卜骨の断片#1953BJYXT⑨:2239 - #1953BJYXT⑨:2244卜辞抜粋:
紀元前1324年、木星は南東に現れ、太歳は火星に近づいた(私は災厄が起きることを恐れる)。問う:視肉(太歳たいさい)はどこに降りるか?害をなすか?太甲たいこうら十位の祖先よ、知恵を授け給え。
すでに視肉は降りたり、問う:それらが東に降りたならば、黄河の中流、下流で恐怖は起きるか?東夷とういの地に恐怖は起きるか?巫咸ふかんら十位の古の大巫だいふよ、知恵を授け給え。
紀元前1323年、莱らいの地(現在の山東省莱州半島)の蛮族の多くが怪物となり、徐の地(現在の江蘇北部)の蛮族と手を組み、徐と諸(現在の江蘇省徐州市と山東省諸城市、いずれも殷王朝の方国)に大いなる破壊をもたらした。問う:我らの力で治められるか?この災厄は、奄えんの都や亳はくの都(現在の山東省曲阜市および河南省商丘市、殷王朝の首都および副首都)に及ぶか?伊尹いいん、太甲ら先賢よ指示を求む。
視肉がまた、人方(敵対的な方国の国名,現在の山東省沂河流域)に現れた、基方(敵対的な方国の国名,現在の山東省西部)一帯に肉が降りると、蘇国、唐国(方国、現在の河北省邢台市と山西省太原市)からの使者が宮中に助けを求めに来た。恐怖は我らの街にも起こるか?求む……
紀元前1322年、九頭の幽鬼の車、奇怪な鳥が基方から都まで飛び来たり!問う:陛下は基方に親征される。行き帰りの途上に災厄はあるか?太乙たいいつら十二位の祖先、先賢よ、指示を求む。
青銅の鼎#1962BJYXZ⑤:369-6銘文:
周の懿王いおうが即位して23年(紀元前900年)9月、陛下は洛陽らくようの外で大規模な狩りを行われ、いくつかの奇妙なものを見つけられた。大きなものは猪の成獣ほど、小さなものは皿(茶皿ほどの大きさの青銅皿)で、革のようにしなやかで、ゲルのように柔らかなものだった。陛下はそれが何かわからなかったので、多くの知識を持つ者に聞いた。
皇室の厨房と従者を束ねる克は答えて言った。「太歳は空を巡り、その軌道は木星の対極にあります。その投影としてこのようなものが作り出されるのかもしれないので、これらも太歳と呼ばれ、霊芝れいしのように見えます。大禹だいうはかつて言いました"太歳は神や精霊が様々な形で作り出したもの、それに触れるものは長命を得ることもあれば、命を縮めることもある。"殷の人々はこれを視肉と呼び、これを食べれば永遠に生きれると言う人がおり、それに騙された人がこれを食べようとして無残に死に、多くの人が怪物になってしまったそうです。殷の武帝の時代、東夷の地で大いに乱が起こったのは、このような経緯があったと言います。」
文官も武官も大きく動揺し、早急に滅ぼすことを求めた。克は制止して言った。「太歳は水の中でも溺れず、火の中でも燃えません。また切りつけてもすぐに回復し、刻めば分裂します。(収容措置):最も良い風水の地を占いだす必要があります。ベリリウム青銅でそれをしっかりと包み、外側をさらに石灰と炭の泥で覆った後、10フィートほどの深さに掘り、地下水が見えたら、この箱を埋めます。何十世代にも渡って問題は起こらないことが保証されます。」陛下は克の提案に従い、そのようにするように命ぜられた。
今、克がこの礼器を鋳造した。太歳を収容する方法を次世代に引き継ぎ、子孫に伝えるために。後世の人々の健康と長寿を祈る。万事意の如く、万寿限り無く。克の子々孫々はこれを大事にしなくてはならない。
帛書#1952HNCSM2②:67:
伝説によると、古代には伏羲ふぎという偉大な神がいた。華胥かしょ(氏族名/地名またはある種の超次元領域の象徴と思われる)出身で、雷夏澤らいかたく(おそらく創造前の無限の深淵を指している)に住み、深淵で魚(魚は何らかのエネルギー体の象徴と思われる)を採って暮らしていた。そして偶然、女希じょきと名乗る大神と出会った。そのころ、宇宙は広大で目に見えず、曖昧であらゆるものの区別がつかなかった。その広漠にエネルギーは洪水のように広がり、蠢いて森のように隆起し、風も雨もなかった。
そこで伏羲は女希、その称号は女媧聖皇を娶り、彼らは4体の神々(四聖獣)を生んだ。彼らは天地を開き、すべてのものを育てた。これが天地の始まりであり、混沌が生まれた。
二柱の大神は戦い、四神は父たる伏羲を、六つの獣は母たる女媧を助けた。世界のあらゆる生あるものは、機械の体であろうと、生身であろうと、歩くことができ、動くことができるものは全ていずれかを選び、互いに争った。時間の単位はなく、この戦いがどれくらい長く戦われたのかわからず、距離の概念もなく、この混沌がどこまで広がっているのかわからなかった。宇宙は滅亡に瀕したが、ついに伏羲は女媧を世界の外に追放した。そこが太歳の門であり、彼自身も免れることができなかった(女媧の檻となった)。四神は天に昇り星となり、六つの獣は地に潜み眠り、苦しんだ者たちはついに休むことができた。
四神については、最も古きものは青龍、次は朱雀、次は白虎、最も若いものは玄武と呼ばれた。それらが星へと変わってから幾千年が経ち、古き神の帝俊ていしゅんが太陽と月を生んだ。その頃の九州は起伏が激しく、山々と川は片方へと寄っていた。そこで四神は天穹の上に来て、空を北極星の周りに回し、五星の精華を精錬し、天蓋を支える青、赤、黄、白、黒の五本の柱を建てた。そして、大地の皇である神農しんのうは、炎の神である祝融しゅくゆうに命じ、四神に太陽と月の軌道を三つ空に固定してもらうよう頼ませた。天穹は大地の四箇所で固定され、同時に東、南、西、北の四つの方向が定まった。(祝融の)崇拝者曰く、天の神々を失望させることなかれ。そして帝俊は太陽と月に命じ、決まった軌道で走るようにした。
幾世代もの時が流れ、大禹が世界を統べた。地は全て彼の手に委ねられた。彼は九州を測量するために人を送り、天の巡りを測り、幾度も天地の間を行き来した。九州の山々は土砂により塞がれ、洪水を起こしていたので、禹は山々と、川、湖、池を歩き回り、山々と四海の間の陰陽の気に命じて土砂をさらわせた。その頃は、日付という概念もなく、天と地の時の流れを測る基準もなかったので、禹は青龍、白虎、朱雀、玄武の星座を見て、それが一巡する時間を一年とし、その移動の軌跡によって春分、夏至、秋分、冬至を分けた。
女媧が生み出した六つの獣のうち、最も古いものは共工きょうこうと呼ばれた。夏王朝の末期に、共工は再び目覚め、帝俊と世界の支配をめぐり争った。帝俊とその妻羲和ぎわはその子である十の太陽を一度に出現させた。太陽の光は地を焦がし、川や湖は干上がった。共工は太歳の破片を集め、怪物を作り、相柳そうりゅう、九嬰きゅうえいらの神魔を率い、風を興し波を作った。異臭と汚泥と汚濁に満ちた波があらゆるところを覆った。春夏秋冬四季は乱れ、天上の四神も安寧を得られなかった。大地は曲がり、四方は乱れ、神々は風雨を呼び、人々は散り散りに逃げた。深淵と炎の海があらゆるところにあり、昼夜の切り替わりも乱れた。千の花が一日に咲き乱れ、夜の空は暗く、一つの星も見えなかった。そこで夏の王の桀けつは伏羲に伝えられた技術を用いて高い台を建て、軒轅黄帝けんえんこうていより受け継がれた弑神の剣を立てた。十の剣は合わせて放たれ、時空は逆転し、山は転覆し、大地は沈んだ、(現実が激しく再構築された)。夏の文化と氏族はもはや存在しないことになった。
古代、十人の大巫がいた。その名を巫咸ふかん、巫即ふそく、巫盼ふはん、巫彭ふほう、巫姑ふきつ、巫真ふしん(貞)、巫礼ふれい、巫抵ふてい、巫謝ふしゃ、巫羅ふらという。彼女らは自らを伏羲の眷属あるいは子孫と称し、金属を身に着け、鉱物で作られた服を着て、奇怪な車輪のついた乗り物に乗っていた。嚳高辛帝こくこうしんていの時代、窫窳あつゆと呼ばれる怪物が現れ、獣の群れを率いて人々を食い荒らし、人民は安寧を得られなかった。十人の大巫は弐負臣じふしんという名の機甲を鋳造し、弐負臣を駆り窫窳を討伐した。獣たちは散り散りに逃げ、災厄は静まった。四人の大巫は各地を鎮めるため天下を巡り、六人の大巫は窫窳の死体に不死の薬を用いて様々な実験を行った。数年後、窫窳の死骸は長い頭、人間の顔と馬の脚を持った奇妙な獣となり逃げていき、宝石のような輝きの球体が残された。巫彭は黒い鴉のような姿になり、宝珠を簡狄かんてき(嚳の側室)の側に置いた。簡狄は(鳥の卵だと思い)それを取り飲み込み、実際に妊娠し、後に男児を産んだ。その名を契せつという(このことを踏まえると、契は嚳の子ではない可能性が高い)。
契卨から十四代の子孫に湯とうという者がおり、その頃ちょうど夏王朝が破壊された災害が起こった。幸運なことに、巫らが彼を密かに保護し、湯は救われた。十巫は隠退する前に、伊尹と仲虺ちゅうきという二人の人物に湯を補佐させた。伊尹は実は以前に巫真が作った調理機械人であり、仲虺は女媧の子孫であった。伊尹と仲虺は湯が才能ある者たちを集め、人心を掴み、九州の乱を平定し、商王朝を建てることを助けた。
《越絶書·外伝·紀策考第七》隋代写本抜粋:
その頃、呉ごの王、闔廬こうりょは伍子胥ご・ししょに会ったばかりだった(そして彼はその補佐により王となった)。闔廬は伍子胥に高い能力を持つものとして敬意を持っていたので、最高の相談役としていた。闔廬は伍子胥に尋ねて言った。「賢者は千年の歴史を知り、未来の世界の発展を予見できたという。今日は国について深く議論したい。世界が混沌とする中、呉は滅亡を免れることができるであろうか?具体的な考えをお聞かせ願いたい。今日は虚心に、意見を聞きたい。」
伍子胥は曖昧に、言を左右にし、はっきりと答えなかった。
呉の王は言った。「はっきりと答えていただきたい。」
伍子胥は言った。「答えははっきりとはしていない。気に召さないであろう。」
呉の王は言った。「言っていただきたい。あなたのような傑出した人物の意見を今日は聞きに来た。慈悲深いものは安らぎと愉悦を感じ、賢者は泰然自若とする。これらは誠意があるからである。礼節を持って自らを律する者こそ、隠され、複雑な物事を見通すことができる。この寡人かじんに言ってくれ。」
伍子胥は言った。「伝えることは難しい!国の命運は長く続かないのではないかと思って、陛下は国を治めるために奔走されてきた。国が在るときに腐敗の可能性があることを忘れず、安全なときに危険があることを忘れないようにしなくてはならない。私がはじめて呉国に来たときには、衰退の兆候は見られず、山と湖の間の呉の地(現在の長江の三角州地帯に相当する)を統べることができると思った。しかし古代より永遠に生きる王はなく、陛下の百年の後、後継者が知恵と警戒心を持ち続けなければ、楚そや越えつの手に落ちることもある。」
呉の王は問うた。「なぜそのように言うのか?」
伍子胥は言った。「陛下は近来の楚での出来事をご存知であろうか?楚の霊王れいおうは佞臣の甘言に耳を傾け、太歳の肉を食べ、半人半獣の怪物となり、ただ座り死を待つことしかできなかった。奸佞の臣は程なく朝廷を掌握し、このように、霊王の後代は徳を失い道を誤るだろう。安全と危険の兆しを見ようと空へ目を向けると、すでに星々が兆しを示している。虹霓こうげいは牛宿ぎゅうしゅくを囲み、女宿じょしゅくはそれから離れた。黄の精は昇り、青黒の精は下がった。今は太歳の周期八年目、壬子じんしの数は九になると推算される。この時期に若し太歳の精に触れて死んだ死者があれば、自然の法則は働かなくなる事がある。一旦太歳の精に触れれば、ああ危険である!
楚の霊王の王子は太歳が頭に接触した状態で死んだので、太歳の精に再び触れることとなり、奇怪な物と化して、十日ほどの間に幾度も変異し、恐ろしい怪物となり、梼杌とうこつと呼ばれた。楚の王三代に渡り、楚の国は乱れ、国の誰もそれを抑えることはできなかった。南は百濮族コーラオぞくの領地(現在の雲貴高原から湖南省西部一帯)、東は彭蠡ほうれい澤(彭蠡は古代の湖で、主として現在の洞庭湖北部となる)、何千里にも渡り人はいず、鶏の鳴く声も聞こえなかった。楚の昭王しょうおうは即位した後、刀匠である風胡子ふうこしに呉に行き、欧冶子おうじしとその弟子干将かんしょうに会うように命じた。欧冶子と干将は険しい山を掘り、地下の川を排水し、伝説の英鉄を掘り出し、三本の鉄剣を鍛えた。一つは龍淵りゅうえん、二つは泰阿たいあ、三つは工布こうふ。刀身の光は咲いたばかりの芙蓉花の如く明るく見え、刀身の紋様は天上の星の光の如く輝き、刀身の放つ光輝は天上の太陽や月の如く眩しく、刃は南斗星の上で磨かれたかの如く鋭く、鞘の装飾は満天の星を宿した着物を着たかのようであった。
普しんと鄭ていの両国は、このことを聞き、楚に三本の剣を求めたが、楚の王は渡さなかった。そこで、普と鄭と梼杌は共に楚を攻め、楚の都を包囲した。普の軍は都の北に、鄭の軍は都の西に、梼杌は獣の群れを率いて東と南にあった。彼らは三年の間楚の都を包囲し、楚の倉庫にある食料は尽き、武器庫の武器も鎧も不足した。楚の王の信頼する側近も、臣下も、誰一人敵を打ち破る策を思いつけなかった。最後に楚の王は風胡子の提案を聞き、宝剣泰阿を持って城壁に登り、敵に向かってそれを振った(泰阿が大規模な現実歪曲効果を生んだと推測される)。都の三方の大群は突然敗北し後退し、兵士は取り乱し、死者の鮮血は千里に絶えず、猛る獣たちは恐慌した。長江の流れも荒れ狂い、普と鄭の全軍の兵士の髪は一度に白くなり、続いて梼杌の長い毛も光を失った。楚の王はとても喜び、また宝剣工布を振り上げると、凶暴な獣の角が空気の波で折り断たれた。巨大な獣は恐怖して逃げ、獣たちは泣き叫び、死体ががあらゆるところに転がり、残った無傷のものは四散し逃げ去り、長江の水は全て赤く染まった。楚の昭王はまた宝剣龍淵を掲げ、梼杌に投げその頭を貫き、怪物を殺し、楚の国の災厄はようやく収まった。
今ではもう欧冶子は世を去り、干将ももういない。楚の国は強大になり我らの傍にあり、他の誰がそれに対することができるであろうか?そして呉と越は同じ文化を持ち、地形が似た隣国である。西北に長江があり、東方には大海があり、まるで同じ建物の中で、扉を向かい合わせて住んでいるようで、それでいて互いを憎んでいる。これこそが私の心配事である。遅かれ早かれ、越は我ら呉を脅かすだろう。そして越には山の神の庇護があり、我々が周囲と友好を保つことを更に難しくしている。今のところは、楚と友好な外交関係を保ち、まずは越を攻略する。楚の昭王が傲慢ゆえに徳を失うまで待ち、すると三本の神剣は自然と彼を見捨て去るので、その時楚を攻めることができる。楚と越の両国を平定してのみ、呉の長久を保証することができる。陛下には心の平安を保っていただき、このことを他に話さないようにしていただきたい。」
石碑#1964SNHZM2③:25銘文:
原文は以下:
天星隱諸懺,鼗鼓起髣髴。㈠㈡
天星諸々の悔いを隠し、振鼓髣髴と弾む。
朽壤積層痂,鹿臺奄一寤。㈢㈣
朽ちた土と痂は積み層なり、鹿台一寝を覆う。
玉衣泣熾脂,帝幟頽粉蠹。
玉衣は泣き脂を燃やし、帝の旗は倒れ崩れ、虫が食う。
雲淖弄龍屍,無垠結黑墓。
雲と沼は龍の屍を作り、無限に黒い墓を結ぶ。
血腥崑崙北,相柳橫九土。㈤
血生臭い臭いが崑崙の北にあり、相柳は九土に横たわる。
長蛆自蛇盤,穢風釀枯霧。
長い蛆はとぐろを巻き、穢れた風が枯れた霧を醸す。
高歌語漸疏,狂哮悲如怒。
高らかな歌の言葉も次第に疎らとなり、狂い悲しみの叫びは怒りのようだ。
鉛華泉已涸,孰人洗我骨。㈥
鉛華の泉は涸れてしまい、誰が私の骨を洗うのか。
形軀半腐臠,靑狸啖啞兔。
現れた体は半分腐った肉であり、青い狸は唖の兎を食う。
以下、注釈:
㈠『鼗鼓』:振鼓ふりつづみ。『書経・益稷』:“下管鼗鼓合止柷敔。” 蒲松龄『聊斎志異·鴿異』:“小者上下飞鸣,时集其顶,翼翩翩如燕子落蒲叶上,声细碎,类鼗鼓;大者伸颈不敢动。”
㈡『髣髴』:漠然と、曖昧に。『楚辞·遠遊』:“时髣髴以遥见兮,精皎皎以往来。” 陶潜『桃花源记』:“山有小口,髣髴若有光。”
㈢『朽壤』:腐った土。『春秋左氏伝·成公五年』:“山有朽壤而崩。”
㈣『鹿台』から『玉衣』の句:『史記・殷本紀』:“甲子の日、紂王の軍は負けた。紂王は走って入り、鹿台に登り、宝玉の衣を着て、火の中で死んだ。”
㈤『血腥』から『九土』の句:『山海経せんがいきょう・大荒北経』:“共工の臣下であり、名を相繇そうようという。九つの首と蛇の体を持ち、とぐろを巻き、九つの地を食べ尽くした。その行くところは沢となり、その水は辛くないが苦く、あらゆる獣は住むことができなくなった。禹は洪水を塞ぎ、相繇を殺したが、その血は臭く、その地は作物が育たなくなった。その地は水が多く、人が住めなくなった。禹はその地の土を取り、山間を塞ぎ、土が取られたところは池となった。群帝はこの池の畔に台を作った。この地は崑崙の北である。”
㈥『鉛華』の句:李賀り・が『瑶華楽ようからく』:鉛華の水君の骨を洗い、君に与り相対し真質を作る。
《邵氏聞見録》第十巻抜粋:
宋そうの神宗しんそうの元豊六年(1083年)2月20日、西夏の丞相の梁乙埋りょう・おつまいは自ら何十万もの大軍を率いて蘭州らんしゅうを攻めた。城主の李浩り・こうは城門を死守せよと命令し、副将軍の王文郁おう・ぶんいくは市外に出て反撃するように命令を求めた。
李浩は言った。「城内の騎馬兵は六百に満たず、全軍も五千に満たないというのに、積極的に討って出る余力があるのか?」
王文郁は言った。「敵は多く我々は少ない、その攻勢を挫く必要がある。街の人々の人心を落ち着かせれば、その後、守りを保つことが可能である。これはまさに張遼ちょう・りょう(少数で多数に勝った)が合肥ごうひを守った方法である。そのうえ総大将李憲り・けんの武器庫は城中にあり、その内部の神兵利器の攻撃に敵う敵はいない。”
臣の閻仁武えん・じんぶは言った。「今、李憲は川や平原を遠く離れたところで指揮をとっている。秘密の鍵として作られた統帥印もない。誰が開けることができるのか?また我々は朝廷の指示に従うべきである。ただ守ることのみ許され、出て戦うことは許されていない。あなたが門を開けて反撃に出るならば、私は朝廷に弾劾を上奏する。」
王文郁は言った「今は兵士たちが敵を倒すために出ていくように導きたい。誰もが何千もの敵軍に囲まれ、死は免れない状況である。その上に弾劾を恐れなくてはならないとは!それに、蘭州を守ることは難しいかもしれないが、外に出て反撃することには一筋の光明がある。」彼は再び戦うことを主張したが、李浩は許可しなかった。
その晩、黒い服と傘をかぶった老人が王文郁に会いに来た。左右の側近を下がらせ、部屋の奥で彼に対応した。驚いたことに、それは潞国公ろこくこうの文彦博ぶん・げんはく大人たいじんだった。文彦博は言った。「私は敵軍と戦うために来た。」(当時、文彦博は異学会の首脳であり、多数の異常な物品を身に着けていたため、包囲下にある蘭州に騒ぎを起こさず入ることができたのは当然である。)
文彦博は王文郁を立ち上がらせ、直接蘭州の府へ連れていき、李浩を解任したことを公に発表し、王文郁を蘭州の軍政両面の責任者とした。当時、文彦博は宋の顧問団の長であり、国防の長でもあったことから、李浩を蘭州府の長から解任し、戦いが終わってから神宗に事後承諾を取り付けることは問題なかった。街中の誰も彼に逆らおうとはしなかった。
文彦博は号砲を鳴らし、夜空を号令の花火が照らした。一時間と経たずに府の建物の前に百人以上の決死隊の男たちが集まってきた。皆黒い絹の服を着て、胸には五弁の梅の紋章が刺繍されており、全員が中華異学会の構成員であった。また、王文郁は自衛軍からも六百人以上の精鋭を集めてきた。その後、文彦博は異学会の印章を持って地下の四つの武器庫を開け、異学会の構成員には洗練された武器を、精鋭たちには操作が簡便な武器を配った。
その日の深夜、王文郁は七百人以上の決死隊を率いて、夜闇に紛れて縄を壁から降ろし、「武経総要ぶけいそうよう」にも記載されていない多数の武器を使用し、敵に奇襲を仕掛けた。街の外ではあちこちで炎が燃え、黒い夜空を昼のように照らした。西夏の軍は大いに動揺し崩壊し、黄河を北に渡って逃げようとし、互いに踏みつけ合い、数え切れないほどの人々が溺死した。蘭州の軍は数十里に渡って追撃し、蘭州は守られた。その時、多くの人々が王文郁を唐の高名な将軍、尉遅敬徳うっちけいとくになぞらえた。その夜、金色の機械傀儡が戦場の空を飛んだのを見たという人もいるが、それはただの逸話とされ、信じられはしなかった。(この金色の機械傀儡と伝えられるものは、壊れた神の教会に関連する巨大機甲であり、おそらく盘甲パンジアと魚鳧ぎょふが秦の始皇帝のために設計製作した十二体の金人の一体、もしくは漢の武帝の時代に東方朔とうほう・さくが設計した「金銅仙人」であると推測される。)
3月1日、皇帝は正式に李浩の後任として、熙き、河か、蘭らん、会かいの軍区の副将軍の王文郁を准将から少将兼蘭州の長とした。これは、王文郁が西夏軍を撃破したことを評価したものである。
翌年(1084年)、西夏の梁皇后りょうこうごうは全国十二軍区から軍勢を集めた。その数は八十万人を数え、太陽を覆う暗雲のように広大で、彼らの巻き起こす土煙は空を曇らせ、その軍列は何百里にも伸びた。当時、蘭州には西北軍の総将軍李憲が鎮座しており、様々な高度な機械を用いて防衛軍を指揮していた(李憲は宦官であったが)。彼は唐の初期の名将、衛国公李靖の子孫だと自称した。彼が街を守るために使用した奇妙な武器は、衛国公の一族に密かに伝わったものだったと考えられる。敵は蘭州を十日間包囲し、激しい戦いが行われた場所では、死体は互いの上に積み重なり、それらは全て市壁の最上部まで高くなり、彼らは仲間の死体を踏みつけて街を攻撃したが、兵糧が底をついても、まだそれを陥落させることはできず、撤退した。終戦後、市壁の下の死体を数えると、形の揃ったものだけで五万以上あった。驚いたことに、その二から三割は妖魔鬼怪であった。当時私は開封から遠くにいて、この話を聞いて大いに恐れた。その怪物たちと正面から戦った西北軍の将兵たちについては、言うまでもないことではないだろうか?
手紙#1909IMHSCT①:28-7内容:
媧皇会かこうかい 鵸鵌きよ(大祭司) 大夏太后梁氏、親開のこと:
この手紙を読んでください、今や、私の子の神宗趙頊しんそうちょうきょくは死にました。その後すぐに、王安石おう・あんせきも死にました。司馬光し・ばこうは耄碌した老害で、文彦博、あの老人は衰え耄碌し、李憲、王中正おう・ちゅうせい、石得一せき・とくいち、宋の重臣たちは死に宦官たちも追放されました。残りの行政院、国防部、監察院、紀検委など主要部門は掌握し、全て我々の教派のものです。ですから今は私が権力を独占しています!西夏を守った西北軍はもう存在せず、異学会と新党も散り散りになり、龐籍ほう・せき、富弼ふ・ひつらの集団、不遜にも私に楯突くいわゆる「西京九老」は殆どが死にました。異学会の死士組織「闇香社」はどこに行ったのでしょうか?
これは千載一遇の大きな機会であり、大龍女媧降臨の日がついに来たのです!
米脂べいし、義合ぎごう、浮圖ふと、葭芦かろ、呉堡ごほ、安疆あんきょうの六つの要塞は、名目上は両国の講和のために貴国へと返還されましたが、実際上の理由はこれら六つの要塞は太歳の収容施設を持っているからです。妹よ、あなたの信頼する手練れを送り、分かれる前に各要塞に行き太歳を取り出し、興慶こうけいの府中に集めなさい。その後、賀蘭山がらんさん由来の我らの教えの遺物を使い、霊武れいぶにて黄河の水を喚び、数万の生物の生き血を集め、あなたの息子の李乾順り・かんじゅん(西夏皇帝)の肉体を、我らの至高無上の女媧聖皇と十二位の太歳神明に捧げるのです。このようにすれば、古き獣、相柳を復活させることができます。それまでに、私も澶州せんしゅうと孟津もうしで数万の牛の生き血で聖皇と十二位の太歳神を讃えます。私の孫(北宋皇帝)趙煦ちょう・くの血肉を生贄とし、古の獣九嬰を目覚めさせ、合わせて黄河中の龍馬怪獣を召喚します。
我々が相柳と九嬰を従えることができれば、偉大なる共工神霊を呼び覚まし、長江と黄河は反乱し、九州の大地を席巻し、数十億の命の血を生贄とし、太歳の門を開き、大いなる真鍮の檻の間隙を引き裂き、そこから至高無上の聖皇は必ず再臨されるでしょう。
聖皇がこの世に帰られる日には、神々は皆食料となるのです!
媧皇会 狍鸮ほうきょう(首席大祭司) 宋太皇太后高氏