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タイトル: SCP-8605 - 鋼鉄の精神 (The Steel Soul)
原著者: HarryBlank
翻訳者: mochizkyy
原記事: http://www.scp-wiki.net/scp-8605
作成年: 2025
初訳時参照リビジョン: 28
元記事リンク: http://www.scp-wiki.net/scp-8605
生きたことのないものは、死ぬことができるのか。
私がとても幼い頃、両親が裏庭に金属製のジャングルジムを作ってくれたことがある。ブランコが2つ、シーソー、それから滑り台。すべてが新品で、きらきらと輝いていた。青と白に塗装されたスチール製のチューブが組み合わさってでき、座面は白いプラスチックで、鎖は銀色に光っていた。チューブには何かの模様があったが、もう思い出せない。ただ、そのブランコがどれほど巨大で、どれほど堅牢な存在に思えたかは覚えている。法則と運動と生命をそれ自体に備えた小さな箱庭。私も、その閉じていながら開かれた系の一部だった。
幾年もの月日が流れ、錆は広がり、チューブの模様は現実からも記憶からも失われ、太陽に焼かれた座面はひび割れ、鎖は子供の体重すら支えられなくなり、そして私自身も荘重で不器用な大人へと変わってしまい、かつて壮大だったそれの方は、いつしか不釣り合いで脆いモノに変わってしまっていた。"共に過ごす晴れの日の午後"の残り時間はとうに底をつき、かつて愛した無生物が年月と無関心とによってただの鉄屑に還っていくのを見て、胸が締め付けられる思いになった。まるで死に目の友人の躯に向けるべきような罪悪感をその残骸に感じながら、私はこの人工物が自分にとっていかに大切だったのかを初めて悟った。
私は一つ一つの破片に手を置き、指紋の溝に砂利と汚れを擦り込んだ。そして目を閉じ(光の眩しさに、まぶたの裏を橙色の光が走り回っていたものの)、想像した。この中空の金属の心臓の奥底から、何かが私の中に入り込んでくることを。死ぬことのできないこの破片の寄せ集めが、私の中で生き続けることを。知らぬ間に、しかし喜んで差し出してしまったものを、いま取り戻しているのだと。やがて私も鉄屑もこの黄ばみかけた芝生の一角を去り、その別れと出発によってここが"どこでもない場所"になるとき、乗り手と乗り物として互いに意味していた何かが、胸の奥にしまわれていくのだと。私は一人の大人として、この裏庭に立ち、他の誰にも正当化できない後悔を感じていた――それは裁きの目が盲いる真の暗闇の中でのみ、かろうじて自分自身にだけ説明できるものだった。そして私は、感情を持たぬ酸化物の残骸に、心の中で謝罪をした。
人生でこれほど自分が滑稽に思えたのは初めてだった。
だが今日の午後、私は自分の吐瀉物の水たまりの中で目を覚ました。閉じたブラインドに守られた部屋の向こうには、空虚な心の者たちの手に委ねられた世界がある。彼らにとって、生きとし生けるものの中に語るに値する火花はなく、語り掛ける価値も、救う価値もない。そして私は、存在証明の刻印をどこに見出すかが、本当に重要なのだろうかと思った。監督官たちのように鏡の中に見るか、それともロージーのように他者の中に見るのか――あのファイル更新が本当に彼女自身によるものなのか、それとも評議会の冷酷なジョークの一つに過ぎないのかはさておき――それとも私のように、かつて自分が最も幸福で、最も素敵で、最も大胆で、そして完璧だった瞬間を共に目撃してきた場所や物の中に見出すのが。ただ見るということで、すでに十分なのではないか。
私は、あれをもう一度でいいから見たいと思っている。
だから私は、失敗と嫌悪の残滓を洗い流す。私の内で煮えたぎり、あふれ出る途中で焼き付いた毒を洗い流す。私はむき出しで空っぽな切望そのものだ。ガラスと鋼鉄に陽が射す場所へと趣き、もう一度だけ、私の心を砕いてみろと挑む。
もしこれ以上に心が砕けるのなら、錆はまだ芯まで回っていないのだろうから。
~ サイモン・ケルズ博士
SCP-8605
O5評議会指令
次のファイルはレベル5/8605機密情報です。無許可のアクセスは禁止されています。
8605
| アイテム番号: SCP-8605 | レベル 5/8605 |
| オブジェクトクラス: Archon | 機密指定 |
宇宙Q417「霧の奈落」におけるSCP-8605およびSCP-7005。
特別収容プロトコル: 次元間物流部門職員によるSCP-8605実例の正式な採用は、ロージー・ハートルプール博士および/またはサイモン・ケルズ博士による初回および年次監査を条件として、個別審査の上で承認されます。非公式な諮問については包括的な許可が与えられていますが、これは常に撤回され得ります。非提携("ボランティア")オペレーターによるSCP-8605実例の使用については、財団の統制範囲を超えて影響を及ぼすいかなる試みも行われません。
新規実例の出現を防止する既知の手段は存在しておらず、またそれを発見する試みも行われていません。
説明: SCP-8605は、それぞれが「L-NESC運用マニュアル」と題された文書群です。各実例は、ランピーターとして知られる次元間輸送ネットワークSCP-7005に関連する、既知の構成要素または設備のいずれか一つを対象としています。これらの実例は、新たな版として追加および/または変更された内容を伴っており、定期的にランピーター職員の作業空間に出現します。内容の大部分はランピーターの機構の保全・整備に関するものですが、当該ネットワークは数千に及ぶ連続または非連続の宇宙にまたがる多種多様な輸送技術によって構成・利用されているため、各実例に含まれる情報も必然的に多岐にわたるものとなります。
監視の強化を含む複数の試みが実施されましたが、いずれの実例についても、該当する駅に出現した瞬間が観測されたことはありません。
SCP-8605実例はいずれも一貫してランピーターの操作員に対して有用かつ正確な指示を提供しますが、記載内容はそれのみに限定されません。いくつかの特異な点が確認されています:
- ランピーター・非ユークリッド運送会社Lampeter Non-Euclidean Shipping Companyは2021年に倒産しており、その後に業務の一部が財団により限定的に引き継がれたのにもかかわらず、SCP-8605はすべての版においてL-NESCへの言及を続けている。
- 版数がより高いもの(多くの場合、ネットワークの古い支線に対応します)ほど、技術仕様、保全および修理手順などと同等の特異性と格調高さをもって提示される。その一方で、内容は次第に奇抜なものとなり、しばしば無関係な情報を含むようになる。
- 一切の著者名の記載がない。
- 現在財団が把握している4,000超のSCP-8605実例に加え、未確認の実例が無数に存在することを考慮すると、単一の人物がこれらすべてを執筆したと考えるのは現実的でない。しかし文体の解析結果によれば、全実例を通して単一の筆致が浸透していることが示唆される。
- 版数の上昇と、より逸脱的かつ散文的な文章の出現には明確な相関がみられるが、SCP-8605の未知の著者の同一性に変化が生じたことを示す証拠は解析されなかった。
以下は、宇宙H576「砕かれざるカラコルム」からH235「水銀海𡶜」に接続する滑走式Tバーリフトに関するSCP-8605実例であり、同一の設備に対応する2つの版の比較を示しています。
この抜粋は、第45版において導入された文言です。
改良および交換について
材料科学の進歩により、いずれ木製のTバーは時代遅れとなる可能性がある。木材は自然環境下で劣化し、寄りかかる乗客を支え上方へ移動する過程において、応力集中による亀裂が生じるためである。また肥満率の上昇も摩耗・損耗の要員となりうる。鋼鉄も、そのケーブルへの荷重ゆえ代替材料としては現実的でない。ケーブルの交換はバーと比較しはるかに困難かつ高価であり、しかも破断時には必ず壊滅的な結果をもたらす。一方、現在開発中のポリマー素材及びプラスチックは、長期的には有機的な構造材料を過去の遺物とすることができると予想されている。ランピーターによる接続を担う装置については、常に最良かつ最新の状態を維持するため、あらゆる努力が払われるべきである。
この抜粋は、第272版において導入された文言です。
超越的廃退
木製Tバーは遺物であり、遺物は畏敬を触媒する。
鋼鉄製のチェアは、近代性という字義通りの高みを、苦も無く頭上へと舞い上がっていく。上昇志向を持つ地に足のついた者は、ほとんど宗教的とも言える不安に身をすくめながら、過去との荒々しい衝突を待ち構える。それは、主人からの折檻の一撃や落石の衝撃を予期するために進化した神経に触れる。この瞬間、我々は粗野な装置の奴隷であり、運命は彼らの慈悲なき裁量に完全に委ねられる。座面は進入時に自由に揺れ、我々を震わせたままプラットフォームに取り残すのではないか、とすら想像してしまう。そうなれば、我々は後ろに控える同輩にとって愉快でもあり苛立たしくもある存在、すなわち彼ら自身の上昇を妨げる障害物と化すのだ。
衝撃がついに到来するとき、それは決まって無粋で、間の悪いものだ。ここが重要である。我々はぞんざいに扱われ、自らが機構の中で唯一必須でない部品であるかに思える。あまりに余剰であるが故に、いずれ滑り落ちて転倒する定めなのか、あるいは登攀の頂点にてこの同伴者を振り払うことができようか、などと考えを巡らす。離脱のための配慮は為されているのか?それとも、再び押し戻されてしまうのか?プラスチックや金属に対して、人はこのような思考を抱かない。高分子材料は合理的だが、木材は礼節よりも旧き存在だ。
しかしそれでも、この装置はしばしば無情であり、我々はしかと打撃を受けることになる。だが、露骨に残酷であることは稀だ。この非合理の座は、かつて生きていた存在である。交渉の余地がある。木は不合理でありながら、近代と古代とを媒介する。森は永遠であり、荒々しい対立に晒されようとも、生命は生命を認める。この血縁は、遥かに大きな恐怖を食い止める。すなわち、新しく無差別なものへの畏れ、完全なる人工物の持つ孤立した峻厳さを。木から切り出されたほどに旧いものは、我々を永遠の隷属に留めるに至らない。この恐怖は深遠だが、束の間のものに過ぎない。
バーが何事もなく我々を持ち上げる時、不安は遠く下方に置き去りにされる。我々は、鋭く尖った棒が生死を分けていた、祖先の時代の根源的恐怖を失って久しい。疑念の一瞬、鋭い呼吸、そして肺を指す冷気。これらは代替不可能な高揚の連なりだが、ひとたび過ぎ去れば、我々はこの造られた虚構の風景、その真実を目にする。角の取られた一本一本のポールは斜面におけるアナクロニズムであり、最も人工的な屋外区間における先祖返りのオアシスなのだ。これは、組織化された思考が、牙を剥く獣に対峙する恍惚と最も近づく地点であり、その錯覚は一瞬にして過ぎ去る。
しかし、嗚呼、その一瞬よ!ランピーターの乗客がようやく頂に達し、再び高速で下降する機会を奪われた時に味わう、阻害のカタルシスを補って余りある。過去は過ぎ去った。多元宇宙が待つ!
設備の更新には覚悟せよ。ただ一度の鋭い衝撃を、流線型の鋼鉄がもたらす遍在的な不安と引き換えにするということ。そのような驚嘆に欠ける旅路は、ただの奇妙な通勤に過ぎない。
その出自は確かに不明ですが、SCP-8605実例には、L-NESCの運営末期における記録破壊で失われ制度に関する知識が含まれています。したがって、これらは財団内外を問わず、新規および既存の職員により、教育・指導目的で広く採用されています。とはいえ、内容が論理的かつ妥当な指針から逸脱する場合には、慎重な判断が求められます。ただし、ランピーター・ネットワークと長期的に関わってきた職員は、この注意喚起をしばしば無視する傾向にあります。
次元間物流部門は包括的な操作を実施するための資源を有していないため、SCP-8605の真の起源を特定するための試みは行われていません。
それも今日までの話だ。
他の何のために私がここに居ると?連中は我々が失敗するように仕向けた。否、もっとタチが悪い。仕向けておいて――忘れたのだ。我々が成功しようと失敗しようと、奴らにはどうでもいい。評議会は気にも留めていない。
あらゆる方向に無限の可能性が広がっているというのに、連中は意に介さない。何かが軌条を這い上がり、脈打つ宇宙を貪り食っては、空のレヴィットタウンやヴォアザン計画のモドキを吐き出している。そして今や全てが、本当に文字通り"順番"に並んでいるというのに、静観することがやっとの運営予算を、気前よく与えて下さっている。少なくとも私は、観察だけは続けている。これらのファイルが監察官の目に触れたのも、きっと何ヶ月も前のことだが。
ロージーはもう居ない。我々が今まで直面した中で最も危険な謎の核心(?)へと消えた。どう止めれば良かったのかは未だに分からない。おそらく、永遠にわからないだろう。あの"エントロピーそのもの"が訪れるのを無菌室の中で安全に待つこともできる。自室に閉じ籠り、書類をいじくり回し、タイヤを入れ替えろ、パンクを直せ、などと残っている者たちに繰り返し指示することだってできる。それが、評議会の私への期待だ。おそらくロージーもそれ以上は望まないだろう。
だが、まだ解くべき謎は残っている。この事業全体が崩壊の道を約束されているとしても、我々が一体何を失いつつあるのか、その正体だけは知っておきたい。
誰がそれを語ることになるかは分からない。しかし、少なくとも語りたがれたいものだ――私は試みたのだと。
少なくとも一人の人間は、気にかけていたと。一人の人間の、一つのバージョンが、何かを成そうとし、より良い何者かになろうとしたのだ、と。
だから、だ。この空っぽのクソ野郎共、お前らがもしこれを読んでいるなら、私はこの循環が一巡するその時に戻る。不服なら、直接捕まえに来るがいい。
以下は、宇宙B247「赤き庭園」における駅長アンナ・ヴァルダニャンとケルズ博士との間で実施されたインタビュー記録です。
<ログ開始>
ケルズ博士は、広大な緑の帯を見下ろす高い木製プラットフォーム上に立っている。遥か下方では、青い水を湛えた池の傍で、レイヨウの群れが草を食んでいる。強風が吹き荒れており、遠くの枝葉はほとんど水平になるまでなぎ倒され、辺りは絶え間ない轟音に満ちている。その轟きの下から、電気的な低いうなりの音が聞こえ始める。ケルズ博士が見上げると、インターナショナル・スタイルのモダニズム様式をした高架モノレールが駅へと滑り込んでくるのが見える。先頭車両が彼の目の前で停止し、扉が開く。ケルズ博士は車両へと乗り込む。
車内は色褪せているが、手入れは行き届いている。扉の向かい側の窓辺に、一人の女性が立ち、眼下のレイヨウを見つめている。ケルズ博士が近づくと、彼女は顔を上げ、歓迎の笑みを浮かべる。背後で扉が閉まり、外の轟音はくぐもって聞こえる。
ヴァルダニャン: 局長さん、こんにちは。
ケルズ博士: どうも、こんにちは。
ヴァルダニャン: 素敵な午後でしょう。そうは思いません?
モノレールが動き出す。速度は遅く、風景もまたゆっくりと流れていく。それでも、ケルズ博士の身体はわずかに揺れる。
ケルズ博士: こんな場所で会いたいとは、意外でした。オフィスは無いんですか?
ヴァルダニャンは彼の方へ向き直り、窓にもたれかかる。
ヴァルダニャン: 景色がひとつきりで、それも永遠に?そんな場所に居るくらいなら、いっそ死んだ方がましですよ。動くのがそんなに面倒でしたら。
ケルズ博士が笑う。
ヴァルダニャン: 失礼しました。
ケルズ博士: いえ、とんでもない。同感です。…なかなか新鮮な言葉でした。
ヴァルダニャンは唇をすぼめたまま、微笑みを崩さないでいる。
ヴァルダニャン: ここには、ロマンがあります。わたしも…運ばれゆく存在です。比喩としても、文字通りにも。
ケルズ博士: どちらかと言えば、私は実務のために来てますがね。
ヴァルダニャン: それは惜しいことです。
モノレールが鋭いカーブを曲がる。ケルズ博士は息を深く吸う。ヴァルダニャンが気遣うような目を向ける。
ヴァルダニャン: 大丈夫ですか?少し顔色がよろしくないかと。やはり揺れが…?
ケルズ博士は片手を上げ、もう一方の手で支柱を掴む。
ケルズ博士: 大丈夫です。ちょっと…色々ありまして。ええ。本当に。お構いなく。
ヴァルダニャン: 列車を停めましょうか。どうせ他に乗っている人もいないでしょうし。
ケルズ博士: 本当に?
ヴァルダニャン: おそらく。
沈黙。
ケルズ博士: それでは業務としてどうなんです。誰も気にしていないからと言って、勝手にダイヤをずらしては。
ヴァルダニャン: ここには居ない者は、気にしていない。——そうお思いで?感情はそんな風に働きません。むしろ逆です。何かを十分に愛していれば、いつまでも距離を置いていられる。それがきっと、完璧な愛というものなのですから。
ヴァルダニャンは身をかがめ、最も近い座席の縁を指先でなぞる。
ヴァルダニャン: あれ程には、何も愛したくないものです。
車窓の外では、草原がゆるやかな丘陵へと変わるのが見える。白い花が点々と散らばっている。毛むくじゃらの捕食者がレイヨウのつがいを追っているが、その姿は速すぎて残像に霞んでおり、はっきりとは見えない。
ケルズ博士: 例のマニュアルについて、何か知っていることは。
ヴァルダニャン: わたしが既に知っている事以外は、何も書かれていませんね。
ケルズ博士: 技術的な記述については、少なくとも有用なのでは?
ヴァルダニャン: そうかもしれません。ただ、わたしは数字を"知識"とは思いません。あれはただの…
ヴァルダニャンは肩をすくめる。
ヴァルダニャン: …規則に過ぎません。そして、規則は理解のための隙間を埋めてしまう。その両方は要りません。
ケルズ博士: この列車の事は、随分と理解しているように見えますが。
ヴァルダニャン: 日に日にわからなくなる事ばかりです。眠りに落ちるように。
ヴァルダニャンは窓へ手を伸ばし、人差し指と中指をガラスに当てる。捕食者がレイヨウの一匹を仕留める軌跡をなぞる。花は汚れる。列車がさらにカーブを曲がり、その光景は視界から外れる。彼女は指先でガラスを拭い、それから頬に触れる。淡い錆の色が肌に移る。
ケルズ博士: マニュアルの中で、奇妙に感じた記述はありませんか。滑稽というか、不適切というか。
ヴァルダニャンの笑みに、わずかな後ろめたさが混ざる。
ヴァルダニャン: いえ、内容は足りないくらい。でも、もしかするとわたしの方が道を外れていて、あれは薄れゆくわたしの気持ちを吐き戻しているだけなのかもしれません。申し訳ない。
ケルズ博士は再び息を飲み、軽く手を振って謝罪を退ける。
ヴァルダニャン: わたし達は、この娘を随分と失望させていますから。だから、向こうから裏切られたって仕方のないことなのです。
ケルズ博士: "この娘"?列車のことですか。それとも、ランピーター。
ヴァルダニャン: 同じことでしょう。
ヴァルダニャンは窓枠に振れ、爪先でその継ぎ目をなぞる。
ケルズ博士: どうして、さっきからそんな風に触っているんです。
ヴァルダニャン: そんな風に?
ケルズ博士: ガラスや鋼を、撫でるように。
ヴァルダニャンはまばたきし、驚いたように自分の手を見る。
ヴァルダニャン: そうでしたか。面白いことです。まだここにあることを、確かめているのかもしれません。それとも、わたしがまだ居ると。こういった手合は、思ったより永遠ではありませんから。
ケルズ博士: この区間はランピーターでも比較的新しいものです。我々よりも長生きですよ。
ヴァルダニャン: 既に半分は失われています。
ケルズ博士: 何がです?
ヴァルダニャンは車両の反対側へ歩く。ヴァルダニャン: レールをご覧になりました?
ケルズ博士: 理解しかねますが。ヴァルダニャン: 実際にレールをご覧になったのか、ということです。
ケルズ博士: いえ。列車が無ければいずれにせよ要らないと思ってましたし…それに、まあ。列車は実際に来たので。
ヴァルダニャン: それもそうです。ご存知ですか、局長。モノレールとは何か。
ケルズ博士: レールが一本だから、モノレールなのでしょう。
ヴァルダニャン: どうしてそれが、わざわざ名前にするほど特筆すべきことなのかはご存知ですか?
ケルズ博士は首を振る。
ヴァルダニャン: 孤独は、人の形をした算術。あれは、減算の結果なのです。
ケルズ博士: 差。数学では、そのように呼びます。
ヴァルダニャン: ええ。差。そしてこの列車は、すでに以前のそれとは違います。今も、そしてこれからも。ここには、かつて二本の線路があった。長い区間を並走していました。ほら、あそこ。…見えるでしょう。"差"が。
ケルズ博士が窓の外を見下ろす。折れた支柱と、青々とした草に覆われた線路の残骸がわずかに見える。
ケルズ博士: 何があったんです?
ヴァルダニャン: 他の区間と同じことが。
ケルズ博士: 本拠地の近くで、ここまで進行しているとは。
ヴァルダニャン: それは、あくまであなたの"本拠地"の近く、という視点です。言ってしまえば、わたし達は遠くに散らばっているもの。そしてあの勢いはまだこの中にあり――
ヴァルダニャンは手を伸ばして天井を軽く拳で叩く。金属音がゴン、と響く。
ヴァルダニャン: ——まだ共鳴していて、わたし達を引き裂こうとしている。
外の風が強まり、車体と軌条の間で甲高く音を立てる。ケルズ博士はそれに合わせて口笛を吹こうとするが、途中で止める。
ヴァルダニャン: どうぞ、続けて。
ケルズ博士: いや、少し気が散っただけ。マニュアルの話に戻りませんか。
ヴァルダニャン: 本当に大事な部分というのは、こうして話していれば自然に浮かび上がるものです。大切なものの、スナップショットのように。
ヴァルダニャンはまばたきをする。
ヴァルダニャン: スナップショット、そう。手引きには、写真を撮るべきだと書いてありました。
彼女の表情が明るくなり、うなずく。
ヴァルダニャン: それも、沢山。
ケルズ博士: 駅長が?
ヴァルダニャン: 皆が。
ケルズ博士: 列車そのものの写真を?可動部?損傷箇所?何を?
ヴァルダニャン: 何でも。外も、内も。
ケルズ博士: しかし、なぜ?まるで観光案内に書いてあるような内容を。写真が、路線の維持とどう関係すると?
ヴァルダニャン: これ以上に大事なことはありませんよ。お見せしましょう。
ヴァルダニャンはジーンズのポケットから、折り目の付いた色褪せた写真を取り出し、ケルズ博士に手渡す。それは高い窓から見下ろした光景だった。様々な色を帯びた結晶質の螺旋が峡谷を埋め、都市の摩天楼のような大きさと機能を思わせる。細部は判然としないが、それぞれの螺旋の頂上には人型の影が集まり、腕を広げているように思える。そしてガラス越しに撮影者の手らしきものが押し当てられている。それに応えるように。
ケルズ博士: これは、何を。
ヴァルダニャン: 尖塔を上から見たものです。
ケルズ博士: モノレールから。もう一本の、モノレールからでしょう。
ヴァルダニャン: ええ。そして、これが夜に眠れなくなってしまう理由でもあります。
ケルズ博士: それは、なぜ?
ヴァルダニャン: もう、この写真は撮れません。二度と撮ることができない。
ケルズ博士: しかし、もう撮ってあるじゃないですか。
ヴァルダニャンが手を差し出す。ケルズ博士は写真を返す。彼女はそれをバックポケットにしまう。
ヴァルダニャン: そういう意味ではありません。誰かがカメラを持って、窓の外に向けた。ある席の、その横のある窓から、ある瞬間に、シャッターを切った。あの景色を未来に固定したのです。それは一つの出来事だったんです。覚えておきたい何かを見て、経験した…興味か、好奇心か、あるいは驚きだったのか。あるいは、ただそこに景色があり、自分がそこに居たが故の記録の渇望。義務感、あるいは刹那の衝動。しかしあれは確たる瞬間だったのです。何かの意味を持っていた。フラッシュを切って、ガラスの映り込みを抑え、構図を決めた。意図があったのです。そのすべてが、今や世界から文化的に失われた場所で起きた。
ケルズ博士: 文化的に…?
ヴァルダニャン: あの場所には、もう行けません。同じ写真は撮れない。全て、消えてしまったのです。熟慮はなく、かすかな意図の気配すらなく、空は奪われた。どこか遠い世界の帳簿に、数字が一桁足りなかっただけで、天が崩れてしまった。あの写真家は、神の視座を持っていました。そしてわたし達は、オリュンポスを失くしてしまった。
ケルズ博士: 少し大袈裟では?
ヴァルダニャンは目を閉じ、左右の支柱に両手を伸ばし、置く。
ヴァルダニャン: いいえ。わたしには、この一幕を十分に言い表す言葉が揃っていないのです。あちら側の線路が落ちた時、無数の視点がそれと一緒に消えたのです。今お見せしたのは、わたしもあなたも現実には二度とアクセスすることのできない、宇宙のとあるアングルの、唯一の記録なのです。あれは、時間で封じられた金庫の中の風景。あそこで手を振っていた人々が、もしここにいたら――ただ、空白を見つめるだけでしょう。"かつて"と"いま"の間の裂け目を。
ケルズ博士: しかし、それは…この線路についても同じでしょう。この路線も、昔と全く同じではない。地盤は沈み、レールはわずかにずれます。重力にしても、我々の視点を少しずつ下げ得るのでは。
ヴァルダニャン: その通り!それもまた、悪夢です。ただ、見ないで済む類の悪夢ですね。わたし達は誰かの足跡をなぞれているわけではない。その足は、わたし達のより数ミクロン、あるいは数センチ上にあります。そして星々が黒を横切る、その移動を考えれば。わたし達は一秒ごとに、あるいは常に、新しい地面を踏んでいることになります。そして後ろの足跡は、天蓋に包まれて消えていく。
ケルズ博士: 科学的には、そうかもしれません。しかし文化的には、同じ線路でしょう。
ヴァルダニャンが微笑み、再び彼を見る。
ヴァルダニャン: 意外と見込みがありますね、局長。
ケルズ博士: それはどうも。
ヴァルダニャン: では――もし、ここでわたしがあなたに口づけたら?
ケルズ博士: 今なんと?
ヴァルダニャンは腕を下し、ケルズの方を向きなおす。近寄りはしない。
ヴァルダニャン: 今ここで、この瞬間、わたし達が身を抱き寄せ、口づけをしたら。列車が走り続ける中で。この区間をもう一度通る時、あなたは同じ高揚を感じていられるのですか?それとも、二度と戻れない瞬間だと自覚しますか。
ケルズ博士: 私は…
ヴァルダニャン: もしもあの失われた線路で、尖塔を見下ろしながら、初めての口づけを交わしたら?もう一度互いの目を見られるでしょうか?かつてのわたし達が、今は何もない空間——かつて"何か"があった空間——そこに宙吊りになって、抽象化された一帯を彷徨っていたと知りながら。あの遠い観客に、本当に愛していたと、正直に言えますか。今や過去の物となった"未来の忘却"の中で成熟したそれを。そんな中で生きて——
ヴァルダニャンが目を見開き、身震いをする。
ヴァルダニャン: 申し訳ない。不快にさせるつもりは。
ケルズ博士: いえ、ただ…予想外だっただけです。多分。正直言って、何に対しても明確な答えを持ってないだけで。
ヴァルダニャン: 構いませんよ。私も何千回と考えたことですが、答えはありません。
ヴァルダニャンはため息をつく。
ヴァルダニャン: 「風景は、新たな興味対象を導入するためにのみ変化するべきだ。新しい視線を取り込み、その場所の雰囲気を強めるために。人間は、目印によって自らの位置を確かめる。舞台裏からステージへ、そして再び舞台裏に戻るまで、歩数を数えながら人生を刻む。脚はそれを覚えている。文脈が失われれば、場所の感覚も失われる。そして、自分がどこにいるのか分からなければ、どこへも行けない。古いものがすでに失われているのならば、新しいものなど存在し得ない。」手引きには、そうあります。
短い沈黙。
ケルズ博士: 恐らく、一つの宇宙が、ランピーターから切り離されたんですよ。少なくとも、今は行きにくくなっている。あの線が落ちたから、接続ポイントが減った。それでいて、私たちは古い写真や目印の話をしている。
ヴァルダニャン: それは種類の違う問題です。
ケルズ博士: もちろん違います。それに、こちらの方がよほど深刻だ。
ヴァルダニャン: 深刻なのではありません。ただ、違うだけ。あの宇宙はまだ存在しています。でも、わたしの空の目印は消えてしまった。突風に吹き飛ばされてしまった。どちらも手の届かない場所にありますが、両方とも現存しているわけではない。
ケルズ博士: 優先順位の問題でしょう。
ヴァルダニャン: 優先順位という考え方は、あまり好きではないですね。ムードの違いを考える方が自然です。
ヴァルダニャンは手のひらでジーンズを払う。左手が写真を取り出そうと後ろへ伸びかけるが、はっとして前に戻し、サイドポケットに押し込む。少し気まずそうに微笑む。
ケルズ博士: ランピーターに自然なものなどないでしょう。
ヴァルダニャン: ありますよ。どこか、ふさわしい感じさえ。
ケルズ博士: 例えば?
ヴァルダニャン: 崩壊がそうです。いずれ全ては、もっとも本質的な状態へと腐り落ちていく。
ケルズ博士: 二本の路線が一本になってしまうのも?
ヴァルダニャン: ちゃんと聴いていらしたんですね。
ケルズ博士がうなずく。
ケルズ博士: さっきの、"何もない空間に宙吊りになっている幽霊"みたいな話は、どういう意味です。
ヴァルダニャン: 尖塔は、あの線路と一緒に消えました。もう存在していませんから。
ケルズ博士: なぜそんな事が?
ヴァルダニャン: ひょっとすると、誰も写真を撮れないのなら、存在している意味もなかったのかもしれません。
ヴァルダニャンは窓の外を指さす。
ヴァルダニャン: わたし達は今、その残骸の横を通っています。
ケルズ博士が外を再び見る。峡谷には砕けた結晶状の尖塔が散らばっている。周囲の土は緑に覆われているが、それらには植物が侵食していない。尖塔は上空から吹き付ける強風に揺れている。
もう一本のモノレールの残骸が、地形が落ち込むあたりにかすかに見える。
ケルズ博士: ちょっと待って。
ヴァルダニャン: さきほど停めない方がよいと仰いませんでしたか。
ケルズ博士: 尖塔は遠く離れた存在かと思っていたんですが。ここにあったんですか?二本の線路が並走している区間に。
ヴァルダニャン: ええ。
ケルズ博士: ここに残っているなら、見えはしたのでは。
ヴァルダニャン: しかし、全く同じようには見えません。
ケルズ博士: 二本の路線は同じ高さにあったんです?それとも上下にずれていたり?
ヴァルダニャン: 高さは違いました。ここからなら、全部が見えたんです。尖塔も、もう一本の列車も。
ケルズ博士: では、風景が変わる前までは、本当の意味では何も失われていなかったのでは。
ヴァルダニャン: 文脈以外は。つまり、全てが。
モノレールがカーブを曲がり、峡谷が視界から消える。ケルズ博士: ほんのわずかなアングルの違いです。構図のいたずらですよ。
ヴァルダニャン: あなたの言うそれを、現実と呼ぶのです。
ケルズ博士: …一理ありますね。
ヴァルダニャン: とはいえ、現実を記録するのがあなたの仕事でしょう。
ケルズ博士: マニュアルも、同じことです。
ヴァルダニャン: いいえ…手引書のしていることは、全く別物だと思います。
ケルズ博士: その違いを今ここで教えてくれるんです?
ヴァルダニャン: それについては、ご自分のアングルを見つけた方がよいでしょう。見つけたら、ぜひ写真を持って帰ってきてください。
ヴァルダニャンは再び窓の外へ目を向ける。
ヴァルダニャン: まだそこにあると仮定して、ですけれど。
ケルズ博士: そして、貴女がまだここにいるとして。
ヴァルダニャンは再び窓に触れる。
ヴァルダニャン: いても、いないでしょうね。
<ログ終了>
以下は、宇宙E197「超人間主義者の特異点」における軌道エレベーターに関するSCP-8605実例・第29版からの抜粋、および同宇宙の駅長ファラックス・ヌールとケルズ博士との間で実施されたインタビュー記録です。
美学について
新しきものは、清潔であることに焦がれる。地肌がむき出しになり、肉が水膨れになるまで擦り清めるべきだ。さすれば、原初にして最も真なる光、太陽の前で輝くことができる。われわれは裸で深淵へと向かう。そこでは光もまた裸である。大気は光を屈折させず、われわれをも屈折させない。この純然たる衝撃の大枝によって、われわれは限界より引き延ばされている。
あらゆる降着は重量であり、目標は完全なる無重量である。過去は汚れであり、未来は光である。その間には、純然たるコントラストが保たれていなければならない。感傷に堕ちる場は、今ここでではない。もし星々へと至るならば、卑俗を携えてはならない。われわれが持ち込むもの以外に、そこに悪は存在しない。
<ログ開始>
ケルズ博士は、雲を突き抜けてなお伸びている巨大なタワーの根元に立っている。その上端は視認できない。タワーの中心柱を巨大な構造体が取り囲んでいる。十数の積み込みドックには労働者やトラック、列車がひしめき合いながら貨物を降ろしている。動きの慌しさの中には、完成目前の高揚がある。遠方では、乗客の列が搭乗の準備を進めている。
第二エントランスから一人の男が弾むようにケルズ博士に駆け寄ってくる。両手を振り、大きく笑っている。
ヌール: 先生!せんせー!
ケルズ博士は、やや戸惑いながら手を振り返す。
ヌール: ねえサイモン!サイモンって呼んでいい?あ、もう呼んじゃったから決まりね!
ケルズ博士: …まあ、そうだな。どうも。
ヌールは大げさな身振りでタワーを指し示す。
ヌール: 今日は井戸を昇る日かな?まあ、今日はてっぺんまで行かないだろうけどさ。上、行くの?
ケルズ博士: いまいちわからないな。"井戸を昇る"?
ヌール: 重力井戸だよ。地球のね。この子なら、瞬きする間にイチGからゼロGに!…まあ、瞬きに一週間かかるならの話だけど。
ヌールは3回まばたきをしてから、ウインクする。
ケルズ博士: そうなると、ランピーターで一番効率の悪い乗り物だな。
ヌール: えー、ランピーターの区間は一時間だけだよ。D473に行くなら別だけど。行かないよね?あれ五日はかかるからさ。C926までコースター、C847まで海上鉄道、それからD192にトラム。で、ダルースの廃宇宙ステーションのクローゼットを抜けたら、このエレベーターの頂上まで行けちゃう。乗り換え多いけど、三日短縮できるよ。
ケルズ博士: 景色はエレベーターの方が良さそうだ。
ヌール: どうだろうね。ダルースには行ったことある?
ケルズ博士: "とある"ダルースになら。
ヌールは入口へとケルズを誘導する。壁は蜘蛛の巣のような構造を持つ、鋼鉄に似た未知の素材で覆われている。
ヌール: で、このしがない"ランプマン"に何の用なのかな?
ケルズ博士: "ランプマン"?ここではそう呼ばれているのか?
ヌール: いや?ほぼ僕が言ってるだけ。みんなは普通に名前で呼ぶよ。でもそのうち浸透するよ、絶対!
ケルズ博士: まあその、仕事を楽しんでいるようで何よりだ。
二人は貨物オフィスを抜ける。電話やデータ端末を手にした職員たちが、次の便の貨物明細の仕上げに追われている。
ヌール: ここの人たちもさ、みんなを宇宙に送り出すことだけにお熱なんだよね。視界が狭いっていうかさ。みんな僕のこと、ちょっと妬いてるんだよ?
ケルズ博士: そうかもな。それで、本題だが、マニュアルについてだ。まさか君が持っていたりなんて——
ヌール: あるよ、先生!
ヌールは上着のポケットから小さな丸めた冊子を取り出し、ケルズ博士に差し出す。
ケルズ博士: …それはパンフレットだな。
ヌール: そりゃそうだよ。エレベーター自体は僕らのじゃないからね。
ケルズ博士: そうなのか。では、どの部分が我々の担当だ?
ヌール: 貨物区画のユニセックス・トイレだよ。
ケルズ博士: …そうか。
ヌール: でもね、すごくいいトイレなのは本当。帳簿係のベアトリーチェと僕で交替で掃除してるんだ。彼女もすごくいい子なんだけど、多分中でタバコ吸ってるから、通る時は息止めた方がいいかな。ほら、肺がんとかあるしね。
ケルズ博士: …ああ。
ヌール: まさかランピーターが宇宙エレベーターを所有してるとか思ってた?
ケルズ博士: いいや。もちろん違う。
ヌール: いやあ、あの人たちもびっくりしたと思うよ。宇宙に穴を彫り抜いて、やっと開通したと思ったら、その先が…まあ、宇宙だったんだから。想像するだけでぞっとするよね。エクアドルにエレベーターを建てるために、ランピーター家がどれだけ袖の下を渡したことか…まあ、なんにもない真空——空気もないから、"空"ってのもよく分かんないけど――に閉じ込められるよりはマシだけどね!でも、ちょっと笑っちゃうよね。あっちが上からやってきて、こっちが下から伸ばして、真ん中で出会うんだよ。ミケランジェロみたいに、アダムとアダムが、指と指で触れあうってこと!あれ、アダム・ランピーターだったっけな?アダムって人はいた気がするけど――
ケルズ博士はパンフレットで自分の手のひらを叩く。ヌールはまたまばたきし、ぽかんと口を開ける。話の続きが飛んだようである。ケルズ博士はパンフレットを掲げて見せる。
ケルズ博士: 中には何が書いてある?
ヌール: えーと、まずは、たまにならトイレで喫煙してもオッケー、って愉快な一節があるかな。
ケルズ博士: 本当に?
ヌール: もちろん。煙草の匂いがしない労働者向けトイレなんて、むしろ不自然だよ。空気感ってやつだよ!外に空気はなくたって、空気感は必要なんだよね。
ケルズ博士: なるほど…
ヌール: あとは、旅にはコントラストがつき物、だとか。上にまっすぐ昇るだけじゃ自然には生まれないから、人工的に仕込めってさ。内側には煙、外側は清純に。エレベーターの外装は徹底的に磨けって項目も山ほどあるんだ。会社は好きにやらせてくれてる。財団を怖がってるのかな、でもどうしてだろ?先生の財団は宇宙エレベーター持ってないでしょ?あ、いや、僕ら財団は、だね!僕も先生の下で働いているんだった。
ケルズ博士: ああ。ただ無料で磨いてくれる人材を手放したくないだけかもしれないぞ。
ヌール: その発想はなかったかも。
ケルズ博士: 本当にか?
ヌール: 多分。
ケルズ博士: 他には?
ヌール: えーと、ああ…乗客はトイレに列を作るな、とも。ぐるぐる歩かせろ、空気を入れ替えろ、って。それから、騒ぎ立てるなとも。常連に顔を覚えられたら、消えた時に怪しまれるってさ。ランピーター急行殺人事件の再発はごめんだからね。
ケルズ博士: 何の再発だって?
ヌール: あとは、成層圏を抜ける瞬間は、必ず窓辺に一人で立つこと、ってさ。
ケルズ博士: なぜだ?
ヌール: 「鷲の飛翔から、天使の至境へ」。技術の力を思い知る瞬間、神さまのお顔に触ることはできなくても、すれ違うなら目を見るのが礼儀だってさ。まあ、大体雲しか見えないんだけどね。
警報が三回鳴る。
ヌール: 展望デッキに行こうよ。
展望デッキは弧を描く形状の窓とガラス床で構成されており、現在はまだ地面の土が見えている。乗客でごった返しているが、その中にランピーター利用者がいるかは不明である。
ヌール: さあ、上へ参りまーす!
ケルズ博士は、エクアドルの風景がゆっくりとはるか下に遠ざかっていくのを見る。
ケルズ博士: ひどい日には、完全に太陽を覆い隠してしまいそうだな。
ヌール: 影はガラパゴスまで伸びるってさ。
ケルズ博士: 本当か?
ヌール: さあ?何となく言ってみただけ。
ケルズ博士: 建設にあたってキト中心街をどれだけ壊したのか、興味が湧くな。
ヌール: かなりだね。初期版のマニュアルにも書いてあったかもよ?「塔を建てたくば何かを壊せ」ってね。
ケルズ博士: なぜそう思う?
ヌール: だって宇宙エレベーターは未来主義の頂点だよ。未来主義はモダニズムの中でも一番ぶっ飛んだ一派だし、で、モダニズムは文脈を嫌うから。
ケルズ博士: だから人はモダニズムを嫌う。モダニズムは人をも嫌うからな。
ヌール: 先生、そりゃまた面白い!
ケルズ博士: 面白いか?だからこそ、古いブルータリズム建築が取り壊されても誰も嘆かないんだろう。
ヌールは笑う。
ケルズ博士: 嘆きでもするべきだと思うか?自分たちに無関心な環境を、人は悼むべきなのか?
エレベーターはキトの超高層ビル群を超えて上昇している。
ヌール: いや、悼んでるとは思うよ。悼んでないって発想はちょっと面白いね。どんな場所にも、それを愛した人はいるもの。何年も経てば、そこで誰かが育つもの。自分のものになった景色は、もう他人の目では見られないもの。それだけの話じゃないかな。あとは、失礼かもだけど、先生の前提自体にもあんまり賛同できないかな。
ケルズ博士: 前提?
ヌール: 次に街を歩くときに辺りを見回してみるといいかな。手つかずのモダニズムがどれだけ残ってるかって。きっと少ないし、他の様式は山ほどあるはず。時代が終わったときに、モダニズムはだいぶ手痛い反撃を食らったんじゃないかな。それもかなり酷く。
ケルズ博士: 暴力には暴力を、か。
ヌール: でも、それって機能を優先した建築に適応することなの?史上最も民主的だった建築様式に?それとも大聖堂やら宮殿にも同じ基準を当てはめることができると思う、先生?
ケルズ博士: まあ。結局は世界をどう魅せたいか、だろう?ヴェルサイユの方がカブリーニ=グリーンより魅力的なのは否定できまい。
ヌール: うーん。
ケルズ博士: 例が悪かったな。
ヌール: そうかも。また民主主義がどうちゃらの話に戻すけどね。じゃあもっといい例!数年前の万博に建てられた、あの"醜い塔"の話は知ってる?
ケルズ博士: そういう類の話題は追っていない。それに、私の宇宙では別物かもしれないな。
ヌール: いや、多分同じものだよ。多元宇宙間の近さの指標みたいな建物だからね。歴史地区の真ん中にどーんと建てられた、巨大な。鉄骨もむき出しで、骨組みが丸見え。建設当時はみんな大騒ぎだったんだ。
ケルズ博士: 想像はつく。
ヌール: 当時、あれを褒める人なんか誰もいなかった。みんな腹も立てたし、多分中指だって。
ケルズ博士: ここにも同じことが言えるんじゃないか?
ケルズ博士は、足で床を軽く叩く。
ヌール: そうであってほしいね!時間はすべての傷を癒してくれる。都市の外皮に刻まれた傷もね。
窓の外には、地球の丸みがはっきり見えている。乗客の何人かは歩き回り、他は客室へと向かっている。
ヌール: それも今や、写真スポットとして大人気だけどね。シャン・ド・マルスでキスする恋人たちとか、絵になるでしょ。
沈黙。
ケルズ博士: エッフェル塔の話をしていたのか。
ヌール: ごめんね先生。ちょっとズルい言い方だったけど、からかうの楽しくって。
ケルズ博士は頭を振り、苦笑する。
ケルズ博士: つまり我々はいま、ランピーターの純白な大聖堂に立っている、とそういうわけか?
ヌール: そんなとこだね。テート・モダンにもこの塔の絵があるんだよ。空に輝く銀色の灯台みたいな。あの輝きの一部も、僕らの掃除あってのものだと思いたいな。
ケルズ博士: なぜこれを象徴にしたがる者がいるのか理解に苦しむな。これは商業事業だ。所有者は宇宙を植民地化し、資源を搾取し、下々の人間から逃げていたいだけだ。
ヌール: でも先生、僕らの方が数は多いんだよ。それに大物だって、いずれ死んじゃう。運が良ければ、全員まとめてかもしれない。みんなに貢献しない人間に回せる空気は、あそこには無いからね。
窓際の乗客がぎくりとし、ヌールを怪しむように見て立ち去る。ヌールはにこっと笑って手を振る。
ヌール: いつか、僕の孫たちにとっては、この塔も"いつだってそこにあった"物になるんだ。それも、利益率とかとは関係ない意味を持って。先生、人は神話を買うんだ、歴史じゃなくて。
ケルズ博士: それは都合がいい。ジョン・ランピーターはL-NESCの歴史のほとんどを焼き払ったのだから。
ヌール: 自分の家族の分だけだよ。みんなの物までは消せなかった。文脈こそ王で、人々の想像力はその最初にして最大の宮殿なんだ。
ケルズ博士: どうも駅長というやつは皆、内に哲学者を飼っているらしいな。
ヌールは肩をすくめる。
ヌール: 視野は拡がるものだよ。職業病かな。
窓が突然暗くなる。
ヌール: 先生、会社のガイドラインじゃ、いまは目を逸らすことになってる。
ケルズ博士: ではマニュアルの方には、何と?
太陽がはっきりと姿を現す。二人は目を細め、それを見る。
ヌール: さすが、分かってた。
<ログ終了>
私がまだ幼かった頃の写真。赤い柵のついた小さな木製のワゴンに座り、四人の祖父母に囲まれている写真がある。洗礼式の写真だと思うが、どうにも私の信心は芽吹かなかった。ともあれ私は人々に囲まれ、愛されている。
それから十年ほど経つと、あのワゴンは芝刈り機に劣らぬほど裏庭を引き回されることになる。自分で運んだ方が軽いものまで、どんなものでもそれに積んで運んだ。だが、私は昔ほど外へ出なくなっていた。少なくとも自分の意思では。家族に追い出されるから出るだけで、私は明かりの前に座り、それを自在に動かすほうを選んだ。恐らくそのほうが幸せだったのだろう。コントローラーに残った噛み跡を見るに、その限りでもないかも知れないが。少なくとも、ワゴンを怒りに任せて蹴ったことはなかった。
だが今日は蹴っている。
使い終わるたびに物置にしまうのを忘れていたせいで、底板は腐っていた。赤い側板はとっくに失われ、残っているのは枠と底、金属の車輪台と取っ手だけだった。中央の木材は柔らかくふやけている。ひとたび蹴れば、沈む。
友人が、自分も蹴っていいかと尋ねる。私はうなずく。二人で底を蹴り抜く。湿った木片があたりに飛び散る。母が家から出てきて、愕然とした顔で、何をしているのかと問う。
そのとき、私は自分のしたことを知る。
父が新しい底板を作り、ワゴン全体を白く塗り直す。死を越え、白に生まれ変わったガンダルフのように。それが同じワゴンなのか、まったく新しいものなのか、それともその中間なのかについては、長い間議論の的であった。興味深い問題ではある。だが私は、答えを知っていると思う。
もしあれが、私が殺したあのワゴンのままではないのだとするなら。なぜ私はいまでも物置でそれを見るたびに、母のあの表情を思い出すというのか。埃と鼠の糞をまとった白塗り仕上げの姿を前にして。見ることの叶わぬその中身では、金属が確実に錆びついているであろうに。
以下は、宇宙K086「鉄の骨髄」における旅客機関車に関するに関するSCP-8605実例・第487版からの抜粋、および同宇宙の駅長スティーブン・グッドマンとケルズ博士との間で実施されたインタビュー記録です。
誠実さについて
列車は、他の何者のふりもしない。
それは応接室ではない。ホテルでもない。和気藹々とした応接間でもない。人間の尺度を逸した速度で疾走する、妨げを許さぬために仕立てられた道をゆく、金属の塊だ。潜在していた力学ポテンシャルが、余すところなく現前した姿である。轟き、軋み、制御を拒む力に震える。それらは封じられるべきではない。その声は、聞き取られねばならない。
列車は語る。燃料への渇望を。速度の無情を。操縦者たちの労苦と、その軌跡の背後に横たわる無数の死を。山を削り、谷を越え、生業を生み、そして奪ってきたことを、誇らしげに。
すべての声が、すべての乗客に向けられているわけではない。初めて乗る者は、恐怖と昂揚、そしてわずかな浪漫を受け取るだろう。好事家は、微細な差異を聞き分ける。互いを区別し、その名を正当化する、あの絶妙な響きを。鉄路に生きた者の末裔たちは、ワットやブルネルやフレミングの遺産に耳を澄ます。石炭に顔を煤けさせた火夫、荷を担いだ男たち、車掌たち。夢を生き、その夢を現実にした者たちの残響に。もし血に鉄が流れているのなら、汽笛が鳴り響くとき、それは歌うだろう。
列車の声は子守唄だ。文明のもっとも残酷な章を勝ち抜いた傷の記憶、その基層に半ば忘れられたまま刻み込まれた子守唄。この穏やかなる野蛮を鎮める術はない。鎮めようとしてはならない。
<ログ開始>
ケルズ博士は、整然と並んだ郵袋で満たされた長い車両を抜ける。そのひとつには、意匠化された「L」の印がある。突き当たりの扉を開けると、細く外気に晒された通路に出る。風が激しく吹き抜け、反対側の扉を開けるのに少し手間取る。
その先の車両には、窓際に座って外を眺めている男がただひとり佇んでいる。ケルズ博士はその向かいに腰を下ろす。
グッドマン: 妙なもんだな、ここから見ると何でも大きく見える。
ケルズ博士: 例えば、何が?
グッドマン: 全部さ。景色も。鉄道が世界を縮めたとか、阿保なことを言う奴もいるだろ。子どもの玩具みたいに見えるはずだってな。少なくとも、俺には違う。動きってのは、物を大きくする。遠近を生み出す。速度がつくと、物は重みを増すものだ。
ケルズ博士: 貴方が駅長ですね?
グッドマン: そのうちの一人だ。今は帰り道だがな。
ケルズ博士: どこに住んでいるんです?
グッドマンは笑う。
グッドマン: 住んでるのはここだ。寝泊まりはシカゴだがな。
太陽が遠くの林の向こうに沈みつつある。グッドマンは目を細めてその光を見つめる。
グッドマン: 列車に乗るのは、車の運転とは訳が違う。高速で立ち往生する時、頭の中は目的地のことでいっぱいだ。だが、この窓から外を見ると――
グッドマンは窓ガラスを軽く叩く。
グッドマン: ――どこへ向かっているかなんて、どうでも良くなる。どこも縛られず、どこへも縛られない。旅そのものが終着点だ。列車がどこへ行くかなんて、足元の地球がどう回ってるかを考えないのと同じことさ。
ケルズ博士: なるほど。マニュアルにも、きっと窓の外を眺めることについて長々と書いてあるのでしょう。
グッドマン: 最後に見た時には、まるまる一章あったな。今はもっと増えてるかもしれん。
ケルズ博士: あれはどこから来てると思いますか。
グッドマン: 全部ここから来てるんだろうよ。
グッドマンは左のこめかみを軽く叩く。
ケルズ博士: 貴方の思考から?
グッドマン: それと、ここからかもな。
グッドマンは自らの胸を叩く。鈍く、微かな響きがする。
グッドマン: 行き場なんて天空の他にない。これだけのエネルギーが、何も残さず消えるとは思えない。
グッドマンは身震いする。
ケルズ博士: 大丈夫ですか。
グッドマン: ただの寒気さ。いつもの症状だ。まだ俺は死ぬわけじゃない。少なくともこの俺はな。鉄の骨が入ってると、堪えるもんだ。
ケルズ博士: そうですか、遮ってしまって申し訳ない。
グッドマン: 気にするな。皆、守るべき時刻表があるものだ。
グッドマンは目を閉じる。
グッドマン: お前さん、列車に一人きりになった経験は?
ケルズ博士: 一度や二度なら、あったかもしれませんね。
グッドマン: 俺が最初にそうなった時は、まだ子どもだった。ここ、イリノイ・セントラルで。どういう巡り合わせかは知らんが、夕と夜の境目で、プルマン車両を独り占めしてた。前のほう、あるいは後ろのほうの車両でトランプでもやってたのか。腹を空かせた顔の痩せっぽちのガキに、誰も声をかけなかっただけかもしれん。
グッドマンは笑みを浮かべる。
グッドマン: あの目の光が、連中を遠ざけたのかもな。博打打ちは、口で言うほど賭け事が好きじゃねえ。
ケルズ博士: それで、列車を独り占めするのは、どんな気分でしたか。
グッドマン: 死んだみたいな気分だった。
沈黙。
グッドマン: 列車は走り続ける。空だろうと満員だろうとな。違いなんて気にもしない。俺やお前さんみたいなのが何百人いようと、八十トンの貨物からすりゃ誤差みたいなもんだよ。ロッドが唸り、車輪は回る。窓の外の黒い靄は途切れず、汽笛は呻く。列車は何も気にしない。だがな、人間は気にするもんだ。グッドマンはため息をつく。
グッドマン: もし終わりってのがああいうもんなら、俺は怖くない。
二人は数分の間窓の外を眺めている。
グッドマン: 世界と世界を旅する、だって?空の列車は、それ自体が"旅する世界"だ。俺は昔からな、一度は事故に遭ってみたいと思ってた。
ケルズ博士: 今、何と?
グッドマンは目を見開き、ケルズ博士と目が合う。
グッドマン: 変な風に聞こえるのはわかってる。だが、考えてみろ。世界と世界がぶつかる、あれ以上に終末めいたことがあるか?最初に電車に乗った時、俺はほんのガキだった。鉄橋へ向かってたんだ。そんで、ほかのガキどもが「橋は落ちてる」って言う。だがロッドは回り続け、木々は流れ去る。俺は確信したよ。このまま川に真っ逆さまだってな。燃え尽きるか、川底で煮え立つか。止める術なんてなかった。
ケルズ博士: そうなれば当然、列車は止められるはずでしょう。
グッドマン: 今のお前さんや俺ならそう考える。だがガキは違う。ガキの頭ん中は魔法で詰まってるだろ。足元でこの鉄の塊が地獄みたいな速さで走ってるのを感じる。進路上のすべてに向かって「退け」と叫ぶあの声を聞く。自分がそのエントロピーの機関の一部だと感じるんだよ。何もかもが起こり得る、あのむき出しの一瞬。「これが最期の走りだ」と聞けば、それを本気で信じる。最後にして最高の終着駅へ向かうのだとな。あの瞬間、列車が減速するだなんて考えるより、世界が終わるほうがまだ自然だった。どうして奴が止まれよう?あれはナマの速度と危険そのものだったよ。奴にとっても、俺にとっても。
ケルズ博士: それで、橋は落ちてたんですか。
グッドマン: まさか。地獄を飛び出した蝙蝠みたいに、橋を駆け抜けたさ。両脇の地面が一気に落ち込んで、だが俺たちは走り続けた。そのあいだ中、ずっと息を止めてた。
ケルズ博士: さぞ安心したでしょう。
グッドマン: 冗談じゃねえ。がっかりしたさ。
ケルズ博士: なぜ?
グッドマン: ああいうスリルからは、そう簡単には降りられるものではない。あれは運命だった。事故も起こさず終わる列車なんて、ただの移動だろう。俺たちは"出来事"になれたかもしれない。時々、引退するならああいう形が理想とすら思うことがある。
グッドマンは再びため息をつく。
グッドマン: 今の列車はな、一つずつ勝手に崩れていく。筋が通らんだろう。名も知られず、何を成したかも覚えられず、ただ朽ちるだけなんてのは。
窓の外はすでに闇に沈んでいる。グッドマンは、名残惜しげに見つめ続けている。
グッドマン: お前らが放っておいたこの状況はな、俺の悪夢の、そのまた悪夢だ。橋は落ち、俺たちは想像もできなかったほど深い場所へ落ちていく。あの悲哀は、一体どこへ向かうんだろうな。
ケルズ博士: それもまた、マニュアルに流れ込んでいるのかも。
グッドマン: かもな。あれはよく呻くしな。
その言葉に応じるように、汽笛が鳴る。
ケルズ博士: 乗客は減っても、列車は走り続けてるでしょう。
グッドマン: 走るしかない。燃え尽きるか、錆びつくか。機械に他の生き方はない。鉄道員もな。
ケルズ博士: 錆にも、尊厳を見出せます。
グッドマン: 賭けるが、お前さんは骨や血に錆が回ったことはないだろ。ありゃ落ち着かん。
ケルズ博士: その賭けは負けでいいですよ。
グッドマン: 実際な、監察官、生き延びた列車の歌なんか誰も作らん。歌があってこそ、列車は生き続ける。だから俺は今でも乗ってるんだ。
グッドマン: どっちかが死ぬまで、線路を走り続けるってことさ。
グッドマンはブーツで床を軽く叩く。
グッドマン: あるいは両方か。どちらにせよ、最期の瞬間には、もう片方が傍にいるってことだ。
グッドマンの表情が消える。
グッドマン: 誰かがそんな歌を作るかもしれんな。
<ログ終了>
以下は、宇宙M919「スミス派の覇権」におけるトラベレーターに関するSCP-8605実例・第10版からの抜粋、および同宇宙のオーナーおよび駅長サンドラ・アンドロノヴァとケルズ博士との間で実施されたインタビュー記録です。
世俗の歩道
理想形は次の通りである。清潔で、遮るものがなく、美的に機能的であり、塗装されていないこと。視覚的な多様性は不要であり、むしろ有害なものである。唯一の焦点は連続的な運動にある。滑らかな移行のための設備はなされ得ない。その表面は乗客を受け入れるためにも、追い出すためにも、停止しないし、減速すらしない。
連続性こそ理想である。
<ログ開始>
ケルズ博士は、活気に満ちた複数階建ての巨大商業複合施設の中、トラベレーター(動く歩道)の上に立っている。トラベレーターは全四列あり、ケルズ博士は最も外側である左のレーンに立っている。客たちは改札機にトークンを入れ、複雑なクローバー型の交差部でそれぞれの搬送路へと乗り込んでいく。多くが様々な買い物袋を抱えている。少し先にはもう一つの改札機があり、ランピーターの意匠をあしらった簡素な電光サインが掲げられている。ただし、その下には小さく「アンドロノヴァ工業 完全所有・運営」とようやく読めるような文が添えられている。
そのレールを挟んだ向こう側を、アンドロノヴァ本人が悠々と歩いており、ケルズ博士と難なく歩調を合わせている。
ケルズ博士: こういった手合いは嫌いだな。
アンドロノヴァ: 本当に嫌いなの?それとも、何の実感もくれないことが気に入らないの?
ケルズ博士: はっきり嫌いですよ。
アンドロノヴァ: ふふ、たぶん連想が嫌いなのよ。人は追いやられるのが好きじゃない。自分のペースで歩きたい。でも、それがいつも実用的とは限らないでしょう?だから、こういう仕組みがあるのよ。
周囲の利用者たちは皆、ほとんど静止したままである。店先や入場待ちの長い列を眺める者もいるが、多くは携帯端末を見つめている。ほとんどが一人きりに見える。
ケルズ博士: 自他境界が傷つくとか、そういう話ではなく。足元の地面が動いているのが嫌なんです。あれは本能的な感覚です。地面が動いているなら、動いていない場所まで自分の足を動かしたくなるものでしょう。
アンドロノヴァ: つまり、これはあなたにとって…地震を固めて作ったもの?それも、逃げ場のないタイプの?
ケルズ博士: まあ、そんなところ。
アンドロノヴァは手を叩く。
アンドロノヴァ: 素敵!私なら興奮するわ。
ケルズ博士: しかし、貴女は乗っていないようで。
彼女は足取りを乱すことなくピルエットし、伸びをする。近くの店前の群衆がざわめき、カメラを首から下げた女性が振り向くと、彼女に気づいてひざまずき、写真を撮る。フラッシュが光るまで、アンドロヴァは満面の笑みでポーズを取っている。
アンドロノヴァ: みんなが歩いているときに乗るのは贅沢。逆もまた然りよ。
ケルズ博士: つまり、ワタシは一段上にいますよ、と。
アンドロノヴァ: そんなこと自分では言わないわ。私たちは皆、ただ横に移動してるだけ。社会がどうやって転がり続けるか、そんな話よ。
ケルズ博士: つまり、社会のシネクドキを運営しているわけですね。
アンドロノヴァ: ニューヨークから北京まで!これだけ大きなパーツがあれば、全体の規模も想像がつくでしょう?
ケルズ博士は鼻をしかめる。
アンドロノヴァ: あら、ごめんなさい。
ケルズ博士はポケットからトークンを取り出し、ランピーター用トラベレーターの改札へ向かう。背後の群衆を離れる。この列には客の姿は見えない。幅広く無機質な通路であり、幾度も上下に傾斜しているため、いずれにせよ先の様子は判然としていない。
ケルズ博士: ここには、マニュアルの件で来たんですが。
アンドロノヴァ: "ここ"なんて呼べる場所じゃないわ。世界と世界の間のどこかよ。
ケルズ博士は二度目の料金を払い、別の歩道へ乗り換える。改札が不平の軋みを上げる。
ケルズ博士: そのマニュアルについてなんですが——
アンドロノヴァ: 読んでないわ。
ケルズ博士: …え?
アンドロノヴァ: そのための人がいるから、読ませたわ。要約は聞いた。退屈だったわ。
ランピーターのトラベレーターは明らかに摩耗しており、縁はほつれかけている。商業用のものよりやや速く動いているが、それでも進みはとても遅い。
ケルズ博士: なら、貴女ではなく部下と話すべきかもしれませんね。
アンドロノヴァ: あいにく、"話す"ぶんの給料は払ってないの。歩道を修理する給料は払ってるけど。話をするだけなんて安いもの。だから、それがサービスになるのは、その人の時間が高価な場合だけよ。感謝の言葉なら受け取るわ。
ケルズ博士: さて。それで、マニュアルがどこから来ているのか知りたいんです。性質を見極めたい。
アンドロノヴァ: どうして?
ケルズ博士: 異常だからです。ランピーター自体と違って、説明する理論すらない。
アンドロノヴァ: どこの職場も似たようなものでしょ。
ケルズ博士: 何がです?
アンドロノヴァ: ずっと昔からあるけど、誰が置いたのか分からないもの。ちゃんと機能しているのに、理由は誰も知らないもの。時間がたてば、そういうのは積もるものよ。ネオンの神みたいに。
ケルズ博士: 今なんと言いました?
アンドロノヴァ: まあ、日々の積み重ねが最新版を定期印刷することはないわね。だからその説は却下。でも、ネットワーク側に担当者がいる可能性はあるわ。
ケルズ博士: 我々の知らない人間が?誰も見たことのないような?
アンドロノヴァ: 私、自分のとこの従業員を大勢いる中から当てろって言われても無理よ。全員がうちの社員でも、きっと分からない。
市場のざわめきは既に遠くに消え去っている。ランピーターのトラベレーターが鎮座するホールには、油の抜けたキャスターの軋む音のみが聞こえる。
アンドロノヴァ: 私の従業員の中には、一度も同じ大陸に立たない人間さえいるわ。ランピーターが官僚主義に取り囲まれた赤字の泥沼だからって、その縁に立って覗けば全体が見えるとは思わないことね。
ケルズ博士: ならば"不可視のタイピスト軍団"というのも、仮説に加えておきましょう。
アンドロノヴァは肩をすくめる。退屈そうな様子である。
アンドロノヴァ: 別に。どうせ大勢に影響はないでしょう。
ケルズ博士: いいや。あれに従って日々の業務をこなしている。そこには運用、改修、改築、それから修理についての内容が盛り込まれているはず。誰が取り組むべきアジェンダを決めているか、気にならないのですか?
アンドロノヴァ: 動いてるなら十分。始発駅から終着駅までちゃんと辿り着くなら、それでいいの。正しい方向に押してくれる"手"があるなら、その姿は見なくていいわ。
ケルズ博士: 貴女の財産が、その著者の気まぐれに依存しているのですよ。
アンドロノヴァ: いいえ。変な事を書き出したら、誰も従わないだけ。あなた、うちの社員が命令にしか従えないドローンだと思ってる?それとも私がそう思ってると?あり得ないわ。でも、最終的に"だいたい私の思った通りの形"に収まるのよ。彼らも彼らで、骨身を擦り減らす中で、少しの自由があるように思える。全員がハッピー。前進。無益と区別の付かない前進よ。
ケルズ博士: だがそれは無益なこと。
アンドロノヴァはくるりと反転し、後ろ向きに歩き始める。
アンドロノヴァ: まさにそうよ。試しにふり返って、逆向きに歩いてみなさい。
ケルズ博士: 遠慮します。
アンドロノヴァ: でも気分はいいもの、でしょう?私たちが、あなたを運んでるのよ。時間通り、目的地へ。ほかの一直線に進む連中と一緒にね。あの路線は水平に、でも私の路線は横断的に。社会は垂直に、上限なく。最高じゃない?
ケルズ博士: そんなスタンスで、なぜランピーターの運営を?
アンドロノヴァ: 外の資本はよく回るの。とくに、多元宇宙通貨の両替所を握ってるならね。
ケルズ博士はため息をつく。
ケルズ博士: 本当は、どこから来ていると思うんです?
アンドロノヴァ: もう答えたでしょう?
ケルズ博士: 返答と回答は違うものです。
アンドロノヴァは笑う。
アンドロノヴァ: あなたがうちの交渉の担当じゃなくて良かったわ。契約更新が近いのよ。
ケルズ博士: 質問に答えてください。
アンドロノヴァ: まだ知らない体で通すつもり?
ケルズ博士: 何の話です。
アンドロノヴァ: 建前で遊ぶのは賛成よ。私もアダムの名前で、もっと酷いことを、もっと些細な理由でやってきたわ。でも、どれくらい目をつぶればいいのか、はっきり言って頂戴。それが礼儀であり、ビジネスというものよ。
ケルズ博士: 我々がマニュアルを作ったと言いたい? 財団が?誰にも言わず?
アンドロノヴァ: 言いたいわけじゃないわ。責任を負いたくはないの。心優しいヒントだと思って。
ケルズ博士: マニュアルは一世紀以上前から出現してるんですよ。
アンドロノヴァ: あなた達の歴史は、それよりずっと長いでしょう。
ケルズ博士: ええ、しかしL-NESCが破産したのは数年前のこと。まさか我々が、他社の従業員に従わせるための指示を事前にばら撒いておいたと?
アンドロノヴァ: いかにもやりそうなことでしょう。でもね、最初はランピーター家自身がやっていた可能性もあるわ。あなた達はそれを踏襲しただけ。そうね、そのくらいが、あなた達の創造性の限界ってとこね。
ケルズ博士: 何の目的で?
アンドロノヴァ: 支配よ。
ケルズ博士: マニュアルは支配のためのものではない。年々その傾向は薄れています。むしろ奇妙で、文化的なニュアンスに満ちている。
アンドロノヴァ: まさにそこよ。賃金で人の手は買えるわ。でも心はどう?それにはまったく別の補償が必要よ。
ケルズ博士: つまり我々が…何だ、貴女の従業員を洗脳していると?
アンドロノヴァ: 少なくともうちの従業員ではないわね。うちのマニュアルには、フワフワした修辞はほとんどないはず。でも私たちは最終期の買収案件だったのよ。それで手を出されてないだけかも。
ケルズ博士: 単にトラベレーターにはノスタルジーもロマンもないから、では?
アンドロノヴァはわざとらしく口を尖らせる。
アンドロノヴァ: バカ言わないで!数年前、写真満載のビジュアルブックを出したけど、いまだに飛ぶように売れてるの。で、そろそろ終点よ。時空を越えて歩きながらおしゃべり、なんて余裕もそろそろ無くなってきたわ。
トラベレーターの終端が見えてくる。ベルトは壁に突き当たり、折り返している。
アンドロノヴァ: 率直に言った方がいいかしら?
ケルズ博士: ぜひお願いしたい。
アンドロノヴァ: ランピーター家がマニュアルを作ったのは、彼らがビジネスの人間だったから。財団が作ってるのは、あなた達が政府だからだと思ってるわ。
ケルズ博士: 政府?
アンドロノヴァ: そう。政府。うまく回っているものを放っておけない。"見えざる手"に柔らかい手袋をかぶせたがる。成功している商売を見ると、必ず口を挟みたくなる。優しく穏やかな世界を作りたがるのは、生存とは何かを理解していないからよ。自分で自分を養う必要がない存在。他人を養う責任もほとんどない。あなた達固有の成果すらない。他人が築いたものを取り上げ、薄め、妥協させるだけ。マニュアルはそのための道具。
ケルズ博士: なら、なぜ技術仕様まで書かれていると?
アンドロノヴァ: 餌よ。まず使わせる。信頼させる。そこから――あなた達の理屈では——欺瞞の部分が浸透する。他所ではそうなってるかもしれないわね。でもここでは違う。うちの人間は胡散臭い話なら匂いで分かる。だから街を清潔にするようにしてるの。
ケルズ博士: ランピーター家は?彼らも文化的変革を狙っていたと?
アンドロノヴァ: いいえ。単に商才のないだけの狂人連中だったと思うわ。あなた達は既存の狂気を活用した。目的を与え、方向づけた。そこだけは評価してるの。だから幻滅させないでちょうだい。
ケルズ博士: まあ。それもまた一つの仮説です。
アンドロノヴァ: ビジネスの関係がある間は、そういう事にしておいてあげるわ。アンドロノヴァ工業は、ランピーター・ファミリーの一員であることを誇りに思っていまーす!
アンドロノヴァはすっと親指を立てる。
ケルズ博士: これはランピーターではない。この場所は、全くもって違います。ランピーターは…もっと、別の、何かで。
アンドロノヴァ: そこのご立派な区別は、気に入ってるものにもちゃんと適用してるの? それとも、あなたがセンチメンタルにならずに済む場面でだけ使う方便?
沈黙。トラベレーターは残り数分ぶん残っている。
ケルズ博士: 天井に壁画くらい描けばいいでしょう。ランピーターの列車はそうしていました。
アンドロノヴァ: それはマニュアルにあったわね。天井に美しい絵を描けば、人は後ろにひっくり返るほど見上げる、とか何とか。人は選択肢を与えられれば、とても愚かになるもの。裁量がないときが一番賢いのよ。
ケルズ博士: 意味が分かりません。
アンドロノヴァ: 分かってるのはこれだけよ。このベルトに乗ってる人間はみんな退屈してる。でも止まった地面に戻っても、歩調は乱れない。私が与えた弾みをそのまま保てる。私から買った運動量を持ち帰るの。エネルギーを失ったなら、復路でまた買えばいい。もし体験が最悪だったら?なおさら、さっさと忘れて前に進むだけよ。
ケルズ博士: それもマニュアルに?
アンドロノヴァ: 多分ね。頭の中が列車でいっぱいみたいね、管理官さん。いつも輸送が旅そのもののためだと思ったら大間違いよ。ときには、旅から離れるための旅もある。過去を振り返って慰められるのは、今が過去より良いときだけ。言いたい事分かるかしら?ランピーターにはもっと空港が必要よ。あなたみたいなロマン派も、すぐ目が覚めるでしょうから。
終端が目前に迫っている。
アンドロノヴァ: 正直に言って。自分の足と運命を取り戻す感覚って、気持ちいいでしょう?それが私からの贈り物よ。
ケルズ博士: 前へ進む道は一つ。それは、どの歩道でも同じこと。
アンドロノヴァ: そうね。でも、選べはするわ。勢いよく道を攻めるか、他人の減速帯になるか。ワクワクするでしょう?
ケルズ博士は返答せず、壁へと踏み込む。
<ログ終了>
以下は、宇宙Q417「霧の奈落」におけるゴンドラ式リフト・ネットワークに関するSCP-8605実例・第707版からの抜粋、および同宇宙の駅長パチャクテクとケルズ博士との間で実施されたインタビュー記録です。
光暈に寄せて
フォグランプはハロゲン灯であるべし。常に明るく保て。LEDを使うなかれ。狙いはスモッグを貫くのではなく、満たすことだ。その内に拡げることだ。窓にカーテンを掛けるなかれ。掛けるなら、すべて同一にせよ。厚手のドレープではなく、ブラインドにすること。その眼は焼き付くようであれ、あるいは半開きのまま燻るようであれ。しかし常に眼であると知覚されねばならない。おまえは彼らを見送る。彼らもまたおまえを見返す。これこそが互恵である。
損傷したゴンドラをすべて交換するなかれ。列に生じた欠落は演出である。失われたものの示唆、再開への予感、そして列の再形成による安堵。灯りが消えたなら、そのままにしておくことも考えよ。しばらくの間、闇のまま運行することも検討せよ。滅びぬように見えるものは、滅びうるという事実の提示に、魔的に映る。そして葬列には憂愁がある。憂愁は霧に追随する。
そして、すべての眼はいつか翳る。
<ログ開始>
ケルズ博士は、赤い塗装が剥げ落ちた長く鋼鉄製の桟橋を歩いている。脇には赤い白熱灯がちらつく。周囲は濃いセピア色の霧に満ち、想像を絶するほど高い支柱の滑車を通る銀色のケーブルの上を、ゴンドラが視界に現れては消えてゆく。窓の多くは鮮烈に明るく、フォグランプの灯りが霧の中に拡散している。各車列にはところどころ空白がある。ゴンドラは中央ハブから放射状に伸びる駅群を結んでいる。中央には窓口販売を設けた錆びた巨大な金属製キオスクが立っている。ケルズ博士が近づくと、薄暗い天井灯の下に座る一人の人物が、足音に反応して顔を上げる。
パチャクテク: トークンは。
ケルズ博士はポケットを探る。
ケルズ博士: 別のコートに忘れてきたかな。
パチャクテクは目を細めてケルズ博士を見ると、うなずく。
パチャクテク: ああ。君か。なら、良い。
ケルズ博士: 意味があるとも思えませんね。これだけ人がいなければ、利益も出やしない。料金なんて…ただの儀礼的なものでしょうに。
パチャクテク: その通りだ。だからトークンなんだ。
ケルズ博士は、外のゴンドラを眺めると、ボードウォークの縁へ歩く。下には霧と遠い灯りだけが見える。深く息を吸い込むと、咳き込み始める。
パチャクテク: 止めておけ。
ケルズ博士: お気遣いどうも。
パチャクテク: ゴンドラに乗った試しはあるのか。
ケルズ博士は再びキオスクへと向かう。霧が角から染み込み、細い光の円錐の中に埃が浮いている。私物はほとんどなく、奥の壁際に乱れた簡易ベッドがある。
ケルズ博士: いや。乗る気もないです。あの中に閉じ込められて、霧の中を引きずられるのは御免なので。
パチャクテクは首を振る。
パチャクテク: 皆、霧の中を引きずられている。ここなら、まだ命綱がある。
パチャクテクは、頭上の軋むケーブルを指差す。
パチャクテク: 行き先を知る必要もない。誰かが先に見当をつけてくれる。
ケルズ博士はキオスクの縁にもたれる。目を向ければ、反対側に見慣れた緑の布装丁の本を見つける。それを軽く叩いて示す。
ケルズ: これを調べてるんです。
パチャクテクは肩をすくめる。
パチャクテク: 読書会でも始めるのか。
ケルズ博士: ここは相当辺境ですから。あなたの版は、ずいぶん奇妙な内容なことでしょう。
パチャクテク: ここでは全てが奇妙だ。何せ霞の中に住んでいる。
ケルズ博士: 分かる気はします。しかし、マニュアルについて聞きたい。あなたにとって何を意味するのか。
パチャクテク: 壊れた端から直さなくてよいと知れるのは、悪くない。どうせ直せないから。
ケルズ博士: 予算の権限は私にはないんです。あればとは、思うんですが。
パチャクテク: 予算の話ではない。ここの壊れたものは、金では直せない。
パチャクテクは身を乗り出す。ランピーターの赤いトークンを取り出し、指の間で転がす。トークンは各関節を滑り、指の下をくぐり抜けていく。ケルズ博士はそれに見入っている。
パチャクテク: 支柱が見えるか。
ケルズ博士はトークンを見続けている。
パチャクテク: あれがどこまで刺さってるのか、誰も知らない。案外、そう造ったのかもしれないな。五十マイル掘るより、永遠に打ち込む方が楽だったか。だが、何に埋まってるのかは知らないが。仮に無に刺さっているとして、同じ事をやれるとは思わない。それに、あれが緩んだら。あれが緩む時が来たら、どう立て直すかも分からない。
ケルズ博士: その件について、マニュアルには?
パチャクテクは笑う。
パチャクテク: マニュアルには落ちるに任せろ、書いてある。だからそうした。
ケルズ博士ははっとして身を引く。
ケルズ博士: あなたが、落とした?
パチャクテク: 言い方が違うな。止められないものは、自分でしたことにはならない。だが、今も忘れない。一本まるごと沈んだ。支柱が霧に傾き、角度が変わる。ゴンドラが揺れ、灯りが霞の中に弧を描く。下へ。下へ。それでお終いだ。かつて盗んだあの細い空間を、霧が取り戻した。今では、どこにあったかすら示せない。
ケルズ博士: それは酷い。犠牲になった人は…?
パチャクテク: さあな。
ケルズ博士: いつの話です?
パチャクテク: 三十年前。
沈黙。
パチャクテク: また一本落ちる頃合いだ。
ケルズ博士: やはり、私はゴンドラには乗りませんよ。
パチャクテク: なぜ。
ケルズ博士はため息をつく。
ケルズ博士: そもそも、この空洞はどこから来たんです。
パチャクテク: 順序が逆だ。すべての場所は、無から生まれるのではないのか。
ケルズ博士: 真面目に聞いてくれませんか。お願いですから。
パチャクテク: 噂なら、ある。
ケルズ博士: その話を…聞かせては、くれませんか?
パチャクテクは大きく肩をすくめる。
パチャクテク: 昔、ずっと昔の話だが、ここから地面が見えた。肥えた土が。何でも育った。だが隣の世界に、何かが根を下した。永遠に異物であり続ける何かだ。分かるか?生の上に築かれ、死未満の何かを作るものだ。奴らは、それがここまで広がるのを止められると信じていた。止められると信じるしかなかった。際限なく広がり、聳え立つ類いの厄介事を。碌なものではない。だから掘った。ひたすら掘った。地上が後退し、ついには完璧で、侵されえない聖域を手に入れるまで。
ケルズ博士: 恐れから、自分たちの世界を掘りぬいて、ついには何も残らなくなるまで削ったと言うのですか。
パチャクテク: かもしれない。それも悪くない考えだ。下にまだ何かが残っているのかもしれない。時々、音がする。マニュアルは耳を傾けろと言っている。聞こえた時にどうしろとは書いていないが。ただ、それがこの心臓にどう響くか、それが答えなのだろう。探しに行ってみたらどうだ。深淵の中に、完璧なひと区画が残っているかもしれない。てっぺんに小さな高層ビルが建っていて、モールス信号でうわ言を瞬かせているかもしれない。
ケルズ博士: 巨大な霧発生装置があるだけかもしれません。
パチャクテク: いいアイデアだ。借りてもいいか?
ケルズ博士はマニュアルを取り出すと、何かを探し回り始める。
パチャクテク: 要するに、ここはもう空間ではない。"間"だ。ある意味で言えば、ランピーターもずっとそうだった。
ケルズ博士: そういう話は聞いたことがあります。実務的な内容は、あまり載っていないんでしょう?
パチャクテク: いや、とても実務的だとは思う。
ケルズ博士: 「光がおまえを迎えに来た時、どうすべきか」。これが実務的と?
パチャクテク: 知らない方が、安心できるのか。
ケルズ博士: そもそも、どういう意味なんです?
パチャクテクは霧と、遠くの一対の輝きを見る。
パチャクテク: あれを長く見ていると、全部がずれてくる。通り過ぎるだけには見えなくなる。蒼白の彼方から、こちらへ向かってくるように見える。自分を連れて行けと思うようにもなる。だが、それはこちらの――いや、君の仕事ではない。まだな。行く側ではない。残って、見送る側だ。
ケルズ博士: 高所の携挙、というわけですか。どうやって折り合いを付けるんです。
パチャクテク: マニュアルには何と書いてある。
ケルズ博士は目線を下げ、ページをめくる。
ケルズ博士: 行くべきだ、と書いてます。そんなはずはないのに。
パチャクテク: 前任者は、そうした。
ケルズ博士: 前任者? 前の駅長のことですか?
パチャクテク: そうだ。それでこの職を引き継いだ。いつかまた番が来て、あいつらを見上げて、向こうも見下ろしてきて、それが怖くなくなったら、行くのだろう。だが、まだだ。今居なくなったら、ここに座って、君と話す奴は誰になる。
ケルズ博士: 次の人間でしょう。
パチャクテク: いや、君一人になるだろうな。
沈黙。
ケルズ博士: あれは、非常灯みたいなものでしょう。
パチャクテク: ああ。
ケルズ博士: あのゴンドラ全部に人が乗っているはずはないでしょう。なぜ灯りが? 遠隔で消せはしないんですか?
パチャクテク: マニュアルにある。たしか二百ページ辺りに。
ケルズ博士はSCP-8605実例を確認する。
ケルズ博士: 「灯りは、誰かが対向する限り、概ね点灯を保つべし。誰も来なくなれば、すべての灯りを一斉に消すべし」。
ケルズ博士は首を振る。
ケルズ博士: つまり、意味はないということです。灯りは点いているのに、誰もいない。盲目で、充血した、命のない眼。
パチャクテク: ネオンの神のように。
ケルズ博士は返答しない。
パチャクテク: それでも、美しい。あの無心の行進は。
パチャクテクはようやくトークンを指で転がすのをやめ、親指で弾いて宙に放る。トークンは弧を描きながら、金属音が鳴る。それを受け止めて、わずかに眉をひそめる。
パチャクテク: 音色が変わった。あの支柱が倒れてから。
ケルズ博士: 音色?
パチャクテク: そう呼んでいる。ケーブルの共鳴が、この桟橋にも、壁にも、そして必ずトークンにも伝わる。ケーブルが動いている限り、どこにあっても鳴り続けるんじゃないかと思う。
ケルズ博士: それは、考えにくいですね。
パチャクテク: この駅全体が巨大な弦楽器だ。あの路線が落ちてから、音がどこか狂っている。弦が五本になれば、同じ曲は弾けない。余分だったはずの灯りも、やはり惜しい。
パチャクテクは首を振る。
パチャクテク: 世界が、ほんの少しだけ暗くなった。それとも、目が衰えてきただけかもしれない。
ケルズ博士: その両方では。
パチャクテク: その両方かもな。
ケルズ博士は再び手すりへ歩み寄り、通り過ぎるゴンドラを見つめる。窓からの強烈な光で、誰かが乗っているのかどうかは判別できない。
ケルズ博士: 案外、あなたの言う通りかもしれません。
パチャクテク: そいつは慰めになる。何についてのことだ。
ケルズ博士: 慰め、そうでしょう。あのゴンドラの中にいるとき、外に眩しい光を見るのは、きっとずいぶん心強いはずです。窓の外にもう一つ灯りが咲くのが見えれば、自分だけが宇宙に取り残されたわけではないと分かる。
パチャクテク: あの灯りは、ゴンドラの存在を人に知らせるためではない。
ケルズ博士は振り返る。
ケルズ博士: では、何のために?
パチャクテク: 霧に知らせるためだ。人がそこに居ると。
ケルズ博士は再びゴンドラを見やると、パチャクテクに視線を戻す。
ケルズ博士: どうも、これを吸い込むのは体に良くなさそうですね。
パチャクテク: 多分な。肺が擦り切れてると、ひどく沁みる。
ケルズ博士: 何で擦り切れたんですか?
パチャクテク: 叫んでいたからだ。
ケルズ博士: 何に向かって?
パチャクテク: いや、何にでもない。ただ叫ぶだけだ。反響を期待してな。目的があると思った方が気が楽だろう。
ケルズ博士: 実際にあったことは?
パチャクテク: 反響が、それとも目的が?
ケルズ博士: 私が「両方」と言っても、あなたは「ない」と答えるでしょうに。
パチャクテク: 君も織り込み済みのようだな。
ケルズ博士はため息をつくと、再び咳き込み始める。強く目を閉じたのちに、開く。ゴンドラの光は目を射るほど強く、彼はよろめいて反対側の手すりに背を打ちつける。手すりは震えるが、ケルズ博士を支える。
ケルズ博士は、何かを見たかのようにゴンドラから身を引く。両手を半ば防御の姿勢で上げ、光を避けるように目を細める。
パチャクテク: これで分かったろう。
ケルズ博士は涙目のままパチャクテクを見つめ、それから後ずさる。片手で手すりを探りながら、キオスクへ続く階段へと向かう。ゴンドラが光の濁流に溶けて判別できなくなるまで、視線を逸らさないでいる。
<ログ終了>
私がまだ本当に幼かった頃、両親と祖父母は裏庭に小さなおもちゃの家を建ててくれた。ブランコとどちらが先だったのかは分からない。少なくとも、あのワゴンよりは前だ。今こうして振り返ると、私の幼年期はまるで一瞬のうちに起こった出来事のように思える。平らで、つややかなトークンのようなもの。表面と印象だけが残っている。
青と白の色をしていた。ブランコと同じ色合いだ――いま思えば、だが。もっとも、少し違う青色をしていた。卵殻のような淡い色。後から考えれば、それは妙にふさわしい気もする。
私はそれを一緒に建てたのだ、とずっと自分に言い聞かせてきた。だが同時に、それが完全な真実ではないことも知っていた。私の手には小さなオレンジ色のプラスチックのハンマーが握られていた。ただの玩具であり、打面は中空で、釘を打ち込みすぎればすぐに穴が空いただろう。それでも、敷居を形作る板に何本か仕上げを打ち込んだのは覚えている。それが彼らの発案だったのか、それとも私の思いつきだったのかは分からない。ただ私は、"境界"の力というものを直感していたのだと言いたくなる。ひとつの領域から別の領域へと踏み越える、その意味を。出入りという行為。見ることと行うことの狭間。もちろん、当時の私はそこまで聡くはなかった。だが記憶の中では、太陽が私を包み込んでいた。私の過去は、決して暗くはない。
あれはただの塗装された合板でできていた。長持ちさせるつもりがあったのかは分からない。それでも今なおあの場所にあり、青と白の面影をとどめている。やがてそれは誰の家でもなくなった。ネズミやリスを数に入れるなら別だが。いつしかそれを物置と呼ぶようになり、遊びの時間は終わった。
人が愛情を向ける対象を変えれば、物は腐り、剥離するものである。あれも同じだ。それでも私は、あれが消えてしまうのが耐えられなく思う。あの中には、まだ別の私が居る。黴と埃を吸い込みながら、木の薄板の上に膝をつき、時間を潰し、しかし無駄にはしない。腰を落とし、幼い私の痕跡を残していた。
裏の壁には節穴がひとつある。光が差し込むほどの大きさである。目を当てれば、中を覗くことも、外を見ることもできる大きさ。私はよく、両側からそれを覗いた。狭い孔を通して見ると、見慣れたものが見知らぬものになる。夢の中で垣間見る、あるいは曇った硝子越しに見る世界のように。あの敷居の向こう側が、本当にまったく別の世界へ通じているかのように。
あのワゴンはいま、そこに置かれているはずだ。少なくとも、そう思っている。ときどき私は、確かめに行くのが怖くなる。景色が変わり、目印が消えてしまったのではないか。しかし、いや、大丈夫だ。きっとまだ、そこにある。
節穴も、あのままだ。以前より広がってはいないし、私の目も大きくはなっていない。望めば、いまでも覗くことはできる。
しかし、もし覗いたとき、こちらを見返す私の姿がなかったらどうしようと、それが怖いのだ。
以下は、宇宙X812「交差線」における地下鉄車両にて実施された、身元不明の利用客とケルズ博士との間のインタビュー記録です。
<ログ開始>
ケルズ博士は車両から車両へと移りながら列車内を探している。列車はトンネルを疾走し、金切り声のような軋みを上げる。窓の外は闇だが、ときおり白い光が一瞬だけ走り、かすかな残像を中に残す。車内灯は薄暗く、金属のあちこちに錆が浮いている。
最後尾の車両、運転室の手前の座席群の先頭に、一人の男が座っている。閉じた本を抱え込むように持っている。ケルズ博士が連結部を抜けると、男は顔を上げる。
ケルズ博士: 駅長を探しているのですが。
PoI-8605-A: 駅で探したのかい?
ケルズ博士: ええ。全ての駅で。
PoI-8605-A: なら、もう居ないんだろう。
ケルズ博士: 彼がただ"居なくなる"なんてありえない。
PoI-8605-A: かつて存った者のほとんどは、既にいない。
ケルズ博士は近づくが、腰は下ろさない。男は立ち上がらない。
ケルズ博士: 君は誰なんです。
PoI-8605-A: ただの旅人だよ。キミは?
ケルズ博士: サイモン・ケルズ。
PoI-8605-A: 名前じゃない。キミは何者なんだ?
沈黙。
ケルズ博士: 何が起きているのか、それを知りたいだけですよ。
PoI-8605-A: 全部だよ。それが美しいんだ。ゾクゾクしないかい?
ケルズ博士: これだけの多元宇宙を彷徨ってきて、皆が皆、私の質問をスルーしていくみたいだ。
PoI-8605-A: ワタシが言いたいことを言うほうが早いね。時間はあまり残ってない。けれど、もしキミがその残り少ない時間を差し出す気があるなら、質問に答えてあげよう。
ケルズ博士: 時間が残っていない、とはどういう意味です?
PoI-8605-A: キミは、そう感じていないのかい?
ケルズ博士はため息をつく。
ケルズ博士: 分かった。L-NESCの運用マニュアルについて話したい。おそらく君は知らないだろうけれど。
PoI-8605-A: 福音だよ。
ケルズ博士: 何だって?
PoI-8605-A: 路線の、最後にして最良の聖典。知らないはずがないよ。
PoI-8605-Aは本を持ち上げ、表紙が見えるように掲げる。それはSCP-8605実例である。
ケルズ博士: それで、君は駅長ではないのか?
PoI-8605-A: ワタシがキミに繋がれているように見えるのかい?
ケルズ博士: 蝶番のネジが外れたように聞こえるな。
PoI-8605-Aは笑う。
PoI-8605-A: その通り。蝶番の付いたものは、どちらにも振れる。だが、ワタシは違う。自分だけの弧を選んだ。もう勢いを止めるには遅すぎるのさ。
ケルズ博士: で、君は何者なんだ?ランピーターの司祭か?
PoI-8605-A: いや、司祭などいないよ。いるとも言えるが、キミの思うそれではない。
ケルズ博士: では、何が?何がランピーターの司祭職になりうると思う?
PoI-8605-Aは何も言わず、再びSCP-8605実例を掲げる。
ケルズ博士: 本気なのか?
PoI-8605-A: これがワタシたちの対話者だよ。ランピーターは、四千の節を持つ記譜を持たぬ歌だ。ひとつとして同じ節はない。路線に乗ることは、かつて乗った者、いま乗っている者、これから乗る者すべてと交わることと同じ。言葉なしに語り、語られぬものを聞く。マニュアルは、その交わりの精髄を蒸留したもの。
ケルズ博士: それは運営者しか読めない本の話だろう。通常は。
PoI-8605-A: 彼らは秘密の典礼など持っていないさ。言語は普遍の物。この聖典に翻訳は必要ないし、ただ反復があるだけ。それが自らを解釈する。路線が翻訳をしてみせる。
ケルズ博士: 話が見えないな。
PoI-8605-Aは座席の上で足を折り畳み、ケルズ博士を見上げると、満面の笑みを浮かべる。
PoI-8605-A: 伝達と翻訳。伝達とは、何かを先へ動かすこと。翻訳とは、それを軸に沿ってずらすこと。同じことを別の言い方で述べているに過ぎない。言語を超える物を――言ってしまえばね――伝えるという事。そして、場違いなものほど超越的なものはない。物であれ、ヒトであれ。輸送というのはね、キミ、常に急進的なものだよ。そう広めてくれたまえ。
ケルズ博士: だが誰も広める者はいない。すでに死んだ福音だ。無人駅の棚で埃をかぶり、空の列車が訪れ、現場を知らぬ者たちに読まれながら、誰一人としてまっとうな答えを与えない。聖歌隊はないし、ランピーターは沈黙のネットワークに過ぎないだろう。
PoI-8605-A: この諸世界は沈黙していないよ。そして沈黙に戻ることは二度とない。沈黙していたのはランピーター以前の話だ。ランピーターとは音そのもの。
列車が揺れる。
ケルズ博士: その音も、時間と共に減っている。
PoI-8605-A: 沈黙は偽物だよ。真理と真理のあいだの空白にすぎない。待ち時間がどれほど長かろうとね。キミはこの駅で降りるべきだ。
列車が不意に大きく揺れ、急停止すると、扉が開く。駅は薄暗く、天井灯が瞬いている。ケルズ博士は降りる素振りを見せない。やがて扉は再び閉まり、列車は走行を再開する。
PoI-8605-A: キミの自由だがね。
ケルズ博士: 「どれだけ長かろうと」とか言っただろう?誰が、何を待っていると?
PoI-8605-A: 創造が、ワタシたちを待っている。ワタシたちが存在する前から、ずっと待っていたのだよ。それまでは、物語もまだ半分だった。築かれぬ世界。肉体を持たぬカタチ。ワタシたちがそれを完成させる。ワタシたちこそが、その真実だ。
ケルズ博士: 傲慢だな。
PoI-8605-A: 人類以前、音というものは存在しなかった。ワタシたちのようにそれを知覚するものは他にいない。他にそれを実在させられるものもいない。ランピーターは多元宇宙の肺であり、ワタシたちはその声だ。
ケルズ博士: それが、君の定義なのかい?
PoI-8605-Aは、痛みに顔を歪めるような表情を浮かべる。
PoI-8605-A: いや、縫い留めるような真似はやめてくれ。ワタシが定義するのではない。ワタシは定義されるのだ。ランピーターはランピーターのままだ。今は。
ケルズ博士: 今は、か。
PoI-8605-A: そして、後ではない。ライフ・サイクルは終焉に近づいている。終着駅だ。
ケルズ博士: ライフサイクル?これは交通ネットワークだ。単一の存在ですらない。
PoI-8605-A: なら、なぜ名を与えた?
ケルズ博士: 我々がそうした訳じゃない。建設した連中だ。それもまた一つの傲慢だ。
PoI-8605-A: 監察官、キミには子供はいるかい?
ケルズ博士: いない。
PoI-8605-A: だから分からないんだ。もし子供がいたら、名付けるものだろう?
ケルズ博士: 何だって? 私ももちろん――
PoI-8605-A: ほら。
ケルズ博士: ワームホールの星座を子供と呼べるものか。
PoI-8605-A: いや。かつてはそうだった、と言っている。もう長い時が流れた。いまや老いて、衰えつつあるだろう。
ケルズ博士: インフラはそんな風には機能しない。
PoI-8605-A: ワタシたちが築くものは、すべてそうやって機能する。建物は生まれ、盛大な儀式で祝われる。歳を取り、成長し、姿を変える。いくつもの役割を担い、その皮膚は剥がれ落ち、また再生する。内部の小さな微生物たちも短い生を生き、入れ替わってゆく。やがて凡ゆる海浜の塔は老い、朽ち、ワタシたちはそれを甘く苦い、憤りと愛着と恐れの入り混じった感情で見つめる。そして最後には消えゆく。あの測り知れぬ海へと沈む。それで循環が完結する。
ケルズ博士: 適切な枠組みさえあれば、何でも比喩に包める。
PoI-8605-A: ワタシに言わなくても良い。信じる者となる前は、建築家だった。だが、ピタリと当てはまる枠組みはある。ワタシたちは、自分で建てた殻の中で人生の大半を過ごす。そこを満たすのだ。キミは、自分がただの物質の集合体以上の存在だと信じているか?
ケルズ博士: 私は——
PoI-8605-A: 信じるのならば、分かるはずだ。キミは行く先々に、自分の一部を残していく。キミは残り、キミは染み込む。自分の生命を分け与えることで、物を生かす。人類が洞窟や茅葺き屋根を離れて以来、あらゆる大地は生きた都市の継ぎ接ぎの布になった。ひょっとすると、あの洞窟ですら、まだ魂を宿しているのかもしれないね。
ケルズ博士: ネオンの神の預言者どもと、大して変わらないことを言う。
PoI-8605-A: フランス語でdesrengierデランジェ。列を乱す、という意味だ。その過程は、最初の乗客が最初のランピーターの列車に足を踏み入れた瞬間に始まった。ワタシたちこそが線路の攪乱だ。預言でも何でもない。ただ、そう在るというもの。始まりから終わりまで、常にそうだ。
ケルズ博士: しかし、そこに終わりなど無くても良いはずだろう。直せるものだ。ケーブルを張り替え、路盤を組み直せる。大半の系は技術的ですらない。ただ、その技術を使って"到達している"だけだ。
PoI-8605-A: キミはまだ、ランピーターをそれが穿つ孔そのものだと思っている。
ケルズ博士: それ以外の何だという?脇道を車で走り、適切な窪みを踏んでA356の空中道路に出たとして、その脇道と空中道路が両方ともランピーターの一部だと言うのか? 狂気だ。そんな理屈が通るなら、常にすべてがすべての一部になる。
PoI-8605-A: その通り。
窓の外の閃光が次第に頻度を増している。ケルズ博士は、何かを見たかのように身を強張らせる。
PoI-8605-A: キミは信じている、違うかい?少なくとも、かつて信じていた。ワタシは、堕ちた信徒一人に説教をしているわけだ。
ケルズ博士: 理性的になることを、堕落とは呼ばない。
PoI-8605-A: だがそれは堕落だよ。拳を天に振り上げ、蒼穹に孔を穿つのが理性的だと思うのかい?上昇とは常に無秩序だ。秩序は水平軸に沿って広がる。すべては所定の位置に。上へ行くには逸脱しなければならない。そして落下は哲学者の領分だ。考えすぎは自重となる。
ケルズ博士: 下向きが趨勢だ。我々は、沈みゆく船のネズミだ。
PoI-8605-A: いや、これは敗北の物語ではない。永遠に続かずとも、それが偉大であることには矛盾しない。ワタシたちは地球を動かし、地球群を動かしてみせた。互いに引き寄せ、各世界の頂から異界の峰が見えるほどに。宇宙を展開した。それは名を与えるに値する仕事だ。歌われるに値する。労苦も嘆きも、旋律の甘さにほろ苦い一音を添えるだけだ。沈黙に抗って歌うといい。掻き乱したまえ。
ケルズ博士: 革命家のような口を利く。
PoI-8605-A: 輸送は、常にヒトを急進化させる。
短く、鋭いブレーキ音のような軋みが響く。
PoI-8605-A: 立ち止まれないから行動する者がいる。静止に耐えられず音を立てる者がいる。自分自身と向き合うこと、自らの内面と二人きりでいることに耐えられない類いの人間がいる。だから、押し出すのだよ。外へと。
ケルズ博士: そして、帰りの金も残らない。
PoI-8605-A: あるいは、帰る家がない。彼らもまた、超越したのかも知れないな。家を内に宿し、携えて運んだ。そして彼らは家をワタシたちと分かち合った。
ケルズ博士: そして今やそれは我々のものだけになり、彼らは消えた。
PoI-8605-A: だが、それが存続するのを見届ける権利は残っている。これは死者が築いたものだ。彼らもまた、その持分を有している。
PoI-8605-Aは窓枠に手を置き、指先を滑らせる。引き戻した彼の掌には、錆と血のようにも見えるものが付着している。
ケルズ博士も窓枠に触れようと手を伸ばすが、思いとどまり、両手をジャケットのポケットに押し込む。
ケルズ博士: 起きたことに対して、我々にも責任があるだろう。だが、これを美しい失敗以上の何かと見るのは難しい。立派ではあったが、到達点には届かなかった試みを。スミス派と同意するのは癪だが…
PoI-8605-A: なら同意しないといい。L-NESCが破綻したのは、無能ゆえではない。あれほど巨大で大胆な事業は、必然的に借金の山を築くもの。だがそれでも価値はある、あの山々の頂からの眺めは…
ケルズ博士: 山を障害ではなく挑戦と見るには、先見の明が必要だな。
PoI-8605-A: 投資には常に偶然の要素がある。常にリスクがある。それが多元宇宙の境界を越えれば、指数関数的に増大する。ランピーター家は、自分たちが永遠に頂点に座せるなどとは思っていなかった。それでも、いずれ降りねばならぬとしても、誰よりも遠くを見られることを秤にかけた。
ケルズ博士: 先に安全策を講じる時間はあったかもしれない。
PoI-8605-A: 彼らはそのヴィジョンを実現できるかどうかの争いに身を投じていた。L-NESCとネオンの神。海から海、そしてその先の海へと続く鋼鉄。蒼穹を縛る路線。やがてL-NESCは止まり、いまワタシたちの再評価の俎上にある。ランピーターは既成事実として収まるのか、はたまた、最後には神がそれを凌駕するのか?あるいは終わりなど存在しないのか?現実とは循環に過ぎず、掉尾なき無限の周回路なのか?
ケルズ博士: それとも、両脇を固められ、そのまま海へ行進させられるのか?
PoI-8605-A: キミが思うほど、ワタシたちは従順じゃない。人類は開拓者の種族だ。だから司祭職など要らないと言うのだよ。少なくとも、肉と血と骨でできたそれは。ワタシたちは小道を拓き、道路を舗装し、線路を敷く。これを敷くとき、ヒトは本当の夢を見る。この共有された夢の中で、ワタシたちは同じ道を歩む。同じ本能に導かれ、土を踏み固め、轍にし、その轍をアスファルトとガラスと鋼鉄で埋めてゆく。どこか別の場所にいるという、夢の中の夢に駆られて。
ケルズ博士: "どこか"が無くなるまでの話だ。全部、我々が殺してしまうまで。
PoI-8605-A: ランピーター以前から、多元宇宙は死んでいたさ。
PoI-8605-Aは床を足で叩く。
PoI-8605-A: これは鼓動する心臓の動脈だ。ブーツ越しに感じるだろう?レールを伝って、骨を震わすあの唸りを。鼓動は鈍いが、血はまだ流れている。
ケルズ博士: 長くは続かないだろう。静脈には錆が回っている。それで、その後は?ライフサイクルが終わったら、何が来る?
PoI-8605-A: リサイクル、かな。
ケルズ博士は、いら立ちを隠さずに鼻を鳴らした。
PoI-8605-A: すまないね。闇の中では、謎かけも簡単になる。作られたものがその生を終えるときどうなるか、だね。ケルズ管理官。それは、いっそう尊くなる。もはや重要でなくなったとき、本当に大切にしている者たちの掌に収まる。この福音を、自らの心臓の血で書いた者たちの。
PoI-8605-AはSCP-8605実例を胸の前に持ってくる。
PoI-8605-A: ヒトはそれぞれ、自分だけの讃美歌を持つ。
ケルズ博士: つまり何だ?マニュアルは乗客が書いたとでも言いたいのか?文字どおり?
PoI-8605-A: 違うね。言っただろう、対話者はいない。あるのは乗る者と、乗り物だけ。
ケルズ博士: では…?
PoI-8605-A: マニュアルは、ランピーターがワタシたちに返してくれる恋文だ。ワタシはそれを、覗き見るような高揚の中で読む。
ケルズ博士: 自分のことばかり書いてある恋文なんて、読んだことはないな。
PoI-8605-A: 翻訳の過程で、何かは必ず失われる。そういうものさ。
PoI-8605-A: 彼女は、どうすれば彼女を理解できるか教えてくれている。それが恋人の与え得る、最高の贈り物だろう。愛とは理解だよ、ケルズ博士。真の愛とは、「理解されている」と理解すること。
ケルズ博士: それがマニュアルなら、ランピーターそのものは何になる?命がある?感情がある?知恵がある?それとも、また別の神なのか?
PoI-8605-A: キミはもう知っているはずだ。
ケルズ博士: …接続だろう。
PoI-8605-A: そう。永遠の、すべてを囲うケーブル。接続こそが全てだ。ワタシたちから切り離されたランピーターは無だし、ランピーターを欠いたワタシたちも不完全だ。ワタシたちは同じ全体の一部なんだよ、サイモン。ランピーターは人類にとっての鋼鉄の精神だ。全ての人類、のね。
悲鳴のような高音が急激に立ち上がる。ケルズ博士は両耳を強く押さえ、堪えきれずに膝から崩れ落ちる。
PoI-8605-A: さっきの駅で降りるべきだったろ。
PoI-8605-Aが腕を伸ばし、非常用コードを引く。ブレーキが甲高く悲鳴を上げ、窓の外を流れていた光の残像が、意味を持たずまま脈動するネオンの迷路へと固定される。
PoI-8605-A: 終点だ。
列車の全長にわたって蛍光灯が一斉に消え、代わりに非常用の赤い光が灯る。ドアが滑りながら開く。
ケルズ博士はよろめきながら立ち上がり、しばらくPoI-8605-Aを見つめる。そして踵を返し、闇の中へと身を投じる。
細部はすべて均され、輪郭を失っている。次の駅の半分が晒されている。タイルは光沢を帯び、ケルズ博士が最初に乗車したときの、ひび割れ煤けた床とはまるで違う。壁に掲げられた駅名は、意味を持たない記号の羅列である。ほとんど言葉のように見えるが、実際には、形だけの幻想だけを作り出せても、意味という事実には決して到達できない何かが、言葉を模倣した痕跡にすぎない。書かれようと、発せられようと、言葉というものを扱う術を持たない存在。絞め殺され、声を失った叫び。
壁には広告も貼られている。しかし、ひと目見た瞬間に破綻する画像ばかりである。線の噛み合わない建築物。指が多すぎる無貌の人物。どれも何も意味していない。ただ一つのことを除いては。
PoI-8605-Aが列車の前方へと歩み出る。ケルズ博士が別れの手を上げると、PoI-8605-AはSCP-8605実例を掲げる。その姿が視界から消える前に、灯りが落ちる。そして一瞬の後に灯るものは、光ではない。本物の光ではない。
だからケルズ博士はそれを無視し、背後に置き去りにする。灰色の輝きが、虚無を照らしている。
<ログ終了>
以下は、宇宙X812「交差線」における地下鉄に関するSCP-8605実例・第1000版(そしておそらく最終版)からの抜粋、および宇宙X810「環太平洋圏」の駅長タニ・ナナミ谷 七海の特徴に一致する人物と、ケルズ博士との間で実施された偶発的会話の記録です。
地下について
「虫瞰図」という言い回しは、正確ではない。ここで言う虫とはミミズのことであり、ミミズは盲目だからだ。
だが彼らは光を感じ、闇を感じ、肉体が触れ合う圧力を感じる。けれど終わりを感じることはない。ゆえに終わりに気づくこともなく、だからこそ彼らは生き延びる。もし我々が虫のように生き延びたいのならば——持続を超えた持続を手にしたいのなら――虫の視座を採用しなければならない。
窓の外の空間は、断続的にのみ照らされるべきだ。獣の体内では、すべてが光である。外はすべてが闇である。列車とは、黒を押し分けて進む単一の生物であり、白の断片のあいだを疾走し、静止という安全から後ずさりをする存在だ。乗客は環形動物の体節のように詰め込まれ、曲線のたびに互いの上で蠢く。ラッシュ時こそが、普遍的一体性の頂点である。
悪臭を放つ自動車の圧力の上には、動かぬ合成繊維の肉の絨毯が広がり、天からの火が降り注ぎ、それらを露出し停滞した鉱滓の川へと変化させるのを待っている。その下で、虫は自由だ。そして自由であり続ける。
地下鉄は這う。人間が歩くために。最後の閾を越え、その先へ至るために。
<ログ開始>
ケルズ博士は地下鉄のトンネルを一人で歩いている。頭上の照明はまばらで、視界はひどく悪い。遠くに人影が現れ、ケルズ博士はそちらへ向かう。
年配の女性が同じ方向へゆっくり歩いている。博士が追いつくと、彼女は振り返り、軽く頷いた。
ケルズ博士: 貴女を知っている気がします。違いましたか。
ナナミ: もう互いの自己紹介など必要ないでしょう。
ケルズ博士: 貴女はナナミ、ですね?もっと先の駅長だった。
ナナミ: そうだったかもしれません。そこに、まだ駅があった頃の話です。
ケルズ博士: ここは安全なんですか。
ナナミ: 安全な場所なんてありませんよ。でも、「話す時間があるか」という意味なら——
ナナミは微笑む。
ナナミ: 私は、いつだってあると思いたい。
ケルズ博士: 失われたものについて、気の毒に思っています。
ナナミ: 来ると分かっていたはずなんです。きっと皆、後になってそう言うのでしょうね。
ケルズ博士: ネオンの神。
ナナミ: あんなものに名前を与えるのもバカらしい話です。何も意味しないものに、記号を貼りつけることはできない。鋼鉄を接着剤で留めようとするようなものです。とはいえ、あれが語るのは、あれ自身というよりも――
ナナミは肩をすくめる。
ナナミ: むしろ、私たちのことなのでしょうけれど。
ケルズ博士: 私たちは経験に名前を与えます。自分自身に名前を与えるように。
ナナミ: ええ。なにせ私たちは経験そのものですから。それ以外の何かだと考える余地は、あまりありません。
ケルズ博士: ずいぶんとまあ、ひどい経験ですが。
ナナミ: ええ。乗り手を変えてしまうには十分。もしかしたら、乗り物を変えるのにも。
ケルズ博士: 良い方向にとは言えません。ランピーターは、長い長い梯子になりつつあります。皆が登りきったあとで、引き上げてしまうような。
二人は数分間、沈黙したまま歩く。
ナナミ: 洪水は、せめて反射を運んできます。水面を覗けば、自分の姿が映る。けれどもネオンの神には、それがありません。
ケルズ博士: あれは、私たちを否定形で示しているのかもしれません。なり得たはずで、ならなかったもの。
ナナミ: あらゆる野心の行き止まりです。壮大な相殺とも。
ナナミは、何もない空間を指し示す。
ナナミ: 無数の永遠を横断する鋼の網。それだけの革新を積み上げてきたのに、対抗策は背を向けて逃げることのみ。ある人は言うでしょう。これほど有望だった物語にしては、ひどく病的なクライマックスだと。そしてその後は、ただの後日談に過ぎないと。
ケルズ博士: 貴女は違うのですか?
ナナミは哀しげに微笑むが、返答しない。
ケルズ博士: 逃避もまた、別の形の旅ではありませんか。
ナナミその言葉を受け止めるように、小さく頷く。
ナナミ: そう終わる人もいます。幸運な人たちです。でも、始まりはいつも喪失から。それは、あまり良い兆しではないですね。
ケルズ博士: 貴女が今経験されていることを矮小化するつもりはありません。ただ、私がここへ来る——
ナナミ ここ、なんて場所はありませんよ。
ケルズ博士: ——そのきっかけになった旅を始めた時、私もすべてを失ったとばかり感じていました。自分にとって大事だったものを、何もかも。それ以前にも、長い時間をかけて、大切なものが枯れてゆくのを見続けてきました。だから、正直に言えば、歩いて離れること、乗って離れることは、ある種の解放にも思えたのです。
ナナミ: いつだって解放ですよ。乗り続けている限りは。
ナナミはトンネルの天井を見上げる。その向こう側を透かし見るように。
ナナミ: そして、人類も。人類も、永遠に乗り続けます。
ケルズ博士:今の状況では少し信じがたい話ですが、いいアイデアです。
ナナミ: あと何度か、すべてを失えば分かるかもしれません。強かというものが、何なのか。
ケルズ博士: ランピーターも、もっと強かであればよかったのですが。
ナナミ: 本質的な部分では、ランピーターは残るのですよ。
ケルズ博士: 今の貴女には月並みに聞こえるかもしれませんし、お気を悪くしないでほしいのですが、私の旅にも理由があります。できれば最後まで見届けたいのです。これが私のすべてではないけれど、ほとんどそれに近いのです。
ナナミ: 質問があるのでしょう?どうぞ。私達の前には線路しかありませんし、それも昔から、話をするにはちょうど良い場所でしたから。
ケルズ博士: 管理マニュアルの件で来ているんです。
ナナミは笑う。
ナナミ: ずいぶんと自己言及的なご用事ですね。
ケルズ博士: どういう意味ですか?貴女は何を知っているのです?
ナナミ: 正直なところ、大して知りませんよ。仕事に必要な技術的な部分は読みました。それから、長年こっそり覗いた数ページなら。あとは基本的にそっとしておいています。
ケルズ博士: 多くの駅長は頻繁に参照していると聞いています。特にこんな辺境では。
ナナミ: それは彼らの裁量です。あれは、私のためのものではないと思っています。
ケルズ博士: 貴女のためではない?何かの間違いでなければ、あれは明らかに駅長に向けた文書ですよ。
ナナミ: 実務的な部分は、そうです。あれは私たちのもの。それ以外は、後世のためのものです。
ケルズ博士: 後世?貴女は一体、あれが何に見えてるんですか?
ナナミ: 航海の記録だと思っています。
ケルズ博士: どの航海の?
ナナミ: 特定のものではありません。私たちの航海です。
ナナミは空のトンネルを指し示す。
ナナミ: 私たち、みんなの。ランピーターの始まりから終わりまで。最初の草稿は荒い。まるで設計図のようなものです。機械的には正しくても、深みはない。けれど後の草稿は…運んでいきます。
ケルズ博士: ランピーターそのものと同じように。
ナナミ: 財団の管理者にしては、とても詩的な立場ですね。
ケルズ博士: この旅を始めてから、ずいぶん奇妙な立場に立たされてきたもので。
ナナミ: 最初の一歩を除けば、あとはすべて奇妙なものですよ、管理官。
ケルズ博士: まったく、同感です。
暗闇が徐々に灰色へと変わり、前方は病的な黄色に染まり始める。
ケルズ博士: では、運用マニュアルは人類の回想録でしょうか。
ナナミ 動き続ける私たちの意義。動的な感情。私はそう思っています。
ケルズ博士: では、誰が読むことを想定したものでしょうか。
ナナミ: 線路の終わりに辿り着いた、私たちかなのもしれません。あるいは、私たちのあとを継ぐ誰かかもしれません。
ケルズ博士: ネオンの神のためという可能性は。
ナナミ: 考えたことがありませんでした。
ケルズ博士: 私たちの放浪は、鋼にもくっつく接着剤を作るためだったのかもしれません。
二人は黙って考えている。前方と背後からかすかな物音が聞こえるが、判然としていない。
ケルズ博士: 私はすでに、何十人にも尋ねました。運用マニュアルとは何か、と。同じ答えを二度聞いたことがあると思いますか?
ナナミ: あなたは、どう思っているのでしょう。
沈黙。
ケルズ博士: 「はい」か「いいえ」では答えられない質問ですね。
ナナミ: では、あなたの答えが欲しいです。試してみてほしいものです。
ケルズ博士: いや、今のが答えです。マニュアルは、「はい」か「いいえ」では答えられないような質問なのです。問いのために出かける、その理由なのです。ある物とは、そのものが為すことです。そしてマニュアルがしたことは——
ケルズ博士はうなずく。
ケルズ博士: あれがしたことは、私をここへ連れてきたことです。
ナナミ それは良いことですか。
ケルズ博士: ええ。
二人はしばらく沈黙したまま歩く。ケルズ博士は鼻歌を歌い始める。
ケルズ博士: ええ、きっと良いことです。
二人は曲がり角を抜け、直線に出る。突然の光に、ケルズ博士は目を瞬かせる。
<ログ終了>
トンネルは人で一杯だった。
彼らは生きていた。すべてを経てもなお、生きていた。トンネルの歩道の上に立つ者。線路脇の支柱に身を寄せ、列車が通過するその数インチ隣にうずくまる者。あまりに近くを通った列車の跡が、皮膚に傷として刻まれている。見開かれた目、そして
ぼろぼろの衣服。
幾千人。
私たちは何マイルも歩いた。暗闇は瀝青のように暗く、死のように静かだった。ナナミと私がそうであったように、私たちは、ひとり、またひとりと互いを見つけていった。やがて、どこからが一つの身体で、どこからが別の身体なのか分からなくなるほどに。群れ。隊商。避難できる渚を探し求める、身を寄せ合った塊。
何かがトンネルの空気を押し出しているように感じられた。私たちの後を線路に沿って追ってくるもの、それがあるはずの気配が、圧迫的なまでに欠けていた。次の食事を待ち構えているのか。いや、待つというほどでもない。そこに期待などない。ただ、コンクリートの墓石の歯が軋み、無心に噛み砕くだけ。
だから、私は歌を歌った。
その歌を知っている者もいて、私と一緒に歌った。知らない者もいたが、サビが巡ってくるたびに覚え、声を重ねた。昼から夜への航海の歌。終わるものはあるけれど、歌えるかぎり、何ひとつ忘れられはしないのだという歌。
列車の歌を。
しばらくして、私は足取りが遅れ始めた。危険はすでに遠ざかっていた。少なくとも今この瞬間は、私たちの結びつきの強さに押し返されていた。伝播できぬ媒質中の。翻訳することの叶わぬコミュニケーション。だからそれは、自らの軸の上に留まり、周縁で蠢くだけであり、その距離のお陰で、辛うじて"生命を縁取る何か"の似姿には見えている。だが生命そのものではない。激昂しているが、不活性である。
やがて私は闇の中、再び完全にひとりになった。コンクリートの壁の中央に、赤い電球がひとつ弾けるように灯るのが見えた。その周囲にひびが走り、金属が巻きつき、プラスチックへと変貌し、それは淡く瞬く配線へと変じていく。捕食者が優しく暖かな明かりを灯す。餌が撒かれた。
私はその配線が明滅するのを見つめ、暗がりの中で目を細めた。光ファイバーか、私は思った。興味深い。トンネルを塞いでいる石板はアスベストだろうか。窓は二重ガラスかもしれない。いつか、ヌールの宇宙エレベーターで見たような、格子状の網へと変わるのだろうか。それも、気休めにはなる空想であった。
やがて配線はさらに枝分かれし、まだらな偽りの光が前方へと走っていく。そして壁に、私はこの言葉を見た。
生きている、と。
それを書いたのが誰であれ、問題ではないと私は悟った。どんな狂気を映していようと。
なぜなら、今日それが真実であるか、そうでなければ明日には真実になり得ると、私は知っていたからだ。
だから私は再び背を向け、歩き続けた。
以下のログは、ケルズ博士が宇宙X812の終着駅から帰還する際に発生したイベントの記録です。
<ログ開始>
難民たちが、老朽と放置で薄汚れた、薄暗い駅へと流れ込んでいく。線路上にはカートが並べられ、人々を側線、宇宙X820へ通じるランピーターの接続路へと運んでいる。あちこちに簡易ベッドや寝袋が広げられ、物資の山が隅々にまで積み上げられている。
ケルズ博士は、プラットフォームへと身体を引き上げ、そのまま床に倒れ込み、しばらく息を整える。
音声: サイモン?
ロージー・ハートルプール博士が、ケルズ博士の隣に膝をつき、覗き込んでいる。顔にははっきりとした心配の色が見られる。ケルズ博士は笑う。
ケルズ博士: 君だと思った。
ハートルプール博士はケルズ博士を起こして座らせ、その正面に膝をつく。
ハートルプール博士: こんなところで何をしてたの。そもそもどうして、線路に居るのよ?
ケルズ博士: 読書会をしようと思ってね。
ハートルプール博士: え?
ケルズ博士: 大したことじゃない。
ハートルプール博士は手早く身体を確認する。
ハートルプール博士: 怪我はなさそうね。
ケルズ博士: 至って健康体だぞ。なあ。
ケルズ博士はハートルプール博士の手を取る。
ハートルプール博士: 何?
ケルズ博士: 戻ってきたんだな。
ハートルプール博士: 当然。
ケルズ博士: あの向こうで何を見たんだ?報告書を書き終えたとして、私が出た後のことだろうからね。
ハートルプール博士は思案する。
ハートルプール博士: それも、大したことじゃ無いわ。そちらは?旅の途中で、何を見たの?
ケルズ博士: 色々と。ただ、価値があったのは、見たものじゃなくて聞いたことだと思う。
ハートルプール博士は首を振る。
ハートルプール博士: 言わなくても分かるでしょうけど、こんなところであなたと会うなんて思ってなかった。
ケルズ博士: 私も、自分自身を見つけるなんて思ってなかったな。
ケルズ博士は身体を起こす。ハートルプール博士は手を離す。
ハートルプール博士: 7005ファイルの、あなたの最終更新は読んだわ。私たちが何をしようと、結局は何の意味もないけど。
ケルズ博士: 連中にとってはな。評議会連中。ただ、奴らも大した意味は持ってない。
ハートルプール博士: ずいぶん過激な言い草ね。
ケルズ博士: 職業病かもな。
ケルズ博士はゆっくりと立ち上がり、周囲を見渡す。彼が連れて入ってきた難民の列は、それ以上増えてはいない。救援活動はほぼ大詰めである。明かりの下では、多くの者が憚らずに嗚咽を漏らしている。あるいは、ずっと泣いていたのだろう。荷物を抱えている者もいれば、バラの私物を腕いっぱいに抱える者もいる。同胞を背負い、支え合っている者もいる。会話はひそやかだ。だが、ところどころ、歌の断片が聞こえる。難民たちはその歌を、ひとりからひとりへ、少しずつ教え合っている。
ケルズ博士: 何か手伝えることはあるか?
ハートルプール博士: いいえ。ここはほぼ片付いたわ。あなたたちが最後の一団。信じられない、あなたと私が…まさか、私を追ってきたの?
ケルズ博士: 違う。多分、路線が引き合わせてくれたのだろう。
ハートルプール博士は、興味深そうに彼を見つめる。
ケルズ博士: マニュアルを調べたんだ、ロージー。
ハートルプール博士: それで?
ケルズ博士: 説明不能が、半端な仮説十数個に化けた、そんなところだ。だが、そいつらが本当かどうかは、もう大して重要じゃないと思っている。共通しているのはひとつだけだ。どの仮説も、ある意味で、ランピーターは生きている、と言っている。
ハートルプール博士: 生きている、ね。
ケルズ博士: そうだ。
ハートルプール博士: どんな意味で生きているの?
ケルズ博士: 好きな解釈を選べばいい。
ハートルプール博士はケルズ博士を見つめ、それから最後の難民たちと、その手当てをしているボランティアたちへと視線を移す。
ハートルプール博士: 他のどんな説よりも突飛ってわけでもないわね。…でも、その分余計に悲しい。
ケルズ博士: 何がだ?
ハートルプール博士: ランピーターが死につつあるということ。
ケルズ博士: 何だって死ぬ。
ハートルプール博士: だからって、惨めな死に方をすることはないでしょう。まだ、この何者かが何かを成し遂げる可能性はある。もっと別のものになる可能性がある。それなのに、私たちはただ浪費している。いったん消えたら、物語は終わりよ。
ケルズ博士: そうは思わない。もう思わなくなった。死は、何の意味もなくなる瞬間ではない。それがどれほどの意味を持っていたか、ようやくその規模が見える瞬間だ。
笑い声が聞こえる。管理官の二人は、その出所を知るために振り向く。ナナミが難民のひとりを抱きしめている。二人とも涙を流しているのが見える。
ケルズ博士: きっと、大丈夫だ。大丈夫でなくとも。
ハートルプール博士: それは、どうして?
ケルズ博士: 突き詰めて考えれば、ロージー、私たちの物語とランピーターの物語は、同じ結論を指していると思うんだ。
ケルズ博士は、少し気恥ずかしそうに肩をすくめる。
ケルズ博士: 物は、意味を持つ。
ハートルプール博士は、信じられないという顔で首を振る。
ハートルプール博士: 変な煙でも吸ったんじゃないでしょうね。
ケルズ博士: ああ、間違いなく。
ケルズ博士はジャケットの袖を払い、伸びをする。
ケルズ博士: そのうちマニュアルも最終版を出すだろうな。ネオンの神に飲み込まれた世界で、どんな姿をしているのか見てみたいものだ。
ハートルプール博士: きっと白紙よ。
ケルズ博士: いや、どうかな。むしろ、あれだけは何も変わってないという可能性もある。
ハートルプール博士: その本についてはずいぶんと神秘的な事ばかり言うのね、サイモン。
ケルズ博士: 良いじゃないか。本のほうだって、私のことをずいぶんと神秘的に扱ってくるんだから。
ハートルプール博士はため息をつく。
ハートルプール博士: もうやめたほうがいいのかも、って思うことはあるわ。でも、やめないのよね。
ケルズ博士: もちろんだ。私がボトルのどん底から這い出してくる間に、君はもう善行に励んでたみたいだからな。
ハートルプール博士: 誰かがやらなきゃいけなかったの。
ケルズ博士: 二人なら、もう少し楽かも知れない。
ハートルプール博士は首を傾け、ケルズ博士を見つめる。そして一瞬だけ彼の肩に手を置き、静かにうなずく。頭上の照明がちらつく。その場に集まった人々が一斉に顔を上げる。どの顔にも、深い不安が刻まれている。
決意に満ちていたハートルプール博士の表情が、やがてどこか苦い微笑へと変わった。
ケルズ博士: どうした? 何があった?
ハートルプール博士: どれだけ最善を尽くしても、なんの差も生み出せてないんじゃないかって、まだ考えてしまうのよ。
ケルズ博士: それは多分違うな。差は引き算から生まれる物だ。しかし最善を尽くすというなら、皆がそうするなら、それは人類の"和"だ。あらゆる人類の。あの空虚な量より悪くなりようがない。分数の下に置かれたゼロよりは。
ハートルプール博士はぼんやりとした様子でうなずく。
ハートルプール博士: ええ。でも、今はっきり分かっていることが一つあるとしたら、この忌々しいシステム全体が、いずれ転落するってことよ。私たちが進んでいるこの道の、避けようのない帰結。それは、確実なこと。
ケルズ博士: 橋が落ちようとも、列車は走り続ける。
ハートルプール博士: まあ、そう言いたいなら。
ケルズ博士: ああ、きっと落ちるだろう。でも、君が言ったことだ。
ケルズ博士は微笑む。
ケルズ博士: 言葉は残る。
沈黙。
ケルズ博士: 本部に通じる線はまだ動いているのか?
ハートルプール博士: 手持ちの資源で回せるだけはね。帰りたくなったの?
ケルズ博士: いや、そうでもない。
ハートルプール博士: まだ書類仕事を片付けなきゃいけないの。待っていてくれるのならね。
ケルズ博士: いや、先に行かせてもらおうかと思う。君が構わないなら。
ハートルプール博士: どうして?さっきあの灰色の黙示録から逃げてきたばかりじゃない。そんなに急いで行くところがあるの?
ケルズ博士: 列車の中、とある女性に口づけをしに。
ハートルプール博士: 何ですって?
ハートルプール博士は笑う。
ハートルプール博士: どうしてよ。
ケルズ博士: もし二度とここを通らないとしても。路線が終わろうと、我々が終わろうと。すべてが、どこもかしこも終わってしまおうと。たとえそれを証明する証拠が、ひとかけらも残らなかったとしても…少なくとも、自分自身の一部が、まだここにあると知っていられるから、かな。まだ、空中に宙吊りのままであることを。
<ログ終了>
ケルズ博士による最終報告:
生命の最も素晴らしい特徴は、他の生命を愛する力にある。だが最も、そしてはるかに奇妙なのは、生命が無生物を愛することができるという事実だ。私たちは、自分たちの作るものの中に自分自身を見出そうとする。他人が作ったものの中に、その人を見ようとする。錆の中に先人の姿を見、敷かれたばかりの鋼鉄の輝きの中に子どもたちの兆しを見る。
それは、生来備わっていた能力ではない。私たち全員が、ともに作り上げたものだ。心の中に、そのための場所を設けたのだ。そしてそこには、いまだ拡張の余地がある。
いま思い出した。あのチューブの模様は、鎖だった。結びつけるもの。繋ぐもの。幾年もの時を越えて、その鎖は、永遠に失われたと思っていた誰かと私を結びつけている。永遠に続くように思えた夏の日、陽光の中でそれを初めて見た少年と。死んで久しい少年と。その記憶は、あの線路の彼方で私を待っていた。失われた自分を繋ぐ、一枚のスナップショットのように。そして私はそれを手に取り、持ち帰ることができた。
もし私たちが立ち上がり、進む意思を持つのなら、他にどんなつながりを見出せるだろう。どんな連なりを鍛えることができるだろう。
いつの日か、ネオンの神でさえも、恐怖や狂熱や諦念ではなく、長い付き合いのもたらす明るく感傷的な光の中で見られるようになるのかもいれない。それが、あれを変えてしまうかもしれない。私たちの一部にするかもしれない。意味を与えるかもしれない。もしランピーターが死ねるのなら、ネオンの神は生きることができるのかもしれない。それこそが、絶望的なアノミーへと沈みゆくこの長い衰退からの、私たちの共通の糸口なのかもしれない。恐怖は、永遠の親密に抗うことができない。そして愛もまた、抗い続けることはできない。
おそらく違うだろう。だが、夢を見ることに害はない。何しろランピーターとは、具現化した夢そのものなのだから。
私はヌールの輝かしいエレベーターを思い、アンドロノヴァのうんざりさせる歩道を思う。そして今なら分かる。どの宇宙においても、何ひとつ悼まれずに死ぬものはないということを。たしかに偶像破壊とは刃だ。だが時は、あらゆる刃を鈍らせる。そして愛は?愛は刃の向きすら曲げてしまう。私たちを前へと押し進める、幾多の世界の中で回り続ける車輪を、廻すように。
サイト-01の評議会室を出た瞬間、私は自分がなぜこの人生を生きてきたのかを悟った。見てきたものも、失ってきたものも、その理由が分かった。何のために備えさてきたのかも。
私は、すべての終わりを目撃する者になるのだと。
私が話をした監督者は、多元宇宙が滅びる運命にあることを認めた。ランピーターは死ぬのだと。何もできない、あるいは何もすべきでないというわけではない。だが、確実に、何もなされはしないのだと。ネオンの神は実在し、そして勝つ運命にある。人類は精巧な冗談だった。私は粗末なオチに過ぎなかった。滑って、転んで、氷に骨を打ちつける。そんな出来の悪い五行戯詩のような存在だ。
そしてその翌日、私は気づいた。私は人生を通して、そのすべてを失う瞬間を待ち続けていたのだと。
錆には美がある。
失敗には意味がある。
しかし何よりも、あらゆる宇宙に共通する、もっとも単純で究極の事実がある。
停滞とは無である。
移行こそが全てである。
つねに、他の道は存在する。つねに、抜け道は存在する。
自分が"喪失"だと思っているものから、首を九十度傾けてみればいい。その第三の次元において、それが本当は何だったのかが見えるだろう。
変化だ。
線路を乗り継いできた者は知っている。少しの変化さえ支払えば、人はどこへでも行ける。
だから、乗るんだ。


