこで何を見たのか、本当に知りたいのか?
マーフィー
だから聞いているんだろうが。
何者でもないは再び立ち上がると、両手を大きく広げる。
ノーバディ
私は全てを見た。
カメラが彼の目にズームする。その瞳孔は渦を巻き始め、どんどんと回転を増し、延伸して渦となって周囲の世界を吸い込んでいく。入り込み、惑わし、あらゆる方向にねじれ、永遠に回転し続ける。渦は内に入り込み、惑わし、あらゆる方向にねじれ、延々と回転を続ける。
ノーバディ
私は生を見たんだ、マーフィー、それから死も見た。太陽の力を見、星々の間の生命を見た。魔物と魔法を見た。陸兵と水兵を見た。王と女王を見た。音楽を、医薬を、政治を、芸術を、夢幻を、自然を、苦痛を、救済を見た。私は全てを見た。この世界を形作るあらゆるものを。多くは財団の視点に立ったものだったが、他の者たちの視点が見える箇所もあった。そこで私は君を見た、そして私自身を見た。
マーフィーは銃に手をかけながら、もう一歩下がる。
ノーバディ
そうして、私についての話を見つけた。今時、物を読む人がまだいるとは思わなかった。だが、彼らは私のことを読み、私のことを書いてくれていた。私は全ての作品で同じ人間というわけではなかったが、私たちは皆、ある独自の問題を抱えているという点では同じだった。あるバージョンの私はピンクのノートを持った若い女の子だった。他の数人は私よりずっと年上で、白いスーツを着た男に尾行されていたし、他の数人はそれ以外の誰かに尾行されていた。1900年代初頭に始まったものもあれば、何千年も前から存在しているものもあった。もう一つ共通しているのは、皆が常に謎に包まれているということだった。そして思った。人は謎が好きだ。私のような人間が好きなんだ。記事の評価数を見たとき、ほんの少しではあるが喜びを感じ、私は本物の人間に戻ったような気がした。だから私は謎を作らなければならなかった。その時、君を見つけた。
マーフィー
それが目的なのか!? お前はあの男を殺し、事件を通じて俺をここに引きずり込み、手掛かりを用意した。お前の喜びのためか!? そのために俺をハメたのか!?
ノーバディ
私は君をハメたりなんてしていない。それは彼らが勝手にやったことだ。だが、全く良い展開だった。なんてよく捻られたプロットだろう! 私の物語に真の緊張感が生まれた。素晴らしいことだ。
マーフィー
こんな…… 馬鹿げたことを全部やらせるとは、一体どうやってO5を説得した? あの少女はどこだ!?
ノーバディ
落ち着け、二つも質問をしないでくれ。O5の方は簡単だった。運が良かったのさ。
ノーバディは、再び手袋を嵌めた手を振る。
ノーバディ
ほらな、お金と少しの運があれば、何でもできる。それが人間というものだ。231を見たとき、黒塗りの行に何かを隠せる可能性を感じた。彼女の苦痛以上のものを。だから、それを隠した。そして彼らに渡した。彼らはそれを使い続けるだけでいい。彼らは何も聞かなかった。少女の居場所を知りたいのか? 君が調べなかった寝室に居るかもしれない。廊下の向こうの部屋にいて、新婚旅行のカップルを脅かそうとしてるかもしれない。そもそも彼女は実在しないのかもしれない。オーガストの家で見つけたものは実際に起きた出来事ではなかったかもしれないし、何も本物ではないのかもしれない。
マーフィー
何…… それは……
ノーバディ
分かるとも、少し待とう。
マーフィーは地面を見つめて考えを纏めようとしている。彼の頭上を微風が吹き抜ける。夜空の星が煌めいて輝き、魔法の世界が広がっている。飲み干してしまえそうなほど鮮やかな紫色の空。何とも言えない美しさだ。
マーフィー
それでも、やはりお前はO5-7を撃った。俺にはお前を連行する必要がある。
ノーバディ
勿論、君はそうする事も出来るだろう。だが、私はもう勝った。欲しいものは手に入れた。あの感覚、人間らしさ、意味のある存在としての感覚、それは今、確実に戻ってくる。これだけのことをしたんだから。そのはずだ。今すぐにでも。
マーフィー
いいや。
二人は顔を上げ、目を合わせる。
マーフィー
その感覚は、そう簡単には戻ってこないはずだ。お前も本当は分かっているんだろう。それはそういうものだからだ。その異常性はそういうものだからだ。直るものもあれば直らないものもある。お前は確率を変えることができる、なるほどな。だが、まだ足りない。俺が思うに、お前は1/100に囚われている。
ノーバディ
いいや、うまくいくはずだ。私と君、我々は似たもの同士じゃないか。お互い、この物語が必要だ。全ては私のものでもある。だから君は、こんな風に私を書いたんだろう。
マーフィー
何の話だ?
ノーバディ
物語にはフィナーレが必要、そういうことだ。最後の壮大な見送りであり、敵役の最後の砦。マーフィー、手袋を着けてくれないか。見せたいものがあるんだ。
マーフィーはポケットから黒い綿の手袋を取り出す。銃をホルスターに戻し、それをじっと見つめた後、ノーバディを見上げる。
マーフィー
なぜだ?
ノーバディ
君は私を追ってくるだろう。私は互角な戦いがしたい。
マーフィーは手袋を再び目を向け、自分の革手袋を外すと、それに着け替える。
ノーバディ
良い子だ。
ノーバディは数歩前進すると、身を翻して走り出し、屋根から飛び降りる。マーフィーは屋根の縁に駆け寄り、見下ろす。ノーバディが落下していくのと同時に、古いバネ式のマットレスを荷台に積んだゴミ収集車が、道路沿いを走ってくる。ノーバディはマットレスの上に落下し、車は彼を積んだまま走り去る。マーフィーは周囲を見回し、遥か下にある地面を見下ろす。
色とりどりのポロシャツを着た何人もの男たちが、部屋のバルコニーへの扉を開け、縁から身を乗り出しているマーフィーを見つける。そのうちの一人、潜入捜査官1が彼に向かって叫ぶ。
潜入捜査官1
マーフィー・ロゥ! 貴様を逮捕す —
マーフィーは手袋を嵌め直すと、屋根から飛び降りる。彼は空中を地上に向かって飛び、今しがた立ち去ったホテルの何列もの窓を通り過ぎていく。
ナレーター
自由落下。これまで、とある唯一人の男が、失ったものを取り戻そうとしていた。奴はあらゆるパイに指を突っ込んだ。俺はと言えば、張り詰めた弦のような緊張感の中、まるで楽器のように奏者の手の内にいる。奴を見つけ、そして捕らえなくてはならない。それは正義のためだけじゃなく、報復でもある。
屋外. ラスベガス - 夜
マーフィーは緩衝材のブロックで埋め尽くされたオープントラックの荷台に墜落する。その端には、後ろに飛び込むための台が置いてある。近くにいた子供が泣き出す。マーフィーは這うようにして荷台の上へ移動し、自分の身体が、子供の誕生日のサプライズよろしく落下してきたことに気付く。後ろにリムジンが停まると同時に、彼は飛び上がってトラックを脱する。
ドライバー
マーフィー!?
マーフィー
フレッド!?
マーフィーはリムジンの屋根に着地すると、助手席のドアをこじ開ける。
マーフィー
ゴミ収集車を追え!
マーフィーはマットレスで一杯のゴミ収集車を指差す。その車は急加速し、アリアの敷地からラスベガス・ストリップへと走り去る。道路上の車は広がって停車しているように見え、収集車はその傍を通り過ぎていく。ノーバディは荷台を飛び越え、運転席のドアによじ登る。それから運転席のドアを無理やり開け、運転手を放り出し、席に座る。
ドライバー
ええ!?
マーフィー
早く運転しろ! 急げ!
リムジンのドライバーはアクセルを踏み込む。車はエンジンを唸らせながら玄関を走り抜け、誕生日パーティーにスモークを添える。ストリップに飛び出したリムジンは横滑りして弧を描きながら大通りに侵入し、ゴミ収集車の後ろに付く。
ドライバーがアクセルをベタ踏みすると、スピードメーターは狂った時計のようにぐるぐる回り、街が後ろへ駆けていく。車が時速80マイルに達し、マーフィーは車のドアの上部にある取手を握る。前のトラックが猛スピードで走り去るのがフロントガラス越しに見える。
ドライバー
一体何が起きてるのさ!?
マーフィー
全てはトラックにいる男が仕組んでいたことだったんだ! 奴は容疑者を殺し、俺をこのふざけた追跡劇に誘い込んだ!
ドライバー
ジーザス、君は大変な一日を過ごしたみたいだね!
マーフィー
運転席の横に着けろ! 奴の所に行く!
ドライバー
もう最高速度だよ!!
背後では、パトカーのサイレン音が響き渡る。赤と青の光が、街灯の橙色の光に混じり込む。ストリップを駆け抜けるようにリムジンを追跡する警察車両から、拡声器のノイズ音に続き、声が流れ出す。
拡声器
マーフィー・ロゥ! お前にはワン・ジョンとジェーン・ドウの殺人容疑がかかっている! 車を止めろ!
ドライバー
君、何かしでかしたの!?
マーフィーは助手席のドアを勢いよく開け、リムジンの側面から身を乗り出す。彼は、追跡してくる二台のパトカーに目を向け、その後振り返って前方のゴミ収集車を見る。彼は座席から立ち上がり、開いたドアから外に出ようとする。
ドライバー
何やってるの!?
マーフィー
トラックに乗り移る! 車を安定させろ!
ドライバー
やってるよ!
マーフィーは揺れ動くドアにしがみ付き、その反対側へ回り込む。彼が開いた窓を掴むと、ドアはバタンという音を立てて閉まる。
拡声器
今すぐ車を止めろ!
マーフィーは体を揺すり、リムジンのボンネットの上に身を乗り出す。ドライバーは驚嘆と恐怖の中でそれを見つめる。彼の体力は、強風に煽られて吹き飛ばされるのを防ぐので精一杯だ。リムジンは僅かに速度を上げ、マーフィーは車上でバランスを取りながらトラックの横に移動し始める。突然、大きな音が響くと、銃弾がマーフィーの中折れ帽を貫き、頭から弾き飛ばして道路に落とす。マーフィーは振り向く。白いバンが高速道路の出口ランプの下から飛び出し、コンクリートの壁を回り込んで、パトカーの後ろに停車する。一人の男が運転し、もう一人がライフルを手に窓から身を乗り出している。その側面には、「サーシャ洗浄剤製品社」の橙と赤のロゴがステンシルで刷り込まれている。
マーフィー
畜生!
バンの側面ドアが開くと、ガンナーシートがスライドしてくる。その台にはガトリング砲が取り付けられている。ガンナーシートに座ったジミーは、はにかんだような笑みを浮かべている。
ジミー
幸運な野郎だぜ、ミスタ・ロゥ! だが、お前は散らかしすぎた。さあ、お掃除の時間だ!
リムジンはゆっくりとトラックに近づいていく。ジミーが銃のハンドルを引き、マーフィーは綿の手袋を掲げる。銃はリムジンの後部に弾痕を刻み付け、ガラスと、中の酒瓶を割る。豪雨のような銃弾がマーフィーの至近を飛び交うが、どの弾も僅かにマーフィーを外しているように見える。
パトカーの一台が窓を開け、中の警官がジミーに向かって怒鳴る。
警官3
誰だか知らないが、引っ込んでろ! これは警察の仕ご —
ジミーは腰から拳銃を抜くと、パトカーの左後部のタイヤを撃ち抜く。パトカーは左に曲がり、バンの後部に衝突して回転しながら道路を外れ、他の車両から取り残される。
リムジンがゴミ収集車の隣に停車すると、マーフィーはリムジンの上で身構える。彼のダークブラウンの髪は、吹き付ける強い風のせいで後ろへと靡いている。彼はすぐにリムジンの屋根から飛び降り、収集車の荷台の持ち手に捕まり、側面にしがみつく。彼は足場を見つけられず、車が走り出すと足は後ろへと引っ張られる。彼の命は、強く掴んだ持ち手のみに懸かっている。後続のバンがまたもや荷台へと弾丸の雨あられを浴びせる。マーフィーは目を閉じ、綿の手袋を思い浮かべる。
ナレーター
来い、幸運よ! 来い!
ガトリング砲の弾丸が荷台の後部ドアを支えていたチェーンを破壊する。ドアは開放され、地面を擦って火花が飛び散る。マーフィーは足を出すと、車体の側面を周るようにして持ち手を放し、ベッドに倒れ込む。彼はベッドの上のマットレスの束を道路に押し出し、バンにぶつける。マットレスがフロントガラスに引っかかったバンは、それを外そうと左右にハンドルを切り、別のパトカーに衝突する。パトカーはブレーキ音を響かせて停車し、バンはその横を通り過ぎる。最終的にマットレスは車体の横に振り落とされ、後ろに飛んでいき、そのままガンナーシートに当たる。マットレスの側面がジミーの顔面に直撃すると、彼はシートを離れて道路に転げ落ちる。
マーフィーは荷台に登り、屋根の上で体を安定させる。彼がフロントガラスをブーツで蹴ると、ガラスがへこみ、ひびが入る。フロントガラスの向こうでは、マーフィーを見上げるノーバディの顔に笑顔が広がっている。
ノーバディ
これこそ、私の物語に必要なものだ! 最後の戦い、究極のクライマックス! 善と悪、主人公と敵役のぶつかり合い!
マーフィー
お前、頭おかしいんじゃないのか!?
ノーバディ
私の頭が変だって!? *君*はどうなんだ!? 君と私は同じだと言っただろう、マーフィー! 私達は目的を探している! 何か意味を切望している! 私は自分でそれをやった!
バンのガンナーシートがスライドして戻され、ドアが閉まる。助手席の男がライフル銃を持って窓から身を乗り出し、ゴミ収集車に向かって発砲する。数発がその開いた荷台に叩き込まれる。マーフィーは無我夢中でフロントガラスを蹴り続ける。
ノーバディ
君自身を見てみろよ、全く凄いな! 今や君は違う存在だ、マーフィー! 君は変わってしまった!
マーフィー
黙れ! 黙れ!
ノーバディ
ハハハ! ファイブの言うとおりじゃないか! 君は新しくなった! 君は変わってしまったんだ! 私が君を永遠に変えたんだ! 君はもうノワール・ミステリーなんかじゃない。アクション・スリラーだ! 私がそうさせたのさ!
バンにいる射撃手がゴミ収集車の右後部のタイヤを撃つ。車は減速し始め、右に滑る。ノーバディはギアシフトをニュートラルに入れ、運転席のドアを開け放つ。リムジンはまだその横を走っており、怯えた様子のドライバーはペダルを踏みつけたままでいる。ノーバディは運転席のドアからリムジンの屋根に飛び降り、腹ばいになって着地する。ゴミ収集車が減速し、リムジンが前に出る。減速の中、マーフィーは振り返って追いかけてくるバンに目を向け、次いでリムジンの方を向く。彼は収集車から飛び降り、リムジンの後部に着地し、ぎりぎりでバランスを保つ。バンにいる2人が、自分たちが減速中の車の真後ろにいることに気づくと、彼らの顔から笑みが失われていく。バンは収集車と激突し、そのスピードが齎す衝撃のために、まるでソーダ缶を踏みつけたような勢いで潰される。
マーフィーはリムジンの側面を蹴る。
マーフィー
車を止めてくれ、フレッド! 奴に追いついた!
リムジンのブレーキが悲鳴を上げ、タイヤのゴムがアスファルトに焦げ付く。高速道路の上、完全に停止した車両は前方に大きく揺れ、マーフィーとノーバディは前面から転がり落ちる。二人は完璧に転がってみせ、不安げに立ち上がる。
ノーバディ
なんというスリル、終わらなければいいのにとすら思ってしまうよ。なんて —
マーフィーはノーバディに駆け寄ると、握った拳を彼の顔の側面に叩きつける。ノーバディは地面に倒れる。マーフィーはノーバディの胸に足を乗せ、鋭い氷のような眼差しで彼を見下ろす。マーフィーはホルスターから銃を抜き、ノーバディの胸の中心に正対して狙いを定める。
ノーバディ
どうするつもりかな? 私を殺すかい? 私はもう勝っている。欲しいものは手に入れた。私は10ヶ月をかけて、これを完成させた。すべてのピースを配置したのさ! 不測の事態に対応していないとでも?
ノーバディは手袋を嵌めた手を掲げ、マーフィーの胸に突きつける。
ノーバディ
君には止められない。
マーフィーはその手を掴むと手袋を剥ぎ取る。それから、引き金を引く。
ノーバディ
何。
銃声が響く。ノーバディは手を横に下ろし、今にも血を吹き出そうとしている自分の胸を驚きと衝撃と共に見つめる。
ノーバディ
なあ…… これで終わりなんて思ってないだろう。君はまだノーバディを止められてはいない。どこか…… また別のどこかで……
何者でもないは咳き込み、コートに血を吐き出す。彼は必死で言葉を発するが、その声はゆっくりと血を泡立てる音へと変わっていく。
ノーバディ
別の、形而超へ至った何者でもない誰かが、私を…… 私たちを見つけるはずだ…… そして彼は再び意味に気づく。何者も"何者でもない"を止められない。君は一体…… 自分を何者だと…… 思ってるんだ?
マーフィー
俺か? 俺は自分が何者か、よく知っている。俺はマーフィー・ロゥ。
ノーバディは満面の笑みを浮かべる。
マーフィー
…… ただの、起こり得る災いが現実になった時、呼ばれる男さ。
ノーバディは最期の笑いを漏らす。その笑い声は、まるで深紅に首を絞められているかのようだ。
ノーバディ
こ、これこそ…… 完璧な…… ジ…… エンドだ……
ノーバディの頭が道へと落ち、彼の手から溢れたコインは裏面を上にして道へと落ちる。マーフィーは彼の胸から足を下ろし、非常に疲れた様子で道路に倒れこむ。彼は夜空にきらめく星を見上げ、自分を照らす小さな星のひとつひとつに見とれている。カメラがズームアウトし、マーフィーとノーバディが共に星を眺めているかのように隣に寝転んでいるのが映し出される。リムジンがマーフィーの隣に停車する。車体は、ほとんど喜劇的な程に、へこみと銃弾の痕に覆われている。ドライバーが一部破損した窓を開ける。
ドライバー
ヘイ、チャンプ。乗ってくかい?
マーフィーは立ち上がり、深呼吸をする。彼は最後にもう一度遺体に目を向けてから、リムジンの助手席に乗り込む。
マーフィー
すまない、フレッド。 全く長い一日だった。早くここから出て行こうじゃないか。
リムジンはゆっくりと遺体から離れ、地平線の彼方へと疾走していく。
暗転。
音声記録転写開始 - 通話記録 - 2022/7/8 - 14:34:86 - サイト-19 管理官オフィス から サイト-19 文書化部門 への発信
オリーリ管理官: やあ、クラレンス?
C. ロビンソン: どうしたんだい、ボス?
オリーリ管理官: "ボス"呼びはまだ違和感があるな。
C. ロビンソン: もしよければ、別の呼び方をしても構わないが。
オリーリ管理官: いや、いいんだ。なあ、聞いてくれ。私は君が送ってくれた奇妙な補遺を、情報災害の研究者たちに送ったんだ。手短に言えば、我々はあれを見るべきじゃなかった。二人とも、数日後に記憶処理を受ける手筈になってる。記憶処理部門は、実際、多くの人を受け入れているらしい。
C. ロビンソン: ああ、畜生。
オリーリ管理官: 全くだ。
数秒間の沈黙。
オリーリ管理官: この際、補遺を読んでしまってもいいんじゃないかと思うんだが、どうだろう? だって、どうせ記憶は消されるんだし。
C. ロビンソン: おいおい、それは君が勝手にやれよ。俺は、見てはいけないものは見ないことにしてるんだ。
オリーリ管理官: ああ、そうだ。O5から追加のメモが来ている。7043番に追記して欲しいそうだ。君に転送しておくよ。追記が終わったら、最終版を送ってくれ。いいかな?
C. ロビンソン: 了解だ。ファックスで? それともメールで?
オリーリ管理官は笑い出す。
C. ロビンソン: (含み笑い) ほら、一番いい方法だろ!
記録終了
アイテム番号: SCP-7043
オブジェクトクラス: Safe
特別収容プロトコル: SCP-7043実例は、サイト-19の異常物品収容ロッカー7043に保管されます。ロッカーにはレベル4以上のクリアランスが必要なキーカードロックが設置されています。現在、これ以上の措置は不要であると見做されています。
説明: SCP-7043は、綿を主な素材とする246個の黒い手袋に対する指定です。これらの手袋は、内側にマーシャル・カーター&ダーク株式会社のロゴが刻印されたタグが1つ付いていることを除き、特に目立った特徴はありません。SCP-7043は、その素材の伸縮性のため、手の大きさに関係なく殆どの人物によって着用することが可能です。
SCP-7043実例が人によって装着された場合、その装着者はあらゆる事象について、その発生確率を操作する能力を獲得します。操作可能な事象の範囲は、コインやサイコロを投げるような単純な確率的試行から、偶然とは考えづらい複雑で大きな事象に至るまで様々です。確率は、99%から1%の間で変化させることが可能ですが、ある事象の発生を完全に防ぐことと、必ず発生させるようにすることは不可能です。SCP-7043は、そのような意図を以て利用された場合、レベル1 現実改変者におおよそ匹敵する程度に、時空間の基礎構造にも作用可能であると考えられています。1
これまでに回収されたSCP-7043の全実例は、2021/9/7、アラバマ州ウェトゥンプカの南30マイルの地点において、道路から外れて木に衝突したマーシャル・カーター&ダーク株式会社の輸送トラックの事故現場から回収されたものです。点検の結果、車両に事故以前からの問題は見受けられず、衝突の理由は不明です。運転手は衝突時の負傷により事故現場で死亡しているのが発見されましたが、その他の打撲傷や擦り傷から、攻撃者と格闘していたことが推察されます。他の人物は見つかっていません。なお、この攻撃者が残したと思われる文書が発見されています (補遺-7043-1を参照してください) 。
補遺-7043-1: 事故現場から回収されたメモ
|
補遺 7043-2: 更新日 2022/7/8
O5評議会より通達
2021/7/6、O5-5、O5-6、O5-7がSCP-7043実例を使用中、SCP-3143による謂れのない襲撃を受けた。SCP-3143はSCP-7043の効果を利用して、各評議会員を殺害することに成功した。SCP-3143は敵対的であるとみなし、何としても捕獲しなければならない。これは全てのMTFユニットにとって最優先事項である。サイト-19の調査部門は、捕獲と収容の方法についての調査を可及的速やかに開始せよ。
O5-5、O5-6、O5-7の死後の幸運を祈るとともに、SCP-3143が迅速かつ無慈悲に裁かれ収容されることを期待する。
-監督評議会
音声記録転写開始 - 通話記録 - 2022/7/8 - 22:36:77 - 不明な外部番号 から 不明な外部番号 への発信
不明な人物1: クラレンス?
不明な人物2: 一体こりゃ何なんだ、ボス?
不明な人物1: よし、バーナーフォンは使えるみたいだな。これで通話を追跡することはできないはずだ。スキップ7043の更新は読んだか?
不明な人物2: 俺はそれ文書に追加するよう言われてたんだぜ。それで、今しがたメチャクチャに動揺しているところだ! このクソったれな秘密主義はどうにもならないね!
不明な人物1: 君が送ってくれた、あの書類に現れたという補遺を読んだ。O5が言ったことはどれも真実じゃない。全部でたらめだ。彼らは私たちに嘘をついている。
不明な人物2: 何だって?
不明な人物 1: 全部だよ、クラレンス! 全部デタラメなんだ! 3143はO5を殺してない! 殺したのは我々の著者と、それから"何者でもない"だ! 彼はそんなこと出来なか — いや、しなかっ — ドアにいるのは誰だ?
不明な人物1の音声は、木が割れる音で中断される。
不明な人物1: 待て、落ち着け! こんなことする必要はない、私たちは —
不明な人物1の音声が途絶える。
不明な人物2: ボス?
数秒間の沈黙。
不明な人物2: ボス?
数秒間の沈黙。
不明な人物2: 全く、くだらねえイタズラだ……
記録終了
エンドロール:
旅行者1 / ノーバディを演じるは…
ただの何者でもない誰か旅行者2 / O5-7を演じるは…
[編集済]マーフィー・ロゥを演じるは…
彼自身フレッド / ドライバーを演じるは…
フレッドサーティーンを演じるは…
[編集済]警官1を演じるは…
ベガス署員 ピート・マクドゥガル警官2を演じるは…
ベガス署員 チャールズ・バーバンク接客員を演じるは…
保安エージェント ミカエル・コナーズジミーを演じるは…
保安エージェント ジェームズ・ファルコン
警備員1を演じるは…
保安エージェント クリストファー・マルコヴィッチ警備員2を演じるは…
保安エージェント ミカエル・キーリーファイブを演じるは…
[編集済]パトラ博士を演じるは…
クレオ・パトラ博士警備員3を演じるは…
保安エージェント ララ・マクナルティインターホンの声 / ナラ博士を演じるは…
ティヴ・ナラ博士テーププレイヤーの声を演じるは…
元サイト管理官 ジェレミア・オーガストシックスを演じるは…
[編集済]俺を演じるは…
cwazzycwafterMTF-シャイ1を演じるは…
MTF-シャイ隊員 サラ・ノルマンディーMTF-シャイ2を演じるは…
MTF-シャイ隊員 クラリッサ・キングスレー受付を演じるは…
アメリア・オングストローム拡声器の声 / 警官3を演じるは…
ベガス署員 トマス・ウィーリング
サイト-19、アリア・リゾート&カジノ、ラスベガスの街、そして観てくれた貴方に特別な感謝を。
マーフィー・ロゥは帰ってくる…
私立探偵マーフィー・ロゥ — 逃げる探偵
THE END