クレジット
タイトル: SCP-F331(更新済み)
著者: ©︎
kskhorn
作成年: 2020
「うーん、とりあえず却下だなぁ……。」
嫌に間延びをした声が返ってきた。予想通りと言えば予想通りだが、予想していたからと言って腹を立てずにいられるかと言えばそんなわけでもない。
「メールの改稿案は見たよ。とはいえ、今のままで全然構わないと思うんだけど……こんな大仰にすることあるか?」
やめてくれ。そんな声を出すな。そんな猫撫で声を俺に聞かせるな。いやしくもそのイスにケツを乗せておいて『とりあえず』なんて言葉を吐くな。
「……どうした?筋肉が強張ってるぞ。」
殴りかかりたくなる気持ちを必死に胸中に押し込む。分かっていただろう、予想していたことだろう、と己に繰り返す。
「あぁ、いや。その。最近デスクワークが多かったからだろうな。顔まで凝り固まってるのかもしれん。」
「ハハハ、そうか。なんだか最近やたらと頑張っているようだからね!無理は良くないぞ。」
「まぁ……えぇ、はい。ありがとうございます、ワン。」
額と握った拳の中とに、粘ついた汗が染み出てくるのを感じる。この男のこんな顔は半年前までついぞ見ることはなかった。不自然に長い沈黙が流れたように感じたのは私のほうだけだったろうか。足元からワンの飼い犬のハスキー犬の寝息だけが聞こえた。
「で、だ。繰り返しになるが、実際そんなに拘るくらい報告書の差し替えが必要かね?現行版でも十分じゃないか?必要最低限は十分まとまっていると思うが。」
ワンのやつがこんな声色を使うようになって早3ヶ月といったところだろうか。流石にいい加減慣れてきたが、1か月くらい前までは日々の業務の緊張感との落差で、急に話しかけられると驚きと眩暈に襲われたものだ。
まったく舐めた話だ。何が最低限だ。何が必要十分だ。
ワンのデスクに目を落とす。そこには、飲み会の案内でももう少しボリュームのありそうなペラ紙が置かれている……。
アイテム番号: SCP-F331
オブジェクトクラス: Enochian
特別収容プロトコル: N/A
説明: SCP-F331は2020年の9月までのどこかの時点で発生した異常現象です。SCP-F331は、詳細不明ですが人類の精神状態を劇的に改善しました。本報告書は記録のためにのみ作成され、保管されます。
赦されるのであれば、今すぐこの印刷された報告書のような何かを、視界の端のシュレッダーに差し込んでやりたい。こんなものは報告書などというに値しない。印刷しないほうが紙資源の節約と地球環境に貢献する分幾層倍もマシだろう。これならそこらのDクラスを捕まえて、見たことのないオブジェクトの説明を書けと言った方がもう少しまともなものを出す。
「とはいえ、この現行版になってからSCP-F331の報告書は2ヶ月以上追記も更新もないですから。いくらなんでもちょっと違和感がありませんか?旧版ではAKクラスシナリオが進行中と書いていたオブジェクトの報告書が、何もなしで長期間放置というのも。」
「そうか?変わりないなら別段いいじゃないか。なんだかんだ言っても、世界はなんとかなったわけだろう。ここひと月もいろいろトラブルはあったが、最終的には平穏無事で済んでいるじゃないか。」
誰のおかげだと思ってやがる
顔が急激に熱くなるのを感じる。血が上るとはこういうことなんだ、と冷静な頭のどこかが叫んでいる。今のは危なかった。本気でワンに殴りかかるところだった。再度胸の奥で繰り返す。『分かっていただろう、予想していただろう』と。
「……まぁ、まぁそれはそうでしょうが、財団としては報告書の管理体制もしっかりしておかないといけませんから。先例に則ればそろそろ改稿しておいたほうがいいかなと。」
『先例に則って』。嫌な言葉だが、こんなことになると存外便利なものだ。考えの足りないやつらを騙くらかす方便としては一級品だろう。意外性、非日常、特殊ケースの万魔殿たる財団で前例を頼みにするなどとは。
「ふむ、それもそうか。ではひとまず評決にかけるとしよう。私に送ってくれたメールを評議会全員に転送してもらえるかね。今日中に送ってもらえれば明日にも決は出ることだろう。」
「すまないワン、君から発議してもらえると助かる。そのようにしておくよ。」
「なに、気にするな。私はここのところ調子がいいからね。それよりも……君こそ大丈夫か?たかだか報告書の改稿、O5がわざわざ出張らんでもいいんだぞ?」
「あー。その、SCP-F331の件は私が管轄してましたから。思い入れというと変かもしれませんが。」
「そうか。それなら構わないが。よろしく頼むぞ。」
「えぇ。ワン、また明日。」
人の気も知らないで。
O5評議会簡易決議記録
議題:
“SCP-F331報告書を改稿案に更新する” (O5-01)
評議会投票概要:
是 |
否 |
棄権 |
O5-01 |
O5-02 |
|
O5-03 |
O5-04 |
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O5-05 |
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O5-06 |
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O5-07 |
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O5-08 |
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O5-09 |
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O5-10 |
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O5-11 |
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O5-12 |
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O5-13 |
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その日もワンは自室にいた。突然の闖入者にも、彼のハスキーは相変わらず床の上で眠りこけている。
「ワン。ちょっといいか?」
「おお、スリー。今日も精が出るな。」
努めて平静を保つ。荒立てても利はない。
「昨日の……評決の件。発議してくれてありがとう。助かったよ。」
「気にするな。O5の席を共に占める者同士だ。結果については、うむ、まぁこういうこともあるさ。」
「ああ、そうだな。……それで、その、それについてもう一つ話しておくことがあって。」
せめて、これくらいは通さねばならない。私の責務として。財団の責任者として。私の下で、歯噛みしながら耐える職員のために。
「昨日の件か?随分と頑張るもんだねぇ。まぁまぁ、何かあったか?」
「SCP-F331の報告書を旧版と併記することにしたよ。改稿でも差戻でもないから評決は無用だと思うが、昨日相談した手前伝えておくべきだと思ってな。」
「旧版と一緒にしておけば一覧性が改善するし、インシデント発生の流れを知りたい者にもいいだろう?」
あらかじめ練っておいた台詞を矢継ぎ早に放つ。なんでこんなアホらしいことを説得しなけりゃならんのだ。言えば言うほど情けなくなる。ワンは考えているんだかなんだか分からない様子で唸っている。
「それに……。ほら、あれだ。映画とかの『設定資料集』みたいなもんさ。そういうのが分かれば読んでる方も、……『面白い』だろう?」
そういった瞬間ワンの顔がほころんだ。
「それもそうだな!その気持ちは分かるぞ。若いころはポスターやらパンフレットやら私も買い集めたものだよ。スターウォーズやらマーベルの世界観を延々と考察しているようなファンなんか、見ていて好ましいじゃないか!」
虫酸が走る。
そこからもワンはさも楽し気に1分ほど語っていたが、なんと返事したか覚えていない。
こんなことを言いたくはなかった。こんなことで説得されないでほしかった。「冗談も休み休み言え」と一喝してほしかった。何もかもがどうでもよかった。私が積み上げてきたすべてが、面白いとか楽しいとか、そんなことで判断されるような仕事に堕したことが、ただ情けなく、またどうしようもなく惨めだった。
気づけば私は自室の端末の前に座っていた。兎も角もやらねばならない。そのために下げたくもない頭を下げたのだから。
通 達
以下は旧版の文書であり、記録及び将来的な研究資料として資することを目的として公開しています。
最新の情報及び疑問点がある際は研究チームへ直接照会してください。
— SCP-F331研究チーム
アイテム番号: F331
クリアランスLv3: Confidential
収容クラス: Keter
撹乱クラス: 5/Amida
リスククラス: 4/Danger
特別収容プロトコル: SCP-F331は2020年10月1日現在世界人口の大多数に影響を及ぼしており、財団の活動はその収容よりも社会的混乱の収束と、SCP-F331-2個体のスクリーニング並びに保護にその重点が置かれています。この目的のためSCP-F331研究チームは、当面その起源と「対抗因子」の特定に注力してください。また機動部隊ガンマ-5 ("燻製ニシンの虚偽")は、O5-03の監督の下全世界におけるSCP-F331による混乱の鎮静とSCP-F331-2の保護のための作戦を統括します。その具体的行動を実行に移すため、現在財団各支部のSCP-F331-2職員はその保護を兼ねて、特任部隊 ("カレーニン義勇兵")として編成されています。本部隊構成員は、精神的な安定の維持とSCP-F331の影響を受けていないことを確実なものとするため、2週間に1度職員向けカウンセリング専用AICであるFormis.aicを利用してカウンセリングを受診してください。SCP-F331-2の鑑別には、アンクシー=インセック音声スクリーニングアプリケーションを使用し、発見されたSCP-F331-2個体は速やかに最寄りの財団施設に移送してください。
説明: SCP-F331は人類に発生する、原因不明の精神構造の不可逆かつ著しい変化現象です。SCP-F331の被影響者(SCP-F331-1)は、環境及び他者との相互交流によって当然発生すると考えられるネガティブな感情を認知し、表現することがいかなる手段によってもできなくなります。また、SCP-F331-1は暴力的傾向やうつ病のような精神的疾病を有する場合はその症状が外見的に緩和あるいは消失しますが、その一方で自発的に悲観的予測や推論を立てることが事実上不可能になることから、極度に楽観的になり行動に伴うリスクを評価する能力が減衰します。このために自動車運転等高度な予測が必要となる行為をするうえで、深刻な事故を発生させる例が確認されています。SCP-F331は精神状態改善の二次的な影響のために、環境や習慣を自発的に変化させる意欲が低下することが判明しており、SCP-F331-1は状況の変化に関わらず、SCP-F331の発生以前と同じような行動習慣を取ることが多くなります。
SCP-F331は直接的には、ヒトの中枢神経系におけるモノアミン神経伝達物質のバランスの唐突な変化と、放出から再取り込み、分解に至るプロセスの一部の短絡化により発生していることが判明していますが、この症状と現象が根本的にどのような原因によって発生し拡散したかについては分かっていません。
SCP-F331の影響は現時点で世界人口の少なくとも93%以上に広がっており、記憶処理等既存の手段ではその影響を除去することができない一方で、仮想的にその「対抗因子」を保有すると考えられる、SCP-F331に影響を受けない個体(SCP-F331-2)がごく稀に存在します。SCP-F331-2はSCP-F331発生前の通常の情動と精神活動を変わらず保持し続けており、厳密には異常性を有してはいません。しかしSCP-F331の急激な拡散に鑑み、通常の感情を表現することができる人物は非常に稀であり、便宜的に「特異的に正常性を維持している」という事実をもってSCP-F331の構成要因として分類がなされました。SCP-F331-2は多くの場合で、ネガティブな感情を周囲のSCP-F331-1個体に理解されないために精神的に不安定な状態に置かれており、不安症や適応障害、うつ病を伴う事例が散見されます。SCP-F331-2は報告書作成時点において、財団内部を含め6732人が確認されています。
SCP-F331の研究は、その発生の根本的原因と「対抗因子」の特定に重点が置かれており、それぞれ以下の仮説が提唱されています。
SCP-F331の根本的原因
仮説 |
概要 |
長所 |
短所 |
ミーム的災害仮説 |
多くのメディアをベクターとして利用できる何らかの異常ミームを原因としている |
急速な拡散について説明が可能である |
世界人口の大多数に影響を与える強度のミームは伝達手段が限られる |
集団ヒステリー仮説 |
集団でのパニック発作様の症状が伝播している |
異常性の原因となりうる要素がスクリーニングできない理由を説明できる |
急速かつ大規模な拡散は集団パニックの発作では歴史上例がない |
現実改変仮説 |
何らかのオブジェクトによって全世界規模での現実改変が発生した |
急速かつ大規模な異常の発現の説明が可能 |
財団の観測においてSCP-F331を発生させることが可能なレベルのヒューム値の低下は直近では局所的にしか発生しておらず、世界全体に影響を与えることは不可能である |
地球外攻撃仮説 |
地球外の何らかの存在が地球全体に攻撃を仕掛けている |
地球圏内における原因の不存在と、外宇宙支部の人員に影響が及んでいない点に説明がつく |
財団外宇宙支部の報告では、観察対象のオブジェクトを含め地球に対する不審な動きは直近で観察されていない |
SCP-F331-2が保有する「対抗因子」の実体
仮説 |
概要 |
長所 |
短所 |
受容体仮説 |
影響を発現させるために必要なSCP-F331受容体と言うべき存在の欠如あるいは機能不全 |
発見されたSCP-F331-2の約95%は精神疾患の既往がなく、安定した精神状態を保持していたことと関連付けて説明が可能である |
SCP-F331-2は外見上ランダムに発生しており、近親間の遺伝等が見られない点に説明ができない |
情報因子仮説 |
SCP-F331がミーム的なものだったとして、これを無害化する情報因子を偶然保持していた |
SCP-F331-2は身体的に特異な点が見られない点と整合性がある |
仮説の前提となるミーム的災害仮説の証明ができていない |
安全地帯仮説 |
SCP-F331が瞬間的に発生したとして、その影響を免れることのできるエリアに偶然SCP-F331-2が滞在していた |
SCP-F331-2は特定のエリアで複数人が一度に発見されることが多い点、外宇宙支部に影響が及んでいない点を説明している |
SCP-F331の発生時点が不明であることから、事実上証明が不可能である |
研究チームはSCP-F331の蔓延について、短期的にはリスク評価能力の低下による大小さまざまな事故の増加という形で、長期的には感情そのものと感情に関する知識や文化の欠落による人類文明の明確な変質をもたらすものとして、現在発生しているAK-クラス:世界終焉シナリオの一側面であるとその危険性を評価しました。この状況に対応するため、2020年9月1日にO5-3は非常事態を宣言し、その対応のため特任部隊 ("カレーニン義勇兵")の召集を決定しました。
旧版を付け加える作業はあまりにあっさりと終わり、ディスプレイのブルーライトが目に染みた。
外宇宙支部所属人員及び機動部隊ガンマ-5隊員、計65名。
一般徴募人員含む特任部隊隊員、計943名。
全世界のSCP-F331-2、総計、10000人。
『どうしてこうなった。いつからこうなった。どうすればいいのか。』
私に問いかける彼ら彼女らの目が脳裏に浮かび、また私自身が問いかける。
「誰に、言えばいいんだ。私は、誰に。」
自分の手で打ち込まれた補遺は、脳内で只管にむなしく響く。
もう声にもならなかった。明日、また人の前に立たねばならないのが、堪らなく恐ろしかった。
分かってくれ、誰か、誰か。
私も助けてくれ。
補遺: O5-03による特任部隊 ("カレーニン義勇兵")の召集にあたっての声明
端的に申し上げて、人類は言わば心安らかなままに危殆に瀕しています。人類は皆が皆幸福になりつつあり、あるいは最早なってしまったのかもしれません。残念なことに財団職員の多くと同様、O5すらも私以外はSCP-F331-1となってしまい、正常な判断を下すことが非常に困難な状況にあります。このような状況にあって日々職務に努めるSCP-F331-2職員の心中は、察するに余りあるものです。自分の感情を周囲が一切理解、共感、斟酌してくれない苦しみは言うに及ばず、不幸を感じているだけで向けられる謂れのない憐憫の眼差しに、今日だけでも何度傷ついたことか知れないでしょう。
私は今から、まことに酷なことを皆さんに言います。我々は今こそ財団の理念に再度立ち返らねばなりません。『人類が光の中で暮らす間、我々は暗闇の中に立つ』。我々と共に闇の中で働いた同志たちは、今や光の側へと連れ去られていきました。今、不幸にも幸福に取り残され、不幸を抱えた我々が行動を起こさねばならないのです。故に私は、不幸にしてSCP-F331-2となってしまった同志たる職員諸君に命令します。「何故か」を問う前に、「如何にして」を問え、と。
我々は今や、街角の交通整理から原子力発電所のインシデント、そして人類文明の将来に至るまで、ありとあらゆるリスクの責任を不本意にも負うたのです。眩い光の中にあって、我らは内にある幽かな闇を標に携え進まねばならないのです。 - O5-03
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