“人類が遠くへと目を向ける時代が到来するだろう。彼らは我々の地球のような惑星を目にするはずだ。”
― クリストファー・レン

エージェント バジル・サイアスのメモに描かれたSCP-7999-3種族のスケッチ。
特別収容プロトコル: SCP-7999は既に限定的なヴェール開放シナリオを引き起こしているため、財団の取り組みは、当該現象の機密指定を解除し、SCP-7999-3を一般社会に統合することに重点を置くものとします。これらの統合努力はサイト-120の統合委員会の管轄となります1。同様に、財団の外交・意思疎通グループは、SCP-7999の社会と人類の良好な関係を維持します。
財団職員がO5評議会の明示的な許可無くSCP-7999-1に接近することは許可されません。SCP-7999-1を通過する全てのSCP-7999-3個体は、公式な出入星記録に記載する必要があります。
説明: SCP-7999は以下の相互に関連するアノマリー群を指します。
SCP-7999-1: 2027年3月6日に、地球から約405,000kmの位置に発生したワームホール。このワームホールは、地球から約320億光年離れたおおぐま座に位置する銀河、GN-z11と太陽系を接続しています。これまでのところ、このワームホールを通過する試みは全て失敗しています。

SCP-7999-2: SCP-7999-1の反対側に見える太陽系外惑星 GN 667Cc2。SCP-7999-2は現地の惑星系に発生したワームホールから約250,000km離れています。
SCP-7999-2は火星とほぼ同じ大きさで、重力は地球の0.364倍です。SCP-7999-2は石炭紀の地球とほぼ同等の大気組成を維持しています3。SCP-7999の大部分は水で構成されており、惑星表面の約85%が液体の水で覆われています。地表の詳細については現在調査中です。
SCP-7999-3: 現地では“ケラディド”Keradidと呼称されている、SCP-7999-2の知性体文明。SCP-7999-3個体は、表面的には頭蓋が大型化したMantodea4に類似する六脚節足動物です。前肢は脚と腕の役割を兼ね備えており、先端にはヒトの手に相当する3本の指状構造があります。SCP-7999-3個体の身長は1~1.3m程度です。
SCP-7999-3は知的種族であり、彼らの文明はカルダシェフ・スケール5のタイプIIに分類されます。人類が現在の発展速度で同等の技術水準に達するには10,000年以上を要すると想定されます。
現在の距離: 約655,000km
“我々は本当に孤独ではなかった!”
“彼らは我々と同じか?”
“いいや、全く異なる。興味深いことに、ほとんど似通った要素は無い。しかし、そんな事はどうでもいい。この発見は生涯の… いいや、幾つもの生涯の集大成だぞ。我々は遂に目の当たりにした。この宇宙に存在するのは決して我々だけではないと分かったのだ。”
“それで、次はどうする? メッセージを送るか? それとも彼らが話しかけてくるのを待つべきかな?”
“質問が多すぎる。まず私に仕事をさせてくれ。”
“ちょっと待てよ… これは…”
補遺 7999.1: SCP-7999 状況説明
SCP-7999-1は当初、地球から約405,000km離れた、地球と金星の軌道の間に発生しました。地球に近接していたため、SCP-7999-1は北半球全域及び南半球の一部において肉眼で観測可能でした。財団は直ちに報道管制、エアロゾル記憶処理薬の散布、人類からSCP-7999-1を見る能力を完全に除去する選択的ミームの展開を通して、SCP-7999-1に関する情報拡散の制御を試み始めました。その後、SCP-7999-1の調査が行われました。
SCP-7999-1の発生から12時間以内に、5種類から成る一連のメッセージが、迅速に世界各地の無線ネットワークに送信されました。財団はこれらのメッセージの翻訳にRosetta.aic6を使用しました。22日間にわたるRosetta.aicの解析の後、メッセージの翻訳は成功しました。全てのメッセージは次のような内容でした。
“ハロー? 聞こえるか? この世界は思考するか?”
補遺 7999.2: 2027年3月28日
サイト-120
私たちは、ロゼッタの画面に表示されたメッセージを、完全に無言のままで30分近く見つめていた。その頃には、ロゼッタが遂に暗号を解いたのではないかと、この部屋に足を運ぶのが繰り返しの習慣になっていた。彼女にそれだけの能力があることも、理論上はあり得ることも分かっていたのに、私もアシュワースも、まさか本当にやってのけるとは予想だにしていなかった。異星文明から届いた、平易な英語のメッセージ。
最初に口を開いたのはアシュワースだった。
ダニエル・アシュワース博士: …で、メッセージはこれだけか?
エージェント バジル・サイアス:7 全てのメッセージはロゼッタに数え切れないほど通したが、戻ってきたのはこれだけだった。ロゼッタの信頼性評価は99%で、完璧じゃない唯一の理由は、初めてオンラインになった時に幾つかエラーを出したせいだ。この翻訳はかなり信用できると思う。
アシュワース: 声明の短さにしては文字数がかなり多いな。O5の連中は何と言ってた?
サイアス: 最初のうちは、突然地球上の全人類が空に浮かぶアノマリーを見ることができるようになったせいで、上を下への大騒ぎだったよ。メッセージが届くのに数時間かかったのは幸いだったな。聞いた話によれば、O5たちはそれまでの間、人類を一人残らずノックアウトしてから反ミーム防壁を地球に被せて、ポータルが存在しない振りを続けるべきかどうか議論していたらしい。
アシュワース: ああ、それで今は?
サイアス: それこそ彼らが私を呼んだ理由、私が君と話している理由さ。O5たちとは軽く話し合った。いや、話し合ったと言うよりかは、“説き伏せた”というべきかな。私がサイト-120での取り組みを改めて説明したら、ほとんどの面子は普段と違うアプローチを掛けてみようと納得してくれたようだ。O5は、私たちが相手と対話し、可能ならば彼らをこの世界に統合することを望んでいる。
アシュワース: そりゃ… O5にしちゃ随分と太っ腹じゃないか。
サイアス: 君にもあの時の会話の一部始終を教えてやりたいところだが、正直なところ、大して興味深くもない内容だったよ。君だって時代が変化しつつあるのは分かっているだろう、アシュワース。君たちがこの120で成してきた活動こそ、少しずつヴェールを捲るために歩き始められるという証拠だ。私たちは、もしかしたら — あくまでも仮定の話だけれど — 人類は異常な事物の存在を知っても持ち堪えられるんじゃないかという段階に差し掛かっているんだよ。
アシュワースが笑顔になる。
アシュワース: O5が承認するなら、俺だって大賛成だよ。返答の作成に取り掛かろう。
協議の末、財団は次のようなメッセージを返信しました。
ハロー。話し合いましょう。
補遺 7999.3: 2027年4月3日
Rosetta.aicを介して一連のメッセージが送受信された後、SCP-7999-2の現住文明は、代表団を送って財団側の代表者たちと面会させることに同意しました。地球人類はSCP-7999-1を通過できないため、SCP-7999-2側の代表者たちは地球の財団サイトで会談することに同意しました。代表団の派遣に先立って統合プロセスを簡便にするため、財団統合委員会はSCP-7999の初期調査結果を、世界各国の政府と一般社会に公開し始めました。
2027年4月3日、SCP-7999-2の代表者2名が財団サイト-120に到着しました。両者は地球環境下での生存を可能にする特殊なスーツを装着していました。意思疎通を容易にするため、両者の明示的な同意を得て、財団職員が彼らのスーツにRosetta.aicをインストールしました。財団エージェント バジル・サイアスとSCP-7999-3の交流記録の書き起こしは以下の通りです。
サイト-120
数日間、私たちはロゼッタを翻訳者として、ワームホール越しにメッセージをやり取りした。彼らは熱心に話した — 私たちの最初の返事を受け取った後には、7回続けて“ハロー”と送ってきたほどだ。相対的に言って、対話の内容は非常に基本的なものに留まった。彼らは、私たちが自らの種族をどう呼んでいるか、私たちの世界がどうなっているのか、私たちの生活がどのようなものかを知りたがっていて、私たちも同じことを訊ねた。しかし、メッセージのやり取りだけでは、どうしたって限界があるので、最終的にはお互いに会おうということになった。
彼らは仲間内で特に尊敬されている2人の特使を派遣した。会談を始める前に、彼らが適切に除染されていることを確かめるため、私たちはまず防疫チームを連れて会いに行った。2人は地球の大気圏内でも生存できる特殊なスーツを着て到着し、私たちはその機会にRosetta.aicのコピーを両者のスーツにインストールして、円滑に交流できるようにした。
会談が緊迫した空気になるのではないか、何から話せばいいのか、という不安はあった。ところが、私が入室するや否や、すぐさま特使の1人が駆け寄って来て、私の顔を掴んだり引っ張ったりし始めた。私の頬をこねくり回し、髭を指でなぞっている間、ただただ驚嘆し、魅了されている様子だった。
SCP-7999-3-B: 見たまえ! 柔らかくて展性があるぞ、何という驚異だろう! そして顔には我々の星の毛皮動物のようなキチン質がある!
サイアス: おおっと、こりゃどうも! お会いできて光栄だよ-
もう1人が加わり、髪の毛を引っ張り始めた。彼らは前脚を踏み鳴らしながら、キチキチ、カタカタという音でお互いに話しかけた。私は口の動きで“助けてくれ”とアシュワースに呼びかけたが、あいつはただ微笑み返しただけだった。
SCP-7999-A: 毛皮生物に思考能力があるとは、実に興味深い。しかも体肢は4本しかないぞ!
アシュワース: SCP財団を代表して、私がお二人を正式に地球へ迎え入れたいと思います。話し合うべき事項は沢山ありますから、ひとまずお二人ともエージェント サイアスを解放してテーブルにご着席ください。ご心配なく、すぐまた顔を引っ張る機会はありますので。
2人の特使が相変わらず私をつつき続けているのに (今度は腕に着目している) 、アシュワースの野郎は些か不愉快なニヤニヤ笑いを私に投げかけてきた。私は中指を立てて応戦した。
アシュワース: まず初めに、お二人をどう呼ぶべきでしょうか? 現時点での私たちの文書資料では、それぞれSCP-7999-3-A及び-Bとなっていますが、正直に言えば煩雑です。
SCP-7999-3-A: 彼らは名前を訊ねているのか? いいだろう。私はケタダンカKetadankaと呼ばれている8。
SCP-7999-3-B: 私はカルテッカンCarteckanと呼ばれている! おお、ケタダンカ、見ろ! 体肢には固体の内部骨格があって頑強だ!
アシュワースが主導権を握ろうとしている間も、2人はお互いに囀り続けた。
アシュワース: お二人とも、どうもありがとうございます。ところで、メッセージを送ってくださったのはあなた方ですね?
ケタダンカ: 正確には私だ。カルテッカンは関係者の1人だが、私がメッセージを送信した。我々は… 君たちの種族が返答してくれたことで、喜びに満ち溢れている。
ロゼッタは、馴染みのある地球人の言語間であっても、口調の翻訳には困難を抱えていた。そんな制限があっても尚、私はケタダンカが多少居心地の悪さを感じているのを察した。堅苦しく、過度に形式的な印象を受けたのだ。その気まずさと堅苦しさにも拘らず、まるで科学実験のように私を分析しようとする意欲は十分すぎるほどだった。あの瞬間ばかりは、お互いに揉み手をしながらビジネスの話をする連中が大勢いる重役会議を思い描かずにはいられなかった。
サイアス: 私たちにとっても素晴らしい機会だよ! しかし、あのメッセージの目的が何だったのかを訊かせてほしい。
カルテッカン: お互いの世界の間にポータルが開かれ、話す機会が得られた。我々は長い間、数多くの惑星にメッセージを送信してきたが、応じてくれたのはここが初めてだ。私たちは会いたいと望んだ。ここの種族は、今まで見た中で我々に近い最初の種族だ! 私はポータルが開いて以来、この世界を遠くから見つめてきた。この惑星に何があり、ここの人々がどんな物を創造してきたかを、この目で見たい!
アシュワース: つまり、文化交流を期待していると?
ケタダンカ: どんな物でも我々に見せてほしい。まだ時間があるうちに学び、お返しに分かち合いたい。
サイアス: ワームホールの位置の都合上、君たちを世界から隠すことはできないし、そうすべきでもない。私たちにとっても有益な取り組みになると思う。
アシュワース: 私たちはヴェールを少しずつ引き開ける努力を続けてきましたが-
ケタダンカ: ヴェール?
アシュワース: 専門用語です。私たち地球人と、科学では解明できない物事の隔たりを、私たちはそう呼んでいます。
ケタダンカ: 理解できたかよく分からない。
アシュワース: 話し合いが始まれば、私たちの代表が説明してくれるでしょう。しかし、先ほど申し上げた通り、例のワームホールは事実上一夜にしてヴェールを引き裂いたのです。あなた方を世界から隠蔽することは可能ですが、それではお互いにとって何の得にもなりません。文化交流はあなた方の社会を理解し、私たちの社会に紹介するのに最適なやり方でしょう。私は賛成しますよ。
ケタダンカ: これは我々にとって喜ばしい報せだ。我々は既にカルテッカンを種族の代表者として選出しているが、宜しいだろうか?
アシュワース: 勿論ですとも! 私たちがカルテッカンを色々な場所に案内いたします。バジル?
サイアス: ああ、私が引き受けるよ。
私が手を差し伸べると、カルテッカンは見つめ返してきた。地球人と同じような反応ではなかったものの、戸惑っているのは伝わってきた。少し間を置いて、私は腕を伸ばしてカルテッカンの手に触れ、握った。カルテッカンは仰け反り、私をテーブルに向かって引っ張り込んでしまった。私は束の間、息を整えてから笑った。
サイアス: 良し、これを最初の文化交流としよう。今のは握手だ。
もう一度、手を差し伸べる。
サイアス: 私たちはこれを挨拶に使うんだよ。
カルテッカンが躊躇いがちに差し出した手を、私は握った。私が手を振り始めると、カルテッカンはたじろいだが、やがて同じように力強く握手を返してくれた。
現在の距離: 約550,000km
“どうした? 何か問題でも?”
“この座標はかなり際どい位置にあるんじゃないか?”
“ああ、伴うリスクは承知しているとも。そうは言っても、本当にこの機会を逃していいのか? これだけの時が流れた後で?”
“…いや、そうは思わない。”
“我々は知る必要がある。純粋な科学的好奇心の問題ではない。これは数百万人が生涯を掛けた仕事の結晶だ。宇宙の反対側で生命が生き続けているのを知って、ようやく我々は安らかに死ぬことができる。我々が滅び去った後も、何かが生き続けていると知ることができるのだ。”
“私だって、彼らを学びたい気持ちは、ここにいる誰にも劣らない。しかし、この試みには、本当に危険を冒すだけの価値があるだろうか?”
“無ければ困るのだよ。”
サイト-120
カルテッカン: まず最初に見るべきものは何だろうか?
サイアス: 率直に言えば、何から始めればいいか判断が難しい。地球人は画一された種族じゃない— 見せるべき文化や社会は無数にあり、そのいずれもが異なっている。君をサイト外へ連れ出す許可も下りたからね、まさに世界は私たちの牡蠣だよthe world's our oyster。
カルテッカンは前脚を擦り合わせながら囀りで返答した。前脚? 手が付いている上肢をどう呼ぶべきか、私にはいまいちピンとこなかった。この時、私は既にカルテッカンが6本脚全てを使って歩くのを見ていたが、この種族の生態を思い描くのはなかなか難しいことが分かってきた。
サイアス: うん? どうかしたかい?
カルテッカン: 言葉を翻訳する声、私にはその内容が理解できない。“世界”と“我々”は分かったが、“牡蠣”とは何だ? そしてそのような発言は何を意味する?
私は含み笑いした。
サイアス: ああ、そうか。すまないね、慣用句を使うのは避けるべきだったかもしれない。“世界は私たちの牡蠣”というのは、私たちが人生から得られる好機を活かせる立場にあることを意味している。地球人にはそういうちょっとした表現が沢山あるんだ。
カルテッカン: おお! つまり、この牡蠣とは絶好の機会という意味か! お互いの世界を繋ぐコミュニケーションもまた我々の牡蠣と言えるだろうな!
カルテッカンはまた囀ったが、今度は全身を上下に揺らしていた。私は笑ってしまった。
サイアス: ケタダンカは先程ヴェールについて質問していたね?
カルテッカン: その通りだ。我々はアシュワースの説明をまだ理解できていない。十分に時間を掛ければ、科学はどんなことでも解明できる、そうだろう? 例えば、地球人の骨格が身体の外ではなく内側にある理由は、科学で説明できる。研究して解明できないものなど、きっとここには無いだろう?
サイアス: 実は最初に見せたいものがある。それが多少は理解の助けになるだろう。
現在の距離: 約480,000km
“開いたぞ。”
“…開いた。あそこに彼らがいる。…美しい。”
補遺 7999.4: 2027年4月4日
サイト-120
カルテッカン: それで、この世界での“ヴェール”とはどういう意味だ?
サイアス: 私たちは秘密を覆い隠すヴェールという意味で使っている。私たち財団職員が世界から隠蔽している事物だ。
カルテッカンはまたしても脚を擦り合わせながら例のキチキチ音を立てた。
サイアス: …君たちの種族は、理解が及ばないものを隠したりしなかったのか?
カルテッカン: その通り。どういうものが隠されている?
サイアス: そうだな、この宇宙には一定の法則があるだろう? 決して変化しない真理だ。このリンゴを例に挙げようか。
私は通り過ぎざま、誰かのデスクからリンゴを掴み取った。
サイアス: ここにあるとしてもいいし、君たちの惑星にあるとしてもいい… 呼び名は何だったかな?
カルテッカン: ネストというのが我々の故郷の名前だ。
サイアス: そうだった。地球でもネストでも構わないが、例えば私がこうすると-
私はリンゴを手放し、私たちはそれが床に当たって転がってゆくのを見届けた。
サイアス: リンゴは落下する。君たちの星ではもっとゆっくりだろうが、落ちるのに変わりはない。重力はそういう不変の真理の1つだ。しかし、もしその従うべき法則を破るものがあったとしたら? もし私がリンゴを手放した時、宙に浮いてしまったらどうする?
カルテッカン: 飛んで行かないように掴む必要があるだろうな。
サイアス: 確かにその通りだが、それだけじゃない。私たちは介入し、そのリンゴを隠す。ヴェールはそのためにあるんだ。世界の法則を破る事物を一般大衆の目から遠ざける。
カルテッカン: 何故だ?
サイアス: それに対する答えがあれば良かったんだがね。財団の使命は確保、収容、保護だ。ここにはそれ相応の理由があって収容されたもの、解放すれば数多くの人々を危害に晒すものが数多くある。一方で、私が… いや、私たちがそもそも秘密にするのを望まなかったものも沢山ある。サイト-120が統合プログラムに取り組んできた理由の一環だ。
目的地に到着し、私は立ち止まる。サイト-120に設けられた教室の1つ、サイト内で生活する若い異常ヒト型実体たちの学校だ。教室には体型も大きさも様々な23人ほどの生徒がいた。普通の13歳の子供に見える者もいれば、辛うじて人間と判別できるような者もいる。全員、教室の前方で世界史の講義をする財団エージェントに注目していた。
サイアス: これを君に見せたかった。ここは教室だ、同じような場所は世界中にある。若者たちを集め、地球人として知っておくべきことをほぼ全て教える所だよ。でもこの教室は少し違う。理由は分かるかい?
カルテッカン: 彼らは皆、“異常”と呼ばれる存在なのだな?
サイアス: そうだ。あの子供たちの大半はサイト-120から出たことがない。サイト外で暮らした経験がある子も、ごく幼い頃のことだから、ほとんど覚えていない。ここに来た理由だってそれぞれ違う。あそこの女の子は、念じるだけで物に着火できるから収容された。向こうにいるあの男の子は、絵本を読んで怪物を召喚できるからだ。
カルテッカン: 彼らが皆テーブルに置いている物は何だ?
サイアス: あれは本だ。君たちもせめて歴史上のある時期には本を持っていただろう、そうだと言ってくれよ。
カルテッカン: 本… ああ、私はそうだと思う。ずっとずっと昔、私が生まれる遥か前だ。言葉が書き込まれている物だろう? しかし、私の記憶にあるのは、あのような見た目ではなかった。
サイアス: 見た目がどうであれ、根本的な発想は同じさ。次世代に知識を継承するために、言葉が記された道具だ。
私たち2人は無言で座り、授業を眺めた。ある時点で、先生はどうやら生徒たちにグループ活動を指示したらしく、生徒たちは全員立ち上がってテーブルを寄せ始めた。1人の生徒が教室の隅に少しの間取り残されたが、やがてその子も他の生徒たちのグループに加わるように合図された。カルテッカンは俯き、翅を振動させた。
サイアス: どうかしたかい?
カルテッカン: …いや、ただ考えているだけだ。全ての地球人にこのような不可思議な能力があるのかと質問するつもりだったが、一部の者たちがここに留め置かれ、他はそうでないという事実が、既にその疑問に答えている。何故、私たちは最初にここを訪れた?
サイアス: あの子供たちは、ネストにいる君たちと同じだ。ヴェールを抜けて一般社会に仲間入りする最初のアノマリーの一部だよ。彼らは不可思議な存在だ — 君たちの種族がここを訪れた今、ようやく外の世界を目にすることができる不可思議なんだ。
カルテッカンは2本の前肢をリズミカルに打ち合わせた。
カルテッカン: 成程! 成程! 次は一緒に何処を見に行く?
サイアス: 世界にも沢山の場所があるが、単純な所から始めよう。
補遺 7999.5: 2027年4月5日
スペイン、バルセロナ
カルテッカン: 君たちの飛行機械は素晴らしい! 奇抜な設計、簡素でありながら実効的。地球人はあれを何と呼んでいると言ったかな?
サイアス: 航空機Airplane。
カルテッカン: おや、言葉が翻訳されないから、私には発音できない。私は単純に飛行機械flying machineと呼ぼう。あれについてもっと教えてくれ!
私は微笑んだ。カルテッカンは夜通しこんな調子だったのだ。航空機そのものの精密機構から座席の生地に至るまで、どんな些細なことにも驚きを感じているようだった。正直なところ、子供と一緒にいるような気がしていた。目の前にいるのが、地球人よりも10,000年近く進歩した文明の種族とはとても思えなかった。
カルテッカン: この世界の人々はいつこれらの機械を作ったのだ? 相当長い時間をかけたに違いない!
サイアス: ええと、最初の飛行に成功したのが1903年だから、120年ちょっと前かな。でも初めて商用飛行が行われたのは1914年だ。これで分かるかい?
カルテッカン: …時間軸を理解するのが難しい。我々の世界は同じ測定基準を使っていない。我々が理解する限り、この惑星は恒星の軌道を公転するのが非常に遅い。ネストは違う、ネストは迅速に公転するが、この世界のようには自転しない。
サイアス: ここでは1日を24時間周期と定義している。つまり… さっきのフライトを例に挙げようか。あのフライトは、数分の誤差はあるとしても、約3時間だった。1日は24時間だから、あのフライトを8回繰り返すと1日になる。ここまでは大丈夫かい?
カルテッカンは指を小刻みに動かしながら囀りを返した。“イエス”だろうな、と類推するしかなかった。
サイアス: 1年は365日だ。もし私たちがあのフライトを… 2,920回行うと、丸1年になる。
カルテッカンはその場に立ち止まり、腕を上げた姿勢で頭を前後にピクピク動かした。しばらくすると、腕を下ろし、口を開いた。
カルテッカン: 120年というのは…
サイアス: ああ、長いだろう!
カルテッカン: いや! 全く時間を要しない! ここの種族はそれほど短い期間で飛行を習得できたのか? その期間はとても短いから、サイアスもその頃からほとんど歳を取っていないはずだ!
サイアス: あー、いや、私はその頃まだ生まれていなかったよ。私はまだ30歳だ。
カルテッカンは再び歩みを止め、腕を激しく振り回しながら囀った。
カルテッカン: それではサイアスはまだほんの赤ん坊だ! 学校についてあれほど詳しく知っていたのもそういう事か!
サイアス: カルテッカン… もし君の年齢を地球年に換算すると、君は何歳になる?
カルテッカン: 1,743歳だ。かなり若いのは自覚しているが、どうか同胞の特使に相応しくないとは思わないでほしい。
私たちはこの時、ようやく空港を出て、人前への最初の1歩を踏み出そうとしていた。私は目を日差しから庇いつつ、街を見渡した。まだ朝早いので、通りはかなり閑散としていた。カルテッカンを隠すつもりこそなかったが、初めのうちは目立たないようにするのが得策だった。
サイアス: カルテッカン、向こうに地球人の集団が見えるね?
カルテッカン: ああ。5人見える。
サイアス: あの集団の全員の年齢を合わせても、君の歳の半分にもならない。
カルテッカン: 嘘だ! 彼らが皆そんなに若いはずはない。この種族は幼児と赤ん坊だけで構成されているのか?
サイアス: なぁ、君は私が出す数学の問題や難解な仮定の話をすぐ理解するじゃないか。だから未だに気付いていないのには正直驚いているよ。カルテッカン、彼らは大人だ。私も大人なんだ。地球人が平均して80年以上生きることはない。
この頃には、私は話し相手の身体的な所作を理解し始めていた。カルテッカンがこの情報に対して示した反応は、感情面では“直感的な不信感”、身体の動きは“親にエルモはただの人形だと言われた3歳児”と表現するのが最も適当だろう。ほとんど全ての体肢を激しく振り回していて、それらはどれも傍目には無造作に動いているように見える。しかし、注意深く見ていれば、動きの一つひとつに特徴があることに気付くはずだ。腕も足も非常に意図的に動かされ、無言の観察者に意味を伝えている。カルテッカンの種族は口頭言語と同時に非言語コミュニケーションをも駆使し、どんな翻訳者にも捉えようのない言葉を通して意思疎通していたのだ。
サイアス: ちなみに、これは本当だよ。私は嘘をついたり、騙したりするためにいるわけじゃない。君たちはどうやら長命のようだ — ネストが赤色矮星を周回していることを考えれば、それほど驚くことでもない。でも、地球人は儚い種族だ。私たちはあっという間に消え去る。
カルテッカン: あそこで動いている乗り物。この種族はあれをどのくらい前に作成した?
サイアス: 1886年だ。約141年前。
カルテッカン: 電気で光る照明は?
サイアス: 1879年。148年前。
カルテッカン: 種族そのものは、いつから存在している?
サイアス: おっと、良い質問だ! はっきりとは分からないが、おおよそ20万年前からだと推測されている。
カルテッカンは再び沈黙し、身体も完全に硬直した。ようやく動き始めると、街を見渡し、朝日を眺めた。カルテッカンの目は通り過ぎ行く車を追い、通りを横切る人々を観察した。
カルテッカン: 君たちは大勢いるのだな。
サイアス: これでも早朝だからね。大半はまだ眠っているよ。
カルテッカン: もっと見届けなければならない。もっと私に見せてくれ。
現在の距離: 約460,000km
“彼らはいつから存在しているのだと思う?”
“直接訊けばいいのでは?”
“そうだが、まず誰かと共に推測したかった。科学的な探究心だと考えてくれ。”
“彼らの発展レベルから考えると… 少なくとも100万年ほど前ではないかな? お互いの発展レベルがこうも違うと確かなことは言えないが、我々の知識に基づくなら妥当な推測だと思うね。”
“感慨深いな。”
“先程も言ったように、単純に訊けば良い。彼らとの会話が成立してからしばらく経っている。私がメッセージを送るか?”
“実は、訊きたいのはその質問ではない。会うように頼むことはできるか? 私は彼らをもっと深く知りたい、彼らがどんな奇跡を起こしたのか、この目で見てみたいのだ。”
スペイン、バルセロナ
カルテッカン: この場所は何だ?

サイアス: “シウタデリャ公園”。この街でも指折りの広い緑地だ。私も昔はよく娘を連れてきたから、君にも楽しんでもらえるんじゃないかと思ったんだ。動物園で地球の生物を見ることもできるし、建築物も-
カルテッカンが近くの木に駆け寄るのを見て、私は言葉を切った。それは若いヤシの木で、カルテッカンの手が容易に葉まで届いたあたり、ごく最近植えられたばかりのようだった。カルテッカンはヤシの葉を手に取ると、そっとその上に指を走らせ、私を振り向いた。カルテッカンの目は少しの間、私を見つめた後、また葉へと戻った。私は歩み寄った。
カルテッカン: この植物。これはネストにあるものと似ている。
サイアス: 本当かい?
カルテッカン: そうだ。しかし、同じ色ではなく、触れても手が痛まない。
カルテッカンは目線を上げ、また別の木へと素早く近寄った。
カルテッカン: しかし、これは全く異なる。私は植物でこのような構造を見たことがない。
サイアス: それはカエデの木だと思う。君が今こすっているのが葉っぱだ。
カルテッカンはそこで黙り込んだ。最初は何か問題があるのかと思ったが、やがて、1匹のカマキリが木からカルテッカンの手に這い上がってきているのに気づいた。カルテッカンの目は小さな虫を凝視していた。
カルテッカン: ここにあるものは、とても似通っているが、同時に大きく異なってもいる。何故だろうか? 宇宙の反対側にある惑星に、これほどの類似性があるとは。
サイアス: どうだろうね。純粋な偶然?
カルテッカン: 存在の奇跡だ。この生き物は我々の世界のありふれたケラディドに似ているが、しかし…
カルテッカンはカマキリをもう一方の手に移し替えた。
カルテッカン: 君は思考するか、生き物よ? 君は我々の同類か?
サイアス: すまないが、恐らくそいつから返事は返ってこないだろう。地球には会話できる存在が数種類いるが、この辺りで会えるのは地球人ぐらいだ。
カルテッカンはカマキリを葉の上に戻した。
カルテッカン: 他に思考できる存在がいたとしても、どれほど孤独だろうか。
サイアス: うん? それはどういう意味だ?
カルテッカン: この惑星を離れられず、君たちの銀河で一人きりなのは、どれほど孤独なことだろうか。
私はこの時、カルテッカンにどう答えたらいいのか全く分からなかった。私たちは黙って立ったまま、葉の上を歩くカマキリを眺めた。この木は私が以前からよく通りかかる木で、あまり気に掛けたことがなかった。何処をどう取ってもありふれた木で、大抵の人は名前を訊かれても分からないだろう。しかし、沈黙の中で、私はカルテッカンの立場から考えてみた。木の葉に目をやってみれば、どれも均一な緑色ではないことに気付いた。ほとんど黄色に近い淡い色合いの葉もあれば、鮮やかな深緑の葉もあった。小さな虫がくっついた葉もあれば、つい最近生えたばかりで広がりきっていない葉もあった。
私は1枚の葉を摘み取り、カルテッカンに手渡した。カルテッカンはそれを受け取り、目の前にかざした。奇妙な光景だった — 進歩した種族が、まるで子供のように葉っぱを見て感嘆している。私は微笑み、次の目的地へと向かった。
現在の距離: 約450,000km
“これまでのところ、どうだった?”
“正直な感想? 言葉では言い表せない。彼らは多くの点で我々とよく似ているが、同時にまるで子供のようでもある。様々なものにあっさり感銘を受けてくれるのは嬉しいのだが、どうも彼らはこの世界の真の神秘に気付いていないようだ。私はそれを見せようとしているのに、彼らは単純な物事で頭が一杯らしい。”
“異なる視点だ。我々が何処から来たのか、彼らが何処から来たのかを思い出したまえ。経験こそが、それぞれにとって重要なものを形作る。”
“話のついでだが、訊きたいことがある。もう分かっているだろう?”
“…ああ。私が両惑星の距離を監視している。”
“あと、どの程度?”
“現時点では定かでない。まだ猶予はあるが、私が望むほど長くはない。ただ… 備えておけ。”
“我々にこの機会を与えておきながら、一瞬で奪い去るとは、宇宙はなんと残酷なのか。”
補遺 7999.6 2027年4月6日
スペイン、バルセロナ
カルテッカン: あの奇妙な構造は何だ?
サイアス: “聖家族贖罪バシリカ教会”Basílica i Temple Expiatori de la Sagrada Família、或いは単純に“サグラダ・ファミリア”La Sagrada Família。神聖な場所だ。

カルテッカン: すると、礼拝所か?
サイアス: 非伝統的ではあるけれど、そうだよ。100年以上にわたって建設中だった… と言っても、君たちはあまり感銘を受けないかもしれないね?
カルテッカン: 何故あのような形状をしているのだ? これまで見てきた他の建物とは非常に異なる。
カルテッカンは指で大聖堂の輪郭をなぞった。
サイアス: ああ、それは… しっかり説明するには、教会建築の歴史から話すしかないだろうな。芸術的な理由とだけ言っておこう。
カルテッカンは立ち止まり、ロゼッタが私の言葉を翻訳するのを聞いていた。困惑を表すお馴染みのカチカチ音が続いた。
カルテッカン: その単語が翻訳されなかった。
サイアス: どの単語? “芸術的”?
カルテッカン: そうだ、その単語だ。それは何を意味している?
サイアス: あー… クソ、芸術の概念なんてどうやって説明すればいいんだ? 君たちのネストに芸術作品は無いのか?
カルテッカン: 分からない。
サイアス: まぁそうだろうな。芸術とは… 昨日見た例の葉っぱを覚えているかい? 上にカマキリが乗っていたあれだ。
カルテッカン: ああ! 非常に良く覚えている!
サイアス: あの葉っぱは美しかったか?
カルテッカン: 美しい? そう、だと思う。
サイアス: 芸術とは、他人に見せるために美しいものを作ることだ。しかし同時に、他人に見せるために醜いものを作ることでもある。世界の、或いは社会の中の何かに対する論評のようなものだな。うーん、どう説明したらいいか… 大聖堂をもう一度見てごらん。あれはただ綺麗だからというだけでなく、それが表す歴史があるからこその芸術作品だ。何十人もの建築家が各々の意匠を結集した巨大な共同作品であり、内戦や疫病を乗り越えてきた。何かを表現しているからこそ芸術なんだと、私はそう思うよ。
カルテッカン: おお。
微妙にではあったが、戦争と疫病に触れた時、カルテッカンはごく僅かに身を強張らせた。
サイアス: ほら、おいで。もっと見せたい場所があるし、歩きながら宗教の話もできる。
私はカルテッカンを誘導し、大聖堂から引き離した。人だかりができ始めていたし、観光客の一団からケラディドについて質問攻めにされる心の準備はまだ整っていなかった。
無言で数分間歩いた後、カルテッカンはまた質問し始めた。私たちは宗教について語り合った — 地球人が信じるものは様々であり、神や神聖なものに対する普遍的な信仰は存在しないということをだ。
カルテッカン: 同じものを信じる方が楽ではないか? そのような根本的な思想の違いは紛争に繋がらないのか?
残念ながら紛争に繋がっている、と私は答えた。先ほど戦争に言及した時の反応を考慮して、それ以上は詳しく説明しなかった。ただ、地球人は一枚岩ではないと改めて説明しただけだ。
サイアス: これまで君に見せてきたものは全て、この同じ国の中でも、ほんの数キロメートル離れれば全く違うものになり得る。地球を遠くまで移動すればするほど、違いも大きくなる。正直なところ、敢えて言うなら、これこそが地球人の最大の不思議だね。私たち全員が如何に違っているか。
この時点で目的地に到着した。エル・ラバル地区にある小さなアートスタジオ 兼 喫茶店だ。私はキャンバスと絵の具一揃いを買い、外の広場に据えた。
カルテッカン: ここで私は何をすればいい?
サイアス: 単純だ。私は君を描くpaintから、君は私を描いてほしい … そうだった。この言葉は多分翻訳されないんだ。
カルテッカン: いや、その言葉は理解できる。
カルテッカンは絵筆を掴み、絵具に浸した。次の瞬間、私の腕には青い縞模様があった。
カルテッカン: ほら。私は今サイアスを塗装したpainted。これが“芸術”と呼ばれるものなのか?
サイアス: 訊ねる相手によっては、そうかもしれないね!
カルテッカン: 議論すればするほど、私の芸術への理解は浅くなるように感じる。
サイアス: よし、見せてあげよう。動かないでくれ、手早く済ませる。
カルテッカンはその場に固まり、私はキャンバスに向かってスケッチと色塗りを始めた。描き終わると、私は完成品をカルテッカンに見せた。

カルテッカン: おお! これは私だ!
サイアス: その通り! さっきの“君を描く”とはこういう意味さ。私はキャンバスの上に君のイメージを再現した。これを見てどう感じる?
カルテッカン: 喜びを感じる。私の心臓は喜びで鼓動している。これは… 私が特別になったように感じさせる。
サイアス: いいね! これこそが芸術だよ。芸術とは人々に何かを感じさせたり、話をさせたりするんだ。
カルテッカン: 私も芸術を作れるだろうか? それとも特定の地球人だけが可能なのか?
サイアス: 前にも言った通り、訊ねる相手次第では、君はあの青い絵の具を私に塗った時点で、既に芸術作品を作ったと見做されるだろう。でも本当の答えとしては — 誰でも芸術家になれる。物は試しだ、君のキャンバスに私を描いてごらん。
カルテッカンはもう一度、絵筆と絵の具を掴んだ。私がじっと座っている間、カルテッカンは顔に真剣な表情を浮かべて猛然と描画を続けていた。腕の動きはバラバラで、描くというより絵筆でキャンバスをしばいているように見える場面も多々あったものの、完成品を私に見せる時には喜色満面だった。その絵はいったい何を表現しているのかさっぱり分からず、現代抽象芸術の巨匠も腰を抜かしそうなほど行き当たりばったりな色彩のぶつけ合いに見えたが、カルテッカンは満ち足りていた。

カルテッカン: これは芸術か? 私は芸術家か?
サイアス: 勿論だとも。素敵な作品だよ、カルテッカン。
カルテッカンはイーゼルからキャンバスを外し、私に手渡した。
カルテッカン: サイアスにはこれを持っていてほしい。これまでの諸々への感謝として、私からの贈り物だ。
私はキャンバスを受け取り、お返しに自分の絵をカルテッカンに手渡した。
サイアス: じゃあ、君はこれを持っていてくれ。芸術に取り組み始めた時を思い出せるように。
帰ろうと立ち上がったが、カルテッカンはすぐ、街頭に集まった人々に気を取られた。
カルテッカン: これは何だ?
サイアス: ああ、そうだ! 今日はタンゴの実演があるのを忘れていたよ。
誰かが音楽をかけ、人々はペアを組み始めた。私たちは、各グループが協調して踊り、ステップを踏んだり腰を反らせたりしながら広場を動き回る様子を眺めた。
カルテッカン: これは私に興奮を感じさせる。これは芸術か?
サイアス: これはダンスというんだ。その通り、芸術の一形態だよ。
カルテッカン: 我々も挑戦できるだろうか?
サイアス: “我々”?
カルテッカン: あの地球人たちは2人組になっている。
サイアス: ああ、そういうことか。いいとも、君と一緒に踊ろう。ただ、前以て注意しておくけれど、私が最後にダンスしたのはしばらく前なんだよ。
私たちはキャンバスを脇に置いて、広場へと踏み出した。カルテッカンを私の前に立たせ、片手を私の腰に添えさせ、もう一方の手は外側に広げさせる。カルテッカンの前肢は、私の足の上に置かせ、ステップを踏む時に誘導しやすくした。他のダンサーたちを不器用に真似ながら、私たちも動き始めた。
カルテッカン: サイアスが温かい、どうかしたのか?
サイアス: いや、ちょっとね…
私はカルテッカンを回転させ、腰を反らす体勢へと繋げた。カルテッカンは軽く、辛うじて3フィートある程度の身体は易々と動いた。
サイアス: 君を見ていると娘を思い出す。小さい頃はよくこんな風にダンスに出かけたんだ。実は君と同じくらいの身長だった。
カルテッカン: 君たち地球人はとても大柄だ。
サイアス: まぁ、気休めになるか分からないが、私は大抵の人より背が高いんだよ。
催しを見物しようと人だかりができ始めていた。不器用でぎくしゃくした動作にも拘らず、大半の視線は私たちに注がれているように思えた。
サイアス: 実際、君は色々な面で娘に似ているよ。いつも世界に対して好奇心旺盛で、公園で花を見かけると必ず立ち止まって見とれていたし、様々な物事がどういう理屈でそうなるのかをいつも質問してきた。とても沢山訊かれるから、夫も私も十分に答えられた気がしなかった。
私はカルテッカンをもう一度回転させた。
サイアス: 今でも、答えが見つからないと感じているが、それでいいんだ。こういう瞬間は特別なものなんだよ。君とそれを共有する機会を得られて嬉しく思っている。
カルテッカン: 子供について話す時、サイアスは悲しげに聞こえる。何かが起きたのか?
私は笑った。
サイアス: 娘が死んだかのように話してしまったかな。いや、娘はただ大人になったのさ。自分自身の人生を歩んでいるんだ。悲しくもない、ただ… 懐かしくてね。
私は大きく一歩踏み出して、カルテッカンが再び身を反らすように誘ってから、最後に一回転した。手を放し、お辞儀をする。一瞬の戸惑いの後、カルテッカンもお辞儀を返した。あまり印象的なダンスではなかっただろうが、それでも集まった観客たちは声援を送ってくれた。
現在の距離: 約410,000km
“何か新しく報告すべき事は?”
“既に語ったことを繰り返さずに全てを表現する方法を模索しているところだ。私はここでとても多くの事柄を学んでいる。確かに、彼らは多くの面で我々よりも遥かに遅れているが、私がかつて想像もしなかったようなことを行っている。学んだ概念の中には、筋の通る説明さえできないものや、私にもまだ理解できていないものがある。”
“彼らはそう長く我々に遅れを取ってはいないはずだ。我々は彼らの進歩の速度を見てきただろう? きっと一瞬のうちに我々の水準へと達する。”
“我々はお互いに出会えて幸運だった。もしも…”
“もっと時間があったならば、と?”
補遺 7999.7 2027年4月7日
ネスト
翌朝、カルテッカンは私の部屋を訪れ、驚かせた。今すぐ自分の母星に向かおうと言い張ったのだ。思わず私は困惑した。「地球に見るべきものはまだまだ沢山あるよ」と言ったのを覚えている。まだ1週間も経っていなかったのに、カルテッカンは首を縦に振らなかった。その声には無視できない緊迫感があった。そこで私たちは、ケタダンカと共に、唯一ポータルを通過できるシャトルに乗り込んで出立した。
正直に言うと、ポータルを通過する時の期待は大きかった。何しろ私はSF映画の古典と共に育ったので、内心では、必死の思いで座席にしがみ付きながらド派手に超空間ジャンプするのを予期していたのだ。しかし、実際は全くの拍子抜けだった。何処をどう取っても月への旅行と変わらない。つまり、ジャンプも無ければ、推進力の唐突な変化も無かった。私たちは単純に… そこに着いたのだった。
現在の距離: 約380,000km
“そうだ。それが私に連絡してきた理由だな?”
“その通りだ。現在の予測では、具体的に何が起こるかは一貫していないが、いずれも我々双方にある程度の惨事を招くという結果が出ている。”
“ならば、一つ要望を言ってもいいか?”
“勿論。”
“サイアスを我々の星に連れてきても構わないか? 我々双方にとって全てが手遅れになる前に、地球人に我々の世界を見てほしい。”
“それが正しい選択だと確信できるか?”
“できる。我々が彼らを知ったように、彼らも我々を知るべきだ。まだ時間があるうちに。”
“いいだろう。”

エージェント サイアスのボディカメラから回収された、SCP-7999-2からの地球の眺望。
あっという間に、私は宇宙の反対側にいた。そこは小さな恒星系で、赤色矮星を公転する惑星の数はせいぜい5つ程度だったと思う。しかし、1時間もしないうちにネストに到着したので、じっくり見る余裕はなかった。予想よりずっと早かったが、ケラディドの技術は地球人よりも格段に優れていた。私たちはネストの何処かに着陸し、シャトルのドアが開いた。
とても見慣れた風景だった。私たちが降り立ったのは、地球と大して変わらない白砂の浜辺だった。遠くには、無数の低木の植物が、中心付近で黒に変わる濃い赤と橙の葉を茂らせているのが見えた。空にさえも馴染みがあった。上り来る太陽が淡い色の巨大な球体なのを別とすれば、空は地球の夕焼け時と大差無い。上空にはポータルが浮かび、反対側には私が母星と呼ぶ青白い点が見えた。
カルテッカン: さぁ、我々と共に来てくれ。君に見せたいものは沢山あるが、時間はあまり無い。
私は頷き、彼らを追って、森かジャングルとしか説明しようのない場所へと向かった。防護服を着ていたから、気候を判断するのは難しかった。
カルテッカン: ここが我々の母星、ネストだ。我々にとって唯一の故郷だ。
サイアス: 他の世界に植民したことはないのか?
ケタダンカ: 何度も試みた。我々の生存条件は非常に特殊で、発見された惑星のほとんどは不適格だった。
カルテッカン: 我々の計算上、惑星地球アースは生命を内包し得ないはずだった。潮汐は固定されておらず、大気はとても薄い。同様に、恒星から遠く離れているので、生命体の存続に必要な量のエネルギーを得ることもできない。地球人が存在すること、更に言えば、進歩していることは奇跡だった。
サイアス: ここで逆の意見を言わせてもらおうかな。私たちの計算では、君たちの星に生命体がいるなんてあり得ないと言われていたんだよ。君たちが、地球人は存在し得ないと言ったまさに同じ理由でね?
彼らは口ごもり、お互いに囀り合った。何か反論したがっているように見えたが、2人とも黙ったまま、ある種の街らしき場所へと入っていった。
建造物は地面に対して低く、丸みを帯びていた。そのほとんどが原生植物に覆われていて、中には地面から露出する奇妙な丸い突起以外、周囲とほとんど区別できないものすらあった。目的意識を持って建てられたものばかりで、装飾要素や模様はなかった。私は歩きながら、何か妙だという感覚を拭い去ることができなかった。全てがとても… 静かだった。カルテッカンとケタダンカ以外のケラディドが全く見当たらないのだ。問い質したかったが、カルテッカンの厳粛な表情を見て察した。
私はやがて、組織や目的をあまり意識せずに小さい建造物を幾つも繋ぎ合わせたような、巨大な構造へと導かれた。壁そのものがドアになっていて、近付くとスライドして開いた。そこから、言葉では言い表し難い技術装置が詰め込まれた広い部屋に案内された。幾つかには漠然と見覚えがあった — 画面、ボタン、ダイヤル。どれも私からは明確な用途が分からなかったが、それでもどういうものかは察せられた。それ以外の機械は全く異質で、金属の棒やワイヤーで構成され、うかつに近付けば感電死したり手足を切り落とされたりしそうだった。ここでようやく他のケラディドに会うことができた — 6人ほどの小さな集まりが私たちを取り囲み、キリキリカタカタと囀った。彼らは貪欲な好奇心を湛えて私を見つめた。
椅子は無かったので、見たところ一番安全そうな場所に背中を預けた。カルテッカンが遂に口を開いた。
カルテッカン: サイアスには沢山の疑問があるはずだ。訊いてくれ。
サイアス: ああ、うん… 外を歩く間に見かけたものは何だったんだ? この建物は何だ? 君たちケラディドがあまりいないようだが、ここはそのくらい、あー、小規模な街なのか?
それ以上口に出すのは止めた。脳がざわざわしていて、それは全く快い感覚ではなかった。
カルテッカン: やはり、予想通りだな。見たまえ、地球人は我々と同じように好奇心旺盛だ、その好奇心がごく単純な事物へ向かうに過ぎない。我々も単純な質問から答えていこう。ここは、この惑星に残された最大の都市で、外で見たものは住居や事業所の廃墟だ。
カルテッカンは私を見つめ、先を促されるのを待った。私は黙っていた。
カルテッカン: …サイアスにはそれに関する質問は無いのか?
サイアス: いや。実は、何が起きているかは察しがついている。大聖堂での話を覚えているかい?
カルテッカン: ああ。
サイアス: 私はあの時、“戦争”という言葉を口にした。ごく僅かだったが、君はそれを聞いて身を強張らせた。それと、君が今言ったこと、私がさっき見たことを全て繋げ合わせるのに知性体は必要無いさ。代わりにこう訊ねよう — 何人生き残っている?
ケタダンカ: 全員ここにいる。
8人。しっかり数えると、室内には8人のケラディドがいた。年齢は分からないが、カルテッカンの歳に関する話を元に考えれば、ほとんどはカルテッカンと同程度か、それ以上生きていると考えて良さそうだった。
サイアス: 世界中でこれだけ?
ケタダンカ: 他にはもういない。
サイアス: いつから?
ケタダンカ: カルテッカンが最年少だ。当時、保育所で孵化したばかりだった。
サイアス: …それ以来、他の子供は生まれていないのか?
ケラディドたちはお互いに囀り合い、カルテッカンが身振りで付いてくるように合図した。私は部屋の一角へと案内され、そこに立つと床面が地面に沈み始めた。その先は広大な洞窟だった。周りを見渡すと、地面は緑色の斑点に彩られた大きな卵形の物体で埋め尽くされていた。
カルテッカン: ここは保育所だ。卵が保管され、孵化する場所だ。
サイアス: 軽く100個以上あるじゃないか。
カルテッカン: その通りだ。具体的には、ここに345個の卵がある。
サイアス: じゃあ、すまないが教えてくれ、何が問題なのか私には分からないよ。
カルテッカン: 我々にも分からない。これは1000年以上もの間、我々にとって最も大きな苛立ちと困惑の原因の1つだった。全ての卵には生存反応があり、本来ならば孵化に2年以上かかるはずがない。それなのに…
私は懐中電灯を持って跪き、卵の1つを照らした。ごく微かだが、その中には漠然とケラディドらしいシルエットが見えた。
カルテッカン: 我々は絶滅を受け入れた。
サイアス: 馬鹿なことを言うな!
カルテッカン: 私は真剣だ。我々はずっと前、高齢者が死に始めた時にそれを受け入れた。すぐに数百人が数十人に減り、数十人は8人になった。どんな希望が我々に残されている?
サイアス: 君たちほどの技術力があれば、きっと—
カルテッカン: サイアス、もうやめてくれ。我々には分かっている。そしてサイアスも同じく分かっていることを私は分かっている。我々はできる事を全て試した。恐れてはいない。結局のところ、我々は目的を果たしたのだ。
サイアス: 目的だって?
カルテッカン: 我々のような存在に出会うこと。思考力を持つ別な種族。初めから、我々はこの惑星が孤独ではないという観念を崇拝していた。この星は生命体が存在し得ないはずの環境で、それでも存在するのだから、他にもいるに違いないと。
カルテッカンは私をエレベーターへ連れ帰り、外に出た。空には星が見えた — この先何百万年も地球に光が届かない星々が織りなす異星の星座だ。
カルテッカン: 当初から楽しい夢だったが、我々が本格的にそれに注力することはなかった。我々はまず母星で社会を築き上げた。陸地から海洋まで、ここに生きる全ての生物を学んだ後、近隣惑星の生物を学び始めた。
サイアス: じゃあ、他の生命体を見つけたんだね?
カルテッカン: その通りとも違うとも言える。我々の星系で隣に位置する丘球マウンドには微生物がいたが、それ以上発展することはなかった。マウンドの向こうにあるガス惑星の濾球フィルターには生命の源があったが、何も生まれなかった。我々のように、思考力を持つ種族はいなかった。我々は恒星からエネルギーを収獲し、それを使って集団を星系外へと派遣した。
サイアス: 私たちにもそういうことができれば嬉しいんだが、まだ地球上で解決すべき問題が山積みだからな。
カルテッカン: サイアスはまるでネストにそのような問題が無かったかのように言う。我々も母星に問題を抱えていたが、我々の目にはそれが見えていなかった。私が地球で見た問題もある。サイアスは以前に言った… 地球人は一枚岩ではないと。地球ほど多様ではなかったが、我々もそうだったのだ。
カルテッカンはキリキリと音を立て、後肢を踏み鳴らした。
カルテッカン: 我々の種族の歴史を全て語るのに時間を浪費したくはない。時間は今や貴重だ。サイアスは何が起きたかを既に理解している。それが過ぎ去ると、生き残った我々は努力を倍にした。別の種族を発見する試みに全ての労力を集中させると、ポータル技術が生み出され、我々は宇宙の向こう側を覗き始めた。
カルテッカンは話しながら星々を指差し始めた。
カルテッカン: 上空の星と星系をくまなく探索した。ごく少数の死にかけの微生物を別とすれば、全て不毛で空虚だった。ごく少数の死にかけの塵芥に見つけられる生物としては、相応しい同類だっただろう。
サイアス: だが、君たちは私たちを見つけた。
カルテッカン: その通り。種族が誕生して200万年が過ぎた後、我々はようやく同じような者たちが、彼らなりの生存し得ない小さな世界で生きているのを見つけた。
私は空を見上げ、ポータルとその向こうに見える青白い点をじっと見つめた。不思議なことに、それは遠く離れているようには感じられず、地球の空に浮かぶ月とほとんど同じように見えた。
カルテッカン: しかし、運命は残酷だ。
サイアス: カルテッカン、君は時間が足りないと言い続けている。口を挟みたくはなかったけれど、何かまずいことが起きているんじゃないか?
カルテッカン: …そうだ。君は故郷へ帰らなければならない、今すぐに。
現在の距離: 約340,000km
“カルテッカン、時間切れだ。これ以上待てばネストは破壊される。”
“それは本当に重要か? 今、死を乗り越えたところで、この先に訪れる運命は阻止できない。いずれにせよ我々は死ぬ。何故、我々の知識を他の種族に伝えて今死ぬ道を選んではならないのだ?”
“カルテッカン、そのようなことは不可能だ。我々ばかりでなく、彼らをも危険に晒すぞ。”
“それは全て仮説ではないのか? モジュールとシミュレーションだけでは確実な証明などできない。何が起こるかは分からない!”
“カルテッカン…”
“この交流で得られる知識は掛け替えのないものだ。断ち切ってしまえば二度と得ることはできない。彼らにはここで見るべきものが、我々にも向こうで見るべきものが、まだ沢山残されている。”
“カルテッカン-”
“論じ合うべき概念、学ぶべき事柄は数多くある。彼らの信仰体系や歴史についてもまだ話し合っていない! 見るべき国家は沢山ある! サイアスはまだこの一都市しか見ていない、ネストには遥かに多くの-”
“カルテッカン! もう十分だ! シミュレーションは嘘を吐かない。もし我々がポータルを閉鎖しなければ、ネストは地球の重力に負けて引き裂かれるか、より悲惨な事態を招く。あのまま開放してはおけない。”
“閉じた後、より安全な場所に再度開くことはできないのか?”
“あれが最後の座標だったのだ、カルテッカン。新しい座標の入力方法を知っていた最後の者はずっと前に死んでいる。分かっていたことだろう。これ以上の入力方法を知る者はもういない。ポータルが閉じれば、それでもう終わりだ。”
“ならば尚更-”
“カルテッカン。”
“…分かっている。別れを告げる準備ができていないだけだ。”
補遺 7999.8 2027年4月7日
ネスト
サイアスは首を僅かに横に傾けて私を見ていた。この数日ですっかり見慣れてしまった戸惑いの表情。
サイアス: 何故そんなに突然? 何か起こったのか?
カルテッカン: そうだ。正直に打ち明けよう。我々の惑星は—
サイアス: ここ数日間、ゆっくりお互いに向かって移動している。そう言いたかったんだろう?
カルテッカン: 何故それを—
サイアス: 財団は愚鈍でも無知でもないよ、カルテッカン。ポータルの開放以来、私たちは2つの惑星の距離を監視していた。君たちが地球の公転軌道上にポータルを開いたのは明らかだったからね。
カルテッカン: 彼らは動揺していないか?
サイアス: 上層部が動揺していないと言えば嘘になる。しかし、地球側で打つ手はあまり無いんだ。O5は君たちを脅して問題を解決させようとしたが、生憎それは私のやり方じゃない。
サイアスは、滑稽なものを見つけた際によく発する、奇怪でリズミカルな音を立てた。
サイアス: これからどうする?
カルテッカン: サイアスを母星へ送り返し、我々の世界を繋ぐポータルを閉じる。
サイアス: 改めて開く方法は無いのか?
カルテッカン: 無い。
サイアス: 畜生。
我々は無言のまま、上空の星々を見つめていた。
カルテッカン: 我々はとても小さな存在ではないか?
サイアス: どうしてそう思う?
カルテッカン: 我々は、我々と同じような種族を発見するために、可能な限り全ての星を探索した。何かがそこに存在することを願いながら、多くの者が探索中に死んでいった。本当に存在したとは知ることもなく死んだ! 本当に別の種族がいた! しかし、それを知って尚… 知り合っていた時間があまりに短いので、あたかも重要ではないかのようだ。この瞬間は束の間で、そして今や終わってしまった。
サイアス: 君の言う通りだ。私たちはちっぽけだし、もっと一緒にいられたら良かったのに。君たちは私たちより良く知っているだろうが、宇宙は私たちの理解を超えて広大だ。私たちが死ぬと、私たちを形作るものが宇宙に還る。次の星、いや、次の文明を構成する物質になる。私たちは宇宙の一部になるんだ。
サイアスは片肢を上げ、私に手を差し出した。私は自分の手でそれを握った。
サイアス: この瞬間は束の間でも、こうして会えて幸運だった。どんな別れも永遠じゃないから、さよならは言わないよ。代わりにこう言おうかな… 星空で会おう。
カルテッカン: ああ… 星空で会おう。
サイアスは去り、ケタダンカが地球への帰還を手配している総本部へ戻っていった。私も程なくして戻ったが、私が着く頃には既に出立していた。居残っていた者の1人が、サイアスからの贈り物を私に手渡した。中身は一揃いの刷毛と塗料だった。
他の者たちがポータルの閉鎖に取り掛かっている間、私は贈り物を持って地下洞窟へ向かった。私は刷毛を並べ、塗装を始めた。彼らの惑星で見たような素晴らしいものにはならないだろうが、きっと美しいだろう。私は寝る間も惜しんで翌日まで作業を続け、食事の時だけ休憩を取った。サイアスも、地球人の誰もこれを見ることはないだろうが、これは私が地球で過ごした時間の記念となる。
作業を終えると、私は刷毛を置いた。そこには、私の星の風景が、お互いに見つめ合うケラディドと地球人と共にあった。私は周囲を見回し、洞窟の壁に残された広い余白を見て、次の傑作の構想を練り始めた。どこか遠くで、何かがひび割れる音を確かに聞いた気がした。
現在の距離: 約320億光年
“探しに来てくれ。待っているから。”
